さて、”ミス冒“ 三題噺のトリはハードボイルド。小生が一番はまっているゲビートである。
Hard-boiled (ハイフンがあったかどうか不安)とは要は固ゆでの卵のはずだが、転じて、頑固、意地っ張り、独立独歩、時に応じて暴力を辞さない、古いものにこだわらない、軍隊で言えば融通の利かない古参軍曹のイメージ、などなど入り混じった感情のこもった文体で書く作品、としておこう。
ミステリの歴史で言うと、前々回に述べた、1920-30年代に勃興し発達した推理小説が、ただトリックの妙だけを追求する流れになり、現実の犯罪行為や社会現象から遊離してしまっている、という反省から、名探偵が灰色の脳細胞で犯人を言い当てる、というパターンから、ごく普通の警官や私立探偵(日本だと浮気調査くらいしかないようだ)が自分の足と地道な調査と人間観察力とで、犯人を探し出す、という組み立ての作品が出てきた。このような意識というかスタイルで書かれたものをハードボイルドミステリ、と呼ぶようになった。
その過程において、本人はあくまで自分の価値観と、これが重要なのだが、ある信念を持ち、自分の信条によって行動し、必要であれば周囲の社会の慣行を無視し、暴力も辞さない。この ”信念と信条”が大事で、そのために彼は 卑しき街を一人行く正義、などと表現される。もう一つ、その文体は同時に伝統的推理小説のもつビクトリア朝的慣習とか持って回った大げさな表現とかを無視した、簡潔で乾いた表現を用いる。プロに言わせればその文体の源泉はヘミングウェイにある、という。ありていに告白すると小生、ヘミングウエイは6冊くらい読んでいるが、もちろん、翻訳では翻訳者の解釈とボキャブラリに依存してしまうので原書も数冊読んでみたが専門家の言う類似性、というものをはっきり意識することはできなかった。ま、素人としては当然だろうが。
日本でHBの嚆矢、と言われたのが僕らが高校生のころはやった大藪晴彦で、デビュー作 野獣死すべし は当時の僕ら高校生には全く経験のないものだったし、同じころ翻訳のでたミッキー・スピレーンの 裁くのは俺だ なども同じ興奮をもたらしたものだ。このあたりから ハードボイルド(以下HB)、という用語が定着したが、多くの作品は暴力描写の面だけを取り上げてHBと称していたから、”酒と銃と裸の女がでてくればハードボイルド”、なんていう俗説もあったくらいだ。研究家の本を読むと、30年代の終わりごろ、サンフランシスコにたむろしていた作家たちがたちあげたブラックマスクという雑誌にHBの原型ともいうべき作品が乗り始めた、という。その同人たちのあいだで一番有名なのがダシール・ハメットであり、レイモンド・チャンドラーだったというわけだ。前記した野獣死すべし、の主人公伊達邦彦は強奪した金でアメリカへ留学し、ハメットーチャンドラーーマクドナルドの文学を専攻することになっている(ただし、この後、大藪の作品はただ暴力の描写と著者の銃に関するぺダントリを披露するだけに終始していて見るべきものはない、と小生は思っている)。
そんなことから、HBを志向した人がまず読むべきとされるのが ハメットの マルタの鷹、チャンドラーの 長いお別れ というのが定説になった。この二人の後継者とされるのがロス・マクドナルド、代表作は 動く標的 があげられる。これらの作品は確かに謎を解くことが中心の糸になっているのは当然だが、チャンドラーの作品にはうまく言えないのだが雰囲気がある。特に 長いお別れ がまさにそれで、ほかにももうひとつの代表作 大いなる眠り、さらば愛しき女よ なんかもいい。ただ小生が入れ込んだのはチャンドラーの後継者であると専門家がいうロス・マクドナルドだ。チャンドラーの背景が第二次大戦前後のいわばよきアメリカ社会であるのに対して、マクドナルドの中期以後の多くの作品は、家庭崩壊とか麻薬問題とか、まさに現代アメリカの宿痾が背景になっている。ウイチャリー家の女 とか さむけ などは重厚であり読みごたえがある代表作といえるだろう。翻訳のことを言ったが、長いお別れ は小生が知っているだけで3人の翻訳があり、最近では村上春樹がチャンドラーの全長編を翻訳した。個人の好みだが、長いお別れ に関してだけは清水俊二の訳がしっとりとしていて実にいいと思っている(マクドナルドのことだが、ジョン・D・マクドナルドという人も同時代にいるので注意されたい)。
日本でもいろいろな作品があり、今売れっ子の北方謙三も純文学から転向してHBを志した歴史があり、弔鐘はるかなり とか、友よ静かに眠れ などは雰囲気のある作品だと思う。ほかにもいろいろあるが、小生が日本第一のHB作品だと信じているのは原寮という、もとジャズピアニストとして知られた人の諸作品である。残念なことに寡作な人なので次が待ち遠しいが、さらば長き眠り 愚か者死すべし それまでの明日 そして夜は甦る はシリーズものであるがどれもストーリもいいが落ち着いた、品格のある文体がなんともいえず心に響く。主人公沢崎の事務所が新宿にあるという設定で、会社時代の一時期を過ごしたあたりが登場するのも嬉しいのである。
なお、ハードボイルド、という表題で、本ブログ開始間もなくのころ、少し書いた。ご興味があれば、画面右側にでるアーカイブの欄で2017年9月をクリックしていただくともう少し詳しい情報がある。ご参考まで。HBなるものをお読みになっていない諸兄が多いと思うが、まず、長いお別れ(村上訳は ロング・グッドバイ というタイトルになっている)当たりを読んでみることをおすすめする。コロナさんとやらに、ぜひ近いうちに Long Goodbye と言いたいものだ。