トニー・ベネット 逝く    (大学クラスメート 飯田武昭)

私の好きな歌手の一人トニー・ベネットが亡くなりました。
享年96歳ですから大往生ですかねえ。
代表曲は「霧のサンフランシスコ」(「想い出のサンフランシスコ」)です。私の友人の飛び切りトニー・ベネット好きで、自分でもベネット張りの歌唱力で歌うW氏が私のメールに反応して送って呉れた彼のURLです。

https://ozsons.jp/TonyBennettDied.htm 

「煙が目にしみる」(Smoke gets in your eyes)が、あのミュージカル「ショウボート」の作曲家のジェローム・カーンであることやこの曲を初めて歌った少々硬い顔の女性歌手であることもW氏のURLか知りました。

「霧のサンフランシスコ」の曲の想い出などを、早速に数人の方から頂き有難うございました。

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ジャイさん、私はニューヨーク駐在時代の当時は西海岸へはロスアンジェルスにオフィスがあったためもあり、ロスへ行く機会の方が多かったですが、シスコからパロ・アルト方面へ行く時には、やはりゴールデン・ゲイト・ブリッジを車で渡るのと、動いている間でも乗り降りする感じの坂のあるシスコの満員の路面電車に乗るのが楽しみだった気がします。グレン・キャンベルは名前しか知らないですが、ウエスタン・スタイルのギタリストとして大変な人気だったようですね。

(中司)霧のサンフランシスコ、忘れられない名曲ですね。この曲がヒットしていたちょうどその時期、ベイエリアへ初めての海外赴任をし、文字通り霧が流れるゴールデンゲートブリッジを走った時の興奮はまだ記憶にあります。また同じ時期、グレン・キャンベルのがデビューしたのも覚えています。

保屋野さん 、挙げられ歌手たち、私も皆それぞれに好きでした。アンディ・ウイリアムスでは「ムーン・リバー」は勿論ですが、次の3曲も外せない名曲・名演奏だと思っています。

Raindrops Keep Fallin’ on My Head  ・The Shadow of Your Smile  ・Music to watch girls by:

(保屋野)トニー・ベネットは「霧の(想い出の)サンフランシスコ」ぐらいしか知りませんが、長生きしたのですね。

当時の同じジャンルでのレジェンドは、アンディー・ウイリアムズ、パット・ブーン、ペリー・コモ、ディーン・マーチン等思い浮かびますが、大物では、フランク・シナトラ、ビング・クロスビー、ナット・キング・コール、ルイ・アームストロングも居ましたね。もちろん、アメリカの男性歌手ツートップは、エルヴィスとマイケル・ジャクソンでしょうが・・・大ヒットとなると、ニール・セダカ(恋の片道切符)ポール・アンカ(ダイアナ)レイ・チャールズ(愛さずにいられない)も外せません。

小田さん

映画「阪急電車 片道15分の奇跡」を観られたとのことですが、この小説が出版された当時に、当地では話題になって読みましたが、あまり感心もしませんでした。その後に映画化され観ましたが、やはり宮本信子の役柄・演技力が良かったと私もおもいました。この映画の冒頭のシーン(特に予告編での冒頭シーン)で大写されるマンションが私の自宅マンションであることは、ちょっとした秘話です。

(小田)想い出のサンフランシスコ》は今でも、毎日どこかで聴かれている曲ですね。私のipodにはアンデイ·ウィリアムスバージョンが入っています。 トニー·ベネットさんはとても味のある歌い方をされていますね。

《煙が、目に沁みる》も好きな曲で、Lettermen(同じ会社の慶應卒のO氏にレターではなく、❬レタメン❭と注意されました)も歌っていましたが、やはりPlattersが良いですね。
*18日BS放送の「阪急電車 片道15分の奇跡」(2011年)を観ました。
以前本を読んだ気がしたので観てみたのですが、やはりそうでした。
西宮北口~宝塚まで利用している小学生から主婦までの誰にも言えない、どうにもならないような思いを抱えた人々のお話です。
一緒に乗り合わせた人々がアドバイスしてあげ解決したり…ほのぼのとした物語でした。

