エーガ愛好会 (228) ジェロニモ   (34 小泉幾多郎)

一時は死亡宣告を受けた西部劇だが、1990年台に入り、大いに変貌した。   まずはケビン・コスナーの「ダンス・ウイズ・ウルブス1990」が西部劇とし
て60年振りにアカデミー作品賞を受賞、その2年後には、クリント・イーストウッドの西部劇「許されざる者」も作品賞を受賞、他にこの作品「ジェロニモ1993」のほか「ラスト・オブ・モヒカン1992」「マーヴェリック1994」「ワイアット・アープ1994」「トウームストーン1994」等が新しい歴史観を持った西部劇として評価された。この「ジェロニモ」は男を描く監督ジョン・ミリアスの原作・脚本を男の世界にこだわり続けたウオルター・ヒルが監督した作品だけに、当然のように女優の登場はなし。

主演のジェロニモには「ダンス・ウイズ・ウルヴズ1990」「ラスト・オブ・モヒカン1992」「荒野の誓い2017」等で酋長や戦士に扮したウエス・スチュディが、血に飢えた殺戮者でなく民族の誇りをかけて戦う勇者としてのジェロニモを好演している。このウエス・スチュディを囲み、若手ベテラン各々の役柄を得て夫々が好演している。1885年20年近くに亘って、合衆国騎兵隊と戦い続けていたアパッチ族のジェロニモが投降することになり、その護送を行った若き白人将校ブリットン・デイヴィス少尉(マット・ディモン)の回想という形でストーリーが展開する。同行したのは、上司チャールズ・ゲイトウッド中尉(ジェイソン・パトリック)。

ジェロニモ投降6週間後些細なことから兵士がアパッチの祈祷師を射殺したことから暴動に発展、ジェロニモは仲間と共に脱走してしまう。 その後、若手将校デイヴィスは国の討伐政策に徐々に疑問を感じ,アパッチ族を理解するようになると政策自体に疑問を感じるようになるものの先住民に対する理不尽な政策に従わざるを得なくなる。ゲイトウッド中尉は無口ながらもジェロニモとの友愛関係を醸し出し、双眼鏡とジェロニモの緑のトルコ石とを交換したりして、ある種の友情を育みながらも、アパッチとの戦争場面では、馬を倒し盾にしアパッチを倒すとすぐさま腹を蹴って乗馬する格好の良さも見せる。

ジーン・ハックマン(ジョージ・クルック准将)は1970年以降の西部劇に救世主とも言えるが、重厚な演技は作品に深みを与えている。アパッチとは礼節を持って会談を持ったものの不調に終わり、責任を取って辞任。ベテランのロバート・デュバル(アル・シーパー偵察隊長)との関係も泣かされる。物語は最終的には、後任のネルソン・マイルズ中将(ケヴィン・タイ)の命により、、ゲイトウッド中尉、デイヴィス少尉、シーパー偵察隊長、チャトアパッチ斥候の4名でジェロニモ以下34人の降伏を認めさせることに。しかし結果はアパッチ虐殺の賞金稼ぎとの銃撃戦でシーバーはチャトを救ったものの命を落とす。ゲイトウッドは僻地に左遷。デイヴィスは国家に幻滅し除隊。

ジェロニモを誇り高き勇者として描いたウエスタン・アクションは終わった。ジェロニモの誇りに比べ、白人側の汚さが際立つ。最後列車に乗せられ、フロリダの刑
務所に護送される客車の中で呟く「何故我々の土地を白人たちが奪うのを、神が許されるのか。我々には理解できない。俺を偉大な戦士として戦わせてくれ
た。銃は俺を殺せなかった。それが俺の力だった。だが俺の時は終わった。恐らく部族の時も終わったのだろう。」

 

ジェロニモ(Geronimo、1829年6月16日 – 1909年2月17日)は、ネイティブ・アメリカンアパッチ族シャーマン、対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。本名はゴヤスレイ(Goyathlay)。なお、部族の酋長と誤解されている例も多いが、実際は酋長ではなく部族の「指導者」でもない

(編集子)西部劇の今や古典となった 駅馬車 は冒頭、当時の西部の状況説明から始まる。実用化された電信によって、先住民族の蜂起が伝えられる。最後の電信は切断されて途切れるが、その最後の通信は ”ジェロニモ” で終わる。このことによって、これから始まる駅馬車の旅が彼の率いる先住民軍の襲撃を受けるであろうことを予感させる出だしであった。

 

 

 

 

サグラダファミリア建設の資金について    (44 安田耕太郎)

