雲南省への旅     (44 安田耕太郎)


中国雲南省麗江・玉龍雪山訪問記です(2017年11月11日~17日)。S44同期仲間総勢5人で行きました。齢70歳を超えるワンダラーには4500mまでロープウェイで上がれるという老齢者には打ってつけの山岳観光コースでした。

中国雲南省のビルマ・チベットに近く、氷河を持つ山としては北半球で最南端に位置する玉龍雪山。南北35キロ東西13キロに及ぶ巨大な山塊。ヒマラヤの最東端に位置する。麗江は中国南部・ラオス・ミャンマーから四川省・チベットを結ぶ茶葉街道の要衝、少数民族 納西(ナシ)族  30万人の都。玉龍雪山は納西族にとって聖なる山。標高5,596m、未踏峰。ユネスコ自然世界遺産、麗江もユネスコ世界遺産の美しい古都。

麗江はの省都 昆明から飛行機で一時間500キロ西北に位置し、標高2,450m(立山室堂と同じ)、北北西へ仰ぎ見る山頂まで水平直線距離15キロ(東京駅から羽田空港までと等距離)、標高差3,100余m。因みに富士山は山梨県富士吉田市(標高700m~900m)から直線水平距離15Km。ちょうど、標高差と距離は富士吉田市から仰ぎ見る富士山と同じ位です(3000m強、15Km)。今や麗江は人口100万を超える大都市。高いビルは無く旧市街を取り巻いて新市街が整然と緑溢れる景観の調和を保っている。これ程高い山が大都市の至近に聳えるのは、1969年に訪れたボリビアの首都ラパス(標高3600m)から指呼の距離にある、イリマニ山(6439m)以外知りません。ラパス市からは標高差2,800m。

麗江 玉龍雪山は歴史 文化 大自然の異なる魅力が混合した、中国でも超最高級の国立公園に指定されている一級のトラベル地でした。登山口は山塊の東側、麗江から25キロ、標高約3,000m地点。山塊の北東に清流の谷 「藍月谷」、大規模な上高地の類あり。標高2,800m~2,500m、山頂まで谷からの標高差 約3,000m。チベットに近くヤクも生息。到達最高地点4,680mへは3,300m地点からロープウェイで4,500mまで上り、そこからは徒歩で標高差約200m登った地点(空気が薄く携帯酸素ボンベ持参)。スケールはアルプスを裕に凌駕してヒマラヤの雰囲気に近い。景観的に四姑娘山とミニ九寨溝と歴史文化古都を混ぜ合わせた大変魅力に富む山岳歴史文化の旅でした。乾季で毎日快晴に恵まれたのも幸運でした。東京からは上海、昆明、麗江と飛行機を乗り継ぎます。写真には猛々しくも美しい山岳景観のみならず、イナゴ・蜂・さなぎの中国色濃い揚げ料理、昆明近くの世界遺産Stone Forest(石林)、麗江の旧市街の写真を紹介します。

 

 

針ノ木―種池を歩いてきた (40 河合国尚)

毎日眺めた立山連峰

L. 藤井 参加者 下井、武鑓、河合  計4名、8/20(月)スーパーあずさ19号にて新宿発、現地泊。

8/21 (火)

登山口6:50⇒8:30大沢小屋⇒14:05針ノ木小屋

実働時間:5:15 標高差:2536-1433=1103㍍ 歩程:5㌔

扇沢バスターミナルに向かって左側にある関電通路の左側の登山口に届けを出して出発。針ノ木自然歩道の樹林帯の中を歩く。途中4回も舗装道路を横切る。また沢も3本渡る緩やかな道で大沢小屋までは順調だった。途中、雨がぱらついたが、すぐに止んだ。しばらく行くと大きな沢に出て、簡易な橋を渡り右岸を登り、沢の中や高巻き道を行く。ノド部の手前で初めて雪渓を約20㍍横切って左岸に渡り、いきなり岩場になった所を3箇所の簡単な鎖の助けを借りてノド高巻きルートを行く。このあたりの雪渓はスノーブリッジが崩壊し、真ん中が崩れ落ちており、迫力のある眺めになっている。この通過には少し時間を要したが、雪渓の上部へ出た。

針ノ木雪渓を行く

このあたりから雪渓にはいつもの霧が出て峠が見えない。2つの沢を越え、再び右岸に渡る。マヤクボ沢を右手に見て、レンゲ沢を越えると傾斜が急になり、ザレた登山道をジグザグに登ると雲が取れ、峠と小屋が見えた。30~40分で短い休憩を取りながら、バテバテ状態でやっとの思いで小屋に到着した。ビールで乾杯しながら、赤牛や水晶を見た。槍は夕食後に姿を見せた。

