朝日新聞記事 参考資料

OB会から案内があったはずだが、今月19日、朝日新聞 bee版に ぐんま県稜線トレイル のことが紹介された。このトレイルには、OB会の有志と当時の現役諸君の努力でつけられた、仲間内の通称 “新道” が県の施設事業の一部として組み込まれている。57年卒、朝日新聞記者の畑川君の名文は誠に見事なものであり、さすが、プロの仕事、という感じがするが、この記事をよりよく理解していただくため、特に若手OBや現役諸君にその背景を紹介しておこうと思い立った。36年同期の文集 ナンカナイ会そのふみあと から、該当部分のファイルを発行にご尽力いただいたH7 田所君から送ってもらったので紹介しておく(今考えるに、畑川君の取材前に提供しておけばもっと良かったのか、と、いまさらの後知恵である。畑川君、ご容赦ありたし)。以下、一部修正、抜粋。

 

  *** 20 避難小屋から新道建設まで ***

三国山荘はその建設から、われわれのKWV生活の基本コンポーネントであった。それは卒業後も心の中にとどまり続けているが、それを強固なものにした一つの要素が、児玉博の悲劇的な事故のあとにご遺族の意思を汲んで建設された避難小屋であったことは間違いないだろう。

その位置から”越路避難小屋”と呼ばれた、コルゲートパイプ製の構造物がどうやって建設されたか、については、ご遺族が刊行された追悼書 ”深く愛でにし彼の山” に、松本行弘が書いているので詳細は繰り返さないが、1962年7月、ナンカナイ会の集まりで児玉家からのご意思が示され、遭難地点に避難小屋をつくることが全員一致で決定された。その後、法師温泉岡村氏のアドバイスや、群馬県、湯沢町などとの話し合いから、縦走路の半ばに位置する毛渡乗越への設置が決定され、建築手段についても群馬県庁の紹介で日本鋼管製のコルゲートパイプを使用することになり、9月16日に第一回の現地調査を実施。23日から現地の整備にかかった。その後、週末を利用しては一片32キロに及ぶ資材を土樽から万太郎乗越まで、現役、OB有志の方々の絶大な協力を得て運び上げるという作業を繰り返し、10月15日にようやく資材を集積。雪の降り始めた10月20日、さらに現役の応援やら、現地宿泊した松本、妹尾ら8人が徹夜に近い作業を行ってめどをつける。11月9日、松本、岩沢、酒井、猪股(清郎、S37卒)のチームがすでに霧氷の張った現地で最後の仕上げを行った。”内部を見ると早慶戦の日には早くも未完成の小屋で難を避けた人が居るらしい。とにかく利用者が既に居た事は喜ばしいことである。”と松本は記している。

この小屋は1963年5月、湯沢町に寄贈されたが、やはり老朽化には勝てず、1996年2月、当時湯沢町観光課施設係長だった高橋貞良氏から、田中透(41年卒)に、一般登山客から再三の要望があり、同町として再建を考えているが予算上難航している。KWVとして支援する意向はないかとの問い合わせがあった。田中は当時OB会理事長だった関谷誠(前出)にはかったが、OB会にはその余裕がなく、妹尾(昌次)らと相談して、広くOBに浄財の寄付を募ることになった。趣意書は各代理事を通じて配布され、その結果、270万を超える資金が集まり1996年6月、妹尾(清次)三田会会長らが湯沢町を訪れて再建資金200万円を贈呈することができた。

湯沢町はこの資金の到着を待って撤去および再建作業を開始、資材をヘリコプタで輸送するなどの手段により9月10日11日の両日にかけて撤去、21日に現在の避難小屋が新潟県によって竣工の運びになった。この小屋には ”この小屋は昭和三十七年五月五日仙の倉山にて遭難した当部OB児玉博の追悼のために同年建設され、更に平成八年湯沢町のご厚意により再建された。山を愛する人々にこの小屋のすべてをおまかせする”  というレリーフがKWVの名前で掲げられた。始めの小屋に掲げた文言にに再建の事実を書き加えたもので、オリジナルのレリーフは三国山荘に保管されている。

さて、浅貝の”小屋”すなわち三国山荘に我々が何回行ったのか、到底把握はできないが、勤め人になり、家族を持つようになっても何かといえば”小屋へ行こう”というのが当たり前になっていた。後述する山行記録に詳しく述べるが、家族も含めて主に夏休みに集まる”合宿”形式だけでも合計で8回実施されている。

