”こんな日もありけり” 予録

(10月2日アップの記事について楽しい反応があった.少し前に小泉さんのご投稿がきっかけで高校同窓の関谷君、横河電機時代の親友との3人の楽しい邂逅があったりして、このブログとやらを始めてよかったと思えてくる。今後もこのようなセレンディピティ(?)を期待したいものだ)

(39 堀川義夫)

10月2日付のブログ見ました。びっくりの写真ですね。

①一番左端の彼は名前は忘れましたが、志賀から山田峠に行くときに「のぞき」右の谷へ滑落! 私にとっては強烈に印象に残る場面でした。そのあと、彼の持っていたテントのメインを持たされました。ジャイさんの陰謀だったのでは?

②その隣(片手をあげている)は岡田正大君で、彼とは都立青山の同期でクラスメイトでもありました。別に、打ち合わせて入部したわけでなく、当時の新人の多さからFCで一緒になるまで、彼が同じワンダーに居たとは知らなかったくらいです。彼は卒後、NHKに入りその後、結構長くイギリスのBBCに出向になり、帰国後は自然界のドキュメンタリー制作に敏腕を発揮し有名プロデューサーになりました。 残念ながら、業者間との交渉事が問題視され、責任を取り退職、その後はわかりません。良い男でした!

③私の右隣は伊藤さんと言いました。直ぐにやめていますので、印象にもあまり残っていなかったのですが、ある日、家内が福井に里帰りし、高校の同窓会に出席したときに、主人が慶應のワンダー出身で、山が大好きなんです。と言う話をしたところ、この伊藤さんが堀川なら知っているということで盛り上がったそうです。家内とは福井の藤島高校でクラスメイトだったわけです。

④2日目のテン場で(少し雪が降っていたと思いますが)ジャイさんが、しきりに杉本さんに明日の天気を聞いていました。杉本さんはしきりにテントの窓を開け、難しい顔をして天気図とにらめっこをしていました。天気図をかける先輩を見てびっくりです。そして杉本さんの予報が翌日、ぴったしだったのにびっくりしました。

このプランは、草津でなく万座に下山したと思いますが・・・?? 一枚の写真からいろいろ思い出せるものですね。楽しみました!!

(37 杉本光祥)

志賀高原越えのFCの写真懐かしく拝見しました。こんな時代もあったのですね。

天気図は手塚さんと気象協会へ通って習得したものです。その後、銀行の山岳会で活躍した時も役立ちましたが、今は携帯のインターネットで見れる時代、進歩したものです。

気象は65才の定年後、予報士の資格を取ろうと勉強しましたが、目が悪くなり、細かい資料が虫眼鏡を使わないと見えなくなり、周りで講習を受講している人を見ても目のいい、ぴちぴちの若い人(特に女性)で、とても老人が取れる資格ではないと断念しました。

先月も老骨に鞭うってマダガスカルへ行ってきましたが、緑内障の進行で、下りの段差が見えず家内に先導してもらう始末で難儀しました。でももうしばらくは山旅を続けたいと思っています。

(37 加藤清治)

10年以上前だと思いますが岡田正大君が突然訪ねてきました。小生がリーダーのプランに彼が参加していたのでで懐かしくなり会いに来たとの事でした。しかし残念ながら彼のことはまったく思い出せませんでした。精神的にかなり参っているようだったので一度メシでも食べながらゆっくり話しをしようと言って別れました。その後何度か連絡をしましたが取ることは出来ませんでした。その件をオカマには話しましたが、貴兄と同じく高校とは知りませんでした。出来たら会いたいですね。   (編集子注: オカマとは39年卒小祝君の愛称)
(39 堀川義夫)
加藤さん
私は高1、2年と同じクラスで、仲良くしていました。
彼の華々しいNHKプロデューサー時代は、はた目から見ても羨ましく、
もともと、ペンギンの生態のドキュメントなど自然派だった彼には最適の
仕事場だったと思います。しかしながら、週刊誌に傲慢プロデュサーなどと
書かれ、彼の人生は一変したのではないでしょうか?
オヤカタに会いに行ったなんてちょっとびっくりです。
私が彼との年賀状のやり取りをしていたのも何時までだったか?
多分、もう、20年以上前のことだったと思います。
従って、彼との連絡のつけようもありません。
彼が元気にしているのを祈るばかりです。

