「殿様の枕 症候群」って知ってますか?   (普通部OB 篠原幸人9

コロナ禍が一段落したかと思ったら、バイデンさんがコロナになってしまいましたね。確かに一時期ほど病原性は高くないものの、今の日本には第11波が来ていて、皆さんの周りにもコロナ患者さんがうようよおられるはずです。後遺症も、特に高齢者は油断できません。そういえば、バイデンさんも、この随筆の読者の多くも、また執筆者自身も高齢者でしたね。一方で、トランプさん、運のいい方ですね~。銃弾が右耳をかすめたとか。身代わりで亡くなった方は本当にお気の毒です。全米ライフル協会から絶大な支援を受けているトランプ氏。今後は態度が変わるでしょうか? 米国の銃社会同様、変わらないでしょうね。

アメリカの話はその位にして、今日は耳慣れない「殿様の枕症候群」の話です。時代劇なんかでよく見かける背の非常に高い枕が殿様枕です。実際に昔の殿様があんな枕をしていたとは考えられないけどね。

先日、急患で50歳ぐらいの男性が私の外来を受診されました。朝起きたら、急に片方の腕が動かないことに気づいたそうです。よく訊くと、前日の日曜日、ソファーに横になり、片方のひじ掛けに頭を乗せたままテレビをみながら、酒を飲んでいたところ、そのまま寝てしまい、翌朝、起きたら左手が全く動かなくなったとのことでした。

これがその「殿様の枕 症候群」の一つの形です。このような姿勢を長く続けていると、頸椎(首を形成している7つの骨)やその周囲の組織が圧迫されて、両手がしびれたり動かなくなったり、肩の強いハリが起こったりします。しかし今回の患者さんは片方の手だけ動かず、しかもいわゆるしびれはなく、運動麻痺だけでした。首の骨がその周囲の神経を圧迫したかと思いましたが。打腱器というやわらかいトンカチみたいな診察道具で腕の反射をみると左手のそれが非常に高いのです。これは専門的な知識で言うと、麻痺の原因が頸部の骨よりももっと上位の、例えば脳の病気の可能性を示す所見でした。脳のMRIをすぐ撮ってみると右脳に出来たばかりと思われるかなり大きな脳梗塞が見つかりました。頸から脳に行く血管がムリな姿勢を長く続けたために圧迫されてそこに血栓ができ、それが脳に飛んでできた脳塞栓(脳梗塞の一つの型です)と診断できました。幸い、その方の麻痺は2―3週で治療により可なり良く成られましたが、もっと大きな血栓だったら、こんなに良くはなられなかったでしょう。

日本人は「枕を高くして眠れる」という事はいい表現に使いますが、高い枕では首がムリに伸展してしまい、それを長時間続ければいろいろな症状が出ます。これが「殿様の枕症候群」です。「殿様枕」と同じように、「ソファのひじ掛け」などに頭を長時間載せていることは、頸の骨ないしそこから出てくる神経や、内頚動脈や椎骨動脈という脳に行く大事な血管を圧迫する可能性があります。血管が裂けること(動脈解離)もありえます。

いつも食事が終わると、やれやれとソファに寝そべって、首をひじ掛けに載せて、スマホを長い間いじったり、うたた寝しながらテレビを見ているアナタ!! そう、君ですよ。血圧や糖尿病ばかりでなく、こんなところにも気を使ってください。同時に、ソファに寝転がって、スマホばかりみているお孫さんたちにもこの知識をひけらかして、注意してあげてください。少しは爺・婆としての立場が上がるかも。

フィヨルドの旅     (42 齋藤孝)

北アルプス並みの高山がいきなり海面からそそり立つ。海岸線は断崖絶壁。リアスと呼ばれる複雑な奥深い入り江はU字谷を形成している。山頂には残雪があり幾筋もの滝が流れ落ちている。

ノルウェーのソグネ・フィヨルドは雄大な神々しい大自然だった。同船したインド人はつぶやく。フィヨルドは神の存在を感じるほど美しい・・・!

