高尾は休んだけど元気だよお (34 小泉幾多郎)

 陣馬山ご苦労様。上り2時間登れれば、まだまだ大丈夫。小生の腰の方、前かがみにならずとも歩けるところまで回復しました。

 1月の初めに、2年ぶりで映画館に足を運んだら、今度は自分の意思ではないのに、ここ1か月の間に、音楽会に出掛ける機会を得ましたので、報告したくなりました。本日、11日、家内の同級生のご子息が、近くの大倉山記念館ホールで演奏会を開くので、2枚チケット購入。ご子息はチェリスト石黒豪、今回は、Gourmand Ensemble というチェロのほかオーボエ(桃原健一)箏(高橋てるみ)ピアノ(片岡直美)によるアンサンブル。アンサンブルの名前がグルメによる食いしん坊なのか?食いしん坊から愛をこめてという副題がついていた。演奏曲目は10あったがクラシックでは、例えば有名な白鳥をチェロと箏で演奏、この度は組み合わせでは初めて聴いたが、何とも優雅でした。他に5曲。映画音楽3曲、最後はカルメン組曲より5曲。変わった楽器の組み合わせでしたが、楽しめました。

 1月20日、日立フィルハーモニー管弦楽団による定期演奏会於すみだトリフォニーホール。友人の会員からチケット1枚あるのでと誘われる。指揮者が女性の新田ユリという人。女性の指揮者は西本智実、松尾葉子等は知っていたが、この人は初めて知りました。曲目は、ラフマニノフの交響曲第2番ほか、甘美なる旋律の流れが寄せては返す感情の波に覆われる55分の大曲で、女性らしからぬ統率力でオーケストラも熱演。偶々2月1日らららクラシックというNHKの番組で、この曲を解説していました。

 2月9日、神奈川フィルの定期会員である友人が、急に所用で行けなくなってしまったので、代わりに行ってくれというので、喜んで行きました。みなとみらい大ホールで、指揮は常任の川瀬賢太郎で曲目はマーラーのリュッケルトの詩による5つの歌曲(藤村実穂子独唱)とハンス・ロットの交響曲第1番。前者は名だたる欧米の歌劇場で絶賛を浴びてきた日本の誇る名歌手。当然のようにドイツ語の歌詞を暗譜で歌い、うっとりと聴き惚れていました。ハンス・ロットという作曲家は初めてで、マーラー誕生の2年前に生まれた天才作曲家ですが、25歳で夭折してしまったとのことです。プログラムによれば、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー等ドイツロマン派の響きに、マーラーを先取りした新しい響きも随所に聴こえてくると。小生には、よくわかりませんでしたが、咆哮という言葉が、これ程当て嵌まることがないと思えるほど、金管楽器をはじめ、これに伍して弦楽器も含め、その音量に圧倒されました。あとでわかったことですが、同じ日のN饗のパーヴォ・ヤルヴィ指揮による定期演奏会も同じハンス・ロットの交響曲第1番が取り上げられたとのこと。ということは、そのうち日曜日21時のクラシック音楽館で、この曲が放映されると思われます。それにしても滅多に演奏されない曲が同日に東京と横浜で演奏されるとは信じられないことでした。

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(中司―小泉)月いち高尾で椎名さんから伺いましたが、腰の具合いかがですか。小生一応定番コースなる方に行きましたが、どうも上り2時間くらいが限界かなあと考えさせられました。やれやれ。

オヤエは焦って マリアカラス の最終日に駆けつけました。小生は遠慮しましたが。

2019 2月 月いち高尾報告 (39 堀川義夫)

2019年の2月の月いち高尾は暖かな晴天ではありませんでしたが、悪天候のはざまでそれほど寒くもなく楽しい山行でした。本来なら陣馬の茶屋で餅つきをする予定でしたが、茶屋の主人が肺炎で入院と言うハプニングで餅つきは中止になりましたが、予定通りに陣馬山を楽しみました。参加者は総勢20名で、てんぐ飯店は18名の参加でした。

日 時 2019年2月8日(金)

参加者 楽々コース 椎名、翠川紀子、立川、堀川 4名

定番コース 遠藤、吉牟田、後藤、高橋、翠川、中司、平松、町井、三嶋、多田、河合、藍原、武鑓、浅野 川名、岡沢 16名

楽々コースは、堀川が横浜線が不通とのことでメンバーに連絡をしながら家を飛び出し駅へ。幸い電車は動き始めていて藤野には予定より1本早く到着。4人でタクシーで和田峠へ。タクシー代3160円。ここからの登りも楽々コースで巻き道を利用して約30分、11時35分に頂上に到着。残念ながら富士山は見えない!

