中秋の名月      (34 小泉幾多郎)

わがマンションから眺めた中秋の名月。シャープには撮れてませんが、1枚目18時29分のあと、2枚目18時40分、 左下に新幹線が通過しました。

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(編集子)8月末にPCに異常が起きた。ACアダプタを使用しているのに、バッテリの充電不足なのでACアダプタを使え、というメッセージが出てきてしまう。何かいやな予感がして例によってPCデポに持ち込んで相談したら、何のことはなくアダプタのプラグを受けるジャックが壊れているけだが、これはメーカーでないと治せませんとのこと、やむを得ずメーカーに依頼してもらったのだが、なんと修理代の見積もりができるまで10日かかり、OKしてからさらに2週間かかってしまった。その間、メールだけはアイフォンで応答してきたがなんとも不便を感じていた矢先、ブログをご覧いただいていた一部の方から、何かあったのかとお問い合わせをいただいたりしてしまった。ここのところ、同期生の何人かが相次いで不帰の客となっていて、(?)と思われたのかもしれない。

このままだと弔電が来るかもの知れないと焦っていたら、今朝、連絡があって早速取り返してきた。ご迷惑をおかけした段、お詫び申し上げる。このひと月の間、数々のご投稿をいただいたので、その中から取り急ぎ、ご紹介をさせていただくことにしたい。とりあえず、遅ればせながら秋の季節感を。

なお、ご心配をおかけしたが編集子本人は心身(身のほうは多少怪しくなってきたが)ともに元気で、依然減らない体重だけが悩みであります。

コロナ対策は重大な岐路に立っています  (34 船曳孝彦)

新型コロナ肺炎(最近の病態は上気道炎と言った方がよいかもしれない)第7波は、夏休み・お盆の影響もあり、衰えを知らない高止まりの状況が続いています。おそらく皆さんの周りでもそうだと思いますが、いまや身近に感染者が発生しているのではないでしょうか。前報時には60~70%が感染しているのではと書きましたが、今や50人に1人以上ではないかと思われます。後述しますが、これから先はこの見当もあやふやとなってしまいます。

世界的に大きな波だった第5波の倍以上に大きな第7波ですが、欧米ではそれほどの大波ではありません。第7波の大部分はオミクロンBA-5亜株ですが、BA-2.75亜株が出てきました。感染し易さはBA-2と比べBA-2.75は1.36倍(BA-5は1.19倍)です。いずれBA-2.75が大部分を占めるようになるでしょうが、現在のシェアは明らかではありません。幸い致死率が高いとは言えないようですが、総数が増えれば医療逼迫に直結しますし、死亡総数も増えます。現在のコロナ問題は多岐にわたり、重大な危機にあります。一言でいえば戦後日本の目標だった【科学立国】の崩壊元年となりそうだということです。

医療逼迫が現実問題として危なくなってきました。医療関係者への4回目のワクチン接種が遅れたことと、爆発的患者数増加で、医師、看護師、その他医療従事者の感染などにより、千葉大では2800名中109名( 4 %)の職員が欠勤したといいます。

医療逼迫のもう一つの原因が➊病床確保と運用です。これは政治家の発言では必ず出てきてはおりますが、実体を伴っていません。日本の病院数、病床数は世界で最も多いのですが、1病院当たりの医師数は先進7か国中最も少なく、看護師数も最も少ないのです。小さい病院が多いことも影響しています。では大病院が総動員体制で入院させているかと言えば、そうでもありません。❷国立大学病院で積極的に入院治療しているのはごく僅かで、公立・公的病院の4割が入院させていません。中小の私的病院が軽快者、無症状者をどんどん受け入れてくれればいいのですが、現実問題として感染/非感染のゾーニング(接触しないよう分離)やスタッフの問題、さらに重症化した時の大病院への転送困難などで、ごく限られた病院しかできません。➌患者の流れが未だに確立していません。国の方針として自宅療養を積極的に進めていますが、第5波の時にも問題化していたのに、患者数が倍増しても対策は取っておらず、重症化しても救急車にて運び込む病院がなく死亡した人が出ました。患者コントロールは国、自治体の責任です。

次に検査体制の問題です。❹発熱外来の大混雑で屋外の検査となり炎天下で検査待ちして熱中症患者が発生しました。政府はいたずらに患者数を増やすだけという理屈の通らない理由で、❺一貫してPCR検査を嫌っております。

患者数激増に対応するため、疑わしい時には抗原検査キットを薬局で購入し、❻自己検査で診断するような方針を打ち出しました。問題噴出です。先ずキットの品不足です。十分量用意してあるといいながら現場では足りていません。次に陽性となった場合の受け皿が用意されていません。重症化する可能性を持ちながら、入院先の補償なく自宅療養する不安を強いています。第3に、症状が無かったり軽かったりすれば、出来れば入院したくないのが人情です。コロナ患者は社会的にも阻害されるため、陽性だったことは伏せておこうという人が続出する可能性があり、このような疫病(伝染病)においては、あってはならないことです。総数把握の上からもザルの目となって抜け落ちてしまいます。なお、唾液による抗原検査は、経験から使い物にならないものと思います。薬局では市販しておりません。7月時点ではぬぐい液検査キットは入手出来ませんでした。

