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おすすめの2本見ました (川名慶彦)
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旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
私が漢詩を読むようになったのは、友人からもらった英文の中国文書に多くの漢詩が載っていて、これの原詩を探し、原文と読み下しに加えて、識者の解説を写すように纏めてみたことからのことです。 今まで2回ほどこのブログに掲載させていただきましたが、今年も押し詰まってきたことから12月にふさわしい漢詩をと思い少し紹介させていただきます。
最初は杜甫の冬至という詩です。杜甫は、中国の生んだ最大の詩人と言わ れ、別名(詩聖)とも言われます。ただ生前は、必ずしもそのような評価は受けず、後年になるに従いその名前が大きくなったと言います。
年年至日長為客 年年 至日 長(つね)に客と為り
忽忽窮愁泥殺人 忽忽たる窮愁 人を泥殺せしむ
江上形容吾独老 江上の形容 吾独り老い
天涯風俗自相親 天涯の風俗 自ら相い親しむ
杖藜雪後臨丹壑 杖藜 雪後 丹壑に臨む
鳴玉朝来散紫宸 鳴玉 朝来 紫宸に散ぜん
心折此時無一寸 心折けて この時 一寸なし
路迷何処是三秦 路は迷う 何れの処か 是れ三秦なる
至日は夏至と冬至のことを言いますが、古来中国では、冬至の日は、ご馳走を作って、新しい着物に着替え、親族集まって祖先を祀る。朝廷では 盛装した官僚が、紫宸殿に集まり、朝賀の儀式が行われる日でもあります。杜甫は、48歳の時に自身の政策が入れられず、家族を連れて放浪の旅に出ます。この詩を作ったのは、56歳の時だとされています。
その間毎年冬至の日を旅人として迎えた。魂を奪い去る厳しい愁いが、此の身をすっかり骨抜きにしてしまった。心とともに肉体も衰える。揚子江のほとりを彷徨うひとりぼっちの私の姿。そして、世界の果てのような此の地方の風俗にも、いつしか親しむようになった。
雪の晴れたあと、あかざの杖をついて赤土のむき出しになった谷間を前にして独り立つ。此の時間は都では、腰の玉佩を鳴らしつつ出かけた高官たちが、三々五々紫宸殿から退出してゆくことだろう。それを思うと私の心は砕け散る。
心は一寸四方の大きさだというが、今は心砕けて一寸の大きさもない。どの方向が、都のある三秦の地方か。心の迷いに、そこへの路ももはやおぼつかない。
本来おめでたい日にもかかわらず誠に悲しい詩であります。二つ目は、同じく唐代の詩人高適の除夜と言う詩です。
旅館寒灯独不眠 旅館の寒灯 独り眠らず
客心何事転凄然 客心 何事ぞ 転(うた)た凄然たり
故郷今夜思千里 故郷 今夜 千里を思わん
霜鬢明朝又一年 霜鬢 明朝 又た一年
宿屋の寒々とした灯火のもと、ひとり眠られぬ夜を過ごせば、どうしたことか、旅の思いはいよいようら悲しさを増すばかり。こよい、千里をへだてて故郷を思いやっている私だが、明日の朝になれば、白髪の増えた鬢は、又一つ歳をとっているのだ。
もう一首加えます。同じく唐の時代の王いん(注)と言う詩人の作です。
今歳今宵尽 今歳 今宵 尽き
明年明日催 明年 明日 催す
寒随一夜去 寒は一夜に従って去り
春逐五更来 春は五更を逐いて来る
気色空中改 気色 空中に 改まり
