至仏山  (43 保屋野伸)

昨年、大雪で登れなかった尾瀬の至仏山に、ワンゲル同期3名でリベンジ登山をしてきました。(3日戸倉温泉泊 4日鳩待峠からピストン)この山は、中級者向けの割合易しい山ですが、稜線を「蛇紋岩」が続き、滑りやすく結構苦労しました。(前日も3名大けがをしたそうです。)

山頂からは尾瀬ヶ原が一望でき、紅葉には少々早かったですが、上の方は真っ赤に紅葉した木々もありました。高い山に登るのは、せいぜい後1年ぐらい?・・・体力の衰えを痛感する1日でもありました。

ヌーヴェルヴァーグ概説 2 (普通部OB 舩津於菟彦)

先に書いた、ヌーヴェルヴァーグというジャンルに入るエーガのいくつかを紹介しておく。

①勝手にしやがれ
ヌーベルバーグの記念碑的作品であり、フランソワ・トリュフォーが原案、クロード・シャブロルが監修、ジャン=リュック・ゴダールが監督・脚本を務めた。ゴダールにとっては初の長編映画である。
ハンフリー・ボガートを崇めるミシェルは、マルセイユで自動車を盗み、追ってきた警察官を射殺する。パリに着いたものの文無しで警察からも追われているミシェルは、アメリカ人のガールフレンド、パトリシアと行動を共にする。だが、ミシェルが警察に追われる身であることを知ってしまうパトリシア。パトリシアは、パリで地歩を固めたい駆け出しの記者・ライターであり、ミシェルはどちらかと言うとフランスにいることに執着がない。
やがて一緒に逃げることを断念したパトリシアが警察に通報してしまう。劇中も何度か出てきた「最低」という言葉を最後にミシェルが言う。「君は本当に最低だ」と、かすれ声で言われたその言葉が訊きとれず、パトリシアは「彼はなんて言ったの?」と刑事にたずねると、「あなたは本当に最低だと彼は申していました」と伝えられる。パトリシアは「最低ってなに?」と訊き返す。

ジャン=ポール・ベルモンドはフランス映画に対する強い思いから英語圏の国が製作する映画には出演しなかったことで知られ、ハリウッドから数多くのオファーがあったにもかかわらず辞退していたという
アラン・ドロンとは、キャリア初期から何度も共演するなど親交があり、”永遠のライバル”と呼ばれた。訃報に対しての取材にドロンは「私は砕け散った」「彼は仲間だ。60年前から知り合い、一緒に仕事をして、とても親しかった」と動揺を隠せない様子で語り「私の人生の一部なんだ」と1950年代後半から続いた交流を振り返った
2021年9月6日、フランスのメディアによって、パリの自宅で死去したことが伝えられる。88歳没。

②大人を分かってくれない
フランソワ・トリュフォー監督の最初の長編映画。原題の「Les Quatre Cents Coups」(あえて直訳すれば「400回の殴打、打撃」)は、フランス語の慣用句「faire les quatre cents coups」(「無分別、放埓な生活をおくる」といった意味)に由来する
12歳のアントワーヌ・ドワネルにとって、毎日は苦痛の連続であった。学校では成績も悪く、いたずら好きで先生に叱責される。家では厳しい母親と、稼ぎも少なくうだつの上がらない父親に囲まれた息の詰まる生活。寝袋にくるまって両親のケンカを聞かされる日々。ある日、登校中に親友のルネと出会い、学校へ行くのを止める。午後に母親が街中で見知らぬ男と抱き合っているのを見て視線が合う。母は帰宅せず、翌朝、前日の欠席の理由を教師に追及されて「母が死んだのです」と答えるが、欠席を知った両親が現れてウソがばれる。
そんな彼の楽しみは映画を観ることだけだ。しかしある日、尊敬するバルザックの文章を丸写しして提出した作文がばれて叱られ、弁護したルネが停学になる。アントワーヌも家を出て、金持ちのルネの家に隠れ住む。やがて金に困り、ルネと一緒に父の会社のタイプライターを盗む。換金できず、戻しに行った時に守衛に捕まる。父親が警察へ連行する。非行少年として少年審判所へ送られ、護送車の中で初めて涙が出る。母親が判事の鑑別所送りの勧めに応じたため、束縛された毎日を過ごす。母親がようやく面会に来るが「ここが似合いだよ」と冷たい。監視の隙に脱走。野を越え、海へ、海へ。初めて見る海は大きかった。海辺に立ちつくし、ふとこちらを向いたまま動きを止める

パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるなど、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。そのころ、のちに映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長(1951年 – 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会う。以降バザンが死ぬまで親子同然の生活を送る。彼の勧めにより映画評論を著すようになり、『カイエ・デュ・シネマ』を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を多数執筆した。特に、同誌1954年1月号に掲載された「フランス映画のある種の傾向」という文章は厳しい論調だった。

③去年マリエンバートで
『去年マリエンバートで』(きょねんマリエンバートで、L’Année dernière à Marienbad)は、1961年公開のフランス・イタリア合作映画。アラン・ロブ=グリエによる脚本をアラン・レネが監督したモノクロ映画である。1961年、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。日本公開は1964年5月。
脚本のロブ=グリエ自身の言によれば、黒澤明監督の『羅生門』に触発されて作られた作品である。より正確に言うならば、芥川龍之介の『藪の中』を下敷きにした作品群の一つといえる。
ロブ=グリエがこの映画の仕掛けについて語っている。 それによると、黒澤明の『羅生門』がモチーフとなっており、最初に、
• 現在
• Xの回想(Xにとっての主観的事実)
• Aの回想(Aにとっての主観的事実)
• 過去(客観的事実→Mの視点)
の4本の脚本が作られ、それらをバラバラにつなぎ合わせて、最終的な脚本が完成したという。その際に、それぞれの場面が1から4のどの脚本に該当するのかがなるべくわからないように慎重につなぎ合わされ(時間軸の入れ替えも行われている)、最終的に完成した脚本はダイヤグラムシートを伴う、非常に複雑なものになった。わかりにくい映画だったが何か惹かれるものがあったエーガ。

④二十四時間の情事 日本題名が良くないなぁ
Hiroshima mon amour ヒロシマ・モナムール)は、1959年の日本・フランスのドラマ映画。アラン・レネ監督の第1回長編劇映画作品で、脚本はマルグリット・デュラス、出演はエマニュエル・リヴァと岡田英次など。被爆地広島県広島市を舞台に、第二次世界大戦により心に傷をもつ男女が織りなすドラマを描いた作品である。日本での邦題は当初『ヒロシマ、わが愛』とされていたが、公開時に『二十四時間の情事』へ変更された。ただし近年では、日本においても原題のまま『ヒロシマ・モナムール』と紹介される場合もある。アラン・ルネはヒロシマの悲劇のドキュメンタリー映画を作るつもりだったが、実際を観てこの映画になったとか。
来日し、広島へ反戦映画のロケに訪れたフランス人女優が、日本人男性と知り合い、深い仲になる。2人の情事の際の会話が続く冒頭では、広島の原爆被害の惨状を訴える映像シーンが続く。
2人はともに第二次世界大戦で戦争による悲劇的な体験を有していた。日本人男性は米軍の原爆投下によって家族を全て失っており、フランス女性は故郷ヌヴェールでナチスの将校と恋仲だったが、戦後に周囲から糾弾や迫害を受けた過去を持っていた。非常に良いエーガだったと思いますが、題名のせいか日本では余り評判良くなく後年評価された。

日本のヌーヴェルバーグ映画については余白無くまた、大島渚作品は余り評価しないのでタンマ。

アントニオ猪木と糖尿病   (会社時代友人 齋藤博)

編集子)ここのところ有名人の訃報が多い気がするが、プロレス界で人気の高かったアントニオ猪木も残念ながら不帰の客となってしまった。新聞紙上でも触れていた彼の糖尿病のことについて、斎藤さんから紹介された医師ドクターシミズのひとりごと(https://promea2014.com/blog/?p=20194から転載させていただく。
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猪木さんは、かなり若いころから糖尿病だったようです。39歳で、血糖値はなんと590!一度の食事で、ラーメン丼で10杯以上のごはん、焼き肉を2キロ平らげるくらいは当たり前、日本酒の一升瓶のラッパ飲みなども時々、接待の席の食事も残してはいけないと途方もない量を律義に食べ続けた、そうです。それでも、1991年からやっと血糖値を下げる薬を飲み始めたそうです。その後インスリン注射をするようになっています。インスリンを注射しながら食事をとり、血糖値を測る。分厚いステーキよりも、炭水化物のおにぎり1個の方が血糖値が上がりやすいことなど、自己管理のコツも少しずつ分かってきた、そうです。「分厚いステーキよりも、炭水化物のおにぎり1個の方が血糖値が上がりやすいこと」は糖質制限では当たり前のことなのですが、今でもこのことを教えてくれる医師や栄養士は少ないでしょうから、当時は誰も教えてくれなかったのでしょうね。

