さらば愛しきアウトロー

不思議な映画だった。普通の映画なら見終わった後に、面白かったとかくだらなかったとか、凄かったとかなんとか、映写されたものに対していろいろな感情が湧くのだが、これにはそれがなかった。見た意味がなかったかと言えばそんなことはもちろんないのだが、考えてみると普通の映画にはその映画が切り取っている時代や世界や物語の背景などがあって、その中に自分をいわば投影してみている。見終わってみて、自分がその中にいない、いなかったことを実感して、改めてその映画を評価するのだが、この映画ではそれを見ている(いた)自分と見終わった自分との時間・空間的な隙間が感じられないのだ。つまり映画にあらわされた世界が自分の世界と区切られていないという気がする。

ロバート・レッドフォードは1936年生まれ、つまり小生と同い年(正確には数か月彼のほうが先だが)。アメリカが最高の時代に世の中に出て、ケネディからベトナム戦争をへてそれがもろくも潰えてしまった30年の空気を味わい、歴史が作られてゆく過程を目のあたりにしたある意味で同志でもある。そしてこれを最後に俳優稼業をやめる、と宣言して、自分がこれからどうしていきたいのか、それを画像にした、そういう映画なのだ。この映画には筋書きらしいものがない。タイトルから想像されるかもしれない悪人も一人も出てこない。活劇もなければお涙頂戴シーンもなければお色気話もない。じゃあ、なにがあるのか。

数日前のテレビで、かつて慶応野球部の最高のエースの一人だった天才投手志村が、”なぜプロに行かなかったのか” を語るのを見た。自分は野球が本当に好きだった。しかしいつかはそれと別れなければならない日が来る。その日を自分で納得して迎えたかったからだ、そしてそれが学生時代4年間の燃焼だったとわかったからだ、というのだ。感動した。それと同じ感動を、この映画は与えてくれた。レッドフォードが残る時間をどう生きるか、形はもちろんわからないが、それを費やしていく過程が自分に残された人生の燃焼のかたちと同じような気がしてならない。そんな気持ちにしてくれた2時間だった。

自分もいっぱしの映画ファンではあるが、こんな映画は今まで見たこともないし、たぶん、これからもないだろう。

 

”クラブハウス” 計画その後

ふとした思い付きの投稿に反応があったのに気を良くして、同志何人かに発起人になってもらい、プランを肴に何回か盃を重ね、素案ができた時点でこの趣旨について、いわばフィージビリティスタディとでもいうべき調査をさせてもらった。対象は昭和50年代以前の卒業生のなかから小生の知悉するかぎりで選び、合計263通発送し、6月末期限としたが7月14日まで来信があり、当日を最終として184人からご回答を頂戴した。厚くお礼申し上げる。

結果、このプランに賛意を表した人数は139人、反対2人、興味なし43人、であった。個人ベースの話であるから、回答の義務はないし、そもそも反対である人は回答しないはずと思って、はがきに ”反対” の選択肢を書かなかったらそのこと自体でえらく怒られた一件があった。反省。

さて、賛同票のなかで、運営費用を年会費のかたちで負担しよう、と言ってくれた人数は最終で45人である。いろいろな派生費用(安全、保険、ごみ処理、清掃)などを考えた素案を維持するにはこの人数だと当初予定した年会費では運営ができそうにない。月間2000ないし2500円、年にして2-3万円、というのが案だったがこれでも高い、というご指摘も多々あるので個人負担増額は論外となり、一方では賛同者からは期待の文面も数多いので、発起人グループで再度考えてみようという結論になり、お送りした原案は廃案に追い込まれた。

ご返事いただいた方にはできる限り全員に別途ご返事を差し上げたが、ここで状況と判断とを述べておく。

1.賛成票の非常に多くが、”かつての JIJI のような場所” と述べている。たしかに理想ではあるが、”かつて” われわれは勤め人であり、その帰り道に”銀座で一杯” というイメージがこころよく、中には ”客先接待伝票” を使ってくれた心優しきワルモノもいた。現在のほとんどすべての人はこのシチュエーションにはない。したがって、素案は基本的に気軽に安価で集まれる場所と機会を提供する、ことが狙いであった。このあたりの真意が良く伝わっていなかったのかという気がする。機会があれば、違う形で(たとえママがいなくても) JIJI再生ができるのではないか、というのがそもそもの動機なのだが。