定番コースは横浜線の遅延があったが、全員予定の9時34分に乗車して、10時10分に陣馬高原下に到着。バス停にあるトイレが凍結のため使用禁止張り紙があり男性は外で連れ?? 10時15分に出発。車道を約20分歩いて陣馬新道コースに入る。途中、かなりの急登があり女性は足を持ち上げるのに苦労する。また、木の根が張り出していて引っかからないように注意を要する道だった。この道は、下りには不向きな道だ。尾根に出ると楽で予定通りに12時到着、楽々コースの4人を加わって記念の集合写真。清水茶屋が開いていたのでなめこ汁を飲んで昼食をとる。12時45分に下り始める。15分ほど下って所用のある遠藤、多田が和田のバス停に下山。残りの18人は幅広の穏やかな下りをおしゃべりをしながら途中一ノ尾テラス防火用水で小休止して落合バス停へ。

14時58分のバスに乗って藤野駅15時05分着。わずか5分で電車に乗り換え高尾へ。全員でてんぐ飯店へ。何時もの料理、何時もの焼酎、一人2000円で少しお釣りも来た。17時過ぎに解散!

白銀の後立山です! (39 西澤昌幸)

今週月曜日から白馬・岩岳に行ってきました。幸い好天に恵まれ白馬三山をはじめ、後立山連峰全体が望めました。テレビ東京の「ガイヤの夜明け」で紹介された岩岳の山頂に昨秋新築された展望テラスより撮りました。お楽しみください。

(中司―西澤)

ありがとう。岩岳ねえ。僕はここは2度くらいしか行ったことがありませんが、山頂でコーヒーを飲みながら、白馬の絶景に息をのんだことを鮮明に覚えています。高校1年の夏、(当時の)信濃森上から(まだあるのかな)成城のヒュッテを越えて山頂へたどりつき、大雪渓を興奮しながら降りて(3号雪渓のあたりで落石に肝を冷やしたのが、ワンダーにつながることになりました。田中新弥、浅海、飯田オベイとはそれ以来の腐れ縁です。昨年の西穂でたぶん北アは見納めと思っていますが、こういうのを見ると !!  になるようです。

PS
昨日の陣馬餅つきハイク、小屋の都合で餅はだめでしたが、高尾とは打って変わって静か、全行程で出くわした人は10人とおらず、僕らの独占でした。寒かったし、富士は見えませんでしたが。また、3月。

”吉田茂” と ”プライムニュース”

チャネル560で再放送された吉田茂についてのセミドキュメンタリを観た(正式なタイトルは覚えていない)。

ドラマ自体はよくできていたという印象だが、同時に、終戦時の混乱にあって吉田を助けた白洲次郎のことを聞いてはいたがよくわからなかったのが、このドラマであらためて理解することができた。昭和21年に満州から復員した僕の父親はすぐ勤務先のカネボウに戻り、混乱期の立て直しに苦労したひとりとして政府との交渉にもたずさわっていたようで、ときどき母に白洲のことをこぼしているのを子供心に?と思いながら聞いた記憶がある。そのおぼろげな感じからするともっと凄みのある、ある意味では暗部のあるような人物に思えていたので、谷原章介ではすこし清潔すぎ、軽すぎる感がして多少物足りなかった気はする。

田中圭が演じた長男健一との確執についてはよく知らなかったが、拾い読みしたことのある彼の文章などを考えてみると、役の演じ方がその割に清潔すぎて物足りない感じがした。父親への反抗はもっとどす黒いものだったのではないか、と感じたからである。またサブストーリーに出てきた街娼と若い役人のエピソードはやらずもがなの感じがないわけではない。おそらくこの挿話はロマンスとしてではなく、日本の一般女性をセックスハラスメントから防ぐため、という今では考えられない ”お上” の発想ではっきりいえば公娼にさせられた女性たちがいた、ということをいいたかったから作られたのだろう。その意味では、昨今議論の絶えない例の慰安婦問題はもっと至近な問題なのかもしれないではないか。

