乱読報告ファイル (54) ”未来が落とす影”  (普通部OB 菅原勲)

偶々、英国の女流探偵小説作家の本を立て続けに読んだ。「未来が落とす影」(ドロシー・ボワーズ、1939年。翻訳:友田葉子、2023年11月出版、論創社)と「霧の中の虎」(マージェリー・アリンガム、1952年。翻訳:山本俊子、2001年11月出版、早川書房。これは、最近とんとご無沙汰している、小口と天地が黄色に染色されているあの懐かしのハヤカワ・ミステリだ)。

そこで「未来が落とす影」(原題は、Shadows Before)なのだが、小生にとって、この作家は初物であり、1939年と言えば、A.クリスティーが「そして誰もいなくなった」を出版した年に当たる。クリスティーの題名が内容そのものズバリなのに対し、ボワーズのそれは、何やら思わせぶりで探偵小説らしくない。その最大の特徴は、頁を繰っても繰っても、余白が殆どなく活字で埋め尽くされていることだ。解説者は、「女性らしいきめ細やかな描写が更に彩りを与え、・・・これだけ凝りに凝りまくられれば、脱帽するしかないでしょう」と褒めているが、小生にとっては、何やら世に言う純文学めいていて、最後まで読み尽くすのがかなりしんどかった。

それでは、探偵小説としての出来栄えはどうだったのだろうか。これが正に、「九仞の功を一簣に虧く」の典型だった。英国はコッツウォルド丘陵の麓の荘園屋敷で、精神衰弱の夫人がヒ素中毒で死亡し、その犯人は誰なのか。これをロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)のダン・パードウ警部が探って行く。真犯人を探し当てるまでは、しんどいながらも、凝った構成(例えば、手紙文の挿入)、豊富な事件(失踪した隣家の変人、行方不明になったジプシーの老女)、この出来なら、まだ読んでいない三冊(「命取りの追伸」1938年、「謎解きのスケッチ」1939年、「アバドンの水晶」1940年)を読んでみようかなと、強い食指が動いたのも事実だ。そして、確かに、真犯人は衝撃的だった。しかし、その殺しの動機は一体なんだったのかの説明が全くピンとこない。これが犯人だと名指しされ、その名前に衝撃を受けたとしても、その必然性が納得できなければ、意味がないのは言うまでもない。つまるところ、これじゃー、裁判では勝てないんじゃないの。また、解説者が、「ただそれだけに、穴があるのは事実で、“そんな馬鹿な・・・、気づかないわけがないでしょう”とか、“この程度のことで、こんなに何人も殺すの”などといった点が気になる方にとっては、現実離れしていて、減点要素が多いということになってしまいます」とも言っている。要するに、意外な人物を無理矢理犯人に仕立てたとしか言いようがない。

本格探偵小説の世に言う傑作の殆どが紹介され(翻訳され)、一方ではこの論創社を含め未紹介の作家、作品の紹介も相次ぐが、やはりそこには厳然たる差異が存在するようだ。例えば、クリスティーの「アクロイド殺し」、E.クイーンの「Yの悲劇」、S.S.ヴァン・ダインの「グリーン家殺人事件」などに衝撃を受けたことに較べると、その出来栄えの差は歴然としている。つまり、面白い探偵小説はあらかた翻訳されてしまっていると言っても過言ではない。

それでは、その「アクロイド殺し」でももう一回読んでみることにするか。その結果、E.ポワロの推理が完全に間違っていたことを発見することになると、「アクロイド殺し」も、俄然、更に、面白くなってくるのだが。

(編集子)そうそう、あの ポケミス の装丁は懐かしい。スガチューが読みなおそうかと言っている アクロイド殺し も小生が読んだのはこの中の一冊だった。ホームズ・ルパン を卒業して初めて読んだ、という意味で小生には特別の思い入れがある メイスンの 矢の家 もポケミス版だった。愛読置く能わない 長いお別れ もそうだ(こっちは人気作なので訳者も3人、すべて読んだが、今回スガチュー発掘のほうはクリスティ時代の希書ともなればそういう選択はないんだろうが)。