2.賛成票の中に、OB会の事務局本部、という位置づけを持たせよ、というご意見もあった。そのほとんどが現在、個人事務所のご厚意で預かってもらっている部の歴史資料の保護に継続性の危惧を抱いておられるので、この件だけは別途、検討してもらえるよう、執行部には要請ずみである。

なお、仄聞によればこの資料保管場所を三国山荘にするという意見もあるようだが、小生個人として大反対である。たしかに ”我らが三国山荘にある”といえば聞こえはいいが、第一に物理的に問題がある(温湿度の差激しく文書の長期保存が不安、外部侵入者の危険あり)し、実質的に高年齢層のOBには浅貝まで行くことすら抵抗を覚えるようになっている現実から、この問題を提起されている方たちの ”気軽に部の歴史やOBたちの足跡をたどってみたい” という要求にこたえるには不向きである。 この案の背景には ”ま、とにかく保管しておけばいいだろう” 位の関心しかないのではないか。80年を超える部の歴史はもっと慎重に考慮されるべきであり、よき対案が示されることを願ってやまない。

3.1に関してだが、消極意見の中に ”我々の代ではすでになじみの場所があるから”という投稿もあった。このこと自体は素晴らしいことで、そのような場所のない人からすれば羨ましい限りだし、それをリプレースしようなどとは夢にも考えなかった。ただ、そのような場所が好ましいというのも、1にのべたような環境条件下にある、あるいはそれが続く、という前提があってのことだろう。後期高齢(!!)時代になればそれなりの前提が必要になるし、頂いた返事の中に、総人数が少く在京の”同期”がいない、という身につまされる話もあった。このような人たちにこそ、考えてもらえる機会だったのではと思うのだが。

 

2019年7月 月いち高尾 (39 堀川義夫)

 

7月の月いち高尾は城山にかき氷を食べに行こう!と言うことで15名の参加を得ました。

懸念された天気予報は終日曇りとのことでしたが、正にその通り梅雨空の下を楽しいワンデリングが出来ました。合宿の10日前と言うことで前日、あるいは前々日に合宿のトレーニングで景信山や陣馬山に行かれた方が連荘で来てくれた方が多くいました。

 

10時50分相模湖集合にもかかわらず10時30分には1人を除いて全員集合、バスを待ちます。10時55分バスが出て約10分ほどの千木良下車、11時10分に登山開始。月いち高尾としては第8回目に城山から下山に利用されたとか? 東海自然歩道の西尾根コースを行きます。登り始めは多少急な登りで蒸し暑く、どうなるかと思いましたがみんな元気で40分で一休み、約250m登ってきました。

立派なもんです! 眼下に相模湖を望み、アジサイが咲く山道を快適に城山到着12時30分、楽しみにしていたかき氷は残念ながら小屋が休業で食べられませんでした。来年のお楽しみに取っておきます。

 

下山は岡沢班7名で小仏城山北東尾根を日影バス停に下山、2時50分バス定着、3時13分のバスで高尾北口へ。テング飯店着3時30分。堀川班8名は縦走コースを高尾に向かい、もみじ台への登りは一番ハードな直登コースを行き、高尾の頂上には行かないものの稲荷山コースを下って3時15分高尾登山口駅到着、靴を洗って高尾へ、そしてテング飯店へ。奇しくも岡沢班と到着は同時となりました。

日 時  2019年7月10日(水)

参加者  吉牟田、遠藤、深谷、後藤、町井、多田、岡沢、以上7名は北東尾根・日影コース下山

翠川、三嶋、武鑓、藍原、河合、保屋野、伊川、堀川 以上8名は縦走・稲荷山コース下山。テング飯店参加者は、13名でした。

ご報告ありがとうございます。前日に大山に登って、今回不参加にしようと思いましたが,2年先輩の、武鑓さん、デシさん、藍原さんが参加するというので夏合宿5班のトレーニング山行の続きと考えて参加しました。結果、飲み会含め非常に充実したハイキングを楽しむことができました。ただ、さすがに、少々腰が痛みます。 ありがとうございました。42年 保屋野

