米寿のスキーに感動しました  (39 堀川義夫)

船曳先輩が去る3月1日に、米寿、満88歳の誕生日を迎えられ記念に旭川のカムイ・スキーリンクスでのスキーに同行させて頂きました・
88歳とは思えない素晴らしいフォームで滑降されるお姿は、私にとって感動モノでした。私も先輩を範として精進して6年後に、先輩に負けないフォームでスキーを楽しめるように精進したいと思います。
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(保屋野)エーーーー、インストラクターの写真かと思いました。素晴らしいフォームですね。三浦敬三も真っ青・・・

私は米寿まで後8年ですが、スキー云々より果たして生きてるか・・・シモさん(同期の下村)ガンバリましょう。

(三嶋)米寿おめでとうございます。その誕生日を思い出のスキー場で祝われるとは・・・・フォームも88歳とは思えない素晴らしいの一言です!!(撮影者も褒めないといけないね)

私にはあと6年・・・・とても真似ができそうにありません。しかし目標にします。次回天狗でのお祝いが楽しみです!

(見谷)KWV東海41年卒の見谷です。

命に係わる幾多の病に負けることなく、米寿を迎えられましたこと、心からお祝いとお喜びを申し上げます。病の床で迎えるどころか、旭川でお祝いのスキーを楽しまれたとのこと、まさに奇跡としか言いようがありません。ドテ先生のスキーに対する愛の深さを驚きとともに改めて知ることになりました。私たち同期も昨年傘寿を迎えたのですが、ドテ先生の近況報告をお聞きして、挑戦の気概と勇気の大切さを痛感しました。

(編集子)堀川に怒られながら(米寿はおろか傘寿で)早々とリタイアした身分では発言する資格なし。無言。

”懐かしき日々” のこと   (44 安田耕太郎)

同郷北九州出身高倉健のことではなく、ジャイさんが短期間赴任されていたシリコンバレー、レッドウッドとパロアルトのことを懐かしく思い出した。

時は1968年、ジャイさんは勤務先HP社の本社が位置するパルアルトの隣町レッドウッドシティに居を構え、アメリカ勤めを始めておられた。その年はベトナム戦争反対の大規模デモや世界各地で暴動が相次ぎ、黒人公民権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスで(4月)、故ケネディ大統領の実弟、民主党の大統領候補ロバート・ケネディがロサンゼルスで(6月)暗殺されるなど騒然とした年であった。ちょうど時を同じくして、21歳の僕は貨物船で太平洋を渡り渡米、世界一周放浪の旅の緒に就いていた。ロサンゼルスに上陸後、旅費稼ぎを目的としてアラスカ沖の蟹工船アルバイト仕事の雇用面接を受けるため、本社のあるシアトルへ向かう途中、サンフランシスコ南郊のジャイさん宅を訪ねた。奥さん共々KWVの8年上の大先輩お二人に面識はなかった。が、中司ご夫妻の声望は先輩方から伺い知っていて、KWV名簿からサンフランシスコ近郊に住んでおられた先輩の住所を知り、渡米前に手紙を送り、僕のおおまかな旅程をお知らせし、シアトルへの道中3〜4日お邪魔させて頂くことは出来ないか、と厚かましいお願いをしていた。僕はお二人のことを若干伝え聞いていたが、お二人は僕のことは ”何者か?” と訝しがったのは想像に難くない。KWV現役時代から使用していた、左右に大きなポケットがついた薄汚れた横広のキスリングを背負った姿であったので尚更であったろう(注:のちにスマートな縦長のリュックサックを購入して旅を続けた)。

お住いのあった市の名前redwoodとはアメリカ杉、セコイア杉のことで、加州の北部の海岸に沿って300キロにの亘って(幅20~30キロ)拡がる巨木の森で知られていて、世界一高い木は最高は120mに及ぶものもある。樹齢は500~700年ほどだが、1000年以上の木もあるという。
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但し、Redwood Cityは閑静な郊外の住宅地で、魂消るほどのredwoodの巨木にはお目にかからなかった。お隣のパロアルト(Palo Alto) はスペイン語で El Palo Alto (背の高い木)を意味する言葉。Reddwood Cityと同様、人々が入植した頃(1700年代から1800年代)には辺りは、両市の名前の由来となった大きな背の高い木々が覆い茂っていたのではと推測する。Palo Altoが世界に知られているのは、HP社の本拠地である以外には何といっても名門スタンフォード大学が在る町としてであろう。美しいキャンパス、素晴らしいステンドグラスの在る大聖堂(カテドラル)、7~8万人収容のスタジアム(主にフットボール試合の会場)などジャイさんに案内して頂いた。両市とも絵にかいたような閑静な美しい住宅地であった。今ではIT産業のメッカとしてその一帯は発展し活況を呈しているに違いない。

