“ボヘミアンラプソディー”考  (36 高橋良子)

今日本で話題になっているこの映画を観に、映画館に足を運ばれた方も
多いのではないかと思いますが、私もそのうちの一人です。

音楽といえばクラシック以外に興味がなく、ましてやロックバンドの「クイーン」などの存在すら知らなかった私が、何故「ボヘミアン・ラプソディ」に魅了されてしまったか。

この映画について、新聞等に書かれている記事や寄せられている声によると、「クイーン」のボーカリスト」であった主人公フレディ・マーキュリーが生前抱えていた移民、宗教、容姿、同性愛への差別偏見による苦悩や孤独感に、見ている人が自分も何かしら抱えるものを重ね合わせていると云うのです。1985年のライブエイドでの感動的なライブコンサートの場面でその感情は最高潮に達し、観客に圧倒的な高揚感とカタルシスを与えると。映画はこのライブのシーンで終わります。

あとで知ったのですが、クイーンのメンバー全員かなりのインテリであると。
出自が移民であるフレディをファミリーの一員として受け入れ、共に後世に残るロックバンド「クイーン」を創り上げたのも、フレディの力ばかりではないと思います。
「ボヘミアン・ラフソディ」は人を殺したという告白で始まる驚くべき歌詞であるに拘わらず、英国の国家的ソングになっているそうですが、何と不思議なことでしょう。この歌にはフレディの人生哲学が投影されているように私には思えるのです。

「人生は芝居だ、なにやら喚きたてているが終わりには何の意味もありはしない」

シェイクスピアの言葉ですが、彼はそのようにこの世を去っていきました。
でも、人を勇気づける歌も残していきました。

We are champion いろいろ失敗しても、また頑張れば誰でもチャンピオンになれる、と最終シーンで熱唱しました。私はこれに元気づけられ映画館をあとにしました。

馬場花木園の梅 (34 小泉幾多郎)

梅とメジロ

近くの大倉山梅林の観梅会は、2月16日17日 の2日間開催され、例年のように、幼稚園児の踊りや日本舞踊や和楽の演奏をはじめ、各種の屋台の出店が立ち並び賑わいました。

 

枝垂れ梅

 

今年は大倉山梅林以外の場所を探したところ、大倉山と鶴見の丁度真ん中あ
たりの場所に、馬場花木園(ばばかもくえん)という和風庭園を見つけました。こじんまりとしてはいますが、池あり、竹林ありで、古いあずまやもありましたが、拡張工事とかで其処だけは入れませんでした。梅も結構咲いていて、本数は大倉山の梅に敵いませんが、大きさでは負けていませんでした。

梅と竹林
梅と池

 

帆足進一郎絵日記拝見しました (34 小泉幾多郎)

(編集子の横河電機同期入社の仲間のひとりが美術に詳しく、自身でもブログを書いていることがわかり、見せてもらってその内容に驚嘆して、とりあえず絵に詳しいと思っている仲間に紹介した。そのうち小泉先輩からの一文を紹介する。なおブログ名は 帆足進一郎絵日記 である)

 ご紹介の帆足進一郎絵日記を拝見しました。先ずは、絵の多いこと、その中でも、山を描いた絵の多いことに驚きました。gisanとの交流から?と思いましたが、自分で50名山を選らばれるくらいですから、本当にお好きなのでしょう。事例として故郷の大分県の山は別として、指名された14の山のうち、明神岳を除き登っていることもあり、その山を見ながら、夫々感慨に耽ることが出来ました。60の手習いとはよく言ったもので、60歳から絵をデッサンから習われた由、小生も会社を辞めた時からでも、何か一つのことに打ち込むべきだったと後悔しても既に遅し。帆足さんが絵を描いているところをカメラでパチパチするぐらいが関の山。そう言えば、ワンダーの仲間にも、後藤三郎君をはじめ、29年卒の先輩宮田澄男さんも山では、スケッチ専門でした。同期の片岡陽一君は百名山を油絵で全てを描く計画をたて実行した筈です。