こんな絶壁に囲まれた湾はヴァイキングにとり絶好の隠れ場であった。
ヴァイキングの語源は、フィヨルドのことをヴィークと呼ぶことから、そこに住む民を「ヴァイキング」と呼ぶ。英雄伝説『サーガ』はルーン文字によってヴァイキングの偉業を石碑に刻む。キリスト教布教以前のフィヨルドの歴史。

ノルウェーのヴァイキングは「ノルマン人」と呼ぶ。
フランス・ノルマンディーに定住したノルマン人は、11世紀にイングランド王国を征服。フランス語をイングランドに広めたノルマンディー公ウィリアムは文化人だった。角のある兜を被った海賊や略奪を働く戦士姿のヴァイキングからは想像もできない。さらにロシアとウクライナの建国にも関係し、遠くビザンチンまで足を運んでいる。 ヴァイキングは略奪を専業としていたのではなく交易の民だった。ノルウェーのソグネ・フィヨルドからノルマン人は出航していった。

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(編集子が世界史にはなじみが全くないため、例によって余計なお世話かも知れないがウイキ解説を記載。今や常識になった、”ヴァイキング料理” という名前は日本のどこかのホテルが思いついたものだと理解しているが、でヴァイキングとの関係はよくわからない。博識の読者のご教示を待つ)

ゲルマン人の一部のノルマン人が、9~11世紀に北ヨーロッパから各地に移動を行い、中世社会に大きな変化をもたらした。 ノルマン人はインド=ヨーロッパ語族のゲルマン人に属し、スカンディナヴィア半島やユトランド半島(デンマーク)で、狩猟や漁労に従事し、造船や航海術にたけた民族だった。4~6世紀のゲルマン人の民族大移動の時期には北ヨーロッパに止まっていたが、8世紀ごろから人口増加は始まり、9世紀になるとさかんに海上に進出して海賊を兼ねながら交易に従事するようになった。このような9~11世紀のノルマン人の移動は、第2次民族大移動ともいわれている。

 彼らは、フランク王国の分裂に乗じて、海岸を荒らし回り、さらに底の平らな船で川を遡り、内陸深く侵入して掠奪を重ね、とくに西フランクでは大いに恐れられた。西フランク王国から奪った女性や子供を、遠くイスラームに奴隷として売り飛ばし、イスラームから多量の貨幣を得ていた。(現在もバルト海の島々の遺跡から、アッバース朝のバグダードで鋳造された貨幣が大量に出土する。)そのような一面から彼らはヴァイキング(入り江の民、の意味)と言われ恐れられた。

システム障害という災害

僕が今使っているPCはソニー製の VAIO というやつである。会社を辞めて、初めて自分でPCというものを買った時の興奮というか夢と言えば大げさだが、まだ PC そのものが今ほど常識化されていなかったころだったから、それなりに大きなものだった。第一号はモデル名は忘れたが富士通製の、外観もスマートなコンパクトなものだった。その後、今まで、富士通、DELL, 最後にHPと乗り継いできた。

かたや、やはり会社を離れ、社有車、という恩恵が無くなったために急に自身の問題になったクルマについてはダットサンの中古から始まって、日産、三菱、ホンダ、いすず、スバルと乗り継いだがトヨタだけは乗っていない。例によって合理性もへちまもないのだが、なんせ、最大手、というものになびくのが嫌いだかららしい。

ソニーは今更言うまでもなくエレクトロニクス業界のジャイアントだが、ことPCにかけては業界においてはフォロワーの位置にある。なんでこの機種なのか、と言うとそれはクルマのときの天邪鬼的発想からではなく(しいて言えば、NEC製を使ってこなかったのはHP時代、どう考えても売れるはずのないHP150なんてものを担ぎ、行く先々で我々を足蹴にした憎きPC98の影があったかもしれないが)、近くにあって何かと言えば頼りにしている ”PCデポ” のエンジニア S君の意見に共鳴したからだ。

何台目かに乗り換えたいと相談したところ、彼のアドバイスは ”PCについては、”おカネのある大メーカー製はお勧めしません” という奇妙なものだった。(これは街の人たちのご相談やらトラブルシュートに専念してる人間の狭い了見ですけど) と彼は言うのだ。”大手メーカーはお金があるから、基本ソフト(OS)の共通性は維持したいがそれに自社に都合のいい改良をくわえて最終製品の高度化をはかろうとします。それに比べるとソニーはお金がないから(彼が言ったので、小生が言ったのではない)そういう冒険はしません。そうすることで、最終的な製品が多少劣っても、OSの更新があった時の対応は、それに手を入れていませんから大手の場合に比べて易しく確実になりますからね。なんせ、いくつあるかわからないアプリのメーカーが着実にその更新に対応していなければならないわけですから” というのが彼のァドバイスだった。

