高尾山へスケッチに行ってきました (36 後藤三郎)

三増峠遠望

天気予報がはずれたので家も近いことから今朝思い立って、単独で高尾山に出か けてみました。10:45分に高尾山口に到着、直ちに6号路(琵琶滝)から自 分のペースで歩きました。5-6組の元気な人に追い越されましたが、
12:05分位頂上に立つことが出来ました。天気は高曇りで丹沢の大山や主峰 (塔が岳)は雲がかかっておりましたがそれなりの眺望は楽しめました。

小学生の遠足グループや外人が目立ちました。昼食を軽くとり3号路を一気に下山して 3:00時に自宅(千歳烏山)に戻ることが出来ました。途中で父の故郷である 神奈川県愛甲郡愛川町にある三増峠(昔の武田と北条が戦った古戦場)が茶店か ら見えたので記念にスケッチを描きました。

(10月18日の経過)

昨日は残念でしたが歯医者と来客の予定を入れてしまっていたので参加できず、晴れた空を見上げて悔しい思いをしてました(中司)。

昨日も中止にしました。5回目の中止です。私が17日朝8時ごろ 八王子の一時間天気予報を見たら 10時から12時は小雨 18時からも雨でしたので 堀川 藍原さんと連絡し中止とし 参加者10人ほどに電話をし了解してもらいました。実際は 天気予報ははずれて 曇り時々晴れでした。 少し早まりすぎたかしれませんが皆にはご勘弁を。後藤さんは 当日雨が降りそうもなかったので ご自分の判断で一人でいったものです。また中川芳子さんは なぜか17日なぜ誰も来ないのかと思いながら 稲荷山コースを一人で歩いた来たそうです(岡沢)。

変更は知っていたのですが…以前は意識しなくても、変更できていたのですが;惚けがきたようで^-^保育園児100人と稲荷山コースを歩き、追い越されることはあっても、休んでいる人以外を追い越すことはなくもみじ台の楓は梢がうっすら初紅葉でした。お陰様で風邪っぽかったのが抜けました(中川)。

 

 

閑人会 四国ワンデルング報告 (44 安田耕太郎)

剣山山頂にて

還暦の年の槍ヶ岳からこれまで12年間、 S44閑人会は毎年夏から秋に山行を実施してきた。今年は9月下旬に四国の大塚国際美術館(6名) 剣山(15名) 石鎚山(18名) 道後温泉懇親会(20名) しまなみ海道サイクリング(11名)を楽しんだ。因みに槍ヶ岳以降行ったプランは有志のみ参加山行を含め、剣岳・立山、白神山地、富士山(2回)、キリマンジャロ、台湾玉山(新高山)、台湾雪山、ボルネオ島キナバル山、雲ノ平、白峰三山、四川省大姑娘山、白馬岳、熊野古道、白山、出羽三山と三田会夏合宿、春・秋W、浅貝詣、個人山行を加えると、結構な数だ。 

安田を含めて6人は一日早く22日、鳴門の大塚国際美術館を観るため徳島へ。世界25ヶ国・190余の美術館が所蔵する西洋絵画1000余点をオリジナルと同じ大きさに複製し展示する陶板名画美術館。
システィーナ礼拝堂

システィーナ礼拝堂(ミケランジェロ)は建物内部も実物大で複製!陶器の板の上に焼き付けるレプリカとはいえ世界の名画が実物サイズで一堂に会する。原画展示とは異なるが、ダ・ヴィンチの同題の2つの異なる作品「岩窟の聖母」はロンドン・ナショナルギャラリー所蔵とルーヴル所蔵が並べられ、ミラノの「最後の晩餐」は修復前と修復後が比較展示されている。

原画と違い色彩の劣化や変化は2000年間はないとのこと。写真撮影OK、触ってもOK! 万歩計の数字は裕に一万を超え、き登山前のいい準備運動にもなった。夕刻には本隊も到着、総勢15人となる。夕食後、徳島が誇る阿波踊りを見学。
24日8時過ぎレンタカー4台で剣山に向かう。2時間走って登山口の見ノ越1420mに到着。10時半 登山開始。と言っても1750m地点までリフトに乗る。 頂上955mまで標高差205m、百名山では筑波山 伊吹山 大台ヶ原と並び、最も登り易い山のひとつである。
石槌山頂にて

25日、西条駅前よりバスにて石鎚山登山口へ。西日本最高峰、富士山 立山 白山 大山 釈迦ヶ岳 大峰山と共に日本七霊山のひとつ。52年前の3月、笹ヶ峰から伊予富士 瓶ヶ森(吉野川源流)経由で頂上を目指したが、春のドカ雪で頂上直下二の鎖で断念。それ以来の雪辱戦。ロープウェイとリフトを乗り継いで、,300mの歩き出し地点・成就社に到着。霊山に相応しい佇まいを感じる。NHK「グレート・トラバース」でも紹介された人気の山、有名な一の鎖、二の鎖、三の鎖辺りは混雑を予想したが、三連休明けの平日で存外空いていてマイペースで登れたのは良かった。

