老舗、という単語はどういう場合に使うのが正しいのか。ただ古くからある、というだけではこの言葉のもつニュアンスを表すことはできない。伝統、だけでもない。この単語は本来、商売とか店とかそういう領域で使われたのだろうが、いまでは例えばスポーツの世界では古強者、というイメージで派手に優勝を稼ぎ続けるよりも、いつでも終盤戦には必ず顔を出すチーム、といった感じだろうか。何か本筋とは別の、雰囲気というのかそういうものが伝わっている、そういう店のことだ、と思う。
今日、医者へ行った帰りにちょうど昼飯の時間になったので、(なんかあるだろう)くらいの気持ちで飛び込んだ、中央線駅近くのショッピングセンタの中にまったく偶然に、父親の世代が話題にしていたことから名前を知っていて、銀座の本店にも何回か行ってみたことのある、いわゆる老舗、が分店を出していることを知り、うれしくなって飛び込んだ。久しぶりに開いたメニューに、この店の代名詞になっている一品がきちんと収まっているのにまず安心して注文した。少しばかり汗ばんでもいたので、小さなビールと一緒に久方ぶりの味を思い出した。いい昼飯だった…..それはそれでいいのだが、店をでてから、どうも物足りなさが残った。
食事の味は確かにあの頃のものなんだが、楊枝を加えて食後のコーヒーでも頼もうか、という雰囲気がわいてこなかった。なぜだか説明できないがなにかが欠けてしまった、なんかが足りないんだ。それが要はこの店がきれいすぎ、効率がよすぎたからだ、ということにあとで気が付いた。
最初の違和感は、入り口に ”発券機” なるものがあったことだった。切符を持ってむっつり立っているしかなく、これじゃメニューも今をはやりのスマホまがいのものか、と心配したが、そこは今まで通り、ウエイトレスが話を聞いてくれた。ま、いいか。だが席を立とうとして、はていくらかな、と伝票をみたが、メニューをあらわす記号と個数が書いてあるだけで、たしかにキャッシャーが必要な情報は完全なんだろうが、客が(さて、いくらになるのか)と心配することもできないのでは、どうも客を数字としてしか見ていないのではないか、という感じがしてしまう。銀座の店やその後開いた渋谷の店ももっとごたごたしていて、不潔とは言わないがもっと影があって、(食い終わったけどもう少しいてもいいよな)という気持ちが持てけど、店の効率、っていうことになると話が違ってくるんだろうな。
こんなことを考えたのも、実は朝刊に出ていた経済記事で、個人当たりGDPで日本は韓国に追い越された云々、なんて記事があって、例によって”日本では第三次産業とくに飲食産業の効率が云々、というのを読んだからだろう。 以前、日本での経験が長い米国人が ”日本じゃ、ウエイトレスが席に来て、ニコニコ話をして、こっちもうれしくなるよな。カリフォルニアじゃ、愛想なんてあるわけないおばさんがテーブルにナイフとフォークを放り出して、”Now, what do you want ?” だからな” と嘆いたことがあった。ま、その差が ”サービス業の生産性” なんだ、なんていうことになって、またぞろ ”欧米では” とのたまいたまうインテリ出羽守がしゃしゃり出る論調をするんだろうと腹立たしかったからだ。
文化、というものは無駄に見える細かいことどもが集積し、混沌の中の醸成されたものなんだろうと思うのは引かれ者の小唄、の類だろうか。一人当たりGDPがすべての世界には無用の心配なんだろうが,ランキング1位のルクセンブルグの老舗はどんなもんだろうか。かの友人が心配していた米国も決して褒められた順番にいるわけじゃないが、これはま、レストランのせいじゃなくて、USスチールなんかが悩んでる部類の問題なんだろう。