ブログでも言及しておられた当時2歳半の娘さんのお相手をして遊んだ。あれから56年、ジャイさんご夫妻は曾祖父母だ、まさに “光陰矢の如し” 。

滞在中は、毎日バスでサンフランシスコ通い。町を隈なく歩き回り腹一杯サンフランシスコを満喫した。目と鼻の先に見える金門橋に歩けども歩けども着かず、アメリカの大きさを変な所で感じた。アル・カポネが収監されていた合衆国連邦刑務所として知られたアルカトラス島はサンフランシスコ市の北岸から2.4km離れた湾内にあって29年間使用されたが1963年に閉鎖され、当時は訪れることが出来なかった。1973年に歴史記念物として一般公開された後、訪れる機会があった。名物の世界最古(1873年 – 明治5年開業)の現役手動運転の循環式ケーブルカーの動力室がある博物館を訪れ駆動方式について学んだ。サンフランシスコを舞台にしたスティーヴ、マックイーン主演の刑事アクション映画「ブリット」を映画館に観に行った。坂道を縦横に駆けるカーチェイスを存分に楽しんだ記憶がある。当地を訪れて、臨場感が半端なかった。

バック・オウエンスとグレン・キャンベルの曲は滞米中によく聴いたものだ。とても懐かしい。https://m.youtube.com/watch?v=zBNzxhc0T3I

吉川さんの絵手紙

吉川光彦夫妻は、先日 ”懐かしき日々” で書いた、編集子第一回の滞米中、現地で紹介されて以来の家族ぐるみの親しい仲である。当時2歳半だった娘は信子夫人を ノブ―、ノブ―と言ってなついてくれたので、夫婦二人で出かけるときには安心して預かってもらえたし、現地での生活が長かったので、何くれとなく頼りにしていた。帰国後もHPを通じてお付き合いが続いている夫妻は退職後古都奈良に自適しているのだが、絵心のあった吉川さんは余暇をもっぱら絵を描くことに充て、今は絵手紙を折に触れて送ってくれる。手紙には近況やら奈良のことなどがソフトなタッチで書かれている。筆不精の小生は申し訳ないがもらいっぱなし、なのだが、あらためて彼の充実した老後、に心温まる気がする。

日本ではサラリーマンが一度職を離れると、急速に社会との接点が減少するのが常である。この社交性の減少が個人の老後の在り方を左右する大きなファクタであろう。”仕事” から離れて一個人となったとき、貴重な時間をどう過ごすか、千差万別ではあろうが、”趣味” を持つ人の時間が持たない人よりも豊かなものであることは間違いなかろう。吉川さんからユーモラスな絵手紙をもらうたびにそう感じるし、”趣味” と言えるかどうかは別として、数多い、中には命を預けあったことさえあった、心の許せる友人を持っている自分の幸せを改めて感じる。

エーガ愛好会 (261)懐かしのフランス映画  (大学クラスメート 飯田武昭)

ジャン・ギャバンでもアラン・ドロンでも、イヴ・モンタンでもないフランス映画を時々、懐かしく思い出し再見する。

特に、名匠ルネ・クレール監督とジュリアン・デュビビエ監督のモノクロの4作品は、憧れのパリ、セーヌ川、シャンソンというイメージで連想する作品で、劇場で観た当時から心に残る名作と思ってきた。

映画の日本語タイトル(邦題)が割合に似ていて、時々、見返さないとタイトルと映像とが混乱するので、改めて見直して整理してみた。

1、「巴里の屋根の下」(Sous les toits de Paris) (1930年製作 フランス映画)

監督:ルネ・クレール 主演:アルベール・プレジャン、ポーラ・イレリ

音楽:ラウール・モレッティ

ラウール・モレッティ作曲、アルベール・プレジャンが歌う主題歌は日本でも大ヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=YQsukCcJ3Mk

(注) サイレントからトーキーに移った当時はアメリカ映画が主体だったが、フランス映画で初めてトーキーが昭和6年に封切されたのがこの映画。 日本人がパリの下町の流し歌(シャンソン)を初めて映画の中で聞いた作品。

2、「巴里祭」(Quatorze Juillet) (1933年製作 フランス映画)

(映画の原題は「7月14日」(Quatorze Juillet)というもの)

監督:ルネ・クレール 主演:アナベラ、ジョルジュ・リゴー、レイモン・コルディ

音楽:モーリス・ジョベール

「巴里祭(A Paris dans chaque faubourg)」 邦題「巴里恋しや」

リス・ゴーディが歌う主題歌が日本でも大ヒットした。

(注)7月14日の革命記念日を明日に控え、巴里の下町はお祭り気分。ジャンはタクシーの運転手。その恋人アンナは花売り娘。ジャンの下宿に昔の女ポーラが現れたことから、二人は喧嘩別れ・・・・。

(注) 監督ルネ・クレールは「詩的レアリズム」の監督と言われている。

3、「巴里の空の下セーヌは流れる」( SOUS LE CIEL DE PARIS COULE LA SEINE) (1951年製作 フランス映画)

監督:ジュリアン・デュビビエ 主演:ブリジット・オーベエル、ジャン・プロシャール

音楽:ジャン・ヴィーネ

主題曲(シャンソン)2曲

・「巴里の空に下」 (作詞)ジャン・ドルジャク (作曲)ユーベル・ジロー

ユーベル・ジロー作曲、リーヌ・ルノーが歌う主題歌は、ジュリエット・グレコによってカバーされて、日本でも大ヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=utOEvlXehHk

・「巴里の心臓」 (作詞)ルネ・ルーゾオ (作曲)ジャン・ヴィーネ

 

