乱読報告ファイル (44) 逢坂剛 イベリア・シリーズ

先日、エーガ愛好会のテーマで ”戦争もの” について触れたときに書いたが、小生は第二次大戦の欧州戦線のことについて興味を持っている。そして映画化された原作を史実をできるだけ忠実に描いたもの、史実を認めたうえでのフィクション、史実とは関係なく時代的背景だけを借用したフィクション、という風に勝手に分類したのだが、この2番目にあたる作品群は物語そのものの面白さを通じて知らず知らずのうちに歴史的事実を明らかにしてくれるという意味で、手軽な歴史教科書でもある、という事を改めて感じたことを報告したい。

欧州戦線を描いた映画は数多くあるが、そのほとんどが戦場や戦闘に参加している国々での話であって、結果として地理的には欧州本土での筋書きになる。そう考えてみると、永世中立国を宣言したスイスは別としても、欧州の主要なメンバー  であるはずのスペイン、あるいはポルトガルはなにをしていたのか、どういう立ち位置にあったのだろうか、という事はほとんど出てこない。特にスペインは熾烈な市民闘争をへてフランコの独裁政治を実現したのだが、その過程でドイツの武力を借りた(有名なゲルニカ空襲の話がいい例)わけで、ドイツにもっと肩入れしてもおかしくはないし、することにも独裁制であるからフランコ一人の決断でできたはずだ。ルーズヴエルトが真珠湾攻撃を事前に知っていながらあえて放置し、あたかも日本の卑怯な奇襲であると思わせて国民の憤激をあおり、大戦への参加を米国民に納得させたというような必要はなかったのだ。

逢坂剛という作家はデビュー作 暗殺者グラナダに死す 或いはその次のヒット作 カディスの赤い星 という二つの作品でスペインでの生活体験を生かしたすぐれた冒険小説を書き、現在は矛を転じて日本の警察組織を背景にしたシリーズ物を書き続けている。僕が大好きだった(不幸、最近病没した)原尞が出版社泣かせの寡作家であったのといい対称の多作家である。僕は上記2冊を読んだ以外、この量産ものには多少辟易していて一切読んでいないのだが、その間を埋めるのがイベリアシリーズ、と言われる連続性のある作品群で、現在までに イベリアの雷鳴 遠ざかる祖国 燃える蜃気楼 暗い国境線 鎖された海峡 という5冊 が出ていて、その延長線に 暗殺者の森 という作品がある。

このイベリアシリーズは、日本軍参謀本部の密命を帯びてスペインに宝石商を装って滞在する主人公が途中からは敵国になってしまう英国・米国の情報部、スペインが中立であったために同じ場所に居合わせるドイツの情報機関、反フランコ地下組織、などととの間で交わす情報戦の形をとっている。実在の人物としてはスペインの独裁者フランコをはじめ、ドイツ情報部(UPWEHR) の司令官カナリス提督(のちヒトラー暗殺にかかわったとして残虐に処刑された)、冷戦下で英国を裏切ったダブルスパイとして我々も名前だけは聞いたことがある英国のスパイ キム・フィルビー、日本の須磨弥吉郎駐スペイン大使やドイツびいきで結局日本を窮地に追い込むことになった大島浩駐ドイツ大使、ジャック・ヒギンズ大戦秘話ものに度々登場するドイツ軍の切れ者ワルター・シュルンベルク(反ヒトラーであったらしく大戦中のいくつかの人道的な行為が認められて戦犯に問われなかったという)などが出てくる。断片的に知っているひとりひとりにかかわるエピソードなどが出てくると嬉しくなるのもこういうカテゴリの魅力だ。

各編の内容の紹介はしないが、”イベリアの雷鳴” は反フランコ市民によるフランコ暗殺計画、”遠ざかる祖国” は三国同盟という歴史的なミスに引きずられて大戦に参加することになる日本への視点、”燃える蜃気楼” は真珠湾からミッドウエイに至る経緯、”暗い国境線” は大陸への侵攻作戦の準備建てとして実行され、最近映画にもなった英国のミンスミート作戦、”鎖された海峡” ではノルマンディ侵攻の前後、”暗殺者の森” はヒトラー暗殺計画、などが背景になっていて、今までの教科書的な知識の限界を越えて欧州社会での反応を異なった視点から考えることになる。