幾つかの重要な転機についての描写はよく理解でき、戦争直後から講和条約に至るまでの過程でなるほど、と再認識することも多かった。吉田が自分は外交屋で政治屋ではない、と吠える場面があるが、たしかにあの場面で変に理想ばかりを追求する二流政治家が排除されたのは日本にとって非常に重要なことだったように思える。いやだろうが、くやしかろうが、今、現実に日本を支えられるのはアメリカしかいねえんだ、それがわからんのか、という判断は正しかったということを今のぼくらなら理解できる。

2日後に、今度はプライムニュースで今の韓国事情についての討論を観た。政治家のことはよくわからないが、出席していた小野寺氏は僕が好感を持っている数少ない一人で、冷静で穏やかな議論にはいつでもうなずくことが多い。しかし今回は、同席していたもと韓国駐日公使、洪氏の ”いま、韓国の人たちの考え方と文大統領の政治手法は全く違っている。その意味で、日本の人は韓国を知らない。日本の人が相手にすべきなのは韓国の人で文ではない” という主張には非常に強い説得力があった。小野寺氏やほかの番組でではあったが、元防衛省の森本氏も同じことを言われていた。とにかく、いまわれわれは必要以上に感情に走ることを戒め、法治国家としてのありようをおしすすめるべきだ、というその結論を併せて考えるに、ぼくらにいま必要なのは、混乱期に吉田が示した ”政治屋でなくて外交屋” の現実感覚なのだろうという気がする。

成人式に思い出すことなど (普通部29卒 船津於菟彦)

今日は「成人式」で町には着飾ったお嬢様方が沢山歩いていて、全国で晴天の成人式は珍しいそうです。平成10年-1998年-に生まれか方々が今年成人式を迎えるわけです。大きな区切りがあるわけでは無いですが、やはり「大人」として自立していく区切りかと思います。

さて、わが人生を振り返ると昨年傘寿を迎え、「成人式」とやらは60年も前になるわけです。総てはおぼろ。朧。
「今どこと戦争しているんですか」-校長先生-「ハーィ鬼畜米英」と誇らしげに小学一年生の入学式はゲートル巻で戦闘帽姿でした。

時は移り1958年慶應義塾は創立100年を迎えました。高校では新聞会にはいり、写真を担当していました。脚立を新聞社のカメラマンよろしく持った1枚。カメラは多分プレスバンだったと思う。

外回りで臨席された天皇の車などを追って撮影。(偶然ネガが奇跡的にありました)

 


1960年はあの早慶六連戦があり、大熱戦。
昨年の早慶戦と同じ様な事でしたが、あの頃の六大学野球は今と比較したら遙かに人気があり、早慶戦などは入場券を確保するのがよういでは無い位の人気でした。早朝から普段開いていない信濃町駅の神宮外苑口が開き、そこから神宮まで急ぎ足で、行き早朝から試合の始まるまで応援合戦が続きました。新聞会にいた僕は週刊誌スタイルの早慶戦特集号という雑誌を作り、売り歩きました。
女性のチアーリーダーが登場したのもこの時でした。慶應は早慶戦で2勝して勝ち点を取れば優勝を果たす。一方早稲田が優勝するには連勝するか、2勝1敗で慶應と同勝ち点・同率となって優勝決定戦(勝ち点・勝率がリーグ戦全日程終了時にともに同じ場合は、規定により直接対決の成績などに関係なく1試合制の決定戦を行う。引き分けがあった場合は勝敗が決するまで再試合を繰り返す)に持ち込み、勝てば優勝と、慶應より厳しい条件となってしまいました。長く他校の後塵を拝してきた慶應にとっては8シーズンぶり優勝のチャンス。
慶應は投手に清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽弘と実力者を多数そろえ、打線も六大学最高打率を更新した榎本博明や、後にプロ入りする安藤統夫、大橋勲、渡海昇二ら強打者を擁していましたし、対する早稲田は安藤元博、金沢宏の両サブマリンが投の軸でしたが、前年春季リーグでベストナインに選出された金沢は、練習中に指を痛め登板に不安を残す。野手陣は木次文夫、近藤昭仁といった好打者が卒業し、野村徹、徳武定之を中心とした守りのチームとなった。戦力的には慶應優位と言われており、優勝争いで一歩リードしていることから、この早慶戦を慶應優勢と見る声が多かったようです。

