2019年9月 月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

 

9月の月いち高尾は4コースに分かれて、一番きついであろう陣馬から高尾への縦走グループに、景信から合流する組、小仏峠から合流する組、最後に高尾山から合流する組を合わせて、全員で稲荷山コースを下山するという計画でした。しかし、残念! 当初は18名の参加申し込みがありましたが、開催の4,5日前からキャンセルが相次ぎ当日参加は13名になってしましました。その内、頼りの岡沢氏がぎっくり腰で不参加となりましたので急遽、参加希望のもっとも人数の多かった小仏コースに集約して全員13名で同一コースを歩くことにしました。

9日未明の台風の影響で、登山道は折れた枝や葉で一杯です。城山からの下り縦走路には杉の大木が折れて道を塞いでいましたし(写真参照)ほかにも倒木がありましたが、この日は大変残暑が厳しく、また、大気の状況が不安定で何時ゲリラ的豪雨が来ても不思議ではない状況でした。でも、全員そろって稲荷山コースを下り予定通りに下山して、いつものてんぐ飯店で打ち上げをすることが出来ました。ぎりぎりのところで、雨雲が北側を通過してくれましたので、登山中は雨に降られることはありませんでしたが、帰宅時、あるいは帰宅後特に世田谷、杉並などかなりの雨が降ったようでした。

それにしても75歳以上の13名がコースタイム通りに縦走できました。素晴らしきかなKWV,素晴らしきかな月いち高尾のメンバー。あの残暑の中、互いにいたわりながら一糸乱れずに歩く姿に私は感動しました。

元気に、これからも歩きましょう!!

(久米 KOBUKI)

月いち高尾」、急に全員、同じコースを歩くことになりましたが巻き道に続く巻き道で素晴らしいコースでしたが兎も角く暑くて、汗びっしょりかき1リットルの水を飲み干しました。

下山して一人お先に高尾駅口でアサヒの缶ビールを飲み干しました。八王子の駅で濡れたシャツを着替えて本当に生き返りました。

皆様は{天狗}でさぞ盛り上がったことと想像しております。家に辿りつく3分ほどの所で突然の雷雨に見舞われました。これが山中の事でなく幸いでした。

又、次回楽しみにしております。

(下の写真は私ではありません)

“とりこにい” の話 (36 後藤三郎  40 河合国尚 47 関谷誠)

ブログ読んだよ。粋な文章は昔からのものだね。トリコニ―は6番だったように覚えているが他にクリンカーとムガーという釘のような単純な鋲も沢山私の裏底には打ってあった。今日はこれから築地で夏合宿の第4班の反省会に赴きます。今週から秋のリーグ戦が始まるので暫くは土曜日は軟式野球を楽しみます。
最近はプレーヤーはダメでスコアラー)。
三郎
読ませていただきました。懐かしいですね。
兄に電話をしたら、そんな靴を履いていたかなぁ、と全然覚えていませんでした(笑)ジャイさんのことは懐かしがっていましたが。
私は覚えています。兄が荻窪駅の階段で「ナーゲル」を階段にかけ      滑って転んだ話があるのです。それも覚えていませんでした。何年も
前の話はおろかちょっと前の話でさえ、覚えていないのに、とぼやいて
いました。
デシ

  ありがとう。

  兄貴はコワモテの先輩だったよ!
  Gi

台風15号が関東を直撃の様で何もなければと願っております。(それとも八ツの方に避難されていらっしゃるかな!)

ところで、「トリコ二-」との懐かしい商品名に遭遇しました。

実は、8歳上の兄が、東大薬学部の学生時代、仲間と山・スキーを同好し、私の高校時代、その兄の仲間と、時たま、山やスキーに連れて行ってもらったのがKWVに入部した切っ掛けでしたが、兄が「トリコニー」の山靴を愛用していたのを覚えております。

(当時の私は流行りのキャラバン・シューズでした!)

KWVに入部して、飯田橋の双葉でビブラムの山靴を、親の金で、あつらえた時、「生意気に!羨ましい!」と云われたのを覚えております。商品名ビブラムは健在ですが、トリコニーもキャラバン・シューズも死語になってしまったのですね。

「昭和は遠くなりにけり」ですかね!