 

秋の苗場単独行 (39 堀川義夫)

何年ぶりかで中央アルプスの縦走をしようかと思い、宝剣小屋に予約し、空木の駒峰ヒュッテを予約しようとしたらもう小屋締めで、小屋泊まりでの縦走は無理になってしまいました。避難小屋利用、またはテント行も考えましたが、今夏の合宿以来体力に今一つ自信が持てないので諦めました。そうこうしている内に、台風の影響で中央本線、中央高速ともに不通で南、中央、北アルプス方面に行くのは面倒になり急遽、新幹線が動いている上越、苗場に行くことにしました。苗場の頂上は、10年ほど前に和田小屋から日帰りピストンで行ったきりで頂上に泊まるのは、何年前だったか記憶にないことです。何時もテントでしたが、最後の時は今はない遊仙閣に泊まり赤湯に下山しました。

10月16日(水)晴れ

朝の新幹線で越後湯沢⇒バスで二居へ⇒始発の田代ロープウエイで山頂へ。9時10分着。本当に便利になったものと感心です。素晴らしい。山頂付近はドラゴンドラで来た観光客で大賑わい。そういえば去年の同時期に我々絆会の古希の記念旅行で来ましたっけ。天気は良いのですが、この付近紅葉は未だで観光客は少しかわいそう! 更に観光リフトを利用して標高1500m辺りまで一気に行けます。9時45分歩行開始、しばらく、スキーゲレンデの中を歩き、標高1600付近から山道に入ります。何度も来ていますが、この道は初めて、和田小屋からのルートに比べ、解放感はないものの人が少なくちょっとクマが怖いけど、快適な登りで紅葉も段々良くなりゆっくりと3時間弱で神楽ケ峰到着。そのまま雷清水に下り昼飯です。

雷清水を後に頂上への急登です。悲しいかな結構てごわくコースタイム50分のところ写真を撮っていたせいもありますが、1時間以上掛ってしまいました。平成24年に木道が整備され歩き易くなっては居るのですが、悲しいかな歳をとるにつれ急登は応えます。でもまあ何とか頂上にたどり着きました。昨夜の星空を期待しましたが、どちらかと言うと雨模様で見ることは出来ませんでしたが、今朝は素晴らしい日の出を見ることが出来ました。池塘も綺麗です。

 

10月17日 (木)晴

今日は初めて秋山郷へ下ることにしました。苗場山頂の広さを感じながら、池塘の景色を楽しみながら、一人ゆっくり旅です。

 

幾つかある秋山郷への下山ルートの小赤沢ルートを下りました。これは栄村の観光協会の台風後の登山道の確認が出来ていないのでと言うアドバイスです。池塘地帯を過ぎると下降も急になりしかも石がごろごろしていて歩きにくいし、昨夜の雨の影響で滑る。でも何とかコースタイム通りに3合目の林道の終点にたどり着きましたが、ここから小赤沢集落まで登山道で1時間10分ですが、これも未確認のため林道を歩くように言われ、コンクリートの林道を1時間30分歩かされました。少しハードな縦走用山靴でしたので、これはきつかった!タクシーを呼べばよかったと後悔しましたが・・・後の祭りです。やっとの思いで小赤沢の楽養館と言う日帰り温泉に到着。鉄分の多い自噴の温泉で、疲れを癒してくれました。珍しい温泉です。機会があれば行かれることをお勧めします。

翌日永年登りたいと思っていた鳥甲山を目指していましたが、これも観光協会から登らないでくださいとのことで、やむなく諦め切明温泉の雄川閣と言う旅館に投宿です。川原を掘って温泉に入ることができるところです。これも台風の影響で水かさが多く、実行不能で野天風呂で我慢。内湯もなかなかでした。夕食は自慢のジビエということで鹿、イノシシ、クマの肉のしゃぶしゃぶ、そしてイワナの骨酒と言うメニューで旨かった! 特にクマのしゃぶしゃぶは初めてでしたが、適度に歯ごたえがあり。肉のコクもあり旨かったですね。ぜひお試しあれ!

