今は昔の話―都電をおぼえていますか    (普通部OB 船津於菟彦)

小生は昭和26年に慶應義塾普通部に入学しました。当時普通部は天現寺にある慶應義塾幼稚舎の一部を借りていて、翌年秋に日吉の現在のところへ移転。従って当時中野に住んでいた居ましたので、中央線で信濃町まで行き、都電の7番品川行きに乗り、天現寺で下りて通いました。当時生徒は⑦⑧㉞番の都電で四谷三丁 目か信濃町方面からか中目黒からか、渋谷から通って居てので、それぞれ「御前何番族」というような感じで仲間が出来ていた。都電は無数に東京都内を駆け巡っていて、定期は路線区間をペンで書き、住んでいる住所に近ければ、四谷三丁目駅乗り替え、新宿駅まで行き青梅街道を走る電車で鍋屋横丁駅まで、買ったこともあります。料金はは同じ。一年半近く利用致しました。

⑦系統 四谷三丁目 – (信濃町線) – 北青山一丁目 – (広尾線) – 天現寺橋 – (古川線) – 古川橋 – (伊皿子線) – 泉岳寺 – (品川線) – 品川駅前
1967年12月10日より運転区間を四谷三丁目 – 泉岳寺間に短縮。
⑧系統 中目黒 – (中目黒線) – 渋谷橋 – (天現寺橋線) – 天現寺橋 – (古川線) – 赤羽橋 – (札の辻線) – 飯倉一丁目 – (六本木線) – 神谷町 – (虎ノ門線) – 桜田門 – (半蔵門線) – 日比谷公園 – (築地線) – 築地
㉞系統 渋谷駅前 – (天現寺橋線) – 天現寺橋 – (古川線) – 古川橋 – 金杉橋

都電の歴史は、明治44年に東京市が東京鉄道株式会社から路面電車事業を買収し、東京市電気局として開局したときに遡ります。
都電には、かつて文字通り“都民の足”として隆盛を誇った時代がありました。最盛期の昭和18年度には、一日平均193万人ものお客様が利用されました。系統も41系統を数え、都電が都内を縦横に走っていました。しかし、自動車交通量が増大していく流れの中で、軌道敷内への自動車乗り入れによる輸送効率の低下が顕著となり、昭和42年から昭和47年にかけて181kmもの路線の廃止を余儀なくされました。

現在では、路線の大部分が専用軌道であること、代替バスを運行できる道路がないこと、沿線住民等の強い存続要望があったことなどにより、三ノ輪橋~早稲田間を走る都電荒川線のみを運行しています。しかし、C02も出さず走る都電にまた注目が集まってきているようです。のんびりとですが、バスより快適ですね。
営業キロはわずか12.2kmですが、令和5年度は一日平均約4万9千人のお客様にご利用し、地域に密着した交通機関として親しまれています。
都電荒川線の魅力を国内外に積極的にアピールし、更なる利用者の誘致、沿線地域の活性化に寄与していくため、外国人を含む観光客の方にも親しみやすい路線愛称を付けることとし、広く意見募集を行いました。その結果平成29年4月に愛称を「東京さくらトラム」に決定しました。

天現寺駅は車庫がありセンター的な役割を持っていました。広尾電車営業所・広尾電車車庫です。
• 1914年(大正3年)9月28日開設。廃止前は7、8、33、34系統の運行を担当していたが、第一次撤去で7、8系統、第四次撤去で33、34系統が廃止されたことで1969年(昭和44年)10月26日に廃止された。
• 跡地は都営広尾五丁目アパートとなっている。

当時はハンドルで運転し、紐の付いたベルでチンチンとならして走っていたのでチンチン電車とも言われました。これは飛鳥山公園に保存されている都電の運転席です。

東京さくらトラム 王子駅前駅 クラッシックな形の都電

東京さくらトラムは一部区間は昔のように道路を走るところもあるが殆どが専用路線に成って居ます。三ノ輪橋から早稲田まで 途中 サクラとパラが迎えてくれます。

こんなのんびりした旅も偶には如何。王子駅前駅〜三ノ輪橋駅の区間がサクラ・薔薇が綺麗です。写真は5月8日にあちこちで下りては撮影したモノです。

「とでんで一句 俳句(はいき)んぐ」より

都電待つ薔薇のひかりの中にゐて
電車降り路線のバラを見て帰る
チンチンに浮かぶあじさい友の笑み

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東京都電車(とうきょうとでんしゃ)は、東京都地方公営企業の設置等に関する条例[1]及び東京都電車条例[2]に基き東京都交通局)が経営する路面電車である。一般には都電(とでん)と呼称される。1972年以降は、荒川区三ノ輪橋停留場新宿区早稲田停留場を結ぶ12.2 kmのみが運行されている。

前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1903年から1904年にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道、新規開業の東京市街鉄道東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設された。その後3社は1909年に合併して東京鉄道となり、さらに1911年に当時の東京市が同社を買収して東京市電1943年東京都制施行によって都電となった。

最盛期(1955年頃)には営業キロ約213 km、40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車であったが、モータリゼーションの進展や帝都高速度交通営団(営団地下鉄)、東京都交通局の都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していった。1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年までに廃止されることになったが、残存区間は1974年荒川線として恒久的な存続が決定し今日に至っている。

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(編集子)小生は当時大森在だったので、品川から7番、の常連だった。この仲間にのち普通部ラグビー部を復活させ、自身はすばしこいセンターをつとめた大越康徳がいて、なんと、新幹線もなかった当時、熱海から通学していた。半年くらい前、電話を入れてみたが、夫人が逝去され、健康にも問題を抱えているとのことだった。好漢、回復を祈る。この復活ラグビー部フィフティーンのうち、現時点で連絡を取り合っているのは鈴木康三郎、神崎公伸だけになってしまった。