関谷

“とりこにい” 抄 (1)

山へ行く人の中には自分の山行記録や紀行文やその間の自分の思索などを書く人が多い。スポーツアルピニズム発祥の地である英国をはじめ、欧州諸国には早くからこの伝統があったし、日本でもかの大島亮吉や三田幸夫など日本における登山の先駆者たちから始まって、ご存知串田孫一や深田久弥、僕の好みで言えば上田哲農、などなど、数多くの先達の珠玉の作品がある。

ワンダーにはいってまもなく1年の初夏、当時4年生の金井さんに秩父へ連れて行ってもらい、すっかり秩父の雰囲気が好きになった。このことを金井さんに言ったら、そうか、それならこの人の本が気に入ると思うよ、と紹介されたのが 加藤泰三 ”霧の山稜” だった。なぜ金井さんが僕の好みをズバリ言い当てられたのか,今でもわからないが、第二次大戦で惜しくも散華した、新進気鋭の版画家と嘱望されていた著者の、抑えたユーモアのなかにある一種の諦観のようなものが僕の琴線に触れるものだったのだと思う。ベレー帽をかぶってダークグリーンのシャツが定番だった金井さんは物静かななかに人を惹きつける雰囲気を持った先輩として心に残っている存在である。

卒業して数年たって、きっかけが思い出せないが37年の村井純一郎と交友が復活して、彼から勧められたのが 山口輝久 ”北八ツ彷徨” だった。残念なことに村井は病を得てあまりにも早く旅立ってしまったが、かれの沈着冷静ななかに凛とした信条をもった生き方は、1年後輩にもかかわらず僕自身を見つめなおす機会を与えてくれたものだった。その後、同期で塾山岳部にいた山川陽一の企画で、その八ヶ岳山麓で著者の山口さんと一夕を過ごす機会があって、この本の中で特に僕の気に入っている 紅葉峠 という一文について、話をさせてもらったりした。

今夏、部屋を片付けていたら古いノートがでてきた。題名に とりこにい と書いてあり、このノートを書き始めたころの高揚感というか、今となってはむしろ気恥ずかしい気分にもなるのだが、そういうものを思い出した。

トリコ二-、という言葉がわかる人は今となっては僕らがおそらく最後の世代だろうが、昭和30年代ごろまで、本気で山登りをしている人たちが履いていた重厚な山靴は裏に鉄の鋲が打たれていた。用途によっていろんな種類があって、そのうちの一つがこう呼ばれていた。ちょうど僕らがワンダーにはいるころから、ビブラム(商品名だろうが今は一般名詞となっている)が山靴の常識になり、鋲靴(ナーゲルと俗称されていた)はほんの一部の人のものだった。僕の場合は35年卒の河合さん(40年卒デシこと国尚君の兄上)がこれをはいておられるのを見て、(へえ、この人はすごいんだ)と恐れ入っていた記憶がある。

ビブラムが鋲靴にとってかわるきっかけになったのが通称キャラバン、といわれたズック(この言葉もいまでは死語か)製の軽登山靴で、あっという間に鋲靴は姿を消したが,トリコニーの7番、というのだけが土踏まずの位置に打たれていた。ぎざぎざのついたL字型の鋲は、ふれ込みによると丸木橋を渡ったりするときの滑り止め、というのが定説だった。考えてみると、そのような時にこの鋲を利かすには横向きに歩かなければならなかったのではと今更に思うのだが、実用性がなかったのかどうか、ここからも鋲はいつの間にかなくなってしまった。しかしその運命に堪えて履く人を支えているち沈黙の存在、という意味で トリコニー という言葉は別の意味を持っていたのだろう。そのノートの扉に今となっては気恥ずかしい感じがするのだが、こう書いてある。

  靴の下で 泥をかぶりながら 

  いつも唄っているお前は いとしい トリコ二イ。

  さあ 聞こう 

  人には聞かせない お前の唄を

  いつまでも変わらない お前の唄を

  ひめやかに歌い続けてきた

  トリコ二ーの唄を

もう少し前だったらとても恥ずかしくて、それこそ人に聞かせることもできなかったが、ま、最終コーナーをまわりはじめた老人の懐古か回顧か、いくつかをシリーズで紹介させてもらうことにした。今回は前振りも長いので、うんと短いのを書かせていただく。