試合は一日目1対2で慶應の負け。二日目4対1で慶應の勝ち。三日目0対3で慶應の負けで。優勝決定戦。四戦目は1対1で日へ没引き分け。照明設備が無かった。そして第五日目は一日おいて開催され、またまた引き分け0対0。
第六戦目 早稲田はこの試合も安藤元を先発させた。6戦中実に5度目の先発、もはや安藤元に命運を賭けた。慶應も頼みのエース角谷を立てて双方ともに気力の勝負となったが、先制したのは早稲田だった。慶應は5回裏に1死満塁とこの試合最大のチャンスを作る。併殺崩れの間に1点を挙げ、なおも安藤統が痛烈なライナーを放つがライトの真っ正面に飛んでしま医、万事休す。安藤元は連投の疲れも見せず、この後も慶應の追撃を抑えて15時10分、ついに6戦にわたる1対3で激闘に終止符が打たれ、早稲田が3季ぶり20回目の優勝を果たした。

優勝特集号の号外新聞を作るべく毎日のように写真を入れ替え、輪転機を廻すだけにしてありましたが、残念ながら幻の号外になってしまいました。

安保闘争もありましたね。銀座四丁目の地下鉄出入り口の屋根に登り、晴海通りの道路一杯に広がる仏蘭西式デモ等も撮影-。樺 美智子(かんば みちこ)さんが1960年6月15日安保闘争で死亡、連日国会周辺はデモ闘争が続きましたが、国会での撮影はやっていませんでした。

こんな青春が二十歳でした。総て「おぼろ」忘却の彼方へと。

因みに、新成人の人口は125万人との推計となり、新成人の数は去年2017年と比べると2万人の増加、昨年に続き9年連続で総人口に占める新成人の割合が1%を割り込むことも確認されています。

閑人会亥年はじめの報告 (44 吉田俊六)

閑人会より亥年第一報を言上。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。S44卒業の「閑人会」も看板と実態が重なりはじめ、3回目の七福神めぐり参加者は14名。深川・浅草についで、今年は「山の手・新宿の七福神」約2万歩を走破。聖俗あざなえる度合いは今回のコースでより鮮明。出発点の御苑前からすぐに新宿二丁目、ゴールデン街、歌舞伎町、新大久保、要所要所の鎮座まします国際色豊かな出自の神々をお参りし・・・第七:神楽坂の毘沙門天の現世利益あらかたにて、生き弁天と邂逅!(婀娜な襟足のお年玉を、共有頂きたく添付仕らん)。勇み足でお伊勢さんの東京支社までお参りし、血液型別おみくじにて落着。さらに、新年会を兼ねての神田のすっぽん鍋(三回目)で回春を祝いました(個人差有るも同音異義の“回春と悔悛”が隠し味。深い味わいがございました)。

 

生き弁天様の後ろ姿に一同沈黙

*印: 恵比寿が日本(神道)、大黒天・毘沙門天の2神がインド(仏教)、弁財天が同じくインド(ヒンドゥー)、布袋・寿老人福禄寿の3神は中国(道教)・・・純国産は1/7!

 

蛇足1:それにしましても、超メタボや長頭などいじめの対象になりかねない外観の方々を神様に祭り上げて価値の返還を成し遂げた先人の優しさに、尊崇の念新。

蛇足2:大切なモノは海の向こうからやって来る・・・“ニライカナイ伝説と宝船”が同船しているのも面白いですね。インカの人たちにとって白い神が海の向こうから来るとの神話がトンデモナイ被害をもたらしたのですが、ぺルリの黒船はこれからの歴史でどのように解釈されていくのでしょうか。“You 達うようよ”の雑踏にまぎれて少し揺らぎを感じた初歩きではありました。

吉田―中司
ご無沙汰しております。
s44の はしくれ 1月年の初めの挨拶をもうしあげます。本年もよろしくご指導賜れますよう、お願い申し上げます。(恵方巻きの宣伝チラシが視野を席巻しているこの時期、かろうじて1月中に)年初の七福神めぐりのご報告仕りたく、
ご容赦いただきたく存じます。
ついでのように私事で恐縮ですが、昨年4月半ばから 430時間特訓「日本語教師養成」コースを昨日1月30日づけで、なんとか、修了いたしました。
調布市内の日本語に不自由している生活者のためにボランティアとしてお手伝いする機会などあれば、(この資格で、行政の方々も委嘱しやすくなるのでは
ないかなどと未熟ながら思う部分もございます)。

日平会新年会―普通部同期生各位へお知らせ (29年普通部 船津於菟彦)

