乱読報告ファイル (60) 赤と青のガウン ほか (大学時代クラスメート 飯田武昭)

直近に読んだ「赤と青のガウン」(オックッスフォード留学記)/彬子女王著は面白かった。女性皇族の著者が、その「帯」で書いているように、≪生まれて初めて一人で街を歩いたのは、日本ではなくオックスフォードだった≫その体験記であり、女性皇子として初の博士号取得までの瑞々しい筆致で綴られた留学の日々が読みやすい文体も加わって、一気に読み終えた。人との出会いが如何に大切か、その出会いを生かすも殺すも本人次第と私は日頃から思っているが、その点でも正に、この著者はその出会いを100%生かして生きて来た感がする。

私の個人的な経験では昭和38年(1963年)から1年間、会社から海外語学研修生として当時の西ドイツに着地し、先ずはゲーテ・インスティテュートの南独のローテンブルグ校でドイツ人夫妻の家に寄宿してドイツ人講師から日常会話が不自由ない程度までの授業を3カ月間受けたとことから始まった、その後の海外事業所勤務の経験と幾分か重なり、外国人との初顔合せ場面の描写などに特に興趣が募った。

学生時代に流行ったアガサ・クリスティやエラリー・クイン、クロフツなどの推理小説を読むには読んだが、映画「オリエント急行殺人事件」などを観ると、2時間で観られる映画の方が手っ取り早くて良いと思ったりしたもんだ。 ただ、母親が大変に書物好きで、自宅には『智恵子抄』、「岡本かの子の記」などが日常的にテレビ横の小さな本立てに差してあって、特に「万葉集」には詳しく、戦前・戦後の激動の時代に生きながら、読書仲間で行く「万葉集の旅」には、毎年、本当に楽しみにして出かけていた。私は自宅の文学全集から「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」など、文学小説を読み始めては止めの繰り返し。でもヘルマン・ヘッセの「車輪の下」などは比較的短編でもあり読み終えていた。

西ドイツでは、当時、ハンブルグに会社の支社はあったのだが、日本からの出張者・旅行者も未だ限られた人数しか来られなかった時代(外貨持出し制限が厳しくUS$500迄)だったが、ハンザ都市ハンブルグからの観光で同じハンザ都市のリューベックへ片道約2時間のドライブで土日の仕事の休暇日に連れて行くことも多かった。リューベックは第2次世界大戦で壊滅的な破壊を受けた街の一つであるが、作家トーマス・マンの生家が復元されて保存されているので、出張者・旅行者には、≪これが「ブッデンブローグ家の人々」などの作家トーマス・マンの生家です≫と説明していた。 この説明は私が最初に西ドイツに行った当時のハンブルグ支社長が、初めてリューベックに案内してくれた時に紹介してくれたセリフを、その後もそのまま使っていた。トーマス・マンは「魔の山」の方が有名だったと思ったが、いずれにせよ「ブッデンブゴーグ家の人々」を読み通した人を、私も含めて未だに一人も出会ったことがない。現地での案内人とは、大体こんなものだと、今でも時々情けなく思い出す。

(保屋野)映画、サックスに続き、文学ですか。その底知れないパワーの源は何でしょうか。前に、私は「美術検定」に関し、船津さんの1%と書きましたが、「読書」に関しては多分菅原さんの0.1%以下ではないでしょうか。たまに行く図書館でも、読むのは、「岳人」「ニュートン」「サイエンス」等の雑誌を拾い読みするぐらいで、超読書家だったというデコちゃんのファンとしては情けないと反省しています。

(金藤)「赤と青のガウン」先週 展覧会に一緒に行った友人が持ち歩いていました。話題になっていたそうですね、今なら文庫本が本屋さんの店頭にあるというので気分転換にと帰りに買って帰りました。 まだ、読みかけの本がありますので読み終えてからになります。

自分で選んだ本ばかり読んでいると同じ作家 同じ系統に偏るので、読む読まないは別にして、時々友人たちと今何を読んでいるのか聞きあっています。

 

 

 

