「白い巨塔」(著者:山崎豊子、発行:新潮社、1965/69年)。大変、遅まきながら文庫で「白い巨塔」を読んだ。発行が1965年だから、それからほぼ60年も経っている。
これは映画(主演:田宮二郎)にもなったし(ただし、映画は、文庫本3巻までなので、原告である患者の敗訴で終わっている)、テレビでも数回放映されたから、殆どの方が、全5巻を読了していないまでも、どんなことを描いたものであるかはご承知のことだろう。従って、ここでは話の筋は屋上屋を重ねることになるので、一切を省くことにする。
全部で5巻だが、当初は3巻で終わる予定だった。ところが、この小説の判決(原告敗訴)について、多くの読者から「小説といえども、社会的反響を考えて、作者はもっと社会的責任をもった結末にすべきであった」という声がよせられた。そこで、山崎は一年半おいて、再び「続白い巨塔」(これが、文庫本で4/5巻に当たる)の執筆に取り掛かった(最終的には原告勝訴となった)。と言う次第で全5巻となり、全部で2144頁、2000頁になんなんとする大長編となったわけだ(勿論、全51巻にも亘った佐伯泰英の「居眠り磐音」には遥かに及ばないが)。
確かに、江藤淳が「現代の正統的大衆小説」と評したように波瀾に富んだ筋書きが展開される。しかもその底に社会の矛盾や虚偽に対する批判がこめられ、社会派的な発想が強くなってゆく。小生、面白くて面白くて、ほぼ1巻1日。つまり、全5巻、5日で読了した。自慢ではないが、と言って、実は自慢しているのだが。
ここで一言。江藤が「大衆小説」と言っているが、その対極と言われる「純文学」とはっきり分けて論じているのはいささか暴論ではないか。しかも、正統的とは言え、明らかに純文学が上位にあり、その下に大衆小説がある位置づけだ。これは、ただ「小説」の一言で済む事柄ではないか。所詮、読書は娯楽(エンタテインメント)であり、先ず面白いことが必要不可欠となる。勿論、例えば、勉強のための読書は娯楽とは言えないが。
山崎の著書は、「不毛地帯」(1976/78年)を文庫本で読んだのが初めてで、今回が二作目となる。その理由は、この主人公、壱岐正のモデルが伊藤忠商事の元会長である瀬島龍三であったからだ(山崎は、そのモデルは複数人からのものだと述べているが、瀬島自身は自分だと吹聴していたらしい)。何故、瀬島に関心があったかと言うと、彼の11年間のシベリア抑留時代の言動(例えば、ソ連のスパイだったのではないかとか、天皇制打倒、日本共産党万歳を叫んでいただとか)に非常に疑わしい点があったからだ。なお、これを映画化した監督であり共産党員でもあった山本薩男は、原作で長々と描写されているシベリア抑留には偏見があるとして、興味は持たなかったと言われている。
男勝りと言うと、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)が、それは男女の格差を助長すると言って絡んで来る誠に厄介至極な世の中になっているが、正に山崎は男勝りそのものだ。主人公は、ご存知、医者の財前五郎、里見俊二の男二人だが、特に癌の外科医である財前は、皮肉にも、早期に癌を発見できず、癌で死んでしまうのだが、最後に、山崎は、権謀術数、極めて上昇志向の強い財前の生き方に必ずしも否定的ではないことが強く印象に残った。