4、「アンリエットの巴里祭」(La Fete a Henriette) (1952年製作 フランス映画)

(原題は聖アンリエットの日(La Fete a Henriette)というもの)

監督:ジュリアン・デュビビエ 主演:ダニー・ロバン、ミッシェル・オークリル、ミッシェル・ルウ、ヒルデガード・ネフ

音楽:ジョルジ・オーリック

「「自由を我等に」「悲しみよこんにちは」などの作曲も手掛けた巨匠ジョルジュ・オーリックの作曲によるテーマ曲。

ところで、学生時代(1950年代後半~1960年代前半)に「シャンソン」という月刊誌があったので、毎月購読していた。欧米文化に憧れ、特に映画「第三の男」のロンドンの石畳、映画「巴里の屋根の下」のシャンソン、映画「荒野の決闘」のモニュメント・ヴァレーなどには、何とかして行って見たいと思っていた。その後、70年ほど経った今では、この望みを叶えてはいるが、シャンソンは今でも時々思い出したように素人のサックスで吹いて見たくなる曲が多い。その時は手元の「シャンソン名曲集」等から好きな曲を選んで吹く。

・パリの人生 ・聞かせてよ愛の言葉を ・街角 ・愛の讃歌 ・パリの空の下 ・さくらんぼの実る頃 ・枯葉 ・ラストダンスは私と ・雪が降る ・サン・トワ・マミー ・セ・シ・ボン ・オー・シャンゼリゼ ・ろくでなし ・幸福を売る男 ・パリの屋根の下 の譜面が収納されている。

(保屋野)シャンソンは、聴けばすぐ曲名が分る超有名な歌から、日本人にはあまりなじみのない歌まで数多くありますが、まず超有名な

①  巴里の空の下②巴里祭③愛の讃歌④枯葉⑤バラ色の人生⑥ラ・メール⑦オー・シャンゼリーゼ⑧巴里のお嬢さん⑨サント・ア・マミー⑩恋心

次に有名な⑪詩人の魂⑫セ・シボン⑬聞かせてよ愛の言葉を⑭ろくでなし⑮パダム・パダム

最後にあまり知られてない⑯さくらんぼの実る頃⑰ふたりの恋人⑱ドミノ⑲サンジャンの私の恋人⑳私の心はヴァイオリン

そして、あるランキングでトップの(ピアフの代表曲)㉑ミロール~題名も歌も初めて知りましたが・・・

(編集子)2009年、友人のジュネーヴの別荘に誘われたので、万全の計画をたててそのあとパリへ乗り込む予定だったが、滞在最後の日、二人で散歩に出かけたときパートナーが石車に乗って転倒、結局JALに掛け合って傷病者向けシートで即時帰国の羽目になった。それ以来、前にもましてパリは縁遠い。小生のパリ、は戦後まもなくはやった石井好子の ”巴里の空の下オムレツのにおいは流れる” でとまったままである。

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石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 – 2010年7月17日)は、日本シャンソン歌手エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業[1]東京音楽学校声楽専科卒業[2]

”懐かしき日々”

数日前、新聞に高倉健のお気に入りを特集したCDのことが書かれていた。大ファンのわがパートナーに頼まれてアマゾンに発注したら、なんと翌日、手元に届いた。迅速なサービスに感心する一方、現実問題としてドライバー不足になやむ運送業界も大変だなあ、と妙な気持ちもした。

さて問題のCDは小生はまだ聞いていない。”昔の” というか ”あの頃の” というか、歌は世につれ世は歌につれ、だれでもオールドメロディには郷愁を覚えるはずだが、この健さんのお気に入りセレクションには ”日々” という付加語がついている。つまり曲そのものよりもそれによって思い出される日々への想い、という意味があるのだろう。曲、ということでいえば、小生にもそれなりの選択がある。だがそれに ”日々” という限定詞をつけるとするとその内容は変わってくる。もちろん、大学生活の大半をしめるKWVでの日々、はもちろんある。しかしその日々のことは半世紀を越えてもなお、”楽しかった日々” と置き換えられる思い出である。健さんの(勝手な想像なのだが)言おうとした、帰らざる日々への郷愁、とすると僕にとっては短い間であったがカリフォルニアで過ごした秋の日々、ということになるだろうか。

当時、まだ、米国で生活する、ということはまだまだ非日常なことであった。だから現地に行く前に自分が想像していたのは日本では体験できない新規な事物への期待であったし、確かにそういうことも数多く思い出される。しかし、(再び勝手な想像なのだが)健さんがこのCDに込めたのであろう ”日々” ということとなると、シリコンバレーの場末、レッドウッドシティというこじんまりした街で、新聞広告を頼りにみつけた2軒長屋(当時は住む家まで会社で用意してくれる、という結構なシステムはまだなかった)で2歳半になった娘を遊ばせながら(まだ彼女と遊んでくれる子供は見つからなかった)過ごした、異国の秋の日々だった。小さな庭は高い塀で隣家とへだてられていて、その塀の上、落ち葉の合間をちいさなリスが走り回り、しんとした空が秋の色だった。そしてそのバックにいつでも思い出すメロディは当時のカントリミュージックに新風を吹き込んだ、若き日のバック・オウエンスの、It takes people like you to make people like me という軽快なメロディと、ちょうどその秋にヒットしたグレン・キャンベルの By the time I get to Phoenix である。C&W はよく聞いてきたが、この2曲だけはメロディとともに、”あの日々” ー 深まる秋の、異国で過ごした濃密な感情 ー がはっきりと蘇る。

