ウインストン・チャーチル という映画

映画の詳細より前に、日本人スタッフ(辻一弘氏)が主演者(ゲイリー・オルドマン)の特殊メイクでオスカーを受賞したことが話題になった映画である。そのことはともかく、率直に言って、素晴らしい映画だった。ぜひ、DVDでもユーチューブでもいいが、ご覧いただきたいものである。

世界的危機を救ったという史実に基づいた、いわばセミドキュメンタリと言ってもいい映画では、だいぶ以前、ケヴィン・コスナーが主演して、ケネディ大統領が(当時)ソ連のフルシチョフ首相とわたりあい、核戦争の勃発を防いだ事実を取り上げた 13デイズ と言う大作があった。こちらは米政府内の対立やケネディ兄弟に対する反感、両国スパイの活動からキューバへの先制攻撃にまつわる悲劇、海上封鎖行動の緊張など、いかにもハリウッドらしい大仕掛けなものだったが、本作は1940年5月、本性を現し始めたナチドイツにどう対抗するのか、ドーバー海峡一つ隔てるだけの英国は確実視されるナチの攻撃にどう対応すべきかをめぐる英国議会での混乱が、結局チャーチルの主導によっておさまり挙国体制が出来上がるまで、5月9日から28日までの間の出来事の記録である。

原作はこのほぼ3週間を DARKEST HOUR  というタイトルで書いたニュージーランド生まれのライターのものである(なぜhourと単数なのかがよくわからないが)。この作品は史実の描写というよりもウインストン・チャーチルという偉人というかある意味では奇人の行動とその演説のありようを専門的な見地から描いたものである。したがって映画そのものは徹底的にチャーチル個人とクレメンタイン夫人、何人かの秘書群、などを中心に、政敵チェンバレン、ハリファクスなどとの対決、支援者であった国王とのやりとりなど、全シーンのおそらく90%は室内での撮影になっている。

これを通して感じるのは、前に述べたケネディが徹頭徹尾、冷静かつ論理的な対処をしたのに対し、チャーチルの武器はすべてが情熱と若いころ常軌を逸するほどの読書で鍛えた歴史観であり、それが、政治家や軍人などよりも、そういう教養などを持ち得ない一般大衆の堅固な支持につながったという対照的な歴史の流れである。”大衆の国、開かれた国”というイメージで見がちなアメリカが一部エリートの献身によって救われたのに対し、紳士の国貴族の国英国を支えたのが、一般大衆のチャーチルへの信頼だった、という事実が実に興味ふかい。原作に記載されている、当時の新聞の漫画を載せておこう。下のキャプションには All behind you, Winston と書かれている(いまの日本、”晋三さん、俺っちがついてるぜえ” などということは夢にも起きないだろう。残念だが)。

この原作については稿を改めて書こうと思うが、この時期の英国対ナチ・ドイツという構図はなにか現在の北朝鮮対アメリカ、という状況に似ていないか。残念なことに、ヒトラーの代役はぴったりだが、チャーチル役がどうみても雄弁家でもなければ歴史認識などほとんど持ってなさそうな不動産成金だ、ということが僕らの不運なのかもしれない。

もう一つ加えておくと、チャーチルは英国の絶対的不利を救うため、米国大統領ルーズベルトに参戦を呼びかけるが、選挙公約に縛られている米国は表立って動くことができない。この縛りを解き放ち、米国が晴れて対ナチ戦に参加できることになったただ一つの理由が1941年12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃であった。歴史の転換をもたらした日本政府の決断、これが不運だったのか幸運だったのか、だれにも判断はできないだろうが。

(チャーチルが国王ジョージ6世の信認を得る場面。6世は兄エドワード8世がシンプソン夫人との結婚のため退位したため王位に就いた人物である)

 

展覧会ワンデルングしてます   (34 小泉幾太郎)

平年より22日も早い梅雨明けの暑さの後は、台風一過後は本土を縦断する豪雨やらで、自然との係わりもなく、80過ぎのアサ会の仲間と一部新聞社の無料チケットを利用しての絵画展示会を漫遊している。