この秋山郷、栄村は誘客のため色々と工夫しています。オンデマンド交通と称して、村内の送迎タクシーは格安、小赤沢から切明温泉まで20分ほどタクシーに乗って足った300円。極め付きは翌日の越後湯沢まで私一人を無料で送ってくれました。旅館のサービスでなく村のサービスだそうでありがたいことです。

10月18日(金)

朝10時にオンデマンド交通で越後湯沢まで送ってもらい「しんばし」で旨い酒とそばを食べて帰宅の途に。4時には自宅到着。ちょっと、鳥甲に行けなかったのは残念でしたが、良い山旅でした。

10月23日の富士山―白富士と黒富士 (34 小泉幾多郎)

気のせいかも知れないが、10月5日久しぶりにお目にかかった富士山は、黒富
士。それから18日後の今日10月23日に見た富士山は、雪化粧の白富士。今年の富士山の初冠雪は、平年より22日、昨年より26日も遅いとのこと。台風19号の災禍がなければ、今日23日、快晴の生籐山からの初冠雪の富士山を望めた筈だが残念でした。

小泉さん:面白いもので、この写真を撮られた数時間後、高尾山では小生が同じ方向に眼をこらしていたわけですね。撮影場所はどちらですか?

Giさん: 高尾山近況報告ご苦労様でした。好天に誘われ出掛けるなんて元気なる証拠です。 富士の展望、わがマンションのベランダからです。

 

 

 

高尾山現状調査報告

今日に予定されていた ”月いち高尾” 月例の生藤山行は現地の情報が芳しくなく、またまた中止になった。こうなると意地になるのか、因縁があるとあきらめるか、堀川君の判断も見もの?だが、なんということか、当日はこの秋初めての快晴、無風。鮫島から小下沢崩壊の情報もあったし、高尾山現状調査をしようと思い立った。体操教室とやらへでかけたオヤエの後を追って、10時、自宅発。帰着15時、歩行歩数 11,406歩、7.2キロ、とアイフォーンは記録している。

以下、報告。

ケーブル清滝駅まえにまずこの立て看板がある。ただよく見ると10月23日に何だかよくわからないが終了予定、とある。これが何を指すのか、不明だが、なにしろ山頂付近に住人(薬王院の僧侶たちもふくめて)の生活物資を運ぶ道だから優先順位は高かろう。駅前の案内所の話では,簡単に言えば沢沿いの道、つまり6号(琵琶滝)、蛇滝道、日影沢、イロハの森、は通れない。上へ登るのは稲荷尾根を行くかケーブルしかない (この日リフトも休業)。

また里のほうも大変なところが多く、高尾ー小仏間のバスもまだ生活者優先の運行で、不定期ということ。尾根筋は大丈夫なので小仏へ出るのは問題ないが、そこから下る道がなく、戻るしかないですよ、ということであった。下り道をどうするか、稲荷尾根ならよさそうだが、先回の月いちでの 吉牟田の悲劇? など思い出し、どうするか、ままよ、歩きながら考えようととりあえずケーブルに乗った。改札で往復にするかどうか聞かれて、つい往復を買ってしまったのはすでに結論が出ていたということかもしれないが。

テレビの番組では薬王院前の寄付者の立て看板 (北島三郎 十万本、というのから始まるやつ)がたおれていたが、今日は完全に修復されていて、薬王院から山頂までは全く問題なし。この間、いつもは当然のように女坂をあがるのだが、気が向いて男坂を上ってみて、階段が108段あるのを発見した。例の百八つ、ということにからんでいるのだろうか。いずれにせよ、山頂ルートまで、階段の連続だったのを忘れていてひどい目にあった。

山頂広場もテレビの画面では中へ入れない状態、となっていて、陣馬側にがけ崩れでもあるかのようなアナウンスがあったが、問題なし。いつも通りのにぎやかさだった。残念だが着いた時には富士山はすでに雲に隠れいていた。通りがかりのおばさん連の話では、9時半にはすごくきれいに見えた、ということだが。

ここから細田小屋の六差路のコルへ降り、稲荷尾根のことはすっかりわすれてそのまま4号路を目指したが、このルートはかなりひどくやられたようだ。特につり橋の前後、やはり沢沿いが荒れていた。