仕事を離れて、パートナーとふたり、センチメンタルジャーニーをやろうぜ、と言い続けてきたのだが、つい最近、会社時代の友人が誘ってくれた ”パロアルトへの旅” もなんとなく見送ってしまった。健康上の不安もないわけではないが、あの日々を過ごした、古き良きアメリカの最後のきらめき、懐かしき日々 がもう味わえないだろうという、不安が残念ながら一種の確信になってきたからだった。

明日にでも、この健さんの想い出、を聞いてみようと思う。

(安田)バック・オウエンスとグレン・キャンベルの曲は滞米中によく聴きました。とても懐かしいです。URL貼付します。

 

(小田)我々はアメリカを旅した時、空になったLOVELANDの工場、HP EnterpriseだけのPalo Altoに寂しさを感じましたので、Giさんは行かれたら、もっと悲しくなることと思います。

Glen·Campbellの《恋はフェニックス》はコースが逆になりますが、ルート66を旅した時、オクラホマ、アルバカーキ、アリゾナを通りながら口ずさんでいました。

エーガ愛好会 (260) 騎兵隊  (34 小泉幾多郎)

 ジョン・フォード監督の騎兵隊と言うと「アパッチ砦1948」「黄色いリボン1949」「リオ・グランデの砦1950」の騎兵隊3部作が思い浮かぶ。「騎兵隊 1959」は、そのほぼ10年後の作品で、しかも南北戦争を題材にした戦争映画だから、純粋の西部劇とは呼べないかも知れないが、同じ軍隊で、同じ風俗を描いたものとして、西部劇に分類されている。3部作を思い出してみると、モニュメントバレーを背景にした壮大で美しい景観の中での先住民と騎兵隊とのスピード感溢れる戦いもあったが、仲間内での楽しい喧嘩、ユーモアに溢れた会話、ダンスや合唱隊が唄うシーン等が満喫された。このようなアクションの余韻だった情感とユーモアが、この「騎兵隊」ではしばしばアクション自体が表面に押し出された描写が強くなった印象。

冒頭のタイトルシーンから、騎兵隊のマーチI Left My Loveを背景に騎兵隊が進み、撮影ウイリアム・クローシアのカメラが美しく追う。マーチの作詞作曲が、スタン・ジョーンズで、南北戦争たけなわの頃、ミシシッピー流域のビックスバーグが戦局の焦点で、そのスタン・ジョーンズ扮する北軍グラント将軍が、ジョン・ウエイン扮するジョン・マーロウ大佐にビッグスバーグへの補給路を断つため、敵中深く潜入し、鉄道の要所ニュートン駅の機能を破壊する密命を下すことから始まる。軍医として、ハンク・ケンドール少佐(ウイリアム・ホールデン)が配属されるが、後で判ることだが、過去に医師の誤診で妻を亡くしたことのあるマーロウ大佐と軍医ケンドール少佐とは、事ごとに対立する。途中、農園の大邸宅に宿泊することになるが、女主人のハンナ・ハンター(コンスタンス・タワーズ)に、士官一同もてなしを受ける。この主演三人が、頑固で意固地なウエイン、ナイスガイのホールデン、南部女性の誇りを忘れないコンスタンスが夫々の個性を発揮して行く。ハンナが、作戦を盗み聞きし、南軍に密告を計画していることをケンドールに悟られ、ハンナと女中のルーキー(アリシア・ギブスン)は捕えられ、機密保持のため帯同することになる。行進中、ハンナは何度となく脱走を繰り返すも成功しないうちに、戦闘になれば負傷者の介護等の努力、マーロウに対する素っ気ない振舞のうちにも好意を持ち始めながらも、北軍はニュートンの町を制圧し駅を破壊する。しかしマーロウとケンドールの仲はさら
に険悪となり、殴り合いが始まった。丁度その頃南軍の幼年学校の生徒を率いる年老いた校長が依頼に基ずき制服制帽姿の生徒たちを神のご加護を念じながらの進軍となる。すると幼年兵の一人の母親が、息子は父も叔父も兄も戦死し、死なせる訳にはいかないと訴えると、校長は振り向きもせず、その子に隊列を離れるよう命令する。家の中に連れ帰られたが、その少年再び戻るも、北軍に捕まる。マーロウ大佐にこの捕虜どうしますかと聞かれ、マーロウ曰く「尻をぶて!」。退却ラッパが鳴り響き、幼年学校兵の進撃に、北軍は逃げ出す。

現実ならこんな光景はあり得ない情景だが、ジョン・フォードのヒューマニズムが溢れた画面に違いない。マーロウ大佐、脚を撃たれながらも、何とか南軍に対抗しながら、危険な地域を突破し、橋を渡れば北軍の領土となる地点で、迫る南軍に対し、動けない怪我人に付き添って、敢えて南軍側に残る決死をし、お互いを理解するようになったケンドール医師とハンナに別れを告げ、ハンナの首にかかったスカーフを自分の首に巻き、南軍を引き止めるべく導火線に着火し、部隊と共に爆破寸前の橋を渡り、任務を全うするのだった。