ここのところ話題になったサグラダファミリアについて、本稿で質問があったことについての情報です。ほかにも ”いつ完成するの?” という基本的かつもっともな質問も多いようですが。

サグラダ・ファミリア(カタルーニャ語:Sagrada Familia)は日本語で「聖家族贖罪教会」という贖罪教会(英:Atonement Church)― 金や品物を出して、犯した罪をつぐなうこと、罪滅ぼしを行うこと ― なので建設は、市民・信者からの寄付・喜捨を資金として建設することを前提として計画された教会です。1882年の着工以来、建設は常に資金不足で中断・遅延を余儀なくされてきた歴史がある。第一次・二次世界大戦、スペイン風邪禍、スペイン内戦、コロナ禍などによって工事は中断されてきた。ほぼ同時期の1887年に着工されたエッフェル塔は2年2ヶ月で完成、フランス革命から100周年記念の1889年の万国世界博覧会にお披露目することが出来た。政府資金を基にしたエッフェル塔との大きな違いがあります。ガウディも生前(1926年没)、工事の資金集めに自ら奔走したそうです。

1990年頃より、建設が進み建物の骨格が出来あがってくると安全性も確保した上で、観光客の入場を許可し、その入場料が大きな資金源となってきて、2019年には470万人が入場して大いなる貢献をしています。現在では資金は従来からの寄付・喜捨と、ここ30年~は入場料収入が大きな二本柱となっているそうです。

真夏むけカクテルを作りませんか?  (バー ”アンノウン” オーナー 川島恭子)

写真のフローズンカクテルは、レモンロックス30㎖、レモンチェッロ20㎖、クレープフルーツジュース10㎖、クラッシュアイスをブレンダーでまぜたものです。バーミックスみたいなブレンダーかジューサーで作ります。
☆レモンロックスは、広島の酒造メーカーが作った果汁だっぷりの低アルコールのリキュールで、ソーダ割りも美味しいです。
☆レモンチェッロ
アンノーンでは、宮崎のバーテンダーの方が作る国産レモンのレモンチェッロを使用しますが、カルディても飲みやすい物があります。

クラッシュアイスは、冷蔵庫の氷ならブレンダーで作れますまたは ビニール袋などに氷を入れ、すりこぎなどで叩いて細かくしてください。
出来たクラッシュアイスはザルで水気を切ってから使ってください
フレッシュな果物 桃 パイナップル 梨 マンゴー などを使いスムージーのようなものに、ウォッカなどを入れて作っても美味しいです。
アンノーンでは、何種類かのお酒をつかいますが、マラスキーノのなど一般的にあるものではないので、ご家庭の味を楽しんでください。

 

23年夏 KWVOB会夏合宿 

今年の夏合宿は北八ツ唐沢鉱泉集中で行われた。編集子は直前に膝の痛みが激しくなり残念ながら参加できなかった。久しぶりのファイアを楽しみにしていたのだが。本稿の写真は第二班参加の49年卒土肥君の提供による。以下、同君の感想。

夏合宿プランに参加しお蔭様で心地よく過ごせ有難う御座いました
爽やかな高原の風同様に皆さまとの爽やかな想い出を残せました。
またS54年卒は少数精鋭で夏CL始め春秋CLを務め熱い思いを
感じる事ができました。久しぶりのファイアーも瞼に焼き付きました。
岩見Lとは私が30歳頃に接点がありお互い人生の山谷を乗り越え
元気に再会し歓びを分かちあえたのはお金とか物では買えない
幸が有る事を改めて実感させて貰いました。

合宿チーフリーダの織戸君から:

おかげさまで参加者のみなさんに夏合宿を楽しんでいただけたかと思っています。山行組は、28日(金)午後に雷雨にあった班もありますが、何とかよけながら歩き山小屋に着いたようです。夕方には雨もあがり夜は満天の星空、翌29日朝のご来光とパノラマビューを楽しめたものと思います。29日BCでは、ファイヤーで多いにもりあがりました。下りで足を捻挫された思った方が、帰宅後病院で「骨折」と診断されたそうですが、大事には至らなかったと聞いております。

当初申込 123名 キャンセル16名 実参加者107名(うちBCに寄らず帰宅したかた3名)という盛況でした。

上記山行組の一人44安田耕太郎君から北八つらしい写真をもらった。編集子はパートナが子育てで動きにくかった数年、単独行を幾度か重ねたが、その中で一番気に入ったのがこの北八の樹林帯だった。

合宿解散の朝、恒例の全体集合写真も安田君提供のものを紹介する。

ガウディ展のこと    (普通部OB 船津於菟彦)