(編集子注)

日平(ひびら)会はS29年普通部卒(大学卒業36)同期のうち、一風変わった人間の集まりである。かつて帝劇地下にあった同名の店で集まっていたためこの名前となった(その後日平亭の都合で場所を帝国ホテル内三田倶楽部に変更)。

A-E5クラスの中でもC、D組には曲者がそろっていて(編集子はE組)、がやがやと良き古き普通部生活を謳歌した仲間である(外部の人には理解できないかもしれないが、普通部部歌にはっきりと ”いざよく学び いざよく遊び” と記されている)。

雪が降るとかの予報でしたが、暖かな日和で、正月のとどのつまりで、賀詞交歓会が開催できました。大森・黒川ご夫妻・河野・後藤・佐藤・田中新弥・中司・日高・岡野・高山・田中宏幸さんに船津の13名でワインとハンバーグランチで愉しく懇談致しました。

岡野さんのご提案で普通部卒業65年の集いを開催することとなりました。

日時 2019年6月22日土曜日 正午
場所 明治屋 京橋 モルチェ
クラス責任者
A:岡野・岩瀬
B:田中新弥・日高
C:田村・船津
D:大森・後藤・高山
E:中司・次回 日平会で詳細を決め、クラスごとに連絡をいたします。

船津 於菟彦: funa@1961.jukuin.keio.ac.jp       |
  |      TEL:03-3622-7861  

アサ会2019新年会  (34 平松克彦)

遅くなりましたが今年の新年会の集合写真をおくります。新年会はここ10年ほどは高輪の和彊館で開催してます。

今年の参加者は太田、小泉、桜井、佐成、椎名、城田、妹尾慶子、田中、永野夫妻、西川、西島、林田、平松、藤野、船曳、眞木、松本圭、丸橋、三神、三ッ本、茂手木、矢郷。

妹尾の奥様が参加してくれました。過去に参加してくれた奥様を来年からお誘いしようと思ってます。

妹尾の遺品としてブルーのザックを貰いました。よく一緒に山に行ったザックです。ひょんな事から妹尾が集めたぐい呑み等を沢山もらい受けました。アサ会の新年会で皆さんに貰って頂きました。ジャイの分も取ってあります。機会をみてお渡ししますのでお受け取り下さい。まだ沢山ありますのでスキー合宿にも持っていきます(私はスキーは卒業です。湯治です)。

スキーのない冬 ? (39 堀川義夫)

(復信)

ジャイさん    遠藤さんを忘れていますよ!  私は、クマ夫婦とジェラ達に叱咤激励されながら佐々木大輔さんのガイドツアーを終えました。あと2日間、帯広在住の48年卒の奥村さん宅にお世話になって帰ります。足のモモの筋肉が悲鳴をあげています。

(往信)

第二回目のスキーのない冬を過ごしています。いろいろとやることもあるので、それなりに充実していて無聊ということは感じませんが、やはりどっかに郷愁?があります。同期では深谷もどうやら今シーズンでスキーから卒業するような雰囲気です。さすが一時は隆盛をほこったサンロク軍団も歴史の影に隠れる時代ですかな。残党は浅海と後藤だと思います。せいぜい面倒見てやってください。

”私はマリア・カラス” を観て (34 小泉幾多郎)

昨年12月20日、日影沢で、今年のKWVニューイヤーパーティのチーフを務めた
KOBUIKI(編集注:41年久米行子)が、”私はマリア・カラス” が封切られるので、どうしても観たいと言っていた。その映画自体のことは初耳だったが言われると久しぶりに映画館に足を運ぶ気持ちになった。1月12日、ニューイヤーパーティで、お会いしたので、「あの映画観たよ」と言うと、彼女はそのほかにも、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」、レディカガの「アリースター誕生」の計3本を観たと言われて驚いた。こちとらはなんと一昨年の2月に「ラ・ラ・ランド」というミュージカル映画を観て以来2年ぶりのことだった。上映館を調べTOHOシネマズららぽーと横浜があったのでバスで約30分、三井不動産が2007年に開設した商業施設の一角で13のスクリーンを有するシネマコンプレックス。先ずは恥ずかしいところをご披露すれば、チケットを購入は自動販売。上映映画の中から選び、やっとの思いでチケット購入。昼食はフードコートと称する方式で、メニューを見ながら指定、支払いを済ませ、そのメニューを店の前に置くとワイヤレスベルを渡されるという仕組みで、ここでも、どぎまぎしてしまった