オーディオシステムとやらについて

オーディオで飯を食ってたチビ太、普通部時代から白いガウン着て実験室にいりびたってた変人フナツ、それに医学会の大物まで登場してここ数日間のオーディオ談義がさかんである。いずれその道に詳しいホヤノだの関西の粋人飯田なんかも論議に加わるんだろう。
小生の美術音痴についてはすでに告白の通りだが、それなら音楽はどうか、と言ってみても横丁の老人のツブヤキぐらいのところで、ま、それなりに人並みにいろんなものを聞いては来たけれどもオーディオシステムで再生された音がどうで、タンノイがいいか悪いか、なんて議論に加わるような、プロはだしの耳を持っているわけではない。しかし、一応は第一級アマチュア無線技士であり(このあたり、浅野サブローには黙っていてほしいのだが)多少はデンキの初歩を知っているものとして、せいぜいキロヘルツ界隈のデンキを扱う機器ができないわけはないんであって、とにかくなんか作ろうか、という気を起こしたのが退職してから数年してである。手始めに完全キットを購入して、指示通りに作った2A3 シングルアンプは今、小淵沢のセカンドハウスで使っている。ラジオ技術だったか出典は覚えていないがその道の大家の記事を読み、何度か手紙を出して教えを乞うて作った2号機が上掲の1台である。一応最低の測定器はそろえ、もっともらしいデータもとったりしたもので、現在は自宅のメイン機としてもっぱらわがパートナーの愛用にあずかっている。

その後、息子の結婚記念とかなんとか、雑誌の記事をベースに何台か作ったが、現在、自分のデスクにのっているものになると、もうデータをとったりするのも面倒になり、まともに音が出ればいいや、という程度だが、満足して使っている。当初は昔懐かしいレコードプレーヤを音源にするつもりだったが、レコード自体の入手も難しいし、結局、チビ太に頼んで購入した、一流メーカーのプレーヤーを使用。音源よりもこのほうがはるかに高価かつ高性能で、面倒をかけた彼には申し訳ない気もするが、ここしばらくは使うつもりである。

ここまでくるまでに、6BQ5のプッシュ、とかそのほか何台か作ったが、部屋の大きさからしても大型管プッシュプル、なんてのはデンキの無駄遣い、と知って、6V6シングル、というベーシックなものに落ち着いた。スピーカは家に手を入れたとき細工して本棚に埋め込んでもらったデンオンのペアである。

チビ太には申し訳ないが、ここのところ、一応は好きだと思っているチャイコフスキーもドヴォルザークもほとんど聞いていない。今日も暑い。小林旭の ”北へ” にでもするかい。

 

何がめでたい86歳     (普通部OB 船津於菟彦)

「何がメデタイ80歳」なんて話題に成ったり,佐藤愛子さんは100歳越えても回遊魚を宜しく留まるところ無く書きまくっていますね。篠田桃紅・瀬戸内寂聴さん等女性はご長寿でした。

当方も何となく「何がメデタイ86歳」時は1938年。紀元2600年記念と東京オリンピック開催で沸き返っている頃、東京府東京市豊多摩郡中野村に生を受けました。父母・兄弟四人の内憎まれっ子一人残されて寂しいですが、皆様のお陰で86歳を迎え後に二年すれは米寿と結婚60年-ダイヤモンド婚-とこの縦長長屋に移転して早20年が同時にやって来ます。

大学時代キザにシモンーヌド・ド・ボーヴォール「老い」-人生の究極的意味-なんぞ小脇に抱えて歩いていたものですがどれだけ理解してのかサテサテ。そして映画「野いちご」-スウェーデン映画。イングマール・ベルイマン監督作品。名誉学位の授与式に向かう老教授の一日を、彼の悪夢や空想、追憶などの心象風景を交えて描写した作品。スウェーデン語の「Smultronstället」は、「野いちごのある場所」で、同時に「一人になって静けさの中で幸せを感じられる秘密の場所」の意味でもある。人間の「死」や「老い」、「家族」などの普遍的なテーマを扱った本作品は広く共感を呼び、ベルイマンの代表作として高く評価されている。に感動したり今この歳に成り再度読みたいし、映画も観てみたい。