猪木さんは2019年に国の指定難病にもなっている「心アミロイドーシス」を発病しています。アミロイドーシスはアミロイドという異常なタンパクが様々な臓器に沈着し、その臓器の障害を引き起こす疾患です。アルツハイマー病は脳にアミロイドが沈着します。以前はこのアミロイドの沈着がアルツハイマー病の原因ではないかと言われていましたが、最近そのもととなった論文の捏造が発覚しています。おそらくアミロイドの沈着はどの臓器でも根本原因ではなく結果でしょう。

このアミロイドが沈着する原因は実際には完全にわかっていませんが、私は恐らくインスリンだと考えています。それはインスリンを自己注射している人で「インスリンボール」と言われている、アミロイドが沈着した硬い腫瘤ができることがあるからです。インスリンはアミロイドを形成することがわかっています。

2型糖尿病のすい臓でもアミロイドの沈着が認められる場合があります。アミロイド沈着は欧米人では90%以上の患者にみられますが、アジア人では低く、中国人の糖尿病患者ではほぼ40%、日本人では28%で膵島内占有面積も17.5%と軽度でした。アミロイド沈着はBMI高値で頻度が高く、インスリン抵抗性と関連していると考えられます。

2型糖尿病、アルツハイマー病、パーキンソン病などはアミロイド疾患とも言われています。おそらくインスリン分泌が大きく増加したり、インスリン分解酵素の相対的な不足または何らかの要因で分解酵素の障害が起きているのではないかと思います。いずれにしてもインスリンがアミロイドーシスの原因だと思います。しかし、根本原因はインスリンの過剰分泌をもたらす糖質過剰摂取でしょう。糖尿病になり、インスリンの注射を使用しなければならない場合も、そのインスリンによりアミロイドーシスが起きてしまうこともあると思います。アミロイドーシスも糖質過剰症候群である可能性が高いでしょう。

しっくりこない新聞記事について

最近、新聞記事(編集子宅では読売)を読んでいて何となく疑問というか違和感を感じることがいくつかある。

そのひとつがAI という用語の氾濫である。AI、とはなにか、といえば、日本語では人工知能、という用語があてられるがもともとは英語であるから、英語版のウイキペディアなどを見てみると、the theory and development of computer systems able to perform tasks that normally require human intelligence (通常は人間の知性を必要とする仕事を行うコンピュータシステムの理論と開発)あるいは intelligence demonstrated by machines, as opposed to the natural intelligence displayed by animals and humans(動物あるいは人間がおこなう固有の知的行動を機械が代わって行うこと)と定義される。またほかの文脈では discernability (識別能力)という用語も用いられている。

現代はITの時代であると言うときのIは information であり、その意味は情報、ではあるが知性、inteligence ではない。

コンピュータが企業などの実社会で使われ始めた時代には information のもとになる data という用語が用いられていた。現在ではどこの企業や組織であっても、コンピュータを扱う部署は情報処理課、とかIT部、などと呼ばれるだろうが、60年代まではデータ管理部とか、ズバリ電子計算機課、などという呼称がふつうであった。つまり生のデータを集めてあらかじめ定めた方式によって処理をするという人力作業の効率化高速化することから始まって、システムの高速化・大規模化によってその処理結果を高度化し、単なるデータの集積から人的判断処理の補助へと効果が、データではなく情報と呼べるものになってきた。そのプロセスがさらに高度化され、人間とのインターフェイスも数字や文字の羅列からグラフィック処理やシユミレーションなどが手じかになった結果、information technology ITという現実ができた、というのが現在の情勢だろう。しかしコンピュータのもたらす効果が intelligence というレベルになっているのは、言語処理とか翻訳とか医療行為の一部などといった限られた領域のそのまた一部である。コンピュータシステムの能力・効果はまだ information process というレベルであり、新聞記事に気安くAI によって処理をする、などと書かれていることの大半はまだまだ人間の discernabiility を置換するまでのレベルになっているとは思えないものがほとんどだと思われる。

僻目かもしれないが読者に誤った期待を抱かせないためにも AI という用語の使用にはもっと厳格である必要があるように思うのだがどうだろうか。もっともコンピュータの使用が一般化されはじめた段階でも電子頭脳、などという用語がまかり通っていたものではあるのだが。

僻目、という事でもう一つ、しっくりこないのが皇室に関する記事の書き方である。ただこれは小生が知らないだけで、メディア界にあっては何か統一されたノームがあると思うので、ご存じの方からご教示を期待して書いている。