グーグルによると、やはり世の中には同好の士が多いと見えて、ポケミス刊行70周年記念でブックカバーが販売されるそうだ。70年、どっかで聞いた響きと思ったら、今週末開催予定の普通部卒業記念同期会、も卒業70年記念。あの年からポケミスとの付き合いが始まったとは偶然であろうか。

 

(小田)菅原さん:『未来が落とす影』を借りてきました。

図書館の近くにある、英国風のお店「クレアホーム&ガーデン」に寄り、グラスやスコーン等買ってきました。この本もコッツウォルズ
にある荘園屋敷を舞台にしているようで、偶然英国が重なりました。
『伏線を見逃さないよう…表情や台詞一つ一つに注目しながら読み進めて…』と
書いてありますので、注意深く読まなければなりませんね。

 

 

”プロジェクトX” と ”地上の星” 

『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』(プロジェクトエックス ちょうせんしゃたち、英字表記:PROJECT X 〜Challengers〜)は、NHK総合テレビジョンにて2000年3月28日から2005年12月28日まで放映されたドキュメンタリー番組である。通称は「プロジェクトX」である。全放送作品は191本(正式な放送回数としてカウントされた作品187本 + 特別編4本である。公共放送であるNHKが、これまでの放送基準である「企業の宣伝」につながる表現の排除を崩す、企業の事業活動の内容を追ったドキュメンタリー番組である本番組が放送された背景として、インターネットの普及による情報の入手性の向上が挙げられており、本番組の放送をきっかけに、特定企業や施設の内部に潜入して紹介するような番組や、連続テレビ小説での特定の企業の創業者をモデルとした作品が続いたりするようになったという見方もある.。

(金藤)昨夜のMUSIC SPECIAL私も観ました。 中島みゆきが歌っている姿をテレビで観ますと、より 歌が視聴者の心に届く気がします。

(菅井)「プロジェクトX」は堕ちゆく日本への挽歌(失われた30年の象徴)のようで全く観ませんでしたが、主題歌の「地上の星」はいいですね。

(金藤)紅白の黒部第四ダムからの中継は私もよく覚えていますが、もう20年以上経っているのですね。「ドクターコトー」の”銀の龍の背に乗って”  や「マッサン」の”麦の唄”  はドラマを観ていましたので、主題歌を聴くと、その当時の事がそろそろ朧げにはなってきていますが懐かしく思い出します。
「プロジェクトX」は 堕ちゆく日本の挽歌のようでしたか?
私は毎回観ていたわけでもありませんが、観られる時には 中島みゆきのテーマソングに誘われたからというだけでもありません、人々が挑戦する姿・過程を観るのは結構好きでした。

(安田)好奇心でネットで調べたら彼女72歳、1952年生。驚きました、若い!一番強烈な記憶に残っている中島みゆきは、もう20年以上昔の紅白歌合戦に初出場、黒部第四ダム発電所のトンネルの中からの実況中継で「地上の星」を歌っています。

 

(編集子)春は出会いの時でもあり、別れの時でもある、というのはよく聞くセリフである。日本という国の伝統というのかしきたりというのか、暦年とは別に企業で言えば会計年度、というように生活の区切りが4月1日になっていることもその一つだろうが、ここのところ、放送番組の改変というニュースをよく聞く。テレビとはいたって縁の薄い小生であるが、この プロジェクトX はそれでも務めて見るようにしていた数少ない連続番組であった。サラリーマン人生の折り返し時点あたりにあたって、興味を持って見たが、”日本の挽歌” であった、という感想は意外だった。生まれつき人を信じやすい性格なので、この手の刷り込みには簡単に引っかかるのかも知れないが、小生には逆の感想がある。
時間的にずれがあったかもしれないが、あの ”昴” とならんで中島みゆきのテーマソングの歌詞は大好きだった。ゴルフに入れ込んでいた時、中津川カントリでプレーしていて、歩きながら ”地上の星” を口笛で吹いていたら、キャディにお客さんの口笛はすばらしいですねえ、といわれた(つまりゴルフはダメだ、という事だったんだろうがその時は気がつかなかった。やはり俺は人を信じやすい善意の人間なんだ)のを思い出した。