 絵画は勿論ですが、音楽への傾倒にも感心しました。先ずは鑑賞する道具が違う。真空管アンプでの音響装置は、普通の音とは違う次元の異なる音の世界に違いない。名盤を聴いても、鑑賞する力量が異なるから、指揮者カラヤン、アバドや管弦楽団のベルリンフィルやウイーンフィルとの団員まかせをけなせるという音楽評論家でも言えないセリフで切り捨てる能力には恐れ入りました。語学が堪能でなければ、歌曲の素晴らしさに目覚めることは出来ないし、故郷の背景に、R.シュトラウス「最後の四つの歌」が聴こえてくる心境にはなれない。

 先日、マーラーの先駆者とも言えるハンス・ロットの交響曲第1番が、2月9日にN饗と神奈川フィルとが定期演奏会で、同時に演奏されという珍しい出来事があり、小生は神奈川フィルを聴き、N饗の方は、いつかTV放映されるはずだが、聴き比べて、どちらかに軍配を挙げよと言われても,小生は判断出来ないだろう。

 後藤君が、フォンオッターへの言及で、アンネ・ゾフィー・ムターが出てきましたが、その夫であったアンドレ・プレヴィンが2月27日89歳で亡くなりました。結婚当時34歳も歳が離れているので驚いた記憶がありますが、4年で解消。その前にも女優ミア・ファローやジャズ歌手ベティ・ベネット等とも結婚歴がありました。プレヴィンは、ジャズピアニストから映画音楽に関係した後、ロンドン交響楽団の指揮者N饗の名誉客演指揮者にもなり、自身のピアノで、モーツアルトの協奏曲やラフマニノフの交響曲等々、批評家には、通俗的と言われたりもしましたが、そのスマートな心地よい演奏は大好きでした。晩年は椅子に座っての指揮にもなりましたが、若々しい演奏は不変でした。

同好の士ー奇遇からの接点

先日、まったくの偶然から編集子の会社時代の親友とKWVとの接点?が生まれたという楽しい話を書いた。その続きである。

(中司―後藤)

サブちゃん、先日、横河電機同期仲間の舟橋君との奇遇がありました。18人入った仲間はそれぞれに個性豊かな連中ばかり、いまでも味の濃いつきあいですが、中に帆足君というアーティストがいます。数年前、湯沢の高橋さんの展示があってご一緒したとき(示現会)、偶然彼の作品を見つけてそのことを話したと思いますが、舟橋兄にメールした時、僕のblogのことを触れておきましたら、今日、帆足君から連絡があり、かれの素晴らしいブログを拝見しました。質、量ともに圧巻、絵のこともともかく、彼のクラシックに関する造詣の深さにも感銘しました(ワンゲルでいえば小泉先輩にも脱帽ですけど)。一度、ご覧になることをお勧めします。URLというかブログ名は  帆足進一郎絵日記  です。

(後藤―帆足、中司)

早速、帆足様の絵日記を見せてもらいました。素晴らしい作品が沢山あり貴兄が趣味の広い良い友達を大勢持っておられることを改めて認識しました。フォン・オッタ―と言うメゾに関しては聴いたことがないのですが世の中にはあまり我が国で知られていない歌手は結構昔からおりましたので素晴らしい方なのでしょう。私もSPレコードからEP/LP、更にCDまでかなりのコレクションがあるので終活の一貫としてどう処理するべきか聊か困っています。小学校時代からお小遣いを貯めて集めたもので貴重なVictorの旧盤の赤盤だけでも100枚以上あります。花巻にある野村胡堂の記念館(彼が世界でも有数のレコード収集家であったので現在、彼が持っていた1万枚ほどのSPレコードを定期的に演奏する会があり私も会員ではありますが中々行く機会がありません)に相談して可能ならば納めさせて貰うことも考えています。私も68歳から本格的に声楽を習い始めて13年、今週末も春のコンサートで歌うので目下、必死の練習中ですがスキーと同様そろそろ打ち止めかなと思っています。お互いに色々な友人が人生を豊かにしてくれ本当に感謝あるのみですね。いずれまた、

(帆足―後藤、中司)

私のブログを色々見て頂いたようで有難うございます。 また、お友達にも過分に紹介頂き恐縮です。 ここのところ、月1回のペースになっていますが、冬と夏は季節に合った絵があまりなくて苦労しています。 何とか絵を描ける健康状態を保ちたいと念じています。

(中司―後藤、帆足)