4月、横浜美術館の英国テートコレクションよりのNUDE展。ロダンの大理石彫刻接吻をはじめ、19世紀後半のヴィクトリア朝の神話画や歴史画から現代の身体表現まで西洋美術200年にわたる裸体表現は日本の浮世絵の生活風俗の一断面としてのイメージとは異なる理想的裸体画のオンパレード。

5月、東京都美術館でのプーシキン美術館展は17~20世紀フランス近代の風景画の流れを満喫。

6月、国立新美術館のルーヴル美術館肖像画展、古代から19世紀まで肖像の傑作が集結した。エジプトの棺に由来するマスクから始まり、記憶、記念する、権力の誇示、イメージの伝達のための肖像。権力の顔ではナポレオンコーナーがデスマスクを含む5作品が目立った。古代ローマの皇帝から古今の君主像、華麗な女性像から子供の肖像まで幅広い階級の肖像画の変遷を展開してくれた。
西洋美術館でのミケランジェロと理想の身体展、ミケランジェロ初期の傑作、洗礼者ヨハネを8歳祖子供の姿で表した若き洗礼者ヨハネ像と壮年期の傑作、片足に重心を置いて身体のひねりを出すポーズのダヴィテ=アポロ像が呼び物。古代とルネッサンスを比較しての子供と青年、アスリートと戦士といった男性美と理想の身体のオンパレードは貧弱なる身体の劣等感を今更ながら再認識させられてしまった。古代彫刻の傑作ラオコーンと二人の息子が大蛇に取り殺されるラオコーン像のみ撮影可となっていたので撮ってきた。

世界報道写真展2018、ここ2~3年東京都写真美術館ヘ来ているが、毎年のように、戦闘に巻き込まれた市民や廃墟と化す街を捉えた写真が多く、日本の平和の有難味を感じてしまう。

以上、感想というより。絵画展の羅列になってしまったようだ。こういうタウンウオークもあるよ、ということで同期の連中の現状報告を兼ねて。

原尞 ”それまでの明日” を読んだ

原尞の再新作ミステリ “それまでの明日” を読んだ。デビュー作 ”そして夜は甦る“ で独特の文体にひかれて、短編集は除いてこれまで発表された作品は全部読んできた。

原という人はジャズピアニストとしても知る人ぞ知る存在であるようだがよくは知らない。大学では純文学専攻、チャンドラーに傾倒しハードボイルドミステリを書き始めたと紹介されている。本書も是非お勧めしたいので筋を明かすわけにはいかないが、男のストイックな思いを軸に意外性というミステリの黄金律をはずさない、まさにハードボイルド、と呼べる読みごたえは保証する。早川書房版、1800円。 

ハードボイルド文学とは何か、ということはほかのところでも触れた。その一つの要素は作品の文体にあるとされる。専門家によれば、その源流はヘミングウエイにあり、さらにその延長線上にチャンドラーやマクドナルドやそのほかの作品がうんぬんということになるのだが、英文学の専門家でもない素人にわかるわけがない。英語で読んでみてもわからない以上、翻訳を比較することしかないので、同じ ”長いお別れ“ でも清水俊二か村上春樹か、という議論になってしまう。その点、日本人が書いたものなら文体という要素については自分の解釈をすることができる。

原の文体はひとことでいえば生硬である。特に会話の部分はどうも不自然と思われる部分もある。チャンドラーやマクドナルドの原文を苦労しながら読んでみると、チャンドラーの会話部分は多少の古めかしさがあるが、僕らとほぼ同世代のマクドナルドの会話体は、現代風に、生き生きした感じが読み取れると思っているので、なお、原の文体のことが気にかかる。しかしこの固い、ぎこちなさが全編を通して一つの雰囲気を醸し出す。それが僕の気に入っている点でもある。 