石鎚山遠望

痩せた稜線がおっかない最高峰天狗岳への挑戦を思案するも、霧で視界が悪い上に、時間も遅くなってきて断念する。周囲を露払い・太刀持の峰々に囲まれ、深山幽谷ともいうべき風景に胸を打たれる。下山は登って来たルートの反対側をその日の宿・土小屋まで下る。予定より遅く午後4時頃到着。山中泊ということで期待してなかった風呂に皆 大喜び!前日登った四国のもう一つの日本百名山・剣山が女性的な山容であったのと対照的に、霊山の神秘性を醸し出す石鎚山の男性的な勇姿とその懐を歩けた感慨を胸に早めに床についた。

ピラミッダルな天狗山を望む

翌26日、土小屋(1400m)から松山へ向かうバスの車窓から厳かに天に向かって聳える三角形の天狗岳の威容を堪能して松山道後温泉の宿に入る。

松山道後温泉で2人が加わり集団は20人に膨らんだ。午後は自由行動で、松山城、司馬遼太郎記念館、秋山好古・真之生家、子規記念博物館、道後温泉本館などに各自足を延ばす。夜の坊ちゃんの湯での懇親会では、卒業後50周年を来年に控え、仲間が健康で斯くも楽しく和む宴会が出来る幸せ感に浸った。
 
道後温泉での親睦会

27日(6日目)朝、解散式後、11人はしまなみ海道サイクリングへ、予讃線・今治波止浜駅に向かう。21段〜27段の変速ギア付きロードサイクル自転車とヘルメットを借り、初体験の長距離サイクリング開始に逸る気持ちはツール・ド・フランス! 7つの島を通り尾道まで寄り道しなければ70Kmの道のり。島と島は西瀬戸高速道上の橋で繋がっており、高さが海面から45〜80mあり、たどり着く橋の上の走行は、五臓六腑の垢が全て吐き出される感すらする気持ち良さ!渡る橋の総延長は10Km。瀬戸内海の島内のサイクリング、潮の香りを嗅ぎながら自力走行で風を切る素晴らしさ!初日のハイライトは、世界で類をみない全長4Kmを超える三連吊り橋の来島大橋、中世 瀬戸内海を暴れまわった村上水軍本拠地と水軍記念館見学。自然の要害ともなった流れの速い渦潮の海流を、走行しながら真近に見るのは迫力満点。島と島を結ぶ橋以外は島内の一般道を走るためローカル色豊かな景色と雰囲気を愉しめ、外国人を含む多くのサイクラーが行き交う。しまなみ海道の特長は大部分が自転車専用道路であり、完備された標識が安全な走行を助けてくれることだ。初日は30Km程走り三つ目の島・大三島にある和風宿に投宿。半端ない瀬戸内海の海の幸に仰天した。

28日、天気晴朗にして波穏やかな瀬戸内海、絶好のサイクリング日和。この日は島中央の高いところにある天照大神の兄神を祀る大山祇神社を、汗をかきかき訪れる。島の大きさにしては不釣合いな程に立派な神社であった。途中、好事魔多し、1台がパンクしたが運良くレンタサイクル・ターミナルが近く、自転車の交換が出来て事なきを得た。生口島(いくちじま)は、唯一平坦な道路で海岸べりを快調に走り、島出身の画家平山郁夫の記念美術館を訪れひと息入れた。サイクリング二日目の宿泊地・因島へは5つ目の生口島大橋を渡って辿り着く。午後になっても快晴だった天気予報は翌日100%雨、台風24号の接近を知らせていた。雨中の自転車走行は御免被りたいと、翌日の走行は諦め二日目終了時点で返却することにした。返却場所から10Km以上離れたホテルへは一時間一本のバス、最寄り停留所まで迎えに来てもらい午後4時過ぎ到着。ペンションと言った方が正確な瀟洒な建築家ビル・ヴォーリス設計の広島の建築100選に挙げられる古いが素敵な建物。11人の贅沢な貸切宿泊。合宿の最終7夜目、素敵に美味しい料理を饗され大満足で最後の夜が更ける。夜半窓を叩く大きな雨音に何とはない安心感を胸に眠りに落ちた。因みに泊まったのは著名人も利用する「白滝山荘」。
白滝山荘にて記念撮影
 
29日(最終日、8日目)、天気予報通り雨。しまなみ海道全行程完走は断念せざるを得なかったが、走行距離はアップ・アンド・ダウンありの60Km、海面上50mの天空の橋を走る解放感の醍醐味あり、潮風を受けて爽快感一杯に漕ぐペダル回転数は毎日15,000余!未知なる体験は忘れがたい思い出となった。今治から尾道に至る各地には造船所があり、穏やかな瀬戸内海風景に硬派のアクセントを与えているのも「しまなみ海道」の特徴の一つだ。最終日は雨の中、バスで中国本土へ、新幹線で帰路についた。一日違いで台風襲来、間一髪だった。
 
登山、サイクリング、美術館と松山市街巡りに懇親会と、バラエティーに富むハードとソフトの組み合わせ、皆の和のたまもの!おまけに西日本豪雨の風評被害の影響緩和、旅行需要の喚起のため愛媛・広島両県にまたがり連泊した者に一泊あたり6,000円の補助金を支給する施策の恩恵を受ける幸運にも恵まれた。
あと何回皆で一緒に行けるか?来年の合宿はどこになるのかな?

