小生、俳句については一見識もない。では、何故、女性俳人の杉田久女(久が本名。以下、久女)を知ったかと言うと、かねがね愛読している、日経は土曜の夕刊、最終面の「文学周遊」に久女のことが載っていたからだ。それも、彼女の俳句ゆえの話しではなく、彼女に対する毀誉褒貶の評価に、大変、興味をそそられたからに他ならない。
久女は、大蔵省の書記官を父に、鹿児島で1890年に生まれた。その父親の転勤に伴い、沖縄、台湾などで幼少期を過ごし、東京女子高等師範学校(今のお茶の水女子大)付属高等女学校を卒業後、19歳で、東京美術学校(今の東京芸術大学)を卒業し、小倉で美術教師をしていた杉田宇内と結婚する。俳句に慣れ初め出したのは、26歳の時、兄で俳人でもある赤堀月蟾から句を学び、以降、俳誌「ホトトギス」に数多の句を投稿した。
しかし、夫の宇内は、久女が俳句に夢中になることを好まず、一方、彼女には二人の娘の面倒を見る必要があり、しかも、女中がいないとあっては、誠に厳しい生活環境にあった。逆に、そう言う環境にあったからこそ、そこからの一種の逃避手段として、生き甲斐である俳句に徹底的に拘ったとも考えられる。しかし、一方では、「ホトトギス」の同人となりながら、敬愛する師、高浜虚子から、突如として除名されるなど、不幸な運命を辿ることにもなる。やがて、連夜の空襲の中、自身の句稿を抱えて防空壕にうずくまる日々。そして、戦後となり、心のバランスを崩した久女は、精神病院に入院、食糧難にも苛まれ、55歳で鬼籍に入る。彼女の生前に果たせなかった句集の出版は、娘の石昌子に引き継がれ、「杉田久女句集」として、1969年、角川書房から出版された。
確かに、田辺は久女の生き方に寄り添っているが、「尊敬すべき見識と教養を人にも認められながら、それが人と人とをつなぐ親和力にならず、かえって敬遠されていくという不幸」があったと述べている。小生は、久女には一本気なところがあり、加えて、人付き合いに不器用なところがあることから、それらが誤解を招く原因になったのではないかと推測する。例えば、俳句仲間のお宅を訪問し、話し込んで長っ尻となることから、自分から勝手に弁当を持参するなど、結局、以降、出入り禁止となってしまう。
また、松本清張の小説「菊枕」(1953年)、吉屋信子の小説「底のぬけた柄杓 憂愁の俳人たち」(1963年)中の「私の見なかった人(杉田久女)」などで久女を言われもなく貶めているいい加減さが、後年の虚実入り混じった久女像の固定化に大きく影響した面もあろう。中でも吉屋の作品については、田辺は「ありていにいって、半分よたっぱちである」と酷評している。しかし、致命傷となったのは、師匠とも目していた虚子の彼女を狂人扱いにした(彼の著書「国子の手紙」、1948年)、それこそ正に嘘っぱちが人口に膾炙してしまったことが、彼女の句ではなく、久女を遠ざける風潮の源になったのではないか(確かに、久女は、短期間の間に、200通余りの手紙を虚子に送りつけている。しかし、解説を書いた作家の山田詠美は、それらの手紙を読んで、「私は、久女が、それほど、精神に異常をきたしていたとは思えない」と述べている)。だが、田辺のこの「花衣・・・」が彼女の名誉を完全に回復したのは間違いない。これは、小生の全くの憶測だが、虚子は、豪放磊落な人だったようだが、その本心は、久女の溢れんばかりの才能に激しく嫉妬し、我を忘れて嫉んでいたのではないか。それがこう言う彼女を「ホトトギス」の同人から除名し、更に必要以上に貶める発言になったのではないかと思われる。
田辺は「わが愛の杉田久女」と呼んでいるが、小生は、「我が愛する杉田久女」と呼びたい(山田は、「読みながら、何度も、久女の写真を見返した。彼女は、とても美しい顔をしている」)。
ここで、彼女の代表的と思われる俳句(小生にはそれを評価する術が全くないので、この欄で挙げられている句に止めておく)を列挙しておく。
「花衣ぬぐやまつわるひもいろいろ」。
「鯉を料るに俎せまき師走かな」。
「谺して山ほととぎすほしいまま」。
「朝顔や濁り初めたる市の空」。
以下は、田辺と解説を書いた山田が、最も心ひかれ、愛する句として挙げている。
「甕たのし葡萄の美酒がわき澄める」。
杉田 久女(すぎた ひさじょ、1890年(明治23年)5月30日 – 1946年(昭和21年)1月21日)は、鹿児島県出身の日本の俳人[1]。本名は杉田 久(すぎた ひさ)。高浜虚子に師事[1]。長谷川かな女、竹下しづの女とともに、近代俳句における最初期の女性俳人で、男性に劣らぬ格調の高さと華やかさのある句で知られた。家庭内の不和、師である虚子との確執など、その悲劇的な人生はたびたび小説の素材になった。