ジャイさん年と共に大変になりますな、お互いに80歳を超えて1.5年しか経たないが厳しくなりましたね、1.疲れやすくなる 2.疲れがとれない 3頭が悪くなる(回転しない、記憶が駄目、一つの事しか出来ない)4見えない・聞こえない・体が動かない・その他沢山 こまっております。 私は内臓はまだ調子は良いので全体としては大丈夫な方でして 昨年11月から週1~2回は秦野から鎌倉迄テニスをしに通って(通勤は車で片道1時間強 クラブ入会には32年の荻原年先輩にお世話になりました)おりテニスで楽しく運動をと目論んでますが、なかなか思うように体は動けませんが大いに健康には役だっているとおもいます。今回も何時ものドタキャンで堀川さんや皆さんに迷惑をかけました、集合時間も遅くして私でも参加しやすいプランでしたが、何かあるときは早朝に血圧が上がってしまう(今回も180~190が出てた)のでこまります、時間が少したてば下がるのですが山の場合は慎重にしています、今回は秦野駅まで家から下りで30分程ですので良い空気の中ウオームアップを兼ね歩いたのですが、若干おかしいのでまた急遽欠席とさせてもらいました。   36年 岡

3日くらい前から便秘がひどくなり、昨晩は尻の穴から胃袋まで柱がと負ったようになって不快で一睡もできず、今朝、杏林大学の救急窓口へ行ってきた。いろいろ検査があったが基本的問題はなしとのこと。ただしここ数日間、便秘解消のための薬をのまねばならず、これにはタイマーなんかついてないからいつ爆発するか、わからん。諸兄にご迷惑をかけるに忍びず明日は欠勤。36年 中司

これはこれは、小生はむしろ会社時代の方が軟便と便秘と言う矛盾したような状態に苦しめられたことが多くあり、夜の接待が不安だった時期がありました。ストレスなんかも原因だったと思います。自宅に居るのが一番安心だ。静養したまえ!自然治癒が一番。  36年 翠川

 

 

慶応義塾普通部29年卒業同期会

昭和27年、まだ “戦後” であった時代,戦災のため天現寺の幼稚舎に間借りしていた普通部に入学した我々は翌年、日吉に新設された新校舎に移転、29年にめでたく卒業した。高校、大学へ進み社会に出た我々も 昭和・平成・令和と三つの時代を経験する、”ゴールド年齢層” に加わることになった。

それぞれ、精いっぱい生き、与えられた任務を終えてきた時代を振り返るとき、この普通部での3年間こそ、僕らのバックボーンをはぐくみ、慶応ボーイとして胸を張れる素地を作ったものだったと感じる。皆、80歳を数えたこの年、卒業65年を祝って京橋のレストラン モルチェに集まった。卒業時の5クラス合計は268人、残念ながら鬼籍にはいったもの88名、結果として66名が参加した。幹事として終始奮闘してくれた船津於菟彦、岡野嘉久両君にはあらためて感謝を申し述べたい。

今回の案内状にも書いたが、”中村草田男は

”降る雪や 明治は遠く なりにけり”

と吟じた。3つの時代を生きて、いま令和にはなったが、俺たちの日吉はいまだ遠からず、俺たちのすぐそばにいる。そういう思いを共有した3時間だった。

 

 

東北被災地再訪 (34 小泉幾多郎)

今回のボラ活地激励訪問プランに参加してきました。8年前のボラ活動が、亀井先輩が、打ち上げ式で言っておられたように、KWVが文連所属が故の滅多にない素晴らしいプランだったことが今回のプランで、認識することが出来ました。写真も関谷さんから、12枚送ってもらい、今回の楽しく過ごした思い出がよみがえりました。

小生の写真は、偶々宿泊地小渕浜の夕日と虹を撮ったものがありましたので、送信しておきます。

(今回の 通称”ボラ活”再訪プランは無事終了し、曾遊の地で思い出はなしに花が咲いたようだ。詳細はリーダーの河合君が次号ふみあとに投稿されるはずなのでそちらをご覧いただきたい)

2019年6月 月いち高尾  (39 堀川義夫)

6月の月いち高尾は八王子城山に行くということで当初18名の参加+テング飯店のみ1名と言うことでしたが、直前の2日間くらいで5名がキャンセルになり、参加は13名となりました。また、梅雨のさなかで開催が危ぶまれましたが、雨には全然合わず、午後には青空が出るほどで昨夜来の雨で木々はしっとりとして緑の色鮮やで、さほどの汗もかかず楽しいワンデリングが出来ました。

