今年7月「ゴールデンリバー」9月「荒野の誓い」と珍しく本格的
前者はアメリカで西部劇が廃れるなら、フランスでと、
仏アカデミー賞4部門で受賞したりで、観たかったのだが、私事で
その感想を直ぐにでも書こうと思っているうちに、9月28日、マ
先ずは「荒野の誓い」という邦名、古き良き時代のB級西部劇のネ
分断された社会、相
西部劇の新作があったなんで知りませんでした!
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
今年7月「ゴールデンリバー」9月「荒野の誓い」と珍しく本格的
前者はアメリカで西部劇が廃れるなら、フランスでと、
仏アカデミー賞4部門で受賞したりで、観たかったのだが、私事で
その感想を直ぐにでも書こうと思っているうちに、9月28日、マ
先ずは「荒野の誓い」という邦名、古き良き時代のB級西部劇のネ
分断された社会、相
西部劇の新作があったなんで知りませんでした!
昨年の定年退職で始まった「黄金の10年」も2年目に入り今年は(今後の予定を含め)17の山に登りました。KWVの日帰りワンデルング関連が6回、私のバケットリストの一つである日本百名山登頂は10座を踏破し累計91座まで進捗しました。
(1)2/24景信山:春ワン調査行 (2)3/10石老山:春ワン調査行 (3)3/23三毳山:カタクリ見物 (4)4/7シダンゴ山:秋ワン調査行 (5)5/13皇海山 (6)5/24石老山:春ワン本番 (7)6/2空木岳 (8)6/4恵那山 (9)6/25頭高山:秋ワン調査行 (10)7/20幌尻岳 (11)7/22後方羊蹄山 (12)8/9赤石岳 (13)8/20常念岳 (14)9/2羅臼岳 (15)9/4斜里岳 (16)9/5雌阿寒岳 (17)10/26シダンゴ山:秋ワン本番(予定)
特に今年は北海道を中心に日本百名山の登山を進め2回の遠征で5座に登りました。昨年も同様に計画していたのですが、大地震と大停電で延期を余儀なくされたものです。
<7月は幌尻岳と後方羊蹄山>
私にとっては百名山登山の最も難関であると覚悟していたのは幌尻岳です。今回は新冠林道が土砂崩れのため通行できず新冠の小屋が使えないため、とよぬか山荘からのルートを取りました。登山客が集中する中腹の幌尻山荘の予約が取りにくい上に事故が多発している額平川の遡行が難所です。昨年は8月の一か月間に沢を登れたのはわずか10日間だけだったそうです。今年は幸運にも例年に比べて水量が少なく沢靴を履いて15回ほどの渡渉を繰り返して幌尻山荘に到着することが出来、ここから翌日は頂上まで往復することが出来ました。小雨で幌尻岳からの眺望を楽しむことはできませんでしたが、北海道特有の花が咲くお花畑の美しさを堪能することができました。写真は同行してくれた同期の五十嵐隆君です。
後方羊蹄山は真狩登山口から登りました。頂上の御鉢巡りの岩場が想像以上に厳しく時間を要しました。羊蹄山の周辺の地域は以前から別荘分譲地として人気がありますが、最近は中国人が数10㎞四方にわたって土地を買い占めているという噂もあり
ます。今後、国際化がどのように進んでいくのかが心配です。
<9月は道東の三座:羅臼岳、斜里岳、雌阿寒岳>
一週間の旅行の前半は家族で網走と知床を観光、LS北見の本拠地で生まれて初めてカーリングに挑戦してみました。後半は一人だけ残って快晴の天候のもと山を歩きました。羅臼岳から見る北方四島の一つである国後島は約20kmの距離で間近に見え、どう見ても日本固有の島にしか思えません。早い問題解決が望まれます。