喜んでいただけたようでうれしく思います。次回から示現会の展示会では高橋さんのほかにも楽しみが増えますね。

趣味のある、なしでは引退後の世界に大きな違いがあるようですね。小生高校1年の時に始めたアマチュア無線に引退後3年ほどしてカムバック(このような人が大勢いるのはやはり同年代の連中だからですね)、44年浅野三郎君(彼はこの道ではタイガー・ウッズと尾崎将司を混ぜたような大物であるのですから世の中面白い)の指導を受けて一昨年くらいまで遠距離通信(DXとギョーカイでは呼びます)をやっていましたが少し熱が冷め、今はオール真空管による自作無線局の開設を夢見て、スクラップアンドビルド(と言えば聞こえがいいが、要は何回やっても満足しないということです)を楽しんでます。何しろ目は見えない、指は震える、ですからビスとナットが合わないとか終わったはずのはんだ付けがしてなかったとか、ヒューズがを飛ばすこともしょっちゅうありますが、そう、いつかこの部品のがらくたを始末しなければと思うと恐ろしくなります。

ま、我々3人とも、いい趣味を持たせてくれた両親・家庭に感謝しなければなりませんね。ご両所、お元気にお過ごしありたし !
帆足兄あて追記
後藤君は特にオペラとかドイツリードなどが好きで、自分でも歌います。小生の理解範囲を超えていますが。
舟橋兄あて追記
今回の楽しい遭遇の機会を作ってくれたことに感謝します。次回会合を楽しみに待ちます。

スキー合宿 追補 (50 実方義宜)

三田会「公務」にあわただしく、ご連絡が遅れてしまい申し訳ありません。
スキー合宿まとめ、夏合宿準備、春ワン調査行等々お陰様でワンダー漬け、楽しんでおります。
合宿の写真から、懇親会のもの平松さん、伊田さんの地獄谷温泉の合成写真をお送りします。
地獄谷温泉で極楽!

2019 スキー合宿  (34 真木弓子 36 遠藤夫士男 後藤三郎)

平成最後のKWVスキー合宿は新たなホテルステイで成功裏に終わったと思います。天候もまずまずで、大きな怪我もなく、湯の花漂う温泉にはみな満足だったようです。

長野五輪ではフランスチームが宿泊したホテルだそうで、食事や設備もまずは合格点、ホテルスタッフの「おもてなし」姿勢は好感が持てました。

34年が3人(含む夫人)35年4人、36年3人、37年4人、38年1人、39年5人で30年代20人。最長老Fドクターは相変わらずの達者な滑りで、新雪を漁っていましたし、軽井沢と志賀の年間パスで今シーズンすでに75日滑ったという現役スラローマー森永さん(35年)は次のレースが間もなくとのことでジャイアンツを何本も直線的に滑り降りていました。

“平成が滑り納めと膝が云い” 遠藤夫士男

ジャイへ すっかり春ですね~、私達世代の季節到来!。KWV三田会スキー合宿湯治班に参加しておサルさんの地獄谷温泉に入るのを楽しみにしておりましたが、な 何と長女が急性盲腸炎で入院 手術となり、残念ながら不参加となってしまいました。混浴の地獄谷温泉入浴の平松さん、北尾さんはおサルの親分の貫禄でおサルカップルが恥ずかしそうに俯いておりましたよ。その「良い湯だな♪」のお写真をオスタちゃんからご送信頂きましたので、オスタちゃんにご連絡なさっては如何でしょうか?平松さん北尾さんの表情が極楽 極楽で本当に良いですよ~ 。私もおサル達に一族本家の伯母として混浴したかったわ!