この ”ハードボイルドのエレメント“ である”文体”にこだわったのだろうと思われる工夫が、日本でのHBの先駆者とされる北方謙三の、特に初期の代表作に顕著だ。 ”体言止め“ がやたらと出てくるのである。たしかに緊迫感、スピード感は伝わってくるのだが、一方、全体の雰囲気がまとまってこないように感じる。たびたびいうのだが、小生のお気に入り、清水俊二訳 ”長いお別れ“ がもつ雰囲気とは際立って違ってしまう。逆に北方作品に比べてむしろぎこちないともいえる原の文体には、ともかく何か”雰囲気“がある。 ぜひ、一読をお勧めするゆえんでもある。 

もう一つ、僕が原ファンである理由は、主人公沢崎が活躍する場に西新宿のあたりがとても多いことだ。サラリーマン生活の中期にかなり長い時間を西新宿で過ごした僕には、その場所の雰囲気がよくわかるし、(あ、あそこだ)と思うこともときどきある。古手の文人や呑み助の伝説にあふれるゴールデン街とか、歌舞伎町とかいう場所とはまたちがった、ある種のなつかしい疎外感(意味をなさない合成語だとはおもうが)がある地域である。独特の文化を持ち続けている新宿という街の中に取り残された、金持ちでもなくヤクザにもなり得ない、ごく普通の程度の倫理観と生活観をもちあわせる人間がそれとなく群れ集まっている地域だ。その中で語られる犯罪という非日常なできごと、それが原の紡ぐ ”ハードボイルド“ な雰囲気だ。チャンドラーの世界が今ではどちらかといえばセピア色の30-40年代の話であり、マクドナルドの作品の多くが現代アメリカのパワーエリートの暗黒面の話というようにある意味、隔絶した設定なのにくらべて、ごくそこらにあり得る話なのだ。 

沢崎、という探偵のシリーズものだから、常連のサブキャラクタがいる。新宿署の錦織警部や暴力団清和会のやくざ橋爪や相良など、いずれも沢崎とは敵対しつつも共存する、という位置づけである。一方、マーロウを庇護してくれるバーニー・オールズやタガート検事のような人物は出てこないしロマンスめいた存在もない。そのことがもうひとつ、原の作品のもつ、つきはなした雰囲気に関係しているかもしれない。 

本人がそう言っているのか、出版社の販売促進戦略なのか知らないが、原の作品は ”長いお別れ“へのオマージュである、と本の帯にかかれている。そういえば、この作品の前に書かれた ”さらば長き眠り“の途中にこういう文章が出てきたのを思い出した。 

・・・私は“さよなら”という言葉をうまく言えたためしなど一度もないのだった。そんなことを適切なときに言える人間とはどういう人間のことだろう。 

いうまでもなく、これは “長いお別れ” の有名な一節を意識しているにちがいなかろう。 

No way has yet been invented to say good-bye to them

・・・警官にさよならを言う方法はまだ発明されていない (山本楡美子訳)                                                                                                

マーロウはかつての親友と思っていたレノックスが立ち去っていく足音を聞き、堪え切れなくなって呼び戻そうとする自分を抑える。それが ”長いお別れ“ なのだ。沢崎にとっては遠のく足音というようなロマンはなく、ただ、電話が切れる、という物理現象で終わってしまう。それが現代の別れ、なのだろうか。 

俺たちの別れ、はいつ、くるだろうか。

 

谷根千  ー 同期タウンウオーク第三回報告

今回は最近有名になってきた 谷根千 の一部を歩いた。台東区の広報はそのパンフレットで次のように述べている。

谷根千とは台東区 ”谷中”、文京区”根津” ”千駄木” の頭の文字を取った造語です。3つの地域とその界隈に広がる、下町情緒あふれる街並みが残る地域で、特に ”谷中” は ”美しい日本の歴史的風土100選” にも選ばれています。由緒溢れる寺社や名所旧跡、ひとつひとつに名前のついて親しみやすい坂が多いのがこの地域の特徴の一つであると言えるでしょう。