10時20分集合にもかかわらず10時頃には予定参加者全員集合、10時34分の陣馬高原下行きのバスで松竹(まつたけ)下車、ゆっくりしたペースで歩き始めました。途中、イノシシが掘り起こした穴が登山道を壊しています。相当の数のイノシシのいたずらだと思います。静かなやや直登気味の道をゆっくりと、途中1回の球形で12時10分ごろ頂上着。集合写真を撮って少し下ったベンチのある見晴らし台で昼食。13時10分心源院歴史古道を下山開始。下っては少し上り、下っては少し上るという結構疲れる道でしたが、途中、素晴らしい展望休憩所もあり、無事に下山完了。バス停に着くと間髪を入れずにバスが来て15時10分ごろ高尾北口に到着。テング飯店で恒例の打ち上げ。ビールが旨い季節になりました。

日 時  2019年6月12日(水)

参加者  吉牟田、遠藤、高橋、椎名、町井、岡沢、武鑓、藍原、久米夫妻、保屋野、関谷、堀川 13名

てんぐ参加者は、天狗岳に参加の1名が加わり12名でした。

昨日は涼しく快適な新緑ハイクを楽しめました。城山(八王子城跡)は麓に実家があり、昔よく登った山ですが、今回の登り、下りのルートは初めてで新鮮でした。                          42年 保屋野


昨日は絶妙の天気読みと時間配分で有難うございました。
報告書1ケ所、休憩(球形)の変換違いありました!                      40年 武鑓

 

 

喫茶店とのつきあい (1)

今考えても楽しかった普通部での3年を終えて高校に入学するとすぐ、新聞会に入った。当時は全国の主な高校には学生新聞があり、コンテストなども行われていたが慶応高校の Highschool News は常に別格扱いされる、内容も編集技術も抜群の存在だった。編集長のYさんはまるで別世界の人のように大人びていて、それを支える上級生も神様のように見えた。あの、どっしりとしたコンクリート3階建て、冷え冷えとした日吉校舎の2階、206号室の鉄製の重いドアを開け、隅に座って上級生の声がかかるのを待っていたのが懐かしい。

夏休み前になってYさんから、僕ともう一人の1年生、藤本恭(一時創刊間もない“女性自身”の編集長などを歴任した職人肌の好漢だったが、2001年に急逝)の二人(考えてみると藤本ではなくてカメラが職人裸足だった船津於菟彦だったかも)で、喫茶店探訪を命ぜられた。当時の普通部は学外の行動にとても厳格で 保護者なしでは映画館にはいることもできなかったくらいだから、渋谷や銀座の喫茶店を”探訪“するなどおっかなびっくりだった。初めて入ったのが渋谷の”“という店だったのだけは覚えている。ここはまだ同じ場所( 建物は当然変わってしまっているのだが、そうだと思っている)で営業しているのがうれしい)。

これが僕の”喫茶店”というものとの付き合いのはじめなのである。高校時代は日吉駅の北口を出たところにできた“巴里苑”(普通部3年の時までは丸善だった)くらいしか覚えはないが、大学に入ってからは自由が丘が便利になり、ちょくちょくと映画を見に行くことが増えた。南風座とロマンス座というのがあって、横山美佐子とたしか阪田清なんかがいたような気もするのだが、数人で入ったものの座れず、後ろから背伸びしながら“シエーン”を見た記憶がある。そんなことがきっかけで当時まだ珍しかったジュークボックスがおいてあったセ・シ・ボン”という店を見つけた。学部は違ったが授業の空き時間が偶然に一緒だった住吉康子と彼女の友人中島教子など何人かでよく出入りした。サム・テイラーの”ハーレム・ノクターン”や”夕陽に赤い帆” なんかが流行りだしたころである。