身近なことでは日独伊三国同盟の裏側とか、米国を大戦に引き込むために英国が裏では実は日本の参戦を期待していたとか(それだけに英国最新鋭の戦艦プリンスオブウエールズが日本海軍によって撃沈された時、チャーチルの狼狽は大変なものだったらしい)、日本の公式暗号が解読されていたという事実(ドイツの暗号エニグマを解読した話―先にイミテーションゲームというタイトルで放映された英国情報部の成功が特に有名だが)、日本側戦線の帰趨をきめたミッドウエイでの敗北もまた暗号が解読されていたからだという話をあらためて知ることができる。

情報戦、という単語は最近よく聞くが、当時はコンピュータも偵察衛星もなく、もっぱら人的リソースによる、いまでいう HUMINT 合戦であることが魅力でもある。背後には上記したフィルビーが実例だが、ダブルスパイ、という存在がある。欧州では人種国籍の異なる人間との接触は日常のものであり、日本の様な単一文化の下では想像しにくいのだが、一国のスパイを捕縛してその安全を保障する代わりに逆スパイに仕立てる、という行為が現実性があるようだし、事実、国を挙げてそれを実現したのが英国であった。このことは大分以前、本稿でも紹介したがその実情を細かに記述した Double Cross という本もある。

太平洋戦線で言えば、破竹の勢いだった日本海軍のエース、山本五十六が基地視察に出たところを待ち構えていた米軍機に撃墜され、これから前線の士気は落ちていくのだが、これはスパイとは関係なく、現地部隊間の連絡通信が傍受されたからだと判明している。この悲劇もまた、情報戦の結果だと言える。

本シリーズのような形式の本にはほかにも同じようなスタイルで僕の興味を引いたのがいくつあるが、中でも日英条約のことを扱った伴野朗の 霧の密約 などは重厚な記述が魅力の一冊であった。三国同盟が日本を壊滅に追い込んだのだが、もし、日英同盟が当初の目的通り機能したら、我が国の運命はずいぶんと違っていただろう、と今更ながらに感じる一冊だった。

此処で紹介した本はいずれも現在の書店店頭で探すのは困難だが、例によってアマゾンを辿れば中古、でたやすく入手でき、しかも同社のレーティングで良い、非常に良い、などとされているもの(写真の5冊のうち3冊がそれ)はほぼ新品同様で価格は150円であった(新刊時の価格は例えば2300円)。

いま天下はロシアとウクライナの騒動で持ち切りだが、エレクトロニクスの粋を極めた情報戦の陰で、HUMINT は生き続け、SNS だ AI だというような新兵器を通じて、なお活動し続けるのだろうか。

(ウイキペディア記述)

ヒューミントとは、人間を媒介とした諜報のこと。合法活動や捕虜の尋問等も含み、スパイ活動のみを指すわけではない。外交官や駐在武官による活動をリーガル、身分を偽るなど違法な手段で不法に入国しての活動をイリーガルと呼ぶ。

 

 

合掌・ダークダックスーされどわれらが日々

(飯田〉ダークダックスの愛称ゾウさんの遠山一さんが9月22日に93歳で亡くなりました。これでダークダックス4人が全員、鬼籍に入ったことになります。

パクさんの高見澤宏さんが2011年(77歳)に、ゲタさんの喜早哲さんは2016年(85歳)に、同じ年にマンガさんの佐々木行さん(89歳)が亡くなりました。

いつも穏やかな唄い口で、茶の間に灯を送り続けた65年間の活動歴で、同一メンバーによる最長寿ボーカルグループとして、ギネス世界記録に登録されたりグループとして紫綬褒章を授与されました。全員が慶應義塾大(経済学部)出身のダークのヒット曲は≪ともしび、カチューシャ、トロイカ、雪山讃歌、北上夜曲、森の熊さんなどですが、何んといっても銀色の道≫が良かった!!

https://www.youtube.com/watch?v=y-8ENWr8GTI

(船津)グループ誕生間もない頃銀座ヤマハホールとか慶早戦前夜祭などで熱心に拝聴致しました.未だ若いと想ったら全員鬼籍に入られたんですね。

(保屋野)ダークダックスの「銀色の道」、久しぶりに聴きました。やはり素晴らしいですね。ただ、私は、ダークダックスの最大の功績は、ロシア民謡を日本人の愛唱歌にしてくれたことではないでしょうか。