(安田)トニー・ベネットは自身の音楽人生を振り返ってこう語ったそうです。「アーティストは情熱が必要だ、情熱がなければやめていただろう。では私はやめなかった。まだやめるには早いと思っている。私がアルバムに収めたいのは感情なんだ。それがなければ(CDは)ただのプラスティックン物体だ。魂を込めなければならないんだ」。

気持ちだけでも真似をして人生を歩みたいですが、なかなか難しいですね。訃報に接し、色々と思い出しました。

 

 

 

23年夏 日平会 (普通部OB 船津於菟彦)

慶応普通部昭和29年卒業有志の気楽な集まり、日平(日平)会はこの夏の定期昼食会を、建て替えのためこれで最後になる、日比谷帝国ホテル内 三田倶楽部で開催。出席は 本日ドタキャなど多くて 岡野・河野・田中新弥・田中宏幸・田村耕一郎・日高・高山・宮坂・水木・片貝、船津の11名。

次回は銀座ヤマハホール隣のビルに移転する移転三田倶楽部で開催。場所など後ほど連絡 日時は10月16日月曜日12時。ここで慶應義塾普通部卒業70年の集いの最終決定と役割分担など決定して来春開催の日平会で確認、春4月6日に「慶應義塾普通部卒業70年の集い」を開催するという決定をした。普通部125年の歴史の中で半分より前の何も無かった天現寺から日吉へ移転した我々は多分最後の集いとなるかも知れないので、盛会を期待して散会。

日本の英語教育について (6)

馴染みのバー、聖蹟桜ヶ丘は アンノウン で、KWV仲間との気軽な会話から始まった議論が結構盛り上がって、いろいろな方の、違った視点からのご意見を伺うことが出来ありがたく感謝いたしたい。全くの偶然から英語が必要となる場に放り込まれ、それなりに英語に親しみ、英語社会に滞在する機会を得た経験から、自分の考えをここらあたりで書いておこうと思う。

僕のこの問題に関する基本的な姿勢は、日本の(というか日本人の) ”英語” (中国語以外のほかの言語でも同じようなことになると思うのだが)に対する態度というか向き合い方が基本的なところで間違っているのではないか、ということにある。江戸三百年の平和が破られ、欧州文化というものがこの国の機能の変革を迫り、間違えば我が国の植民地化の危機があると悟った時、欧米文化の取り込みには外国語の習得が絶対的に必要だった。江戸時代に培われた当時の知性ある指導者の、迅速かつ真摯な対応によって、きわめて短い期間に文化ギャップを埋めることに成功した。このあたりのことは今更言うまでもない。

その過程で、外国語(当時はまだ英語が世界語にはなっていなかったが)を学ぶ、という事は則、新しい文物を取り入れるために、絶対的に必要なことだった。これはほかの発展途上国においても全く同じだったはずだが、日本にはこのツールを使うことだけではなく、その背後にある先進的な思想や機構や技術をいわば翻訳し、今のことばでいえば ローカライズする基盤となる能力があった。維新の元勲と呼ばれる人たちの指導力ももちろんだが、福沢諭吉に代表される市井のひとびとの努力がこの国民運動を支えた。中でも前回書いたが、日本において外国語の翻訳、という分野が開拓されてこれを支えた。