 

 

エーガ愛好会 (262) 高峰秀子を観る  (42 保屋野伸)

先日ご紹介した260チャンネルの掲題映画4作品(初見)観ました。(今日放映の「華岡青洲の妻」は観ているので今回はパス)

①  永遠の人(木下恵介)

仲代達也、佐田啓二、音羽信子、田村正和(デビュー作)他

(小作人の)夫(佐田啓二)が出征中、地主(仲代達也)にレイプされ、戦後地主と結婚させられた、夫婦の愛憎劇。フラメンコ調の音楽も斬新で、仲代達也と高峰秀子の演技競演が秀逸。

②  カルメン故郷に帰る(木下恵介)

 小林トシ子、笠智衆、佐野周二、佐田啓二他

 日本初のカラー映画として有名な作品。浅間山をバックに、故郷に帰った踊り子2人(高峰秀子・小林トシ子)が巻き起こす出来事をコミカルに描いた(一種の)ミュージカル作品。全編に、懐かしい「そばの花作咲く」(映画では「わが故郷」)が流れる。

*火の山のふもとの村よ 懐かしのふるさと 花に木に梢の鳥に 光満てるわが里

③山河あり(松山善三)

小林桂樹、田村高広、久我美子、桑野みゆき、ミッキー・カーティス他

ハワイ移民の2家族(田村・高峰)及び(小林・久我)の物語。太平洋戦争が(日米のはざまに立つ家族に)暗い影をもたらす。松山監督らしいヒューマンあふれる佳作。

④張り込み(野村芳太郎)原作;松本清張

 大木実、田村高広、高千穂ひずる、

 逃亡中の殺人犯(田村)が(人妻となった)昔の女(高峰)を訪ねるはず、として張り込みを続ける刑事2人(大木実他)のサスペンス映画。ハラハラドキドキ感はないが、大木実の存在感と、ほとんどセリフがない、高峰秀子の日常たたずまいが魅力的。佐世保発東京行きの蒸気機関車(西海)が懐かしい。

なお、JRのツアーガイドを見たら、高峰秀子生誕100周年のイベントを開催する東京タワーと赤坂迎賓館を見学する 日帰りツアー(22000円)があったので、家内と申し込みました。

(飯田)保屋野さんのテレビ放送紹介で、私も3作(「カルメン故郷に帰る」)は既に見ていたのでパス)を初見でみました。それぞれの作品が全く異なるテーマ性を持った内容なので、お陰様で大変楽しめました。

昭和の終戦前後の日本の社会が抱えていた因習(「永遠の人」)や移民した日本人の国籍上の悩み(「山河あり」)や東京から佐賀までの蒸気機関車の特急列車の停車駅の多さ(「張込み」)など今では文化的価値があるような懐かしい画面シーンが多く、楽しめました。

「華岡青洲の妻」は本日観ます。
高峰秀子は映画女優が嫌でしょうがなかったとエッセイや自叙伝で知ってしまった後なので、その佇まいや演技が又光って見えました。

リニア新幹線に試乗してきました  (グリンビラ総合管理HP より転載)

(武藤)

雨の中家族でリニア新幹線の試乗に行ってきました。実は私、リニアに乗ったのは二度目なのです。初めて乗ったのは小学生の頃。甲府博かな?甲府にパンダが来た時にリニアも展示されていて乗ったのを覚えています。

その時はドラえもんに出てくる未来の乗り物のように感じていましたが、実際は『めちゃくちゃ速い電車』といった割と現実的な乗り物に感じました。ただやっぱり時速500kmに到達したときやタイヤ走行から浮上したときは子供達と一緒にはしゃいでしまいましたが、子供達も大人になっても覚えていてくれたらうれしいなと思います。(その頃には既に開業しているかもしれませんが・・・)