 

 仙水峠

 

 峠.。

 のぼりみちに

 ふとふれ合った心が

 また そっとよりそって

 くだりみちへ さしてゆく

 

“信玄棒道” 異聞

戦国時代、武田信玄が信濃攻略のため作った軍用道路といわれるのが ”棒道”である。現在もあちこちに原型とされる部分が残っているが、その一部でおそらく現用されている唯一の部分と思われるのが、小海線甲斐小泉駅付近から小淵沢カントリクラブの裏あたりまで 棒道ハイキングコース として管理されていて、その一部が小生のセカンドハウスの裏(というか軒先)を通っている。夏季はハイカーが良く通るし、地元の乗馬学校のレッスンの “外乗” も通ることがある。秋深くなると原生林の紅葉が実に素晴らしいプロムナードになる。昭和40年代くらいまでの八ヶ岳登山ガイドには、権現・編笠へのアプローチとして紹介されていた。時代考証があるのかどうか勉強していないが、往時には道しるべとして作られたとする観音像もあるし、短い距離ではあるが、僕の好きな散歩道だし、元気があればふもとまで朝刊を買いに往復するとほぼ50分、格好のトレーニングにもなっている。

この散歩ルートに異変が起きた。数年前から計画のあることは知らされていたが、我が家のすぐ下を通っている沢(古杣川の支流だと思うのだが)に合計3基の砂防ダムが建設(本日現在未了)されたのである。もちろん、ハイキングコース自体をふさぐようなことにはしていないが、正直、雰囲気がぶち壊しである。

いままでであれば、ただ憤慨し、環境破壊だのなんだのと難癖の一つも付けたいところだが、昨今の異常天候や各地での災害を考えると、やむを得ない予防措置かなと感じる。甲斐小泉駅からこの棒道ハイキングコースの起点までのあいだに三分一湧水、という小公園がある。八ヶ岳連峰の南を限る権現岳の山麓は多くの湧水があり、このあたりは清冽な小川やため池が多いのだが、いいことばかりではなく、沢筋を駆け下った土砂災害の歴史もある。その過去を風化させないために三分一湧水公園には惨事を伝える大きな石が展示されている。これだけの石を運ぶエネルギーがこのあたりの沢筋にはあるのだ、ということを明確に表していると思う。

現在進行中の工事は当初8月初めに終了ということだったが、この分では9月いっぱいかかるのではないかと思われる。この沢の下流が上記の写真にある惨事を引き起こした場所だと言われると、やむを得ないと納得する一方、地球温暖化の結果と思われる昨今の世界規模の異常天候のことを考えざるを得なくなる。この次来た時にはともかく、納得できる形に収まっていてほしいものだが。

 

2019 ナンカナイ会 夏の集まり

8月22日、恒例の夏の集まりを開催。参加人数は25名と盛況だった。

今回は大病を患い手術もあったジュク兄こと伊藤博隆が復帰。毒舌は相変わらず意気軒高とみた。また ”準会員” ヨコさんこと横山隆雄先輩も参加。これ又相変わらず、ご壮健とお見受けした(ただし写真撮影の時すぐ後ろにいたので観察したが見事な白髪も頂部ではわずかに一層、これをセットするのは結構大変だろうなあと感服)。

常連ではちびが通風再発のため受診、高橋良子は白内障手術直後とのことで不参加だった。ほかにも自宅療養中の連絡も5件あった。この世の中、わるいことばかりじゃなし、SNSとかメールとか (我田引水だが小生のブログとか)時空を超えて連絡できる時代になった。人間の基本は社会性にあり、とか、お互い、連絡しあって元気にやろうぜ。

 

朝日連峰W報告 (42 下村祥介)

大朝日避難小屋前のお花畑

8/4(日) 東京駅11:00発つばさ自由席に乗車。山形駅で降り、駅前でレンターカーを借りて月山ICへ。

そこで高速道路を下りて古寺鉱泉に16:00時ごろ到着。古びた(ひなびたと言うと少しイメージが良くなりますが)山小屋で一泊。夕食はイワナの塩焼きと山菜で、手の込んだ美味しい料理だった。