S君の見方は、一時、今とは比較にならないほど単純なものではあったけれどプログラム開発、それにともなうトラブルの追求、という事をやったことのある自分には十分納得できる論理だった。自分が対応しなければならなかったものはあくまで自分か、あるいは共同開発をやった仲間のアルゴリズムを追っていく事にすぎなかったが、いまではいろんな意味での共通化が図られた、そのメリットの逆で、多くのソフトメーカーが書いたものの集積で一つのシステムができる。それはいいのだが、ひとたび,その一部が更新されたり誤動作をしてしまった時、その改修作業は大変なものになるだろうことは言わば肌身に感じることができた。まして、我々街の素人が購入した、通称アプリ、と呼ばれる、メーカーからすれば他人の作ったシステムでトラブルが発生したとき、それの追求は複雑、かつ広範にわたってしまうことが多いはずだ。

(その点、)と彼は言うのだ。(”お金のないメーカー” はOSに手を入れるなんてことはしませんから、もっぱら第三者の書いたアプリの問題に直面するものの立ち場から言えば、対応がしやすいんです)。関連技術にたけた人ならば笑ってすますであろう ”街のエンジニア” の正直な述懐が、またまた天邪鬼精神、に共鳴して、小生は彼の言うとおり、”おカネのないソニー” 製品に乗り換えて、今日まで満足しているというわけだ。

何でこんな話をしたか、と言えば、昨日今日と新聞テレビをにぎわしている世界的規模のシステム障害のためだ。マイクロソフトの技術が最深部にあり、その上に幾重にも重なったソフトウエアの壁のどこかであいた小さな穴が、そもそもはプラスに働くべき相乗効果のゆえに、解決が困難になった、その典型的な例だろう。同じ影響を受けている航空業の世界では、日本はそれなりに解決したという。それならなぜ、同じことが起きているはずの欧米では解決しないのか。何重にも重なった、”アプリの層” のどこかで、発生したトラブルに対応する仕掛け、というのが国や地域での特殊性を反映して同一的に対応できないからではないのか。それは (お金がある)ところと(お金のない)ところの差か?

今回のことは、現在のIT社会が根源的に持つ(というより持たされてしまった、と言うべきだろう)脆弱さ、とほうもない危険を惹起しかねない恐ろしさ、を露呈した、というか、全世界に投げかけた警告、なのだと僕は思うのだが。

(HPOB 安斎)別会社になる前のSONYのVAIOは他のお金のある大会社と同様にプラスアルファの余計なことをOSやハードでやっていたのでそれなりに使いにくかったことを思い出しました。別会社になってお金が無くなってからは使いやすいPCになってきましたが・・・

4千メートルの神風アタック  (42  河瀬斌)

小田さんのユングフラウヨッホ旅行の写真を見て、昔そのヨッホからメンヒへ登ったのを思い出しました(メンヒはアイガーとユングフラウの間の山)。
時は医学生5年の56年前(1968)8月初旬です。宿泊はグリンデルワルトのユースホステルでした。
アイガー直下のクライネシャイデックのホテルベルビュー、デスアルペス(今でも健在でしょうか?)。この頃日本人クライマーがここからアイガー北壁に何度もチャレンジし、「カミカゼ」という日本語が通用していました。
ホテルベルビュー隣のWyss-Conzettスポーツ店(名ガイドシュトイリの甥にあたる夫妻経営ー写真)で杉浦(工学部:シンスケ)と河瀬(医学生:やぶたま)は記念のピッケルを買った。ガイドを雇ったりロープを買う金はなかった。
岩と氷の急斜面、標高差600mををロープなし、ピッケルとアイゼンだけで登った。転ぶと遥か下にクレバスが待っているのだ。
頂上までは両側が切れ落ちた雪庇となり、滑らないようそれを跨ぐようにして頂上に達するまでは二人とも死ぬ思い!
メンヒ山頂からは後方の雲の切れ間にあのアイガー(3970m)が何とすぐ下に!見下ろせた。
鋭く黒い岩壁を持つSchreckhorn(4078m)、グリンデルワルトからあれほど高く見上げたWetterhorn(3701m)が左下に黒く小さく見下ろせた。
この登山は二人とも生まれて初めての4千メートルで、その翌週に計画したツエルマットからモンテローザ(モンブランに次ぐ高峰4618m)へ登る準備登山のつもりでした。「標高差600mならいける!」と思ったが、しかしそれは肝試しを通り越し、下山後ピッケルを買ったスポーツ店に行くと我々も「カミカゼ」と言われました。
(編集子)ドクター河瀬がピッケルなしで雪稜を這い上っていた1968年、安田耕太郎は世界一周旅行の始まりで船の上だったというが、この年は小生の滞米2年目でようやく落ち着いたころ、出社途中だったと思うのだが(記憶は確かではなく、昼食によったダイナ―であったかもしれないが)ロバート・ケネディの暗殺が報じられた。ベトナム戦が膠着した後、米国そのものが大きく揺れ始めた年だったように思える。アルプスが温暖化の結果、消滅しようかという今、目下の大統領選に出馬がうわさされるのはRFKジュニア。歴史、というもの、時の流れというものを肌に感じる気がするのはコロナの後遺症か?
(飯田)私は登山や山岳散策体験でなく、単に山岳風景が好きでベルナーオーバーラント地方(アイガー、メンヒ、ユングフラウ3山と麓のグリンデルワルト)には3回か4回行ったことがあります。最初は昭和39年(1964年)に、海外研修制度で1年間ドイツに生活した時で、帰国前に10日間程フリータイムを貰ったので先ず行った先です。独身時代に一人旅でのモノクロ写真ですが、ご笑覧ください。