容顔暗裏回 容顔 暗裏に 回(めぐ)る
風光人不覚 風光 人 覚(さと)らざるに
已著後園梅 已に著く 後園の梅
除夜の作には、悲しみの詩が多い。その中で、此の詩、己の容貌の衰えを自覚しつつも、自然の営みの中に、希望を見ると解説の一海智義氏は述べています。最後に同窓会ともいうべき詩を紹介します。此の詩は、平凡社から出版されている一色智義氏の「漢詩一日一首」(冬)で見つけたものです。
卞仲謀八老会
同榜同僚同里客 同榜 同僚 同里の客
斑毛素髪入華筵 斑毛 素髪 華筵に入る
三盃耳熱歌声発 三盃 耳熱して 歌声発す
猶喜歓情似少年 猶お喜ぶ 歓情の少年に似たるを
作者は、北宋の韓維という詩人で、蘇軾、王安石と同世代の人です。「同榜」の「榜」とは、科挙の試験の合格発表掲示板。従って、同榜とは、同年に進士の試験に合格したものをいう。さらにこの八人は、同僚であり、同郷の集まりでもある。残りの詩の部分は、字面を見れば大方想像がつきます。最後の句は、みんなのはしゃぎようは、まるで若者、まだまだ若さを失っていない。それが嬉しいのだ。ほぼ 一千年前の同窓会の歌だが、今昔の間を忘れさせる。と一色氏は結んでいます。
私も体調の関係から長いこと会への出席を遠慮していますが、この詩を見つけて、大変嬉しく思った詩題です。来る集まりでの 諸兄 諸姉のお元気な様子お想像するだけでも、気持にハリが出てくるようです。新しい歳にも 少しずつ新しい詩を紹介できればと念じています。
(注)”いん”の漢字ですが、漢和辞典や、私が困った時によく使う白川静
今年最後の月いち高尾が20日に開催されました。異常なほど暖かい今年の冬ですが、この日も晴天に恵まれ冬の木漏れ日の中、カキ尽くしのBBQ付とあって29名の参加を得ました。BBQは4年前に小さな鉄板を持ち込みちゃんちゃん焼きをしたところ好評でしたので何となく12月の最後の月いち高尾はBBQで締めにしようという風なことになってきています。昨年もカキ尽くしで好評でしたので、今年もさらに殻付きカキを加え、豪華なBBQとなりました。BBQの開始時間の関係でトレッキングの方はいささか時間不足になってしまいましたことをお詫びします。また、最近の傾向ですが、レベルにあった無理のないトレッキングをするよう心がけていますので、今回はご自身のレベルに合わせてトレッキングは3班に、そして、BBQのセッティング班と合せて4班となりました。以下、各班の報告です。(原文のまま)
三嶋班 高尾山口駅10:02発・・・・・ケーブル前10:10発・・・・・薬王院11:25着・・・・・山頂手前のトイレ11:55・・・・・作業道・・・・・日影キャンプ場12:40着
参加者(敬称略);浅海、鮫島、高橋、中司、翠川、吉牟田、町井、久米夫妻、三嶋 10名
1号路の登りはかなりの急こう配。 ゆっくりと しかし休みを少なくして 展望台は通過。男坂、女坂では迷わず階段の無い方に進み、薬王院着。お賽銭とお線香で ”神頼み”を丁寧に済ませて、鮫島さんご推薦の車椅子でも行けると言う道を進み、山頂前のトイレ横へ。山頂はカットして、巻き道から日影への作業道に入る。
着くころには牡蠣尽くしが出来ているだろう、と歩を進める。少し遅れそうだが、携帯は圏外で連絡できず。久々に時間を気にしながらの 山歩きでしたが、10分遅れながら無事到着。平均年齢78.ウン歳 皆さん大したもんです!