最大の問題は疾病対策の基本である❼『感染者総数把握』を放棄することです。首相がこの放棄を断念するよう、また最終判断を自治体に丸投げするなど、全く信じられません。パンデミックな大疫病の最中に、患者数が掴めないなどという事態は三流国、四流国と見做されます。日本政府は戦後に目標とした科学立国を否定してしまうのでしょうか。なぜこうも非科学的、否反科学的政策を進めるのでしょうか。私は断固反対を叫びます。医療逼迫が原因だから、医師の負担軽減のためという理由も筋が通りません。医師の一部には全数把握放棄を主張する医師もいますが、彼らは公衆衛生学、疫学を再勉強すべきです。

何時もながら畏友黒木博士に教わった[COVID-19 TK-File(42)]現在の➑「新型コロナウィルス感染症発生届」を見てみると、届け出時に不要な項目、詳し過ぎて手間と時間の無駄の項目、感染原因、感染経路など分からない項目、1回目からのワクチン接種年月日など、患者、医師ともに大きな負担になっていることが分かります。黒木氏が提案しているような、簡略化、デジタル化で、届出書記載の手間は数分の一になると思われます。

 

コロナ、無症状の患者さんでも後遺症 (普通部OB  篠原幸人)

東京都のコロナ患者さん数は多少ですが、減少傾向に向かって来たでしょうか?さて、世間は統一教会問題とともに、日本のコロナ患者の数を従来通り「全数把握」で続けるか、「定点把握」という新しい方法に切り替えるかの問題と、コロナをインフルエンザなどと同じ5類感染症とするか, 2類にとどめおくかでもめています.

私はまだ2類にとどめ置き、かつ少々形は変えても、「全数把握」を続けるべきだと思っています。政府は「定点把握」といって、いくつかの大きな病院でのみ新コロナ患者数を算定し、全体の数はそれから類推する方法を取りたいようです。たしかにこの方法は、新しいコロナ患者の詳細に関する面倒な記入の為に、診察時間終了後、莫大な労力を強要されている小さな病院・医院にとっては朗報です。一人の患者さんのデータを入力するために今のままでは30分以上かかるからです。しかし、新規発症コロナ患者さんの数をある程度、正確に知ることは、今後のコロナ対策にはまだ必要でしょう。それよりも、余りに詳しい現在の書類形式を廃止して、新規患者さんの数、各年齢、性別、診察時の状況、合併症の有無だけの記載にすれば、記入に要する時間は多分、10分の1になるのではないでしょうか? 政府や厚生省・保健所の言い分は、書式を変えるのに抵抗のある何時ものお役所仕事の一環であると思います。

5類・2類の問題も、2類の今のままなら患者さんは無料で検査を受け、治療が必要ならまた無料で受けられます。しかし5類に分類されるようになると、高価な薬も入院費も全て保険でまかなわなくてはなりません。お金のない人は死んでもらおうという考えになることを心配しています。

多分、現在発表になっているコロナ患者総数は、本当は氷山の一角で、実際の患者数はもう3-5割ぐらいは高いと、私は考えています。多分無症状ないし軽症の患者さんたちは、面倒だからと正しい診断を受けに行っていないのではないでしょうか?皆さんの中にも、ここ1-2年の間に、微熱が出た、一寸咳や鼻水が続いた、喉に何となく違和感があったなどという方は何人もおられると思います。その中には、いわゆる無症候性コロナ患者さんが混じっていたかもしれません。そんな人はラッキーだったとお考えかもしれませんが、実はコロナ後遺症はこのような無症状のコロナ患者さんからもたくさん見られるという報告があります。

コロナの後遺症は200種類以上の症状が報告されています。

全身倦怠感・何となくだるい

頭痛

息苦しさ・息切れ・咳

眠れない

脱毛

かゆみ

味覚・嗅覚・聴覚の低下 などです。

これらの後遺症にために、休職を余儀なくされ、解雇までされた方もあり、急性期に正しくコロナ感染と診断されていないと、年のせい・ずる休み・ノイローゼなどと誤診されたり。キチンと病院で診てもらえなかったりするケースがこれから増えるもしれません。東京ではすでに7人に一人はコロナ感染と考えられていますが、実際には5人に一人ぐらいは居られるでしょうか。

これから冬にかけて、第八波も考えられます。やはり、ワクチン接種は発症予防・後遺症予防には多少なりとも有効と考えることには科学的な妥当性があります。10月にはオミクロン株対応の新しいワクチンが出てくる予定です。しかしその功罪に関しては、まだ何のデーターも発表されていません。また情報が入りましたら、お伝えします。

 

 

乱読報告ファイル (30) 死者の靴   (普通部OB 菅原勲)

久し振りに探偵小説を読んだ 。英国の探偵小説作家、レオ・ブルース(Leo Bruce)の「死者の靴」(Dead Man’s Shoes。1958年発行。翻訳者:小林晋。なお、この英語は慣用句で、死亡した人の財産、を意味するとのこと)。また、これは私家版であって市販はされていない。従って、探偵小説ではネタバレは厳禁だが、私家版で部数が極めて限られていること、これから読む人も先ずいないと思われることなどからも、異例だが、ネタバレして話しを進めることにする。