三田へ通うようになると、やはり地の利で銀座界隈へ出る機会が増えた。当時あったルノーのタクシーを使うと90円で映画街までいけたから、部室で何人かまとまれば150円で映画を見て、というのが自由が丘にとってかわった。山へ行っている以外には、酒の好きな連中は別として、当時は映画か、僕はやらなかったが麻雀くらいしかパスタイムの選択肢がなかったから、時間を過ごす場所として喫茶店、というのがごく当たり前だった。インテリを名乗る連中は“田園”とか“らんぶる”などの”名曲喫茶“を好んだし、”バッキー白方とアロハハワイアンズ”なんてのが出ていた“ハワイアン喫茶”や”銀巴里“などシャンソン喫茶などいろんなバリエーションが出現、言ってみれば喫茶店文化の絶頂期だったのだろう。このころ売り出し中だった“クレイジーキャッツ”を見に、田中新弥や小川拡、広田順一など高校時代のクラスメートと”ジャズ喫茶“と称する店にも行った。中でも新橋にあった”テネシー“はちゃんとしたポピュラーの生演奏がきける大変な人気の店だった。ここで聞いたなかに ”世界は日の出を待っている“ があって、新弥が偉そうに解説してくれたのをなんとなく覚えている。某日、飯田昌保が通ぶって”ここはいい店だ“というので、”エリザベス“というところへ入ったら、店中女の子しかいなくて、二人で小さくなっていたことがある。出がけによく見たら、”パフエ専門店”とあってふたりで妙に納得したこともあった。ここだけはさすがにその後も出入りはしなかったが。

このころからまだ通っているが昔通りの雰囲気が健在なのが新橋に近い”エスト“(さすがにLPレコードではなくなったが、ウエイトレスの制服からテーブルクロスまで、見かけは全く変わっていない)で、銀座へ出れば3回に1回ぐらいは今でもよく行く。銀座界隈の店も当然淘汰があって、なじみは減ってしまい、最近はこのウエストか、あづま通りの”トリコロール“がお気に入りである。ここは1階のカウンターを担当しているベテランの何人かの店員応対が暖かく感じられて、長居を過ごさせて貰うことが多い。

高校が四谷近辺だったせいであの辺りに詳しい八恵子と良く通ったのが紀尾井町の先にあった”清水谷茶房“だが、ここも廃業してしまった。いい雰囲気の静かな店だったが。当時のまま健在なのが新宿、旧三越の裏通りにある”ローレル”だ。オーナーはまだ変わっていないらしく、昔話をして喜ばれたりした。

会社勤めが始まると最初の勤務地は三鷹だった。同期に入社した曽山光明が成蹊の出身で吉祥寺に詳しく、あちこちとよく連れて行ってもらった。 洋菓子専門の”メナード“とか、”ルーエ“なんかがそれだ。5-6年前の話だがルーエのほうは同じ場所にまだあった。その後、やはり曽山に教えてもらった” 檸檬“は小さくてとても居心地がよく、本を持ち込んで長居したものだったし、いま、第一ホテルのある当たりの裏手にはほかにも”春風堂”とか家庭的でくつろげる小さな店がたくさんあった。最近吉祥寺が住みたい街としてよく出てくるが、僕に言わせると昔のほんわりとした雰囲気は消え失せてしまった、月並みな繁華街としか思えないのは残念だ。

(掲載した写真は新聞のコピーのほかは最近撮ったものである)

2019年春季日帰りW

野山に満ち溢れる新緑を訪れる、というのが ”春ワン” のテーマのはずだが、今年は何しろ異常天候、まるで真夏のような1日だった。

5月25日、予定通り開催。相模湖周辺の低山歩き、有名な石老山から長いコースでは高尾から陣馬山を越えてというのもあったが、今回の参加者合計は107名。最年長33年の荒川先輩から平成最後の卒業となった安部(あんべ)君まで、これぞKWVの真骨頂ともいうべき、”縦のつながり”、大家族の雰囲気が横溢した楽しい1日を過ごした。

BC地での散会後、まだ日は長く、グループごとに高尾、八王子あたりで二次会がにぎやかだったようだ。次回は北アルプス夏合宿での再会を待とう。

今回の写真は51年斎藤邦彦君の提供。当日のほかの写真は彼のFBで閲覧可能なのでぜひご覧いただきたい。

”82年同期会―俺達のYHP”

1982年4月、YHP 入社の人たちの同期会があり,お招きにあずかった。光栄なことだ(もっとも ”来賓” でも会費をしっかり取るあたり、いかにも ”動物園”の異名をとった集団だと妙なところで感心)。1982年、といえば小生はその前2年間、親会社横河電機へ出向していて戻ったところ、”エッチピー” 文化、が微妙に変わり始めた時期だった。 人事の親玉だった故青井達也さんが、”ジャイよ、YHPも千人を超えた。これからは大きくかわるぜ” とつぶやかれた記憶がある。青井先輩が言っておられた意味が、古いものへの郷愁だったのか、新しいものへの期待だったのか、判然とはしなかったが。

Ever onward, guys !