翠川幹夫曰

滝野川区(現北区)西ヶ原で生まれ(と言っても小学校に入学する戦中は長野県に疎開しており、戦後は上中里→駒込と移り住んだので西ヶ原での記憶は殆どない)、会社退職まで駒込に住んでいた者として、この辺りは心の古里であります。奇跡的に空襲を免れ、明治時代からの建物も多く残っていることで、その多くの人達が先祖代々住んでいる奇跡の街なんだと思います。
昼食で蕎麦を食べたお店の前の通り(よみせ通り商店街と言うらしいが)は谷田川と言う西ヶ原を水源として上野の不忍池に流れ込んでいた川の暗渠で、父母達が幼少の明治時代には西ヶ原では子供達が泳いでいた由です。
今回訪れた森鴎外記念館、朝倉彫塑館などの主人公は私などが会社でやっと課長になるかどうかと言う年齢で歴史に残る偉業を既に成し遂げていたと言うことに改めて明治人は若くして立派の人が多かったんだと感じさせられました(NHKのピコちゃんに「ボ~ッと生きてんじゃねえよ」と叱られます)。

堀野達男曰:

上野桜木町で生まれ、寛永寺幼稚園、根岸小・中学から都立白鷗高校に進み勉学に励んだ??私にとって根岸、上野、谷中は守備範囲。 あれから70数年!変わり行く都心の中でも昔の風情を残す谷・根・千はこれから行く機会も減ることで是非参加したかった。根津駅から東大に向かって4~5分の所に住んでいる高齢の姉達が土地・建物を売却して介護付き老人ホームに入居することになった。

不動産業者との売却活動、48年前の相続時に登記漏れした私道の登記で九段下の法務局に日参、来週から売買契約の実行、引っ越しをサポート中。男一人となった今、昔のものは引き取りを「No」と言えず段ボール箱が幾つ来るか戦々恐々!収納場所は無いぞ!岡さんが言っていた年取ってからの引っ越しは大変だぞを只今体験中!それにしても女性は物が多すぎる。そんなに持って行ってホームに収納出来るの?

堀野からはほかにもいろいろアドバイスをもらったが本人は都合つかず不参。当日、千代田線根津駅集合者は 翠川夫妻、岡、吉牟田、山室、栗田、高橋、深谷、高島、中司夫妻。参加予定だった遠藤は親戚にご不幸があり残念ながら欠席、合計11人で根津神社から森鴎外記念館へ出て、三崎(さんさき、と詠むのだそうだ)通りで堀野ご推薦の “菊見せんべい” で懐かしいホンモノのせんべいを購入。結構でした。

このような情緒に関心のない高島がその間に ”11人分席がある!” と、例によって独断専行強硬作戦で確保したそばやで昼飯。これまた、結構。高島も時にはいいことをするんだと一同納得。出てきたところで突然妙齢の美人から声を掛けられ、”外人の方をご案内しているんですが、この方がどうしても皆さんのお写真をとりたいというので、お願いできますか、と。一同仰天するも、ま、国際親善の一助にとカメラに収まる。聞けばオーストラリアの人とか、かの地の週刊誌に ”老人大国日本” なんて記事になるのかもしれない。不思議な体験だった。

それから予定通り谷中銀座(ここで1個30円というメンチカツを栗田が発見、夕食用にとならんだがとても順番がこないとあきらめる一幕あり)、”夕焼けだんだん”を登ってから、”ルノワール” で小憩、ここで山室、栗田、高島は帰宅。その後オヤエ切望の朝倉彫塑館、翠川ご執心の大名時計博物館などを歴訪。このあたりでだれてしまい、予定していた和菓子屋 ”喜久月”は割愛して不忍通りへ下り、千駄木で解散。送歩行距離5.2キロ ほぼ1万歩。この間、不忍通りをのぞくと今様のコンビニスーパーの類の影なし、すべて昭和のころの小規模の店や家ばかり。よかったねえ。