(編集子)セカンドハウスのある小淵沢も最近は電車で行くようにしている。そのたびにリニア試験線のそばを通るわけだが、未だ乗ったことはない。武藤さんが言うように、乗る時は(まだ乗れれば、だが)もう試験線ではないだろうな。

だから言ったじゃないの!  (普通部OB 篠原幸人)

巷ではコレステロールを下げるとか、身体にいいと売られている紅麹(べにこうじ)を含むサプリメントが沢山の人に入院が必要なほど重症な、或いは機能不全でなくなるほどの腎機能障害を起こしたと大問題になっていますね。

K製薬のサプリメントばかりでなく、その紅麹を用いた他社の食品や日本酒なども自主回収を始めたとか。どうやら犯人は紅麹そのものではなく、その中に含まれていた別の不純物らしいのですが、いずれにしても身体にいいと思って高価なものを購入したのに逆に病気になってしまうなんて。

皆さんの中にも、訳も分からず、身体に良いといううたい文句につられて、あるいは勝手に想像して、サプリメントを常用されている方もおられるでしょう。しかしこの「徒然」では以前から繰り返し、毎日の食事が普通に食べられていれば、余計なサプリメントなんて必要ないよと言い続けてきましたよね。

前回のNo51でもそのことを申し上げましたが、過度のビタミンやミネラルその他の栄養素は、通常の食事で十分間に合うはずで、余計に摂取しても、その分は肝臓で代謝され(壊され)、腎臓から尿となって排泄されるだけなのです。言い方を変えれば、余分に摂取された物質は、肝臓や腎臓に余計な負担をかけるだけなのです。テレビで良く宣伝している有名なビタミン剤を飲まれたことのある方も、服用すると尿の色が変わったり、特別な匂いがすることに気づいたことがあるでしょう。身体をビタミンがただ通過しただけだからです。

余った部分がすべてきれいに出てしまえば問題は少ないのですが、肝臓や腎臓、あるいはその他の臓器にたまってしまって、機能障害や労働荷重を引き起こすこともあるのです。皆さん、どうしてもサプリメントを摂りたいにならば、その物質の構成成分を調べて、かかりつけの先生とよく相談するようにしてください。

 

 

米寿のスキーに感動しました  (39 堀川義夫)

船曳先輩が去る3月1日に、米寿、満88歳の誕生日を迎えられ記念に旭川のカムイ・スキーリンクスでのスキーに同行させて頂きました・
88歳とは思えない素晴らしいフォームで滑降されるお姿は、私にとって感動モノでした。私も先輩を範として精進して6年後に、先輩に負けないフォームでスキーを楽しめるように精進したいと思います。
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(保屋野)エーーーー、インストラクターの写真かと思いました。素晴らしいフォームですね。三浦敬三も真っ青・・・

私は米寿まで後8年ですが、スキー云々より果たして生きてるか・・・シモさん(同期の下村)ガンバリましょう。

(三嶋)米寿おめでとうございます。その誕生日を思い出のスキー場で祝われるとは・・・・フォームも88歳とは思えない素晴らしいの一言です!!(撮影者も褒めないといけないね)

私にはあと6年・・・・とても真似ができそうにありません。しかし目標にします。次回天狗でのお祝いが楽しみです!