路沿いにあちこちに注意を促す標識があり、主に倒木についての記載が多かった。何年か前、やはり台風の直後に主稜線を歩いたとき、倒木に閉口したことがあったが、あの時は水害というよりも風害だったようだ。今回の倒木は沢筋だから風というよりもあふれた水による被害なのだろう。蛇滝ルートは2回あるいたことがあるが、旧甲州街道のバス停からほぼまっすぐ?によじ登るという感じの沢筋だったから、被害の程度もひどいのではないかと想像する。1号路は登り口は閉鎖されていて(写真前掲)ケーブルカーの終点では、降りても左(山頂方面)へ行くこと、右(1号路方面)には行けませんとアナウンスしていたところをみると路面の破壊具合が相当なものではないかと思われる。

帰りのケーブルカーにはたまたま工事関係者と思われる人が乗り合わせていて、心配そうに窓から観察をしていた。運行そのものは継続できたのだからそれほどの問題はなかったのかもしれないが、窓から法面の不安定な具合も散見された。

今までごまかし続けてきてまともに歩いたことの少ない階段道を男坂から始まって忠実に上り詰めたので結構応えたアルバイトだった。ケーブルを降りて高尾山口駅直結のイタ飯や(ふもとや)でペペロンチーノとシャルドネとしゃれこんだが、窓から見える本来なら清流であるはずの流れが水量がえらく多く、ミルクコーヒーのように濁っているのが今回の災難をあらわしているようだった。

外国語を学ぶということ 1

普通部1年で英語に触れ、大学で英語会のメンバーであった兄の影響で英語だけはまじめに勉強した。幸運だったのは2年次の担当が英語会で兄の先輩、厳しい指導で有名な人だったことだ。夏休み,”北村さんの宿題”と言って恐怖の的だった猛烈な数の和文英訳にまじめに取り組んだのが僕の英語の原点になった。

社会に出て、勤務先の横河電機がヒューレット・パッカード社との合弁会社(YHP)を設立、僕も移籍メンバーのひとりに入れてもらえた。1960年代はじめ、まだまだ ”アメリカ” がはるかに遠い存在だったころ、HPというたぐいまれな理想郷のような会社に縁を持った、ということが僕の社会人生活を決定し,同時にまた英語を勉強する気にしてくれた。その後も幸運が重なり、67年にはHP本社での勤務を命ぜられ、1年足らずのアメリカ生活だったが、”俺の英語でもなんとかなる”という自信は持つことができた。

こういう一連の予想しなかった展開の結果、英語でアメリカ人と喧嘩をする立場になったのが上級管理職になった80年代からだった。当時、いわゆる ”外資系” 会社では、外国で大学を出た日本人を採用して重要ポジションを与えるのが常識だったが、YHPでは1000人を超える規模になっても、この種の”英語屋”は存在しなかった。その後、HPのほうで、”日本語ができる”という理由で米国で教育を受けた日本人や日本びいきの米人を何人か派遣してきたが、僕のいた時代に限れば、それがまともな成果をだした例はない。”言葉ができる”ということと、成果を出す、ということは全く違うのだという、当たり前のことなのだが。

引退したあとも外国人とコミュニケートしたい、という気持ちがあり、英語のレベルを少しでもあげようと、小説の類は翻訳では一切読まないことにした。しかし会社を離れると実際に会話をする機会は皆無に近い。英会話教室をいくつか試したが、現在は個人レッスン専門のところに通い、その日その日の気分で話題を選んで会話をする。もちろん、しょっちゅう詰まってしまうが、 ”コミュニケートしている” という実感はある。その過程でつくづく実感することは、文化・伝統・社会常識の違いをどうやって伝えるのか、その難しさである。

最近は、”日本文化を英語でどう伝えるか” といったたぐいの本には事欠かない。こういう本はたしかに便利だが、日本で常識化していることや抽象的な議論に必要な概念の会話になるとまず役に立たない。先日も、基本的な日本語なら問題ない米人のインストラクタと、”よろしくおねがいします” とはどういうことか、という議論になった。さんざん議論したが正解はみつからない。”お陰様で” とか、”いただきます” などもその例である。インストラクタのひとりに純日本人だがカナダ生活が長かった、という女性がいるが、彼女にしても適切な答えはなかった。言語に対応性がないというより、文化に共通項がない、極論すれば絶対的に正しい翻訳は成立しえない、ということなのだ。