話しは、モロッコのタンジールから英国のロンドンに向かう、5人の乗客を乗せた貨物船から始まる。船長を含む船員、乗客の専らの噂は、この船には殺人者がいるのではないか。確かに、乗客の一人は粗野で、誰にでも喧嘩を吹っ掛ける嫌われ者だった(ウィルバリー・ラーキン)。ところが、ロンドン到着を前にして、「誰かが落ちたぞー」の掛け声と共に、何かが船から海上に落下する。船員が全客室を探したところ、その男だけが船にいない。しかも、残された客室のタイプライターに「これから自殺する」旨の紙片が残されている。殺人者は、本当に海の藻屑と消えたのか。

種明かしをすれば、それは二つある。一つは、ラーキンは死んでおらず、自分から掛け声をかけ、変装道具を錘と共に海に投げ捨て、寝台の上げ蓋の下に隠れた。もう一つは、ラーキンなどと言う男は全く存在せず、その実態は、殺された大富豪、グレゴリー・ウィリックの甥であるランス・ウィリックそのものなのだ。つまり、ランスは変装して別人のラーキンに成りすまし(眼鏡をかける、洋服に詰め物をして大きく見せる、踵の高い靴を履いて高く見せる、声を変えるなどなど)、叔父を殺した犯人なのだが、この一人二役で逃げ切れると踏んで長年に亘り、計画し、それを実行して来た。

訳者あとがきで、「実に大胆なトリックだが、それゆえにかなり見え見えの真相である」と述べているが、これは、大胆なトリックなどと言うより、先ず実現不可能なトリックと言った方が正確だろう。加えて、場合によって、本人と別人が行ったり来たりすることになるのだが、歌舞伎の早変わりではあるまいし、そんなに簡単に出来る代物ではない。その意味では、残念ながら、関係者全員を集めて、素人探偵である歴史教師キャロラス・ディーンによって犯人が明かされる最後の30頁前後で大変失望したと言わざるを得ないのが正直なところだ。具体的には、人は完璧な変装をすれば全くの別人になりすますことが出来るのかと言うことが焦点となる(シャーロック・ホームズは変装の名人だったそうだが)。これが、訳者が言っている大胆なトリックなのだが、これが実現できないとなると、それこそ九仞の功を一簣に虧くことになり、なーんだと言うことになる。小生の反応が正にそれだった。

これが本格探偵小説だと言っても、物好きなひと以外、そんなものを読む人はいなくなって、益々、本格探偵小説から遠ざかって行くのは間違いない。小生、こう言った変装で人を騙くらかす話を、勝手に変装奇譚と名付けており、全く馴染めない。

ブルースには、ビーフ巡査部長を主人公とした別のシリーズがあるが、その第一作に「三人の名探偵のための事件」(1936年)と言う傑作、と言うより怪作がある。A.クリスティーのE.ポワロ、D.セイヤーズのウィムジー卿、G.K.チェスタートンのブラウン神父と言った名探偵でさえ解決できなかった難事件を、ビーフ巡査部長が易々と解いてしまうと言う、正に人を食った話しだ。

エーガ愛好会 (170) 折れた槍    (34 小泉幾多郎)

「折れた槍1954」はエドワード・ドミトリク監督の西部劇。他に西部劇では「ワーロック1959 」「アルバレス・ケリー1966」「シャラコ1969」があり、何れも問題作。特に当作はオリジナル脚本に与えられるアカデミー原案賞受賞のフィリップ・ヨーダンによるもので、父マット・デヴロー(スペンサー・トレイシー)が築き上げた牧畜王国における重苦しいホームドラマ的な西部劇。

インディアンの母セニヨーラ(ケティ・フラド)を持つ四男ジョー(ロバート・ワーグナー)のほかは、白人の前妻の子供である長男ベン(リチャード・ウイドマーク)、次男マイク(ヒュー・オブライエン)。三男デ二―(アール・ホリマン)がいた。ジョーは知事の娘バーバラ(ジーン・ピータース)と恋仲。父のお気に入りは四男ジョーだけ、人間性を潰される長男たちは敵対する。

シェイクスピアのリア王に設定が似ている。次男三男は厳し過ぎる父に反発し、自分の牛を盗んだりする。そんな或る時、近くの鉱山から流れてくる鉱毒のため家畜が大量に死ぬ事件が起き、抗議の果ての激しい銃撃戦によって、鉱山から訴えられ、ジョーが父の代りに3年の刑で入獄する。この裁判、自分こそが法律であり、撃ち合いも辞さない男が裁かれるということは、西部の歴史が裁かれるのと同等の深刻さを秘める。この事件以降、牧畜王国に斜陽の影が差す。創業者の物語から次の世代への移行は、第一次産業から第二次産業へのシフトが示唆される。父親の土地を石油会社に売ろうとする長男との確執から父は倒れ死んでしまう。特に許されて葬儀に参列したジョーは槍を突き立てインディアン決闘の定法を示す。

その後、3年の刑を終わり出所したジョーは、父の旧家で、インディアン部落に戻っていた母と再会、母から、悲しみは捨て、愛する者と自分の道を行け、と諭され、ピストルを置いて、その気になるが、長男ベンは、槍を地面に突き刺されたことから、仇の気持が消えてないと思い、殺すことを決意する。逃げまどうジョーを救ったのは、牧童頭のトウー・ムーンズ(エドウアルド・フランツ)だった。父の墓を詣でるジョーとバーバラ、それを見送る母。ジョーは槍を折り、新天地を目指す