真木弓子

写真は殆ど写していませんが合宿の解散直後に蓮池(現在は違う名前です)のバス停からジャイアント・コースを眺めてスケッチしました。思えば大学の冬の体操実技でスキーを選択しワンゲルの同期の仲間達と合宿の準備も兼ねてキスリングを背負いジャイアントの林間を全制動で必死に下ったことを思い出しました。今のコースとは少し違っているようですがお互いにあの頃は元気でしたね。

後藤三郎

1年の体育実技のスキーには、KWVからの参加がずいぶんあった。夜行列車で長野、志賀高原へ入り、確か丸池(蓮池だったか?)の下のほうでクラス分けがあり、今考えても無理があったと思うのだが、多少滑れたものは全員、ジャイアンツコースを下ろされて発哺へ入った。春合宿へ直結だったので、皆、大型のキスリングを背負っていたから、無残な滑降だった。最後の半日はKWVのメンバーは免除されて裏日本まわり、坂町から米沢まで、たぶん生涯一度の経験になると思うが米坂線というのに乗って五色温泉へたどり着いた。長かったなあ。

京王線埋め立て跡散歩

京王線調布駅前後の地域が地下化されて大分になる。調布市の触れ込みでは、跡地の整備もいろいろと夢のあるものだが、今日現在、まだまだ実現していない。ここの所運動不足なのと、いい天気だったので、調布駅からつつじヶ丘駅まで4駅分、まだ空き地になっている埋め立て跡地を歩いてみた。甲州、新甲州というメインの通りの間で、出現した空き地をはさんで、どうしようかと悩んでいるような感じの道家々が多かったが、シーズンだけに梅の花が見事な裏庭を拝見しながら3キロほどの散歩で、結構汗ばんでしまった。

後藤三郎さんへ (横河電機OB 舟橋利信)

(編注)舟橋氏は小生と横河電機同期入社、以来親友付き合いを続けている。横浜市大在学中はテニス部で活躍。3年次に教育大との試合で5セットマッチで7時間を超える死闘を制して名を挙げた。社会人でも実業団戦ではデビスカップ出場者との対戦(1勝1分け)もふくめ、武蔵野市民大会など(単4回復1回優勝)で活躍。コートを離れても青梅マラソンに47回参加した快男児、今は同期会(事務系入社18人)の永久幹事でもある。今回思いもかけないことで連絡あり、まことに世の中狭いことに驚くとともにおおきに楽しく感じた次第である。

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皆さん平均年齢に達したかこれから達するかの時期になりましたが全員元気のことと存じます。当方も昨年をもってテニス、マラソンの公式戦を引退しました。

ところで本日(2/18)武蔵野市のシルバー人材センター主催のパソコン教室に出席しました。3回目でしたが自分で習いたいテーマを申告して自分のパソコン持参で教えてもらうやり方の教室です。

今日はグループのメンバーのアドレスをいちいち入力せずに予めまとめて登録をしておき、その都度のメールのあて先入力を省力化するやり方の勉強申告をしました。このやりかたを同期会メンバーを使ってマスターしようとしている途中で、二番目に中司と苗字入力したところで講師(女性で名前は堀井麻耶さんです)から中司さんなら珍しい名前だが自分の父の兄弟に後藤三郎という者がいる。日本IBMに勤務していたが横河ヒューレットパッカードの中司さんと大変仲が良く共著で本を発行している。その方ではないかという話がでて、いやそれならそのとおりでしょうということになりました。

世の中本当に狭いですね。以上ご報告まで。
次回ハッキリ会での再会を楽しみに。

カメのアイデンティティー  (41 斎藤孝)

大変ご無沙汰しております。1月12日に開催されましたKWVのNYPでお会い出来てジャイ先輩からお言葉を頂戴しました。
「カメ、珍しくネクタイをしているな。」今年もKWVプランでお会いできることを楽しみしております。

さて、トンベから連絡がありましたブログの原稿の件です。ジャイさんのブログは有名ですから私も楽しく拝見しております。なかなか文化的で話題が素晴らしいです。トンベによれば「小舎番第2信」という記事だそうです。その原稿を私が担当させてもらいました。
雑文ですがお送りしますので宜しくお願いします。


S41年卒(1966年卒)のカメ、本名は大学卒業までは「亀谷孝」でしたが、1967年に母親の再婚先の名前である「斉藤孝」に改名しました。その後2002年になり顔にも髭を付け人相までも改造しました。変わらないのはカメという愛称だけですが、多くの先輩諸氏から未だ私の正体が明らかにされていません。容貌が加齢も加わり激変したことにもよります。さて自分は一体何者だったのか。