(編集子)この ”騎兵隊” が同じフォードの ”騎兵隊” でも三部作にかなわないのは、助演陣の厚さだと思う。ワード・ボンド、ヴィクタ・マクラグレン、ベン・ジョンスン、ハリー・ケリー・ジュニア、ペドロ・アーメンダリス、ティム・ホルトにミルドレッド・ナトウイック。陽気なアンディ・デヴァインに不気味なジョン・キャラダイン。こういう重厚なバックアップがないとフォード映画ではないような気がするから不思議だ。

例によってウイキペディア解説をいれておく。

アメリカ合衆国陸軍の一部。独立戦争に際し大陸軍内に組織されたが,さしたる活躍を見せなかった。1830年代,西部開拓地における対インディアン作戦のため正規の騎兵連隊が編制され,南北戦争では,広大なアメリカ大陸を背景に騎兵隊はその機動性のゆえに南北両軍において重視された。戦後,騎兵10個連隊が残され,もっぱら西部においてインディアン〈討伐〉または治安維持に使用され,1876年G.A.カスター中佐指揮下の第7騎兵隊がモンタナ州で全滅したことは有名。なお,76年現在で陸軍総定員2万7000余名のうち,騎兵8882名となっている。その後,騎兵隊は自動車,戦車の発達で実質的には無用となり,機甲部隊として再編制された。ベトナム戦争ではヘリコプターを主体とする騎兵師団が組織された。騎兵隊は西部劇において英雄的存在とされてきたが,19世紀アメリカの大陸征覇とインディアン抹殺の象徴であり,またその実施機関であった。

乱読報告ファイル(53) 久しぶりの五木寛之

一種の活字中毒である小生の悪癖のひとつは衝動的に本を買ってしまうことである。衝動である以上、何のために、とか、なんだとかいう理屈はなく買ってしまうので、すぐ読むことももちろんあるが、気がついてみると(いけねえ、こんなのもあった)といういわゆる積読本が溜まってしまう。そのうちの一冊が、だいぶ前に本稿で演歌のことを書いた時に(あ、こんなのもあったか)という衝動で買った五木寛之の艶歌・海峡物語という本である。現在最終コーナーまで来たポケットブック10万頁読了計画がペースが落ち、スガチューからもらった一冊のところでスタックしてしまっていてイライラしている。その間隔に気分晴らしに読む気になった。

五木には一時大分凝った時期があった。最近の彼の著作がどうも宗教だとか人生論などと言うものに固まってきているので、新作は全く読んでいない。 ”青年は荒野をめざす” とか、”蒼ざめた馬を見よ” ”デラシネの旗” なんかは、ハードボイルド、というのはまた違った、テーマと言い書き方と言い、突き放したような感覚が心に響くようで好きだった。その後興味は歴史ものに移ってしまい、考えてみると40年以上のご無沙汰になる。最近のものはどうか知らないが、この本では五木独特の書き方に再会、なつかしさを感じたことだった。

入手したのはアマゾンで寝ていたのか、初版本である。”演歌” ではなく ”艶歌” というタイトルの意味が読み終わってからなるほど、と思わせる作品だ。ストーリーはレコード(今では死語に近いか)業界での話で、近代的な経営手法に逆らって昔ながらの歌造りに生きる一匹狼的な老人と、それに引かれていくディレクタ津上との話である。どうしてこの2冊が一緒になっているのかわからないが、”艶歌” は会社を辞めることにした著名な作曲家高円寺が録音調整室を去る場面で終わる。

(皮ジャンパーの背中を見せて、高円寺竜三は、録音調整室を出て行った。津上は一人で椅子に座っていた。階段を降りて行く高円寺の足音が聞こえた。ガラス窓の向こうに、スタジオはひっそりと静まり返っていた)

”長いお別れ(清水俊二訳版)のラストを彷彿とさせるこの幕切れが懐かしくひびく。

”海峡物語” ではそれまでの伝統的な経営を破壊し、劇的な再生を実現したアメリカ流の経営者黒沢とたもとを分かち、北海道でささやかな生活をしようとしていた津上が偶然に孤独に生きている高円寺に再会する。もう後戻りはしないとかたくなな高円寺を見て、津上はもう一度、日本人の心に響く歌を再生しようと計画する。ストーリーとしては、いろいろな問題を越えて、津上と高円寺は自分たちの歌を再生するのだが、その陰で、実は先に高円寺を職場から放逐した黒沢がこの計画を応援するのだ。事情を知って黒沢を訪れた津上との会話。

(黒沢は窓の向こうの世界をもう一度眺めた。落日の後の残光が西の空を赤く染めていた。
”私も、あの男も、すでに西の空を落ちていく夕陽にすぎん。きみだって、やがてはそれが判る時がくるだろう”
黒沢は津上を振り返らず言った。
”もう行きたまえ”)

