田沢湖とク二マスの話    (44 安田耕太郎)

KWVの同期S44年卒の仲間総勢17名で先週、毎年恒例の合宿を八幡平〜田沢湖で行った。立ち寄った田沢湖で興味深い田沢湖固有種のクニマスに関する情報を得た。面白そうなので、以下説明させて頂く。

田沢湖固有種のクニマスは、「黒い鱒」と言われ、日本一深い湖(423m)で独自の進化を遂げたが故に、浅瀬で産卵する他のサケの仲間と全く違う生態を獲得していた。その一つが、深い湖底での冬季産卵だ。
若魚の時は銀色で頼りない感じの、どことなくシシャモのようにも見えるクニマスも、成熟期を迎えるとオスもメスも真っ黒になる。オスに限って言えば、背中が大きく張り出して、鼻先もグッと曲がり別の魚のようだ。それが貼付写真の通り成熟したクニマスだ。江戸時代・明治時代の過去の発掘文書には、長野県の野尻湖、岩手県の平ヶ倉沼の他、富山や神奈川の湖にもクニマスが放流されたという記述があるそうだ。
田沢湖では古くから漁業が行われ、1715年には固有種であるクニマスに関する最古の記述が出ており、献上品として利用されてきた。明治期末からはクニマスの孵化放流事業も試みられ、1935年(昭和10年)には8万8千匹の漁獲高があり70余人の漁師が生計を立てていたという。ところが、戦時体制下の1940年、食糧増産と電源開発計画のために湖水を発電用水・農業用水として利用しようと、近くを流れる玉川から国内屈指の強酸性の河川の水を湖に導入する水路が造られた。田沢湖から約35キロ上流にある、今回の旅でも立ち寄った玉川温泉は強酸性の源泉をもつ日本有数の湧出量を誇る温泉である。魚の絶滅を心配する声は当時もあったが、住民が国策に反対できる時代ではなく、漁師たちはわずかな補償金と引き換えに漁業の職を失い、ほとんどの魚が数年で姿を消した。
80年前、クニマスが絶滅する前、田沢湖のクニマスが山梨県の西湖に移植されていたことが分かった。2010年、絶滅したはずの田沢湖の固有種クニマスが西湖で発見されたが、それは1930年と1935年に移植作業の一つとして届けられた田沢湖のクニマスの卵の子孫たちだったのだ。山梨県の水産技術センターの研究の結果、人工孵化できるまでになったクニマスは2017年、田沢湖畔の博物館「田沢湖クニマス未来館」に送られ、そこの水槽で飼育されて以来、ここで見られるのが添付写真の成熟したクニマスだ。
クニマスが絶滅した以後も玉川と一帯の酸性化は進み、玉川下流の農業用水の被害も深刻になったため、県は玉川温泉の水を中和する施設の設置を国に要望し、1989年に中和施設が完成した。また、それ以前の1972年から石灰石を使った中和処理が行われてきた。これらによって湖水表層部は徐々に中性化してきたが、今なお湖全体の水質回復には至っていない。水深400mを超す深い湖全体の水を中性化できるのは可能なのであろうか?いつになるのだろうか?、と思わずにはいられない。

(保屋野) 田沢湖の「クニマス」の歴史、ありがとうございます。当時、さかな君の発見で大きな話題になりました。

さて、田沢湖ですが、2回ほど訪れてますが、展望台から、コバルトブルーの美しい湖面が印象的でした。

かって30mを超えていた透明度が一時4,5mまで悪化したということですが、現在かなり回復しているのではないでしょうか。

二重の虹が出ました   (グリンヴィラ総合管理HPより転載)

昨日は寒気の流れ込みで大気の状態が不安定でした。急な雨や突風で午後は一時的に荒れた天気となりました。15時過ぎに事務所に戻る途中、長坂町内で二重の虹を見る事が出来ました!