1982年入社、大学高専高校あわせて371人の新卒が八王子にやってきた (誠に残念だがうち7人が鬼籍に)。人事担当増田君が ”先着順で採用したようなもんだ” と得意のブラックジョークをとばしたように、受け入れから配置、教育までそれまでの会社組織として未経験の体験だったろう。しかしこれが混乱ではなく、誰かが(今となっては不明だがたぶん故小林戴三君あたりだったか?)いみじくも ”動物園” 世代、と名付けたように、ありとあらゆる ”生き物” が 雑然たる中に暗黙の規律 を保っていたのがこの時入社した諸君だったと思っている。この会合はすでに何度か開かれているとのことだが、公式なOB会組織は別として、”同期” という感覚、おそらく軍隊をのぞけば世界広しと言えどもわが日本の中にしか存在しえない連帯感、がこのような人間集団を生み出したのだろう。

このすばらしい連帯感、これを会社、というメカニカルな組織の文化として作り上げた、そしてそれが日本ではなく個人第一のアメリカという風土の中に生まれた、今では現社員の間では死語になったようだが ”HP Way” のもとで芽生えたものであろう。われわれも”動物園”諸君もその中に育まれたことを幸せに思い、光栄だと思っている。

この ”HP Way” も皮肉なことにヒューレット・パッカードの繁栄の中で、いつしか消失してしまった。青井さんが見抜いておられたいわば歴史の必然だったのだろうか。HPのクラウンプリンスだったジョン・ヤング、そのあとを任されたリュー・プラットは ”HP Way” を常に語ったし、組織の巨大化に伴う無機化、官僚化をなんとしてでも防ごうと努力していたのを僕も何度も見ていた。それが会社の実態の変化(電子計測―プロの市場 から コンピューター 大衆の市場 への)とともに、皮肉に言えば会社実績の上昇とともに退場してしまった。それに拍車をかけたのが ”グローバリゼーション” という魔物だった。

いつのことだったか思い出せないが、ミスター・ヒューレットが ”地球上どこへ行っても電流は同じ方向に流れる” と言われたことがあった。ぼくはこれが”グローバリゼーション”の原点なのだと思っている。その後HPは独自の発想で完成した HPIB の技術を公開し、これが世界共通の基本技術として定着した。科学の世界におけるグローバリゼーションにはいささかの疑問も存在しないことのひとつの証左だろう。経理の世界では税務措置を大前提とした伝統的な会計システムに並行して通称”マネジメント” と略称された管理会計システムがジョン・ヤングのもとで導入され、経営の視覚を明瞭に、公正なものにした。ここまではグローバリズムの成功例としてだれもが認めることだっただろう。しかしその世界標化の流れが、”人間” ないし ”文化” をも包含する域までの話となっていったのが80年代後半から90年代へかけてのhpだった。谷勝人さんがアジアパシフィック本部へ栄転され、のちに社長となられた時期は歴史的に見るとこのような流れの中だったのだ。今度の会の冒頭、次代を振り返って甲谷さんが述べられた事実は当時中堅的な立場にあった82年同期生が真正面から取り組まれた課題であった。いろいろなエピソードを聞きながら当時を懐かしく思い出したことだった。

ただ、その後、人事を担当していた僕には、甲谷さんのご苦労には申し訳ない気持ちがあるが、この ”グローバリゼーション” 志向をすべて肯定し賛同する気持ちにはなれなかった、ということを告白する。一部の方々からは強烈な反対反抗を受けた、伝統的部課長制度の廃止とか、人事部諸君のご苦労の結果できあがった新・給与システムとか、労働組合との関係改善、といったあたりまでは、自分がやろうとしていることが ”グローバリゼーション下のYHP  にとって進むべき道だ”という信念があった。しかしアジアパシフィック本部(この地域性に着眼した管理体系はほかの企業でも同じようだが、僕はこの地域による位置づけをヨーロッパにおける場合と同様に考える、という発想自体が間違っていた、あるいはいる、と今でも信じている)の下部にYHPが位置付けられるようになり、その文化的要素まで世界標準にあわせて考えることが暗黙の要求になってからは、疑問煩悶が絶えず、自分の立ち位置の自己矛盾に悩む日が増えたものだった。このあたりはすでに老人の繰り言に過ぎないが。

