コメの話 (普通部OB 船津於菟彦)

姥捨山の棚田

米の販売価格が高騰して色々問題となっています。
以前信州に居て、田植え時とか稲刈り・麦刈り・イナゴ取りなどに小学生がかり出されたことを思い出す。どれも面白かったし畦道でお煎餅などのおやつを戴けるのが楽しみでしたね。
苗代を張り、横一列に並び泥の水田に足を入れて投げ込まれた苗を縄の印に従い差し込んでいく。今のように自動化していない。イナゴ取りも紙の袋を手に持ち一列に並び捕っていく。そして佃煮にして食べる。脱穀なども足踏みだった。多分そんな田畑も今は無いと思います。

テレビ「ぽつんと一軒」を観て居てもかっては水田だった所が総て廃棄されているか、他の野菜などなっていますね。米のニッポンと盛んに言われますが、今や米作で総て賄うのは困難に成って来ているのでは無いかと思う。

写真撮影に行った日本の原風景・棚田も観光用で実際にはボランティアとか学校の生徒などによって稲を植えている。そのままの畑もありますね。

野沢温泉郷から飯山市瑞穂地区の三部の棚田                              

統計が残っている最も古い 1883(明治16)年の水稲の収穫量は 457万トンで、作付面積は 257万ha、単収(10a当たり収量)は 178kgでした。
この収穫量が、米騒動が発生した1918(大正7)年には 802万トンと 1.8倍(作付面積は 1.1倍、単収は 1.5倍)へと増加、さらに戦前において最も収穫量が多かった1933(昭和8)年には 1,044万トンと 2.3倍(同 1.2倍、1.9倍)へと増加し、初めて1千万トンの大台に乗りました。

もっとも米は自給できていたわけではなく、朝鮮や台湾からの輸入(移入)米に依存していましたが、これも戦況の悪化に伴い、円滑な輸送ができなくなってきました。ところが、右肩上がりで増加してきた水稲の収穫量は、1933(昭和8)年をピークに停滞するようになり、終戦の1945(昭和20)年には 582万トンにまで落ち込みます。これは、農業を担っていた男性の多くが軍に徴用されて戦地に送られ、肥料等の生産資材も不足を来 していたためです。
このように、太平洋戦争は日本の米生産(生産力、生産基盤)にも大きな影響を及ぼしたのです。

大戦後、日本全国で食料をはじめあらゆる物資が不足して、国民は激しい困窮状態に陥りました。餓死者が月に数十人というまちもありました。
そこに、アメリカから『ララ』(Licensed Agencies for Relief in Asia)の名前で、食料・医薬品・衣料・学用品などの大量の救援物資が日本に贈られました。これは宗教団体や慈善団体などアメリカ人の善意によって集められた支援物資だと言われてきました。こうした支援物資を受け取ったのは、約1400万人。当時の日本の総人口の約15%、つまり6人に1人がこの支援物資を受け取った計算になります。不味かった「脱脂粉乳」を思い出します。
実際は『敵性国民』として強制収容されていた日本人・日系人たちが、祖国への支援物資を送る為に奔走して『ララ物資』は実現したのだそうです。しかし、当時のGHQは、この事実を日本人には隠していたのです。

そして米国は余剰の小麦と脱脂粉乳の振り向け先に食糧難の日本に向けた。学校給食がパンと脱脂粉乳になった、これが日本人の食生活を大きく変えた原点でもあります。確かに食糧不足で栄養失調などになった日本人これで助かった面も在るが、米国はしっりお金は取っています。

ちなみに戦後に入ると米の収穫量は大幅に増大し、1967(昭和42)年には 1,426万トンを記録しました。 しかし、次第に生産過剰基調が明らかとなってきたため、70年代からは生産調整(減反)が実施されるようになり、収穫量は減少していきます。

減反政策とは:
水稲の作付け面積は、1969年(昭和44年)の 317万ヘクタールをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ヘクタール、1985年(昭和60年)には 232万ヘクタールに減少、生産量も 1967年(昭和42年)の 1426万トンをピークに、1975年(昭和50年)には 1309万トン、1985年(昭和60年)には 1161万トンに減少します。
生産調整が強化され続ける一方で、転作奨励金に向けられる予算額は減少の一途をたどり、「転作奨励」という手法の限界感から、休耕田や耕作放棄の問題が顕在化し始めた。こうして弥生時代(縄文時代晩期とも)以来、長い時間をかけて開発され、維持されてきた水田の景観は、荒れるに任されるようになったのです。減反政策の弊害として、日本の原風景が失われること、自然環境が変化し生態系に影響を与えること、伝統ある農業文化が失われます。

1970年から2017年まで、およそ50年近くにわたり実施されたこの「減反政策」が、2018年度(平成30年)に廃止されました。
米の生産量抑制のために実施され、農業関係者にとって当たり前の存在となっていた減反政策。廃止から年数が経過していく中で、地域ごとに少しずつ変化も見られましたが、その後も米の生産量自体は増えることはなく、歯止めがかからない農業生産者の人口減少も続いてきました。
それに輪をかけるように、2024年(令和6年)の急激な米不足と、それに端を発する米価格の高騰などを巻き起こした「令和の米騒動」により、長年の減反政策がすべての元凶だったとする声も大きくなっています。

今後、注目される可能性があるのが地域ブランド米です。全国でブランド米が次々と登場しており、減反政策が廃止されたことによってブランド米の競争が激しくなることが予想される。地域一体となって地域ブランド米をつくれば、個人の品質が保たれ、ブランド米として知名度が定着し、高単価での販売ができるようになり地域がうるおい、後継者不足の解消の一助となるでしょう。
儲かる米作。後継者の育成。米の作る畑の統合拡大化など進め、自給できる米政策が必要だと思います。

このままトランプに押し切られ、米の輸入拡大はまた戦後の「麦処理」政策になってしまう。飛行機で籾を捲き、広大な敷地をコンバインで作る米とは生産性が違うのですが、一時山形のサクランボウの自由化でもめたことがあったけれど、日本の味には勝てず売れなかった。自動車然り。中国は凄い。日本の軽トラックの需要を見込んで、日本仕様のEVを日本向けに開発して売り込んでくるでしょう。
アメリカと日本では交通事情も違うし、一部の好き者以外は今の米国車に魅力を持つだろうか。左ハンドルのガソリンを食う自動車。売ってみなはれ。

稲作はニッポンの原風景。失くしてなるものか!