慶応高校野球部はなぜ強くなったか? (50 YHP 菅井康二) 

(今年の甲子園での慶応高校の活躍は塾関係者にとって素晴らしいニュースだった。本稿の筆者は50年工学部機械工学科卒、YHP(現日本HP)でPC分野のエンジニアとして活躍、同時に長年にわたり高校野球マニアをもって任じている。同君はこのブログの出発時点から技術的サポートを提供してくれている間柄でもある。本稿について質問などある場合は下記まで直接ご連絡を歓迎)。

kohji.sugai@gmail.com   http://facebook.com/kohji.sugai

 

甲子園に翻る塾旗

今年の慶應義塾高校(以下塾高と略します)野球部は10年ぶりに春夏の甲子園に2季連続出場を果たしました。10年前の20089年は春・夏・春3季連続出場し今年の新チームも期待されていたのですが106日の秋季神奈川大会準決勝戦で9回表まで横浜高校を10でリードするもその裏に劇的なサヨナラ2ランホームランを打たれて惜敗しました。

1960年、後に東京六大学初の完全試合を達成した渡辺泰輔投手を擁してベスト8まで勝ち進みましたが、その後長きに渡り甲子園から遠ざかっていた塾高が2005年に選抜甲子園に45年ぶりに出場出来たのは、2003年に導入された推薦入試制度によって入学した才能に優れた生徒たちの活躍のお陰でした。この推薦入試制度での募集人員はトータル40名でスポーツ、文芸、音楽、などで優れた実績をあげ中学校の成績評価が38以上(9教科でオール5だと45になります)の者が出願資格を有するというものでした。塾高の野球部は40名中10名程度の枠があるようです。この推薦入試の第1期生の代のチームが秋季関東大会ベスト8という成績をあげ東京・関東から6校という枠の6番目というギリギリではありましたがいきなり選抜出場校に選ばれたことは多くの野球部関係者を驚かせました。

中越戦、宮尾遊撃手のサヨナラヒット

この制度導入以前は中等部や普通部で軟式野球をやっていた内進生達は当然のように塾高野球部に入部していたのですが「全国から野球エリートが入学してくるようになるとベンチ入りは難しい」と判断した運動能力に優れた一部の生徒がアメフト部に流れました。それだけが原因とは言いきれませんが塾高アメフト部は2005年のクリスマスボウルでは22年ぶりの優勝を果たし日本一に輝くという面白い結果をもたらしました。

横浜高校の前監督の渡辺元智氏や元野球部部長だった小倉清一郎氏は「慶應が本気になって(選手を)集め始めたら手強い相手になる」と危機感を抱いていました。世間的には「慶應(塾高)もついに全国から選手を集めはじめた」と見られているようですが実際にはそう簡単に言い切れるものとは言えません。

この推薦入試制度には大学のAO入試同様、慶應義塾としての矜持が保たれ、そこそこ勉強の出来る野球少年にとってはかなりの高いハードルのようです。横浜、東海大相模、桐蔭学園などのような神奈川の野球強豪校がやっている野球推薦入学制度、所謂「スポーツ推薦」は中学校時代の競技実績に基づき監督や指導者の判断で実質的な内定を出し、後に形式的な面接試験するというものです。塾高では内定は出さないので監督や部長は入学を希望している本人や保護者にどれだけ優秀な実績があっても合格の保証は出来ないので、落ちた場合のことも考えておくようにと念を押しています。実際にかなり優秀な実績を上げた選手でも不合格になった例があり、また当該部活の部長・監督など関係者は推薦入試の合否判定には加われないことになっています(それが原因で数年前に監督が「キャッチャーを6人も取ってくれた!」と嘆息していました)。通常、この種の推薦入試で合格した場合は当該部活に入部する義務が生じますが塾高の場合はそれもなく、従って塾高では大学と同様「スポーツ推薦」という言葉は使っていません。早実にも推薦入試制度がありますが、必要とされる成績が36/45と塾高よりやや低く合否の判定には野球部の監督の意向がかなり強く反映されているそうです。

38/45という内申点をクリアした受験生は面接とその場で与えられた題で少人数でのグループ・ディスカッションを行い、中学生時代の実績(野球の場合はチームが全国大会でベスト8以上のメンバー又は国際大会のメンバーに選抜された選手というレヴェル)と合わせて合否の判定がなされます。

雄叫び挙げてサヨナラホームインする善波捕手

中学時代に野球をやっていたが要求されるレヴェルの実績を上げられなかった受験生の中には陸上競技など他競技での成績との「合わせ技」で合格を勝ち取った生徒もいました。中学時代に野球をやっていた生徒が全国レヴェルの作文コンクールの成績でこの推薦入試に合格したのですが、2005年の選抜大会の初戦ではこの選手がサヨナラヒットを打ったということが私が記憶しているユニークな一例です。