味のある俳優揃いで、重苦しいホームドラマ的西部劇だが楽しく観られた。主役スペンサー・トレイシーの貫録、リチャード・ウイドマークはセリフは少ないが、父の圧力に否応なく人間性を潰されて行く長男の悲哀をぬかりなく表現し、ケティ・フラドはインディアンの妻として母としての愛情溢れる演技、その他若手の俳優も夫々の持ち場を発揮していたと思う。

(編集子)先回の 燃える平原児 につづいて白人と先住民族間の確執が背景にある、重苦しい作品だった。

Actress Katy Jurado

ロバート・ワグナーはどうもこういうシチュエーションにはあまり向いていないように思えたが、ケティ・フラードにひかれて見た。”真昼の決闘”で、乾いた感じの画面で描かれる人間のありようをどこかほかのところから見ているような演技が印象に残っている。彼女の出演作はこのほかには数えてみても2本しか見ていないのだが、どこか突き放したような雰囲気のある女優だった。

(題名の槍(lance)を矢(arrow)にすると “折れた矢” でこれも一ひねりされた作品だったが、タイトルが英語の文字通り ”ブロークンアロー” だった映画はジョン・トラボルタが悪役で主演、という核爆弾を扱ったスリラーである。このタイトルの BROKEN ARROW という語は米国では核施設の破壊あるいは事故を意味する暗号であることはこの映画にまつわる話として書いた。いままさにその現実が起きようかとしているのがウクライナの原発周辺での戦闘である。暗号が現実とならないように祈るだけだが)。

居酒屋昭和、のこと

たかがテレビの音楽番組にこんなに心が揺れたのははじめてだ。これが年を重ねるという事なのか、斎藤なにがしの忠告を振り切ったうえ、少しばかり定量を過ごしたジンの所為なのか、定番番組を見終えて変えたチャンネルに釘付けになった。

八代亜紀の 居酒屋昭和なる一曲。歌詞を拾い読みする。

男の背中にゃ色気があり

女の背中にゃ艶がある

そんな時代がここにある

 

令和にはぐれた路地裏に

昭和の灯が灯ります

 

情け見つけに来ませんか

居酒屋昭和の

居酒屋昭和の癒し酒

 

めったに見ないテレビ番組でまったく偶然に出会っただけなのに、なにか心にドーンと来た感じ。10年以上前になるが、中央高速を走っていて時間調整のために横道へ入り、出くわした武田一族最後の地、という薄暗い林。苔むした遺跡で全く予想もしなかった涙が出た。その時以来の心の共鳴、だった。不思議なもんだ。やはり年齢、であろうか。

俺達月一度の天狗飯店の酒も結局は居酒屋昭和のこころなのかも知れない。

 

”炭素文明論” フォロー    (HPOB 小田篤子・42 保屋野伸)

科学の為になるお話をありがとうございます。私は世界史だけでなく、科学も、寝てはいなかったのですが、ぼーっとしていたようで、全く( ゚д゚)ですが。
ずっと前に読みました、イギリス人、ロバート・フォーチュン(1812~80)の伝記「紅茶スパイ」を思い出し、googleを観ていましたら、「炭素文明論」と合わせて読むとさらに面白い…と書かれていました。
フォーチュンは、東インド会社社員で、”植民地で、植物を原料にした産業を興し、発展させること”を仕事とした植物者です。
アヘン戦争を経て弁髪にし、中国人に変装し、中国内陸部に潜入、お茶の種や苗木を盗み出し、イギリス領にしたアッサムやダージリンでの栽培を試みました。
紅茶はイギリスの発展の為、
①沸騰したお湯での殺菌
②ミルクや砂糖を加えることで、貧困層も栄養接種
③カフェインが神経を集中させ、難しい仕事も可能に。
④妊婦から乳児の健康も改善
……等の健康面からも良かったようですね。
フォーチュンは幕末(1860~62)に2度来日し、色々な植物を持ち帰り、「幕末日本探訪記」を書いて、外国人から観た日本史の資料としても使われています。
ロバート・フォーチュン

スコットランド、ベリックシャーの小村エドロム生まれ。エディンバラ植物園の庭師となり、次いでロンドン園芸協会付属植物園の温室係となった。アヘン戦争の講和条約である1842年南京条約により香港がイギリスに割譲され、また5港が開港されると中国産植物に関心を持っていた園芸協会によってフォーチュンがプラントハンターとして派遣されることとなった。フォーチュンは1843年7月6日に香港に到着[3]。緑茶と紅茶は製法が違うだけで同じチャノキから作られることを発見し、それぞれが別種とされていた定説を覆した。外国人は開港地周辺以外への立ち入りは制限されていたため植木屋や中国人が花木を植えていた墓地で植物を収集したが[5]、中国人に扮して蘇州まで行ってもいる。また、マニラも訪れ、蘭の一種Phalaenopsis amabilisを入手した。1846年5月、フォーチュンはレンギョウ属、タニウツギ属、スイカズラ属、シモツケ属、カリガネソウ属、ガマズミ属など、250種の植物とともにイギリスに戻った[8]。フォーチュンはウォードの箱を最初に本格的に用いた人物であり、この時の輸送にウォードの箱が用いられている