8/22(水)

針ノ木小屋6:10⇒7:40針ノ木岳8:00⇒9:30スバリ岳⇒12:40赤沢岳(昼食)13:00⇒14:50鳴沢岳⇒16:10新越山荘

実働時間:7:20 コースタイム:5:10 標高差:上285㍍ 

針ノ木岳⇒スバリ岳 歩程:900㍍、標高差:下155㍍、上:86㍍、

下りと上りに岩がゴロゴロして足場が悪く、慎重にならざるをえない。途中、小スベリというコブを通過したこともあったが、ここもまずまず。

スバリ岳⇒赤沢岳 歩程:1.5㌔、標高差:下292㍍ 上:218㍍

ここからが問題でコースタイムの倍もかかっている。距離があり、標高差も上下でそれぞれ200㍍以上、通過に2時間はかかりそうな上、赤沢岳の手前で岩を攀じ登る所があり、時間を要す。ピーク手前で小休止。堪えることが苦しくなりすぐ楽になりたがる。そろそろ山から卒業する時が近くなった実感を持った。

赤沢岳⇒鳴沢岳 歩程:1.3㌔、標高差:下132㍍、上95㍍

1:00のところ+0:50分。ここも倍近くかかっている。存外、距離があり、昼を過ぎ、バテがきていた上、ピークからすぐだと判断して小休止したら、地形を読み間違い、ピークまでにもう一本、小休止を入れてしまい時間がかかった。

鳴沢岳⇒新越山荘 歩程:1㌔、標高差:下176㍍

今日は絶好の天気、風もなく、気温も18℃前後で汗も多くはかかず、一日中、裏裏の山、特に立山、剣はすぐそこに寄り添って、大きく見えていた。こんな天候は経験がないと言っても良く、夏だというのに澄んでいたのも幸運だった。針ノ木への最初の上りはいきなりの急登で目覚めていない体にはきつかった。途中から山の右側を巻くようにのぼり、最後は尾根に取り付き、山頂にでた。ここからの眺めは富士山、八ケ岳、南ア、妙高、浅間、北信5岳、槍、穂高、表銀、水晶、黒部五郎。東側に薬師、立山三山、大日、剣。北には爺、鹿島槍、五竜、唐松、白馬三山、朝日、雪倉から日本海と360度の眺望が楽しめた。

このあたりの花はもう終わっていた。針ノ木からの下りは急な岩場の下りだが、慎重に下りれば道は良く整備されている。小さなアップダウンがあったり、ガレている所を通過したり、変化のあるルートになっている。スバリへはジグザグの道を少しやれば着く。ここからの下りを過ぎれば尾根の少し西側に道がついており、安曇野側からの風もまともに当たらないが、時々、尾根の上に出ると安曇野側が鋭角に切れ落ちているところがあり、風が強いと嫌な所が何箇所かあった。

小屋に着いてからビールで乾杯(2人しか飲まない)したが、銘柄を特定しているのに違う銘柄につい手を出してしまいう。会社への忠誠心はどこへ行った?遅くの到着で5時の夕食が早かった。小屋は針ノ木も一緒だが、水に苦労しており有料で、歯を磨くのは省略、トイレはきれいでいずれもバイオ式。明日は下りるだけ、くつろいで楽しくやっていたら、隣の若者から注意されてしまった。明日から天候が悪くなるためか、小屋は空いており、ゆっくり休むことができた。

8/23(木)

新越山荘5:50⇒7:00岩小屋沢岳⇒9:05種池小屋⇒13:00扇沢⇒(タクシー)⇒13:30信濃大町14:13⇒15:12松本15:19⇒(あずさ24)⇒18:07新宿

実働時間:5:30 コースタイム:5:30 歩程:8.2㌔

今日も晴天、昼から雨予報だったが、ピーカンで扇沢に下りてからタクシーに乗ったあと、通り雨が降っただけだった。

小屋から尾根道を登り、途中から巻道に入り、新越岳を巻き、ゆるやな道を行くと岩小屋沢岳に着く。立山と剣がますます近く、威容が印象的だ。そこからはしばらく下りが続き、ハイマツと樹林帯の中を行く。種池小屋が同じ高さに見えるが、下りはもう少し続く。下がりきってから少し登ると小さな種池に出る。そこからまたひと上りして左の巻道を行くと小屋に飛び出す。小屋から爺がきれいな山容を見せているが、誰も往復しようとは言わなかった。途中、ガレ場があるが、問題なく通過。この柏原新道には「富士見坂」「駅見岬」「水平岬」「ケルン」など道に名前が付けられており、長い道で飽きないように工夫されている。あまりおいしくない昼食を済ませ、タクシーを13時で予約したが、なんと、ぴったりで下り。最終日だけが想定通りで歩けたのはどうしてだろうか?