老いとはと縄文時代の平均寿命は何と15歳 明治時代でも44歳。そして平成は80代。令和は100歳かなぁ。生物の中で人は他の動物と違い二本足で立って歩くことと、人の考えて居る事とかを感じる力を持っている。そして仲間を作り共生することでこれだけ地球を制覇して繁栄は続いて居る。何故??? 地球ではアフリカから世界に散らばっていき、今や80億人そして100億人に成ると予想されています。学者の研究ですと80万年前に一度1280人に人類は滅亡寸前になったそうです。これは地球の極寒による事のようで何故生き延びられたかはどうやら「火」を発見し暖を取ったり食事をしたりすることを考えた事だと推論されています。今度は「原爆」で人類滅亡かもね。「過ちは繰り返しません」で発展していくことを願っています。

ひとの老鴬ものを言ぬぞよ 五明
まだ若ししかし老鶯鳴くわいな 金子兜太
もよほして鳴く老鴬や新茶くむ 森澄雄
一老鶯唱名一途法法華経 中村草田男
乱鴬と瀬音に峡の温泉の夜明け 高浜年尾

「年を思わず、年を忘れず」「一読、十笑、百吸、千字、万歩」と言われますがどれも出来ていません。写真の師匠金井浩さんは90歳過ぎても毎日新聞広告の裏面の白紙のところに字を毎朝書かれ居ました。この事を多分実践されておられたのだと思います。出来ないですね。
また佐藤愛子さんの本から引用 「人生は美しいことだけ憶えていればいい」とそして使い捨て時代を嘆いてて、捨て方にも捨て方がある。その捨て方で次第にむごたらしくなっていくのを見るに付け、モノに対する愛着を捨てるということから、人は次第にきめ細かさの心を失っていく様な気がした成らない。と書いておられます。

小生、信州に疎開した時に山羊程度しか居ない上田動物園に母か連れて行ってくれた、そんな時母は何時もちり紙など落いるとゴミを着物の袂にしまい家に持ち帰って棄てて居た。そなことを観て居たので今でもモノが落ちていると拾いたくなる。アァ爺やだなぁ。

シモンーヌド・ド・ボーヴォール「老い」の最後に「人間は早死ぬするか、老いるか、それ以外の道はない。そして医学の進歩した現在、多くの者にとって老齢はいわば宿命であるにもかかわらず、若者はこれに真剣に考える者は殆ど無く、老人と自分には関係の無い異種族だとみなしがちだある。しかし、我々はやがてやってくるで在ろう老い、この人間最後の段階の次期においてこそ、人生の究極的な意味を付与する物では無いか。人生の最後の次期において我々はいかなる者となるか、それを知らずに人間の存在の真の意味を考えることが出来るだろうかと」と結んでいる。そして今や65歳以上の5.4人に1人が認知症患者だそうです。完全なる予備軍。しかし、物忘れと認知症は違い老齢化すれば当然「アレー」となるのは当たり前。

痴呆と言う言葉から「認知症」に代えて、世界的精神学者で沢山の「認知症患者」を観てきた長谷川和夫医師が「ボクはやっと認知症のことがわかった」と言う本は認知症に自らなったその認知症の専門医が書いた本から引用してみたい。長谷川医師は慈恵医大から聖マリアンナ医科大学理事長で認知症専門医で活躍され世界で初めて認知症の確認の「長谷川式スケール」を開発して認知症患者の発見に努力された。その長谷川スケールはこんな質問に答えるだけで判定出来るそうです。皆様如何。

たとえ話も書かれています。「在る子供がつまずいて倒れた、後から来た子供は手助けするのかと思ったら自ら隣に転び寝てその子供と顔を合わせて目を合わせ笑う、そしてその友と一緒に立ち上がる」こんな接し方が「老人」「痴呆症」にも必要であると。「暮らしの障碍」を如何に取り除きその人らしく生きていくように周りがするかで、世界は変わってくる。

まぁ人生100歳時代を謳歌して参りましょう。「老獪」に生き、例え「認知症」になっても怖くない世界を作っていくことが大事のようですね。本日「何がメデタイ86歳」に際して思いついたことを書いて自分を鼓舞しました。

(編集子)無言。おれ、フナツより1年、上。

台風直撃地域の報告です  (47 関谷誠)

陸の孤島となってしまった、本日(8月30日)午後の我が家です。関東の大雨も心配ですね! ご安全に!