斜里岳へは水量豊富な美しい7つの滝が連続する一の沢を遡行し、旧道を下山しました。雌阿寒岳には雌阿寒温泉から噴煙の上がる豪快な火口の縁を経て登り、頂上から阿寒湖やオンネトー湖を見下ろし遠くの大雪山系の山々の展望を楽しみました。
北海道の山歩きはLCC(バニラエア)の飛行機とユースホステルを活用して安い費用で旅行ができるので助かります。中部山岳に行くより交通費、宿泊費とも割安で、私のような年金生活者の大いなる味方です。特にユースホステルは若者や外国人との交流もあり楽しい時間を過ごせます。これらの格安な手段を活用して来年は北海道の屋根と言われる大雪山系に挑みたいと考えています。
9月12日日経夕刊のコラムにコピーライターの太田恵美さんが彼女の恩師だった細田について思い出を書いている、と後藤三郎から教えてもらった。少し長いが全文を転載する。細田佳嗣、38年度総務。大人数時代のいわば爛熟期を率い、みなから慕われた好漢だった。
恩師 細田佳嗣さんの似顔絵 大田恵美
コツコツと足音をたてて仕事を後ろからのぞいて回る。”つまらんねえ” ”へたくそだなあ”。 そんな憎まれ口に ”また細田歩きが始まったよ” と同僚の心の声が聞こえてくる。
小さな広告制作会社でコピーを書いていた私は縁あって電通の仕事に携わるようになった。半人前の私を一人前にしてくれた恩師が電通のクリエーティブディレクター、細田佳嗣さんだ。
まだ数えるほどしか女性のコピーライターがいなかった1970年後半ごろ、細田さんは化粧品やファッションの仕事を私からあえて遠ざけた。代わりに銀行や住宅メーカー,たばこといった堅い会社の仕事を振ってくれた。
80年、私は日本電建のコピーで若手の登竜門であるTCC新人賞を受賞した。細田さんのアドバイスを受けながら、獲得した自信である。”女性” としてではなく、一人のコピーライターとして育ててくれた。
仕事に対しては厳しく、よく叱る人だった。女性の私には決して言わなかったが、口癖は ”バカヤロウ”。時たま “字がうまいね” ”昼めし、なに食った?” なんて言う。それはホメ言葉だった。
みんなやりたがらに小さな仕事を膨大にこなし、貴重な経験を意欲ある若手にさせた。人望は厚く、部下に慕われた。ずるはしていないか。書いたコピーが誰かを傷つけてはいないか。細田さんの丁寧な仕事を見ながら、自問し続けている。
ある日細田さんは、ちょっと入院してくる、と言って会社をあとにした。その数か月後に急逝した。危篤の知らせを受けたとき、仲間と急いで病院に駆けつけたが、名前をなんど呼んでも返事はなかった。
社内誌の追悼号に一人が、文ではなく似顔絵を寄せた。くわえたばこに、右手は缶コーヒー、左手はポケット。ギョロッとした目つきでこちらを見つめる。ホントにそっくりだった。夫人がお礼につくってくれたテレホンカードの台紙にはその似顔絵がプリントされていた。
男社会の職場で私を大切に守り育ててくれたことがどんなにありがたかったか。師のまなざしは厳しく、優しくもあった。
暑い盛りの頃、横浜美術館で稀代の実業家でありながら、芸術にか
側面、コレクター・茶人・アーティスト・パトロンの顔を持ち、横
お彼岸の三
驚いたことに、内苑の茶室春草蘆の傍に生える銀杏
まだ生きては
三日目 9月6日(金) 快晴
夜中にトタンにあたる雨音で2回ほど目を覚ましたが、夜明け前は星空が綺麗だったし何よりも期待通りに仙人池に映る朝焼けの劒を見ることができました。今回の山旅の最大の目標が達成されて、大満足!!