今回のターゲット、針ノ木岳の雄姿
(中司―河合)
針ノ木は高校三年生のとき、立山のほうから縦走して黒部川へ降り、当時まだあった ”平の渡し” のかごで黒部を越えて針ノ木へ出ました。その後、KWV 2年の10月、新弥と鹿島槍から縦走して降りたのが記憶に残っています。この間の西穂で、北アは終わりにしました。同期の中島(きんちゃん)と行って、小生だけ具合がおかしくなり、登頂はあきらめた、因縁の笠ヶ岳が北の見納めです。
(河合―中司)
今回、平の渡しへの道を見ましたが、もう我々には無理なのでやめました。私はいつもこれで最後かな、と思いながら登っています。ジャイさんに連れていっていただいた八ケ岳で再び、山を歩けるようになり、はや7年が過ぎようとしています。

レッド・リヴァー(Red River) の話  (と円熟期オールドワンダラーズの近影)

Old Wanderers 練習風景

9月2日、赤坂の カントリーハウス で、カントリー好きを集めてやってきたKWV  仲間のバンド ”Wandering 80’s” のライブがあった。バンドマスターは35年卒徳生勇二、ほかに同期の森永正幹、36年の田中新弥、それと ”準”34年卒横山隆雄というメンバーに、客員でその道では名高いピアニストとドラマーを加えての活動はすでに10年を超える。腕がどうかの論評は差し控えるが、いつ参加しても楽しい。今回は場所的な制限でワンゲル関係者は大幅に制限されてしまったが、できることならまた、沢山集まれる機会があればうれしいと思うのだが。

さてその場で、”ゲスト” (てえのもだいぶ身が引けるが) として栗田敦子、後藤三郎に小生が歌わせていただく光栄に浴し、小生は Red Rivr Valley を選んだ。この Red River について、最近面白い経験をしたので紹介をしたい。

数週間前、何の気なしにテレビをつけたら、ジョン・ウエインの代表作とされる ”赤い河” をやっていた。原題は Red River。ウエインの脂の乗り切った時代の非常にすっきりした、これぞ西部劇、というやつで、当時(1948年)、売り出し中のモンゴメリ・クリフトが初めて西部劇に出演したという意味でも知られる映画である。僕も映画館でももちろん見たし、その後何回もテレビで見る機会があったのだが、今回、終わり近くになって、バックに流れるテーマ曲が、僕のもう一つの愛唱歌である My Rifle my pony and me  (これもウエインの代表作といわれる リオ・ブラボーの挿入曲)と同じことに気がついた。そこで終わった後、何もあるまいがダメモト、とおもいながらグーグルに ”Red River, My Rifle and Me” と入れてみたら、なんと!一発でアメリカ人の女性が同じ質問をしていて、その道の専門の人が明確に答えをだしているではないか。この広い世界で同じ経験をした人がいるということもうれしかったが、この解説によると、この2本は主演ジョン・ウエイン、監督ハワード・ホークス、音楽ディミトリ・ティオムキンという共通点があり、1959年に作った ”リオ・ブラボー”にティオムキンが原曲をそのまま使ったのだそうだ。ちくしょうめ。

この時、思い出したのだが、だいぶ前、やはりテレビで、本当に残念ながらタイトルを忘れてしまったのだが、やはり西部劇のラストに近い酒場のシーンで演奏されていたのが Red River Valley だったことを思い出した。そうなると次なる疑問は、”赤い河” の Red River と Red River Valley は同じものか?ということになる。はたまたウイキペディアで調べてみてこういうことが分かった。

1.北アメリカ大陸に Red River という河は2本存在する。うち1本はミネソタ、ノースダコタのあたりから始まり、北上してカナダを流れる。この流域には開拓初期、レッドリバー植民地という地域があった。2本目はテキサス、オクラホマにまたがるミシシッピーの支流である。