3大ロシア民謡の「ともしび」「カチューシャ」「トロイカ」の中では「リンゴの花ほころび川面にかすみたち・・・」のカチューシャが好きですがあまり知られてませんが「すすらん」も良い曲ですね。最近は「純烈」何かが人気があるようですが、ダークダックスのハーモニーは不滅だと思います。

(河瀬)懐かしのダークダックス、私たちの時代の4人の哀愁を込めた歌声を、飯田さんの誘導でつい2時間も聞いてしまいました。

「銀色の道」をカラオケで歌うと、決まって仲間がゾウさんの「ぼ、ぼ、ボン」を入れるのを思い出します。そのゾウさんも他界されてしまいましたか。
日本の歌の名曲とロシア民謡はともに哀愁を帯びていて、私の時代にはとても心を惹かれたものです。「雪山賛歌」は我々山男がよく歌ったものです。今日は見事なお月見ですね。「テントの中でも月見はできる、雨が降ったら濡れればいいさ」を思い出しました。そのほか「大牧場はみどり」や「遠くへゆきたい」「エーデルワイス」など、山で歌ったものです。「リンゴの花ほころび」で始まるロシア民謡のカチューシャは日本の歌と間違えるほど日本民謡化しています。保屋野さんが言うようにこれもダークダックスの功績なのでしょう。ダークは直立不動ながら、ちょっとしたしぐさや表情を見せてそれがいいところでした。当時はデユークエイセスも加わって「月の沙漠」などがヒットしましたが、やはりダークの「ともしび」「北上夜曲」など、4人のテノール バリトンバスの揃った歌心に答えるコーラスが最高でしたね。これほど声が揃った正統なグループサウンズは二度と現れないでしょう。

(金藤)小学生の時から、ダークダックスの歌をよく耳にしてきました。私は優しそうな低い声のゾウさんが好きでした最後のお一人ゾウさんも他界されてしまい残念です。スリー・グレイセス、覚えています。子供心に、日本では珍しい歌の上手な女性グループだと勝手に思っていました

(編集子)船津兄の話と相前後しているのだと思うのだが、我々が高校を卒業する機会に、卒業生が集まる機会があったが、一貫教育校のために、大学の卒業式典以外のいわば中継点では、学校では形式的な行事以外、お祝いイベントはあまり積極的ではない。そうはいうけど、おめえよお、なんかやろうじゃんか、というはねっ返りがいたんだとおもうのだが、とにかく、場所も覚えていないが数百人が集まる会があった。その席での司会というか、進行役を小生がつとめることにあいなった。高校生といえどもエンタテインメント界には強い連中(当時のおおまかなくくりでいえばその多くはいわゆる軟派)にそそのかされて男気を出して出たはいいが、(次はダークダックスの番)とプロンプトされてもそんな名前に聞き覚えはなく、ましてメンバー紹介で躓いた。コーラスが終わった後、マンガさん(誰だったかなんてその時は知る由もなし)に呼びつけられて、おめえ、先輩が来てるんだ、名前くらいおぼえとけ、と脅かされたことがある。亡兄も彼らと同期だったはずだが、うん、あんなのたしかにいたよなあ、という程度だった。その後もダークのコーラスはいやというほど聞いたがおれの佐々木先輩の印象は改善しなかった。

ついでに思い出したのだが、このほぼ1年後, 高校卒業生のあいだで実施された行事があり、高校時代にホーケンと呼んでいた放送研究会のワルから、おめえ、頼むから即興劇場ってえのに出てくれ、と頼まれた。売り出し中の女優が来て、ジュリエットの有名な場をやるんだがロメオをやるやつがいねえんだ、頼む、と言われて出てみた。此処でもへえ、こんなお姉さんがユーメイなんかあ、という程度で一応セリフは無事にこなして、ホーケンからは感謝された。その人の名前は黒柳徹子、というのだが。

ウイキペディア解説 ”銀色の道”   NHKの『夢をあなたに』(『夢であいましょう』の後継番組)から誕生し、2グループの歌手の競作となった。最初にダークダックスがテレビ番組で発表したが、レコードキングレコードからザ・ピーナッツが先行して発売(シングル「ローマの雨」のB面曲)し、やや遅れてダークダックスも同じキングレコードから発売(シングルA面曲)した。『NHK紅白歌合戦』では、ダークダックスが1966年の第17回に歌唱した。現在でも両グループのCD全曲集に収録されることの多い楽曲である。