今皇室の方々の一般の呼称は例えば常陸宮さま、とか、愛子さま、というように誰でもわかる尊称がつく。このことは皇室の方々にのみ使われるのであって、ほかの個人には絶対に使用されない。現在の国民の象徴、という立場からしても納得できる慣行である。小生が違和感を覚えるのはそのあとの書き方だ。せっかく宮様、という尊称を使っているのに、たとえば何かの会合に ”出席した” と書くが ”出席された” という敬語はもちいられない。文意が曲げられることはないが、どうもこの二つが違和感をもたらすのだが、これも昭和人の末席につらなる人間だからだろうか。

(船津)敬語は戦前の使い方からかなりかなり変わり、色々議論が有り、毎日、朝日、などと読売、産経とは多少異なる様ですが原則同じ様ですね。適切かどうかこんな論文も有ります。

 

(菅原)首件のブロッグ拝読。昭和13年生、諸手を挙げて賛成。

1.今の段階のAIってのは、正確には、まだまがい物だから、AIマガイ。  2.最近の記者は、敬語の使い方を全く知らないんじゃないの。それを咎めないデスクもどうしようもない。こうやって日本語が乱れて行くんだ。

(斎藤)そこいらへんで言われているAIと言う言葉は、殆どの場合流行語にすぎないと思っています。中身がどうであれ、AIを使ったと書くのが、かっこよいのでしょう。広告業界とマスゴミの何でもござれパターンだと思います。DXに真剣に取り組んでこそ、きっとAIを使わざるを得なくなるはずです。

実は、コロナ前まで、データマイニング仲間が集まって、手弁当でAI研究会をやっていました。メンバーには、今林広樹と言う天才的知識と能力を持ったAIのリーダーが参加していました。最後に会合を持てたのが2019年の秋だったと思います。それぞれ、独自に動き出して、皆さん活躍しているようです。
今は、データを機械学習させIntelligenceに昇華させるツール群があります。ですから、何百万、何千万、いや、何億と言う現実の事例を読み取ってマイニングして、もうInformationと呼ぶには適当でない思考”回路”がシステム内に構築できてしまう世の中になってしまいました。そんな事があるので、AIと呼んで然るべきもの、すでに実在していますね。何でもかんでもAIと呼んで欲しくないと言うのはGiさんと同じ意見です。

 

 

エーガ愛好会 (171) 追跡  (34 小泉幾多郎)

この「追跡1947」の監督ラオール・ウオルシュは、西部劇からギャング映画、戦争映画といった男性的な骨っぽい秀作が多いが、これは時代感覚が鋭い、所謂サイコウエスタンの先駆的作品で、ニーヴェン・ブッシュの脚本に、大いに助けられてもいる。主演のロバート・ミッチャムが、あの何を考えているのかわからないような個性が、この作品に合致していた。

冒頭ニューメキシコの岩峰がそそり立つ一角を女性一人馬を走らせ辿り着いた場所が、住んでいた形跡のある牧場跡。エイガは此処で始まり、此処で終わる。この地がそもそも主演者ミッチャムが何故追われる身となったのか、何故彼を悩まさせるのか、随所にインサートされる走り回る銀の拍車とブーツの足元のイメージは何故なのか、謎めいた導入部が興味を駆り立てる。

主演ロバート・ミッチャムが若き頃から、その個性を発揮、テレサ・ライトは、流石のアカデミー受賞女優で有名作品出演の貫録を示し、もう一人の主演者ジュディス・アンダースンは「レベッカ」のダンヴァース夫人の如く不穏の空気を醸し出すのに将に適任。名脇役アラン・ヘイルの賭博場のオーナー、やさしい男ハリー・ケリー・jr等々俳優にも恵まれた。スタッフ面も音楽マックス・スイナーが既成曲を効果的に使っていた。一家団欒のシーンで歌われた「ロンドンデリーの歌」、ミッチャムが唄うシーンもある。家族に亀裂が入るようになると危険なメロディで流れる。賭博場で演奏された「ラレドの通り」はジェブが馬上で口ずさんでいた。ジェームズ・ウオン・ハウの撮影も素晴らしい。冒頭から、馬と共に歩くソーの背景に切り立った岩山の高さ。同じく馬上のジェブの遥か彼方の山の手に人影が見えるといった大地の地形が効果的に取り入れられている場面、其処から撃ち合いが始まる等々。復讐と執念の重苦しさの溢れた西部劇だったが、最後ジェブとソーの命がけの戦いの末ハッピーエンドに到達し、気分は悪くない。

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”ラレドの通り” 「TheDyingCowboy」としても知られる「StreetsofLaredo」は、死にゆくレンジャーが別のカウボーイに物語を語る有名なアメリカのカウボーイバラード、アメリカ西部作家連盟のメンバーは、これを史上最高の西洋の歌のトップ100の1つとして選んでいる。