「ガウディとサグラダ・ファミリア展」が9月10日まで東京国立近代美術館-竹橋-で開催されています。ガウディが逝去して100年の2026年の完成をを目指して急ピッチで建設されているようです。昨年12月には二番目高くなるマリアの塔が完成し天辺に大きな星が取り付けられたようです。内陣も殆ど完成しているようです。

1988年8月にガウディの建築を是非とも観たくて訪れました。未だ降誕の正面が盛んに建設中で中に入ると空が見えて裏側に当たる受難の門が略完成していてなんだかスターウォーズの衛兵のような彫刻とキリストのガラリと変わった近代的な彫刻と門には驚きました。それが今は内装は総て完成し、一番高く聳えるキリストの塔と数本の塔を遺すのみで、多分予定通りガウディ没100年祭には完成するのでは無いかと思います。

今回の展示以前にも日本人は何故かガウディ建築が好きで2003年秋にも東京都現代美術館で「ガウディ 形の探求」展が12月14日まで開催されていました。
そのことなどはこの「熟年少年探偵団2003年11月1日47号で「ガウディの美」と言うことで書いています。学生時代からガウディオタクでした.(*^▽^*)
この文章を書いてから20年。そして初めてバルセロナを訪れガウディ建築を見てまわってから35年の時が過ぎています。未だあのカサ・ミラの建築と屋上の煙突など観て歩いた事はありありと思い起こします。何とか2026年に完成したサグラダ・ファミリア大聖堂をみたい物だとと思っていますが、まぁ今回の東京国立近代美術館の展示を堪能して完成の大聖堂夢見ます。

日本の外尾悦郎さんが作った石膏のモデル。1978年スペインバルセロナに渡りアントニ・ガウディの建築、サグラダ・ファミリアの彫刻に携わる。2013年からはサグラダ・ファミリア主任彫刻家に任命され、ガウディの残した設計図からサグラダ・ファミリアに組み込まれる彫刻などの装飾を総監督している。

こんな言葉を語っています。それが僕を39年もここに居させているのかな。3ヶ月の予定で僕はここに来たわけです。3ヶ月経って日本に帰らなくちゃいけなかったのに、帰れなくなったんですよ。それは何かっていうと、僕は何を探しているのかわからないんだけど、ここで得たものっていうのが僕の中にスーッと染み込んでいくわけね。ガウディは居ないんだけど、でもその染み込んでいくもの、そうやってガウディが生きたということを僕が気づき始めた時に、仕事のことよりも、このおっさんをなんとか手に入れたい。このおっさんをなんとか捕まえたい、って思ったんです。

アントニ・ガウディ(カタルーニャ語 :Antoni Gaudí i Cornet [ənˈtoni gəu̯ˈði i kuɾˈnɛt]、洗礼名:Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet、1852年6月25日 – 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家。19世紀から20世紀にかけてのモデルニスモ(アール・ヌーヴォー)期のバルセロナを中心に活動した。サグラダ・ファミリア(聖家族教会)・グエル公園(1900 – 1914年)・カサ・ミラ(1906 – 1910年)をはじめとしたその作品はアントニ・ガウディの作品群として1984年ユネスコの世界遺産に登録されている。
「諸君、明日はもっといい物を作ろう」
自分がサグラダ・ファミリアの完成を見ることはできないことを知っていたガウディは、毎日のように職人たちに語りかけ、自分の死後も建設が続くことを信じていた。

(編集子)

急に現実的な疑問だけど、このプログラムの資金は誰が提供してるんだろうか?とわがパートナーが不審に思っています(小生もかな)。

雨飾登頂-100名山レースHS戦、両者ラストスパートの夏 (この暑いのによくやるよ!)

(51 齋藤)

暑い日が続きますがお元気ですか?私は先週26日にKWV51年卒同期で「雨飾山」に登ってきました。写真、左から左から保田実、斎藤邦彦、五十嵐隆、佐藤孝です。堀川さんが3日後の29日に登られていたんですね。

 

(38 堀川)

夏合宿と家内の施設の予約が上手くいかずやむなく夏合宿は不参加にして土曜日に家を出て雨飾高原キャンプ場に泊まって今日雨飾(100名山99座目をゲットしてきました。往復ジャスト8時間かかりました。キツかった‼️

