「ベルリン・フィル」[副題:栄光と苦闘の150年史](著者:柴崎佑典、発行:中公新書、2025年)。
これは酷い!
この本の帯の表には「世界中の人々を魅了したものとは」とあり、その裏には「なぜ世界最高峰と呼ばれるのか」との惹句がでかでかと掲載されている。当然のことながら、ボンクラな小生は、それらの疑問に対する明確な回答があるものとして、この本を手に取ることになった。ところが、それらの疑問に対する回答は一切ない。ただただ、ベルリン・フィルの主席指揮者は、フォン・ビューローに始まって、ニキッシュ、フルトヴェングラー、カラヤン、アバド(イタリア)、ラトル(英国)であり、そして、現在はペトレンコ(ロシア)であることを、長々と論じているだけに過ぎない。こんなことは、いささかでもベルリン・フィルを齧ったことのある人なら、何ら新しいことではなく、既知の事柄だ。肝心なことである、ベルリン・フィルの魅力とは、具体的に、一体、何なのか、そして、それが世界最高峰であるのは何故なのかについては全く言及されていない。これこそ羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話しであり、天下の中央公論がこんな杜撰な本を売り物にするなど、許されるものではない。小生の正直な反応は、内容が空虚で騙された!即刻、絶版にすべき代物だ。
著者も不適当だが、そんな著者に原稿を依頼した編集者も出来損ないだ。先ず、この著者は、確かに、巻末に膨大な参考文献を掲載しているが、ただそれだけを駆使してこの本を書き上げているに過ぎない。それ以前に最も重要なことは、ベルリン・フィルを生で聴いたことがあるかどうかだ。小生は、この著者は、ベルリン・フィルを一度も聴いたことがないと推定している。生は勿論だが、缶詰(LP、CD)だってそうだろう。それで良くもベルリン・フィルのことが書けたものだと、ただただ呆れるばかりだ。
さて、ベルリン・フィルの音色の特徴は、また、他の交響楽団、例えば、同じドイツのシュターツカペレ・ドレスデンとか、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスなどとはどこがどう違っているのか、などなど。こう言う肝心のことにも聊かの言及もない。それはそうだろう、何しろ、この著者はベルリン・フィルの生を一度も聴いたことがないのだから。
繰り返しになるが、「世界中の人々を魅了したものとは」に対する回答が、例えば、フルトヴェングラーや、カラヤンなどの指揮者であったとしても、その指揮者のどこがどう魅力的だったのか。そうではなくて、フルトヴェングラーのナチとの関係とか、カラヤンがクラリネット奏者、ザビーネ・マイヤー採用を巡ってのゴタゴタなどを長々と書いてお茶を濁しているに過ぎない。誠に腹立たしい限りだ。
ベルリン・フィルのことであれば、文献からだけでなく、生なり缶詰なり、ベルリン・フィルを、数多、聴いたことのあるもっと適当な人がいた筈だ。中央新書と言う権威ある新書が何故こんな著者を選んだのか、全く理解に苦しむ。例えば、「アーロン収容所」(1963年)を出版した当時の中公新書が草葉の陰で大泣きしているのは間違いない。
参考までに、小生は、フルトヴェングラーがベルリン・フィルを指揮した、ベートーヴェンの交響曲6番「田園」をCDで聴いたことがある。ベートーヴェンの交響曲は、そら行け、ドンドンと勢いの付いた類いのものが多いのだが、この6番は本人自らが、題名に「田園」と付けただけのことはあって、雷雨、嵐の第4楽章を除き、至って穏やかで、安らぎの曲だ。しかし、フルトヴェングラーに掛かると、この「田園」は、誠に荒々しい、それこそ荒野と言う趣きで、小生は全く馴染めなかった。
そこで、以下、小生の独断と偏見だが、ベルリン・フィルは今や単なるドイツの交響楽団に止まらず、万人のための、言ってみれば、ユニバーサルな交響楽団となってしまい、その独自性は喪われてしまったのではないか。それは多分カラヤンの頃から徐々にそうなって行ったに違いない。一方、鉄のカーテンに覆い隠された東ドイツにあって、シュターツカペレ・ドレスデン、ライプツィッヒ・ゲヴァントハウスなどは、ドイツ本来の骨太で、重厚な音を維持して来たのではないか。特に、コンヴィチュニーの下でのライプツィッヒにそれが著しい。小生、バカの一つ覚えのようにベートーヴェン、ベートーヴェンなのだが、なかでも、コンヴィチュニーがライプツィッヒを指揮したベートーヴェン交響曲全集(東ドイツ時代の1959年から1961年にかけてスタジオ録音された)を、それ故に愛聴している。カラヤンがベルリン・フィルを指揮したベートーヴェンの交響曲全集も缶詰で聴いたが、確かに大変奇麗な音楽が流れている。しかし、一言で言ってしまえば、感動するまでには至らず、面白くなかった。
東ドイツは西ドイツに吸収合併されて消滅してしまう誠にダラシナイ国家だったが、ドイツ本来の質実剛健な音楽は、東ドイツ時代も脈々と受け継がれて来たようだ。ただし、現在、そのライプツィッヒの主席指揮者はイタリア人のガレッティだから、ここもユニバーサルな交響楽団に変貌してしまったのかも知れない。そのように、みんな金太郎飴になってしまったら、何とつまらないことか。でも、これが、巷で言われているグロ-バリゼイションと言う世の中の流れの一環であるのかもしれないのだ。
(44 安田) 小汀利得と細川隆元の「辛口時事放談」のような小気味良い毒舌(
(編集子)残念ながら小生にはスガチューの論点について語れる教養も知見もないので、本論へのコメントは差し控える。しかし別のところで、彼がいみじくも言っている、羊頭を掲げて狗肉を売る類いの話にはよく遭遇する。それが昨今のITだAIだという一連の社会変革にまきこまれるのだから、誰もがプロパガンダの中で漂流してしまう。そうなると安田コメントの言うような、当たり障りのない史実を羅列することがあたかもインテリジェンスのように思えてくる。いやな世の中になりつあることを実感する。不便でも若者に馬鹿にされようとも、横丁の旦那の意地っ張りで、ユーチューブなんて化け物には一切手を出さない、というマイウエイで行こう、という気になる。俺は単なる知恵遅れか?