As I walked out in the streets of Laredo
As I walked out in Laredo one day
I spied a young cowboy all wrapped in white linen
Wrapped in white linen as cold as the clay

I see by your outfit that you are a cowboy
These words he did say as I boldly walked by
Come sit down beside me and hear my sad story
I’m shot in the breast and I know I must die

It was once in the saddle I used to go dashing
Once in the saddle I used to go gay
First down to Rosie’s and then to the card house
Got shot in the breast and I’m dying today

Streets Of Laredo
ジョニー・キャッシュ · 1965年
Cowboy’s Lament
バール・アイヴス · 1944年
The Streets of Laredo
ジェームス・リーヴス · 1961年

大リーグ懐旧談

(菅原)70年以上も前の話しですが、拙宅は「朝日新聞」に加え、何故か「日刊スポーツ」を購読していました。「日刊スポーツ」は、結構、米国大リーグの情報を掲載していました。それとは別に、レフティ・オドゥール率いるサンフランシスコ・シールズの訪日(1949年)。これって3Aだったけど、日本は一回も勝てませんでした。確か、6戦やった筈です。そう言えば、巨人の別所もやってましたね。

その「日刊・・・」で覚えているのが、ボブ・フェラー、テッド・ウィリアムス、ラルフ・カイナー、スタン・ミュージアル、ウォーレン・スパーン、ジャッキー・ロビンソン、後にマリリン・モンローの旦那となったジョー・ディマジオ(両親はシチリア島出身の移民だそうです)。他にもいたけど、全く思い出せない。でも、苗字だけでなく名前まで出て来るほど影響されてたわけです。

ボブ・フェラー

(小川) 大昔の話、懐かしいね~。シールズの試合名古屋で観戦しました。あの時飲んだ薬臭いコーラ、コカかペプシかは覚えてないが、日本初上陸だったようでプログラムの全面広告を覚えています。ヤンキーはこんな臭い物を飲んでるのかと思いました。羅列してある当時の米国名選手は小生もよく覚えています。日本では別所も川上も大下も藤村、若林・・・。懐かしい!

(飯田)懐かしい、ミッキー・マントルとロジャー・マリスのポスター写真を見て思い出したのは、数年前にニュー

テッド・ウイリアムズ

ヨークのセントラルパークのジョン・レノンの墓(イマジン・メモリアル)を観に行った時に、ランチの場所を探して付近を歩いていたらミッキー・マントル・カフェが見つかりランチをしました。あまりの偶然見つけた店だったので、嬉しくなり店にお願いしてメニューを貰って帰り自宅の小さなバー・キャビネトの上に飾っています。

福留孝介が引退しました。ジャイアンツ・ファンの圧倒的に多い「エーガ愛好会」ですから関係ない話ですが彼がシカゴ・カブスで活躍していた年にシカゴでシカゴ・カブスVSシンシナティ・レッツの試合を観戦しました。カブスの球場はチューインガムで日本でも戦後有名だったリグレー社が所有しているとても歴史的な球場で雰囲気のある球場です。福留は中日ドラゴンズに入団しましたが、PL学園から巨人に行きたかったのに中日ドラゴンズに入団したかと記憶してますが。

ジョー・ディマジオ

(安田)> カブスは「ヤギの呪い」から108年振りに解かれて優勝して一安心したのか、> 鈴木誠也が入団してもチームの沈滞から脱せませんね。ダルビッシュも3年間在> 籍して貢献しましたが駄目でした。同じ地区ではカージナルスが強いので勝ち抜> くのは大変です。サミー・ソーサ全盛期もカブスは優勝できなかったですね。> ドーピング・トリオのソーサ、マクガイア、ボンズは何故か全員ナショナル・> リーグ所属でした。特別な理由でもあったのでしょうか?