牡蠣をこんなにたくさん 思いっきり食べたのは初めてで大満足。 その後お腹も無事でした。堀川シェフ始め 設営の方々には感謝しかありません。
岡沢班 我が班は、12時30分集合という時間を考え、全部まともに歩いたらとても集合時間に間に合わない、皆様に迷惑をかけられない という殊勝な考えで ケーブルを利用することに賛同した者の集まりです。
参加者 9名 平松 小泉 椎名 船曳夫妻 深谷 中川 浅野 岡沢
10時15分のケーブルカーに乗り、20分に歩き始め、参道はガラガラいつもの人込みはどこへ行ってしまったのか。ゆっくり歩き薬王院に参拝 そして唯一の急登の階段を過ぎ 山頂には 11時12分着。12時半前に出発しようとするとなんと病院道コースの5名が到着。 我々は 4号路からいろはの森コースを行き キャンプ場には12時34分に到着。全員何事もなく無事に予定通りに歩け万々歳でした。
藍原班 人数が多い為 岡澤さん相談し、3班体制を組む。琵琶滝コースを藍原が受け持つ。メンバーは 遠藤さん・後藤さん・西澤さん・川名さん・藍原の5名10時15分出発。琵琶滝から 高尾山の登山路では一番(?)の急登「琵琶滝コース」に入る。今日は好天で風もなく快適。紅葉は見られないが、山の風情を楽しみ、足取りも快調に、数人を追い越して登る。トップは遠藤さん。それにしてもペースが早い、早すぎる。着いて行けそうもないので、リーダー権限でペースを落とすよう再三要請する。45分で一号路との合流点に到着。川名さんを除いて皆ロートルの筈、こんなに元気でいられることに感心するばかりです。薬王院にて皆思い思いに願いを込めてお参りし、山頂へ。11時30分到着。
山頂では薄もやが掛かっていたが、富士山の威容も拝めた。いろはの森コースを下り、日蔭沢キャンプ場に時間通り、12時30分到着。今日は良い空気を吸い、美味しい牡蠣料理を頂き極上の一日でした。
堀川班 BBQ設営班と言うことで若手の伊川、関谷、実方が買って出てくれました。それに会計の仕切り役オチエとあまりの量に不貞腐れ気味の私の5名です。本当はバスで行く予定でしたが私の荷物が30kg超でしたので、タクシーで日影沢キャンプ場へ。実方が提供してくれた軽トラで集合地の登山口駅からコンロやフライパンなど、事前に購入してくれたビールは水等々を運び入れてくれました。大助かりです。感謝感謝です。
10時45分頃から準備開始、さすがワンダーの面々は手慣れたもので1回の説明で理解してくれ、どんどん準備が進んでいきました。12時には火をおこし、12時20分ころには何時でももいらっしゃい! と言う体制ができていました。やがてトレッキング組も順次到着。楽しい宴が始まりました。殻付きカキ62個、むき身のカキ5kgを完食!!素晴らしきかなこの食欲!! 女川のカキに感謝!! GIさんの恒例になりつつあるケーキの差し入れ、ワイン、何よりもカセットコンロや鍋、フライパンなどご協力を感謝します。
「ああ、“エーガ”の日々よ、帰れ」拝見。荒野の決闘のポスター
多感なる中学時代、栃木県足利という所におり、ワンプラー劇場と
貴投稿には、出て来なかったですが、ランドルフ・スコットの堅パ
西部劇の本も結構買いました。西部劇の世界(岡俊雄)、大いなる
本箱の片隅にあった本を開けたところ、偶々1980年の朝日新聞
本屋や新聞広告等で、西部劇パーフェクトコレクションとか西部劇
月いち高尾今年の納めW(日影沢BBQ)の帰途、旧甲州街道散歩としゃれていた時、同行の川名くん(KWVではないのだが、後藤三郎の友人、といっても現代風に言えばチョー若く僕らの孫の年代の好青年)から、”ジャイさんのころって、どんな映画を見てらしたんですか?“と質問されて、天狗飯店までのあいだ、雑談した。僕らの中学高校時代には、ボウリングもなければテレビも始まったばかり、”部活“をのぞくと映画くらいしか世界を知るすべはなかった。 “エーガ”といえば座席取りから始まってスクリーンに投射が始まるまでのわくわく感、終わった後の一種の放心状態までをひっくるめての体験だ、といまでも思っているのだが、川名くんともなれば、 “あ、ダウンロードしてPCでみますから” とあっさりしたものだ。昭和も遠くなりにけり、と思うのだが、彼との話がバスの時間で中断してしまったので、”ジャイさんの好きだった映画”について、続きを書く気になった。