今回の経験から、夏の日にアスファルトの上を歩くのはまっぴらとわかったので、第四回は9月末に予定する。

高橋良子 追曰

昨日は有難うございました。蒸し暑さのせいで少々疲れましたが
散策大いに楽しめましたよ。おせんべ屋さんで手に入れた”浪漫チックマップ”を我が家に戻ってから見てビックリ!
この谷根千の界隈には明治、大正、昭和をとうして子爵、男爵等貴族の屋敷や富豪の邸宅があり作家、画家などの文化人たちも多々居住していたということです。今尚著名人の墓所も沢山あり日本の文化促進に貢献した偉人たちを思い出すところでもありましょう。
余談ですが、この地図で詩人・彫刻家の高村光太郎、智惠子夫妻居住跡を見つけました。千駄木の桜のある広い通りに面し高いアトリエが聳え、二階の窓に赤いカーテンが垂れていて西洋葵の鉢が外に向かって置かれていた、と室生犀星は”我が愛する詩人の伝記”と言う作品の中で書いています。
その頃、1910年前後私は貧窮にあえいていた。田端の百姓家に下宿していた私は毎日の散歩コースにあるそのアトリエを羨望の目でみていた。私はある時期待をもってその家の戸口の呼び鈴を押した。1分30秒ほどして戸口に付いている小窓のカーテンが開き訪問者の風体容貌を見破ってバカにしている目つきの女の顔が現れた。
「たかむらはるすです。いつかえるかわかりません」といい終わると、カーテンをサーと閉めてしまった。それは紛れもなく智惠子夫人だった。
高村光太郎、智惠子夫妻居住跡には訪れなかったので、現在どうなっているか知りませんがこの作品によって当時の風景が見えてきませんか?

守門岳の一日 (40 河合 藍原 武鑓 大平)

 6月1日(金)~2日(土)のワンデルング記録

参加者:L 武鑓、藍原、大平、河合  4名

和泉屋旅館5:30⇒7:00 保久礼登山口7:10⇒7:50  キビタキ避難小屋⇒9:40 大岳10:00⇒10:50 大岳分岐⇒11:20 青雲岳⇒11:40  袴岳(昼食)12:20⇒12:40 青雲岳⇒14:00 大岳⇒16:20  保久礼登山口16:40⇒17:10

おいらこの湯⇒赤城高原⇒20:30荻窪

 行動時間:9:10   休憩:上:5回 下:4回 90+昼食40=2:10

   実働時間:7:00   U3:50 D3:10 

        コースタイム:U3:30 D2:50 

  標高差: 1537-765=772m               歩行距離:9.4km

荻窪13:30に全員集合、車で大湯温泉へ向かい、16時には到着した。お湯はまずまずだったが、食事が今ひとつ、1万円ではあんなものかな。

山行当日は予定より少し早く出て、おいらこの湯をカーナビに入れたら、高齢者施設が出てきて、そこが「おいらこ」と一緒なのかわからず不安の中、出発。国道290号を行き、おいらこの湯が道の左側にでてきて、一安心。そこから県道347号へ入り、一本道を行く。小さな刈谷田川ダムを過ぎると舗装はされているが、狭くなり、相当行ったところでいきなり10台以上が停まっている駐車場に到着した。今日は土曜日だから多いのだろう。

当初計画より、10分遅れで出発したが、いきなり、下調べ通り階段が20分ほど続き、うんざりしたが、そこからは整備されてはいるが、掘れた道で粘土質、雨ではなく、良く晴れていたので、それほど苦痛ではなかったが、歩きにくい。2ケ所ほど展望の良い所があり、おそらく日本海方面だと思われたが、霞んでいて良くわからない。2つ目の清水である天狗清水で道標が大岳まで0.4㌔と記していた。大岳にはかなりの人がおり、社と鐘となにより三角点もあった。少し行くと袴岳が見え、守門の北東斜面が多くの残雪を残し、穏やかな山容をみせる場所で休んだ。

 