(保屋野)先日、大リーグのレジェンド達が話題になりましたね。遅ればせながら一言。ボブ・フェラー、テッド・ウイリアムス、スタン・ミュージアル、ジョー・ディマジオ等々懐かしい名前がありました。

記録からは、ホームラン762本の「バリー・ボンズ」とヒット4256本の「ピート・ローズ」が真っ先に名前が挙がるべきなのでしょうが・・方や「筋肉増強剤」方や「野球賭博~永久追放」で、とりあえずは対象外。では誰か・・戦後に限って言えば・・・・

スラッガーは「ハンク・アーロン」(ホームラン755本、ヒット3771本))次点「ウイリー・メイズ」(ホームラン660本、ヒット3283本)リードオフマンは「リッキー・ヘンダーソン」(ヒット3055本、盗塁1406回)次点「イチロー」(ヒット3089本)ではないでしょうか。さて、プーホールズがあと3本でホームラン700本達成です。ヒットも3400本近く打ってます。メイズを超える?。そして、大谷が後10年活躍できれば、総合第一位になるかも、期待しましょう。

まあいろいろご意見はあるでしょうが、この人がやはり一番なのではありますまいか

(編集子)小生目下のコンサーンは桑田がピッチングコーチを首になること、だけであります。読売の最新情報ではどうやらそうなるらしいけど。本日現在わがG はCS進出ならず。昨晩の一戦、8回の無死満塁をなんと三者三振できりぬけた若武者大勢の奮闘むなしく、最後は実に岡本の3ゴロでダブルプレーとは、まさに今年のGの実力そのものでしたな。かの歴史に残る9回裏、江藤のグランドスラムで同点とし、二岡の右翼スタンドへの逆転ホーマー、ああいうドラマがあるものと信じていたのでありますが。

22年9月 月いち高尾報告  (47 関谷誠)

真夏の間、KWV三田会夏合宿と猛暑・熱中症を考慮して中断していた「月いち高尾」を再開しました。コロナ第7波の先が見えはじめ、台風襲来の合間をぬっての爽やかな秋空の下、小仏城山(670.3m)コースと、定番のケーブルカー~高尾山(599.3m)コースに分かれて実施。

メインの城山コースは、この夏の猛暑の名残とその締めを付けるべく、「城山茶屋」名物のかき氷を堪能することをうたい文句とした。平均年齢76歳の老健脚10名が参加(S36吉牟田、S37菅谷、S40武鑓、S43猪俣、S45安田、S46村上、S48佐藤充、S51斎藤、羽田野、S47関谷)。

10:30 日影バス停から行動開始。トップ関谷が小仏城山北東尾根の日影林道からのアプローチ口を見過ごし、キャンプ場まで行ってしまい、数百メータをバックするも、林道から登山道への適当な渡渉点が、水量が多かったこともあり、見付からず。そんな中、さすが老練な菅谷さん、最適なポイントを探していただいた。数年前、某先輩が渡渉中に岩から滑ってしまった(仮称)H落っこちを無事渡り、木漏れ日差す尾根筋を500m弱登り、小仏城山に約2時間で到着。

目的の一つであった「城山」茶屋のかき氷を堪能して、暑かったこの夏にお別れ。小仏峠経由、小仏バス停14:40発でJR高尾駅に戻り、ケーブル組(S36中司、遠藤、高橋、S38町井、S39蔦谷、S46猪俣、S47平井、伊川)が待つ「テング飯店」での懇親会に合流。

ケーブル組も、秋空の下、遠足の小学生で賑わう高尾山登頂、下りはケーブルと1号路経由に分かれ、初秋の高尾を楽しんだ。マスクを外して、自然の空気を一杯に吸い込み、気心が知れたワンダー仲間との楽しい一日だった。

(48 佐藤)
入会資格の厳しい「月いち高尾」に入れていただきありがとうございました。またジャイさんから入会金支払いの指示もありましたが何とか切り抜けてしまいました。
吉牟田先輩はじめ平均年齢76歳とはとても思えない健脚に感服です。菅谷さんのルートファインディング、恐れ入りました。諸先輩方及び後輩と楽しい山行、懇親会に参加させていただき感謝です。

(43 下村) 写真を拝見、後期高齢者とはいえこれだけ揃うと壮観ですね。皆さんすばらしい笑顔!!
今回は参加できませんでしたが、来月の秋ワンは参加の予定です。

(43 猪俣)素晴らしいお天気のもと、山歩きを楽しみました。
企画、実施ありがとうございました。
城山は初めての経験でした。初心者程度のコースだと思いますが、結構
タフでした。やはり、歳とってきたのかなと感じています。

今日は老人会の体操の集まりのあと、松井田に来ました。明日はゴルフ。
明後日はワインの搾汁で勝沼に歳とったなど弱音を吐いている暇は
ないぞと自分を追い立てています。

次の機会も参加したいと考えています。また、よろしくお願いいたします。

 

今年の夏山記録  (39 三嶋睦夫)

