KWV ワイン のこと

(飯田)

今までブログで話題になってないので知りませんでした。

慶應ワンダーフォーゲル部(KWV)がワインブランドを登録して販売している事を本日(5月19日)初めて知りました。

本日、自宅近くの和食屋さんで食事をしたら、一枚シートのドリンクメニューにKWVワインがあって驚きました。調べてみると下記のようにアフリカ語(そんな言語があるのかどうか知りませんが)とのことです。

1918年、ワイン産業の安定を求めて、ブドウ栽培農家によって協同組合であるKWVが設立されました。KWVはアフリカ語で「南アフリカブドウ栽培協同組合」を意味する“Ko-operatieve Wijnbouwers Vereniging Van Zuid-Afrika Beperkt”の頭文字の一部を取ったもの。それ以前は小規模農業として、産業としての認識もなかったワインづくりは、KWVの設立により、国をあげて産業として、ワインの品質向上や輸出増進へと取り組むようになったのです。そして、1925年には南アフリカ独自の品種ピノタージュを誕生させ、1957年には冷却濾過を採用するなど、数々の実績を残してきました。

(編集子)あはは、飯田兄、我われ愛飲してるのは事実ですが登録販売はしてません。部の規約違反です!

(河瀬)KWVワインの歴史をありがとうございました。農業協同組合の略語だったのですね。 5年前に南アフリカでこのワインを飲んでみたら意外といけて安いのでびっくりしました。南アフリカワインはフランスの系統なので一般にとても安くて美味しいのです。その後日本でも見かけるようになり、私の近くでは赤白各500円で買えます。数年前KWVの新年会で「KWVワイン」と、これを披露したことがあります。

(関谷)50数年前の学生時代、KWV先輩の斡旋で、日本橋の「国分商店」でアルバイトをしていましたが、そこで、KWVワインと出会いました。その後、社会人となり、南アに出張した同僚から、土産に「KWV」をもらい、その比較的ヘビーでドライな赤ワインを気に入りました。KWV万歳!

(飯田)KWVワインは慶應ワンゲル部員には、そこそこ膾炙されていることを知りました。それにしてもアフリカ語なる言語を観るとドイツ語とフランス語が適当に混ざっている感じの言葉で、河瀬さんの情報では南アはフランス系のワインとのことですが、南ア自体はイギリスの植民地だったと思っているとそれ以前はドイツ領だった時もあり、オランダ語が一部に通用しているようで、ワイン一つとっても複雑ですね。今度はリカー量販店で見つけたら一度飲んでみたいと思います。

(編集子)このKWVワインの、実質的には日本への紹介者は(上記関谷君の解説にもありますが)、KWV35年副総務だった、森田半兵衛(当時洋典と名乗っておられ、我々仲間ではヨーテンさん、でした)さんです。森田さんが卒業後国分商店に勤務され、そこでこのワインを知り、輸入を開始されたのです。   我が偉大なるKWVはこうして全国のんべいに至福の時間をもたらした! こういうことをぜひ歴史に残したいですね。

PS ここのところ一部のKWVers と行くようになった、小生馴染みのバーにはまだおいてありません。次回までにはおいてもらうよう、ママにかけあっておきます(ついでに、お店の格からいうとちと違うのですが、日本製ジン  ”翠” も小生専用?においてもらいたいと思ってます。

 

エーガ愛好会 (217) 7月4日に生まれて (普通部OB 船津於菟彦)

『7月4日に生まれて』原題: Born on the Fourth of July)は、1989年制作のアメリカ映画。ロン・コーヴィックの同名の自伝的小説(1976年)を映画化した作品で、ベトナム戦争を扱った戦争映画。オリバー・ストーン監督。