(見谷)KWV東海41年卒の見谷です。

命に係わる幾多の病に負けることなく、米寿を迎えられましたこと、心からお祝いとお喜びを申し上げます。病の床で迎えるどころか、旭川でお祝いのスキーを楽しまれたとのこと、まさに奇跡としか言いようがありません。ドテ先生のスキーに対する愛の深さを驚きとともに改めて知ることになりました。私たち同期も昨年傘寿を迎えたのですが、ドテ先生の近況報告をお聞きして、挑戦の気概と勇気の大切さを痛感しました。

(編集子)堀川に怒られながら(米寿はおろか傘寿で)早々とリタイアした身分では発言する資格なし。無言。

”懐かしき日々” のこと   (44 安田耕太郎)

同郷北九州出身高倉健のことではなく、ジャイさんが短期間赴任されていたシリコンバレー、レッドウッドとパロアルトのことを懐かしく思い出した。

時は1968年、ジャイさんは勤務先HP社の本社が位置するパルアルトの隣町レッドウッドシティに居を構え、アメリカ勤めを始めておられた。その年はベトナム戦争反対の大規模デモや世界各地で暴動が相次ぎ、黒人公民権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスで(4月)、故ケネディ大統領の実弟、民主党の大統領候補ロバート・ケネディがロサンゼルスで(6月)暗殺されるなど騒然とした年であった。ちょうど時を同じくして、21歳の僕は貨物船で太平洋を渡り渡米、世界一周放浪の旅の緒に就いていた。ロサンゼルスに上陸後、旅費稼ぎを目的としてアラスカ沖の蟹工船アルバイト仕事の雇用面接を受けるため、本社のあるシアトルへ向かう途中、サンフランシスコ南郊のジャイさん宅を訪ねた。奥さん共々KWVの8年上の大先輩お二人に面識はなかった。が、中司ご夫妻の声望は先輩方から伺い知っていて、KWV名簿からサンフランシスコ近郊に住んでおられた先輩の住所を知り、渡米前に手紙を送り、僕のおおまかな旅程をお知らせし、シアトルへの道中3〜4日お邪魔させて頂くことは出来ないか、と厚かましいお願いをしていた。僕はお二人のことを若干伝え聞いていたが、お二人は僕のことは ”何者か?” と訝しがったのは想像に難くない。KWV現役時代から使用していた、左右に大きなポケットがついた薄汚れた横広のキスリングを背負った姿であったので尚更であったろう(注:のちにスマートな縦長のリュックサックを購入して旅を続けた)。

お住いのあった市の名前redwoodとはアメリカ杉、セコイア杉のことで、加州の北部の海岸に沿って300キロにの亘って(幅20~30キロ)拡がる巨木の森で知られていて、世界一高い木は最高は120mに及ぶものもある。樹齢は500~700年ほどだが、1000年以上の木もあるという。
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但し、Redwood Cityは閑静な郊外の住宅地で、魂消るほどのredwoodの巨木にはお目にかからなかった。お隣のパロアルト(Palo Alto) はスペイン語で El Palo Alto (背の高い木)を意味する言葉。Reddwood Cityと同様、人々が入植した頃(1700年代から1800年代)には辺りは、両市の名前の由来となった大きな背の高い木々が覆い茂っていたのではと推測する。Palo Altoが世界に知られているのは、HP社の本拠地である以外には何といっても名門スタンフォード大学が在る町としてであろう。美しいキャンパス、素晴らしいステンドグラスの在る大聖堂(カテドラル)、7~8万人収容のスタジアム(主にフットボール試合の会場)などジャイさんに案内して頂いた。両市とも絵にかいたような閑静な美しい住宅地であった。今ではIT産業のメッカとしてその一帯は発展し活況を呈しているに違いない。

ブログでも言及しておられた当時2歳半の娘さんのお相手をして遊んだ。あれから56年、ジャイさんご夫妻は曾祖父母だ、まさに “光陰矢の如し” 。

滞在中は、毎日バスでサンフランシスコ通い。町を隈なく歩き回り腹一杯サンフランシスコを満喫した。目と鼻の先に見える金門橋に歩けども歩けども着かず、アメリカの大きさを変な所で感じた。アル・カポネが収監されていた合衆国連邦刑務所として知られたアルカトラス島はサンフランシスコ市の北岸から2.4km離れた湾内にあって29年間使用されたが1963年に閉鎖され、当時は訪れることが出来なかった。1973年に歴史記念物として一般公開された後、訪れる機会があった。名物の世界最古(1873年 – 明治5年開業)の現役手動運転の循環式ケーブルカーの動力室がある博物館を訪れ駆動方式について学んだ。サンフランシスコを舞台にしたスティーヴ、マックイーン主演の刑事アクション映画「ブリット」を映画館に観に行った。坂道を縦横に駆けるカーチェイスを存分に楽しんだ記憶がある。当地を訪れて、臨場感が半端なかった。