(齊藤)ロバート・フォーチュンと言う人がいたんですね。全く知らなかったです(…と思います)。シーボルトにも会っているとのことで、これはおもしろそうです。「紅茶スパイ」ほしい本のリスト入りです。「幕末日本探訪記」にも興味を惹かれます。

イギリス人の紅茶好きは、イギリスの歴史上で、いろいろなエピソードに絡んで
いるようですね。この辺を掘り下げると、面白い話がたくさん出て来るのかもしれないです。

(保屋野)炭素のお話興味深く拝見いたしました。地球温暖化の元凶とされている炭素の有益性は、先日NHKの科学番組で放映されていました。

炭素原子(原子番号6)は、陽子6個、中性子6個の原子核と6個の電子で構成されていますが、その起源はネットによるとビッグバンで生まれた水素(原子番号1)とヘリウム(原子番号2)のうちヘリウム3個が結合して生まれた、とありました。何時生まれたはよくわかってないようですが、125億年前の宇宙観測ではその存在が確かめられているようです。

しかし、自然界にはわずか94の元素しかなく、それぞれの原子が陽子・中性子・電子の数で性質が異なってしまう、というのは不思議です。脱炭素社会なんてとんでもない、炭素なしには我々の存在すらないのですから。

(編集子)エーガ愛好会目線で思い出したのは ”遠すぎた橋” で、決死的な白昼渡河作戦を命じられた米軍将校ロバート・レッドフォードが、その近くで悠々と紅茶を飲んでいる英国兵士を見て激怒する場面があった。この映画は同じ時期を扱ったスペクタクルものでも 地上最大の作戦 が連合軍のサクセスストーリーで仲間内のあつれきなんかは一切―扱わなかったのに、アイゼンハワーに敵愾心を燃やした英国モンゴメリ指揮の作戦の失敗を描いたものだけに、このような背後での話がいろいろとあって面白かった。

 

 

エーガ愛好会 (169)我が命つきるとも    (44 安田耕太郎)

映画「スティング」にマフィアのボス役で出演したロバート・ショウを久し振りに観て、彼が16世紀のイギリス国王ヘンリー8世役を演じたイギリス映画「わが命つきるまで」(1966年制作 原題:A man for all seasons)を続けて一挙に観てしまった。ヘンリー8世にまつわる史実をテーマとして描く歴史映画で、特に目新しい話の展開はないが、重厚な歴史物語を楽しんだ。この国王は、イギリスでは歴史上もっとも有名な人物の一人だ。

1528年、イングランド国王ヘンリー8世は宮廷の女官アン・ブーリンに恋をし、一向に世継ぎを生まない王妃キャサリンとの離婚を望み、ブーリンと結婚することを切望していた。王妃キャサリンはスペイン初代女王イザベラ1世とアラゴン国王フェルナンド2世の娘で、ヘンリー8世の実兄で次の国王を約束されたアーサー王太子と政略結婚した。だが結婚の翌年、兄は病で急逝する。弟の世継ぎとなったヘンリーは義姉であった未亡人と結婚する(ヘンリー18歳、キャサリン24歳)。ヘンリーはチューダー王朝の存続を切望するが、結婚後9年経っても世継ぎの息子を産まない王妃に業を煮やした。当時はカトリックが国教であり、離婚は許されずローマ法王の許しが必要であった。

映画の主人公はヘンリー8世ではなく、反逆罪でヘンリー8世から斬首の刑に処せられたトーマス・モア(Thomas More)。政治・社会を風刺した「ユートピア」の著述で今日にまで知られる、イングランドの法律家・思想家・人文学者。彼の深い教養と厚い信仰心によってイギリスはもとよりヨーロッパの人々から尊敬と信頼をかち得ていた。王の再婚を法王に弁護できるのは寵臣の中でただ一人、信仰心篤く人望のあるトーマス・モアだけだった。何とか法王に離婚の承諾をもらえるようにモアに頼み込むが、モアは、国王が離婚する理由が見出せないとしてそれを拒否。モアの度重なる法王説得依頼拒絶は、国王の取り巻き達の怒りを買ってしまう。高潔・孤高なモアは意に介さなかったが、彼の家族や友人は彼の一徹さ故に彼の政治的な立場を危惧した。宗教界の実力者ウルジー枢機卿・大法官(オーソン・ウエルズ演じる)は秘書官クロムウエルを介してモアの説得に当たるが徒労に帰す。

いかにも中世イギリスの歴史物語とあって、舞台・衣装・セリフは重厚荘重で映画というより古典舞台劇を観るかのようであった。主役モア役を演じたポール・スコフィールドは1966 年度のアカデミー主演男優賞を、映画は作品賞を、演出のフレッド・ジンネマンが監督賞をそれぞれ受賞した。それぞれが賞に相応しい出来栄えであった。出演者は他にもヘンリー8世の腹心ウルジー枢機卿を演じたオーソン・ウエルズ、モアの妻役ウェンディ・ヒラ―、娘役のスザンナ・ヨーク、アン・ブーリンを演じたバネッサ・レッドグレイヴなど名優が脇を固めていた。