アメリカ独立記念日に生まれたれヴェトナム帰還兵の青年が、さまざまな心の葛藤を経て反戦運動に身を投じてゆく姿を実話を基に描くドラマ。ロン・コーヴィックの同名小説を基に製作・監督・脚色は「トーク・レディオ」のオリヴァー・ストーン、共同製作はA・キットマン・ホー、共同脚色はR・コーヴィック、撮影はロバート・リチャードソン、音楽はジョン・ウィリアムス(が担当。出演はトム・クルーズ、ウィレム・デフォーほか
トムクルーズの名演が目立つ。車椅子の役作りで一年間車椅子生活したとかの逸話も降る。
如何にも「オリバー・ストーン」監督らしい映画。
父親はウォール街で成功を収めた株式仲買人。イェール大学を1年で退学後、ベトナム戦争で兵役に就く。退役後、ニューヨーク大学でマーティン・スコセッシに師事。74年に「邪悪の女王」(日本劇場未公開)で監督デビューを果たすが、アカデミー脚色賞を受賞した「ミッドナイト・エクスプレス」(78)や「コナン・ザ・グレート」(82)、「スカーフェイス」(83)などで脚本家として頭角を現す。その後、ベトナム戦争を題材にした「プラトーン」(86)でアカデミー作品賞・監督賞受賞し、監督としても才能を開花させた。以降、「ウォール街」(87)、「7月4日に生まれて」(89)、「JFK」(91)、「天と地」(93)といった社会派の作品を監督し、地位を築く。90年代後半からは、映画プロデューサーやドキュメンタリー番組の監督としても手腕を発揮。9・11全米同時多発テロ後は、「ワールド・トレード・センター」(06)、「ブッシュ」(08)といった作品を発表した。中南米の指導者たちに強い関心を寄せていることでも知られる。その他の監督作に、クエンティン・タランティーノが脚本を書いた「ナチュラル・ボーン・キラーズ」(94)、「ウォール街」の続編「ウォール・ストリート」(10)
当時のベトナム戦争のアメリカでの影響を描き、共和党と民主党の違いもオリバー・ストーンらしくやや極端に描いているのも面白い。アメリカにとってはベトナム戦争の若者への後遺症は計り知れない物が在り現在まで糸とを引いているようである。そんな「善良な米国人」を描いている。 中々興味ある映画でした。

エーガ愛好会 (216) ララミーから来た男  (34 小泉幾多郎)

アンソニー・マン監督がジェームス・スチュアート主演での傑作西部劇「ウイン
チェスター銃‘73」のヒットから、より娯楽性の強い「怒りの河」「裸の拍車」「遠い国」「ララミーから来た男」を連作した最後のコンビ作品。西部劇以外にも3本あり通算8作品。娯楽性と雖も、単純な善悪の戦いというよりも、この監督特有の骨肉の争いたる家族の愛憎と確執が顕在化している。偶々この映画のプログラムが出てきた。観た1955年4月と言えば、大学入学の年、ロードショー劇場だった有楽座で観ている。

ワイオミング州ララミーからニューメキシコ州のコロネードという小さな町へ荷物を運んできた男ウイル・ロックハート(ジェームス・スチュアート)が主人公だが、町を牛耳っている大牧場主アレック・ワーゴマン(ドナルド・クリップス)の息子デイヴ・ワーゴマン(アレックス・ニコル)と牧童頭ヴィック・ハンスポロ(アーサー・ケネディ)達に、牧場管轄内の塩田のことで因縁を付けられ酷い目に遭わされるところから始まる。主人公は単に荷物を届けるために来たのではなく、騎兵隊だった弟がアパッチ族に襲撃され 死んだが、どうやらアパッチ族に高性能の銃を売りつけた白人がいた筈とあたりをつけてやって来たのだ。弟の仇を探しながら牧場主の姪のバーバラ・ワーゴマン(キャシー・オドンネル)との恋、その牧場主と対立するハーフムーン牧場の女性牧場主ケイト・キャナディ(アリーン・マクマホン)との牧場主同志 の愛が育まれる。

ニューメキシコのロケーションを活かした撮影はなかなか良く、牛に囲まれた殴り合い、岩山でのアクション等々、動的シーンに趣向を凝らす。仇を探求するウイルが息子デイヴや牧童頭ヴィックと対決するうちに、ウイルに手の甲を撃たれたデイヴが、逆にウイルをひっ捕らえ、至近距離で手の甲をぶち抜くといったえげつない暴力連鎖のうちに、アパッチ族に高性能連発銃を売りつけたのがヴィックであることを突き止める。しかし復讐に燃える男とその仇という明確な二者が対立するというより大牧場主一家の対立が本作の骨子で、失明まじかの牧場主が虚栄心に狂ったボンクラ息子と牧場主から信頼され息子の面倒を任された牧童頭との後継者争いを巡る確執の顕在化により家族の崩壊へと進んで行くドラマが中心になっている。連発銃に絡みヴィックがデイヴを殺してしまう。ウイルはヴィックを連発銃の隠し場所の山の頂に追い詰め、崖から銃と弾薬を落下爆破させ、ヴィックは約束を破られたと怒ったアパッチ族に殺されてしまうのだった。大牧場主一家の愛憎ドラマも中心人物が、芸達者を揃えただけでなく、西部の大地がさわやかに描かれていただけにJ・スチュアートの人柄もあり、後味は悪くはなかった。

ララミーLaramie)は、アメリカ合衆国ワイオミング州の都市であり、オールバニ郡郡庁所在地である。2010年国勢調査で、人口は30,816人だった[1]。ワイオミング州南東部のララミー川沿いにあり、州都シャイアンの西、州間高速道路80号線アメリカ国道287号線が交差するところにある。