高妻に登れるかな、、、??ですね。高妻が100座目になります。
(編集子)両君の100名山レース、決着はこの秋になるらしい。
日本百名山の一つとして知られる雨飾山は新潟県と長野県の県境に位置し、山頂からの360°の展望は素晴らしく、1963mの標高ながら、近年は多くの登山者が訪れます。天候に恵まれれば、日本海を望むこともできます。山頂に祭壇を祭り、雨ごい祈願したことが名前の由来と伝えられています。昔は「あまかざり山」と呼ぶほかに、「あらすげ山」とも呼ばれていました。また、書き方も「天錺山」や「両粧」と書いてある古書もあります。「両粧」と書くのは新潟県側からみると2つのこぶが近くの山の上にのっていることから名づけたものだとか。またこの山は糸魚川の漁師たちが海に出た時の目標にもなっていたそうです。

 

“翻訳” の限界について

”英語教育“ についての紙上討論会の過程で翻訳、ということを話題にした。そのこともあって、決心をしてだいぶ以前に購入したまま積ん読になっていた、大佛次郎 帰郷 の英訳版を読むことにした。原作は高校時代に読み、その後、少なくとも2度は読んでいるので、部分的には原作の文章を覚えていたところもあり、はじめてのポケットブックを読むよりははるかに少ない時間で読了できた。

翻訳者の ブリュースター・ホロヴィッツ という人はニューヨーク大学で古典と東洋言語を専攻したあと、米国陸軍の言語研究プログラムで日本語を学んだらしい。 紹介文によるとextraordinary talents for capturing the overtones and implications of the Japanese language (日本語の持つ含意や言外の意味に特に詳しい)と書かれている。この翻訳は1954年(昭和29年、いみじくも小生が高校生になった年)に出されているので、米国人の日本についての感覚は今とはだいぶ違っただろうし、もし日本人が翻訳していたらどういうものになったか、興味が尽きない。現在では日本人でも留学とか業務の都合とかで外国生活経験の豊富な人たちが数多くいるので、こういう人が翻訳に当たったら、もっと違う感覚だったかもしれない。戦後まもなくのこともあるし、翻訳者が日本の現地での生活経験が多くないと思われるのは地名を英訳していることでもわかる(桜木町は Cherry Tree ,清水寺は Clean Water Temple という具合)。戦後間もなく、日本の実情がどの程度分かっていたのかも分からないし、プロの翻訳そのものをとにかくいうのは素人には不可能だ。いずれにせよ、当時の日本人に深い感銘を与えた作品が海外に紹介されたのは喜ばしいことだ。翻訳書の解説を読むと、日本の文学、というもの、そのものがまだ、希少なものだったことがよくわかり、現在の文学界の状況と比べて感慨ぶかい。ただ、何とか読み終えてみて、上記の解説にある (日本語の持つ含意や言外の意味に特に詳しい) という解説には疑問を持った。同時に翻訳、ということの難しさを改めて感じた。そのことを書く。

作品の内容はこうだ。帝国海軍の資金を横領したという疑いで国外追放された主人公が終戦を迎えて帰国する。幼くして別れたきりの娘に一目会うことができないか、というのが 帰郷 した目的であるが、海軍ではすでに海外で客死したと公表して自分の墓まであり、妻は再婚してしまっていて、尋ねることもできない。この事情を知って、一度は主人公を裏切るのだが、陰で彼の思いを遂げさせようと努力する女性がいる。かたや戦争の意味を理解せず見かけの自由にあこがれ、戦後の動乱期の混乱を縫って、裕福な彼女を利用することだけを考える大学生が彼女の歓心を買おうとつきまとう。戦後まもなくよくいたタイプの、米国崇拝、思い上がりの典型として描かれる人物だが、彼は彼女を 小母様 とよび、馬鹿丁寧な(男性的ではない)言葉遣いを連発する。サブキャラクタとして描かれる硬骨の画家も、この大学生に付きまとわれて迷惑し、ある時ついに爆発して大学生に詰め寄る部分がある。僕が違和感を持った個所を引用する。

・・・・“小父さまも古風な方なんですね”

”古風?“

と言いながら、画家はまるで別のことを、猛り立った様子で言い出した。

“そう、なれなれしく俺を小父さまと言うのは、よしてくれ。それだけは絶対によしてくれ”

この部分をホロヴィッツ氏はこう訳している。

・・・・”You’re a bit old-fashioned too, are’nt you, old man?”

“Old-fashoned ?”   But it was’nt that broke Onozaki’s self-control. He was enraged.

“Stop calling me ‘old man’ You don’t know me that well. Don’t do it again, ever.”