浸水したのは、我が家を取り巻く田んぼ(現在休耕田)で、今朝は添付の通り、水は引いていました。

この水は農業用用水路に流れ込みますが、この用水路がオバーフローしてしまうと、住宅への浸水もあり得ます。(浸水時の写真)

この用水路の水利権を我が家も有しており、年数回、この清掃・整備に駆り出されております。メンバーの大半が、日本の農業の将来を暗示するような、後期高齢者で、この先が思いやられます!なお、宅地は、若干の盛り土の上にあり、多少の浸水でも道路までのクセスは問題ありません。

(堀川)絵で描いたような洪水で浸水した家屋の写真ですね!

この状況では家の外に出られないでしょう。水位は何センチ位でどの位で水が引くのでしょうか?何時もこんな写真を見ると思うのですが、トイレの汚物なんかも流れて来るでしょうね、実際にこの様な状況に遭遇したことが無いので無知な質問で恐縮ですが、、、

ローハイドのころ (44 安田耕太郎)

(島田さんのイーストウッド論に便乗です)

スターの仲間入りしてからのイーストウッド(東森さん)は貫録も付きなかなかのものですが、登竜門ともなったテレビドラマ「ローハイド」の頃のi粋がっていて青臭さ一杯の東森さんが何と言っても懐かしい(1959~65年放映、彼は29~35歳時)。Rawhide:raw, 生の +hide 皮、などを意味するが、そこから派生してカウボーイ達のズボンの上から着用する革製のズボンカバーを指す言葉である。他の多くの映画でも描かれた(最も有名な”赤い河” など)、テキサスからオクラホマまでのチザムトレイルを通ってシカゴ・東部の大消費地へと運ぶ鉄道の起点となった、鉄道が敷設されたばかりのカンサスまで牛を運ぶキャトルドライヴ(Cattle Drive)に従事する荒くれ者の男たちカウボーイを描いたドラマ。名画「赤い河」を観る前であり、カウボーイとはキャトルドライブで牛を運ぶ男たちをそう呼ぶことを初めて知ったのが「ローハイド」だった。主題歌(下記URL)では歌の合間に牛を追う掛け声と鞭音が鳴り響いている。多い場合には1万頭近くの牛を運ぶキャトルドライブは、牛が狂ったように暴走するスタンピードの危険もあり、困難一杯の一筋縄では行かない仕事であった。

話が飛躍したが、クリント・イーストウッドのデビュー作品と云っても良い「ローハイド」の思い出である。「ララミー牧場」「ルート66」「サンセット77」「ボナンザ」「ライフルマン」「ローンレンジャー」などと共に青春時代、アメリカに興味を持つに至るきっかけとなったテレビドラマ群だった。

(関谷)私は、この会の、どう云う訳だか!、メンバーとなって、NHKBSのシネマシアターを中心に、何時か観て、コメントできるかとの思いから、本日の「次郎物語」を含め約900本を録画、BD・CDに落とし込んでいますが、今まで、まともに観たのは精々2~3本!貴兄がこなした本数はunbelievable!

私にとり、この先、身体が動けなくなり、ボケる前の楽しみとなりますかナ!子供の頃に、欠かさず観ていた白黒TV時代の「ローハイド」は懐かしいイ!

(金藤)クリント・イーストウッドが歌うYouTubeありがとうございました。顔に手をやってポーズですか?照れているのでしょうか?歌も上手ですね「ローハイド」私は観ませんでしたが、兄たちが観ていましたのでローレン ローレンのテーマ曲が流れていたのは覚えています。

ローハイド」(Rawhide) は、ネッド・ワシントン(英語版)が作詞し、ディミトリ・ティオムキンが作曲した、ウェスタン音楽(英語版)の楽曲。 オリジナルは、 フランキー・レインが吹き込んでいます。 この曲は、CBSテレビで1959年から1966年まで放映された西部劇シリーズ『ローハイド』のテーマ曲として使用されています。

(ウイキペディアによる補足)

英語の”Rawhide” は、「ロー(raw、生の)」+「ハイド(hide、皮)」、つまり「生皮(きかわ)」「生皮の鞭」「生皮の鞭で打つ」などを意味するが、そこから派生してカウボーイ達のズボンの上から着用する革製のズボンカバーのことを指す言葉でもあり、この番組では初期にそのように説明されていた。

(編集子)小泉さん、頼りになる仲間が登場したようで。”ローハイド” そのものの写真を探しましたがいいものがなく、安田兄の思い出にあるローハイド、ならこの人。確か水泳事故で亡くなったのでは?