ウルジー枢機卿が病で死去した後、モアは官僚の最高位である大法官(Lord Chancellor)に任命される。そんな中、ヘンリー8世自らがモアの屋敷を訪れ、直接ローマ法王に離婚を許可するよう働きかけることを依頼する。最後通牒にも等しい国王の直談判であった。モアはこれも拒絶したため、国王は激怒して帰ってしまう。離婚を認めないローマ法王に業を煮やしたヘンリー8世は、ついに新たにイングランド国教会を設立して自ら首長に就任し、強引にキャサリンとの離婚及びアン・ブーリンとの結婚を執り行う。

原題「A Man for All seasons」、トーマス・モアを当時の人が彼をそう呼んだという。「確固たる信念を持つとともに、多才で、どんな状況にも対応できる、頼りになる人」というような意味らしい。モアは自らの信念に従い大法官を辞任し、国教会やブーリンとの結婚を、国王の執拗な脅しに屈せず、認めなかった。トーマス・モアは権力に屈せず自らの信念を貫き通し、救いの手が妥協と譲歩を交換条件として差し延べられるが、それらを一切断り、ロンドン塔に投獄されたのち、断頭台の露と消えていった。ヘンリー8世がアン・ブーリンと結婚してから2年後の1535年のことであった。

(小田)この映画、観たことがあります。やはり、アン·ブーリンが登場する「ブーリン家の姉妹」と同様に、ヘンリー8世の来訪から話が始まり、最後は主人公が処刑されて終わったように思います(こういうお話は後味が良くないので映画で観るより、本で読む方が好きですが)。ヘンリー8世は、6人の王妃中、2人を処刑していますが、他の王妃達もそれぞれに大変な運命に会っています

 ヘンリー8世の1番目の王妃キャサリン オブ アラゴンはヘンリー8世の兄(アーサー)とスペインの国力をつける為、1489年にアーサー4歳、キャサリン3歳で婚約条約に調印、10年後、14歳と13才の時、代理人により結婚式が行われ、501年ロンドン、セントポール大聖堂で正式に結婚式を挙げますが、アーサーは5ヶ月もしないうちに、感冒で亡くなります。

1503年 それでは…と弟のヘンリーとの婚約式が行われますが、1505年に婚約破棄(この時も生活に困窮)…などを経て、1509年二人は結婚します。暫くは円満だったようですが、生まれた王子が亡くなったあたりからヘンリー8世は愛妾をつくり、ローマ教皇が離婚を認めない為、英国国教会を設立してまで離婚。そして、次の王妃、アン·ブーリン、ジェーン·シーモア、アン·オブ·クレーフェ、キャサリン·ハワード、キャサリン·パーと続きます。
キャサリン オブ アラゴンは、1986年に450年目の記念日に、新しい棺も作られ、その人柄から生花が今でも、絶えないそうです。6人の王妃のマトリョーシカの写真を紹介します。王妃の人形は3体で、裏と表に2人描かれています。  コッツウォルズで偶然通りかかった《シュードリー城》で買いもとめた物です。
(編集子)英国皇室とわが天皇家の歴史を比べてみて、双方とも長い伝統を持ち、それなりにロマンを感じるものだが、わが皇室には(少なくとも歴史の教科書が教える限り)この映画の背景になったような不行跡の話はないし、第一、その長い歴史を通じて、天皇家を権力のカバーに使った武家の記録はあるが、時の権力者の一人として天皇家を廃しようとした例はない。英国王室の歴史にカソリックの伝統といえば聞こえはいいが、要は政治に宗教がどのように影響するかの悪例のように見える。
我が国では唯一、太平洋戦争の間に軍部が天皇の神格化という手段で国民を誘導したのが恥ずべき史実として残るが、それ以外には天皇家は(現代が結局そうなっているが)国民の象徴、という位置にとどまり続けたわけだ。このあたり、アングロサクソンとヤマト民族の倫理に関する態度の違いがよく表れているように思う。これからのわが皇室、世間にうとい皇女がたがプレイボーイカレッジのスケコマシなんかに引っかかられないようにしていただきたいものだが。

乱読報告ファイル (29) 炭素文明論 その1 (会社時代友人 齋藤博)

この本(炭素文明論―「元素の王者」が歴史を動かす)は、9年も前に発売された本ですが、何度も何度も読んでいます。着想が素晴らしいだけでなく、実によくまとまっていて、化学を心がけた者にとっては、歴史を振り返り、見直すきっかけを与えてくれます。Amazonを検索すると、まだ買えるようです。2回に分けて、この本から2つのエピソードを簡単にまとめて紹介したいと思います。

1回目は、炭素がもとで、国が滅ぼされたこと
2回目は、糖の起源から、糖の利益が産業革命の原資となったこと

この本では、炭素についてのエピソードが書かれているのですが、『地球の地表および海洋の元素分布を調べると、炭素は重量比でわずか0.08%しか占めていない』と言うのです。そんなに少ない元素が、地球上の世界の歴史を動かしてきたというのです。もちろん、気候変動のことにも触れています。

参考までに蛇足ですが、地表での元素の重量比と言う観点で最も多いのは、酸素です。続いてケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウムなどが続きます。炭素はようやく17番目に出てきます。炭素の重量比0.08%の出どころはわかりません。英語版のWikipediaでは、0.02%だとしています。
著者、佐藤健太郎氏は、この炭素をめぐり、激しい争奪戦が繰り広げられ、炭素戦争が勃発してきたと記しているのです。