そこから左に残雪を残した道を20分ほど下る。前方の青雲岳や袴岳が大きく高くなる。登り返しは笹が多く、きつい登りを行くと大岳の分岐に出る。そこから少しで青雲岳に着く。ベンチがあり、皆、休憩していた。大平さんがここで待っていると言い出し、3人で袴岳へ行くことにし た。すぐそこに見えており、20分ほどだ。最後の急登は少々堪えたが、なんとか登り、ピークに着いた。周り の山が 紹介されており、魚沼三山、燧、平ガ岳、浅草、など霞んではいたが、沢筋に残雪を残した山々が見ることができ た。旅館が用意してくれた弁当を食べたが、大きな「にぎり」2つは無理だった。ゆっくりしてから大平さんが待つ青雲岳へ戻り、下り始めたが、例の「攣り」が3人を 襲った。最初は武鑓さん、手慣れた方法で処置して恐る恐る下りだした。彼はもうプロ級の処理法があり、足を強く縛ったのには驚いたが、これが効果があるというからわからない。すぐに藍原さん、こちらはいつも通り、10分ほど休んであとからついてきた。私も左足に兆候はあったが、それ以上に はならなかった。この間、残雪を5ケ所ほど通過するが傾斜がなく、なんなく通過できる。

青雲と大岳の一番下ったところで私が休憩を提案したが、皆は無視、一気に大岳まで登り返した。結構、足を使ったが20分もかからずに大岳に着いた。そこからはただ下り一方で、想定通りの下山を考えたが、急に遅くなり、想定の1時間以上も時間を要して下りてきた。もう駐車場には2台しか残っていなかった。

いつものことだが、今日もたくさんの人に抜かれた。コースタイムの3割増が我々のペースだが、下りを除くとほぼ想定通りの歩きだった。タフな山だったが、梅雨の合間で天気は良く、カラッとしていてそこそこ汗もかいて、登るには良い気候だった。この山ではブナ林の緑、コブシ、カタクリ、あじさい、シラネアオイなど多くの花があり、なかなか良い山だった。帰路に「おいらこの湯」に入り、赤城高原で軽い夕食を食べて帰った。

(文:河合  編集:藍原)

元気でやってます  (39 石谷正樹)

 

石谷兄

長い間ご無沙汰してます。翠川が貴兄のところを尋ねて大歓迎を受けて感激していたのももう何年になりますかね。

こちらこそすっかりご無沙汰しており、申し訳ありません。
そういえばミドリさんご夫妻がはるばる山陰の山村をお訪ね下さり、懐かしいひとときを過ごしました。

私の町は人口7,000人ほど。四方を山に囲まれているため、どんどん過疎化が進んでいる小さな町です。産業と云えるものは何ひとつなく、まとまった会社といえば私が経営しているメカトロ工場があるのみで、350人の社員の雇用を40年間支えて来たのが私の唯一ささやかな誇りです。
こちらから皆様にお話出来るような話題がないので、自ら何かを書いたりご報告することは出来ませんが、このたびお知らせいただいたブログを時々覗きに行かせていただきます。一昨年、家内が早々と西宮市の老人ホームに入居してしまったので、私もなるべく早く会社の方を後継者に譲って合流したいと考えています。

いつか世津ちゃんかテレの葬儀でお目にかかりましたが、遠隔地なのでそのような機会でもなければお会い出来る機会がありませんね。世津ちゃんの葬儀の時はご挨拶をしたものの、立ち話しか出来せんでした。
そのとき朝子ちゃんのことをお聞きしたら、もうお子さんもおられるとのお話で、その時は本当にびっくりして信じられませんでしたが、あとで時の経過を考えたら当り前の事であることに気付き、自分が歳をとったことに愕然としました。

1967年、石谷君訪米のとき、パロアルトのバス停。ひっくり返っているのが朝子、いまはOLと大学生の母親。

お恥ずかしいですがお求めに従って近影をお送りします。つい先月、久しぶりに家内を西宮の老人ホームから連れて帰り、我が町の山奥にある山菜料理屋で昼食を摂った時の写真です。両脇に居るのは東京から駆け付けた娘たちです。

石谷兄

地方を支え、地元の誇りともいえるご家業、ご苦労も多いでしょうが、僕らのようにべんべんとサラリーマン人生を過ごしてきてしまった人間にはただうらやましい限りです。今後ともご活躍を祈ります。

