昨日、読売新聞の ”地球を読む“ にフランシス・フクヤマが書いている一文に興味を覚えた。フクヤマはかつて ”歴史の終わり“ という本を書いた。ウイキペディアはこの本について次のように解説している。
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「歴史の終わり」とは、国際社会において民主主義と自由経済が最終的に勝利し、それからは社会制度の発展が終結し、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという仮説である。民主政治が政治体制の最終形態であり、安定した政治体制が構築されるため、政治体制を破壊するほどの戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。そのため、この状況を「歴史の終わり」と呼ぶ。
フクヤマは、ソビエト連邦の崩壊を以って「歴史は終わった」と主張した。しかし、これは、ソビエト連邦が崩壊し直ちに世界中が民主化され、世界中から戦争やテロが廃絶されるという意味の、楽天的な世界平和論や政治安定論ではない。ソビエト連邦の崩壊によって、「最良の政治体制は何か」「全人類に普遍的な政治体制は何か」「恒久的な政治体制は存在するのか」という社会科学的論争やイデオロギー論争に最終的な決着がついたことを意味している。 ************************************
今回の投稿は、現在かまびすしくなった、”世界の民主主義のレベルは低下していて、特に米国とインドでそれが顕著だ“ という指摘にこたえた形になっている。フクヤマは民主主義国はコロナウイルス対策に失敗したことで国家統治の最も基本的責務を果たせなかったが、ロシアや中国などの権威主義国家は民主主義国のような逡巡や議論の対立とは無縁に迅速な意思決定を実行して成果を上げているのがその論拠だ、と認めるが、その風向きは最近起きた ”権威主義大国による二つの破滅的意思決定によって明らかに変わった、と主張する。
その二つとはロシアのウクライナ侵攻と、中国におけるゼロコロナという無意味な政策である、というのだ。フクヤマはこの二つの破滅的な選択は、現時点で我々の多くが考えるような、単に情報の乏しさや指導者の無能によるものではない、と指摘する。その根底にあるのが、両国で起きた、頂点に立つ人物に際限のない権威を与えたことにある。米国で言えばトランプ、フランスではルペン、など多くのポピュリスト政治家はこのプーチンの行動に同調する部分が多くあって、それがおのおのの国における国民の分断を生じさせてきた。したがって、ロシアがウクライナで成功するかどうかは、地球全体の民主主義の在り方に影響を及ぼすだろう、と結んでいる。
現在米国では中間選挙の行方にいろいろな論議が盛んなようだ。もしこの選挙で民主党が衰退し、次回の選挙でトランプが復活する、という事態が起きたら、米国国民の分断には拍車がかかるだろう。民主党共和党間の争点は、いままでのような政策論議の範囲を超えて、国民の分断、ひいては民主主義を体現した大国アメリカの変貌につながるのではないだろうか。暴徒化した大衆による議事堂占拠などという、およそアメリカで起きるなどとは思ってもみなかった現実を思い出してみよう。もともと自己主張の強い国柄に人種問題がからんだ、週刊誌的表現を使えば “病めるアメリカ” の未来まで、今続くウクライナ戦争とかゼロコロナ強制はかかわってくるのだろうか。人道的、といえば大げさだが、戦火の苦しみを知る日本人の間ではともすればロシア軍による蛮行といった情緒的な面に同情しがちだが、地理的文化的距離から、我々に直接影響をもたらすという危機感は多少薄れがちだ。しかしフクヤマのこの指摘は、現在アメリカをむしばんでいる国民の分断、という事実を介してみると決して他人事ではない、という警鐘のように思えてならない。