(編集子)これからのひと月、最も好ましい季節が八ヶ岳南麓を訪れる。登山家にして詩人尾崎喜八は北信州からこのあたりをこよなく愛し、あまたの名文を書いているが、彼の流れるような文章がよく似合う季節でもある。

エーガ愛好会 (233)クライ・マッチョ  (34 小泉幾多郎)

当時91歳のクリント・イーストウッドが監督デビュー50年40個目のアニバーサリー作品。題材は落ちぶれたカウボーイと少年の旅、ロードムービーを通して語られる人生から、西部劇と言えないこともないが、時代は1979年で背景はメキシコ。馬でなく車。ネオ・ウエスタンとでも言えるかも知れない。イーストウッドはローハイドやマカロニウエスタン時代から、タフガイ、ゴースト、人生の導師、謎の男と形は変わってもその姿自体や、その悠然たる歩きに変化はなかったし、この映画でも変わっていない。

ストーリーは若き時代ロデオ界のスターだったマイク(クリント・イーストウッ
ド)は落馬事故以来、数々の試練を乗り切りながら孤独な一人暮らしを送っていた。或る日雇い主ハワード・ポルク(ドワイト・ヨアカム)から、別れた妻レタ(フェルナンダ・ウレホラ)に引き取られた10代の息子ラフォ(エドアルド・ミネット)をメキシコから連れ戻して呉れと依頼される。母親の男遊び等に愛想をつかした息子は、闘鶏用の鶏と盗みで生きて来た。ラフォを探し出したマイクは二人で、車を盗まれたりしながらもメキシコから米国への旅を始める。二人に迫るメキシコの警察、レタの放った追手。二人の絆ガ胸にこみ上げる。助演男優賞の闘鶏、チキンでないマッチョと命名された闘鶏が車の中でお喋り、銃を持った敵に飛びかかる等の活躍も。男優賞は元カウボーイ、爺さんだが、立ち姿は若々しい、女に好かれ、馬を乗り回し、機械に強い。最後は息子の父親の出迎えを受け、息子は父と共に無事帰還。この後父と息子がうまくやれそうかどうかには関心はあるのかないのか。マイクは旅の間に触れ合いが印象的だったパブの女主人マルタ(ナタリア・トラヴェン)のパブへ直行しダンスへ。まだまだ若い。音楽がマーク・マシーナと言う人。パブからは、ボサノヴァのようなシャンソンのようなラテンSobor a Miで唄はEydie Gomeが聞こえてくる。

冒頭のスタートは、カントリーで、マイクが村の中を走っている間、Fina A New
Home、唄はWill Banister。全般的に年の離れた男二人のロードムービーだが、特に強調することもなくさらりとした描写の中に、若き頃ヤンチャだった年寄りの過去に対する悔恨を背負った主人公の弱さとやさしさの中に、逆に頑固で力強く自分の未来に限界がないような気がしてくる。

(グーグルの解説転載)

タイトルの『クライ・マッチョ』とは、「マッチョ、鳴け!」という意味と「男らしく泣け」のダブルミーニングだと思われる。 年代も環境も違う、出会うはずのなかった2人が旅を通して絆を深め、生きることの意味や明日への希望を見出してゆく、人生への問いかけを秘めた感動のストーリー。

スナック・ジジ

昨晩、月一高尾の常連数人で飲む機会があった。以前、府中カントリでのゴルフ会の帰り、何人かを案内した、編集子の旧居近くにあって馴染みだったバーが気に入った、という連中がわざわざ都心を通り越してやってきてくれる、という会合になったのだ。この会の発案並びに運営は42年卒の下村君がやってくれている誠に楽しい時間なのだが、席上、スナック・ジジ の話が出た。僕らの年代のKWV仲間では有名だったが、なるほど、すでにいわば歴史上のことなんだな、という感慨があった。KWVのみならず、横町の旦那として昔を語り伝える年だなという事を、今週2度目に納得した(1度目は ”そのうちお前と酒が飲みたいな” とからかっていた孫が実は大学生になり(このさい法律論はなし)、その日がもうやってきてしまった、という衝撃)事実だった。

スナック・ジジ のことは同期文集に書いておいたが、ご参考までに全文をコピーしておく。キザに言えば、本稿のタイトルどおり、Circle be unbroken  であろうか。

(注)文中、キチン スイス は場所を変えて京橋近くで営業している。メニューもあの頃と同じ、まさに昭和の雰囲気は変わらない。

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スナック・ジジ

銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。街並みは変わり、“いちこし” も ”ジュリアン・ソレル“ も ”スイス“ もなくなってしまったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出は我々とともにある。