此処までは誰も異論がないであろう史実だ。だが小生は、この後の過程で、そもそもは外国を知るためのツールにすぎない外国語(本論では英語)を習得するということが、その本筋からはなれて、教養(の一部)だと解釈されてしまうという過ちが起きたのだと思うのだ。もっとも歴史的な愚行として鹿鳴館の騒動をあげればよかろうが、外国語を解することがそのまま教養だ、という刷り込みが行われた。もちろん時代的背景として絶対的階級社会から抜け出せていないこの時期、外国語を学ぶことが出来るということは同時に権力や富も象徴した。このことが、何度も言うがツールにすぎない外国語(この場合英語)を知ることが教養なのだ=外国語ができるから偉いんだ、という短絡にいきついたのではないか。その結果、基本的な文脈とか日常会話などを飛び越えて、高校生あたりから英語の教科書にはだれが決めたか知らないが欧米の教養だ、としてシェークスピアだのハドソンだのポオなんかの文章の切れ端が教科書に登場するようになった。しかし例えば米国であっても、このような古典を読むのはハイスクールの上級からであり、当然その時点で母国語として英語を毎日駆使している。片や日本では熾烈な受験対策のために、英語教育を試験のツールとして枝葉末節にこだわり、たとえば受験生に愛用された赤尾の豆単(死語になったかな)をみれば carry coals to Newcastle  なんてのが(アメリカ人仲間に使ってみて大笑いされた) 必須熟語、と登場するような羽目になった。米国で ”大学でシェイクスピアを読んだ” なんて言ったらそれだけで感心されるが、どっこい、現実の英語のコミュニケーションでは、出発点から間違った教育の結果としてハムレットは読めるがハンバーガーの注文もできない、というような滑稽な現象が起きる。これがまだ、多くの場で繰り返されていることは頂戴した多くの方々の体験談からも明らかだ。

もうひとつの重要な史実は連合国(実際には米国)軍による戦後統治の影響だ。新憲法が制定され、政治思想的には欧米諸国と同等の立場になったのは喜ばしいのだが、そこで基本的思考として要求される、平等 という一語が、ときとして前後を忘れて独り歩きをすることが多いと感じる。僕は欧州での生活体験はないが、アメリカ、それも中でも進歩的なカリフォルニアで過ごしてみて、この 平等、という単語の解釈が日本と米国とでは違うのだ、ということを悟った。つまり、我々は 平等 の意味を equal  と解釈する。彼らは fair  と解釈する、という事である。

日本国憲法に規定される基本的人権、その重要な要素である平等、という概念、これはまさに正しい大義である。しかし現実の場で、たとえば教育機会の平等、という時に僕らは正しい選択をしているだろうか。

ありていに言ってしまおう。この機会平等、という発想が、実は現在起きている英語教育問題の根底にあるのだ、と僕は考える。日本人はすべてが、同じ機会をあたえられなければならない、という、現実離れした発想がそれである。

この論議に参加していただいた各位をはじめとして、僕らは決して日本人を代表する立場というか位置にいる人間ではない。自分で定義するのもおかしいかもしれないが、僕らは経済的にはアパーミドルクラスの都市部居住者の一般的にはインテリ層と呼ばれる(くすぐったいが)グループに属する。この分類に入る人の数がどれだけか調べたことはないが、このグループに属する人間が日本人なのだ、というのはおこがましい話であろう。前稿に転載させていただいた赤阪氏の議論をはじめ、またそもそもこの論議の発端になった、”これからのグローバル時代にうんぬん” という発想はこのグループに属する人間だから共鳴するのであって、ほかの大多数の日本人の方々が等しく共有出来る感覚ではないのではないだろうか(もちろん観光地のお土産屋のおばさんがガイジン客相手をする機会が増えた、だから私たちもグローバルとやらなんやろか、というような感覚は多くなっただろうが)。こう考えていくと、”だから、英語は日本人にとって必要なのだ” という結論には僕は到底賛同できない。

英語というツールを取得することそれ自身が本当に日本人としての教養に不可欠なのだ、という事であれば話は違ってくるが、僕は日本人がひろく世界のことを知ることこそ教養であって、シェイクスピアの原文が読めればそれが教養なのではなく、ハムレットの嘆きを聞いて、人間の在り方や考え方を学ぶことが教養なのだと思うのだ。そのためにはその道のプロである翻訳者の力を借りてそれを学べばいいのである。いやそうではない、この社会は平等(つまり誰でも彼でも同じ機会を持たなければならない)を重んじるのだから、教養を得る権利は日本人すべてに等しく与えられなければならない、だから英語の普及水準が低いのは問題なのだ、という論議には僕はついていけない。逆説的に言えば、ほかの、流行のコトバでいえばグローバルサウスのいくつかの国が我が国より英語の水準(これ自身の定義がわからないが)が低くても、文化産業政治うんぬんにおいて、我が国のレベルのほうがはるかに高い、という現実を無視はできまい。