今日は阿曽原温泉小屋までコースタイム6時間の道のりで、一か所だけ仙人温泉
仙人小屋の源泉小屋から40分ほどの登りがあるだけの認識でひたすら下る。下る。3人ともゴロゴロ石のある沢沿いの道は苦手で、バランスの悪さ、脚力の低下に悩まされながら頑張るも暑い! 標高が下がるにつれ暑さがこたえます。ほぼコースタイムの2割増しの時間をかけて、標高880mの仙人谷ダムに到着しましたが、下りの3時間は結構消耗してダムサイトで大休止。
元気を取り戻し、阿曽原温泉に向かうのですが、すっかり忘れていましたが、ここから150mの登りです。しかも急登。想定外の急登で、汗でぐっしょり、頭もくらくらするほどで何とか登り切りましたが、きつかった。ここから大体標高1000mで有名な黒部渓谷の水平道が始まりました。阿曽原温泉小屋の上部に着き、小屋へは約150m下り、2時少し前に無事到着。疲れた! ここでもチェックインをしながらロング缶を一気飲み。旨い!!
阿曽原温泉は吉村昭の小説「高熱隧道」で有名です。風呂は、昔のイメージで小屋のすぐ下にあると思っていましたが風呂まで5分ほど下ります。正にトンネルの前にある湯船に浸かり、3人で貸切の状態で温泉を満喫! 後から来た人に記念写真を撮ってもらいました。良い湯でした(小屋に戻る15分の登りがなければもっと良いのに・・・)。8年前(70歳の時)は、この小屋をスキップアウトして、仙人池ヒュッテから欅平まで一気に下り名剣温泉に泊まったのですが、もうそんな無茶は金輪際できません。夕食を食べながら小屋のご主人の立山談義を聞きコーヒーテイストの焼酎をふるまわれ、ゆっくり休みました。
第四日目 9月7日(土) 快晴
他の小屋と違い、朝食は1時間遅く6時からで、6時40分ごろ欅平に向かって出発しました。いきなり150m程の急登です。元気なつもりでも疲労が蓄積しているのでしょう。水平道に戻るためのこの急登は結構きつくやっとの思いで水平道に戻りました。ここからは高低差は余りありませんが、まかり間違えば千尋の谷へ真っ逆さまであの世行きです。ストックを着くとき空を切り、そのまま谷へ落ちるケースが多いとか? 又、結構、整備が行き届いてなく足場の老廃、安全確保のための針金、ロープ等の不整備が目立ちます。天井の岩に頭をぶつけたり、気の休まることがない道で疲れました。
それでも、コースタイム約5時間半を、最後は新しい靴のせいか、足の豆に頭が痛くなるような痛みに耐えながら欅平に到着しました。
やったぜ!!
最後は、おまけでトロッコ電車の途中駅にある黒薙温泉に行き、ゆったりと温泉に浸かり、山のいで湯と山菜中心の夕食に舌鼓を打って、ゆっくり休むことが出来ました。
第五日目 9月8日(日) 快晴
朝一(10時36分)の宇奈月行きのトロッコ電車で帰宅の途に、 午後5時に無事に帰宅しました。
去る、9月4日からKWV同期の岡沢、飯河と3人で立山の室堂を起点に劒沢小屋⇒仙人池ヒュッテ⇒阿曽原温泉小屋⇒黒薙温泉という4泊5日の山旅を楽しんできました。
第一日目 9月4日(水) 晴れのち曇り
北陸新幹線のお陰で東京発一番の列車に乗り、富山⇒地鉄で立山⇒ケーブルで美女平⇒バスで室堂にはなんと11時10分に到着。便利になったものと一同感激の体で立山・劒・大日岳の景観を眺めながら出発しました。天気は台風の影響、秋雨前線の影響等複雑で全く素人には予測が難しい状況で、雨に会うのを覚悟での出発です。