その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前はスナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女が演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。

この店の誕生には、1年上の ”マックス“ こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に誘われ横浜、都橋の近くで ”こけし“  というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間に呼びかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた.ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ“ と強く勧めたのだという。

住吉はいろいろな友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)から紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなぞというものとは無縁、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう ”銀座マダム“ とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、”慶応“ それもどちらかといえば ”体育会(この場合はKWVも含めてだが)OB“、の何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。

何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にしてみれば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む“ プライドをもつことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに ”おれたちケイオー“ の場所だったのだ。

KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、佐川久義、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも“じゃ、ジジで” というのが決まりだったのだ。

われわれの ”部室“ であった ”スナック・ジジ”は、2009年3月31日、その ”銀座の灯“ を落とした。

(住吉康子 2019年10月9日没)

 

強風下の栗駒山   (42 保屋野伸)

昨日、仙台発地元の日帰りツアー「紅葉の栗駒山ハイク」に一人で参加しました(仙台前泊)。北東北の冬型配置による暴風警報にもかかわらず、キャンセルもなく336名もの参加者がありました。(大半が女性)

標高1100mの「いわかがみ平」から強風の中1時間ほど登って1400mの稜線に出ると、そこは風速25mの世界、吹き飛ばされそう。さすがに、初心者もいるツアーでは1620mの山頂までは行けず、ここから引き返しました。山頂は風速30m。

紅葉も、猛暑の影響でナナカマドが枯れ、赤系統が全滅でしたが、まあまあ、黄葉の絨毯は(少し)楽しめました。その後麓の温泉に入って帰京、紅葉は「イマ2」でしたが、(めったにない強風登山という)良い経験をしました。

紅葉の絶景写真をお見せしたかったのですが、こんな状況で残念。

 

(下村)残念でしたね。今年は紅葉の美しさは諦めですかね。わが家の皇帝ダリアも暑さでぐったりしてしまい、あの迫力ある開花は期待出来そうもありません。ここにも異常気象の影響ありか。来年のスキーシーズン、雪の多寡が心配です。どうなることでしょうか。

(河瀬)私も実はナナカマドの紅葉で有名な栗駒山に10月4日に登る計画で厳美渓の旅館まで予約していたのですが、猛暑で紅葉がありそうもないのでやめました。保屋野さんは強風とナナカマドが枯れたのはダブルパンチで散々でしたね。

 私は代わりに10日後に群馬県の秘湯、四万温泉の元湯の積善館に行くことに決めました。それでもまだ紅葉は早いと思っていましたら??、最近の寒波襲来でなんと隣の草津では7−8度になっているようです。元気な木々に10度以下の急激な気温低下と晴れが続くと紅葉が始まります。群馬県北部は雨も多かったので木々はあまり枯れていないようです。ひょっとすると東北と違ってくるかもしれませんね。

(編集子)したがって本稿の写真は (こうなるはずだったのに)の光景である。同期の連中4名ほどで、鳥海山の帰り東北ドライブとしゃれこんで、その途次、栗駒の麓を走った記憶がある。その記憶に間違いがなければ、確か泊まった小屋が台風で流出してしまったのではないか、と思うのだが。記憶のいい遠藤兄だったら覚えているかもしれない。

玉山は遠くなりにけり     (39 堀川義夫)

 

9月19日にフィリピン沖で発生した台風14号(コイヌ)は台湾直撃の大型台風となり、10月3日(火)には、玉山に登山禁止令が発布されました。

私の今年の大きな目標は、100名山の完登と玉山の登頂でした。玉山は何回も登頂の企画し、その都度いろいろな理由で行けなくなった私には相性の悪い玉山でした。今年はラストチャンスと思い、早々に4カ月前の6月には幸運にも仲間5人分の拝雲山荘の抽選での予約を確保し、以来楽しみにこの日をくるのを待っていました。9月29日には100名山完登を達成し、余韻治まらない内の10月4日(水)に日本を出発して、5日(木)に拝雲山荘泊まり、6日(金)早朝に登頂予定でしたが・・・