YHP時代親しくしていた同僚に米国との二重国籍をもっていた男がいた。勿論完全なバイリンガルである。彼にはいろんなことを教わったが、なかでも覚えているのが、”ジャイよ、そこをなんとか、ってえ日本語は絶対に翻訳できないよ” といわれたことだ。こういわなければならない状況は、論理的には不可能であることがわかっていても、義理とか温情とか、非論理的な反応を期待して無理を通そうという時である。論理的にできないことをなんとかする、という発想自体、西欧の社会にはあり得ない。よって対応する言葉なんかあり得ない、というのだ。これはその後、僕の英語(外国語)を学ぶ時の戒めになっている。

先日の新聞に今を時めくAI翻訳が、大阪の御堂筋、という単語をミドーマッスルと訳した、ということが載っていた。僕も人工翻訳に興味を持ったことがある。数えて30年も昔。当時すでにAIということが華々しく話題になっていた。その30年がたっても、”筋” は ”筋肉” であり、よってマッスル, なのである。人生そんなに楽じゃやねえんだよ、と言ってやりたい一種の快感をもってこの記事を読んだ。外国語を学ぶ、ということは言葉の問題ではないんだ、ということを違う角度から考えさせられた一件だった。

 

 

スナック ジジ

銀座の灯が青春の象徴だったという人間は沢山いるだろう。町並みは変わり、“いちこし” も ”ジュリアン・ソレル” も ”スイス” もなくなってしまったとはいえ、今なお古き良き時代の思い出はわれわれとともにある。

その銀座に住吉康子が店を持ったのは1983年6月9日、名前は スナック・ジジ。女子高時代演劇部にいた彼女が演じた役の名前がそのままニックネームとなり、友人たちの間では本名をとっさに思い出せないのがいるほど、親しまれた名前であった。

この店の誕生には、1年上の ”マックス” こと畠山先輩の強い勧めがあった。彼女はこれに先立って、友人に請われ横浜、都橋の近くで ”こけし” というスナックをマネージしていたことがある。ヨコハマ、というきらびやかなイメージとはかけはなれた、どちらかと言えばうら寂しい一角だったが、六郷沿いに住んでいた小林章悟が私設応援団長的にひろくワンダー仲間によびかけ、仲間が集うこともたびたびで、荒木ショッペイ夫妻もよく訪れていた。ここへ来た畠山が、”ジジ、おまえ、銀座に出ろ”と強く勧めたのだという。

住吉はいろいろな」友人を通じて、塾体育会のOBたちに知己が多く、そのひとりだった野球部OBの増田先輩(1957年卒)からの紹介で、ホテル日航に近いあの店の権利を得て、スナックとして開業した。バーテンも置かないから、当然カクテルなどというものとは無縁、カウンター1本しかないせせこましい造り、住吉本人だって世にいう ”銀座マダム” とはかけはなれて不愛想。それでも、ここは開業以来、それもどちらかと言えば ”体育会(この場合は」KWVも含めてだが)OB” の、何とも居心地抜群の、理想の止まり木でありつづけた。

何しろ、店の場所がよかった。都心オフィス勤めの人間にして見れば、”帰りがけに銀座でちょっと飲む” プライドを持つことができたし、古びたドアを開けて入れば、先ず5割の確率でワンダー仲間がいた。あれ、今日は誰もいないか、と思って奥を見れば、何年何十年ぶりかで見る高校、中学時代の仲間が、これまた5割くらいのヒットレートでにやにやしているという、まさに ”おれたちケイオー” の場所だったのだ。

KWVで同期以外の常連、といっても枚挙にいとまがないが、なんといっても2年上の三ツ本和彦がダントツだったのは、先ず誰もが納得する事実だろうし、後輩連では41年の田中透、佐川久義、44年の浅野三郎、45年の島哲郎などの名が浮かぶ。同期の仲間は当然としても、後輩年代でも ”じゃ、ジジで” と云うのが決まりだったのだ。

われわれの ”部室” であった ”スナック ジジ” は、2009年3月31日、その ”銀座の灯” を落とした。

 