2.西部開拓時代、牛肉は主として中部諸州から提供され、テキサス牛(ロングホーンと呼ばれる種類)はまだ流通していなかった。一方、大陸横断鉄道が徐々に伸び、カンサスあたりまで敷設されるようになり、ジェシー・チザムによってテキサス南部からカンサスまでのトレイルが開かれた。この道をたどって、テキサスの牛をカンサスまで運ぶという冒険がはじまった。

3.映画 ”Red River” はこのチザムトレイル開拓史をベースにした物語であり、その脚本のベースになった記録もあるのでこのような話は史実として裏書される(これによって成功者となったチザムを主人公にした単純明快勧善懲悪なウエイン作品が”チザム”(1970年)である)。

うんぬん。

それでは俺の ”Red River Valley” はどうなる? まだ資料は見つからないが、単に作詞者の創造した地名でないとすれば、どうも雰囲気は1本目のほう、つまり初期の英国植民基地のほうが合うような気がする。ジョン・ウエインは僕のごひいき俳優NO.1ではあるけれど、どう見ても come and sit by my side if you love me などとめんどくさいことはしないで、それじゃあばよ、と格好つけて馬を駆っていってしまうだろうという気がするからである。何方か、博識の方のご意見を頂戴したい。

 

新ルートご案内ありがとう!  (34 小泉幾多郎)

堀川義夫様
月いち高尾、バリエーションルートによる小仏城山はお蔭様で、三人長老を含め、無事所期の目標を達成することが出来、ありがとうございました。写真付きの報告書も有難くいただきました。

バリエーションルートも、30分くらいはやや急な登りであとはずっと緩やかな登りという事前ののご託宣でしたが、長老の身には結構堪えました。 このルートの入口、澤を渡渉する場所はわかりずらい筈が、事前歩いていただいた岡沢さんの先導で難なく見つかり、いよいよ木立の中の急登が始まりました。台風19号20号の影響も若干あるのか、蒸し暑い登りには参りましたが、リーダーの言われる
通り、確かに尾根筋に出ると風があったりで、また先頭の岡沢さんのゆったりしたペースに守られ、先ずは標高446mの御料局三角点に到達。ここからは緩やかな登りで,のんびりと登れるものと思っていましたが、確かに緩やかなところもありましたが、そうもいきませんでした。621mのピークに到達したと思ったら、下りでまた登りが 始まるといった具合。しかしちょっとした椅子のある休憩場があり一息。そこからちょっとで日影沢からの広い道に出て、目的の小仏城山に到着。皆一目散にかき氷を注文。あまりの大きさに、平松君の半分をいただく。昼飯のおにぎり2個持参も1個しか食べられなかった。

あとで調べたら登山口日影の標高 243mで城山670.4mだから、標高差427.4m、結構な標高差。僕のコースタイムで 休憩含み2時間20分、休憩除き1時間35分の奮闘でした。 写真城山頂上の2枚ご笑覧下さい。

8月27日    小泉幾多郎

9月高尾山月例報告      (39 堀川義夫)

好もしい森の道。稲荷尾根といいくみあわせになりそうだ

実に4月以来、4か月ぶりに ‘月いち高尾’ を開催。5月は総会とバッティングし、6月、7月ともに天候に恵まれず幹事団としては行いを改めないと高尾の天狗に睨まれ、てこの後も月いち高尾は実施できないのではと懸念してしまいました。5月、6月、7月は3回連続で生藤山を目指しましたが3連敗になりましたので気分を変えて未踏破の日影から小仏城山東尾根コースにチャレンジしました。(昭文社の山と高原の地図では破線で道標のないバリエーションルート、コースタイム登り1時間40分となっています)

 

日 時 2018年8月22日(水)

参加者 平松、小泉、椎名、翠川、後藤(三)、岡沢、三島、堀川、多田、藍原、浅野、伊川、関谷、川名  以上14名  (36遠藤は当日所要のため前日の21日に単独踏破)

 

路は快適に整備されていた

高尾駅北口10時集合。10時12分発のバスで日影バス停下車。日影林道に入って50m位でルート入り口がある。何回も通過しているが意外な登山入り口で気を付けていないと見落としてしまいそうだ。木立の中をゆっくりと登って行く。蒸し暑い! でも尾根筋に出ると結構風があり快適に登る。静かで人に合わない。また、高尾山の知られざるルートを知ることができました。

3人の長老たちも頑張りました。多少時間は

長老英気を養うの図

大目にかかりましたが、熱中症になることもなく1時ころに城山着。待望のかき氷に舌鼓。私は大盛400円に挑戦しましたが、途中で頭が痛く、舌の感覚がマヒするようでした。昼食も済ませ1時40分小仏経由で下山開始。小仏バス停14時55分着。舗装道路に到着出る前に消防署の赤いオートバイが2台登っていき、登山道入り口に数台の救急車や消防車が物々しく待機している。

聞くと上で熱中症らしき人が居て救助要請があったとか?それにしてもすごく大げさに感じましたね・・・!!15時10分のバスで高尾駅北口着。11名参加で久しぶりの天狗へ!ビールが旨い!!!