台風の発生以来、毎日、何回も天気図を見ながら、仲間と連絡を取りながらあーだこうだと話し合いながらも全員行く気満々でした。結論はとにかく行こう! あとは状況判断で出来るだけ登頂を目指そう、という決心をしていましたが・・・なんと、日本出発予定の前日、10月3日に登山禁止になってしまいました。

私としてはショックでした。残念でした。台湾のグルメは所謂観光でも良いかなと思いましたが、山が目的で行く台湾の予定です。多分、台北にしろ温泉地巡りをするにしろ天気は悪いことでしょう。結局のところ話し合って催行中止と言う結論になりました。残念無念!  玉山は遠くなりにけりです。

 

世代交代:ふたつのシーン

10月4日夜、セントラルリーグ最終戦、ジャイアンツはDENAに辛勝。最終戦のセレモニーについで原監督の交代イベントが放映された。後任は噂通り、阿部慎之助。編集子の好みは高橋由伸の再チャレンジだったが、ま、いいさ。

デジャヴ―というコトバがあるが、この交代セレモニーは長嶋監督がこの原へのバトンタッチを演出した夜の再現だったといえる。ただ、長嶋茂雄という人は生まれつき劇的な演出にたけているのか、スピーチもうまかったし、テレビ側のメーキングもよくできていた。例えば往年の両エース、斎藤・槇原と女房役村田真一の引退試合の演出なんかは見事なものだった。それに比べると今晩の演出はもたもたした印象があり、不満の残るプログラムだったのは残念だ。

小生、長嶋のデビューの時のテレビ報道は見ていないが、阿部の初打席での二塁打は見ているし、原が不調続きで酷評され、”ガラスの四番打者" などと呼ばれた後、ホームランを打って涙をにじませながらベースをまわってていた場面も見ている。いろんな場面が思い出されるが、今晩、心に響いたのは、長島から原への交代劇をつい数日前に見たような気がしたことだった。今更ながら時間の経過の冷酷さが身に染みる。

来年, 新体制で ”サイコーでえす!” とわれらがシンちゃんが絶叫する監督談話を見たいものだ。

大谷選手コメントのこと

大谷選手米大リーグでの本塁打王、快挙、文句なしの快挙だ。最近の報道を通じて大まかなことは分かったつもりでいたが、発表された彼のコメントを読んで、感じたことがあった。

それは自分がこの結果を残せたことを、これまでの日本選手の大リーグでの実績に言及して、”恐縮で光栄なことです” と言ったことである。小生、いままで知らなかったのだが ”恐縮” には二つの意味があることを、これを機会に辞書を引いて初めて知った。辞書を調べるまで、この言葉は英語でいえば sorry にあたるとしか思っていなかったので、真意がわからなかったのと同時に、通訳の水原氏がどう英訳されたのかにとても興味があった。しかし調べてみるとこれにはもう一つ、obliged  という意味があると知って、なるほど、適切なコメントだと理解し、同時にこの単語を使った大谷選手の教養に別の意味での感銘を受けた。いままで、生意気にも若い年代の人たちの会話や文章に日本語が”荒れていく” と嘆いてきたわが身の浅学を悔いることしきり、である。

このコメントがアメリカ人社会に受け入れられることは間違いないが、もう一つ、改めて感じたのは、日本人の何かに没頭する姿勢である。毎日のトレーニングや節制、という事はどのような場合でも必要だろうし、それをストイックに継続する、ということは人種を問わずその道のチャンピオンを目指す人は実行しているはずだ。しかし日本人の場合のように、打ち込む姿勢というか態度が我々の使う意味での 道 という観念に結び付いていくのかどうか、このあたりはまさに文化の違いだろう。大谷選手のかの地での生活態度(たとえばほとんど外食もしないというような節制マインド)を報道で知る限り、まさに野球道を究めようとしている求道者、という風に見える。