 

秋のたより、かなあ (HPOB 金藤泰子)

酷暑の日々からようやく朝夕は涼しさを感じるようになりました。
今年の都心の真夏日は9月20日(水)現在で、88回目の最高気温30℃以上の真夏日続出、その後も年間真夏日の日数が過去最多記録を更新中だそうです。
小泉さんの撮られた百日紅(サルスベリ)の花、綺麗な色でしたね。
隣家の百日紅は花がだいぶ減ってきてはいますが今も咲き続けています。 百日紅は家の近くでは真夏に花をつける数少ない花木です。 100日間は花をつけませんが毎年楽しませてもらっています。
そういえば、毎年夏の夕方、外の植木鉢の草花に水遣りをする間に蚊に何か所も刺されていたのですが、この夏の暑さには蚊も まいっているようで、3回位しか刺されていません。 夏の始めに1・2匹 その後は先日1匹やっつけました💪🏻
草の陰に顔を見せていたカナヘビも今年は見かけませんが、新顔が現れました。 尻尾が長いメタリックのような青のヒガシニホントカゲでした。 このトカゲは動きが素早く一度見たきりです。
撮った写真を載せようと思いましたが、爬虫類は嫌いな方もいらっしゃるかもしれませんから、やめておきます。
天気予報では木曜に、また33℃になりそうな事を言っています (・・;)
その後は秋めいてくるようですから、もうひと頑張りですね。
9月29日(金)は中秋の名月だそうです。

コロナとインフルエンザ同時流行について    (34 船曳孝彦)

新型コロナウィルスCOVID19患者が増加しています。

1日1万6千を超えており、第8波のピークに近い数値です。しかも定点観測からの推計であり、世の中の意識はコロナをすっかり卒業してしまっており、制約もかなり弱いことから自分で有料の検査を受ける気の全くない人ばかりです。従って本当はもっと多いものと考えざるを得ません。しかし政府は体面からでしょうか第9波と認めません。

実際私の周囲でも、感染者は頻発しており、皆さんの周囲でも同様でしょう。私の参加した会合でも2回陽性者が出て、私は濃厚接触者でしたが2回とも陰性で事なきを得ました。今回のコロナは、EG5通称エリス株というオミクロンXBB.1.5からの新変異種が4割を占めるようです。感染力は一層強いようですが、どうやら重症化度は低いようです。

しかし大変なことにインフルエンザとの同時流行が起こっていることです。前期の会合でもコロナとインフルが同時に発病しました。インフルエンザがこの時期としては未曽有の高陽性率で、この3年間流行が下火だったことで国民の免疫が低下しているのではないか、海外から新たなVirusが入ったからではないか、など議論されていますが、感染防止法はコロナと同じですので、罹らないようご注意ください。

コロナにもインフルにも、それぞれワクチンが大切です。新変異株に対する防止力は未知ですが、今回ワクチンはBB.1.5.に対応する新しいワクチンですから有効性期待大ですし、重症化防止に有効です。私も既に7回目を受けました。

10月からはコロナ医療支援が縮小されます。高額治療薬が全額公費だったものが一部負担に、入院費補助の限度が2万円から1万円に、医療側には病床確保料が8割に減額、診療報酬も来年減額します。

やがてコロナはインフルと全く同様の扱いになるものと思われます。 コロナ以前に在った社会生活は復活させねばなりません。家に閉じ籠らず、十分な対策をしつつ自由に他人と逢い、活発な健全な生活に向かいましょう。

エーガ愛好会 (232) ロスト・キング  (HPOB 小田篤子)