コロナを見くびらないこと   (普通部OB 篠原幸人)

7月・8月とコロナはまた増え続けています。つい最近は実妹がコロナ後の肺炎+誤嚥性肺炎で入院しました。最近はコロナの後遺症は軽症例も多いのですが、患者数は確実に増えているようです。

確かに昨今はコロナはもう「風邪のようなもの」と片付けられることが多くなりましたが、肺炎ばかりでなく、「元気が出ない」・「集中力がなくなった、ボーとして考えがまとまらない(以前にBrain Foggingという話をしましたね、覚えているかな~)」・「一寸働くと、体が鉛のように重く動かなくなる(クラッシュ)」などの後遺症患者さんが増えています。東京都も「コロナ後遺症専門ポータル」を作っているほどです。特に一回目感染より、二回目・三回目の方が後遺症は重いようです。「俺は3回もコロナに罹ったぞ」と威張ってはいられないのです。おそらく一部のコロナウィールスは自覚症状が無くなっても体のどこかに生き続けているのかもしれません。

コロナ後遺症は長く続く「咳・痰」・「微熱」・「呼吸困難」・「味覚障害」などの他に、「脳卒中」・「自律神経異常」・「心疾患」・「腎臓障害」その他、本文の冒頭に書いた症状も含めて200以上の後遺症が知られています。

予防は一つ。コロナに罹らないこと。それには、公衆に接する時はマスクを使用・手洗い・うがいが有用で、万一罹患したら1-2か月は無理しないことです。「俺は大丈夫だろう」という過信が一番危険です。 しかし何でもコロナのせいにすることも問題ですね。私も最近、右腕の筋肉痛でゴルフのバックスイングやテニスのサーブの際に痛みを感じますが、これもコロナの後遺症とするには一寸無理がありますかね~

 

乱読報告ファイル (59)バリ山行     (51 斎藤邦彦)

藪漕ぎの小説「バリ山行」(松永K三蔵著)が芥川賞に選ばれました。私は文藝春秋9月号で読了しました。バリ山行とは「バリエーション山行」の短縮でバリ島旅行ではありません。

(1)藪漕ぎの思い出

藪漕ぎはワンダラーにとってはお馴染みの山行形態で非常時にも対応できる登山の技術を学ぶ重要なプランですが、夏合宿等では数々のエピソードを残しており仲間との「苦難と達成感の共有」の面もあったような気もします。

先輩から聞いた話も含めいくつかその例を挙げると

・這松の隙間に足を踏み抜いて身動きできなくなった。(ふりをして休んだ。)

・安いニッカホースを買って行ったら一日でボロボロになった。

・一日にコップ一杯の水しか自由にさせてもらえなかった。

・のどが渇いて我慢できず笹に残った朝露を歩きながら軍手にしみこませて啜った。

・一日中藪の中でもがいて地図の1cmしか進まなかった。

・一日中藪漕ぎをして午後に良いテントサイトが見つかったと思ったら今朝出発した場所だった。

等々思い出話のネタになっています。

(2)小説「バリ山行」について

この物語では兵庫県の中小企業に勤める30代の主人公が社内交流のため会社の登山部に入り休日に六甲山を仲間と一緒に歩いているうちに次第に山歩きの魅力に嵌っていきます。そのなかでバリエーションルートを毎週山行している同僚と出会い、初めてバリ山行を体験しその険しさや厳しさを知るというものです。

ストーリーは会社の方針変更などビジネスの変化に翻弄される中小企業の社員の感情とバリエーション山行の困難さを重ね合わせて展開しています。今までの山岳小説の多くは岩や雪をテーマにしたものが多かったように思いますが、地味な藪漕ぎの魅力や難しさをうまく取り上げて表現していると思います。非常に簡潔で平易な文章なので一気に読めるのも魅力です。