(36年卒同期文集 ナンカナイ会 その ”ふみあと” から転載)

 

”ビジネスコンピュータ” のころ

1980年代。インターネットも標準OSも存在せず、コンピュータメーカの力量が ”どれだけ他と違うハードウエアを作るか” で測られていた時代。科学技術計算用と事務用途用と性格の違ったマシンが存在していた時代。日本ではその市場の在り方の故にIBMですら苦戦を強いられていたとき、ヒューレットパッカードはそれまでの戦略を大転換し、”ビジネス” 市場向けの製品を投入した。

くりかえすがかのIBMでも優位に立つことのできなかった混戦に、その分野での無名の新参が、しかも ”日本語をしゃべれない” コンピュータを投入したのだ。予想されたとはいえ、絶望的な戦いを強いられたのが ”ビジネスコンピュータ部” だった。その ”HPのガダルカナル” を生き抜き、とにもかくにもシステム事業を存続させ、現在の ”コンピュータメーカとしてのHP” にバトンタッチまで持ち込んだ、という強烈な自負を持ち続けている仲間がいる。その中の何人かが旧交を温めた一夕。これをきっかけに昔の仲間を糾合したいと語り合った。今後の再会をまた改めて企画したく、参加希望者の連絡を待つ。

左から染谷、藤田、麻生、浅原、菅井、中司

 

”とりこにい” 抄 (2) 寺家幸一のこと

寺家と初めて会ったのは、大学進学直後、美ヶ原で行われた新人歓迎ワンデルングのときである。7人いた1年生の中にで、ニッカーボッカーをはきこなし、古びた山靴で現れた彼には第一印象から、山歩きのベテランの雰囲気があった。1級上の徳生さん、同期入部となってこのワンデルングで知り合った美濃島孝俊とともに彼が名門両国高校山岳部の卒業と知ったのはしばらく後のことだった。

付き合い始めてすぐに、彼の持つなんとも言えない暖かい雰囲気、それとなつかしい下町訛りで アサシ ヒンブン などと言うおかしさもあって、僕らは親しみを込めて彼を テラヒャン と呼ぶようになった。卒業後間もなく、当時行政の大失点となった、かの川崎市地盤調査実験の惨事に巻き込まれ殉職する悲劇に巻き込まれなかったら、間違いなく 月いち高尾 なんかにはぶらりとあらわれては天狗飯店で皆を笑わせていただろうと思う仲間の一人である。

(美ヶ原W 前列左端後藤三郎、その隣が寺家。5人目から妹尾、金井、中尾各先輩、その隣が美濃島孝俊)

元気と意地っ張りだけは人に負けない自信はあったが、山歩きの技術経験には全く自信が持てなかった僕はいつか、彼の人格も含めて兄事するようになった。その中で3年の5月、北沢での残雪行に付き合ってくれた、ほんわかとした彼との思い出が今でも心によみがえる。彼が絵をたしなむことを初めて知り、またさらなる敬意を払うようになったのもこのテントサイトでのことだった。

その秋、彼がCLとして主宰した涸沢BCでぼくは天上沢コースを担当して参加した。このときは、これも早く旅立ってしまった宮本健がKWVに持ち込んだ、フランク永井の 初恋の山 を、あたかも申し合わせたように沖天に上ってくれた月の下で一緒に歌った記憶が鮮烈である。

 

     ベースキャンプにて

 

     野呂川の水に絵筆をひたして

     友よ

     君は ささやかな草間地から

     夕空のいろを 思案する

     のこり火にあしをぬくめながら

     ぼくは 考える

     君のチューブがうずめてゆく

     そのかなたにあったものを

     君とぼくとが 

     黙ってみつめていたものを

     ぼくは 思い出す  

     夕空は思慮ぶかく

     ぼくたちの 頭上をおおいかくす

     母乳いろした

     あの 山の ほおえみをとかしながら

ひさしぶりの西部劇 (34 小泉幾多郎)