昨日お墓参りを済ませ、午後の回の1時間前に行ったのですが、月曜だというのに”満席” でした!仕方なく本日午前中の席を予約して行ってきました。
8割位はうまっていたように思います。
私も飯田さんほどではありませんが、「あっ!」と思った記事?を時々切り抜いています。この映画は添付の記事を題材にした実話でした。(新聞の死亡記事を題材にしたと言うElvisのHeartbreak Hotelを思い出します?)
2人の男の子の母親のフィリッパ(Sally Hawkins)は持病や年齢で昇進できず落ち込んでいました。ある日シェークスピアの「リチャード3世」を観、本当にそれほどの悪人だったのか?と疑問を持ち、歴史書を読みあさります。そして、買った本にはさまれていた、”リチャード3世協会”に入会。遺骨が未だ発見されていない事を知ります。
色々調べ協力を得て、ついに、今は駐車場になっている場所で《R》=reservedの文字を偶然見つけ、この下では…とひきつけられていきます。
歴史家でもなかった主婦が 信念を持ち、突き進む姿に感心しました。
私が英国の歴史を少し知ったのは、前にも述べましたが、(河瀬さんが奥様と写っていらした)コッツウォルズの《シュードリー城》にたまたま寄り、ちょっと怖い”ヘンリー8世と6人の王妃”のマトリョーシカ人形を買ってからのことです。
(編集子)このリチャード三世が世に伝わる悪人ではなく、実は優れた王であった、ということをたまたま病気で入院した名探偵が友人の力を得て立証する、という英国ミステリの傑作が ジョセフィン・ティの 時の娘 である。この作品をきっかけとして、ベッドサイド・デテクイブというコトバが生まれた。日本では高木彬光が探偵神津恭介を入院させて、この時の娘、に挑戦する、という小生お気に入りの一作が 成吉思汗の秘密 である。神津の結論は、成吉思汗は実は生きながらえた源義経だった、という事になった。小生はこれを信じているのだ。

(ウイキペディア解説)

時の娘』(ときのむすめ、The Daughter of Time)は、ジョセフィン・テイ作の長編推理小説。グラント警部シリーズの一作で、1951年に発表された。悪名高い15世紀のイングランドリチャード3世の「犯罪」を、現代の警察官が探究する。テイは本書出版後間もなく没しており、本作が作者存命中に出版された遺作となった。テイの代表作と呼ばれる本作は、探偵役が歴史上の謎を解き明かす歴史ミステリの名作として、またベッド・ディテクティヴの嚆矢的作品として知られる。

日本語版の翻訳権は早川書房が独占所有する。1954年に村崎敏郎訳でハヤカワ・ミステリから刊行、1975年に小泉喜美子訳でハヤカワ・ミステリから刊行、1977年に小泉訳でハヤカワ・ミステリ文庫から刊行された。

(小田)ありがとうございます。「時の娘」是非読んでみたいと思います。

追加情報ですが、協会仲間達のクラウドファンディングによる協力、その他で遺骨を発掘したフィリッパ·ラングレー(1962生まれ)は、2015年にエリザベス女王から勲章を授与されています。リチャード3世も名誉を回復され、英国王として認められました。

百名山登頂完遂!   (39 堀川義夫)

2023年9月24日(日)100名山100座目の高妻山に登頂し、15歳で丹沢(塔ケ岳)登頂以来、途中26歳から46歳までの20年間のブランクがありますが、82歳の今日まで足掛け67年かけて100名山を制覇することが出来ました。67年も掛って制覇したのは、最長期間記録では無いかな(笑)・・・?? そもそも深田久弥の「日本100名山」は1964年(私の大学卒業の年。東京オリンピックの年)の発刊です。従って、学生時代には縁がありませんでした。

46歳で登山やスキーを再開したころは、深田久弥の100名山をバイブルにして、中高年の登山ブームが始まっていました。私も一時期、100名山を意識して数座を登りましたが、直ぐにこれは違うのではないか? 好むと好まざるともやみくもに山に行くのは良しとはせず、同じ山でも自分の好きな山に四季折々行く方が私は好きなんだ。という意味で100名山を意識しなくなりました。

2020年の夏のことでした。ある山友に100名山完登まであと幾つですかと聞かれ、改めて登った山の数をカウントするとなんと85座もありました。79歳の時でした。それからは100名山制覇を意識し、積極的に行くようにしました。86座目以降に行った山は次の通りです。15座登頂に3年を費やしました。

2020年7月 火打山(86座目)妙高山(87座目)

2021年5月 久住山(88座目)祖母山(89座目)7月 幌尻岳(90座目)11月 剣山(91座目)

2022年4月 伊吹山(92座目)5月 恵那山(93座目)荒島岳(94座目) 6月斜里岳(95座目)

7月 雌阿寒岳(96座目)

2023年6月 岩手山)(97座目) 7月 早池峰(98座目)雨飾山(99座目)高妻山(100座目)