メールアドレス:ishitani@ruby.ocn.ne.jp

三国山荘で野草を探そう  (44 吉田俊六)

標高950mの三国山荘の敷地には上越の道路沿いに里山から入り込んできた植物と、山野草とが混在している。山荘を中心に敷地をⅠからⅦのゾーンに分け、植物の観察をしましょう。山荘に集まりやすいのはWC・新人歓迎会、山菜採り、山荘祭、雪下ろし等ですが、今回は山菜採りと山荘祭の2回分の植物観察を想定します。

  • 山菜採りの頃

カタクリ、ニリンソウ、桜、新緑のカエデなどが楽しめ、連休明けなど、早めに開催であれば火を燃やす広場と疎水に挟まれた斜面ゾーンIIIに「カタクリ」の群落が咲き誇るはずです(KWV三田会ホームページ http://kwvmitakai.jp/参照。)

山荘の入り口手前のゾーンIの杉林根方に白い「ニリンソウ」達が恥らいつつほほ笑み、ゾーンIV すなわち旧文六旅館の敷地には道路側に数本の桜が花盛り、敷地奥の山側玉石の壁の上にカエデの新緑が眩い。小さいながらシャクナゲも枝を這わせる。(ついでながら、この平面は陽当りが良いので多面的に活用する楽しみ有。山菜標本園やあけび・野葡萄の繁茂支援等々、名案歓迎。拙者、境界近くにコシアブラなど植えたいところです。)

6月中と遅めの山菜採りとなれば、山荘の庭で目立つ花といえば、山荘と前の道路との法面緑地 ゾーンIIに植えたナツツバキの白い花。探索の歩を進めると、旧文六旅館の中段(ゾーンV)、さらに疎水へむかって上段のゾーンVIにかけて、針葉樹たちの下草にエンレイソウ(3枚の大きな葉の真ん中に小さな花)を発見。さらに、メイン広場へと車で斜めに上る道へと向かう左側のツガの大木の根方にベニバナイチヤクソウが凛とした色気で佇んでいるでしょう。

  • 山荘祭の頃。

「山で来い来い、里でいやいや」秋風になびくススキが手招きし、里芋の大きな葉は横に揺れる。「皆な来い来い山荘祭」の彩は、玄関前ゾーンⅡの法面:ワレモコウ(吾亦紅)、ヨメナやノコンギクなど様々な野菊たち、ミゾソバ、ゲンノショウコ等々。道路から山荘玄関への石段に送迎のアーチをかけるマユミの古木と赤い実など、皆なが目にし、楽しめる。今回の花形はゾーンVII,つまり山荘の裏庭と疎水の間のベルト地帯に潜む、白く細長い房が見事なサラシナショウマ、紫の個性派;トリカブト、黄色の細紐;キンミズヒキ、赤の縁起物;ミズヒキ、ムラサキシキブ等々。(この時期、浅貝からの道筋にツリフネソウ、キツリフネソウ、秋の七草たちが咲いており、そのうち移植を試みたいと思います。) 厨房の裏、山荘を守る主木は美しく逞しい。(広葉樹;楡の仲間と想定するが、正しい樹木名について未だ特定できていません。乞うご教示)

「花より団子」、食べられるなら関心を持つ御仁に耳よりのご報告。「山菜=QP*」と連想できない貴兄は次回からの山菜採りに参加をおすすめする。実は、通年賞味できる山菜が、ゾーン8、山荘の裏手の杉林の疎水の周辺に生息。ミズナ・ミズ・ウワバミ草と各地で愛称を持つ、あく抜きを必要とせず、生食も楽しめる優れものです。(とはいえ、希少資源ゆえ、大切に)

引き続き、山荘と周辺の植物たちのマップをつくり、これに対応した標識を作成・展示する課題が残されており、共に取り組んで下さる仲間を募ります。さらに夢なのですが、四季折々の三国山荘と周辺の山野草の記録写真やデッサンなど、80年間の各代の中で植物好きの方々の作品を募り、記録をアーカイブに収め、財産化(さらには、商品化して、山荘維持資金の糧に資する)する構想なども、花咲かせたいと思います。種まきと育成にご協力賜りたく存じます。