そんなカメのアイデンティティーを探るというが今回の小舎番の目的でした。うら若き乙女が「自分探し」にでも出かけたような清々しい時間を雪山で過ごせれば素晴らしいと思いました。雪の浅貝は50年ぶりですから何もかもが懐かしい。
新築された小舎は一代目とは変わっていましたが、乾燥室だけは玄関脇にあり変わっていないと感じました。すのこの上に寝袋を乗せ寒さを耐え、スキーの秘密練習に熱中したことがありました。水洗ウォッシユレットのトイレに座り思い出したことは、その昔の「ぼっとん便所」と汲み取りのWCのことです。雪道を肥桶をさげ天秤棒を用いて運搬しました。数回滑りましたが溢すことなく雪道には黄金のラインだけが続いていました。

「自分探し」の目的は、雪見酒と懐かしの山旅の歌を大声で吠えるという50数年前と変わらない結果に終わりました。これこそがカメのアイデンティティーなのではと納得できた小舎番でした。

2019年1月16日

下の写真は1964年の浅貝冬、左から2人目が22歳のカメです。右上の写真は2019年の年賀状で76歳のカメ夫婦です。

左から相川、本人、一番右がコブキ、その隣が下井(少し美男に撮れすぎ)

”むかし” の語り部として その3

KWV史上初めての分散集中方式で大成功を収めた八甲田夏合宿のあと、一連の夏のプランが恒例となった秋の涸沢集中で掉尾を飾り、荒木床平総務以下の名執行部は惜しまれつつ引退、1960年10月、われわれ(現在OB会用語によれば36年組)にバトンが渡され、小生を総務(現在は部長)に推薦していただいた。副総務は普通部から親友付き合いをしてきた田中新弥。毎日の部務をなんとか仲間に助けられて夢中な1年だったが、そこで直面した問題について、”ナンカナイ会ふみあと” 第12章から抜粋してみる。これはもちろん回想にすぎないが、現代の新しい学生と部活動のありかたについて、若い世代とくに現役諸君に読んでもらえればありがたいのだが。

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新たな希望と決意をもって責任学年になったわれわれだったが、もちろん、万事がバラ色であったわけではない。一言でいうと、中尾・妹尾・荒木と名総務のもとで受け継がれてきたKWVの伝統とか雰囲気とか言ったもの、それを象徴したのが25周年記念ワンデルングでの先輩各位との素晴らしい交流だったが、それをどのように継承していくのか、そもそも慶応のワンダーフォーゲルとはどうあるべきなのか、といった基本的なことで悩むことが増えてきた。その基本的な原因は何といっても人数の多さであり、それがそのまま、部活動に対する意識、態度の拡大といえば聞こえはいいがありていに言えば拡散であった。

このような状況は、KWVに限らず、当時のいわばブームのように全国規模でできた他大学にあっても同じだったようだ。日本山岳文化学会発行”山岳文化”14号(2013年11月)によると、第二次大戦後、一番早くWV活動を復活させたのは明治大学であり、これに続いて慶応、立教、中央、早稲田、というような順番で活動が再開された。1951年に国立大学として初めてのWV部が東大で発足したということであるが、その時、体育会に所属を申し込んだが”運動部は記録を目指している。ワンゲルのように記録を目指さない者は運動部ではない””相手に勝つことを目的にしない者は運動部ではない”ということで、結局、体育会に所属するまでに10年かかったそうである。この時代、旧来の文化や教育になじんできた人たちにはレクレーションをスポーツとして認めることができなかったからではないか、と筆者は指摘しているが、経済成長と呼応してレクレーションの普及、それと共に全国大学でWV部の創設はあいついだ。しかしどこでも山岳部とWV部とはたがいに強く意識し合っていた、とも言っている。全国の大学WV部の数は、大学進学率の高まりと比例するように増加、大量の部員(100-200人)を抱えた一部にあっては、訓練や命令系統が異常なまでに強化される例もあった、とこの報告は述べている。第二章でふれたが某大学WVとの遭遇でわれわれが見た(編注:北アの小屋で遭遇した某大学Wの ”しごき” の実態)のはその現実の一部だったのであろう。

さて、ここにのべた背景すなわち大量の部員をどのように統率すべきか、また山岳部とは異なった活動や思想をもつWVはどうあるべきか、と言ったことはそっくりそのまま、KWVの課題であった。いくつかの実例を思い出してみる。