藪漕ぎファンにはお勧めの一冊です。

(編集子)面白い本が出現したものだ.編集子現役のあいだでは 藪漕ぎ というのはあくまでワンデルングの一要素(多くの場合ネガティヴな)に過ぎなかったし、自分も三国山荘創設の前後によく知られた 上越の藪 を何度か経験したくらいしかない。現在の現役の活動の中には “ヤブ” というジャンルが明確に定義されているようだが、自分の中では壮烈な稲包稜線通過第一号を目指したはずで惨敗した苦い経験を思い出すだけで、変われば変わったものだ、という感想しかない。しかしこれも若手(小生から見れば、の話だ、もちろん)OBの中での100名山レースのトップを走っているク二ヒコならではの感想だから親近感が生まれる。現役諸君にどなたかのルートで伝染していけばいいのだが。

エーガ愛好会 (279)僕の映画遍歴-イーストウッドのこと  (55 島田光雄)

今から7年ぐらい前だろうか、いくら見ても切りがない韓国ドラマを卒業し、1時間半から2時間で集中して楽しめる映画を徹底的に見てみようと一大決心をして、今日まで見続けている。継続していると洋画で1800本、邦画で500本になってしまった。対象ははずれが少ないテレビ放送の映画として、不在中でも後で見れるようにと録画、ダビングを行った。そして、何とか見逃しがないようにと週次で録画予約をすることが習慣となってしまった。最近ではすでに見たことがある映画が多く、覚えきれないので、一覧表を作成し、チェックしている。ただ、どこかのタイミングで、見ていない有名な映画を一本釣りで見ていくのも次の楽しみ方かと思うようになってきた。これらの中で、特に印象が残り、いつ見ても、何回見てもおもしろい、人生が映画そのものであるクリント・イースト・ウッドに焦点を当ててみたい。クリント・イースト・ウッドは単なる俳優だけではなく、どちらかというと監督としても大成功をおさめており、二束の草鞋が最も似合う超有名な映画人の一人である。

クリント・イースト・ウッドは何といってもダーティハリー全5作。ニヒルな刑事がかっこよく、事件を解決していく。あまりにも強くてスマート、ストーリー展開が早いので、あっという間に見終わってしまい、後味もすっきりしている。
こんな飛ぶ鳥を落とすように超有名な映画スターになったクリント・イースト・ウッドも映画の世界に飛び込んだ当時は売れない俳優で、何とかローハイドの役につき、次を狙っていたところ、同じく、無名に近かった映画監督セルジオ・レオーネのオファーにたまたま縁があり、主役を務めることとなった。逆に言うと無名のため、出演料が安く、有名俳優が断ったための結果である。この二人の出会いが、マカロニウエスタンの最高傑作を生みだすことになり、クリント・イースト・ウッドもはまり役のダーティハリーにつながる作品に巡り合ったと考える。このドル箱3部作「荒野の用心棒」、「夕陽のガンマン」、「続夕陽のガンマン」は監督・主演の知名度を徹底的に上げ、西部劇がヨーロッパで人気を博することとなる。特に最初の「荒野の用心棒」は東宝から「無許可によるリメイク」として訴訟をおこされたため、アメリカでの公開が遅れ、クリント・イースト・ウッドがそれまではヨーロッパでの人気が高かったことが面白い。また、アメリカ公開後はマカロニウエスタンのアメリカでの知名度を上げることとなり、この3部作がその後の西部劇に大きな影響を与えた。
この3部作を見て、興味深かったことは1作目、主役1人、2作目、主役2人、3作目、主役3人となり、クリント・イースト・ウッドの影が薄くなり、監督の人気を盤石にしたことだ。ただ、この後、クリント・イースト・ウッドはアメリカに転身し、西部劇でもそれ以外でも完全なる主役の座で大スターの道を歩むことになる。なお、2作目のリー・ヴァン・クリーフ、3作目のイーライ・ウォラックについてはこれ以来、私にとっては注目の俳優に位置づけている。
アメリカ転身後はドル箱作品で稼いだお金で、映画製作会社を設立、自ら脚本にも一部参加して、「奴らを高く吊るせ!」を公開。007シリーズより高い興行収入を上げ、成功の道を進み始めた。その後の西部劇の作品では、ドン・シーゲル監督の「真昼の死闘」、ジョン・スタージェス監督の「シラーノ」と続くが、自らも監督を行い「荒野のストレンジャー」、「アウトロー」、「ペイルライダー」といつも法外にいる一匹狼を演じている。そして、アカデミー賞4賞獲得の「許されざる者」は、クリント・イースト・ウッド最後の西部劇で、ローハイドから34年、監督として、俳優としての西部劇の集大成として世に送り出した作品となった。この作品が表現している勧善懲悪、友情、復讐心、家族愛、弱者救済は監督としての渾身の一撃となっている。