ララミーは19世紀半ばにそこでララミー川を横切ったユニオン・パシフィック鉄道沿線に開拓された。ワイオミング大学、ワイオミング工科大学およびララミー郡コミュニティカレッジ支部が本拠を構えている。ララミー地域空港が利用可能である。ララミー市ができる以前から存在した陸軍のサンダース砦の廃墟が国道287号線沿い、ララミー市の真南にある。

(編集子)コロラド州にあったHPの事業部を訪問した後、山好きだった当時の社長のお供でワイオミングを縦断してグランド・ティトン(”シェーン” の有名なラストシーンに現れる名峰)の眺望を誇る場所まで行ったことがある.途中で、(ははあ、これがララミーかあ)と思いながら、時間の関係もあってコーヒースタンドに寄っただけで通過してしまった。社長を騙してもう少し時間を過ごすべきだった。セーブゲキファンの流れで言えば、いわば聖地であるツームストンへの訪問はどうも実現できそうにない(ノルマンディのオマハビーチとともに心残りである)が、せめてもの慰めはジョン・フォードの数々の名作の場になったモニュメントヴァレーはその一角で宿泊もし、堪能できたし、アイダホの工場を訪問したときは近くにオレゴンとレイルのふみあとが保存されていたので出かけてみたことが思い出される。いろんな作品に登場するサンタフェはむしろ芸術家たちのたまり場みたいな街になっていて、大分違ったイメージだった。赤い河のテーマになっているアビリーンなんかはどんなだろうか。

””空母いぶき” を見て考えたこと” について  (HPOB 坂東正康)

刺激的なエッセイをお送りいただきありがとうございました。

お返しというのも変ですが、たまたまぼくも、2019年5月30日付けのブログ記事に《日本国憲法九条と日米安保条約がいっしょになった場合のわかりやすさとわかりにくさと、「空母いぶき」という映画》という題名のものを書いていましたのでお送りします。下がその引用です。

それから、自民党は憲法改正に熱心ですが、その自民党の「憲法改正草案」についても《自民党の「憲法改正草案」の性格について》(2021年12月17日)

http://sunny-sapporo.cocolog-nifty.com/blog/2021/12/post-c1eaa9.html

というブログ記事(ぼくの意見)を書いています。お目汚しですが、お時間があれば、下と合わせてお読みいただけたら幸甚です。

坂東正康(HP時代にGiさんにお世話になった者です)

2019年5月30日 (木)

日本国憲法九条と日米安保条約がいっしょになった場合のわかりやすさとわかりにくさと、「空母いぶき」という映画

かわぐちかいじ作の劇画「空母いぶき」を映画化した作品を観てきました。「空母いぶき」とは、日本国憲法九条を今後どう運用していくかに関する近未来の事例研究的なシミュレーション映画です。女性の観客が意外に多かったので少し驚きました。ぼくは映画の評価は払った金額に見合う価値があったかどうかで決めますが、支払金額に見合う価値は十分にありました。ここでは原作ではなく映画作品を対象に話を進めます。

映画なので、原作にはない娯楽性(女性に人気の男性俳優の配置や艦内からのネット配信描写やその他の日常生活関連描写)があり、それで僕が勝手に予想していた以上に観客の広がりが(少なくともぼくのいた映画館では)あったのでしょう。

いつかはわからない近未来が舞台なのですが、その時の日米安保や日米地位協定がどうなっているのかも、よくわかりません。現在よりもその役割が後退しているようにも思われますが、詳細は不明です。一方、国連の役割(安保理や国連軍)が現在よりも(もともとの意図通りに)強化されているように描かれていますが、これも詳細は不明です。そういうなかで、そして憲法九条の下で戦争には至らない自衛のための戦闘(自然権としての防衛権)がどういう形で可能かを描いた12月下旬のある24時間の物語です。

最新鋭の武器を使った現在の海戦がどういう風なのかを、現在のハイテク戦闘がどう瞬間的に決着がつくのかを最新のコンピューターグラフィクス映像で知るというのもぼくの関心事のひとつでした。

日本国憲法のユニークさは、象徴天皇制(第一条)と(侵略目的の)戦争放棄・軍備放棄(第九条)の存在にあります。これらは他にもわかりやすいユニークさです。しかし、日本国憲法は、同時に、他にはわかりにくいユニークさというものも包含してします。

この前の太平洋戦争で大日本帝国軍隊に対して嫌な体験記憶を持った連合国側の国々は、敗戦後の日本における国家神道的な天皇制の復活と再軍備を非常に恐れていました。彼らは天皇の戦争責任の追及を強く主張していたし、戦後の日本には軍事力を持たせないと論じていました。