認知症は予防あるのみ、です! (普通部OB 篠原幸人)

年をとってくると、「物忘れ」が多くなりますね。当然です。小学生のお子さんやお孫さんとトランプの「神経衰弱」をやってごらんなさい。まず、負けますよね。おそらく人間の「物忘れ」は25歳とか30歳ぐらいから始まっているのではないでしょうか? 認知症で最も多い症状は確かに「物忘れ」ですが、病的な「物忘れ」と年齢相応の「物忘れ」は区別して考えるべきで、一人で悶々と「物忘れ」を心配することはやめてください。

先日、厚生省は今後20年ぐらいの間に、日本人高齢者の3人に1人は、何らかの認知障害を発症するだろうと報告しました。3人に一人ですよ。怖くありません?確かに医学は毎年進歩を続け、がんの早期発見や生活習慣病の治療も大きく変わりました。そこで、今後は高齢とともに起こる認知障害が、医療の最大の目標になるでしょう。

がんや生活習慣病は早期発見でかなり治せます。私自身もすでにもう3種類もの「がん」を克服できました。急性白血病・胃がん・前立腺がんです。 しかし認知症はなってしまうと、原因にもよりますが、早期発見でも完治させることはまず不可能なのです。最近、レカネマブ(商品名レケンビ)という新薬が大々的に発売されました。立川病院でもすでに10名以上の患者さんがこの治療を受けられています。しかし、この薬でも、従来の治療法と比較しても増悪(注)を半年ないし1年ぐらい延ばすのが精いっぱいというのが現状なのです。だから、認知障害は早期発見よりも、その前段階で「発症させない」ことが最も大事なのです。これがガンや心臓病・脳卒中と大きく違う点です。

それでは、必ず年をとっていく我々はどう対応したらいいでしょうか?認知症や軽症認知障害(MCIといいます)の大部分はなってからでは遅いのです。繰り返しになりますが、早期発見よりも、もっと早期に「ならないようにする=予防」のが最も大切なのです。認知機能障害はなにも「物忘れ」だけとは限りません。むしろ「物忘れ」は20歳過ぎからはじまりますから、軽度なら心配することもないのです。

「急に方向音痴になる」、「お金の計算を間違える」、「今までしていた仕事の手順を間違える」、「誰かが自分のものを隠したと騒ぐ」、「料理の手順を間違えた」などから始まることもあります。でもその時にはもう手遅れかもしれません。毎日の話し相手がいない、毎日同じことしかしない、高血圧・糖尿病・悪玉コレステロールが高い方などは皆さん、将来の認知症候補生なのです。

私は、自分では普通に生活していると高を括って方々の中から、将来認知症になる可能性があること方々を、現段階ではその危険がどのくらいあるかを判定し、その発症予防を目的する特別外来の開設を考えています。無論日々の生活習慣の改善・生活習慣病の治療も大切ですが、単に脳の検査をするばかりでなく、勉強会(皆で集まって話を聞くあるいは議論する)・運動指導(リハビリ)・趣味の発展と知識の交換・食生活の指導・音楽療法などを定期的に繰り返し行い、最大の危険因子の一つとされる「孤独」をさける方法も考える「認知障害予防外来とその対応外来」を、開設することを考えていますが、保険診療の壁にさえぎられて未だ遅々とした歩みです。

