先日、船津君からオリンピックについての投稿があり、そこで、第二次大戦の末期、学徒出陣の壮行行事のことに言及があった。そのことでだいぶ前のことだが、感動した2冊の本のことを思い出した。
小生の亡兄は当時旧制高校の名門の一つ、旅順高校に在学中であと半年も戦争が長引いていたら彼もその一人になっていたかもしれなかった。戦争の悲劇はそれぞれの立ち場から語られるが、この学徒出陣に関して自身その一人であった阿川弘之が書いた 暗い波濤 はずっしりと心の中に入り込んだ、という感触をもって読み終えた記憶がある。正確な日にちは覚えていないが、勤め帰りに立ち寄った代々木駅前の書店で偶然目に留まって、最初の数頁を拾い読みしただけで手放せなくなり直ちに購入した。その時気がついたら財布に残ったのがわずか数十円で、冷や汗をかいたことも覚えている。
第二次大戦当時の我が国での大学進学は現在と違ってほとんどは恵まれた家庭環境のものに限られていて、大学生、といえば文字通りの意味でインテリといえる若者ばかりだったはずだ。それが突然、想像もしなかった環境に放り込まれ、士官として百戦錬磨のベテラン下士官や兵を統率しなければならなくなり、それまでは哲学や文学の世界でしか意識したことのない死という現実に直面する。そういう場面で若者たちが悩み恐れながら任務を遂行していく、そのプロセスが著者独特の筆致で淡々と語られる。戦争の悲劇、というものをいわば受動的な眼でしか見てこなかったものとして、その悲劇に突如主体的に取り組まなければならなくなった若者たちのいきざまが戦後の社会の中で埋没しかかっていた自分にはまさに衝撃的であった。サラリーマン生活も漫然と過ぎ、中間管理職の末席につながり始めた当時、この小説のもたらした感動はまだ心に新しい。
戦艦大和ノ最期 は大和轟沈の時まで乗員として乗り組み、奇蹟の生還を果たした,自身学徒出陣を経験された吉田満氏の体験がそのまま語られているという意味で、生々しさはやはり小説とは明らかに違う書物である。吉田氏自身が確実な死を面前にしての時間、たとえば年長の部下との最後の会話とか、沈没寸前まで端然として医学書を読み続けた医官の話とか、当時の士官の通例通り沈没する艦と運命を共にと自分を縛り付けようとした瞬間、(若いものが此処で死んでどうする。生きて新しい日本を作り直せ!)と司令官に突き飛ばされて海へ飛び込んだという一行など、生死のはざまで一知識人がどうふるまったのか、一気に読みこんでしまった。原文は当時では常識であったカタカナで書かれた文語体、それもまた臨場感を与えた一因であったろう。吉田氏は復員後日本銀行に勤務、要職を歴任されたが病を得て50歳なかばで逝去された。司令官との約束通り、生き抜いて日本の再建に奔走された後半生といえるのではないか。そういう意味で、戦後の日本をリードした先輩たちには、吉田氏と同じような、生死のはざまを超えて初めて得られた使命感があったのだろうと思い、自分の境遇を改めて考え直すきっかけになった。
この本は以下グーグルの一部を転記しておくが、その発行まで戦後の混乱のなかで紆余曲折があった。小生は初め、父の本棚で偶然にみつけた、著者としては不本意な形だったとおもうのだが、ひらがな表記のものだった。その後、陽の目を見た本来のカタカナ表記文語体の本文を改めて読み直し感激を新たにした。
戦艦大和ノ最期 は次の有名な3行で完結する。
徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、”大和” 轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米
今ナオ埋没スル三千の骸
彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何
吉田氏はこのほか、鎮魂戦艦大和 という別冊(講談社刊)でさらに詳しく大和でのほかのエピソードを書かれている(同書に 最期 も再録されている)。
(グーグルより転記)『戦艦大和ノ最期』は、雑誌『創元』掲載の予定が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲組織CCD(Civil Censorship Detachment)の検閲で全文削除され、口語体化するなど大幅に改変したものが細川宗吉の筆名で他誌に発表されるなどの紆余曲折を経て、1974年(昭和49年)まで数度の改稿を重ねて今日の姿となっている。リチャード・マイニアによる英訳版「Requiem for Battleship Yamato」(講談社、1985年)がある。ISBN 4770012292。
船津君の触れている学徒出陣で、学業半ばにして三田の山から戦地へ赴かれた慶應義塾の先輩方がどれほどおられたのか、塾当局にも正確な記録はないようだが、社会思想史を専攻,我々が在学中は平井新教授のゼミナールの助手を務めておられた白井厚名誉教授は英国留学の際、かの地の大学構内には戦没学生の追悼碑があることに感銘を受け、帰国後、塾当局の協力を得て塾関係で戦死された先輩方のリストを作成するというプロジェクトを推進された。その結果はいくつかの資料として結実したが、英国の例と違ってすべての資料を完全に当たることは難しく、また状況も明確にしようがないので、膨大な資料の突合せなどの末、推測で約2,200名の塾生または塾員が戦地で最後を遂げられた、と報告されている。白井教授のこの調査にはボランティアとして多くの塾員が参加されているが、KWV37年卒翠川(旧姓佐藤)紀子さんはその主要スタッフとして調査活動を積極的に支援されたことを付記しておく。