8/5(月) 5時起床、6時出発。小屋の裏から山道に入りジグザグ道を30分ほど行くと尾根筋へ。樹林帯の中のこの尾根筋を2本の小休止を入れながら2時間半ほど登って漸く一服清水へ。ここで小休止をし、かなり急な登りを行くと40分ほどで三沢清水に到着。この辺からニンニンの足がつるようになりぺースダウンしながら登行。古寺山への登りは相当つらかったと思う。

古寺山から小朝日岳のかなり急な巻道を経て熊越へ。ペースは遅いもののニンニンもつり止めの薬を服用しながら何とか銀玉水へ。ここでまた一休み。この辺まで来ると大朝日岳の避難小屋が見え、勇気づけられる。お花に慰められながら1時間ほどでようやく避難小屋へ。着いたのは15:30。コースタイム6時間のところを9時間半を要してしまったが、無事にたどり着けて先ずはホッと。

 小屋にはおよそ50名ほどの登山者がいて、それぞれ自炊。我々もホヤノ君持参の牛丼で夕食。ウイスキーが疲れた体に沁みわたった。19:00就寝。木の床に寝袋1枚。床が固くて夜通し寝返りばかり打っていたが、翌朝聞いてみると皆同じよう寝苦しかったようだ。

避難小屋まえで

8/6(火) 4時ごろ起床し、空身で約30分、大朝日岳山頂へ。まだ暗かったが月山と飯豊山、遠くに鳥海山が見え、最高の景色。やがて東から太陽が顔を出し始め写真撮影。ブロッケン現象も見ることができた。山頂には単独行の女性が2名。写真を撮ってもらいしばし佇む。

 朝食のおにぎりを食べて6時に下山開始。ニンニンの足も順調で12:00には古寺鉱泉に。急な坂道を下りながらニンニンはよくこんな急なところを登ったものだと改めて感心した次第。

 停めておいたレンターカーを転がし、途中の大井沢温泉で汗を流して、山形駅へ15:30到着。

(この後つばさに乗車したものの赤湯まで来たら線路が暑さのために曲がってしまい不通に。2時間ほど車中で待機させられた後、バスで福島駅へ。東京に着いたときは22:00を軽く回っていた)

 いろいろハプニングがあったものの、天気と仲間に恵まれた思い出深い山行になった。ホヤノ君はこれで99座を達成。あとは男体山だけということでまた付き合わされそうな気がしている。

大朝日のご来光が荘厳

2019 8月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

8月の月いち高尾は従来のスタイルで10時高尾登山口に集合。連日の猛暑は今日も35度を超えるとか?そして今日は納涼会を兼ねているので山は軽めに楽しんでうまいビールを期待して勇躍15名が参加しました。

でも、油断は禁物! 無理をせず個人の申告で5名はリフト・ケーブルカーに乗って頂上へ。10名は琵琶滝コース⇒稲庭尾根⇒高尾山頂上へと向かいました。納涼会は登山口駅に隣接したイタリアン「FUMOTOYA」でジャイさんもこの為にだけ参加され総勢16名でワイワイと楽しい時を過ごすことが出来ました。

今年は天気に恵まれ(雪の中の御陵参拝もありましたが)8月まで中止にすることがなく、8連荘達成です。昨年は7勝5敗でしたので早くも去年より開催回数が多くなりました。このまま、年末のBBQまで天候に恵まれ、楽しい「月いち高尾」が開催されますよう事務局として切に祈る次第です。

日時 2019年8月7日(水)

リフト・ケーブルカー組 船曳夫妻、岡、吉牟田、立川 以上5名

*ケーブルカーに2人とリフトに3人に分かれて一気に登る。10;40頃にケーブル山頂駅付近で合流。

歩き始めるとヒラヒラと蝶々が舞っている。旅する蝶「アサギマダラ」だ! なんだか得した気分。10分ほど行って、ベンチで小休止、カボちゃんの差し入れの梨をいただく、美味しいこと。感謝!