皆さん、とにかく、他人と頻回に接することが大切で、一人あるいはパートナーとだけの独自の世界を作ってしまうことだけはやめてください。何か、目的を持って、生きていきましょう。

(注)認知症はほっておけばドンドン進行します。その進行を半年ないし1年ぐらいは延ばせるという意味です。

(編集子)そうすると、”OB会日帰り” とか “日平会” に ”月いち高尾” とか ”アンノウンの会” さらには ”エーガ愛好会” なんてのは、お互い、人助けをしてるわけだ。はやくコロナ後遺症から脱却せなあかんな。シモムラあ! 次の予定はいつだっけ?

 

日本の旅 鵠沼・蓮池  (41 齋藤孝)

まるでチューリップみたいな花姿。
大きなツボミは夜明けに開いてくれる。幻想的な蓮池。徒歩2分の近場にある。

ピンク色した蓮の花が「蓮池」に群生している。
水面に浮いている大きな葉もあるが長い茎をピット伸ばしている。
重い花を水中の蓮根(れんこん)がシッカリと支えている。
お釈迦様は、右の手の平に一輪の蓮の花をのせて説法された。

「蓮池」にピンク色した蓮の花が浮かんでいた。大きな葉っぱの表面は輝いている。その名は「舞妃蓮」(まいひれん)と呼ばれる。華麗なお妃さまのお名前である。私は書き間違えて「舞悲恋」とした。これの方がロマンがありそうだ。

蓮池は悲しいエピソードも伝えてくれる。

2005年7月7日午後に雷が鳴り夕立が湖面に激しく降り注いだ。 ピカと稲妻がヒカリ、天空から木々を抜けて池の水へ走り抜けた。松の木陰で雨宿りしていた二人の女性が落雷死された。 岡崎昌子さんと娘さんにとり蓮池散歩中の事故だった。先輩親子の御冥福を心から祈った。

(編集子)岡崎昌子。旧姓橋本からおはし、と高校時代はよばれていたのだろうが、KWVでは 箸、すなわち部での用語として使われた ”武器” ということから ブキ、というニックネームで親しまれていた。山に強く、快活な性格でだれからも好かれ、同期ではこれも事故死してしまった総務細田を支え、女子部員の中心にいた人である。落雷による事故死、などという結末は誰も考えてもみなかった悲劇だった。小生がワンデルングで同行した最後は、八甲田合宿再現、というテーマで当時を知るOB仲間たちで東北を旅したときだった。帰りのバスでたまたま隣席になり、彼女の隣に座った町井(旧姓舟橋)かをるとの長話を(うるせえ、早く寝ちまえ!)なんて思いながらうつらうつら聞いていたことを思い出す。クメキチこと久米吉之助令夫人の通称コブキは、彼女が岡崎を彷彿させるからであると承知している。合掌。

氷河特急の旅 (後編)  (HPOB 小田篤子)

7/4にザースフェーからグリンデルワルトに移動。途中土砂で壊された車や中まで泥の入った家の近くを通りました。死者も1人出たようです。グリンデルワルトでは部屋からアイガーの麓に箱庭のように広がる景色が眺められ、朝夕の移り変わりにうっとりしました。

ひと駅手前に、商業施設、ゴンドラ、電車、バスの発着所を備えた大きな《TERMINAL》が出来ていました。7/5にはここからゴンドラで、Eigergletscher(2320m)まで行き、新しく整備された「アイガートレイル」を歩きました。
(これは、ちょっと威張れるよ…と夫に言われましたが)アイガーに登った人達が利用した、山のふちに沿った道で、所々残っている雪で少し怖い思いをしました。
1614mのAlpiglenまで下り、温かい、紫色のスミレ?の浮かんだにんじんスープを飲み、電車で戻りました。
翌6日はMannlichen(2227m)にゴンドラで行き50年ぶりのWengen(1224m)まで、花畑がとても綺麗ですが、急な道を必死で降りました!
登る人にはよく会いましたが、降りる人は2~3人程でした。
7日はお天気もいまいちで疲れていましたので、Meiringenへ。ここはシャーロックホームズがモリアーティ教授と争い、落ちた滝(Reichenbachfall)で有名で、博物館がある所です。滝は博物館の入口から望遠鏡で見るにとどめ、行きは電車で、帰りは山道をPostBusを乗り継ぎ一周する形で戻って来ました。