黒沢はそれからまもなく顕職を去るが、その陰の根回しのおかげで高円寺の復帰は成る。高円寺はまた、北国の孤独な生活にもどるところでストーリー自体は終わる。

話はこれまで、なのだが、この小説にはあきらかに ヴェトナム戦争時代の日本を覆っていた閉塞感の匂いがする。今の日本もまた、若い人たちの間には閉塞感がある、というのだが、僕らがヴェトナム戦時代に味わったものとは全くちがったものなのではないだろうか。今の時代の問題は明らかに経済政策の失敗とか、それにどう立ち向かうのか、という方向だけは見えているが、それが実現しないことからくる、現実的な諸問題が原因だろう。しかしあの時代に日本を覆っていた閉塞感というのは全く異質のことであったように思える。

ヴェトナムの戦争がいかに無駄であり無意味だったかは、傍観者であった我々よりも、戦場に送られたアメリカの若者たちに残った心の傷ははるかに大きかったはずだ。僕が読んでいるアメリカ発の本には、それまで敵味方だった二人があるとき、”Were you in ‘Nam?”  という会話が交わされることでその間に起きる微妙な感覚が発生する場面によく出くわす。これは “戦友同士” というより ”被害者同士” という和解に近いのだろう。(俺達は結局 Nam  で何をしたんだろう?)という意味での虚無感におおわれた閉塞の時代、だったのだ。日本ではその現場にはいあわせないものの、またはいあわせないからこそ、起きる疎外感とか無力感、俺達はどうすればいいのか、という解決への方向も見いだせない時代だった。五木のこのころの作品には、そのような虚無感が漂っている気がする。

 

 

エーガ愛好会 (259)  ゴジラマイナスワン  (44 安田耕太郎)

3月11日発表の第96回アカデミー賞で「ゴジラー1.0」が、日本映画として初めてアカデミー視覚効果賞(Academy Award for Visual Effects) を受賞した。受賞式の模様をテレビで観たし、それ以前に映画も観ていた。歴代のアカデミー賞の中で、監督として視覚効果賞を受賞したのは『2001年宇宙の旅』のスタンリー・キューブリックのみであり、山崎監督は55年ぶり、史上2人目の受賞監督となった。彼は、監督、脚本、VFX(後述)の3役を務めた。
ゴジラ(1954年公開)は、戦後直ぐの生まれ(1946年)の僕らの世代にとっては1950年代、「力道山」とならぶヒーローだった。戦後の混乱の中で、日本映画を世界に認めさせた黒澤明監督の「7人の侍」が公開された同じ1954年に、奇しくも最初のゴジラ映画が公開された。映画館で観た時(当時9〜10歳)度肝を抜かれたのを覚えている。ゾクゾクして不安を搔き立てられたテーマ音楽が印象的であった。https://youtu.be/2fJrN5R7Yns?t=2
この最新ゴジラ映画はモノクロ版で、大袈裟に言えば黒沢映画「羅生門」「7人の侍」以来の快挙かも知れないと買い被って、そう思う。
「7人の侍」はハリウッド映画「荒野の7人」(The Magnificent Seven)として1960年、リメイクされ公開、更に続いて、第2作、第3作、第4作と続き、2006年には同じ題名「The Magnificent Seven」が公開された。しかし、リメイク作品はどれもオリジナル作品「7人の侍」の足元に及ばない出来栄えであったかと思う。
もう一方の雄「ゴジラ」も続編が頻繁に作られ、「ゴジラー1.0」は国産の実写映画としては初代から数え30代目の生誕70周年記念作品となる。ゴジラ映画はアメリカ製が数作公開されたが、評判は芳しくなかった。ゴジラの故郷日本で、満を持して最新技術の3DCG (3 Dimenntional Computer Graphics – 3次元空間のコンピューターグラフィクス) を駆使したVFX(Visual Effectsの略:視覚効果)映画として、山崎貴(たかし)が監督を務めた。着ぐるみがメインだった、1954年の第1作「ゴジラ」から2004年の第28作目までと比較すると、VFXを駆使した前作第29代目「シン・ゴジラ」と今回の第30作目は、その映像表現が飛躍的に進化しており、ゴジラ自体の臨場感溢れる表情&迫力に留まらず、戦後の焼け跡からの復興期の日本をリアルに表現していて、嘘っぽい街の描写に苛まれずに観れたのは、大きな進歩で、それだけ映像を楽しむことが出来た。
1946年夏、南太平洋のビキニ環礁で行われた米軍による核実験「クロスロード作戦」により、その近海にいたゴジラは被曝し、体を焼き尽くされたが、それによってゴジラの細胞内でエラーが発生し、その身体は背丈50.1メートルまでに巨大化する。そのゴジラが日本を襲うのだ。ゴジラは「背びれ」だけを海面に出し、もの凄いスピードでターゲットに向かっていく。焦土と化した戦後すぐの日本に、ゴジラは深海から突然現れ相模湾から上陸して鎌倉を、そして銀座を破壊し尽くす。恐怖さえ感じさせるゴジラの”本物感“と街の“実態感“には唖然とさせられる。演出と細かい描写に見惚れてしまうが、ゴリラは破壊的な一種の天然のカリスマ感があり、美しい。
戦後、焼け野原となった日本にゴジラが現れ、戦争の惨禍を生き抜いた主人公ら日本国民に襲い掛かる。「戦後、無(ゼロ)になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を負(マイナス)に叩き落とす」という意味を持つのが、映画の題名「ゴジラ マイナス ワン」でもある。
想像を絶するゴジラの姿と行動には驚愕感嘆するのみであったが、ストーリー展開は、映像美ほどの意外性はない。海神(わだつみ)作戦と銘打ったゴジラ殲滅作戦を始め、当時の軍隊が言ってみれば出来うる手立てを駆使してゴジラに立ち向かう。この辺の戦闘場面は純粋に娯楽として楽しめば良いのではないか。
今や国民的アイコンとして世界でも人気を博するようになった「ゴジラ」の今後の映画が楽しみではある。