バック・オウエンスとグレン・キャンベルの曲は滞米中によく聴いたものだ。とても懐かしい。https://m.youtube.com/watch?v=zBNzxhc0T3I

吉川さんの絵手紙

吉川光彦夫妻は、先日 ”懐かしき日々” で書いた、編集子第一回の滞米中、現地で紹介されて以来の家族ぐるみの親しい仲である。当時2歳半だった娘は信子夫人を ノブ―、ノブ―と言ってなついてくれたので、夫婦二人で出かけるときには安心して預かってもらえたし、現地での生活が長かったので、何くれとなく頼りにしていた。帰国後もHPを通じてお付き合いが続いている夫妻は退職後古都奈良に自適しているのだが、絵心のあった吉川さんは余暇をもっぱら絵を描くことに充て、今は絵手紙を折に触れて送ってくれる。手紙には近況やら奈良のことなどがソフトなタッチで書かれている。筆不精の小生は申し訳ないがもらいっぱなし、なのだが、あらためて彼の充実した老後、に心温まる気がする。

日本ではサラリーマンが一度職を離れると、急速に社会との接点が減少するのが常である。この社交性の減少が個人の老後の在り方を左右する大きなファクタであろう。”仕事” から離れて一個人となったとき、貴重な時間をどう過ごすか、千差万別ではあろうが、”趣味” を持つ人の時間が持たない人よりも豊かなものであることは間違いなかろう。吉川さんからユーモラスな絵手紙をもらうたびにそう感じるし、”趣味” と言えるかどうかは別として、数多い、中には命を預けあったことさえあった、心の許せる友人を持っている自分の幸せを改めて感じる。

エーガ愛好会 (261)懐かしのフランス映画  (大学クラスメート 飯田武昭)

ジャン・ギャバンでもアラン・ドロンでも、イヴ・モンタンでもないフランス映画を時々、懐かしく思い出し再見する。

特に、名匠ルネ・クレール監督とジュリアン・デュビビエ監督のモノクロの4作品は、憧れのパリ、セーヌ川、シャンソンというイメージで連想する作品で、劇場で観た当時から心に残る名作と思ってきた。

映画の日本語タイトル(邦題)が割合に似ていて、時々、見返さないとタイトルと映像とが混乱するので、改めて見直して整理してみた。

1、「巴里の屋根の下」(Sous les toits de Paris) (1930年製作 フランス映画)

監督:ルネ・クレール 主演:アルベール・プレジャン、ポーラ・イレリ

音楽:ラウール・モレッティ

ラウール・モレッティ作曲、アルベール・プレジャンが歌う主題歌は日本でも大ヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=YQsukCcJ3Mk

(注) サイレントからトーキーに移った当時はアメリカ映画が主体だったが、フランス映画で初めてトーキーが昭和6年に封切されたのがこの映画。 日本人がパリの下町の流し歌(シャンソン)を初めて映画の中で聞いた作品。

2、「巴里祭」(Quatorze Juillet) (1933年製作 フランス映画)

(映画の原題は「7月14日」(Quatorze Juillet)というもの)

監督:ルネ・クレール 主演:アナベラ、ジョルジュ・リゴー、レイモン・コルディ

音楽:モーリス・ジョベール

「巴里祭(A Paris dans chaque faubourg)」 邦題「巴里恋しや」

リス・ゴーディが歌う主題歌が日本でも大ヒットした。

(注)7月14日の革命記念日を明日に控え、巴里の下町はお祭り気分。ジャンはタクシーの運転手。その恋人アンナは花売り娘。ジャンの下宿に昔の女ポーラが現れたことから、二人は喧嘩別れ・・・・。