雷鳥沢キャンプ場に下りお弁当昼食。その後、雷鳥坂を別山乗越に向けいよいよ登り2時間の行程。歳をとってくるとオーバーペースが後に響くことが最近自覚するようになってきたので、自分でもあきれるほどゆっくりと歩き始める。それでもほぼ、コースタイム✛休憩時間位で別山乗越に無事到着。パラパラっと雨が来て周りの登山者は雨具を着けるも我々は横着を決め込み、劒沢小屋へと下降開始、これまたコースタイムで初日の劒沢小屋に3時半ごろ到着。私は8年前(その時は剣山荘泊)に来ていますが、その後、建替えられ以前より150mほど下ったところに建てられていました。(古い小屋はキャンプ場の管理棟として残っていました)。この時期、夏山から秋山への端境期でこの後もずっと空いていて大混雑を避けるのには良い時期です。小屋には無料のシャワーもあり、食事もおいしく、山小屋は毎年良くなっていくように思います。景色は雲がかかり、前劒と源次郎尾根しか見えません。残雪期の別山乗越から何 回か経験がありますが、劒沢小屋までのダウンヒルを思い出し、至福の時間を過ごしました。明朝の天気を期待して就寝。
第二日目 9月5日(木) 晴れ
朝起きて期待しながら劒を望むも残念ながら見えません。しかし後立方面はくっきりと唐松、不帰、天狗の頭等の稜線が見えていて、これから晴れてくるのではと期待が持てます。5時40分出発。昨夜、小屋の人から劒沢下降の危険個所、注意点をしっかりと叩き込まれ、略図も書いてくれています。沢筋の道は歩きにくく、年寄りにはバランス感覚の衰え、脚力の低下で思うように歩けません。
小屋からのアドバイスは平蔵谷との出会いまでは夏道を行くように言われていたが、アドバイスを早々に無視して雪渓に降りてアイゼンを付けて下ることにしました。雪渓のほうがはるかに歩き易い。平蔵谷と源次郎谷の中間あたりに大きな陥没による穴が出現していて、再び、アイゼンを付けたまま、夏道に入り源次郎谷の出会で右岸から左岸にトラバースし、順調に真砂沢小屋に到着しま
した。コースタイム2時間のところを上部のゴロゴロした夏道で時間を食ったのとアイゼンのトラブルなどで、大幅に遅れての到着です。
天気は快晴になって来ました。遅れを取り戻すために、先を急ぎます。ここからは劒沢沿いに進みますが。アップダウンはほとんどありません。標高が低くなった分、暑くて汗でぐっしょりです。ほぼ時間通りに1時間20分休みなしで頑張って、三の窓雪渓下の二股に到着。来る途中で初めて人とすれ違いました。本当に人に会わない静かなコースです。
仙人峠の登りにとりつくと8年前のことなど全然覚えてはおらず、こんなに急登だったかと思いながら、何とか途中、一本で登り切ることが出来ました。途中の三の窓の雪渓が素晴らしい! 本峰は雲の中。仙人峠からヒュッテまでは幕道が出来ていて15分で到着。ほぼ予測の範疇での到着となりました。受付前にロング缶を所望して一気に飲む!旨い!!
夕食までにここは風呂に入れます。気持ちが良いので、湯上りにまたビールが本当に旨い。わずか9名の宿泊者で夕食を取っていると、見えた! 劒の頂上が見えてきた。夕食もそこそこに池に行き景色を楽しむ。夕焼けも綺麗だし、月も出てきた。「素晴らしい」の一言。さらなる美しい朝焼けの劒と池に映る逆さ劒に期待を寄せて就寝。爆睡。
僕らが卒業する前後の60年から70年代へかけて、”山と渓谷“ とか “岳人” あるいは ”岩と雪” などの山岳専門誌にくわえて、”アルプ” という雑誌が登場した。
雑誌とはいっても月刊、というような形ではなかったが、ほかの雑誌が登山そのものに集中し、内容も技術的なことやルートの紹介などが大半だったのに対して、山を歩く人、好きな人が書いた文章や写真、絵、だけを取り上げるという発想で、串田孫一を中心として、深田久弥、大谷一良、辻まこと、山口輝久などといったたちが趣向を凝らして作った、味があり、とても雰囲気のある本だった。ぼくらが一時期通っていた八方尾根 ”白い小屋” の発足秘話をオーナー夫人の大野榧さんが軽妙なタッチで紹介されていたのもよく覚えている。
その アルプ に山男をモチーフにして印象的な版画を発表していた畦地梅太郎の作品展が町田で開催されているのを、彼の長年のファンであるオヤエが見つけてきて、場所も近いし行こうか、という話になった。
