「旅人(たびにん) 国定龍次」(著者:山田風太郎、発行:講談社、1986年)の上・下(ちくま文庫。2011年)二巻。山田と言えば忍法ものを「忍法帖」として見事に復活させたことで有名だが、小生、忍法ものを大の苦手としており、これまで一冊も読んだことがない。
一方、山田の明治ものについては、「警視庁草子」に始まって可なりのものを読んだが、なかでも「幻燈辻馬車」は、薩長閥による明治政府を判官贔屓の観点から虚仮にして描いており、大変、面白かった。これらは、実際にいた人々の中に、山田の想像、創作した架空の人物を放り込んで物語を進めて行く体裁をとっている(そう言えば、司馬遼太郎にも同じような「十一番目の志士」と言うのがあった。長州藩の高杉晋作の下に架空の刺客、天堂晋助を放り込んだもので、それが余りにも現実味を帯びていたことから、実際にいたと思い込んだ人もあったようだ。これも、大変、面白かった)。
で、幕末もののこの「・・・龍次」も同様で、国定忠治(
話しは、血気に逸る龍次が、水戸藩の天狗党、八州取締出役などを、忠次譲りの長ドス(長脇差)で、忠次の戒名「遊道花楽」、「ゆうどう からくっ」を叫んで殺ってしまったために(人を殺るに当たって、龍次は必ずこの戒名を叫ぶ)、上州(群馬)は大前田の栄五郎の下にいた龍次は、これ以上、上州にいられないことから、修業の喧嘩旅に出かけることになる。
それに伴って、栄五郎の養女であり、股旅が終わったら夫婦となる約束をしていたおりんが龍次の追っかけ(お目付け)となって龍次の前後に出没し、得体の知れない薩摩は文武に優れた草堂万千代(別名、ヒゲ万)が龍次の用心棒として控える。
先ずは、上巻で、実際にいた有名な侠客たち、例えば、新免辰五郎、黒駒の勝蔵、清水の次郎長などに、一宿一飯の草鞋を脱ぐ。龍次は、竹を割ったような性格で弱い者の味方に徹するが、脳天気であるだけに、その言動には一種、喜劇の趣さえある。しかし、最後には、その喜劇が一転して悲劇に突入することになる。
つまり、下巻の後半、京都の薩摩藩邸にいたヒゲ万に呼び寄せられてからは、それまでの股旅ものから、龍次は幕末の尊王攘夷、佐幕開国、入り乱れての争いに巻き込まれて行くのだ。その相手は、坂本龍馬、西郷隆盛、岩倉具視、相良総三、近藤勇(後に、龍次は近藤に右目を潰される)などなどだ。一本来な龍次は、最後、相良総三を慕って赤報隊に入れ込んだが、岩倉具視によって赤報隊は偽官軍の汚名を着せられ、相良総三は処刑される。
最後は、おりんが薩摩のヒゲ万に鉄砲で殺され、右目を潰された龍次も、ヒゲ万に右腕を切り落とされ(それまでの稽古では、ヒゲ万に全く勝てなかった龍次が、ここで、初めて、ヒゲ万をヤッツケル)、正に満身創痍となって、おりんの愛馬におりんの死体をのせ、赤城山へ帰るところで終わっている。ハッピー・エンドでないところが、いかにも山田らしいのだが、この最後は、哀愁を帯びたもので、涙を誘う。
山田は、著書「非壮美の世界を」の中で、「彼(龍次)を主人公として描き出される屍山血河の世界は、単純無比の男だけが生み出せる(非壮美)の世界である」と語っている。小生も、そう思う反面、これは、岩倉具視を筆頭とする海千山千の輩に翻弄された一本気な若者の喜劇悲劇を物語った大人のお伽噺と言った趣が非常に強いのではないかとの思いを深くした。