(注) 監督ルネ・クレールは「詩的レアリズム」の監督と言われている。

3、「巴里の空の下セーヌは流れる」( SOUS LE CIEL DE PARIS COULE LA SEINE) (1951年製作 フランス映画)

監督:ジュリアン・デュビビエ 主演:ブリジット・オーベエル、ジャン・プロシャール

音楽:ジャン・ヴィーネ

主題曲(シャンソン)2曲

・「巴里の空に下」 (作詞)ジャン・ドルジャク (作曲)ユーベル・ジロー

ユーベル・ジロー作曲、リーヌ・ルノーが歌う主題歌は、ジュリエット・グレコによってカバーされて、日本でも大ヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=utOEvlXehHk

・「巴里の心臓」 (作詞)ルネ・ルーゾオ (作曲)ジャン・ヴィーネ

 

4、「アンリエットの巴里祭」(La Fete a Henriette) (1952年製作 フランス映画)

(原題は聖アンリエットの日(La Fete a Henriette)というもの)

監督:ジュリアン・デュビビエ 主演:ダニー・ロバン、ミッシェル・オークリル、ミッシェル・ルウ、ヒルデガード・ネフ

音楽:ジョルジ・オーリック

「「自由を我等に」「悲しみよこんにちは」などの作曲も手掛けた巨匠ジョルジュ・オーリックの作曲によるテーマ曲。

ところで、学生時代(1950年代後半~1960年代前半)に「シャンソン」という月刊誌があったので、毎月購読していた。欧米文化に憧れ、特に映画「第三の男」のロンドンの石畳、映画「巴里の屋根の下」のシャンソン、映画「荒野の決闘」のモニュメント・ヴァレーなどには、何とかして行って見たいと思っていた。その後、70年ほど経った今では、この望みを叶えてはいるが、シャンソンは今でも時々思い出したように素人のサックスで吹いて見たくなる曲が多い。その時は手元の「シャンソン名曲集」等から好きな曲を選んで吹く。

・パリの人生 ・聞かせてよ愛の言葉を ・街角 ・愛の讃歌 ・パリの空の下 ・さくらんぼの実る頃 ・枯葉 ・ラストダンスは私と ・雪が降る ・サン・トワ・マミー ・セ・シ・ボン ・オー・シャンゼリゼ ・ろくでなし ・幸福を売る男 ・パリの屋根の下 の譜面が収納されている。

(保屋野)シャンソンは、聴けばすぐ曲名が分る超有名な歌から、日本人にはあまりなじみのない歌まで数多くありますが、まず超有名な

①  巴里の空の下②巴里祭③愛の讃歌④枯葉⑤バラ色の人生⑥ラ・メール⑦オー・シャンゼリーゼ⑧巴里のお嬢さん⑨サント・ア・マミー⑩恋心

次に有名な⑪詩人の魂⑫セ・シボン⑬聞かせてよ愛の言葉を⑭ろくでなし⑮パダム・パダム

最後にあまり知られてない⑯さくらんぼの実る頃⑰ふたりの恋人⑱ドミノ⑲サンジャンの私の恋人⑳私の心はヴァイオリン

そして、あるランキングでトップの(ピアフの代表曲)㉑ミロール~題名も歌も初めて知りましたが・・・

(編集子)2009年、友人のジュネーヴの別荘に誘われたので、万全の計画をたててそのあとパリへ乗り込む予定だったが、滞在最後の日、二人で散歩に出かけたときパートナーが石車に乗って転倒、結局JALに掛け合って傷病者向けシートで即時帰国の羽目になった。それ以来、前にもましてパリは縁遠い。小生のパリ、は戦後まもなくはやった石井好子の ”巴里の空の下オムレツのにおいは流れる” でとまったままである。

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石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 – 2010年7月17日)は、日本シャンソン歌手エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業[1]東京音楽学校声楽専科卒業[2]