彼の第一の質問だった ”一番良かった映画はなんですか“ という質問には文句なく答えられた。ジョン・フォード監督、主演ヘンリイ・フォンダ、ヴィクター・マチュア、リンダ・ダーネル ”荒野の決闘” (現題 My Darling Clementine)、これに過ぎる映画はない。僕らならだれでも口ずさむ、例の ”雪よ岩よわれらが宿り“ の原曲が流れる、牧場の板看板をかたどったタイトルバックから、多くの人が”数ある映画の中でも一番美しいラストシーン“と言う最後まで、まさに映画である。西部劇ファンの間では決闘シーンでワード・ボンドが見せる見事なファンニング(拳銃の連続撃ち動作)だとか、荒くれと思われていたドク・ホリディ(ヴィクター・マチュア)が酒場でハムレットのセリフをいうところだとか、ロングショットにひいた馬車と巻き上がる砂塵のシーンだとか、そのあと、肺病やみのホリディが、せき込んでハンカチを出す。その白さゆえに被弾してしまう、その時の表情とか、なにしろ、いいんである。
高校から日吉時代、まさに映画の黄金時代だった。住んでいた大森山王に名画座というのができて、戦前の傑作もずいぶん見た。 だが当時傑作と言われた中で見た ”禁じられた遊び” (Jeux interdits) のショックが大きくて、その後、あまり考え込むような作品は徹底して避けるようになった。だから世の中の映画通と言われるインテリ層には馬鹿にされるのだが、それはともかくとして、僕の波長にあった作品を上げてみる。
僕の西部劇遍歴からいえば、第二にくるのはウイリアム・ワイラー監督、グレゴリイ・ペック、チャールトン・ヘストン、ジーン・シモンズ ”大いなる西部“ (The Big Country)だろうか。ストーリーはともかく、題名そのもの、“西部” の大きさ、自然の大きさを描いた映画だ。主演二人の殴り合いのシーンを思い切ってロングショットだけでとり、風の音の間に殴り合いの音だけが響き、人間の小ささ、やりきれなさを表したところなど、うっとりとしてしまう。
ワイオミングの自然がタイトルバックの直後から息をのむように美しいのがジョージ・スティーヴンス監督、アラン・ラッドの ”シェーン“ (Shane) だ。話の筋は日本で言えば木枯し紋次郎の股旅ものだが、決闘の場面でラッドが見せた早撃ちの(正確な数字は忘れたが)スピードが話題になった作品である(クリント・イーストウッドの ”ペイル・ライダー“はこれのリメークである)。なお、アメリカ観光ルートの代表であるイエローストーンの少し南に位置するワイオミング州グランド・ティトン国立公園には、この映画の有名なラストシーンを撮影した場所が保管されている。
西部劇、と言えば代名詞にもなるのがジョン・ウエイン、資料によると生涯出演した作品は153本あるということだが、サイレント時代からの通算なので、題名だけではわからないが、西部劇がまず100本は越えていると思って間違いなかろう。僕自身、見たウエイン作品は43本あるが、西部劇でないものは8本に過ぎない。まさにミスターウエスタンだ。映画通と言われる人の間では、“駅馬車”(Stagecoach) が出世作とされているが、ジョン・フォード監督のもとでフォード一家、と呼ばれる常連(ヘンリー・フォンダ、ワード・ボンド、ヴィクター・マクラグレン、モーリン・オハラ、ミルドレッド・ナトウイック、ペドロ・アメンダリズ、ベン・ジョンソンなど)が必ず登場した通称 “騎兵隊三部作” (アパッチ砦、リオグランデの砦、黄色いリボン)や、だいぶ年になってからの娯楽的要素が強い ”リオ・ブラボー“、”チザム“、”エル・ドラド“ ”エルダー兄弟“ なども懐かしい。