塾高には授業料免除などの特待制度は全くありません。生徒の保護者という立場では大学を含めると7年間の学費、用具代や遠征の費用、さらに地方出身者の場合にはそれに食住の費用(塾高野球部は合宿所や寮は持っていません)なども加わりその負担は半端な金額ではありません。また野球強豪校のようなスポーツ・クラスは設けていないので、学力的な水準ををクリアした野球少年達とはいえ塾高の授業についていくのはかなり大変だそうで、成績も普通の生徒と同じ基準で評価されます(日大三高のスポーツ・クラスなどは教科書も一般のクラスとは違い、授業も中学校の復習程度の内容のようです)。野球部の部長や監督は成績の芳しくない野球部の生徒の保護者には留年するよりは安いので必要に応じて塾に行かせるなり家庭教師をつけてください」と言っています。現在でも塾高では試験成績の平均点が10点満点で6点に近い5点台の点数があれば進級できますが、5点台半ばで進級会議において、レギュラークラスの選手でも留年したり放校になったというケースが実際にありました。

大学入試が無いという大きなアドヴァンテージがあるにしても、塾高というそれなりの制約のある環境において神奈川や全国の強豪校に互する実力を養うということは選手・指導者双方ともかなり大変なことも事実です。

甲子園入場式

山荘のこと    (34 真木弓子)

何時もブログを楽しく拝読させて頂いております。今回は特に「60周年山荘祭」の投稿を懐かしく拝読致しました。
60年前は遥かに昔のように思えたり、つい5、6年位前の事にも思えたりで、
感無量でした。肝心な妹尾さんが天に召されてしまって、言葉はありません。
天国でショッペイと賑やかに飲みながら小屋の話しをしていた事でしょう!

当時から KWV部員として呑気に楽しく山行に参加しておりましたが、山荘建設が決まり、三国トンネルを歩いて浅貝に入り、男性部員が石運びをして戻ると、食当の私達女性陣が 確か?「お汁粉∨お味噌汁」を用意して クタクタにお疲れの方々に 今で云うところの「おもてなし」をした記憶が鮮明に思い出されます。私の記憶では「お汁粉」なのですが、違ったかな~?

後は小屋が無事完成して、地元や先輩の方々がご出席下さって、盛大な完成パーテーが開催されて、全員が大感激!私も涙が出た事を覚えています。
私は化粧け もなく三つ編みで、 矢張り昔々ですね。

(返信)  チンタさん:

暖かいメール、ありがとうございました。
そう,三つ編みでしたよね! いつもかぶっていらした帽子のこととか、椎名さんがからかっておられた ”土手のむこうをチンタが通る….それが何より証拠には……しょっぺが見えたり隠れたり.….” という替え歌を思い出しました。
高齢者の仲間入りしてもいつでも思い出を共有できる仲間がいる、ということの幸せをつくづく感じます。
(写真説明:浅貝夏合宿、前列は妹尾、”三つ編み”チンタ、森田、中列は平松、梅田(田崎)、後列に中司、高林。ほかはその後退部した仲間と思うが名前が思い出せない。平松さんじゃなくて森永さんみたいな気もするのだが)

三国山荘―60年前のことども (35 森田半兵衛)

今回の60周年記念山荘祭、それが現役中心で実施されたことが大変嬉しかった。山荘は現役が管理運営する。そして現役のワンダーフォーゲル活動の中心にあるべきだと今も思っているからである。

60年前、資金(積立金)の不足を補い、山荘建設へ部員が直接参加する意味をこめてワークキャンプを6月に2度、実施した。下級生も参加し、山荘を自分たちの手で作るんだということが、夢のような話が、いよいよ現実になりつつあると感じたことだった。

棟上げ式もすみ、夏休みに入ってすぐ、妹尾さんと二人で山荘の建築現場に入った。屋根は出来上がっていたので2階に2帖ほどの板を張ってもらい、ローソクの灯で一夜を過ごした。結果、少人数での使用には充分であったが、スキー合宿、雪山合宿には炊事場が狭いと判断し、二人合意の上、独断で炊事小屋を作ることにした。追加工事費は40万円、当時のわれわれの感覚では大金であった。工事を担当してもらっていた野中建設の野中さんからは、妹尾さん、森田さん、支払いは卒業してからでいいからと言っていただき、有難く甘えさせてもらったが、この炊事場がスキー合宿、浅貝BHの時、大いに役に立ったのである。

その10月、われわれ三年生が委員会を担当することになり、正月のスキー合宿を三国山荘でやることを決定し、私がリーダーになった。11月末のワークキャンプで山荘内の整備,薪作り,薪挙げ(平標小屋へ)、スキーゲレンデの整備をおこなった。当時、浅貝にはスキーゲレンデというものがなかったのである。いまの別荘地のあたり、まばらに生えていた雑木を伐採し、切り株が出ないように(スキーが引っかからないように)して300mくらいのゲレンデを作った。浅貝合宿の参加希望者は70名で、50名収容の小屋ではきついとは思われたが何とかしようと決心。薪もできたので寺家幸一をリーダーにクリスマスワンデルングと称して入荘、正月合宿のためのボッカを行った。このとき、浅貝には雪に関するデータが何もなかったので、百葉箱を持ち込み少なくとも冬の合宿、3月の浅貝BH(L.畠山有敦、40名参加)の間、2時間おきに気温、湿度、風向、積雪を調べた。このデータはのちに苗場スキー場を開発した西武・国土開発の方が部室まで訪ねてこられ、ぜひ提供してほしいといわれたものであった。