70年前の記憶から―松中のことから現在を考える     (34 船曳孝彦)

日差しは強くなってきましたが、風はまだ冷たくまさに彼岸前の気候です。 米寿を迎え、最終と思われるスキーに行ってきました。歩くのはフラフラしていますが、スキー板を付けると様変わり。ゴンドラの上から現役並みの滑りが出来て大満足でした。

一昨日、母校松沢中学の『松中祭』に行ってきました。ホールに現役中学生の絵画(ものすごく上手でプロみたい:指導教師が優れている)、工作、書などが展示されている傍らに、同窓会による展示パネルがあり、「松中の歴史」というパネルの横に、私の書いたものもパネルとなって展示されていました。

元原稿を添付します。たまたま高校2年の時の戸山高校新聞に投稿したコピー手に入り、現在(昨年)と比較しますと、『隔世の感』を強く感じます。昔を思い出してください。

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東京都立戸山高校新聞 昭和二七年五月

人生六十年 三年のびた壽命       

生物班研究班  船曳孝彦

 「人生わずかに五〇年」という言葉があるが、これからは「人生わずかに六〇年」と改めなくてはならなくなった。

 二六年(一~十二月)の日本の人口動態を見ると、出生、死亡ともに減少の傾向があり、同年中の人口増加は一,三一四,五一六人で、約秋田県、京都、姫路両市の人口だけ増加したことになる(厚生省統計調査部)

 先ず出生についてはその数二,一五七,四一四人で、二五年のそれより二〇萬人少なく、これはこの統計の始められた明治三三年以来の最低記録で、出生率は千人につき二五・六人、昭和一四年の二六・六人より少ない。 さて死亡の方は、八四二,八九八人で二五年よりも6萬六千人の減少。死亡率も千人につき一〇・〇人とほぼアメリカ並みで、これも始まって以来の最低記録であり、昭和一一年の一七・五人に比べ相当少なくなっている。

 これらのため平均壽命がのび、男六〇・八(五八歳)女六四・八(六一歳)歳となり、大体平均三年のびている(カッコ内は二五年)。この壽命を各国に比べると、イギリス(一九三七年)デンマーク(一九三六~四〇年)の上ではあるが、これら両国は一五年前に既にこの域に達していたことは、まだまだ日本が西欧諸国に比して、この方面で非常に遅れていることを意味している。しかも昨年あたりは戦争による死亡が直接的にも間接的にも最も少なかった年であることを考え、絶対数字のみに拘って考えないようにしなくてはならない。

 このように死亡率が減った原因は一つには前述の戦争の影響の多少もあるが、もう一つの理由に結核の死亡が激減していることがある。これはストマイ等の各薬品の普及によるものと見られ、近頃話題の新薬イソニコチン酸ヒドラジドも実験の段階にあり、前途は明るい。結核死亡者は明治四二年以降毎年一〇萬台で、これを割ることが懸案であったが、ついに九三,六五四人となり、昭和一四年の一五萬三千余人、即ち人口1萬に対して二一・二人の比率が一一・一と半減し日本結核史上特記すべきものである。更に今まで関心の対象であった二〇~二四歳の青年男女層の結核死亡率が二五年に比較して三五%も低下していることは特筆すべき事柄である。しかし、ここで我々が注意しなければならないのは、結核死亡者が減ったことは、結核に感染するものが減ったことを意味しないということである。「大学受験」も健康を除いては意味ない。我々はこれから結核の一番危ない所に入って行くのである。しかし、数字の上からいうと西欧諸国に劣るとしても、結核国の汚名を返上しつつあることは明らかで、一日も早く完全に返上することを心から念願する。

 又その他の死亡原因を見ると死産が増加しており、赤痢、ハシカ、交通事故などによるものが多くなっている。交通事故防止は六三型にのらず、飛行機に乘らないこと(?)。そこで全体として死亡者と年齢とはどんな関係にあるだろうか。ほぼ満一〇歳に至るまでに死亡者数は年々急激に減少し、満一〇歳頃には最も少なくなり、その後は又増えだし、満七〇歳~八〇歳が最も多くなり、その後再び少なくなって行くことが多くの国で一般的な傾向として認められている。又、他の生物と比較してみると、クマ(五〇年)ハト(五〇年)ラクダ(五〇~六〇年)と人間とはほぼ同じ位の壽命を持つものでも、「クマ生六〇年」「ハト生六〇年」となるはずはなく、寿命を人為的にどんどん延ばして行くのが人間の特徴である。もっとも他の生物と比較するにあたっては百分壽命といって、その最高寿命を百とし、全体を百等分し夫々の種類において死亡数がどのように分布しているかを以って比較するのであるが、それを用いても共に壽命が延びて行くことはないだろう(たとえ延びても微々たるもので比較にならない)。そこで我々が長く生きることは、もう既に死亡原因の大きな一つである早産、死産も過ぎたし、ハシカの心配もなく、老衰はいたし方ないとするならばまず病魔の予防を怠らないようにすると共に自殺などもしないことである。(筆者は本校生物班班長)