もちろん、日本人の中でも各界の指導層には英語(僕の勝手な定義によればソシアルレベル以上の実力)が必要とされる立場の人たちがおられ、ほかにも自分の職業あるいは天職としてこのレベルの英語が必要とされる多くの人がおられることは当然理解する。したがって、そういう立場の方に対する教育制度(繰り返すが equal ではなく fair  な)がより fair  な形、制度として速やかに再構築されるべきだと思う。非現実的な平等=equal 論議は捨てて、必要な人に必要な、つまり平等=fair という観点に立って、英語の教育制度が、さらには(住んでみてアメリカという社会に失望することも数多くあったが、絶対的に日本より進んでいる=万民にとって fair である、と感心したのは社会人になってからも広く大学や専門学校に立ち返ることが出来る社会の仕組みだと理解した)より広い視点での教育システムの在り方が再構築されるべきであろうと考える。つまり、英語教育制度は原理的に機会不平等であっていいはずのものなのだ。

議論の途中に、小学校からの英語教育が必要か、という論点があった。もちろん現代の小学生が毎日の生活において、特に好むと好まざるとにかかわらずIT社会がもたらした情報の氾濫で英語に遭遇する機会は我々の時代とは比較にならないほど深く、その意味での対応は早急に考えなければならないだろう。前々回の本稿で、小生の孫の経験を挙げた。早期から英語オンリーの環境に置かれた子供がソシアルレベルの英語を習得できた、という事実は存在する。しかし彼と同じ環境を日本的平等主義の下で作り出すのは、絶対的に不可能だし、いままでの議論から不要だと断言する。さらに一般化して、小学校から英語教育をすべし、という今の施策には反対である。その理由はすでに述べたように、藤原正彦氏のご意見に述べられている通りなのだが、さらにより現実的な問題として、小学生に正しい英語、しかも正しい発音、などを教えられる教師が、失礼だが今の教育担当者層の中に何人おられるというのか。小学校レベルの教育者には、複雑化する家庭問題だとか、IT普遍化への対応だとか(とくに現在かまびすしいAIの普及)、我々の時代よりもはるかに困難な課題に注力していただくことの方がはるかに重要でなのではないか。

私見としては、小学校レベルでは、アルファベットが大文字小文字とも完全に読み書きでき、自分や家族の名前とか住所とか正しくローマ字で書け、100くらいまでの数字が完全に理解でき、そして当然発生するであろういわば日本語化されてしまった英語単語の意味が分かり、さらに言えば、サバイバルレレベルのあいさつができる、その程度でいいのではないかと思うし、ここまでならば一般の教育従事者でも十分対応可能だろう。ただしいずれにせよ、この程度のことで正しい発音ができるようになる、などということは夢想であるとは思うが僕は現在政府が進めている、というかいわゆる進歩的知識層の方々が唱える小学校からの英語教育、というのは、明治の鹿鳴館騒動に匹敵する歴史的愚挙だと信じている。そんな時間とカネがあるのなら、年齢にふさわしい情操教育とか日本史や文化のことをより深く教えるべきなのだ。

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明治の一時代を象徴する社交場「鹿鳴館」 明治16(1883)年、政府や貴族の社交場として建設された「鹿鳴館(ろくめいかん)」。 現在は、建物があった帝国ホテルと日比谷U-1ビルの境目に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれています

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ここまで書いてくる過程で、本騒動(?)の起動者である下村君や関谷君、海外経験の長い飯田君、児井君などから各自のご意見を頂戴した。また、別稿で転載させていただいた赤阪氏からは現在進行中の教育プロセスやツールについての情報を頂戴することが出来た。

続きはこの猛暑(むしろ狂暑か?)が去った後、振出しへもどって、”アンノウン” ご自慢のマティーニをシェイク(ジェイムズ・ボンドはどっちだったか忘れたが)してもらいながらになるだろうか。涼風にはまだ間があるようだが。

 

 

 

 

 

 

日光白根へ行ってきました     (42 保屋野伸)

 

KWVの同期3人と鳥海山に登る予定でしたが、秋田の大雨のため急遽「日光白根山」に代え、昨日登りました。

ロープウエイ終点から、標高差600m弱ということで、軽く考えていましたが、登りは、上部の(歩きづらい)砂礫地で、下りは(急な)岩尾根で、結構苦戦しました。なお、昨日は3連休で家族連れも多く、山頂の写真撮影(添付)は15分待ちという混雑ぶりでした。