だが僕が選ぶとすれば、その絶頂期に撮られた ”赤い河“(Red River)と ”捜索者“ (TheSearchers), それと ”リバティ・バランスを射った男“ (The Man Who Shot Liberty Balance)になろうか。なお、ウエインが映画の中で死ぬのは、”硫黄島の砂“(Sands of Iwo Jima)、遺作 ”ラスト・シューティスト“ (The shootisit)、それとこの”リバティ“ だけのはずである。
西部劇談義を続けると、心理的描写がなんとか、などと批評家たちも激賞した多少シリアスもの、ゲイリー・クーパーの ”真昼の決闘“ (High Noon)、ストーリー展開が抜群に面白かったジェイムズ・スチュアートの“ウインチェスター銃73”(Winchester ’73) が思い出される。ただ西部劇、といえばすぐにガンプレイに話が行くが、銃を扱った人からすれば、ライフルならいざ知らず、拳銃であんなに簡単に的にあてることはあり得ないそうだ。しかしいずれにせよ、最後に殺されるべき悪役は必ず必要で、出てくるだけで”悪いやつ”と分かってしまう俳優も懐かしい。ブライアン・ドンレヴィ、ネヴィル・ブランド、ジョン・アイアランド、リー・マーヴィン、リー・ヴァン・クリーフ、ヴィクター・ジョリイなどである。
もひとつ、若い人がどこまでご存知かわからないが、かの悲劇のモナコ王妃グレース・ケリーがデビューしたのが上記 ”真昼の決闘“ であることを付けくわえるかな。そういえば、うちのカミさんなんかが夢中だった、これまた悲劇的な死に方をしてしまったモンゴメリー・クリフトがはじめて出演した西部劇が”赤い河“だったことも言っておこうか。
残念なことに昨今、西部劇映画はすたれてしまって、いい作品にであう機会は減ってしまった。その中では、だいぶ前にはなるがケヴィン・コスナーの ”シルバラード”(Silvarado) と ”ワイルド・レンジ”(Open Range) は面白かった。特にワイルド・レンジの最後の銃撃戦は前記したように、現実的なものという批評があり、実際に10メートルと離れない距離であってもまず的に当たらない、ともかく数射つしかない、というリアルな場面がえんえんと続く。こういうリアリズムがいいのか、どうか、ロマンがないではないか、という議論も当然だが。
西部劇以外では、やはりかのハンフリーボガート、イングリッド・バーグマン ”カサブランカ“(Casablanca)、それとロバート・ミッチャムの ”さらば愛しき女よ“(Farewell My Lovely), もう一本ボガートものだがエヴァ・ガードナーの魅力をふんだんに見せた ”裸足の伯爵夫人“(The Barefoot Contessa),それとやはり、今では伝説的存在となってしまったが、”第三の男“(The Third Man)の四本ということになろうか。
特に”第三の男“、主演のジョセフ・コットンはどうでもいいが、オーソン・ウエルズの迫力、それとわき役だがトレヴァー・ハワードの演じる中年男ぶりにはただほれぼれしてしまうし、今や世界的クラシックともいえるテーマ曲が忘れられない。余計なことだが、”ポピュラー“ ナンバーの中で僕の愛好曲ベスト3がこのテーマにユーゴ―・ウインタハルターの ”カナダの夕陽“、それとフランシス・レイの”白い恋人たち“である。
ほかには第二次大戦欧州戦線に関するものは結構見た(太平洋戦線ものは数も多くないが、身近過ぎてみるのがつらく、敬遠してきた)。これはストーリーとしてよりも自分は高校で世界史を選択していないので、歴史知識の向上ということもある。抜群に面白くかつ史実をまなんだのが ”地上最大の作戦(なんと陳腐なタイトルかと思うが)”The Longest Day“とスターをならべただけ、と専門家の評価はよくないが、”遠すぎた橋“ ”A Bridige Too Far” の2本、製作意図は似ているがストーリーそのものも面白く娯楽映画的要素もあるのが “バルジ大作戦”(Battle of the Bulge) だった。