水は山荘の真裏の上水が勢いよく流れていて決して凍結することはなかった。電気がひけていなかったので、ランプを20個くらいつるし、暖房は薪ストーブ、全く静かな世界だった。浅貝の部落もよく訪問した。本陣(唯一、電話があった場所)、弁次さん、タバコ屋などで、各家庭も17号線の開通と電気がくることを楽しみにしていたものである。

あれから60年。浅貝は全く変わった。しかし山荘は現役にしっかり引き継がれているのだということを感じたことであった。

三国山荘―思い出すこと  (36 後藤三郎)

今回久しぶりに三国山荘に赴き60年の時間があっと言う間に過ぎたことや小屋の周辺が立木も含めてすっかり変わったことを改めて実感しました。

考えてみると小屋が建設される前に畠山さんがリーダーで昭和33年4月に雪の深かった三国峠を越えて現在の小屋がある辺りを歩いたのが最初の思い出でした。当時小屋の候補が数か所あり、委員会で最終決定する為の調査行だと畠山さんがおっしゃっていたのが今も思い出されます。今回宿泊した三国荘の女主人が我々と同い年(当時20歳)だったようですが、浅貝本陣の格式が高く当時は我々が宿泊するなどとんでもないと言う感じで、隣接する旅館(高野弁次さんが柏屋旅館と後日名乗った)に泊めて頂き周辺を歩き回った記憶があります。

小屋の工事が始まったのは雪が解けてからで同期の小林章悟君の大活躍を今も鮮明に覚えております。河原から基礎の下にひく石を運び建設費用を節約する為に度々ワークキャンプと称して若手が労働を提供したことが思い出されます。小屋が完成して小学校の体育館でミーテイングを持ったこと、リーダーの今は亡き妹尾さんが”Caro mio ben”と言うイタリア歌曲を原語で歌われたことが驚きでした。”いとしい、私の恋人”と言う名前のこの曲をワンゲルのミーテイングでしかも誰もが恐れられるほど屈強な山男が歌ったのですから・・。その後本人にその話をしたら”俺は覚えていないよ”と言われたのですが・・・。先日数えてみたらチビさん主導の登山道開発のお蔭もありこの60年間でほぼ60回ほど浅貝と小屋に出かけたこと(正確な記憶ではありませんが)で偶然ですが60年間の区切りだったのかもしれません。

最初のスキー合宿で食当を命じられ、後閑の駅前の八百屋さんに飛び込み野菜の調達をしたのが契機となり、以後ワンゲルの部員たちが優しい女主人にお世話になったことも佳き思い出となりました(残念ながら昨年お亡くなりになりました)。

60周年記念山荘祭―雑感

しばらく山荘祭からは遠ざかっていたが、60周年記念ということもあって久しぶりに浅貝へ行ってきた。”祭り”も楽しいが、60年前、建設の現場にいわせた年代の僕らにはやはり ”小屋” そのものに気持ちがむかう。前々日の午後湯沢で一緒になったOB10数人で好天の小屋に到着したとき、何よりも自分にずん、と響いてきたのは、庭に当然のように立っていた杉の巨木と、その前にあった白樺の樹がなくなっていたことだった。

倒壊の可能性と小屋の安全確保のため、やむをえず伐採する、という計画は何度も議論され、残念とは思いつつ了承していたことだが、現場に行って感じた空虚な気持ちは忘れられない。特にあの白樺は、いよいよ卒業という秋、同期で一夜を明かしたプランで、完全に泥酔した小林章悟(山荘代表)が半分泣きながらそのまわりをぐるぐるととめどなく廻って、大声で小屋への想いをつぶやいていた、あの情景がまだ目に浮かぶ。今は病床にあってコミュニケーションに問題のある彼には、むしろ知らせない方がいいのだろうが。

前日から入荘していた妹尾が”今燃えているたき火、その上にあるまるで大鍋みたいなものが、伐採した杉の言ってみれば”輪切り”だ、と教えてくれた。気持ちを押し隠して冗談にしたのか、なんだか自分たち世代の諦観というか、冷厳な時間の経過、ということを言おうとしていたのがわかって、胸にしみた。

時間の経過が燃えていくようだった

章悟の後を引き継いで山荘を担当したのは福永浩介だが、卒業後、OBの立場で山荘運営に携わった加藤清治も”白樺”に愛着をおぼえているひとりのようだ。

高校時代始めた山歩きを本格的に始められるとの希望を抱いてワンダーフォーゲル部に入りましが、入部早々に山小屋建設のワークキャンプが始まり、基礎の砂利を運ぶためにモッコを担いで、湯の沢の河原から雨の中を何度も往復。入部直後で山小屋建設に協力しているという思いはありませんでしたが、夏合宿で三国山に登り稜線から小屋の小さな赤い屋根が見えた時は皆で歓声をあげました。

 ホールの薪ストーブは燃えが悪く、二階まで煙が充満することも度々で小屋から帰ると体全体がイブくさくて弟達に臭いと文句を言われました。便所は水洗でなく汲み取り式でワークキャンプではいつも便所の汲み取りを担当しました。