 

100座目登頂記

2023年9月24日(日)前日から長野入りし善光寺に登頂祈願し、当日は最高の天候に恵まれ、婿(二女の夫)と孫(長女の長男)そしてKWVの10年後輩の丸満さんを従え、いいえ、付き添われて出発しました。登頂までは何とかコースタイムに近いペース(5時間少々)。で登ることが出来ました。頂上で記念撮影をしていると周辺の方々から温かい拍手や「おめでとう」の言葉にもう少しで涙がこぼれそうになりました。   下山は最悪でした。最近は下山に想像を超える時間を要するようになってしまいました。情けないほうほうのていでバテバテになり、途中意識朦朧になりそうになりながら、12時間を超える山旅をやっとの思いで何とか無事に終えることが出来ました。

婿の譲さん、孫の裕也、後輩の丸満さん。本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。100名山完登で一区切りがつきました。これからも、自分の体力に見合った山旅を楽しんでいきたいと思っています。お世話になった多くの方方に感謝、感謝です。ありがとうございました♪

高妻への登り

懐かしい顔です  (34 小泉幾多郎)

安田さんから尾白川渓谷遡行の記事に、船津さんの清涼感満点と保屋野さんお西沢渓谷とのメールを拝見。大分昔のことですが、歩いたことを思い出し、メールを書かないではいられなくなりました。

あれは今から12年前の2011年7月28日、安田君同様、二人で、ご存知?KWV同期の矢郷君と自家用車経由で行ったことを昨日のように想い出しました。当時は、KWV34年卒は、年間行事として、新年会、お花見、納涼会、忘年登山を持ち回りでやる決まりがあり、その年も忘年登山として、2011年11月23-24日西沢渓谷を歩いたのでした。三人の文章を読むと当時のことが思い起こされます。まあ当時と似たような年齢?小生今歩こうにもチョットムリのようです。

歩くのは今のうちです。大いに歩き回って下さい。 素晴らしい滝の写真思い出されます。西沢渓谷の集合写真がありましたので巻頭に紹介させてもらいます。。合計参加人員16名、うち奥方2名、先に逝ってしまった仲間5人もいるのには、今更ながら残念。

(編集子)小生などから見れば、一番怖かった 鬼の三年生 先輩各位、いろんなことが次々と思い出されます。まさに ブリック なんかで歌った歌の文句どおりですね。

 

彼岸に思い出すことなど

KWV同期の仲間で、月に一度、高尾山くらい歩こうぜ、と気楽にはじめた “月いち高尾” という行事が、1年も続けば上出来、と思っていたのに後輩の年代からうわさを聞いて参加してくれる人が増え、いまでは言い出しっぺの我々(昭和36年度卒)とは現役時代会うこともなかった ”若い“ 諸君が主力となり、毎回参加が増え、リーダーも僕らの用語でいう ”50年代“ に移ってOB仲間の交流の場として定着した。僕らKWV卒業生にはOB会の存在が何よりのものだと改めて感じる。

この種プランでもちろん欠かせない二次会、その定番となったJR高尾駅南口にある 天狗飯店、通称テング、は中華料理店、といいながら日本蕎麦からデザートまで豊富なのだが、そこで壁に貼られたメニューを冷かしているうちに “汁粉と と ”ぜんざい” はどう違うか、という議論になったことがあった。居合わせた40年卒、通称 “あいちゃん” こと藍原瑞明君が律儀にこの事情を調べてこのブログに投稿してくれたことがあった(2018年1月21日付本稿)。大体がのん兵衛仲間で出来ているプランでこの種の話題自体、珍しいのだが、日ごろからのほほんとしている(ように見える)”アイちゃん” の意外な几帳面さを発見して一同感心したものだった。

さて浮世はお彼岸とあって、9月20日付け読売新聞のコラムに彼岸のお供え物に関する記事が掲載された。その書き始めに、・・・・ぼた餅かおはぎか、和菓子として同じものだが・・・・とあったので、この汁粉ぜんざい論争?を思い出したというわけだ。新聞記事の中でもこの種のコラムを書く人は論説(社説)を担当する人が其の新聞の表の顔とすれば、裏の顔と言われるくらいのベテランであるのが通例である。読売でここを担当しておられる方を存じ上げているわけはないのだが、たびたび心に響く記事を多く拝見したり、なるほど、そういうことかと納得することもたびたびある。