学びなおした史実はとにかく、この3本に出てくるエピソードで一番印象に残っているのが ”遠すぎた橋”で、ロバート・レッドフォードが演じた、白日下、敵から丸見えという条件で敢行させられる渡河作戦の描写である。その命令を部下に伝えたとき、全員が戦慄する。当然だろう。このとき、レッドフォードがこういうのだ。”Hey, don’t you have sense of humor ?” センスオブヒューモア、ということの大事さ、重要さはアメリカ人とつきあいがショーバイだった僕にはよくわかる。しかし、このような、自分の生命そのものが疑われている時も、彼らはその感覚を大事にするのか? これがアメリカ人であり、アメリカ文化の真骨頂なのか? いまでも僕には衝撃であり、教訓でもある。
映画から歴史を学ぶ。歴史家の中には司馬遼太郎の史観を悪く言う人も多いようだが、僕の日本史の知識はほとんどを彼の小説に負っている。なかでも ”坂の上の雲“はまさにそのような一つである。数年前、NHKがテレビ化したものも当然見たが、この印象というか感激はどうしても孫にも分かち合いたく、だいぶ出費にはなったがDVDの完全セットを購入して、かれの高校入学祝いにすべく、箱のまま、僕の机の下にある。
ま、それにしてもいい映画をテレビなんぞでなく、ましてやスマホなんてけちなものでなく、埃っぽい “エーガカン” で、それもシネコンなぞではなく、座席取りなんかやってから一息ついて、それから見てみたい。川名くん、いかが。それにしても My Daling Clementine, よかったなあ。も一度。
堀川義夫様、BBQ準備していただいた設営班の方々、山歩きLと同行者の皆様、本当にありがとうございました。そろそろ本格的引退を考えつつも、こうして素晴らしいメンバーと楽しむことは、代えがたい喜びです。 絶好の天気にも恵まれ、期待していなかった富士山も仰ぎ見、これまでの人生で初めての大量の牡蠣、食べたこともない牡蠣料理数。まったく贅沢三昧の幸せな一日でした。牡蠣やネギ、飲み物などを調達頂いたことにも深——く、感謝しています。これからもお付き合いのほどよろしくお願いします。 どうぞ佳いお年をお迎えください。 船曵孝彦・愛子
今年最後の月いち高尾では、堀川さん以下山に登らず牡蛎ツ゚クシ
色々とお世話になりました。楽しい一日でした。堀川さんやお手伝いされた皆さんに感謝・感謝。ケーブル班の高尾山山頂の集合写真を送ります。遠く霞んだ富士山が見えました。美味しく牡蠣が焼けてます。有難うございました。 平松
昨日は大変お世話になりました。若手4人組の奮闘と堀川シェフの素晴らしい腕前のお蔭でおいしい牡蠣づくしをご馳走になり、大満足で家路につきました。1号路はちょうど良い散策路で楽しく歩くことが出ました。 KOBUKI
コブキさんのメールにある「若手4人組」とは誰かと、一瞬、考えさせられました。古希を過ぎても「若手」扱いされるこの集団は何だ!と思いましたが、そのような素晴らしい仲間の一員である事が嬉しい限りです。楽しい月いち高尾でした。ありがとうございました。連日のワンダーがらみで、今夜は、山荘委員会の忘年会に顔を出し、帰宅したところです。出席していた現役の中には18歳の一年生もおり、昨日の80うん歳の諸先輩、この様な幅の広い付き合いが出来る喜びを噛みしめながら、ほろ酔い気分での、帰路でした。 関谷
山に登らず調理に頑張ってくれた方々堀川リーダー、ワイン 日本酒 ケーキなど差し入れてくれた方々、山登り 酒飲みなどお付き合いしてくれた方々の御蔭と好天に恵まれ 楽しい 一日を過ごす事が出来ました。 単調なコンクリート道の意外とキツイ1号路を 何時ものペースより早く登り薬王院のお参りの前にみなさんとは別に 本年もまた孫の受験のお参りに “オクトパス”という名の“置くとパスするという たこの置物”にとお参りも色々と忙しい。 来年も何とか 健康を維持し一回でも多く楽しい 月一高尾のプランに参加出来るようにしたいと考えた一日でした。 吉牟田
(編集注:吉牟田はどういうわけかいつもブロック体でメールを書く。面倒なのでそのままとするが別に彼だけ特別扱いしたわけではない)
堀川さん、お世話になった皆様、素晴らしい仕上げの山行に参加出来て本当に有難く唯々御礼あるの