彼らは、再軍備につながる可能性のある天皇制の存続には反対でした(なぜなら天皇には軍隊の最高指揮権であるところの統帥権を有していた)。しかし、敗戦処理をスムーズに混乱なく進めるためには、つまり、日本占領政策の遂行にともなう戦勝国側の犠牲者を発生させないようにするためには、何らかの形での天皇制の存続が必要だったので(とくに米国が必要と判断したので)、米国の主張によって、天皇制は存続することになりました。天皇制を廃絶すると旧軍人をコアとする暴動がおこるかもしれない。それを米国は恐れました。これが日本国憲法における象徴天皇制誕生の背景の景色です。

しかし九条ができたからといって日本における防衛体制を空白のままにはしておくということはできません。当時の世界情勢・アジア情勢は、日本を丸腰のままにしておくほど安穏ではありませんでした。だから戦勝国軍の軍隊(国連軍を想定)が防衛力として日本に駐留することになったのですが、実際には、朝鮮戦争を契機として、駐留部隊は国連軍ではなく米軍だけになり、米軍駐留と米軍による政治支配の中身は、日米安保条約&日米地位協定によってきわめて治外法権的な内容のものとなります。

日本国憲法「第九条」は、「戦勝国・占領軍と日本との安全保障システム(その後の日米安全保障条約および日米地位協定)」との抱き合わせをひそかな前提として(ごく一部の当事者以外にはその背景と関連が隠されていたという意味でひそかな前提として)成立しました。つまり、発足当初から「侵略戦争は日本としては放棄したけれど、第三者の遂行する侵略戦争の片棒を担ぐことができるという意味」での「矛盾」がビルトインされていましたが、当初はその矛盾がよく見えませんでした。しかし時間の経過とともに矛盾が明らかになってきました。

「日米安保条約と日米地位協定の組み合わせ」とは片棒担ぎの仕組みの取り決めです。きわめて治外法権的な内容のもので、これらに係る合意事項や決定がすべて公開されているわけではありません。これが他にはわかりにくい九条がらみのユニークさです。

言葉を換えれば、現在、沖縄や横田や横須賀や厚木などに駐留している米軍は、いわば侵略戦争の得意な「傭兵」です。ただし、この傭兵は日本という雇い主よりも権力がある。雇い主を実質的に支配しています。先日は、「専守防衛の自衛隊」が政府の解釈改憲によって「集団的自衛権」の行使に組み込まれました。

眼を「九条」だけに向けて、つまり「平和憲法」だけに向けて、そのビルトインされた矛盾を見ないようにしている人たちが多いことも事実です。この発想だと、たとえば場面を国内に限定した場合、警察の存在は不要になります。

警察は間違いなく国家権力の手足ですが、その手足は、泥棒や強盗や殺人事件やひどい交通事故が発生した場合には、市民の安全の確保に動きます。そういう事件は、ヒトの多層的な脳の構造に起因するせいか一定の頻度で必ず発生するので、警察のような機能の存在を不要だと考える人は決して多くはない。しかし、皆無というわけではありません。

自分の身は銃を使ってでも自分の手で守るのが基本、だから国家は警察も含め余分なことはしないほうがいい考えるひとたちの主張にも説得力があります。そういう人たちは米国に多い。だから、「government of the people, by the people, for the people」(人民の、人民による、人民のための政治。国民ではなく人民・人びと、政府ではなく政治)をそういう文脈で解釈し直すと、米国におけるdemocracyと銃の関連の背景が根深い状況も見えてきます。

警察というものを、特定の暴力から、(警察の持つ)暴力を使って市民を保護する機能だと考えると、警察も暴力装置になります。暴力装置という意味では軍隊と同じです。

現在の国際政治においては、その警察にあたるのが「国連軍」ということになっていますが、実際には(映画の「空母いぶき」とは違って)重要な局面では機能しないので、「自分の身は銃を使っても自分の手で守る」ために暴力装置であるところの軍隊(ないしはそれに相当する機能組織)を、装置の優劣と大小の差はおおいにありますが、国境線を持つ各国がそれなりに所有しています。

日本における先ほどの「矛盾」するもの、つまり、「平和を希求する、他国を攻める戦争はしないしそのための軍隊も持たない」、しかし、同時に「他国を攻撃する第三国の軍隊はその国の意のままに自由に駐留させるしそのための支援もする、要請があれば、実質的にはその第三国といっしょに自衛力を使って他国に侵攻する」という矛盾する意思を巧妙に組み合わせたものを、今後、平和やデモクラシーという観点からどのように納得できる形に解きほぐすか、それが現在と今後の課題です。

そういう課題を解決しようと思ったら、九条2項や日米安保条約・地位協定との関連事項を見直すというのは、集団的自衛権の行使が好きな好戦的なタイプの人たちの発想(「押しつけ憲法なので見直したい」という発想)とはまったく違った意味で、まっとうな憲法再検討の理由付けになるかもしれません。