日本が敗戦のショックから立ち直れず、自虐的に生きていたころ、スポーツの世界でのいくつかの勝利、たとえばボクシングの白井、水泳での古橋、と言った人たちの活躍は日本人 ”でも” 世界に通用する力を持っているのだ、という意味でわれわれの心の支えになった。かたやスキーでの猪谷選手の活躍の一つの要因は彼を認めた米国人の支援と、もう一つ、徹底して米国人のライフスタイルに溶け込んでいった猪谷さん(一度だけだがスキー旅行でご一緒したことがあるのでこう呼ばせていただく)のスタイルはこの種の求道者、というイメージからは距離があり、あくまでオープンな、アメリカ人的なものだったと思う。どこかで読んだ記憶があるが、猪谷さんのスタイルには、日本代表として選ばれてチームメイトになった、いわば日本的な感覚で育ってきた人たちとは相いれずときとして不協和音があったという事があったようだ。

どちらが良いとか好きとかいうレベルの話ではない。アメリカの国技と言える野球の世界でアメリカ社会に薫風を吹き込んだ、ともいえる今回の話は、単に成績だけでなく、個人の人格やマナーや、人間としての器量が、人種文化の壁を越えてアメリカ人の心に響いた、という事で、ほんの少しだがアメリカ社会の実体験を持つ者の目から見て、凄いことだと思うのだ。

(安田)全く同感です。「近頃の若者は・・・」云々などといつの時代も年寄りは言いがちですが、大谷翔平のような心技体そろった若者アスリートの謙虚で賢いコメントには励まされるばかりです。

アジア人がMLBの本塁打王になること自体、MLBの歴史を揺り動かすほどの快挙ですが、彼は今春のWBCでも並みの選手でない才能と賢者振りを発揮していました。決勝のアメリカ戦でクローザーとして9回に登板、同じ所属球団エンゼルスのスーパースター で同僚のマイク・トラウトを三振に仕留め拮抗したゲームを勝利(3対2)に導きました。これも凄いことですが、僕がもっと感銘を受けたのは、彼が試合前の円陣で仲間全員に対して 声出し をこの大会初めて務めた時の “檄“のコメントです。

「ファーストにゴールドシュミットがいたり、センターを見ればマイク・トラウトがいるし、外野にムーキー・ベッツがいたり、野球をやっていたら誰しも聞いたことがあるような選手たちがいると思う。憧れてしまっては超えられないので、僕らは今日超えるために、トップになるために来たので。今日一日だけは彼らへの憧れを捨てて、勝つことだけ考えていきましょう」。全く言い得て妙な発言です。その甲斐あって、日本チームは見事3度目の栄冠を勝ち獲り、大谷選手はMVPとなりました。挙げた3選手は全員MVP(最高殊勲選手)を獲った米球界のスーパースタ―です。この大谷のコメントは英語にも訳され、アメリカ国内でも大変大きな反響を呼び、大谷選手の人となりの株を大いに挙げました。

3月のWBCにピークを持ってくるという負担は、長丁場のMBLペナントレースの終盤に肘が悲鳴を上げる一要因になったのかも知れません。進化したハイブリッドのトミー・ジョン手術は、一部の専門家からは復帰後(2025年以降)、170キロのスピードボールを投げることが出来る、などと嬉しいことを言ってくれています。肘へは2度目のメスですから予断は許しませんが、肘への負担が大きい彼の得意な曲がりの大きな スイーパー に頼らずとも快速球・豪速球で打者を捻じ伏せることが出来ればそれに越したことはありません。2024年は投球はせず、打者に専念、二刀流は2025年から が現在の予定とのこと。来シーズン、DHに専念してホームラン数が今年を凌駕して50本以上打てば、怪物以外の何物ではありません。彼には “Wish you the best of luck” と伝え、来シーズンの活躍を期待したいと思います。

23年9月 月いち高尾 (47 関谷誠)

来年、創部90周年を迎えるKWVで育った我々ワンダラーの山登り、山歩きに対する情熱は老若男女失せることありませんが、現実は厳しく、体力・足腰の衰えを如何とも隠せない老齢世代、一方で、それなりの体力を維持しながら、何とかごまかし得る若年老齢世代等々、幅広い層が参加・楽しめるイベントの企画は、KWV三田会としても大きな課題のようです。 この「月いち高尾」の会は、発起人の36年「ナンヤカンヤ」会の皆さんの参加がおぼつか無くなった時点で、自然消滅させても良いのかも知れません。しかし、バリバリの若年老齢世代の参加が増え始めている昨今、又、「テング飯店」での後の祭り懇親会も店が貸し切り状態となる盛り上がりを呈しており、何とかこの会を継続できないかと悩み、思案する三代目世話人です。そこで、今回、新たな試みとして、「高尾山」山域をゆっくりと自然に触れながら、仲間とワイワイガヤガヤ、体力的負担の軽い山歩きの「シニア―」向けプランと、それなりにハードな登山を楽しめるプランの2本立てとし、下山後は、「テング飯店」に集結とのプランを企画しました。