この翻訳そのものに問題があるというのではもちろんないが、僕はホロヴィッツ氏が ”小父様“ を old man と字面通りに訳していることにひっかかった。

Old man が年配の男性一般をさすのだから、”小父様“ がそれにあたると同氏が判断されたのだろうということは理解できる。ただ映画などで聞く old man は日本語で言えば、親父、とか、よびかけで おっさん、というような感触がして、嫌味な大学生がなれなれしく使う敬語の乱用で 小父様 という語調とはかけはなれている。僕が好きな西部劇映画のひとつ ”誇り高き男“ で、主人公の保安官ロバート・ライアンに父親を殺された恨みを持つジェフリー・ハンターはそれを隠してライアンの助手になり、機会をとらえてライアンに銃を向ける。そして正確なセリフはおぼえていないのだが “俺のおやじが世話になったそうだな” といい、ここで事実を理解したライアンが、そうか、お前がアンダースンの息子か“ という場面がある。この時、ハンターは自分の親父、を my old man といい、ライアンは ….so yo’re Anderson’s boy” と答える。

この場面でハンターが歯ぎしりしながら言った my old man 、というセリフで、この単語はまさに男が自分の親父、という意味で使う場面なんだな、と思ったものだ(そう言えば、”荒野の決闘“ のラストシーンでフォンダが ”国の父“ という意味で、old man と言っていたような気がするがこれはDVD で確かめておこう)。

何が言いたいか、と言うと、この 帰郷 の一場面での翻訳で、”小父様“ を old man と訳した、ここだけは ”日本語の含意や言外の意味を知っている“ 人のミスだと思うのだ。つまり画家は古い、年寄りだ、と言われたことに腹を立てる以前に、この生意気な大学生の女性的な言い方を嫌悪していたからなのだ、ということは、普通の日本人には明白だから、ここでは大学生が意識的に使っている 小父様 という単語を 親父さん だの おっさん などの単語に置き換えることはしないだろう(そうはいっても、適切な表現を知っているわけではないのだが)。たぶん、ホロヴィッツ氏は公式?な日本語には堪能だったとしても、敬語の使い方、男性風の挙措発言が女性風とどうちがうか、まではご存じなかったのだろう(無理はないと思うが)と思う。米国人が英文を読んでも、至極当然な会話、と受け取るだろうが、その裏にある大学生の軽薄さとそういうものを嫌悪する、日本人の典型のような画家の心情を読み取ることは出来まい。

僕は以前から思っているのだが、かのノーベル賞にある”文学賞“、というカテゴリーの選考者はどうやって他国の文学作品を評価できるのだろうか。技術の分野ならば、絶対に誤解誤用のないような世界標準が決まっているのだから、貢献の度合いをただしく評価することができるだろう。しかし翻訳ひとつでその効果が左右される文学という分野で、たとえばノルウエイのひとが川端の 雪国 がもつ微妙な、日本人が(多分、だけが)持つ感覚や 反応を理解できるのだろうか。そう考えてみて、論理の大変な飛躍かも知れないが、この英訳本との遭遇は翻訳というものの持つ重みを改めて感じさせてくれた。英語教育論戦で書いたのだが、このギャップを埋められるのはやはり bilingual なひとなのだろうか。それとも bicultural の人なのだろうか。幸い、今回の論戦の火付け役の下村君が提示したような、ビジネスの場ならば、技術関連には及ばないが用語や統計についての客観的な叙述とか議論は可能だとは思うのだが。

 

 

貴船の涼風を満喫しました (大学クラスメート 飯田武昭)

連日39度に迫る猛暑ですが一泊二日で以前から予約していた京都・貴船の川床へ行って昨日帰りました。貴船の川床は以前勤務の会社行事として行ったことはありますが、家族での計画を狙っていたものの、台風襲来、コロナ禍で4年間行けずで、今回は漸く実現した小旅行でした。

1日目は下鴨神社の御手洗祭(みたらしまつり)なる、神水に脚まで浸かってローソクを灯して、短冊に願を掛ける夏至の頃の神事の参加し、その後は猛暑を避けて錦市場を散策し、寺町通りで昼食を摂り、夜は京都駅ビルレストラン街で夕食を摂りました。

2日目にメインイベントの貴船の川床へ昼食時間までに行くのに出町柳駅から叡山鉄道(エイデン)で貴船口まで乗車しました。貴船口からは料理旅館が車でピックアップしてくれ、早めに貴船に入り、貴船神社を参拝してから川床での料理を味わいました。さすがに涼しく、提灯と御簾(みす)越しに木漏れ日が差し込む床で味わう料理は格別の物でした。

(小田)涼しそうな写真をありがとうございました。我が家も先日のメールでもお伝えした、大阪服部緑地公園時代、東京への転勤が決まり、慌てて鞍馬や貴船に行きました。川床での食事、懐かしく思い出しました。もう40年も前ですが…

(船津)羨ましい旅ですね.涼気が写真から戴けました