「傭兵」との実質的な関係や「国連」の実質的な能力が不透明な近未来の環境で、自衛隊という既存の暴力装置を使った「戦争に至らない、防衛のための戦闘」というものの事例研究・事例シミュレーションのひとつが「空母いぶき」という映画のようです。

(編集子)お世話になったのはこちらの方で、筆者は1973年に(当時の)横河ヒューレットパッカード(YHP)に入社、以後、小生退職までほとんどの年月、得意の英語と入社後の猛勉強で習得したSE技術で、小生が最も頼りにした仲間の一人。いまでは若い男性群にはめずらしくないひげを当時からはやし、もう一人、モミアゲを伸ばした男と二人、ひげバンドーもみあげアンド― と並び称され、スガチューのIBMだのヤブのフジツーだのに小僧扱いされた小生の負け戦を支えてくれた戦友であり、エーガ愛好会グループでおなじみの元HPOB連中のいわば兄貴株であった存在。彼のブログは本稿とは違って、個人ブログの王道を行ってるホンモノである。URLは http://sunny-sapporo.cocolog-nifty.com/blog/で、プログの名前は「高いお米、安いご飯」。ご高覧をお勧めする次第。

都電荒川線-「東京さくらトラム」探訪記  (普通部OB 舩津於菟彦)

都電には、かつて文字通り“都民の足”として隆盛を誇った時代がありました。最盛期の昭和18年度には、一日平均193万人ものお客様が利用されました。系統も41系統を数え、都電が都内を縦横に走っていました。しかし、自動車交通量が増大していく流れの中で、軌道敷内への自動車乗り入れによる輸送効率の低下が顕著となり、昭和42年から昭和47年にかけて181kmもの路線の廃止を余儀なくされました。

熟年生は慶應義塾普通部が未だ幼稚舎の在る天現寺に仮住まいしていたときに入学して中野の自宅から信濃町〜七番の品川行きに乗り天現寺に通学していました。当時の定期券がありますが何と一月180円で国鉄の中野-信濃町より高かったんです。そして今は一回乗車170円、一日乗車券400円 学割一月分が今の乗車賃です。
当時の天現寺駅は車庫が在り都電のセンター的な駅でしたね。7番の品川行き。中目黒から17番。渋谷から34番でしたか?それぞれ登校下校仲間でした。定期券に全路線図が在り。インクでなぞったところが乗車区間でした。懐かしいので王子駅前から三ノ輪橋駅まで乗車してみました。「TokyoSakuraTram」の愛称ですが櫻は終わり、今は沿線は薔薇&ROSEです。綺麗です。

現在では、路線の大部分が専用軌道であること、代替バスを運行できる道路がないこと、沿線住民等の強い存続要望があったことなどにより、三ノ輪橋~早稲田間を走る荒川線のみを運行しています。
営業キロはわずか12.2kmですが、令和3年度は一日平均約4万3千人のお客様にご利用いただき、地域に密着した交通機関として親しまれています。
荒川線の魅力を国内外に積極的にアピールし、更なる利用者の誘致、沿線地域の活性化に寄与していくため、外国人を含む観光客の方にも親しみやすい路線愛称を付けることとし、広く意見募集を行いました。その結果平成29年4月に愛称が「東京さくらトラム」に決定しました。

 

”空母いぶき” を見て考えたこと

全くの偶然で、CSで放映されていた 空母いぶき という映画を見た。原作はマンガの世界では高い評価があったようだが、映画の世評はよろしくない。グーグルに拾ってある投稿もどれ一つ好意的なものはない。たしかにエーガ、という枠をはめてみると素人の小生にもなんだかなあ、という程度の作品だった。グーグルによれば、自衛隊が本作品の支援には消極的だった、とか、技術面での描写のずさんさ、解決の唐突さ(最後は五か国の潜水艦が突如援助にきて救われる)などという指摘があり、そのあたりには同意する。大分前に、”亡国のイージス” というのはもっと真剣に見たものだが。

作品の出来栄えについては小生も落第点をつけるが、その背景としてあらわれる、”平和国家“を標榜している我が国の政治判断の難しさ、例えば、戦闘はするが戦争はしない、といった禅問答みたいなやり取りとか、防衛出動をなぜださないのかという議論などは、自国が侵略されているという現実に際した、ほかの国ではまず起きえないだろうと感じたし、首相を演じた佐藤浩市の苦悩については同感するところがあった。特にラストで “この、なんでもない生活を守る、これが政治なんだよな” という佐藤の自嘲気味なセリフはむしろ賞賛したい気持になった。日本の政治、政治家のありよう、といったものの実像のようなセリフだったと思ったのだ。

所謂識者といわれる人々や海外事情に詳しいとされる人たちは、なにかと日本の政治や政策を海外諸国に比べれば、と批判するのが常である。その論調を聞いていると、そうか、俺達の日本ってそんな三流国なのか、というコンプレックスに陥ってしまう。本当に俺たちの、 “この、なんでもない生活” はそんな程度の価値しかないものなのか?