昨日は老神温泉「伊東園・山楽荘」(8500円)に泊まり、今日、「沼田城跡公園」に寄って帰りました。幸い熱中症にもかからず、ラッキーな山旅でした。

(編集子)この連休、娘夫婦と4人、小淵沢のセカンドハウスでのんびりしてきた。ついた日は21度、とびっくりするくらい涼しかったが翌日はほぼ東京なみだった。21年にこの地を選んだ時、地元の人はなんたってエアコンがいりませんからねえ、と言っていたが、彼の経営するレストランももうエアコンなしで営業どころではなくなったようだ。

(河瀬)元気なKWV同期3人、いい写真ですね。菅谷君も元気で何より。でも日照りで暑かったことでしょう。岩尾根が結構きつかったのはそのためでは。

 
木曽駒頂上での3代集合写真。標識の一番上にかすれた字で「木曽駒頂上」とある。右端は頂上の神社
3代山登り私は連休の中日に二人の息子と孫を含む家族7人で中央アルプス千畳敷までロープウェーでゆき、最高峰の木曽駒ケ岳(2956m)に登りました。この日は頂上はガスが行ったり来たりでした。そのため返って暑くなかったのですが、千畳敷からのジグザグ登りは高齢者にはかなりきつかった。主稜は雪もなく、ゴロゴロの岩ばかりで日陰がなく、もしも連休最終日のかんかん照りだと大変だったね、と言っています。
天狗の小屋付近。バックの岩山は雲中から現れた宝剣岳。青い屋根は宝剣山荘(天狗の小屋の隣)。
 
55年前:5月の連休に保屋野、下村さんと木曽駒山頂 からスキーで滑り降りた写真です。皆さん、(写真1.2)と昔の5月の写真(3、4,5)を対比してみてください。昔の重く長いスキーを背負ったワンゲル乞食の姿と地球温暖化がよくわかります。このときにはロープウェイはできたばかりだったのではないかな?当時はこの千畳敷カールからの急坂をリュックとスキーを背負って登ったものです。
木曽駒頂上の3人(右より保屋野、下村、河瀬)。雪に埋もれた頂上の標識(写真2の一番上の字)が足元に写っている。頂上神社の屋根が後ろに見える。
ここから小屋の下の谷への滑降。雪庇でジャンプ!
若い頃に戻りたいね!

エーガ愛好会(227)   限りなき追跡    (34 小泉幾多郎)

 西部劇の巨匠ラオール・ウオルシュが監督、ロック・ハドソンとドナ・リードを主演に、逃げる強盗団のボスとそれを追いかける男の追跡劇を描いた西部劇。開幕の駅馬車の疾走から、中盤でも何となくモノを投げつけるシーンが多く、壺や椅子やナイフを投げるオンパレード、最後の山岳での決闘シーンでも、追っかけやら、落馬シーン、投げる木材等が正面から撮って画面に向って飛んでくる、等々。立体映画方式かと思いきや、現実に立体映画だったのだが、日本公開は、通常上映されたとのこと。

言われてみれば、1953年は立体映画花盛りの年だった。日本公開最初の立体映画は?はっきりした記憶にないが、西部劇「タイコンデロガの砦ウイリアム・キャッスル監督、ジョージ・モンゴメリー主演」ではないか。次に「フェザー河の襲撃ゴードン・ダグラス監督、ガイ・マディソン主演」「ホンドー ジョン・ファロー監督、ジョン・ウエイン主演」その間に「肉の蝋人形アンドレ・ド・トス監督ヴィンセント・プライス主演」「ダイヤルMを廻せアルフレッド・ヒッチコック監督、レイ・ミランド主演」「雨に濡れた欲情カティス・バーンハート監督、リタ・ヘイワース主演」と上演された。しかし偏光眼鏡の煩わしさ等からシネマスコープ等に押され急激に廃れてしまった。この立体映画を監督したラオール・ウオルシュとアンドレ・ド・トス両監督とも片目で現実に立体では見えない筈。片目で立体映画を監督するとは、信じられない。2009年「アバター ジェームス・キャメロン監督」が立体映画で公開され、続編も作られるとのこと。どうなることやら。

