1960年代の改革を振り返る  (横河電機同僚  山川陽一)

僕らが社会人になった60年代はいわゆる高度成長期が始まったタイミングでした。日本中の企業がそれぞれに改革を試み、それが集大成されることで日本の経済が飛躍できた、まさに企業ごとにそれぞれが積み上げた社内改革が国家レベルでの高度成長を可能にしたのだと思います。今や ”国難” とされる問題に対して国家を挙げての改革が叫ばれています。あの頃のことを私が勤務した横河電機での改革のありようを参考までに、オールドタイマーの記憶をたどってみます。

■ 週休2日制の導入

私の会社務めの第一歩は人事部から始まりましたが、ちょうど労働組合からの時短要求にどう対処するかがテーマになっていた時期でした。当時は土曜半ドンの会社も多くありましたが、横河電機は1日7時間週42時間労働でした。

日本人は体力がないから1日の時間は短い方がいい、土曜半ドンにすべきだというのが社長の意見でした。いろいろ調べた結果私は週休2日1日8時間労働が世界の潮流であり、日本もいずれそうなるだろうと主張しました。社内広報誌を使ってキャンペーンを張り、全社員にあるべき形を問いかけました。結果として、週休2日制が実現することになるのですが、これはキャノンに次いで日本で2番目の快挙でした。

  • 倉庫スペースが足りない

ボルト、ナット、ワッシャーなど数千種に及ぶ標準小物部品の管理は大変な仕事でした。倉庫は部品番号順に一定の間隔で配列されており、手配担当者は入出庫台帳の残高を眺めながら発注をかけるやり方でしたが、右肩上がりの生産量に対応できず、倉庫スペースの不足や欠品の増加で破たん寸前の状態でした。

部品番号順の配列をやめて空いているスペースに自由に収納するフリーアドレス方式への変更、在庫の残高が一定数になったら一定数を自動発注するオーダーポイントシステム(OPS)の採用、金属製の保管引き出しを組み立て式の大小数種の段ボール引き出しに変えるなどを軸にした変更で、必要倉庫スペースの半減、手配工数の半減、欠品の減少を実現しました。こんなことをゼロから考えだすのは大変なことですが、かつて見た技術提携先の倉庫管理方式が念頭にあっての提案でした。

新部品展開システムの考案

すべて手作業で行っていた生産管理をシステム化する任務を与えられたのが労務から生産部門に転じて3年目のことです。生産部門と情報システム部門だけでなく技術部門も巻き込んで丸3年を要した大プロジェクトで、仕事のやり方を一変させるものでした。

当時生産管理と言えばIBMのPICSと言われるくらいPICSはその道の教科書的存在であり、まさに世界標準でした。私たちも当初はPICSの導入を考えていましたが、検討するうちに大きな“疑問”に突き当たります。この方式だとモノの作り方に合わせた対応を組むことになりますが、作り方が変わったらまた組みなおす必要が生じます。考え抜いた末私たちは独自の方法を取ることに決めました。その結果、モノの作り方が変わっても生産方式の変更に自在に対応できることや、技術図面の情報をそのまま入力しているので技術変更にも容易に対応できるなど、多様なメリットが生じました。 天下のIBMのしくみを覆す発想でした。

在庫を半減させる

モノを生産する場合、部品、サブアセンブリ、アセンブリ、製品の順で組み上げていきますが、当時はそれぞれの段階で在庫を持つやり方で生産していました。当然、在庫量は膨らみます。製造部門と話し合い、中間在庫を持たないで部品から製品まで一気通貫で作る生産方式に変えることにより、在庫費用の大幅な削減に成功しました。私が原価課長時代のことで、社長賞を受賞しました。 

  • システム開発手法PRIDEとの出会い

システム部門主導で開発されたオーダー処理システムがうまく機能せず、当時原価課長だった私が急遽システム部門に配転され、ゼロリセットでシステムの再構築をすることになりました。調べてわかったことは、ユーザー目線、業務改革目線に立ったシステムになっていないこと、超高層ビルの建設を宮大工に任せるようなもので巨大システムの作り方としてはあまりにお粗末な開発のやり方だったことです。そんな時出会ったのがシステム開発手法PRIDEでした。その基本は3点に集約されるものでした。

  • User Oriented
  • Phase to Phase Approach
  • Documentation Communication Concept

「ウン、これだ!」と思いました。あれから40年、いまやコンピュータの性能もシステム開発のツールも隔世の感がありますが、システム開発の本質はまったく変わっていないと思います。

これからの新しい挑戦にむかって、オールジャパンでの改革の成功が望まれるところですね。