某日、KWV仲間5人で編集子が以前住んでいた多摩市は桜ケ丘の馴染みのバーを楽しむ機会があった。遠いところから人を呼びつけるのは誠に心苦しいのだが, 幹事役を買って出た下村君のおかげで大変楽しい3時間だった。まだコロナ問題が尾を引いているらしく、土曜日の夜だというのに我々がおだを挙げている間、新規の客はだれもこず、結果的には我々が独占した形だった。その間、きっかけは忘れてしまったが下村君から英語教育の話が出て、アルコールのせいもあり議論百出となった。
言い出しっぺの下村君の主張をまとめさせてもらうと、我々が社会人現役だったころからはじまったいわゆるグローバリゼーションの中で、今後日本人が世界を舞台に活躍していくには、第一に結果的に世界共通語になっている英語の力がどうして必要であり、日本人が不得意なことだが、自己主張を積極的にやっていくという姿勢が欠かせない。そのためには、英語教育を強化していくことが欠かせないので、現在はじまった小学校からの英語教育に賛成する、ということであった。
関谷君は幼いころから外国で過ごし、社会人になってからはブラジルでの生活が非常に長かったことから、バイリンガルというよりもトライリンガル、という絶対的な強みを持っている。彼はこの体験をベースに、昨今、長期海外留学を志す若者が少ないとの現実、つまり幾ら情報が簡単にアクセス出来、居ながらにして翻訳・通訳ツール等を駆使して、誰と、何処とでもコミュニケーション出来る世になったとは云っても、生の体験・他民族との直接のやり取りを余り経験したがらない、昨今の若者に危惧を抱いている、という意見を持つ。彼はコミュニケーションが言語だけではない、ということを体験しているからだ。中国での体験が長い林君もおそらく同じようなご意見をお持ちではないかと推察する。
安田君と編集子はサラリーマン生活の大半を外資系会社ですごし、英語世界の中で苦労した経験を共有する。安田君は日本語は単独で語彙を自国語でほぼ言い表せる独立性を持ち、そうでない外来語をそのまま使用する多くの国々(発展途上国が多いが)の言語事情に比べると、もっとも重要と目されている第一外国語の英語普及にはそのこと自体が阻害要因になっている側面もある、という。現実に日本は外国文献の翻訳がずば抜けて進んだため、逆効果として外国語にどうしても苦労しなければならない場がほかの国に比べて圧倒的に少ないのだ、とも指摘する。かたや、ヨーロッパ諸国の言語はそれぞれ異なるが源は基本的にラテン語であり、語彙や言い回しや文法などに近似性というか類似性があり、全く奇異な異なる外国語をゼロから学ぶ必要のある日本人とは違い、幼少の勉強スタート時点からハンディのない状況に置かれている事実もある、と考えている。
同君はさらに続けていう。
アジア域内で日本の英語のマスター順位は下から数えて5本の指に入るだとか、世界では100何位だとかを知るにつけ、もう少し何とかしないといけないのではと思う。日本の伝統的な「沈黙は金」「腹芸」「以心伝心」を重んじる文化土壌も外国語習得には阻害要因になっていたのかも知れない。10数年前、ハーバード大学のビジネス・スクール(MBA)の授業を何回か聴講する機会があったが、そこでは他国籍の生徒(英語を外国語とする国からの生徒も多し)の積極果敢な発言意欲と自己の劣等な英語能力を全く意識せず、自己表現に徹し、言語そのもの能力というよりも、自らの意思と考えを表現しようとする積極性・自主性の価値観と行動規範が日本人とは全く違うと感じた。
編集子が勤務していたヒューレット・パッカードは米国企業の中で早くから米国外でのビジネスに積極的だった。その推進者だった創業者二人は世界的に知られた技術者だったから、その理由は単純明快だった。曰く、地球上どこへ行っても電流は同じ方向に流れる、だからわれわれのビジネスは世界を相手にするのだ、というのだ。別の言い方をすれば、言語や文化に左右されないビジネスなのだ、と言い換えてもいい。しかし1990年代に入ってから、創業者が引退したのちのグローバリゼーション、はすでに世界規模に拠点を持つ大企業になってから遭遇した課題だった。当時の用語でいえば、ワールドワイドエンタプライズ、からグローバルビジネス、への変貌であったのだろう。その中で日本での貢献度はアジアで圧倒的な存在であったからどうしてもアジア各国をリードすべき立場に置かれた。その結果、遭遇した場面はまさに上記した安田君の場合と全く同じだった。ビジネスの結果で言えばダントツのトップでありながら、現場レベルではもうひとつ、という位置に甘んじることがどんどん増えていった。自分自身でも大げさに言えば悔し涙を流しそうな経験は一つや二つではなかった。安田君はさらに言う。
社会をリードする立場にいる人々、海外との交流が必須の人々などの英語能力はもっと先進国に伍していけるよう、何らかの英才教育なり効果的な方法は必要だと思う。インド人の活躍が世界的にみても政界、経済産業界で際立っていて、その原因が、算数・数学に強いこともあるが、イギリスの植民地だった恩恵で英語を母国語のように扱われたことのメリットが大変大きいのは間違いない。
日本人固有の、というか多分に武士道的プライドというか、”沈黙は金” という文化を一日にして変貌させるのは難しいし、果たして変貌させることが必要なのかどうかはわからない。しかし言語、この場合英語の能力をつけることはあくまで方法論の話なので、対応はできるはずだ。小生の経験からエピソードを上げるとすれば、YHP社にあってサービス(修理)部門の責任者であり、のち、アジアパシフィック地域をまとめる立場になり、MASA, と外国人スタッフにも絶対的な信用のあった方は、終戦時には海軍のパイロットだった人で、もちろん英語教育などを受けているはずもなかった。(ま、俺に分かるのはアルファベットだけよ)と豪語しておられたが、その人物、識見、技術にすぐれた先輩だった。こういう例はほかにもたくさんあった。ところが ”グローバリゼーション”という妖怪が動き始めるとカリフォルニアの本社も 日本語のわかる人物 の重要性に気がつき、(日本人でアメリカで学んだ人間ならいいはずだ)と考えてのだろうが、米国大学に留学したり、MBAの資格を持った人もいたが、そういう人たちを送ってくるようになった。もちろん日本語は完璧な人たちが何人来たか、記憶にもないが、期待通りの成果を上げた例はひとり(MBAとは縁のない現場のベテランだった)をのぞいて全くなかったと断言できる。
このことをさかのぼって議論すれば、下村君が指摘したように、外国人と言語だけでなくもっと深い話ができる、レベルの人材が必要になる、という事になるのだろう。このことについてもう少し考えてみたい。