 小屋が全焼したとき、知らせを受けて39年卒の小祝君と現地に急行しましたが、小屋は跡形もなく焼けおち、コンクリートの基礎だけを残して所々から煙が上がっていました。4年間春夏秋冬何度通ったことだろう、煙くて汚い小屋だったが小屋で過ごした日々を思い、深い喪失感を覚えたのを憶えております。小屋は2代目3代目となりましたが、細い白樺に囲まれた初代の山小屋に一番の愛着を感じております。

山荘と言えば、その裏に続いている通称三角尾根。2年夏の合宿前に実施された ”あの” リーダー養成で雨の中を半分眠りながらキタノイリ沢へ降りた、強烈な経験が忘れらないし、卒業1年目、児玉博が仙の倉で遭難したとき、小屋で待ち合わせていた同期の仲間たちが遺体を引き下ろしたのもこの尾根だった。多くの仲間が引退したあと、妹尾のアイデアでKWVのプレートを付けたときには、出発点の”三角”にその第一番目のプレートに児玉の名前を記した。それ以来、”三角”は同期の仲間にとって一種のシンボル的な存在になった。

国境稜線、三角頂上

児玉と小学校以来の親友の翠川などは浅貝へ行けば必ず三角を往復する。あの稜線の出っ張りから、児玉の最後の場所が遠望できるからではないか、と僕は思っているのだが、それを口に出す勇気はなお持ち合わせていない。

僕自身の三角尾根での自慢は3月春、田中新弥がリーダ―を務めたBHで、スキーを担ぎ上げ、平標頂上から滑り出し、この尾根を降りたことである。まだ今の夏路でさえ満足になかった藪と灌木の中を、滑るというよりスキーをわっぱ代わりにしたようなものだが、KWVに残る記録としては、平標から小屋まで、ともかく全ルート。、スキー滑降した、という意味ではおそらくはじめてだと内心思っているのだが自信はない。

児玉が亡くなった翌々年だったと思うのだが、児玉の遭難現場へお参りに行こうと、荒木床平さんや酒井征蔵さんたちとこの尾根を登り始めたが強烈な暴風雨にあって、その手前で引き返したのも僕には忘れられない記憶である。あれが、結果として ”しょっぺいさん” との最後の山になってしまったからだ。

少し時間が経過して、国境稜線に避難小屋を作ることに携わった。経過はいろいろあったが、いちにち、越路避難小屋の完成に伴う行事に何人かが川古から稜線へ駆けあがることになった。あいにく、台風がやってきて大雨が必然の深い谷に入るという、常識では考えられない行動を与儀なくされたことがあった。幸い同行してくれた佐藤団長のいわばマタギの知恵と技術によって事故に至らず無事帰荘できたが、小屋で待機していた僕ら何人かには戦々恐々の半日であった。この時、フィアンセを連れて小屋へ来て活躍したのが斎藤伸介。雨降って地が固まったのか、ほほえましいカプルができたのもこれまた小屋の徳であろうか。

僕が会社時代、同僚やらスキー仲間を何回か 初代小屋 へ連れて行ったことがあるが、毎回大好評だった。”ジャイさん、このシュラフのへりが偉く硬いけどこれでいいんですか?” ”え? ああすまん、それ、忘年会の時のげろが固まったままなんだ” “ギャー、ケイオーって野蛮なのね!”などといった楽しい時間があった。そのときに同行したスキーの名手であり、何を隠そう小生のblog挑戦を支えていてくれる大師匠、菅井康二君はこう書いてきた。

blogの山荘内部の写真を拝見しましたが私が泊めて頂いた時とは様変わりしており洒落た雰囲気で明らかに違う建物だということが分かりました。

山荘へ行った回数もそれほど多くない僕ですら、こういう思い出はいろいろあるのだから、小屋に足しげく通った仲間たちには、いろんな ”初代” 小屋の記憶は強烈なはずだ。ぜひ思い出を投稿してもらえればありがたい。

 

60周年記念山荘祭

今回新登場した ”絵馬” は好評を博した

60周年記念として挙行された山荘祭について、担当の52年卒桑原君は次のようにまとめてくれた。いずれ正式な報告はOB会ホームページや”ふみあと”に掲載されるだろうが、ここではいくつかのスナップショットを紹介しておきたいと思う。

9月15日(土)~17日(月)の3日間、と三國山荘に於いて、毎年恒例の山荘祭を開催しました。今年は山荘建設60年の記念の年であるので“60周年記念山荘祭”と銘打ち、企画致しました。

参加は、現役60名超、OB・OGも昭和34年卒の先輩から、今年卒業の若手OBまで、世代を超え・繋ぎ60名超の参加で、お陰様で総勢、120名超の“記念 大山荘祭”となりました。
天気は、メインイベントの中日16日(日)は、KWVの思いと情熱が通じ、昼のプラン行動中は、雨も降らず、この季節としては、恵まれた天気でした。昼のワンデルングは、下記4プランで現役OBとも好評であったようです。
 1、旧三国街道散策       2本
  ・三国峠~般若塚~法師温泉
  ・永井宿~般若塚~三国峠~三國山荘
 2、湯ノ沢(旧三国スキー場)~三坂峠~稲包山~三国峠
 3、温泉三昧(猿ヶ京温泉~周辺散策)