昨日はお疲れ様でした。堀川さんには毎回料理長をお勤めくだされ、 誠にありがとうございます。パーティ終了後の集合写真を添付いたしますのでお受け取り下さい 。では皆様、良いお年をお迎えください。 西澤牡蠣パーティ、堀川シェフ他料理を担当された方、に感謝。ワイン、酒、ケーキ、パンと多彩で楽しまさせていただきました。天狗では「高尾の森つくり」の仲間とも会い、すっかり出来上がってしまいました。来年も参加できるよう頑張りたいと思います。 鮫島
今年最後の高尾の会に参加出来て幸せでした。木々に囲まれ靴底に土を感じながら歩く充実感、軍手とうちわで迎えてくれたBBQスタッフ、牡蠣づくしのメニューいろいろは野外料理のワクを超えて感激でした。屈託のないおしゃべりと笑いの渦はなによりの御馳走でした。八十路のためにやさしく歩いてくれたリーダー、速攻で写真UPのカメラマン、そしてこの企画の影の功労者、軽トラックに感謝の意を表します。来年も楽しみです。皆さまどうぞ良いお歳を! 遠藤
(注:これも吉牟田と同類)膝の故障で、なかなか 月1高尾に参加できず、残念に思っていましたが、年末の素晴らしいの会に参加できて、牡蠣料理を満喫しました。ありがとうございました。 来年は高尾に参加できるようになりたいものと思っていますが・・・。 おちえ月一高尾の今年のフィナーレには、あのゴージャスな牡蠣パーティーを開催して下さったおかげで、 皆様と大変楽しい時を過ごすことができました。すべてに大満足、感謝あるのみです。有難うございました。 来年も頑張って参加いたしますので、よろしくお願い申し上げます。 皆様、良い新年をお迎えくださいませ。 高橋
…
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先に紹介したパタゴニアレースの実況が放映されると安田君から連絡があった。
平成30年12月14日(金)快晴、朝10時半JR明石駅改札口
岡山から、残り10名は大阪・京都から、そして地元明石からは御
明石港を11:00にフェリーは出発、15分後明石大橋をくぐっ
先ずは会の主旨説明、「関西有志が淡路島岩屋で達者である事を年
冒頭、遠路東京杉並から日帰り自腹招待で参加してくれた河合デシ
あとは、楽しく、飲み、食べ、喋り、又飲みを繰り返しながら、若
この2‾3年KWV三田会は関西ブームで少々沸いております。年
今回の有志による初忘年宴会は来年も、「関西有志岩屋会」と名称
参加者:石谷正樹(S39)、河合国尚(S40)、益田英昭(S
・流行語大賞が年末の風物詩として定着して久しい。3年前の大賞は「神ってる」。万年下位に低迷していた広島カープの神懸り的な快進撃を称したものだが、翌年以降も連覇が続き、もはや「神懸かり」ではなくなったせいか、この言葉もいつの間にか消えてしまった。過去の大賞を振り返ってみても、いまだに寿命を保って広辞苑入りを果たせそうな言葉は意外に少ない。
・新語・造語はギャルや若者の専売特許だが、中高年から見ると耳障りなものも多く、言葉の乱れと映る。さしずめ「ら抜き言葉」はその代表例だ。「食べれる」「見れる」などの言葉を採用面接で使った学生は不採用にするという一流企業の人事課長の話も話題になったくらいだ。しかし時代は進み、すでに日本人の7割以上が「ら抜き言葉」を抵抗感なく受け入れたり使ったりしているという。(文化庁「国語に関する世論調査2002年」)。もはや多勢に無勢、市民権を得るのは時間の問題のようだ。
・新語、造語を言葉の乱れとみるか、変化とみるかはなかなか難しい問題だ。次の奇怪な文がおわかりになるだろうか。
「パルー ツンギーテー ナトウ キータルラチー チロタペノ カラマ ポチータリー アマノ カングヤマ」
これは持統天皇の詠んだ
「春過ぎて 夏きたるらし白袴(妙)の 衣乾したり天の香久山」
を金田一春彦氏が奈良時代の音で再現したものである。1300年の時の流れは、もはや変化などという生易しいレベルを超えているが、言葉の移ろいとはこういうことなのだろう。
・変化していくコトバに対する身の処し方としては、頑なにならず、かといって無節操におもねることなく・・・といったあたりだろうか。
金田一氏がどうやって奈良時代の音を再現したかはまた別の機会に。