そして、西部劇とは別の道ではドン・シーゲル監督との出会いが大きい。二人は共同製作者となり、西部劇から離れた「マンハッタン無宿」を公開し、いよいよダーティハリーの本格的な製作に入る。ダーティハリーシリーズは治安が悪かった当時のアメリカの世相を反映している作品で、ハリウッドのアクション映画の代表作となった。また、この第1作目により監督のドン・シーゲルと主演のクリント・イースト・ウッドはそれぞれ高収入を得て、確固たる地位を築くこととなった。なお、第4作目の監督はクリント・イースト・ウッドが務めている。
クリント・イースト・ウッドの初監督作品が「恐怖のメロディー」。恐怖の女性ストーカーのスリラー。15年後にストーカーの鬼気迫る演技で話題となった「危険な情事」の先駆けの作品。初作品から人気を博し、監督としても認められるようになったもの。当時、子弟コンビであったドン・シーゲルもバーテンダーで出演している。そして、「アルカトラスからの脱出」で袂を分かつまでドン・シーゲルの手法を学び、共に監督としての名声を博した。その後は毎年のように監督作品を出し、自ら出演しない作品も手掛けるようになった。
その出演しない作品の中で一番印象に残っているのが「インビタス/負けざる者たち」。名優モーガン・フリーマンが南アフリカ大統領ネルソン・マンデラから自伝の映画化権を買い、監督をクリント・イースト・ウッドに依頼した作品。南アフリカ初の黒人大統領がアパルトヘイト(人種隔離)を克服し、スポーツの力(ラグビーワールドカップ)を借りて、国をまとめていく感動の映画。モーガン・フリーマンが人格者の大統領を好演しており、人柄含めピッタリの配役となっている。クリント・イースト・ウッドとモーガン・フリーマンの共演作の「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」についても、7歳違いでそろぞれ老練なの味を出し、モーガン・フリーマンの出演映画も楽しみに見ている。
その他、クリント・イースト・ウッドの映画は扱う対象も幅広く、死傷者を出した山岳のスパイ映画「アイガー・サンクション」、戦争映画の「父親たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」等意欲的に映画製作に取り組んでいることが垣間見える。
現在、94歳で最後と言われる映画製作に取り組んでいるが、90歳前後で作成した「運び屋」「クライ・マッチョ」はカッコよさは無くなったが、深みがあり、この年で全体的に飽きさせないこんな面白い映画が作成できるのかとただただ関心しきりである。「クライ・マッチョ」では90歳とは思えない、カウボーイ役を演じており、若かりし頃のイメージと重なり、感慨深げに見ていた。次の作品にも期待したい。

(編集子)ダーティハリー(1)を見た時の痛快な印象はたしかにあった。ただ小生にナンバーワンを選ばせてもらうとするとやはりグラントリノ、かなあ。もちろん、彼も俺も若かったころ、テレビで興奮したローハイド、は別にして、だけど。

 

一曲、聴かせようか?  (大学時代友人 飯田武昭)

諏訪湖周辺の逍遥から帰った翌々日に、ピアノ教室の発表会があり、一曲吹きました。

私のサックスのピアノ伴奏を付けて頂いている講師が、低学年の生徒さんを中心のピアノ教室を開いておられ、その発表会に、おっさん(お爺さん)一人、毎年参加して一、二曲吹いています。

私以外は全てピアノ演奏ですが、第2部のトップバッターで、今回は練習も足らずにラテン系のキエンセラ(Quien Sera)を吹きました。エントリー24名が猛暑にも関わらず、全員参加してくれたことを、ピアノ講師の先生が最後の挨拶で、弥や涙ながらに話されたことが印象に残った楽しい発表会でした。

(編集子)才能のある人はうらやましい。

かっこいい、おじさま。
でも、ズボンは俺と同じ太さで安心。
(PCがダウンしてしまい、しばらく休載を余儀なくされた。思い切って新型(今度はとうとうNECになった)を購入して、これが再開第一号になる)