Satisfaction !!
9月は21日の金曜日の予定です。詳細の企画は9月10日頃にお知らせします。皆様、万障お繰り合わせの上、ご参加ください。
特に、最近オーナーであるナンカナイ会の参加者が少なくなったように思います。奮って、参加してください。

 

 

カール・ブッセのこと      (36 高橋良子)

私がこの  ”山のあなたの” を知ったのは、小学校6年生のときでした。
当時私は新宿に住んでいましたが、家の近くにバラック建ての小さな教会があり毎日曜日、こども学級が開かれていて私も通っていました。そこの牧師さんの家に私より2、3歳年長、大変利発で驚くほど物知りのお嬢さんがいて、私に「山のかなたの空遠く・・・」を教えてくれたのです。私は魔法に掛けられたようになって、この詩を覚えました。こども心にも心地良い感触というか、希望みたいなものを感じたのでしょうね。早速、仲良しともだちと交換し合って いたノートに、この覚えたての詩を綴りました。われながら、なんとスノッブだったことでしょう。

今では、上田敏の名訳も忘れ去られた感があり、私宅にある岩波文庫”ドイツ名詩選” には、残念ながらカール・ブッセの名前はありません。
私の想い出ノートから外せない詩がもう一つあります。ワーズワースの「村のかじや」という詩です。これは姉が購読していたザラザラ紙の「少女クラブ」に、挿絵つきで載っていたものです。この雑誌、長いこと大切にしていたのですが、どうも処分してしまったようで残念です。

ナンカナイ会 夏の集まり

恒例の夏の集まりを8月23日、四谷で開催。今年の参加者は27名、現在の実働人数からいえば70%くらいという驚異的な出席率を記録した。献身的な運営を継続してくれている安東、翠川両兄に感謝。いつも通り、型通りの乾杯からは閉会まで、完全フリーの談笑、哄笑の2時間を楽しく過ごした。

 

山のあなたの空遠く

(この夏、現地で写真を撮るつもりをしていたが天候体調ともに不良だったので次回に挿入することにした)

小淵沢にある山荘の2階から甲斐駒が正面に見える。1ブロックあるいた角から編笠も見えたのだが、間にある樹が生い茂って見えなくなってしまった。出来た当初には2階から自分で降りてこられなかった孫娘が大学へ行くだけの時間が経過したことを改めて感じる。車で5分ほど降りると素晴らしい展望の開ける場所があって、鋸、甲斐駒、鳳凰、北岳,御坂から富士山、振り向けば南八つ北部の主峰群まで見通すことができる。自分で歩いたことのある山山を前にして、いろいろな思い出だの、友達のことなどがよみがえってくるのは誰でも同じだろう。

だが、正面に見える茅が岳火山群から目を転じて金峰の方を見たときだけ、一種違った情念がわく。決まって、”山のあなたの空遠く” という有名な詩が思い出されるのだ。金峰の山頂はたしか3回踏んでいるはずだが、ここに限って,ワンデルングの思い出などは置き去りにしてこの文句が浮かんでくるのは自分でも不思議で仕方がない。目の前の鳳凰や茅があまりに近いのに、金峰ははるかに遠く、そこにつながっていく大きな傾斜がいつでも一種薄紫のような色合いで見えるからかもしれないが、目の前の山々が(現実には無理になっているとはいえ)なお、”登る”という行為につながるのに、金峰へつながる地形は ”旅をする” というある種のロマンとでもいうか、そういう感情を引き起こすようだ。

”山のあなたに” というあまりにも有名な詩をどこでいつ覚えたのか記憶にないし、情けないことに作者の名前も明確には知らなかった。旧制高校に在学した兄たちの年代の人はある種の常識というか教養としてドイツロマン派や英国詩人の事などに詳しかったから、僕と大違いの堅物だった兄の影響だったのだろう。3年の時、”ふみあと”の八甲田合宿特集号の巻頭文に詩とも何ともつかないものを書かせてもらった。その後、たしか三国山荘でだったと思うが、皆から敬愛されていたダンちゃんこと山戸先輩がこれをみて ”なんだかカール・ブッセみたいな事を書くやつがいるな” と言われた。その時には ”俺が書きました” とはとても言えず、笑ってごまかしたのだが、このドイツ詩人の名前だけは憶えていた。山戸さんは考えてみたら兄とたぶん同じように旧制高校時代の教養をお持ちだったのだと懐かしく思い出される。