11:00に再出発、薬王院にお参りして、急な階段を登り、奥之院から頂上を目指す。

11:25高尾山頂到着。各自持参のレーションで小腹を満たしながら、本体到着を待つ。(記述:立川)

琵琶滝コース組 椎名、遠藤、深谷、翠川、町井、蔦谷、岡沢、堀川、武鑓、河合 以上10名

*10:10登山開始、快調に琵琶滝コースへ。でも、暑い!! 暑いだろうと沢筋の道を選んだが、沢も尾根も関係無いようで暑さであっという間に汗でぐっしょり。でも、休憩時に沢に降りると風があり気持ちが良い。

 椎名さんが快調に飛ばしすぎたかバテ気味なので岡沢に託し稲庭尾根に出て頂上に向かう。直下の225段の階段も全員一気に登り切り11:50、頂上でリフト・ケーブルカー組と合流。堀川が秘かに運び上げた大きな冷たい、冷たいスイカ(半分)を切り分け舌鼓。旨い!!(自画自賛)

2019夏合宿でのスケッチ (36 後藤三郎)

室堂でのスケッチ

夏合宿の4班で立山(雄山)に登りましたが本当にしんどい思いはこれが人生最後でしょうか。室堂でのスケッチを添付します。

今回の合宿は体調不良で大事をとって不参加に終わった。同行予定だったサブちゃんからのメール、一部転載。

 

19年8月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

8月の月いち高尾は従来のスタイルで10時高尾登山口に集合。連日の猛暑は今日も35度を超えるとか?そして今日は納涼会を兼ねているので山は軽めに楽しんでうまいビールを期待して勇躍15名が参加しました。

でも、油断は禁物! 無理をせず個人の申告で5名はリフト・ケーブルカーに乗って頂上へ。10名は琵琶滝コース⇒稲庭尾根⇒高尾山頂上へと向かいました。納涼会は登山口駅に隣接したイタリアン「FUMOTOYA」でジャイさんもこの為にだけ参加され総勢16名でワイワイと楽しい時を過ごすことが出来ました。

今年は天気に恵まれ(雪の中の御陵参拝もありましたが)8月まで中止にすることがなく、8連荘達成です。昨年は7勝5敗でしたので早くも去年より開催回数が多くなりました。このまま、年末のBBQまで天候に恵まれ、楽しい「月いち高尾」が開催されますよう事務局として切に祈る次第です。

 

日時 2019年8月7日(水)

リフト・ケーブルカー組 船曳夫妻、岡、吉牟田、立川 以上5名

*ケーブルカーに2人とリフトに3人に分かれて一気に登る。10;40頃にケーブル山頂駅付近で合流。歩き始めるとヒラヒラと蝶々が舞っている。旅する蝶「アサギマダラ」だ! なんだか得した気分。10分ほど行って、ベンチで小休止、カボちゃんの差し入れの梨をいただく、美味しいこと。感謝!

11:00に再出発、薬王院にお参りして、急な階段を登り、奥之院から頂上を目指す。

11:25高尾山頂到着。各自持参のレーションで小腹を満たしながら、本体到着を待つ。(記述:立川)

琵琶滝コース組 椎名、遠藤、深谷、翠川、町井、蔦谷、岡沢、堀川、武鑓、河合 以上10名

*10:10登山開始、快調に琵琶滝コースへ。でも、暑い!! 暑いだろうと沢筋の道を選んだが、沢も尾根も関係無いようで暑さであっという間に汗でぐっしょり。でも、休憩時に沢に降りると風があり気持ちが良い。

椎名さんが快調に飛ばしすぎたかバテ気味なので岡沢に託し稲庭尾根に出て頂上に向かう。直下の225段の階段も全員一気に登り切り11:50、頂上でリフト・ケーブルカー組と合流。堀川が秘かに運び上げた大きな冷たい、冷たいスイカ(半分)を切り分け舌鼓。旨い!!(自画自賛)

喫茶店とのつきあい (2)