*QP, とは、KWVで山野草採りやバードウオッチングなど、広い趣味を誇り常に指導者格だった34年卒松本恭俊さんのあだ名。42年卒松本好弘さんの実兄)

“ひこばえ”の独白:

不肖「ずんろく(KWV渾名)」は先ず食用植物を探り、登山の道すがら花々に癒してもらいました。牧野富太郎・宮沢賢次に憧れ博物誌に興味は尽きません。山荘を彩る草木たちの集いに、皆様と一緒に寄り添い続けたく思います。

ウイチのこと   (47 熊倉晴男)

ウイチが私の現役時代の初リーダープラン(妙高―火打―焼山―雨飾山縦走)に参加してくれた縁からか 卒業後も、私たちがフランスから帰国してからも、一緒に山にいく機会が一番多かったと思います。

彼と一緒した山行が気になってわかる範囲で記録を見ましたが、残雪の涸沢や
春の会津駒ケ岳(山スキーの我々は桧枝岐から。スキーがからっきし駄目だったウイチが三岩岳からの縦走で山頂でばったり)、沢山の沢登り(焚火が好きだった。)など随分一緒に行ったんだなあと改めて思い出しました。

最後の彼との山行は 2004年10月尾瀬至仏山に奥利根側の狩小屋沢から遡行したものでした。その1か月前の9月には山荘祭接続で 苗場山の棒沢に行ったのですが、今思えば既に病の影響だったでしょう(拡大性心筋症)神楽峰からの下山時にほとんどふらふらになってしまい、同行した竹内君と肩を貸すようにして和田小屋に夜中の21時ごろ降りてきたことがありました。狩小屋沢は無理だから止めておけと言ったのですが、どうしてもリベンジだと言って聞かなかったのを覚えています。この山行は何事もなく無事下山したのですが、これが彼と一緒の最後の山行になってしまいました。

私の記憶が曖昧なので、実は先ほどフルマキに電話して確認しましたが、ウイチが亡くなったのは2008年8月11日(フルマキも言っていたのですが、どういう奇遇かこの日は後に“山の日”になったのですね。)

もうすでに10年の月日が経ってしまったのですね。“ウイチとのこと”というと、 この2004年までの楽しかった山行とともに、その後の4年間(病の発症、家族との別れ、山仲間との繋がりを自ら断っていた4年間)のことがどうしても忘れられないのです。

山荘や上越の山の帰り、車で環八の大原の交差点辺りを通るたびに、ここらへんにウイチが一人でいるはずだと何度も逡巡したのを思い出します。
4,5年前に フルマキから聞いた高知の彼の墓参りも行ってきたのですが、昔の記録や写真を見て、またまた彼のことを懐かしく思い出しています。

メールアドレス:izc01144@nifty.com

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 6 (41 相川正汎)

ウイチに会いに小屋へ行ってきました  (49 山田照敏)

地方の小商いで且つ、後継者もなく家業をどの様に始末していくか、が課題の今日で忙しい毎日で、KWVの行事にもなかなか参加できない状態です。

とは、いえ先日の土日には年一回の49Kwv同期会を小舎に11名で集い、開催しました。その小舎の「ウイチ桜」の下で同期が集まるようになって9回目でした。小舎から毛無山までを歩きました。他のメンバーは三角まであるいは平標山まで足をのばしました。毎回、同じ話の繰り返しをまたまた、楽しんできました。楽しい一刻でした。

「ウイチ桜」植樹の小舎参集を加えると今年が10年連続10回目となります。 小舎が好きだったウイチに会うという思いで集まるのです。

トヨシマにも寄ってきましたが、茂夫妻もおじいちゃん、おばあちゃんになりました。梢ちゃんに2か月になる女児=椿ちゃん=が埼玉にいらっしゃるとのことです。おばあちゃんは2週間に一度ほど「孫通い」らしいです。きっと、毎週でも行きたいでしょうね。

(メールアドレス  yamada1@abekawamochi.co.jp)