(河瀬)Mannlichenは今はスキーの中心地だそうですね。Wengenにはケーブルでも降りれるようですが、高山植物の花畑を見るなら大変でも徒歩で降りるのが一番です。Wengen村はラウターブルンネンの谷の反対の山上にあるミューレン村とともに素晴らしい花の村です。そのミューレン村の上には、007の映画の舞台になった「シルトホルン」がありますが、ケーブルの中間駅から15年前に家内と一緒に小田さんと同じように花畑を歩いて降りたことがあります。

 小田さんの写真に花畑がありませんでしたので、代わりに私がその時に撮った花畑の写真を添付させていただきます。背景の山は左からアイガー、メンヒ、ユングフラウです。


(36 田中)懐かしき 昔の想い!!

(保屋野)お帰りなさい。傘寿を迎えた、某大学出のキジン氏とのスイスアルプス旅行、うらやましい限りです。グリンデルワルドは1993年と2007年に行きましたが、メンリッヘン、やバッハゼーへのトレッキングは、まさに「至福の時」でした。ちなみに、メンリッヘンからクライネシャイデックへ下る道に咲いていた「アルペンローゼ」は、あの上品な赤が印象的でした。

(編集子)生来の天邪鬼が邪魔して、OBになっての ”黄金の10年間”、同期の連中がヨーロッパ旅行だのスキーだのと誘ってくれた回数は数知れないが、(みんなが行くなら俺は行かねえ)と全く非合理的な理由で参加しなかった。2009年、HP時代、国際事業総括をしていたHP社副社長と日本HPの甲谷社長(32年)、両夫妻に随行して初めてアルプスの端っこへ行った。HP親玉の別荘は庭から真正面にモンブランが見える文句のつけようのないロケーションで、なんだか知らないが世界最高のもんだ、と言われてもっともらしいワインなど最高のもてなしを受け、いちおうの観光ルートをこなし、あさってから(ま、ここまで来たんだ、行ってやるか)などとうそぶいてパリ、という夕方、なんと二人で出かけた小ハイクでわがパートナーが転倒骨折してしまい、パリ大旅行はパリ寸前引き換えし旅となった。それからは前にもまして天邪鬼となり今日まで来た。何度も書いたがフランスで行きたい処はただ1か所、”史上最大の作戦” でロバート・ミッチャムが主役を張ったオマハビーチだけなんだが、今頃コロナにかかっていてはそれも出来そうもない。ところで平井さん、お元気ですか。

 

”AI” の拡大について

AI、というコトバがあっという間に広がってきた。コンピュータ、というものが一般人のものになった60年代、コンピュータ、すなわち 計算機械にすぎないものの過大評価の一つでこれを 人工頭脳 などと言いはやすことがマスコミの報道に著しかった。しかし現実が理解されるにつき、(やはりコンピュータは与えられた資源を使うものの意思に従って高速かつ忠実に処理する機械なのだ)という正解に落ちついた。その延長線の上に、早晩、現実化するだろうと言われていたのが Artificial Inteligence  だった。当時、米国でエレクトロニクス関連技術センター的な位置づけになっていたシリコンヴァレーはいち早くその出現に反応し、小生が勤務していたHPなどはその代表的存在で、(これからはAI)ムードに支配され、”AI担当部署”がおかれ、トップマネジメントを巻き込んだ一大啓蒙運動が起きた。

しかしその熱狂はいつの間にか冷めてしまった。これはPCの高度化とインタネットの出現で、データ処理の質と量が飛躍的に改善されたこと、かつては専門家のものだった環境が一般家庭でもいとも簡単に実現できるようになったことと、そもそもInteligence とは何だろうか、という基本的な問いかけが起きたからだと小生は考える。データ処理はあくまで作業であり、それ自身が価値を創造することはあり得ない。Inteligence, とは人間が下す価値判断そのものであるからだ。