小生の読み違いというか記憶違いならお許しいただきたいが、ローマ文化についての泰斗、塩野七生さんの作品の解説に、ローマ皇帝の務めは市民にパンとサーカスを提供することだった、という一節があった。歴史だけをひろい読むする分には、やれシーザーだアントニウスだという事ばかり頭に残るが、ローマ帝国にあっても、第一のことがらは “この、なんでもない生活” を維持することだったはずだ。世界史にいう栄光のギリシャ・ローマは、片方では “この、何でもない生活“ を成り立たせるためには奴隷を必要とし、それを得るためには他国との残忍な戦争に勝たねばならなかった。その犠牲になった人々がどれだけいたか、歴史書にその記述はない。

わが日本はどうか。以前、本稿のどこかで触れた気がするが、ここで絶対的事実として、1945年以降今日まで80年にわたって、我が国はただ一人の若者も戦争では死なせていない、という事実を思い起こそう。ウヨクがどう言おうと、共産党がさかしらに論じようと、はたまた主婦連のおばさま方が声高にわめこうと、これはわが国の政治の結果である。およそ一国の政治はその結果によってのみ評価される。その間、ほかの国々(政治体制では違うとしても絶対主義の国も含めて)の、数多くの未来ある若者が戦地に散っていき、彼らの家族や友人や恋人たちの ”このなんでもない生活” は失われた。その理由や背景について今更議論をするのは避けるが、我が国が、何はともあれ、外敵に侵されず、若者を戦争という悲劇で死なせずに ”この何でもない生活“ をここまで保って来たのは、なんだかよくわからないこと、うんざりすることが数多くあるとは言え、わが国の政治の結果であることは厳然たる事実ではないのか。これが憲法九条があるためだ、という浮世ばなれした論議はもう通用しない。つまり、

”・・・人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した・・・・”

なる、我が憲法前文が高らかに謳った世界諸国の善意、なんてものが存在しないことはすでに事実が証明してきたからだ。それでも日本が外敵の侵入を受けていないのは、言うまでもないが米軍の保護があったからであって、夢想的な平和国家論ではない。米国にしてみれば、究極的には地政学上、自国防衛のための砦として日本列島と友好関係にあることは絶対的に必要だ。この事実を冷静に(むしろ冷酷にというべきか)判断し、かたや理想とする平和国家主義をかかげ、欧米諸国には理解できないであろう韓国や中国との歴史的関係、さらにはロシアの暴挙などの間をかいくぐりつつ、左翼勢力のためにするとしか思えない論調やいわゆるインテリ層の論議やマスコミの罵詈雑言にもかかわらず、ともかくも80年間の平和が保たれてきた。これを政治の結果と言わずに何と言えばよいのか。1945年生まれ、いわゆる終戦っ子と呼ばれた世代の人々は同時に ”戦争を知らない子供達” のままに成長していく。我が日本はそういう ”この何でもない生活” が保たれている国だということを改めて認識すべきなのではないだろうか。

僕は確信しているのだが、僕らがいなくなって何世紀か後、歴史書はこの、今僕らが息をしているこの時代を、日本の黄金時代とよぶだろう。領土は狭く,資源にとぼしく天災は絶えないこの列島国家に、“この、何でもない生活” を維持し続けた政治をその歴史書はなんと評価するだろうか。

”空母いぶき“ は映画としては落第ものだったが、それがきっかけで多少、物事を考える機会にはなった、というのが今年の小生の連休だった。

(HPOB 天堀)ボクは自分と自分の世代のことを「高度成長の食い逃げ」と思っています。「平和」についても しかりです。食い逃げの意味は 「ボクは大丈夫 次はアブナイ」という意味です。ロシアと中国 北朝鮮を三つ巴で隣国とする国は ニッポンだけですからね。

八ヶ岳南麓-初夏です    (グリンビラ総合管理HPより転載)

今日も良い天気!暖かくて調子が上がってきました!さて、昨日家に帰ったらカウンターにタケノコがドーン!と置かれておりました。。。

今年も主人が頂いてきた様です。早速アク抜きしましたので今夜はタケノコご飯にしようかと思います。帰たら近所の山に山椒を摘みに行かねば!

そういえば、我が家のミニ家庭菜園でもニンニクや玉ねぎが育ってきました!