夜のイベントは、来賓とし浅貝町内会の師田会長、苗場観光協会の佐藤会長(兼 山荘管理人)をお招きし、大BBQ大会で昼のプランの情報交換、また、現役の夏合宿の報告会等々、交流を図りました。

来年からは、古希に向け、また歴史を積み上げて参ります。皆さまの積極的なご活用が山荘の維持管理に大きく貢献致します。よろしくお願いいたします。

天気は夕食パーティが始まる前まで持ったが、悪化が予想されたので庭にテントを張ったり、現役諸君が頑張ってくれた。特に今回は地面に板を敷き詰めるなどの配慮があり、深夜からの降雨にも十分耐えた。来年も今年と同じくらいの参加人数だとテントがもう一張り、欲しいとろかもしれないが。

例によってキチンは大忙し。初代の設計から基本的構造は同じだが、全般的に衛生的?向上があったように思える。最近では飯盒やストーブ飯などは無縁だし、電気家電品がずらりと並ぶ。

キチンはきれいになったけど、料理人は手をあらってるんだろうな

ただしBBQ前の食事メニューは60年変わらないカレーライス(小生は自分の用意をわすれたこともあり3連続で食べる羽目に陥った)。ただし、荒木床平さんが見るだけで機嫌を悪くした時代とは大違いの味なのは、ルーの進化か女性部員の腕なのかわからないまま。

小屋の中でぐだぐだしてるのも小屋生活の楽しみ、とするのは60年たっても変わらないようだ。現役の中にはPCを持ち出して一見、勉強しているらしいのもいたがOB連は(この時間から飲みだすか、どうか?)という雰囲気である。一時こういう時には必ずギターを持ち出す奴がいたものだが、いまやカントリー・ウエスタンは出番が少ないのかもしれない。

かたやOB, 飲もうか、歩こうか?

一方、山荘祭といえどもワークキャンプを兼ねるのも変わらないようだ。今回伐採した樹の残材処理に、いつも通りストイックに取り組んだのが妹尾。駆り出されたのか、義侠心かはたまた運動不足解消なのか、一部現役の中には(たぶん、しょうがねえなあ、このおじさん!)と思っていたのもいたに違いないが、妹尾の見積もりでは5トン!を超えるという残材処理が進行していた。ワークキャンプに酷使されたチェーンソーの修理など、裏方の地道な活躍も見慣れた光景であった。

いつまでやるんかなあ!
あんだけ使えばキカイだって疲れるよなあ

第二日目は現役OB交歓の場として企画されたワンデルング。中でも健脚元気組を対象にした稲包ー三国峠プランは、いわゆる”新道開発プロジェクト”で開発されたルートの一部がめでたく ”KWV新道” として県の管理下に入ることを受け、そこに建てる指導標を運び上げる、というアルバイトが組み込まれた。桑原君からのメモを再度ひいておこう。

道標は、ご指摘の通り皆さま先輩の強く厚いご支援で完成した“KWV新道”の道標です。記録では、全17本ですが、実際は、20本有ります。記録に有る17本の内、朽ちて倒れてダメージの酷いものから順に、建て替えます。その正に1本目がこの写真です。

小生も新道開発プランの途中でこの20本のうちの1本をほんのわずかの距離を背負った記憶があるが、あれを稜線まで担ぐというのか!というのが正直な反応。

四勇士は現時点OB見習い心得の渡辺、4年座間(担いでいる本人)、中野、3年田辺、の面々

この他のプランはともかくも天候に恵まれて無事完了。夜は恒例のBBQ大会を楽しんだが、後半から空模様悪化、現役諸君恒例のパフォーマンスが始まるころから雨となった。これをきっかけに、ロートル組にはねぐらに引き返したものも多かったが、それぞれ、宿で愉快な夜を過ごしたのは間違いない。

翌朝、小屋前に集合。今年からは時間が大幅に早められ、夕べの残りか、体操がつらかったOBも多かった。最後は現役を代表、3年鈴木君のエールと慶応讃歌で幕を閉じた。この朝の情景を俳人、杉本光祥君(37年)はこう詠んだ。

六十年の小屋の思ひ出秋の夜」

       霧上がり 老若男女 集ふ 朝

楽しい時間を演出してくれたCL以下、関係各位に改めて感謝申し上げる次第である。

ワンダーよ永遠なれ!