 今年7月「ゴールデンリバー」9月「荒野の誓い」と珍しく本格的西部劇が二本公開された。

前者はアメリカで西部劇が廃れるなら、フランスでと、ジャヤック・オーディアル監督がアメリカの俳優を中心に西部劇を復活してやろうと思ったかどうか。
仏アカデミー賞4部門で受賞したりで、観たかったのだが、私事でバタバタしたりで観損なった。後者はどうしても観なければと思いつつも、中々腰が上がらず、横浜ブルグ13で上映終了の3日前の9月24日に観ることが出来た。

その感想を直ぐにでも書こうと思っているうちに、9月28日、マンションの階段を駆け下りて、不注意にも転倒、後頭部を打ち付け、近くの脳神経外科に駆け込み、裂傷部分を4針(今はホチキスで4か所)止めることに相成り、CT断層検査では今のところ頭脳への影響はなかったことは幸いで、ご心配なく。とのことで、書くのが遅れてしまった。残念ながら東京でも上映は終わりになってしまっていて、当館では9月6日から上映されていたが、当日は、9時からの上映で一日1回のみ。こんなに早い時間に映画館で鑑賞するなんて初めての経験、しかも驚くなかれ、観客たったの4人。西部劇人気も地に落ちたもの。それでも久しぶりTVでない映画館での西部劇の醍醐味にどっぷり浸かり、のめり込んで感動してしまった。

 先ずは「荒野の誓い」という邦名、古き良き時代のB級西部劇のネーミングに逆戻り、原題Hostiles(敵対者たち)に近い題名が欲しかった。物語りは、インディアン戦争終息後のアメリカ西部、その戦争で功績を挙げた大尉が、7年間捕らわれの身となっているシャイアン族の首長イエロー・ホークとその家族を故郷でもある居留地まで護送するよう命じられるところから始まる。

分断された社会、相手を憎むように教えられてきて、とても理解し得ないと思っていた人間同士がパーティを組んで、荒野を旅するロードムービーなのだ。主人公大尉はバットマンを演じ、西部劇では、「決断の3時10分」のリメイク版に主演したクリスチャン・ベール。 インディアン戦争がもたらした心の闇を抱えながら首長を護衛する任務に就いた大尉、コマンチ族に家族を殺された女性、首長イエローホーク等々の好演技、その旅の中から白人とインディアンという差別的な戦いをを背負わされて来た虚無感から、最終的には普遍的なヒューマニティを謳いあげるという物語りは感動的だ。それに加え、撮影画面の素晴らしさ、大自然の姿が、朝な夕なに、晴天の時も、降りしきる雨の中に描かれる。これが日本人マサノブ・タカヤナギの撮影監督というから誇らしい。

その画面に優しく奏でられるマックス・リヒターの音楽が、チェロとピアノを主に、あたかも宗教音楽のように深い底から鳴っているような厚みと深さを加えていた。最後に決闘場面で全てが終わった後、大尉がシカゴ行きの列車に乗る女性と首長の孫の二人を見送った後、動き出す列車の最後部に飛び乗るところで、救いで終わるところ、他愛なくも思えるが感動的でもあった。

(中司)

西部劇の新作があったなんで知りませんでした!

決断の…..ってのはグレン・フォードでしたっけ? これからはも少し真面目に新聞を読んで見逃さないようにします。
それもそうですが、頭のけがとはまた大変でしたね。オヤエが隣で髪をそるのかなあ、なんて気楽に言っています。なんせ階段の下りは怖くなりましたね。また、近々お会いします。
(小泉)
「決断の…」は、グレンフォード主演作のリメーク版で、ラッセル・クロウも出てました。

こんな日もありけり

傘寿目前というのにホリこと堀川義夫と彼の相棒たちの活躍ぶりは何回も本稿で紹介してきた。ぼくのたったひとつの自慢はそのホリにテントの張り方を教えたことだ、と事あるごとに宣伝してきたが、どうも信用されていないようだ。

取り出だしましたる古びた写真。偶然にでてきた。新人キャンプ、志賀高原から草津へたしか2泊で越えたときの一葉。コーチ陣は小生の右が杉本光祥、後列右ふたりが丸山進、斎藤嘉彦(37年)。そして一番前、中央にいるのがご本尊である。杉本の左にいるのがアシストしてくれた同期の山口擁夫。新人の生き残りは結局ホリだけだった。新人キャンプが悪かったからか、どうか、は不明。

以下の論議は次回、天狗にて。