肥料のタイミングを逃してしまったのですが、今年は暖かいせいか大きくなってきています。

今から収穫が待ち遠しいです。

(武藤)

 

コロナ脱却の現状について(2)    (34 船曳孝彦)

さて、5月8日から5類へ移行しました。感染拡大を抑えてきた大方針が一番大きく変化するのは、入院勧告外出自粛要請などがなくなり、感染者の就業制限もなくなります。感染症法5類は無症状感染者へは適応されません。自己責任が重んじられ、もしやと思ったらまず検査キット(国の承認済みのもの)を購入して自分で検査し、陽性と出ても症状が軽ければ自宅療養を、高リスク者や症状が重い人は医療機関を受診します。この対応機関は自治体が公表することになっています。診療側では診療時間や人件費に見合った報酬が無ければ手を挙げないでしょう。欧米と異なり診療側のキャパシティが小さいままで、診療を受け入れ難く、たらい回しも起きかねません。

医療費は自己負担が原則となります。保険診療は予防には適応されず、治療面のみにしか適応されませんので、コロナとはっきりするまでは検査キットの購入など自費払いが原則です。コロナと判れば、抗ウィルス薬などの高額治療薬代などを対象に9月末まで公費支援が継続されます。入院費は自己負担に上限を設ける高額療養費制度が適応されます。ワクチン接種も9月までは無料です。しかし公費補助が時限的であり、発症前は自己負担制度であることから検査も受けなくなり、発病しても治療に高額な治療薬を使うことは拒否する人が増えることが懸念されています。

本来一般の疾病とこのような疫病(伝染病)は医療費を同じレベルで考えてよいものでしょうか。疫病は個人の病気であるばかりでなく、社会を巻き込んだ疾病でもあるのです。常に蔓延する危険を考えねばなりません。保険医療に公費補助をすればいいだろうでは済まされません。

これまで7日間の外出自粛要請(発症後7日のウィルス残存は24%)だったものが、発症から5日間の外出自粛推奨へと変わりました。学童の登校停止も5または症状軽快後+1日となります。濃厚接触者という特定もなくなります。

予防面では、人込みの多い場所でのマスク着用(特に高齢者などリスクの高い人)、換気、手洗い、うがいが推奨されています。これは是非守ってください。

一番の心配は第9波、もしくは新しいウィルスによる感染症(パンデミック)に対する備えです。新型ウィルスインフルエンザ(H1N1)に対して2010年に総括報告書が出されました。①危機管理体制 ②医療体制 ③公衆衛生対策(学校など)などの見直し ④PCRなど検査体制強化 ⑤水際作戦強化 そして⑥ワクチンの接種体制確立とワクチン製造ならびに開発の促進 まで及ぶ立派な報告であったにも拘らず、日本における死亡率が低かったという理由で、10年間何一つ検討、制度化されなかったばかりか、ワクチン開発などに出していた補助金をストップしてしまったのです。続けていればワクチン製造一流国となっていたでしょう。00過去に学ぶことの無い日本の政治の欠陥です。この過ちを繰り返してほしくありません。

 

表面に出てこないのですが、病院入院患者や高齢者施設での面会制限も解除されるべきだと思っています。

コロナ禍で出来上がった葬儀の縮小など誤った風習も元に戻すべきだと声を大にして主張します。

とにもかくにも、実質収束宣言で、脱コロナです。世界の傾向でもあります。

日本は反科学的政策、不十分な対策や統計の下でも、当初Japan Miracleとよばれた低死亡率(それでも死亡者はついに7万人超え)に恵まれ、感染者数が世界で最も多い(中国を除き)時期があったりしながらも、次々と変異するウィルス株も日本流行した亜株は悪性度が高くなく、しかもウィルスの自壊があったりして、諸外国と比べれば軽く乗り切れたといえるでしょうか。

とはいえ、世界を震撼させた新型コロナウィルスは、まだ続いています。しかもXBB,BA型変異株が増えています。今後再びより大きな第9波が来る可能性もあるというのに、なんとも淋しい政治ではないかと感じます。決して終息ではありませんが、ここらが一つの転機には違いありません。

 

訃報 ー 原 尞

たった今、帰宅して開いた新聞で原尞の急逝を知った。これはショックだった。

寡作で知られた人だが、そろそろ、次の作品が出るころだと、ここのところ馴染みの本屋へ行くたびに探していたのだが。

結局、14年ぶりに上梓されたその 第五作 それまでの明日 がこの寡黙なハードボイルドライターの遺作になってしまったわけだ。そして夜は甦る で知って以来、レイモンド・チャンドラーの我が国での継承者、と思っていたのだが。ただ合掌あるのみ。

 

コロナ脱却の現状について(1)    (34 船曳孝彦)

いよいよ政府が新型コロナ感染症を投げ捨てる日がやってきました。

終息宣言(またはそれに近い言葉)で、感染症法上の特2類を5類に下げ、諸種規制を緩和するので、国民の皆さんは気を付けながらも経済活動を再開せよということになります。此処で今までコメントしてきた点をまとめてみましょう。