武相国境に魔の山あり 四たびKWVの挑戦をはばむと

魔の山の位置
堀川発メールにいわく:
月いち高尾の実施の決定は二日前の午後10時とさせていただいています。
今回の生藤山については二日すなわち昨夜の10時までに中止の場合は連絡することになるわけですが、昨夜の段階で種々の天気予報から21日の生藤山は午前中は雨模様ながら降雨量が2mm(2㎜の降雨量は雨模様ではありますが霧くらいの状況です)午後から快方に向かうと判断し、決行することにしていました。
しかしながら、本日、私は千葉におりましたが2時半以降思っていた以上の降雨があり、これでは、よしんば明日の予想が従来通りであれ、山道は相当歩きにくい状況になるのではと思い、中止することに致しました。
4回目の生藤山行の企画がでしたが、すべて雨のため中止となりました。私の不徳の至りです。しばらくは生藤山への企画はやめます。(頭にきた!!!)
三嶋返信にいわく:
了解で~す。天気に恵まれず かなか行けない山ってありますよね。
4回目 来年までは消灯山。

漢詩ぶらぶら―中秋の月にちなんで (36 坂野純一)

異常に暑かった今年の夏もそろそろ終わり、秋の気配も感じられるこの頃、漢詩では、月、菊、雁、霜、秋風、紅葉、などを材料とするものが多い。中秋の名月にちなんで、月を詠んだいくつかを紹介したい。阿倍仲麻呂は奈良時代の遣唐留学生、養老一年(西暦717年)吉備真備らとともに唐に渡り、玄宗皇帝に仕えた。天平勝宝五年(753年)帰国を許され鑑真和上とともに1月15日明州から帰国の途に就いた。この日はちょうど満月で「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌を詠んだと言われる。これを英国人アーサー・ウエイリー(大英博物館に勤め語学の天才とも言われ「源氏物語」英訳でも知られる)が訳したものをまず紹介する。

Across the field of heaven                           

Casting my gaze I wonder

Whether over the hills of Mikasa also,

That is by Kasuga,

The moon has risen.

盛唐の代表的な山水詩人「王維」に「竹里館」という五言絶句がある。

獨坐幽篁裏  独り幽篁の裏に座し

弾琴復長嘯  弾琴 復た 長嘯

深林人不知  深林 人知らず

名月来相照  名月 来りて相照らす

夏目漱石は「草枕」に東洋詩人の代表的な境地としてこの詩をあげ「汽車、権利、義務、道徳、礼儀で疲れ果てたのち、凡てを忘却してぐっすりねこむような功徳である。」と言った。此のような境地に憧れるのが良いのか、もっと違う道があるのか、考えさせられるようにも思われるのだが。先に紹介した李白にもいくつもの月を読んだ詩がある。

峨眉山月帆輪秋  峨眉山月 半輪の秋

影入平羌江水流  影は平羌 江水に入って流る

夜発清渓向三峡  夜 清渓を発して 三峡に向かう

思君不見下渝州  君を思えども見えず 渝州に下る

此詩を作ったのは李白二十代の半ば。以降長い遍歴の旅が続く。

長安一片月  長安 一片の月

万戸擣衣声  万戸 衣を擣(う)つの声

秋風吹不尽  秋風 吹いて尽きず

総是玉関情  総べて是れ 玉関の情

何日平胡虜  何れの日か 胡虜を平らげて

良人罷遠征  良人 遠征を罷めん

もう一つ、静思夜という詩を挙げておこう

牀前看月光  牀前 月光を看る

疑是池上霜  疑うらくは 是れ地上の霜かと

挙頭望山月  頭を挙げて山月を望み

低頭思故郷  頭を低(た)れて故郷を思う

漢詩の最盛期,詩仙と呼ばれた杜甫にも「月夜」と題する詩がある。

今夜鄜州月  今夜 鄜州の月

閨中只独看  閨中 只独り看ん

遥憐小児女  遥かに憐れむ 小児女の

未解憶長安  未だ長安を憶うを解せざるを

香霧雲鬟湿  香霧 雲鬟(うんかん)湿(うるお)い

清輝玉臂寒  清輝(せいき)玉臂(ぎょくひ)寒からん

何時倚虚幌  何れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り

双照涙痕乾  双び照らされて涙痕(るいこん)乾かん

さて 平安時代の日本文学に最も大きな影響を与えた詩人白居易(楽天)に「八月十五日夜禁中獨直対月憶元九」がある。

銀臺金闕夕沈沈  銀台 金闕 夕べに沈沈たり

獨宿相思在翰林  独り宿して相い思いて翰林に在り

三五夜中新月色  三五夜中 新月の色 

二千里外故人心  二千里外 故人の心

渚宮東面煙波冷  渚宮の東面 煙波冷ややかに

浴殿西頭鐘漏深  浴殿の西頭 鐘漏(しょうろう)深し

猶恐清光不同見  猶(た)だ恐る 清光の同(とも)に見ざるを

江陵卑湿足秋陰  江陵は卑湿にして秋陰足らん

アンダーライン部分(三五夜中新月色 二千里外故人心)は平安朝の文人の心を捉えたようで、紫式部の「源氏物語」にも引用されている。須磨の巻の中で

月いと花やかにさし出でたるに、今夜は十五夜なりけり、と(源氏の君の)おぼし出でて、殿上の御遊び恋しう、所々ながめ給ふらむかし、思いやり給うにつけても、月の顔のみ、まぼられ給う。二千里の外の故人の心」と誦(ずん)じ給える。例の、涙も止められず

なお この句は、藤原公任(きんとう)撰の「和漢朗詠集」にも採られさらに広く知られるようになった。まだまだ数多くの名吟があるが、次の機会に譲る。