例としてモルヒネの歴史を簡単にまとめてみますと、5000年以上も前に、ケシの未熟な果実に傷をつけて得られる乳液に、鎮痛・催眠の効果があることが知られていました。
・未熟なケシの果実に傷をつけて得た乳液を干して固めたものがアヘンです。
・16世紀には、インドや東南アジアで巨大なケシ畑が展開されていたそうです。
・1803年、ドイツで有効成分モルヒネが単離され、目分量やさじ加減でないデー   タに基づいた医療へと大きな変革が起こります。
・1896年、モルヒネに体内への吸収を早める工夫をし、ドイツのバイエル社が鎮咳薬として販売します。
・これを、静脈注射で体内に入れると、途方も無い多幸感が生まれる。ヘロインの誕生です。もちろん、ヘロインの基本骨格は炭素からできています。

イギリスは、1800年代に入ると紅茶に砂糖を入れて飲むという大ブームが訪れていたそうです。紅茶の原産地の清への外貨流出に困ったイギリスは、アヘンを製造し、清だけに売り渡すという戦術を取ることとになります。この作戦は成功し、清の政府高官から庶民まで、アヘンの虜になってしまいます。清政府はアヘンの輸入を禁止しますが、それを待っていたイギリスとの間にアヘン戦争が勃発します。1840年のことでした。

私達は食として小麦や米を食べます。これらの主要成分はデンプンであり、ブドウ糖が複数つながりあってできています。ブドウ糖は炭素、酸素、水素の3種類の元素からできていて、私達は、人間となってからまもなく、これらの食料を奪い合う戦いをしてきたというわけで、炭素が絡んで、歴史は動いてきたのです。次回は、砂糖のことについて触れます。

ご参考までに、この本の目次です。
◉人類の生命を支えた物質たち
第1章 文明社会を作った物質――デンプン
第2章 人類が落ちた「甘い罠」――砂糖
第3章 大航海時代を生んだ香り――芳香族化合物
第4章 世界を二分した「うま味」論争――グルタミン酸

◉人類の心を動かした物質たち
第5章 世界を制した合法ドラッグ――ニコチン
第6章 歴史を興奮させた物質――カフェイン
第7章 「天才物質」は存在するか――尿酸
第8章 人類最大の友となった物質――エタノール

◉世界を動かしたエネルギー
第9章 王朝を吹き飛ばした物質――ニトロ
第10章 空気から生まれたパンと爆薬――アンモニア

第11章 史上最強のエネルギー――石油
終章:炭素が握る人類に未来
 炭素はどこへ
 炭素のサッカーボール
 カーボンナノチューブの衝撃
 炭素争奪戦の時代
 気候変動の宿命
 人工光合成をを実現せよ
 石油を作る藻
 持続可能な地球に向けて

気候変動に関する知見    (普通部OB 田村耕一郎)

本稿で過去にもいろいろな話題について、小生の友人からの情報を紹介してきたが、今回は気候変動に関する欧米での反応と科学界の知見についての記事である。原稿はかなりの長文なので、かいつまんでご紹介しておこう。

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2014年に、32人の科学者からなる国際グループが、農家、教会、他に保持された記録を含む 300以上の文献から証拠をまとめ、確定させた。以下は、そのことを説明していた 2014年7月のアメリカの記事からの抜粋である。

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南アルプスで災害が始まったのは 1539年だった。10月までに、スペインでは神に雨を乞う行進が行われ、イタリアの年代記では、冬なのに7月と同じように乾燥して暑かったと説明されている。干ばつは 1540年の初めに北に広がった。     気温が 30°Cを超える日数は、通常の少なくとも 3倍だった。これまでにないほどの井戸と泉が枯渇した。スイスの年代記者は、多くの川床の床から 1.5メートル下にさえ水滴が見つからなかったと報告した。   いくつかの主要な川でさえ、徒歩で渡れるほど小さくなった。研究者は、エルベ川の水量は 1540年には通常の量の10分の 1にすぎなかったと推定している。

人的被害はひどかった。汚染された水を飲んだことによる赤痢で数多くが死亡した。多くの動物が喉の渇きや熱射病で死亡した。農業従事者たちは畑で倒れた。  人々の気性が荒くなり、暴力が急増した。もちろん、農業の収穫量は非常に少なく、穀物とパンの価格は異常な高値となった。森林火災と山火事が各
地で発生し、煙が大陸を覆った。

1540年のこの大惨事の原因は不明だ。しかし、明らかに現代の気候変動が原因ではない。明らかなことは、このような極度の熱波が、今、人類の歴史の中でかつてないほど起こりやすいということだ。  この干ばつに伴い、50万人が犠牲になったと推測されているが、そのほとんどが下痢によるものだったと考えられている。 ヨーロッパの当時の人口は、現在の 10分の 1の 7000万人程度だったと推測されて いるので(現在は 7億人)、かなり大きな人的被害だったのは事実だろう。。