金峰を見て何度かこの詩を思い出し、グーグルで調べてみて、初めて作者がブッセだったことを知り、またこの訳詩が高校の国語の時間に出て来た〝海潮音”上田敏のものと初めて知った。悪のりついでに原文を調べてみて、それがわずか37語の短いものだったのに驚いた。3年ほど前、認知症予防には語学が第一、とホームドクタにいわれたこともあってドイツ語の勉強を始めた僕でも、この原文の中に知らない単語はふたつしかなかった。ドイツ語が幅を利かせていたという旧制高校の学生には覚えやすかったに違いない。

この二つの単語の中の verweinten 、辞書で引くと ”泣きはらした” となっている。直訳すれば ”泣きはらした目とともに帰って来た”、それが上田訳で ”涙さしぐみかえりきぬ” となる。四行目の ”なお遠く” を僕は 出だしの行と同じだとばかり思っていた。原文を見ると1行めの 〝遠く” が ”weit”  という形容詞1個なのに、この行は2個、つまり ”weit, weit”  と繰り返されていて、これが ”山のあなたの” ”山のあなたになお” との違いである。これが詩人というものか、と改めて感服する。

金峰を眺めたときに沸く情感とこれがどうむすびつくのか、説明すべくもないが、まだこの詩をご存知ない、と方のために上田訳を書いておく。読まれたら、この文体から、僕の ”対金峰心理”の分析をお聞かせいただければありがたい。

 

山のあなたの 空遠く    ”幸い” 住むと 人のいう

噫(ああ)われひとと 尋(と)めゆきて 涙さしぐみ 帰りきぬ

山のあなたに なお遠く   ”幸い” 住むと 人のいう

Uber den Bergen,
weit zu wandern, sagen die Leute,
wohnt das Gluck.
Ach, und ich ging,
im Schwarme der andern,
kam mit verweinten Augen zuruck.
Uber den Bergen,
weit, weit daruben, sagen die Leute
wohnt das Gluck.

 

2018 夏合宿のこと 続編

快晴、北ァの主峰の展望を満喫した1日だった

第9班(L.40河合)は乗鞍岳漫歩、36・37年が二人、主力は40年の騒々しくも愉快なメンツがそろった。例年通り浅海持参の豪華なケーキの差し入れがあったらしい。以下、河合の記録から抜粋。

肩の小屋に続く雪渓

7/22はバスで肩の小屋口まで上がり歩き始めたが、調査行の時より雪渓が少なくなっており、夏道を探すのに苦労はせず順調に進んだ。チングルマ、ヨツバシオガマなど花盛りだったが、それ以上名前がわからないのはいつものこと、あとからくる4班に任せることにしよう。今日は天気が良く、槍、穂高から薬師、笠など北アが近く、八ヶ岳や南アも遠くに望め、素晴らしい眺望であった。

肩の小屋からは渋滞気味の道を行くことになる。安易に3000㍍が楽しめるとあって、ちいさい子を連れた家族、若い人やツアー客など多くの人たちが楽しんでいた。その中で我々のような平均76歳が12人も歩いているのはやはり異色だった。頂上直下の急登の手前の朝日岳を巻いている所で 休憩をとり最後の登りに備えた。御嶽山が雲の合間に堂々とした山容を見せていた。ピークは30人ぐらいが満杯だが、代わる代わる上がってきて、文字通りの大渋滞。ちょっとふらつきを訴える人もいたが、ともかく全員、元気に登頂できた。お参りを済ませ、オレンジを食べたあと、大変おいしいチョコレートケーキが保冷剤付きで出てきて、皆で12等分の仕方で能書きを言い合い、賑やかなメンバーぶりは健在だった。

下りは足場が悪く、渋滞もあったので、少し時間がかかったが、コマクサの群落が道の両側に現れ、可憐できれい。肩の小屋から先は広い道路、不消ケ池がとても神秘的で良かった。予定した「富士見岳」はカットして、畳平に下り予約しておいたレストランで食事を摂ったが、券売り場で手間取ったり、平湯へのバスに並ばなくてはならないなど、時間がなくなってしまい、お花畑の散策は4人だけが行って、早々に引き返した。

かたや、北部の縦走ルートはだいぶ大変だった様子。

新穂高から笠・弓折をあるいた第10班(L.49  泉名)に参加したオスタ(46 石渡)のつぶやき…….