 

<以下、敬称略>

(シニア―・コース) 34/船曳夫妻、36/遠藤、中司、高橋、吉牟田、鮫島、39/蔦谷、三嶋、40/藍原、41/久米(コブキ)、43/保屋野、44/吉田、47/平井、関谷  <14名>

(南高尾7サミット・コース) 39/堀川、42/下村、44/安田、46/村上、49/長山、50/実方、丸満、51/斎藤、五十嵐、羽田野、59/後藤、BWV/大場  <12名>

 

  • シニア―・コース

10:00 京王線「高尾山口」集合 (1) 10:15清滝発ケーブルカー (2) 保屋野/久米/吉田 6号路琵琶滝コース 11;30 高尾山山頂 昼食

秋の遠足シーズンで、山頂はビニシーを所狭しと広げ、美味しそうな手作り弁当をほおばる小学生、幼稚園児で賑わっており、我々年寄りはそれを楽しく眺めながら、多少のエネルギーを充填出来たかな!この子らに見惚れたのか、何と二人の御仁が昼食をとった石の腰掛にスマホを忘れ、下山途中の薬王院近くで気付き、慌てて山頂に引き返すハプニングがあった。園児を引率していた保母さんだったのではないと推定されたが、何と、バラバラに座っていた場所に置き忘れた2台が揃って、目の付くところに、並べて置いといてくれており、事なきを得、スマホが命と豪語する御仁の喜び様と云ったら! ちゃんと置いといてくれた日本人の美徳を一同称賛。

下り:

・本隊: ケーブルカーで清滝に下山

・遠藤/保屋野/関谷: 1号路から、途中、金毘羅尾根を下り高尾駅へ

平均年齢82歳とは思えない元気なシニア―、足腰が多少覚束ない方も見受けられたが、口の方は相変わらずお元気そのもの、体調不良、事故等のない、9月末とは思えない 暑い中での汗をかいての楽しい秋のワンデルングでした。

  •  南高尾セブンサミッツ・コース

JR相模湖駅(八王子駅北口行き)8:39⇒(バス16分)⇒8:55大垂水峠9:00⇒(30分)⇒9:30①大洞山536mオオボラヤマ9:40⇒(50分②コンピラ山③中沢山494m)⇒10:30見晴台10:40⇒(50分④入沢山⑤泰光寺山)⇒三沢峠11:30⇒(30分⑥榎窪山420m)⇒12:00⑦草戸山364m(昼食)12:35⇒(1時間10分)⇒13:45四辻13:50⇒(20分)⇒14:10高尾山口駅

・朝は全員が予定通り相模湖駅のバス停に集合、バスで大垂水峠へ向かい下車後、大垂水歩道橋から出発しました。軽快な足取りで登りをこなすとひと汗かいたころにこの日の最高地点大洞山(オオボラヤマ536m)に到着し、さらに引き続きコンピラ山、中沢山を通過しこのコース最高のビュースポットである見晴台からの丹沢方面の眺望を楽しみました。

・セカンドを歩く堀川さんの歩きがとても早くトップを歩く五十嵐さんが煽られっぱなしで予定より20分も早く最終の第7のピーク草戸山に到着、ゆっくりと昼食を摂りました。・草戸山から高尾山口までは小さなアップダウンを繰り返しながら緩やかに下っていく長いコースでしたが、いつの間にか堀川さんがトップになってパーティをリードし快調に高尾山口まで下りました。

(編集子)今回は別報した通り、メンバー(当会第二代世話役)堀川義夫君の100名山登頂を祝して、二次会において記念のプレートを贈呈した。次はだれになるか、興味深々である。ホリ、おめでとう!