どうせ行くなら近くで晩飯でも食おうか、というのは極めて自然なことで、それなら町田に住んでる仲間に聞くのが早い、とあいちゃんこと藍原君に連絡した。彼曰く、そんな場所は知りませんが、展示会にはご一緒しましょう、ということになり、結果として彼のバディである武鑓君、久米夫人のコブキこと行子さん、同期で小田急人をもって任じている岡と大塚両君(大塚は飲むほうだけ)とで出かけてきた。
結局、町田の名店さがしは断念して、ザンバこと山室兄に敬意を表してキリンシティで例のとおりの酒盛りになった。天狗の夜と多少違ったのは、アイルランド滞在が長かった大塚から なぜアイルランド問題が英国のEU離脱の障害なのか、ということについて解説があり、畦地作品鑑賞にくわえてなかなかハイブラウなひと時であった(”天狗の夜” にも多少の知的要素があってもいいかと思うが、ま、難しいか)。
( 注)山室はキリンシティで社長として敏腕をふるい”中興の祖とうたわれた(すこしほめすぎか).。雑誌アルプは昭和33年創刊、300号で惜しまれつつ廃刊。現在、中央線日野春駅近くにファンだった方が始められたアルプ記念館がある。
畦地梅太郎の作品は素朴で味があり、
町田にあのような高名な版画家がいたこと知りませんでした。
武鑓
やっと涼しくなった一日、「畦地梅太郎展」にお誘いを受け、楽しい絵が一杯で豊かな気持ちになりました。
久しぶりの町田版画美術館、、芹が谷公園の巨大噴水というか水車も懐かしくその後のキリンシティでは美味しいビールも味わえた上に大塚さんによるアイルランドの歴史などの講釈、文化的な一日でした。お誘い頂きましてありがとうございます。
加えて帰宅後ラグビーW杯の第一戦、手始めのロシア戦に圧倒的な日本の勝利、感激して泣けてきました。本当に忘れられない一日になりました。
余談ですが畦地梅太郎展で見た「涸沢」モンベルで購入した吉之助のTシャツの柄だと気が付きました。売店でその絵葉書を購入しまして帰宅致しまして吉之助のTシャツを見ましたらまさしく畦地作品でした。写真を添付致しましたのでご覧ください。 KOBUKI
OB会夏合宿には、恒例として山歩きではない、僕らのころの用語でいえば 里ワンデルング のプランが設けられている。第何回目のときだったか、鳳凰三山での時は小生が担当を仰せつかって、集合地青木小屋に近い里、ということで八ヶ岳山麓の周遊を試みたことがある(この時は大病を克服した40年河合君の復帰プランだったということでも印象が深い)。
そのプランだが、ここの所数年は、毎年、37年のイノキンこと猪股清郎君が主宰するプランに人気が高まっている。完全主義者のリーダーらしい完璧なプランをもとに、テーマを持ち、歩くだけではなく知的活動も含めて、ある意味ではワンダーフォーゲル活動の源泉ともいえるプランだ。それを優れたベテランクライマーでもある猪股君が主宰していることにKWVの伝統が息づいているようにも思える。
このプランは発足以来、オリジナルメンバーというかイノキン一家というか、毎年必ず参加する仲間も多く、さらにその終了後行われている反省会というか親睦会も参加者はプランの延長として楽しい時間を過ごしているようだ。この会は猪股君の発案で 反省しない会 と名付けられ、名代のエピキュリアンであるリーダーの好みに応じて、食通の店で開催されている。猪股君から八恵子あて送られてきた写真をみせてもらい、会の楽しさがあふれているものなので、借用して掲載させてもらうことにした。ちなみに今回の開催場所は神楽坂の おいしんぼ で湯葉料理を満喫したとの事である。イノキン君からの案内を紹介しておく。
各位
今日は楽しい会をありがとうございました。狭い会場でしたが、
二次会も楽しかった。有難うございました。
写真、送ります。
猪股 拝