3年前、クルーズ船内感染から始まり、当時のコロナ情報では

PCR検査の不足 国の機関しか行わないというとんでもない過ちはいくら 何でも改善されましたが、PCRを制限する傾向は未だに続いています

全て保健所・帰国者センターを通す :それまでは保健所を縮小しようとしていたので、保健所機能がパンクしました。 後に拡充されましたがとても追いつかないままでした。

医療者側を含めた国の拡大委員会を組織すべき :ウィルス学、感染症学、救 急医学、内科小児科医学、公衆衛生学、疫学、ゲノム医学、推計学、遺伝統計学などの専門家の意見が反映されねばなりません。科学者の意見を無視して小中学校一斉休校、アベノマスクが行われました。

政府は専門家の意見を十二分に吸い上げる必要がある :今日に至るまでそ の姿勢に変わりがありません。

自宅待機 :仮設病院、ホテルなどを含め収容施設を早急に手配すべきでしたが、後に第6波となった時に入院できずに自宅死亡者続出に繋がりました。

これらはいずれも2020年5月までに指摘した問題点です。

PCR検査数は諸外国と2桁違う施行率で、しかも陰性数の登録がないため陽性率が分からず、政府の対策会議副座長が6月の国会で「感染者数は10~20倍かもしれない」と答弁するに至っては、三~四流国との誹りをまぬかれません。

医療崩壊病床確保 :感染者数が増加し波が来るたびに、政府、自治体、マスコミが声を大にしてきた。しかし感染病床を拡げることは容易なことではありません。清潔・不潔のゾーン分けのスペース、医師、看護師を始めとする人手の対策はお金をかけても急速に実現することは出来ず、機械・器具の問題もあります。政治家は票確保のためのような発言が多く、何の根拠もありません。外国では医療者に拍手や音楽のプレゼントがあったのに、日本ではボーナスの減額迄報じられました。

Go-To-Travel政策 :科学者たちが反対しても、落ち込んだ経済を活性化させようとして巨額をつぎ込み、大キャンペーンを行い、感染拡大へと繋がってしまいました。  しかもその後、それを政権交代後も再度行ったことは明らかに誤りと言えます。

ワクチン購入 :一国の首相がアメリカまで出かけて交渉しなければならない程、製薬会社に見くびられたのは悲しい恥ずかしい出来事でした。

ワクチン接種 :接種優先順位の明示、ワクチン接種者リストの管理、接種実務者確保、接種場所設定、接種予定と予約方法、2社のワクチンの扱いの分離、これにいち早く取り掛からねば大混乱になると指摘したのは、21年1月のことです。 しかし無策のまま医療従事者からボチボチと始まり、4月に般人の高齢者接種予約が始まったものの、実施は自治体に丸投げ。自治体によってはパソコンでの予約という老人相手では最悪の方式でした。国やマスコミの不熱心さを反映したかのように、接種率が上がらず、オリンピックが迫っても接種率が世界で100位以下でした。因果関係は証明できませんが、オリンピックが始まって爆発的蔓延が起こりました。

仮設病院 :その頃から仮設病院ないし病院的収容施設の設置が検討されました。私は医療施設の分かりやすい業務分担を提案しました。重症者用の病院から、予防注射だけには協力する個人開業医迄8段階に業務分担し、国民に明示するものです。

21年9月頃から感染者数が減り始めます。菅内閣は全くラッキーでした。デルタ株の変異亜株が自壊作用を起こしたようで、皆さん収束に向かったと感じていたと思います。その頃東京新聞川柳欄に投稿したのが採択されました。

第六波今でしょ対策立てるのは

年が明けるころから第6波が目立ってきましたが、対策に特段の変化はなく、強い第7波へと移行してゆきます。第5波に倍増する感染者でしたが,医療従事者の感染多発や患者の流れが確立していないことなどから医療逼迫が進行し、屋外での検査で熱中症が出て問題視されました。

感染自己届け制度 :感染者の自己申告制度が始まり、軽症ないし無症状者は感染者とされる不利益から届け出ず、実態の把握が難しくなりました。嘗て科学立国などと言われた国が、三流国へと滑り落ちてゆきます。

やがて第8波に移行し、昨年12月にはコロナ感染者数が世界ワーストワン(世界の15%)となってしまいました。ゼロコロナに失敗した中国は全数全く不明で含まれておりません。ゲノムで見ると欧米とは大きく異なります。

今年に入り、致死率は依然として低いものの、累計死亡者は6万人を超えました。しかし、発表感染者数が減少している(前述したように届け出数は益々不確かなものになっている)ことから、アメリカのBA-5系の変異株が流入する危険があるのに、感染症分類の2類から5塁への格下げが本格化してきました。5類に下げるのではなく、新たな2.5類を設けるべきだと考えますが、既に事態は進んでしまっています。