映画「私は、マリア・カラス」はトム・ヴォルフという若干33歳が監督する初長編で、カラスの生涯を描くドキュメンタリー映画。原名は、Maria by Callasの通り、監督が3年間に亘り、カラスの関係者を訪ね歩き、数多くの人や資料を尋ねたが、最終的にはカラス自身の未完の自叙伝や、未公開の手紙、プライベートな映像や音源といった彼女自身の言葉と歌で構成されたドキュメンタリーである。始まると直ぐ、カラスがインタビューで、「マリアと生きるには、カラスの
名が重すぎるの」と打ち明けると直ぐに”蝶々夫人”で、着物姿でアリア「なんて美しい空」を歌うが、8ミリで撮ったプライベートフィルムだと認識できるように、わざとフレームが写ったままになっている。カラスの音声と場面とは合わず、何となく居心地が悪いが、次からの有名なアリア、ノルマの「清らかな女神よ」、椿姫の「さようなら、過ぎ去った日々よ」、カルメンの「恋は野の鳥」等々は口と音声が合致している。TVやレコードで聴く音とこのプレミア室での素晴らしい音響で聴くのでは大違い。60年前の録音が、これほどまでに鼓膜と胸を震わせるものか。

演奏会以外の場面、インタビューやプライベートな動きの中でも、バックにカラ
スの歌声が心地よく鳴り響く。なかには、澄んだ美しい声とは合致せず、濁りのある声だなどと悪口を言った評論家もいたが、この中で聴いているカラスの声は音域の広さや圧倒的な存在感を示してくれるのだった。しかもカラスの素顔、表情など優雅さや凄み、内からにじみ出る悲しさといったものを映像に結びつけて呉れているのは、監督がファッション広告などを手掛けていたことが要因かも知れない。インタビューやカラスの手紙や独白は「永遠のマリアカラス」でマリアカラスそのものを演じたファニー・アルダンが命を吹き込むように朗読し、カラスの声とも違和感なくカラス自身の魂の叫びとも聞こえる。

また、カラス生涯での大きな事件としては、1958年のローマ歌劇場でのノルマの舞台を一幕だけ歌って降板したこと、1959年ギリシャ海運王アリストテレス・オナシスとの恋物語、1969年映画王女メディアへの出演、1973年からカラス復帰ツアーとしてのヨーロッパからアメリカ、アジアを回り最後に日本で終わるフェアウェルコンサートなどが出てくる。いずれもが、カラス自身の書き残された記録だけからの主張だけに、すべてが真実ではないかもしれない。1958年のローマ、激しいバッシングに対し、リハーサル中に喉を壊し声が出なくなったというが本当にそれだけが原因か、他の理由がなかったのか。1959年のオナシスとの恋愛に時間を割いているが、カラス自身によれば、オナシスに対し純粋に人を愛する心を持っていたということになるが、単なる愛だけのものだったのかは疑問。
オナシスとジャックリーヌとの結婚ののち失意の後、パゾリーニ監督による映画メディアへ女優として主演。その後、歌手としての道を忘れられず、テノール歌手ジュゼッペ・ディ・ステファーノとのフェアウエルコンサートと称し歌手として最後の舞台は終わるが、失意の時に手を伸ばしてくれたやさしい男性に巡り合ったことが、恋愛感情を抱く関係になってしまうのではないか。カラスの才能に最初に気付いた母親により歌手になる運命にを植え付けられ、一世一代の歌手に登り詰め、名声を勝ち得たカラス。その全盛期は10年足らずで終わったが、「私の自叙伝は歌の中に綴られている」と本人が語るように、いまだ歌の中に生き続けている。女性の抱くあらゆる感情、心の動きを声と歌で表現することが出来た世紀の名歌手。

映画は巻頭での蝶々夫人のアリアから最後は日本での演奏会が、フェアウエルコンサートとして最後になったが、そのアンコールで、有名なアリア、ジャンヌスキッキから「私のお父さん」を歌いますの声に観客の万雷の拍手が鳴り響く。そのアンコールはなかなか出て来ない。最後の最後に画面に記録される背景に「私のお父さん」が歌われる。幕開けの蝶々夫人のアリアから日本でのフェアウエルコンサートでの最後の舞台まで。トム・ヴォルフ監督は何か日本への思い入れがあったのだろうか。