弓折から笠への稜線に雲が湧く…
 

たぶん、昨年、84歳?で、32年卒の伊澤さんが参加されたのが、夏合宿参加者の中で最年長の記録だと思いますが、私は、第1回(大雨で中止。私は家を出る直前に中止の連絡あり)から参加しております。

ずっと続けて参加しているのは、私1人かもしれません。あとどのくらい山へ行かれるかしら?3日目は、1920メートルを一気に下って、ヨレヨレでした….

新穂高にて出発前の集合

逆光の中でハッピーな一同

ハードな縦走組に対して ”信じられないほどの静かな魅力あふれるウオーキングだった” とリーダーが自賛したのが15班の平湯周辺漫歩。主題を ”体力的に不安がある人も安心な、山と平地ワンデルングの結合” としたこのプランは、さすが地元出身 ”信濃のチヤーチル” リーダー小林正衛の綿密な調査と準備の結実だったようだ。

大黒岳登山口にて

パーティは乗鞍大黒岳という人に知られていない展望台での眺望と高山植物を楽しむ(ほかには夫婦1組にしか会わなかったという)静かな山と、ガイドつきで乗鞍岳の知られざるエリア五色が原久手御越滝(くてみこしだき)なる秘境に涼を求めるという企画を組み合わせ、山から下りては(カミオカンデくらいしか知られていない)歴史ある神岡の街の見学など、2班の松本周辺ワンデルングと並んで今回の合宿のプランのなかでもきわだってユニークな企画だった。参加は長老船曳ドクトル夫妻他12名。

久手御越滝に涼をもとめる

前編上梓後、記録、写真をお送りいただいた各位に改めてお礼申し上げる。また次の機会での再会を楽しみに。

 

 

 

2018 夏合宿のこと - 紹介を兼ねて

KWV三田会が再組織されてから、各種の行事が活発化していき、OB会夏合宿、というプランが1999年から始まった(その前年が第一回のはずだったが、雨天のため中止)。プラン地は雲の平、初代のリーダーは40年阿部康徳、参加人数は24人であった。以後、開催地は後立山、剣などなどで、当初は血気盛んな年代が自分たちの基準をあてはめてプランを作っていた傾向が強いが、OB会の高齢化がすすみ、より広い行動パターンが求められ、登山だけでなく史跡や街並みを歩くプランも加わって参加人数は増加してきている。100人を超えたのが2010年の青木鉱泉集中で、この時は鳳凰を中心とした山岳プランに八ヶ岳山麓の平地Wが付け加えられた。2014年の白馬周辺プランから毎回参加は100人を超え、今回は史上最大、139人の参加があった。

参加人数の増加とともに、高齢メンバーの比率は必然的に上がってくる。今回は特にのこの事実に注目して清宮CL(45)から特に安全な行動を呼びかける姿勢が明確にされたが、一方で卒業したての若手の参加があり、祖父祖母の世代から孫の世代まで、スリージェネレーションに及ぶワンダー一家の楽しさ、広さ、深さが実感された。シニアメンバと新世代メンバの写真を紹介しておこう。

第一班、34年卒がリード,最若手は40年の松枝。最下級生としてそれらしくふるまったかどうかは不明。Lは37 猪股。
左から30年の川上、渡辺、高田と28年の水上。涸沢から奥穂へ行ったはずだが報告では判然としなかった。そんなことより、よく来てくれた!

集中地は北アルプス南部の平湯温泉・平湯プリンスホテル(西武系ではない)で施設、対応、食事とも今までで最高の選択だったのではないか。過去多くの場合、夕食・親睦会の席がバイキング方式だったため、どうしても散漫になる傾向があったが、今回は大広間の純日本式宴会方式で、酒席となれば各代のメンバーが席を回って盃を交わし、談論風発、爆笑哄笑あいつぐ和やかな雰囲気の、夕食と切れ目のない楽しい親睦会になったが、考えてみると、わがKWVOB会、また夏合宿の真骨頂はこのことにつきるのではないか、と思ったことだった。

塾には伝統のある運動部が数多くあり、OB会組織も歴史を誇っているが、ワンダーほど縦のつながりが深い部は無い。体育会にいた近しい友人の話によると”勝負”にかかわる部では、どうしてもその年代の結果が後を引き、例えば優勝した代と成績の悪かった代には深いつながりができない。したがって同期の集まりはあっても、代を越えた付き合いというのはできないということだ。