結婚したてで恵比寿に住んでいたころ、地下鉄日比谷線がオープンし、家から六本木まですぐいけるので嬉しくなって夕食後、よく八恵子とふたりで”クローバー”に出かけて行った。この店もまだあるけれども僕らが通っていたころの上品さと丁寧さが薄れてしまっているのが残念だといいあっていたら、なんということか、業績不振で閉店したそうだ。大手のケーキメーカーが買い取ったが店の名前も変えてしまうという。いま、調布の端っこに住むようになって、近くを歩いてみつけたコーヒーの専門店 “さかもと” の店主がクローバーで修業したプロだったことを知り、それ以来、すっかりなじみになった。落ち着いた、大人の店である。この廃業に伴う裏話もここの坂本さんに聞いた。残念なことだがこの世の中浮き沈みはあきらめなければならないようだ。

今住んでいるつつじヶ丘・仙川近辺だが、喫茶店にかんするかぎり、この “さかもと” 以外気に入った店はない。調布まで行くと、いろいろと店はあるが、散歩ついでにミステリでも読もうかという時にはチェーン店にしては店員のしつけがいい ”ニューヨークカフェ”か、北口を出て線路に沿った道ををちょっと戻ったところにある”サンマロ”がぼんやりとし雰囲気でいい。また、甲州街道からつつじヶ丘の隣駅柴崎に入る路にある”手紙舎” は本やと軽食レストランとゆっくりコーヒーを出してくれるカウンターが調和して、静かな、ゆっくりくつろげる店である。本は幼児教育、美術、音楽、料理などのせまいジャンルに絞ってあって、週刊誌だのコミックなどでがやがやしていないのがまた、いい。コーヒーは各種そろえてあって、挽き方まで好みを聞いてくれる。

つつじヶ丘周辺では、前記 ”さかもと” のほかは駅まえのちいさなロータリーをへだてて、ご存知ドトールと最近になって進出してきた Piers というチェーン店があるきりだ。好みにうるさい浅海昭あたりにいわせればこういう店は馬鹿にされるのだが、僕が何となく居場所として悪くないな、と思うのは、コーヒーの味ではなく、まして若いころの甘酸っぱい記憶でもない。一種の社会観察の場としてで、そのような中に自分も生きているんだな、という一種の確認みたいなものができるからだろうか。

同じドトールでも青山だとか赤坂だとかいうところの店は、ビジネス人の一部みたいな、活発だが冷たい感じがするし、人の出入りも激しい。ここつつじヶ丘の店は言ってみれば停滞、といった感じがする。客はほぼ6割まで老人である。僕の滞在時間は長くて30分くらいだが、その間、店の空気は、まず、じっとしたまま動かない。観察するに、1杯のコーヒーを前にして、本を読んでいる人、黙って空を見つめている人、が半分くらいで、会話をしている人はちらほらとしかいない。一度、隣にいた上品な老婦人から、ここにはよくおいでになるのですか、と突然声をかけられたことがある。私、毎日来て、常連の人と顔見知りになって、今日もその人を待っているんですが、どうもお見えにならないみたいです、ということだった。見知らぬ人との会話だけが人生に残された楽しみなような言い方を聞いて、どう答えていいかわからず、用事があるふりをして席を立ったのだが、あとでそんな自分がみじめな思いになった。勇気を出して、愚痴か痛恨か亡くなった夫の追想か、聞いてあげる勇気がなかった自分が、である。

越してきて間もなくのころ、段ボールとの戦いで疲れはて、コーヒーでも、というだけでこの店に入り、窓際のカウンタに座った時のことを今でも思い出す。

ちょうど雨模様で、目の前の欅の木が(その後駅の改築で伐られてしまったのが悔しいが)揺れているのを見たとき、まったく唐突に ”嘔吐” の  “ブーヴィルは明日も雨だろう” という結びの一節が心に浮かんだ。サルトルがこの結びをどういうつもりで書いたのか、わかるすべもないのだからこの時の反応も言ってみれば一種の発作のようなことだった。年老いた人間が集い、何かを求めて、たぶん今日も期待したことは起きないだろう、と思いながら座っている。明日も雨か。そういうやりきれなさなのか、ひるがえって見れば究極の楽観なのか。著者がこの本の中で語ろうとした”実存“とかいう難しい概念の、ひょっとするともっとも原理的な解釈なのか、よくわからないのだが、それ以来、天気が悪くて暇があるとちょくちょくこのカウンタに座ることが多くなった。自分もまた、この人たちと一緒に時代を生きてきたのか、という感慨を改めることだけなのだが。