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高校生として学んだ時から、実に71年という月日が流れています。そこで、当時と現代の統計資料を検索し、比較し直してみました。71年前の事情を振り返る機会を得たことはラッキーでしたし、戦後を知らない世代の人たちにも参考にしていただけたら幸いです

先ず、小論文で寿命が60年となったことがニュースであることに今昔の感があります。現在の男性81.5歳、女性87.6歳と比べると20年以上の差があり、当時では思いもしなかった差と思います。

出生率は1000人当たり25.6人と低下したとしており、ベビーブームと言われた世代の終わりでしょうが、現代の1000人当たり0.6人とは2桁も違い、一方の死亡率も1000人当たり10人(アメリカ並みとなったと喜んでいます)と、現在の0.13人とは、やはり2桁違っています。

総人口は8,457万人(小論文中には出てこない)から、今は1億2450万人とほぼ5割増しになっていますが、当時の秋田県の人口が130万人、京都市・姫路市合わせて130万人というのにも驚きます。日本で3番目の大都市京都が百万都市になるかどうかの境目だったとはこれも驚きです。

現在人口減少が始まり、加速しつつあります。少子化傾向が問題となっていますが、このままの傾向が続けば、22世紀を迎えるころは日本の人口は6千万となり、大げさではなくやがて滅亡に至ります。小手先の補助金などでなく、高齢化社会の問題とともに、人口動態の推移を分析した上で真剣に対策を立てる必要があります。

当時の死亡率を低下させた原因について、まだ戦後間もない時期であり、戦争関連死者の影響が小さくなり、新しい情報として入ってきた西欧諸国の文明に驚いている時代でした。

まず結核死亡、特に青年層での減少を挙げています。抗結核剤の出現以前は結核イコール死と見做されていました。実はすぐ後からペニシリンなどの一般抗生剤が普及したことも大きく貢献したのですが、感染症の世界は全く様変わりしました。抗結核剤も一般抗生剤も一切なかった戦前に脊椎カリエス(結核菌に合併して混合感染)を患った私自身はよく生き残れたものだと思います。現在結核による死亡は激減し、抵抗力の低下した老人の病となっています。結核国の汚名が除かれたことは喜ばしいことでした。

そして感染症学は今回の新型コロナウィルスのような次から次にと発見されるウィルスの時代となってきています。

他の死因について、死産、赤痢、ハシカが出ていることも当時を反映しています。当時はどこにでもある感染症だった赤痢は、この5年後に私自身が合宿での集団赤痢に遭遇し、医学生だった私も病院との間で奔走した思い出がありますが、最近耳にすることもなくなりました。また、交通事故死が問題なりつつあった頃でもありました。

あれから70年以上経過し、日本社会の問題点は、特に医学医療面でも、次々と変遷して参りました。今から考えると、当時の医療は寂しい限りで、肝臓がんや食道がんは手術療法が世に出ておらず、手術しても患者さんの大部分は死んでしまった時代です。今は遺伝子が実際の患者さん診断に使われるとか、内視鏡で手術するとか、しかもロボット技術迄応用されるなど、当時は夢物語ですら出てこなかった進歩です。医学・医療に身を投じた者として、その後に日本は世界一流のレベルを走ったという自負があります。それなのにコロナ対策で迷走を繰り返したことなど、20年、特にこの10年は医療、医学の面で、特に学術面、行政面で後退していることも事実です。

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(41 齋藤孝)お知らせ、ありがとうございます。米寿を過ぎてもスキーで御活躍とのこと敬服いたします。それから名門『松中』で開催された学園祭に出席されたというお話。カメも同じく名門、松中の出身ですから誠に嬉しいです。KWVの同窓には同期の金子和義がいます。同期の文集から抜粋します。

金子君は自民党所属衆議院議員だった。選挙区は岐阜県高山地区。金子君の父親も国会議員。金子君は大臣にもなった。国会で答弁を行った時、それをテレビで見たことがある。面白かったことは、テレビ中継で金子君が議員席で退屈そうに何やらノートに落書き絵を描いていた。これが大臣としてあるまじき行為としてメディアで問題になった。金子君は髪の毛も豊かで顔は歌舞伎役者のようであった。残念ながら大臣としてはあまり実績を残していない。
実は金子君とカメとは中学が同窓なのである。1955年、カメは富山から世田谷区の松沢中学に転校した。カメはそれまで5年間、富山市で母親の実家に預けられていた。1950年に新潟市で父親が亡くなり、母親が単身働く必要が あったからだ。金子君は父親が岐阜高山選出の国会議員であったこともあり、世田谷区赤堤に別宅があった。その関係で金子君は松沢中学に入学する。ところで松沢中学の同窓会会長に船曳孝彦さんが就任されたこともある。あのKWV先輩のドテさんだ。