ちなみに、この時の日本を見てみると、日本でも 天文の飢饉 があり、前年の天文8年(1539年)に発生した大雨・洪水と蝗害によって年明け以後、各地で飢饉が発生、春には再び大雨・洪水が発生したことに加えて疫病も流行して、死者が続出、京都では、天文9年(1540年)の正月に東寺にあった弘法大師像が発汗したことから凶事が噂されていたが、飢饉と疫病によって噂が現実化した。

醍醐寺理性院にいた僧侶厳助の日記『厳助往年記』によれば、京都では上京下京合わせて毎日60人ほどの遺体が遺棄されていたことや誓願寺にて非人施行が行われたことなどが記され、「七百年来の飢饉」「都鄙で数千万人の死者」と評している。数千万の死者は過大であるとしても、当時の社会に与えた影響の大きさを物語っている。

現在と同じようなラニーニャなどのいくつかの気象の変動要因が結びついていたものだとすれば、北半球の広範囲が同じような状態となっていたのかもしれない。サイクルとは言えないにしても、条件が合致すれば、このような猛暑と干ばつが比較的、長期間にわたり地球に訪れる。
この 1540年の猛暑と干ばつに、太陽活動が関係していたかどうかは、太陽黒点観測が始まったのが、1755年からなので確実にはわからないが、ただ、先ほどの記事に、人々の気性が荒くなり、暴力が急増した、という記述あることから、おそらく太陽活動が高い時だったと考えられる。今も、社会的に結構荒い事件は多いのだが、最近の太陽は頻繁に磁気の塊を地球に放出し続けている。「気性が荒くなる」ということに関して、これは「気温」とも関係していることようでもある。それによると  気温が 31℃ 前後が最も暴力が増加するようで、それ以上に気温が高くなると、「むしろ暴力は減少」することがグラフで示されている。だから毎日40度がいいと兵得ないのだが。

以下にこの問題について報告されているいくつかの情報のまとめを挙げてご参考に供する。

気候危機は存在しない : 歴史は、地球がときに過度に悪化することを示す
There Is No Climate Crisis: History Shows Us That The Earth Has Seen
Far Worse という意見があって、 気候科学はイデオロギーの熱狂によって窒息しすぎており、最近では通常の客観的な分析を見つけることが難しくなっている、と主張する。 人為的な気候変動の物語と矛盾するデータの断片は、情報が却下されるか、地球温暖化のプロパガンダの大洪水でそれを覆い隠す状況に囲まれている。

気候変動だけがすべてではない。  米国やヨーロッパで高温が報告されるときはいつでも、ニュースはメディアによって気候黙示録のワイルドな理論に鼓舞されるが、気象の歴史は、ここ数年に見られる暑い気候の事象が、「人為的な問題」が持ち出されることになる数十年前または数世紀前に起きたはるかに悪い出来事の影に隠れている可能性がある。

たとえば、メディアは現在の干ばつと今年の夏にヨーロッパで発生した「記録的な気温」に熱狂しており、過去 500年で「最悪の干ばつ」になる可能性があると警告している。 しかし、この主張は、気候科学者や喧伝者たちが答えたくない質問への扉を開く。では、その 500年前に何が起こったのか?」  という質問だ。

同様のレベルの地球温暖化ヒステリーは、2003年と 2018年にヨーロッパで発生した熱波の際にも見られた。少数の気候科学者たちは、これらの干ばつは、西暦 1540年の「生き地獄の干ばつ」とは比較にならないものであると指摘しなければならなかった。    西暦 1540年の干ばつでは、この地域は、1年間、ほぼ雨が降らず、歴史的に猛暑に見舞われたことから、「メガ干ばつ」と呼ばれることがよくある。 1540年の平均気温は、20世紀のヨーロッパの平均気温よりも 5°C から 7°C 高かった。米国で言えば、これは夏の毎日の気温が約40℃であることを意味する。 1540年のヨーロッパの炭素レベルは現在より30%低かったが、記録された歴史の中で最悪の温暖化に見舞われた。 今日の気候データは NOAA やその他の機関が保持する記録に基づいており、これらの記録は、 1880年までさかのぼることしかできない。たった一世紀あまりだ。 1540年の危機を引き起こしたのは、自動車、農業、産業による炭素汚染でなかったことは明らかだ。

つまり現代の 科学は、1540年の危機を含む過去の温暖化事象の多くを引き起こした原因をまだ理解していない。  実際、NOAA やその他の気候研究機関は、炭素排出量と気温上昇との関係を示す具体的な証拠をまだ提供していない。彼らの主張は、他のすべての考えられる原因を排除し、残りは炭素のみを残したというものだ。これは科学とはいえない。  幸いなことに、現在の気温はそれほど高くはない。   NOAA 自身のデータによると、地球の平均気温は過去 100年間で 1℃ 未満しか上昇していない。

ここで  炭素管理は、人口を細かく管理し、「より大きな善」の名の下に権威主義を正当化するための強力なツールであるとは言っておきたい。 人々が間違った気候変動の物語を受け入れると確信すれば、政府は、私たちが使用する電力から、私たちが食べる食べ物、私たちが経営できるビジネス、農業生産量と人口に至るまで、日常生活のあらゆる側面を管理する能力を持つことになる。  これはフィクションではなく現実であり、存在しない脅威から地球を救うという名目で、多くの人々が認識するよりもはるかに速く、起こっているのだ。