今年の夏山の写真を何枚かお送りしますので、どうぞご覧下さい。天候不順の中で雨にも遭わず、幸運でした。いずれも “人生最後の〇〇山” です。

硫黄の爆裂火口壁
硫黄 赤岩の頭からの 赤岳・阿弥陀岳
一切経山頂からの五色沼。 左は家形山。
吾妻小富士。 一切経より
磐梯山 火口壁。遠くは秋元湖?。 弘法清水より
夕陽に染まる雲と五龍岳。  唐松岳山荘より
御来光
唐松岳と 不帰

残念だったのは、唐松岳山荘で ビールが品切れで無くて・・・・最悪でしたよ(こんなこと初めてです!)。なお唐松岳山荘は@14,000円でした。

いつまで歩けるかは神のみぞ知るの心境ですが、“もう一度行きたいあの山” を目指しています。

ヌーヴェルヴァーグ 概説  (普通部OB 舩津於菟彦)

(編集子)BS劇場で 勝手にしやがれ の放映があり、その登場の背景としていわゆるヌーヴェルヴァーグ映画についての議論が起きた。その定義づけとして博学船津の解説。長文にすぎるので(編集子の判断による)概要をお伝えする。作品の解説については別途エーガ愛好会でご紹介する。           (本文で船津がフランス語を ニューウエーブ Newwave  と気楽に書いているが、愛好会メンバーでは菅井康二と小生には、わが黄金時代のhpの痛恨の敗退を意味することになった大プロジェクトの名前であり、エーガどころでは済まない深い傷?を負わせた単語である。関係ないか)

 

アレは高校大学時代。
ブックバンドの代わりにVANのワイシャツの箱に教科書入れて、小脇に抱えて投稿しました。粋なつもり!面にはサルトル・ポバールの本を。

1950年代とは、冷戦構造の固定した時代として位置づけられる。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになった。都市近郊には郊外住宅が発達した。政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視された。こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつく。また朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍備拡張競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こった。この緊張は政治的な保守化につながった。

ヌーヴェルヴァーグ(フランス語: Nouvelle Vague)は、1950年代末に始まったフランスにおける映画運動。ヌーベルバーグ、ヌーヴェル・ヴァーグとも表記され、「新しい波」(ニュー・ウェーブ)を意味する。
映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの薫陶を受け、同誌で映画批評家として活躍していた若い作家たち(カイエ派もしくは右岸派)およびその作品を指す。具体的には、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェなど。また、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュなど、主にドキュメンタリー(記録映画)を出自とする面々のことを左岸派と呼び、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。

ヌーヴェルヴァーグの最初の作品は、最も狭義の概念、すなわちカイエ派(右岸派)の作家達を前提とするならば、ジャック・リヴェットの35mm短編『王手飛車取り』(1956年)だと言われる。
カイエ派(右岸派)にとって最初の35mm長編作品となったシャブロルの『美しきセルジュ』(1958年)が商業的にも成功したことにより、シャブロルの『いとこ同志』(1959年)、トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959年)、ロメールの『獅子座』(1959年)、リヴェットの『パリはわれらのもの』(1960年)といった今日においてヌーヴェルヴァーグの代表作と言われている作品が製作、公開された。『美しきセルジュ』がジャン・ヴィゴ賞を受賞したのを始め、『いとこ同志』がベルリン映画祭金熊賞(大賞)、『大人は判ってくれない』がカンヌ映画祭監督賞を受賞するなど、ヌーヴェルヴァーグの名を一挙に広めたが、ヌーヴェルヴァーグの評価をより確固たるものにしたのは、アナーキストとアナーキズムを主題としたゴダールの『勝手にしやがれ』(1959年)だった。
即興演出、同時録音、ロケ中心というヌーヴェルヴァーグの作品・作家に共通した手法が用いられると同時にジャンプカットを大々的に取り入れたこの作品は、その革新性によって激しい毀誉褒貶を受け、そのことがゴダールとヌーヴェルヴァーグの名を一層高らしめることに結びついた。

一方、左岸派の活動は、カイエ派(右岸派)よりも早くにスタートしていた。時期的にはアラン・レネが撮った中短編ドキュメンタリー作品である『ゲルニカ』(1950年)や『夜と霧』(1955年))が最も早く、その後、レネは劇映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959年)と『去年マリエンバートで』(1961年)を製作した。カイエ派、左岸派を含めた中で最初の長編劇映画はアニェス・ヴァルダの『ラ・ポワント・クールト』(1956年)だった。ジャック・ドゥミは『ローラ』(1960年)を公開した。これらが商業的な成功も収めたことから、1950年代末をヌーヴェルヴァーグの始まりとすることが多い。