1年部員の中に、5人ほどのグループがあった。いずれも高校時代から登山技術の教育を受け、実際のワンデルングにおける行動も十分信頼できるグループだったが、仲間の間での強固すぎるまでのチームワークが排他的になっていく一方、ワンダーフォーゲルとは山登りであるというかたくなな姿勢、などのため、何度かの衝突ののち、退部してしまった。彼らと会い、説得(大人数ではあったが、一度入部したものが退部する、ということは恥辱であると考えていた)するのに何人かの委員会メンバーが大変なエネルギーを費やした記憶がある。

Kというまじめな男がいた。好感の持てる人物だったが、残念ながら心臓の持病を抱えていた。Sという先天的に足首が外側に折れてしまうという奇病を持った1年生には、宮本健が浅貝のスキー合宿でほぼつきっきりで面倒を見たが、どうしてもスキーをすることはできなかった。彼らのように欠陥を持っていても、なお、ワンダーにいたいのです、という学生を何とか支援してワンデルングに連れていくべきか、それとも病気を持つ学生を激しい運動が避けられない部に許容すべきか。委員会の中でも大きな議論があった。

Rはこれもリーダー資格を嘱望されていた好青年だった。しかし彼は”現在のワンデルングには締まりがなく、参加者にも規律がとぼしい。このままでいいのか。この状態がつづくようならば、いつか事故を起こしてしまうのではないか。人数が多いなら多いなりにやるべきことがあるのではないか”、と問いかけ、”リーダー養成を受けたけれども納得がいかないので退部する”という意見を当時発行されていた”やまびこ”という部内紙に書き残して去ってしまった。

女子部員の急増もまた、いろいろな課題を提供した。”ふみあと”に掲載された、当時の代表的な見解を”ふみあと”13号から抜粋する。

体力的にも精神的にも差のある女子部員自身の問題・・・アクセサリーとしての存在で満足するか、苦しかったりしんどかったりしても部員として生活していくかのいずれを取るのか・・・理想は個性の一つに女性というものを持った一人前の部員であること・・・自ら”女の子”という枠を拵えて、萎縮したり甘えてはいけない。女の子だって部員である。体力の差というものは確かにあるが、精神、気力には差がないはずである…問題は気力・・      (佐藤順子)

合宿に女子班を作ろうという声が男子から出たことがある。男子と同じ班に何人かの女子部員がいると、消極性からいつまで経っても一人前の仕事ができない。自主性を養うため、というのが主旨だった・・・手段としてであっても、部に流れている雰囲気と逆方向・・・・共同生活を行う上で、女子がやったほうがいいといいというものもたしかにある。それを自分たちで選ぶのはよいが、女子だからということで目の前のものを回避するのは卑屈 である。      (小山田美佐子)

スキーから雪山へ、といういわば当然の歩みについても議論は多かった。雪山活動そのものに疑義を持つものは少なかったが、それには当然のこととして技術的、体力的な前提条件が伴う。KWVが文連団体であり条件を定めて入部を制限することには疑義がある以上、条件を満たさない部員も許容しなければならないし、部員である以上、部として活動制限を課すことはできない。したがって、プランごとにメンバーや参加希望者と話しあって、範囲なり必要な規範を決めていくしかない。トレーニングについても同様で、スキー合宿や大型プランの前には、リーダーが参加条件として定めることはやったが、体育会のように全員に同じように強制することには抵抗があった。このあたりは、引用した文献にもあるように、”異常なまでに強化された統制”に頼ることはわれわれの選択肢にはなかったのである。

このような現象は、つきつめていえば、ワンダーフォーゲルとは何か、という基本的な、それも”慶応義塾における”という限定詞のもとでの議論が徹底していなかったことに遠因があるだろう。われわれが入部する以前の”ふみあと”には、必ずと言っていいくらい、この種の議論が掲載されていた。われわれの時代にも、もちろん議論や文章はあったが、いずれも”どうするのか”が”なにか”に優先していたような気がする。弁解がましくなるが、それもやはり”人数の多さ”に起因するものだったといえるだろう。一時は廃部すら予想させるほど入部者が減少したものの、現在の現役部員数はある意味で理想的と思える規模になっている。その中で、”理想”と”現実”がバランスをもって実現されることを改めて望みたいものだ。