そのような悩みに向き合う前、ビジネスコンピュータ部門で苦楽を共にした”いっぱち”の18人や、その後東京支社で ”東部には負けるな” と(今回、元気でいれば当然招かれていただろう片岡嗣雄、あのふくれ面が無性に懐かしい)疲れを知らぬ活躍をみせてくれた ”動物園” 世代の底力に助けられたのがぼくの営業時代だった。その懐かしい面々の還暦顔をまぶしく見た、楽しい時間だった。

”yhp82” スタッフのご厚情に改めて感謝する。

 

 

6月 月いち高尾 報告 (39 堀川義夫 36 後藤三郎)

2019年の5月13日(月)は久しぶりに従来の方法で高尾を楽しむことにしていました。事前に出席希望者は申し込んでいただきましたが、当日集まったメンバーでコースを分けてそれぞれワンデリングを楽しむことにしていました。ところが、2日前まで参加予定者は22名となっていましたが、2日間の間にあっという間に5名がいろいろな都合でキャンセルになり、当日西澤さんが予告なしで参加になり都合当日の参加は18名となりました。かく言う私自身も家内の思わぬ体調不良で参加できなくなった次第です。従いまして、今月の報告は岡沢さんをリーダーにお願いし、皆さんからの行動記録や写真を編集したものです。悪しからずご了承ください。(岡沢さん、後藤三郎さんの行動記録に一部加筆、訂正をさせていただいています。ご了承ください)

 

日時  2019年5月13日(月)

参加者 楽々コース 船曳、平松 2名

びわ滝コース 吉牟田、後藤、相川、福谷、関谷、蔦谷、岡沢 7名

稲荷山コース 遠藤、翠川、深谷、小泉、椎名、町井、多田、西沢,三嶋

9名 合計18名  てんぐ参加者は 15名でした。

 

  • 楽々コースの2名は、リフト利用でのんびりとエスコートなしで行っていただきました。
  • 琵琶滝コースは リーダー岡沢で初めて参加の福谷さん(小林章悟さんの妹)を含め7名で沢沿いを行きました。琵琶滝神社にも寄り、大山橋で小休止(11時)をして沢の中の石を渡り、最後の急な階段を15分登ると山頂に付きました。山頂は遠足の小学生で占められていました。細田小屋に11時55分に着きましたが、細田小屋は休業しているというまさかの事態でした。楽々コースの平松さんと船曳さんはもみじ台のベンチで待っておられました。稲荷山コースは三嶋さんがリーダーで山頂への急階段は避けてう回路を利用して12時過ぎに到着。下りは12時40分に発で逆沢林道(郵便道)を誰も会わずに25分で日影林道に到着し、カキパーティの会場となったキャンプ場で小休止して時間調整して14時13分のバスで高尾北口へ到着しました。

てんぐ飯店は14時45分から開始して16時45分には恒例の集合写真を撮り、解散しました(岡沢記)

  • 好天に恵まれ予定通りに高尾山口駅に集合し、10時少し過ぎから稲荷山経由、琵琶滝経由、リフト利用での三班に分かれて新緑のまぶしい登山路を歩きました(総勢18名)。頂上には小学生の団体などが大勢がおりましたので休む間もなく細田小屋に向かいました。残念ながら今日は小屋はクローズでしたので、いつもの”なめこの味噌汁”などなしで小屋の前のベンチで昼食をとりました。記念の集合写真の後、12:50分には下山開始し小屋の横の作業路を一気に降りましたので13:30分過ぎには裏高尾キャンプ地まで来てしまいました。ゆっくり休憩をとり14:13分のバス(超満員)で一路高尾駅に直行、15:00時前には天狗の客として飲み始めました。これまでの高尾山の山行では最も早い時間に天狗に到着したようです。岡沢リーダーの適切で確りした指揮により全員無事に春の高尾を楽しみました。帰路皆様からの提案を頂戴し途中下車して天狗の料理の一部を急に来れなくなった中司ご夫妻に届けましたので併せてご報告いたします。私の写真を添付しますのでご覧ください。(後藤三郎記)

 

 

細田小屋にて

 

(福谷)私の方は皆様にご親切にして頂き、新緑の中気持ち良く歩く事が出来ました。普段の運動不足のため、筋肉痛のおみやげがありました。又宜しくお願い致します。

(深谷)膝を痛めて暫らく遠ざかっていた月いち高尾に久方ぶりの参加でしたが、お蔭様で無事に完走でき、復活を実感できました。ありがとうございました。