トリュフォーやルイ・マルが過激な論陣を張った1967年のカンヌ映画祭における粉砕事件までを「ヌーヴェルヴァーグの時代」と捉えるのが妥当だと言えよう。この時点までは右岸派や左岸派の面々は多かれ少なかれ個人的な繋がりを持ち続け、運動としてのヌーヴェルヴァーグをかろうじて維持されていたが、この出来事をきっかけとしてゴダールとトリュフォーの反目に代表されるように関係が疎遠になり、蜜月関係と共同作業とを一つの特徴とするヌーヴェルヴァーグは終焉を迎えることとなった。ヌーヴェルヴァーグが興った1950年代から1960年代にかけては、フランスにおいては映画に限らず多くの文化領域で新たな動向が勃興しつつあった。それはサルトルを中心とした実存主義や現象学を一つの発端とするもので、文学におけるヌーヴォー・ロマンや文芸批評におけるヌーヴェル・クリティック、さらには実存主義を批判的に継承した構造主義など多方面に渡った現象であり、ヌーヴェルヴァーグもこれらの影響を様々に受けていると言われる。事実、ヌーヴォーロマンの旗手であったアラン・ロブ=グリエやマルグリット・デュラスは、原作の提供や脚本の執筆のみならず、自ら監督を務めることでヌーヴェルヴァーグに直接的に関与している。

日本におけるヌーヴェルバーグの影響としては、1960年代に松竹が、大島渚、吉田喜重、脚本家の石堂淑朗などによる作品の演出や作風が当時のフランスのヌーヴェルバーグと呼ばれた若手監督に似ていることに着目し、彼らの映画を「松竹ヌーヴェルバーグ」として売り出したことが挙げられる。

炭素文明論 その2      (会社時代友人 齋藤博)

前回は、ケシの果実から、アヘンが作られ、精製されてモルヒネ、そしてヘロインになるという経緯をまとめ、この炭素を骨格に持った物質が、世界に波乱を起こしていく歴史をまとめました。今回は、同じく炭素を骨格に持つ、糖の話です。糖は、実は人間の健康に重大な影響を及ぼす物質なのですが、それを知らずに世界は動いてきました。その歴史をたどってみます。

砂糖の起源は、ニューギニアあたりが原産とされるサトウキビだとされています。紀元前8000年位には、栽培されていたと言われていますが、それがどのように食されていたのかは、よくわかっていません。そのサトウキビがインドに渡って砂糖として生産されたのが、紀元前2000年あたりだそうです。

紀元前334年から始まったギリシャのアレクサンドロス(アレキサンダー)大王の東征部隊が砂糖に出会い、西方に持ち帰ります。砂糖に出会うまで、ローマ帝国では蜂蜜が一般的な甘味料でした。やがて西暦613年頃から100年ほどでイスラム世界がイベリア半島まで急速に拡がり、それと共に砂糖はヨーロッパだけでなくアフリカまで隈なく広まったということです。

イスラム世界では、イブン・スィーナーという哲学者が、砂糖は万能薬だと断言し、医師たちはペストから生理不順に至るまで、砂糖を治療薬として用いたそうです。栄養状態の悪い時代に、高カロリーで至福の甘さの砂糖を服用すれば、元気が出るのは当たり前のことだったと想像できますね。
11世紀のキリスト教世界でも、トマス・アクィナスと言う神学者が、砂糖は薬だと断言し、キリスト教の断食の日に砂糖を食べることへのお墨付きを与え、それが砂糖の普及を支えたと言うことです。

こうして、砂糖の需要が高まってゆくなかで、新大陸が発見され、すぐに新大陸でのサトウキビ栽培がはじまったそうです。16世紀のアメリカには黒人奴隷による製糖所が4、50箇所もできたそうです。ヨーロッパからは武器や繊維製品がアフリカに送られ、その武器で集められた奴隷がアメリカ大陸に送られ、生産された砂糖がヨーロッパに送られる。いわゆる、砂糖・銃・奴隷の三角貿易はこの頃から始まったとされています。

やがて砂糖・紅茶大好きなイギリスでは、砂糖商人が莫大な利益を上げ、蓄えられた富は産業革命の原資となり、イギリスが世界を制する原動力になっていったそうです。テート・ギャラリーは、砂糖商人のヘンリー・テートのコレクションを基礎にしているそうで、砂糖が生む富の凄まじさを今に伝えていると著者は述べています。

砂糖を飽食した者たちは、サトウキビを刈って精製してその重労働に耐えながら砂糖を作った黒人奴隷とは、違った形で苦しめられてゆくのです。それは、糖分の摂りすぎによる糖尿病です。炭素文明論には、糖尿病のことも書かれているのですが、古い事も含まれているので、ここまでにしておきす。