小生が慶応高校時代、野球部がひさしぶりに甲子園に出たことがある。その1回戦で普通部時代、親しかったクラスメートのTが緊張のあまり3つエラーをして敗北してしまった。仲間内ではもちろんため息はあったがそのことが彼との付き合いに響くなどということは全くなかった。しかし彼はOB会で先輩に叱られ、いびられていつの間にかたたまれなくなり、そのまま部を去った。野球だけが人生のような純粋なやつだったが、そのショックのためだろうがいつの間にか僕らの前から姿を消してしまい、いまも消息は不明。このようなことは考えても見ないワンダーの年代を越えた”縦のつながり”は実に貴重なことなのだ。

もちろん新年会をはじめ多くの世代が集まる機会は多いが、終電の心配もせず、その気があれば夜を徹しても語り合い、歌いあえるこの合宿での親睦の機会は、いままで”ワンデルングのご苦労会”と位置付けられていたけれども、このような場そのものが夏合宿、分散ワンデルングはそのイントロと考えることもできよう。そうすることで、高齢化によって尻込みをしがちな年代の人も、BC直行という機会であれば,安心して参加されるのではないだろうか。

始めに紹介した猪股グループはテーマを修業僧の業績に絞ってその足跡を尋ねたが、同じく”平地ワンデルング”の第二班(L.38 岡田)の行動範囲は塩尻から松本平と広範囲にわたっている。略図にあるように、範囲も広いが対象もいろいろで、まさにワンデルングの王道?なのかもしれない。メンバーの写真はホテル前でのスナップ。

昨年、中央アルプスで多くの参加があった高山植物を堪能する旅は乗鞍・位ヶ原で実施、好評であった。今後もこの種のプランは継続されるだろうが、昨年にくらべて好天に恵まれ、いろいろと知識の向上があったものと期待される。このプランの中心である吉田(44)がこれぞ!と推奨したコバイケイソウのアップを載せておこう。メンバーは昨年のプランが縁で高山植物に開眼?した人のリピートもあったし、今後、合宿の編成ではこのような企画が中核になっていくような気がする。分散プランは上記3本のほか12本でうち乗鞍周辺が4本、上高地・焼岳周辺2本、穂高周辺3本、笠ヶ岳と北部縦走が3本、という内容であった。詳細は各班の記録あるいは今後製作されるはずのホームページにゆずり、ここでは参加されなかった人たちのためにいくつかの集合写真を紹介しておく。経年変化?のため即座に人物の特定が難しいこともあるかもしれないのは計算済みである。

ふーん、何を聞いても知ってやがるなあ

コバイケイソウに始まり現在植物博士を自任する吉田の詳細な説明に感嘆しているのが4班。いつもは何かとうるさい36年組も沈黙しているようである。

同じ地域だが中の湯から焼岳へまわった第8班はリーダー小野田(47)の人柄もありまじめに予定を消化したようだ。その歓喜の山頂での集合写真を送ってくれたので紹介しておこう。

焼岳山頂。快晴。仲間。

西穂稜線へ出た7班(L.47伊川)は36年組を除き予定通り独標を制覇。日曜日でもあり人の多さにへきえきした形であった。

西穂丸山の7班メンバー稜線からメンバーを祝福してくれた笠ヶ岳の雄姿をトップにのせておいた。上高地から西穂まで、と欲張った第5班(L.43 猪股)も人込みと暑さでペースが上がらなかったようだ。

槍穂を映す鏡池で、これぞsatisfaction !

第9班(L.43酒井)は新穂高から双六を縦走。西穂組とは合い向かう形で槍・穂高の展望を満喫した。鏡池での集合写真を紹介しておこう。

BC地で愉快な夜を過ごし、月曜日朝現地解散。ミーティングの最後は例年通りのエールと古き友でエンドとなった。毎回注意しているのだが、われわれの歌う ”古き友” が正調ではない、として啓蒙につとめてきた寺田捨巳の努力は依然、実を結んでいない。

最後に話題を一つ。第一回から今回まで、全合宿参加というカネモトかキヌガサかという記録を46年の石渡美知江が保持している。前人未踏、理論上再現不可能の偉業である。おスタ、まだまだ!

平湯プリンスホテルで全員集合写真。

本稿作成に当たっては、いろいろな方にお願いして写真のご提供をいただいた。厚く御礼申し上げる。なお、この後、さらに写真や感想などおよせいただければ、続編を作成したいと思っているので、ご連絡をお待ちする。