今回の記事は彼岸にちなんだ話で、それによると、この時期に登場することが多いぼた餅は春に咲く牡丹、おはぎは秋に咲く萩の花にちなんだもので、江戸時代には同じものを夏には 夜舟、冬に 北窓 と言ったそうだ。餅米を突かず、つぶして作ることから “着き知らず” の夜舟、寒いときにはこれを ”月知らず“ の北の窓、としたという。コトバ遊びかも知れないが、なんとも優雅ではないか。正岡子規は “梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな” と詠んだそうだ。

小生この肝心の彼岸、という行事にいままであまり関心をもったこともないし、父母の墓参りもろくにしていないのだが、(そういえば彼岸だなあ)と気がつけば、ここ数年の間に申し合せたように彼の岸にわたってしまった幾人かの友人のことがなんとなく心に浮かぶ。季節もうつり替わるこのころ、日本という国のもつ優しさみたいなものを感じている。

あすあたり、夜舟、でも買いに行こうか。

尾白川渓谷散歩     (44 安田耕太郎)

”おじらがわ”(尾白川)と読む、甲斐駒ヶ岳を源とする富士川の支流の雄大で優雅な渓谷に友人二人と一緒に行ってきました。上流部の花崗岩層を通った清らかな水は、「日本名水百選」に選ばれ、「南アルプスの天然水」としても有名。北杜市白州の絶景スポット。20余の色とりどりの滝の織りなす絵巻物の景色を堪能しました

都内から車で2時間、中央高速道・須玉ICで降りて、20分で尾白川渓谷駐車場へ。そこから5分ほど歩くと標高770mの駒ヶ岳神社が渓谷の入り口。そこは甲斐駒ヶ岳へ登山する、頂上まで標高差2200mある日本三大急登のひとつ黒戸尾根の登山口でもあります。吊り橋を渡って、左へ行けば黒戸尾根へ、右(尾根の北側の沢)へ行けば尾白川渓谷です。

渓谷の最終地点・不動滝(標高1100m)まで往復6.5キロの道のり。標高差は350mほどだが登り・下りの累計標高差は道がアップ&ダウンしていて、それぞれ600mもあります。高尾山登山口から頂上までの約2倍。道はサンダル履きで気軽に歩ける渓谷と異なり、登山靴が必須の本格的登山コース。渓谷沿いの道は狭く急勾配、岩場、崖、梯子階段、安全確保用のロープあり、滑りやすい木の根っこは随所にありと、安全第一の慎重な歩行が必要なコースでした。滑落事故も起こっているとのこと。黒部渓谷の欅平・阿曽原間の水平歩道を彷彿とさせる箇所もあり、往復4時間超を要したものの、深い森の中オゾンをたっぷり吸って、滝も近くマイナスイオンを感じられた涼、雄大な渓谷美、登山気分を満喫できた渓谷探訪でした。

西国も秋の気配です  (大学クラスメート 飯田武昭)

宝塚はマンションだらけで秋を感じる場所は少ないですが、自宅横の武庫川の浅瀬に40~50羽の群れで鵜(う)が、羽根干しに両羽根を広げて休んでいる姿がこの季節は毎日見られます。

六甲山の東端が直ぐそばまで迫っているので、もう暫くして涼しさが増したら六甲山か五月山(東方面の川西市、池田市方面)に行けば秋が感じられます。でも私は兵庫県の不便さだらけの北部(太平洋側の神戸、姫路から日本海沿いの城崎温泉までが兵庫県です)の丹波篠山市、豊岡市などに近年は興味を持っています。

兵庫県の中部・北部は列車の本数が少ない、宿泊する宿が少ないなど不便さでは結構楽しめます。以前、レポートした≪丹波の森公苑-オオムラサキの会≫が、その一つです。

(編集子)学生時代、父親が阪神芦屋駅前にあった、戦前の富豪の家だったというところを改造した社宅に入っていたので、毎夏、1週間ほど滞在するのを常にしていた。家から芦屋の浜まで、海パンにサンダルで泳ぎに行けたものだ。宝塚には2度ほど行ったことがあるが、飯田兄のご指摘の様な風流を楽しむには幼過ぎたのだろうか。いずれにせよ、暑い武蔵野くんだりでは味わえない秋かな。