関谷君報告原文にある ナンヤカンヤ会 というのは ナンカナイ会という光輝と栄誉ある(実社会ではときどき不都合に遭遇することもあることを体験ずみではあるが)名称の誤記であることを付記。本件は同氏あて配達証明つきにて訂正を申し入れ済み。

尚、写真は多数寄せられていて掲載が困難であるので、参加者には撮影者から送られているグーグルファイルをご参照されたく、本稿には代表例のみを転載させていただく。

(久米)斉藤氏の素晴らしい写真集も楽しく拝見いたしました。やはり「南高尾7サミットコース」楽しそうですね。参加したかったです。でも体力に自信が無くて琵琶滝コースを歩きました。

永遠の少年、保谷野氏と、ずん六植物学者と教養深い山行を楽しみました。まだまだ夏の花も残っていてシュウカイドウなど見事な花を見ながら、ずん六先生の解説付き和歌まで飛び出して「自然教室」に参加しているような気分の中々教養深い山行でした。行き交った保育園の生徒達小学5年生、皆驚くほど元気で励まされました。

天狗の飲み会も無事スマホが見つかったこと、堀川さんの100名山達成のお祝いと楽しい会でした。色々お世話になりました。

 

 

仲秋の名月     (34 小泉幾多郎)

18時18分撮影

9月29日(金)は中秋の名月。マンションのベランダからスナップしました。

今日金曜日のNHKBSP13時からの映画、西部劇にあらず、日本映画「白い巨塔」で、NHKも遂に西部劇にお見限りかと懸念したが、金森さんの映画放映予定で、再放映が多いものの金曜日は西部劇が続くようで、取敢えずひと安心 でした。

20時15分撮影

(安田)見事な中秋の名月・満月の写真、ありがとうございます。僕も自宅から堪能しました。次の中秋の名月が満月になるのは7年後の2030年とのこと。

国立天文台の情報によれば:

そもそも「中秋の名月」って何?
「中秋の名月」は、旧暦(太陰太陽暦)8月15日の夜に見える月のことを指します。旧暦は新月が必ず月初めになり、約15日かけて満月を迎えたのち、また約15日かけて新月になるまでを1カ月と数えます。
しかし正確には、15日目に満月になるとは限らないのだそうです。月の公転軌道が楕円形をしているため、新月から満月までの経過日数は13.9日~15.6日と大きく変化します。そのため、必ずしも十五夜に満月が見られるとは限らないんだとか。

(編集子)名月が名手のレンズに収まった2023年10月29日18時18分、小生はお湯割り焼酎がすぎて正体のなくなった吉牟田をタクシーごと夫人に引渡していました。世田谷区新代田駅上空にも名月はさえわたっていたんでしょうな。   嗚呼、人間のなんと矮小なる、なんて顔つきで。

(保屋野)一昨日は、ほとんどダメでしたが、昨日は(少しゆがんではいましたが)雲間に奇麗に見えました。

月は地球と比べて、直径が1/4、体積が1/100で、もし月が無かったら地球の自転速度は8時間/1日で、強風が吹き荒れる、かなり厳しい環境になっていたそうです。当然、潮の満ち引きもなく、生命の進化に大きな影響があったでしょう。

なお、月をテーマとした楽曲も多いですが、愛好会で話題になった、ドボルザーのオペラ、ルサルカ「月に寄せて」やミーナの「月影のナポリ」を思い出します。ピアノ曲では、ベートーベンの「月光の曲」、ドビッシーの「月の光」でしょうか。日本では、「炭坑節」や菅原都都子の「月がとっても青から」「月の砂漠」「月」、「花かげ」・・まだまだありそうです。

(豆知識)下弦の月

 半月には上弦、下弦の月がありますが、(左が弦の)上弦の月しか見たことがないので不思議でした。ネットで調べたら、下弦の月は、真夜中に上って明け方に南中し昼間沈む、とありました。寝てる時間なのであまり見ないのですね。

(河瀬)小泉さんを見習って昨夜私も自宅の庭から写真を撮ってみました。月は薄雲が出ている方が情緒がありますね。月がなぜか(満月を過ぎたためか、カメラの歪みか?)まんまるになっていないのです。カメラが良くないので解像度がイマイチなのですが、ご笑覧ください。