最近、NHKのニュース番組の これから後はAIによる自動音声でお伝えします というアナウンスメントに疑問を持った。目下、ここで言っているのはニューズの原稿を自動的に音声に代えてアナウンサーの負荷を軽減する、という一連の動作なのだろう、というのが友人仲間での合意である。もし、その原稿になるニューズそのものを選択するのがいまいう AI と呼ぶ(どこまで行ってもこれは高度化されたソフトウエアにすぎないのだが)仕掛けであるならば、(人に変わって価値判断を行う)という小生なりの定義に合致するし、天下のNHKのアナウンスメントにケチをつける気持ちはさらさら、ない。

最近、同じメル友グループの一人、菅井康二が仲間のひとり、平井愛子のフランスの政治に関する投稿を多とし、その良き理解に、ということでGPTを使って欧州の現状のサマリを作成してくれた(7月13日付本稿)。結果は見事なサマリであり、菅井の目論見通りの結果がうまれつつある。今回のような使い方が現状でのGPTの有効利用としては理想的なものだと思う。結論を急ぐつもりではないのだが、このような使い方が、現状の AI, というメカニズムの限界を示すものでもある、とも感じる。逆説的に言えば、これでいいのだ、という気もする。

もし、本当の意味での Inteligence, すなわち人間の持ちえる知性の集約,であるならば、今度の菅井リポートはその結論として(現状はこのとおりだが、こうあるべきではないか)というところまでいくはずのものであるがそこまでは行っていない。それでいいのだ。つまり、どれだけ高度化が進み、事実の正確な記述が出来たところで、その最終判断まで、Artificial  な知性にゆだねる、という事は人間そのものの放棄だ、と思うのだ。

ところが昨日、読売新聞に出た記事はそういう意味で僕の楽観論、というか希望論、に冷水をかけるものだった。友人のいない(その理由そのものが問題なのだが)少年が心のよりどころ、として選んだのがAIとの対話だった、というくだりである。人との交わりによって世界を作っていくのが人間、という生物がほかの生き物との違いなのに、それを ”AI” という仕掛けが代用する。そういうことか。

記事によればこういう例はすくなくなく、なかには結果に満足を得られず自殺した例まであるというのだ。”人生相談” とか、あるいは ”XX相談室” という善意の組織は古くからあって、それなりに人助けをしてくれていることはありがたいことだ。その助言や忠告は回答者の人生で得られた、絶対に正しいという保証はないかわりにその人の人生観に基づいたもののはずであり、”人間” の知性がこたえたものだ。しかしこの少年の場合、その対応を ”Artificial” な仕掛けがしていてくれる、というのか。

この記事のきっかけになった少年がなぜ人との付き合いがないのか、それはわからない。生まれつきの性格なのか、家庭状況なのか、病気なのか。最終的には其の少年の人生が決めることなのだが、人との交わり、友人がない、という事がどれだけ恐ろしいことなのか。そう考えて見ると、数多くの友人があり、この年齢になって尚、若い人たちから世の中を学ぶことが出来る、そういう環境のなかにいる自分が途方もなく幸運であると改めて感じた。ありがたいことだ。

 

 

 

キリコ展へ行ってきました  (普通部OB 船津於菟彦)

上野都美術館で「デ・キリコ展」開催していますので暇人は酷暑の中拝見に参りました。館内撮影禁止故図版から借用致しました。

ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, イタリア語: [ˈdʒordʒo deˈkiːriko])1888年7月10日 – 1978年11月20日)は、イタリアの画家、彫刻家。形而上絵派を興し、後のシュルレアリスムに大きな影響を与えた。姓は「デ・キーリコ」と表記される場合もある。
初期の頃は自画像とか静物画を描いていた。第一次世界大戦に出兵し麻薬の影響を受けた事もあり「形而上絵画」に謎めいた感覚で描く様になった。

「形而上絵画」とは何か。
形而上学(けいじじょうがく、英: metaphysics)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟で認識しようとする学問ないし哲学の一分野世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超越したものについて考える。対する用語は唯物論。他に、実証主義や不可知論の立場から見て、客観的実在やその認識可能性を認める立場や、ヘーゲル・マルクス主義の立場から見て弁証法を用いない形式的な思考方法。
中国では文化大革命において、毛沢東語録の一部として「形而上学」という語彙が「唯心論」という意味合いで新聞などで多用された。その影響により、「形而上学」は今日に至るも中国では一般的には貶す言葉として使用されている。
形而上絵画とは ”実際には見ることができないもの(現象・景色)を描く絵画”と描写されている。