その後も不幸にして焼失してしまった初代から現在のものに至るまで、山荘は我々のよりどころとしてあり続けたが、サラリーマン卒業者が増え、そろそろ訪問頻度もさすがに落ちかけた1998年、妹尾(昌次)が音頭取りになって、小屋裏の通称三角尾根の道を整備し、同時に案内板を兼ねたプレートをつけよう、というプログラムが始まった。ムラキとよばれるコブから上はほとんど道らしいものがなく、根気よく藪を切り開いてしっかりした道になった。この作業には若手OBの熱血的な協力があり、道が一応完成した時には、その主力でやってくれた関谷誠の名を冠して 関谷新道 と呼んだものだった。その後、さらにひろくOB各位に呼びかけ、個人名の入ったプレートを1枚4000円で寄贈してもらい、何回かの作業で三国峠ー平標縦走路と尾根の交点から西武ゲレンデの裏まで、三色のプレートを設置した。プレート番号1番は、故児玉博の遭難現場を遠望できる通称三角山ピーク直下につけられた。この作業には、後輩たちの多くが加わり、これをきっかけとして、さらに下記”新道”プランなどを通じて、彼らとの濃密な友情関係ができた。これも、OB会という強固な組織のおかげであることは言うまでもなかろう。

この一連の作業ののち、再び妹尾を中心に田中(新弥)、後藤、翠川、中島、山室ら小屋生活を愛する仲間が集まって始めたのが、通称 ”新道” プランである。これは当初の思惑通り、ナンカナイ会メンバーを中核として、田中透、山中泰彦(1969卒)、関谷誠らを中心とした60年代、70年代からはじまる若手との連携を深め、さらに一部現役諸君との交流を深めることにも役立った。

われわれの”浅貝の山”の中で最もよく登られたのが平標であることはまず間違いないが、もう一つの雄が平標と浅貝部落を挟んで屹立(と言っても小屋からは見えないが)稲包山である。戦前の愛好者には割と知られた存在であるようだが、奥深い藪山であり、特に夏季にはあまり人気がない。三国峠からこの秘峰を経て湯の沢をくだり浅貝に出るルートを作ろう、というのが基本計画であった。当初は浅貝部落の青年会組織も乗り気であったがはやばやと脱落、というか意気込みもしぼんでしまい、結局はKWV有志の単独企画になったものである。2000年5月、ルート調査を開始、11月にとりあえず稲包までのルートが完成。翌年からいよいよ難物の三国峠からの稜線開拓にかかり、10月に三国峠―稲包間が開き、県の承認を得て17本の指導標が建てられた。さらにH15年夏、三国スキー場(現在は閉鎖)を経て湯の沢林道との接続が終わった。OB,現役諸君を糾合して延べ229人を動員、総作業日数は延べ37日に及び、その後もメンテナンスのための通称”新道合宿”などが継続的に実施されてきた。この間に費やされた情熱と執念を中心メンバーのひとり田中透は”われわれの第二の青春だった”と振り返っている。ただ、いずれにせよ、初代山荘工事に加わって、”キジ場の穴の深さを知った” あの時から今日まで、半世紀を超える時間の経過の中で、三国山荘生活への郷愁、感慨、甘酸っぱい記憶はわれわれの個人史の中核にの一つになったようだ。

なお、本件に関しては朗報が伝えられた。2016年6月15日付読売新聞は、”県境登山道100キロ直結へ 18年度までの開通目指す”として、新潟県が長野県との県境の尾根に”ぐんま県境稜線トレイル”の整備を進める、と報じた。詳細は添付資料に詳しいが、この一部にわれわれの”新道”が含まれることは明白であり、その完成が待たれる。長期にわたって地域の山稜を紹介しつづけてきたKWV,OB会にとって、その努力が広く報われる日が近い、というべきであろう。.

この企画が進行中、湯ノ沢へ入るルートにあじさいの群生があるのに注目したグループは、”ここをあじさいの名所にする”意気込みで整地を行い、あじさいの移植に狂奔した。このサブプログラムは”アジサイ班”と呼ばれ、トリビアにこだわるメンバーの性格もあって、人気を博した。常連の一人だった翠川は次のように書いている。

2001年9月に「稲包山周回コース完成」をトンベが高らかにうたい上げ、以降はその整備作業が始まりました。しかし、実は一年経つとあれ程(殆ど刈る前と同じ位の高さまで)熊笹が成長するとは誰も想像していなかったと思います。そして開通以降、毎年の刈り込みが始まったわけです。(開通直後に体調不良で休んでいたチビが数年後に復帰し、新道を歩いて見て、余りに熊笹の成長が早いので「トンベ!お前本当に刈ったのか?」と質した由です。