南北戦争後婚約者ジェニファー・バラード(ドナ・リード)の元に帰還したベン・ウオーレン(ロック・ハドソン)。ところが駅馬車での道中、フランク・スレイトン(フィル・ケリー)とその部下ジェス・パージェス(レオ・ゴードン)に襲われ、ベンは重傷、婚約者ジェニファーは拉致されてしまう。その後一命をとりとめたベンは、フランクと仲間割れしたジェスとフランクに妻を殺されたインディアンのヨアン(パット・ホーガン)を仲間に引き入れ、ベンは最後にフランクを倒す。ベンとジェニファーは新生活を目指しカリフォルニアへ出発する。

 

(編集子)”ホンド―” も ”ダイヤルMを廻せ” も ”立体映画” だったとは驚いた。 ”シネマスコープ” を始めてみたのは “聖衣” だったと覚えているが、この2本が新方式(当時の)とは知らなかった。最近のメディア技術による立体映画類には全く興味がないから知らなくても驚かないが。ドナ・リードも人気があった知性的な感じのする女優の一人だが、小生の記憶ではやはり ”地上より永遠に” だし、ロック・ハドソンはやはりセーブゲキ向きではなかった気がする。ことのついでに、今はもう死語かもしれないがシネマスコープについてのグーグルの解説は以下の通り。

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1950年代前半の映画業界はテレビ業界の躍進に強い危機感を抱いていた。アナモルフィックレンズの技術自体は1920年代にフランスのアンリ・クレティアン英語版によって発明されていたが、1953年(昭和28年)にはカナダのボシュロム社と20世紀フォックス社によって改良された[2]。それまでの一般的な画面アスペクト比である横縦比1.37:1(スタンダードサイズ)の2倍近い横幅があった。ワイドスクリーン技術にはパラマウント社のビスタビジョンシネラマなどもあるが、シネマスコープとは20世紀フォックス社の商標名である[1]

ハリウッドによる初のシネマスコープ作品は1953年(昭和28年)9月公開の『聖衣』であり[1]、1954年(昭和29年)にはボシュロム社がアカデミー賞でオスカー像を授与されている。1957年(昭和32年)には東映による日本初のシネマスコープ映画『鳳城の花嫁』が公開され[3]、同様のシネマスコープ作品群には「東映スコープ」という呼称が付けられた。一方、映画をテレビ放映する際、テロップが表示される場面では可読性の観点から画面を圧縮するため、オープニングやエンディングなどが本編よりも縦長に表示されることがあった[4]

後の技術革新によってシネマスコープ撮影技術は廃れたが、2.35:1という画面アスペクト比は残った。ただし、今日のもっとも一般的な画面アスペクト比は横縦比1.66:1のビスタサイズである。

 

 

日本の英語教育について (5) (赤阪清隆氏ご寄稿)

先般、栃木県の宇都宮大学共同教育部付属小学校の英語授業を見学してきました。小学4年生と5年生のそれぞれの英語の授業でした。同小学校の英語教育は、その先駆、実践的な取り組み方法が注目され、一般財団法人英語教育協議会(エレック)の昨年度のエレック英語教育賞を受賞しています。 

小学3年生からの外国語(主に英語)の授業は、必修科目として2020年度から始まっています。小学生の英語授業では、聞く、話す、を中心に英語に親しむことが目標になっているようです。文部科学省の学習指導要領を読んでみましたが、恐ろしく難しくて官僚的な文書で、これをもとに授業を担当される小学校の先生方に深く同情を禁じえません。

上記の小学4年生の授業では、アイパッドを効果的に使い、「I have a pen」など、身の周りの持ち物を英語で指し示し、それを隣の生徒のアイパッドで映してもらって、先生に転送すること、5年生の授業では、これもアイパッドを使って、餃子がおいしいことなどの宇都宮市の特徴を外国人に英語で伝える練習をやっていました。先生のアイパッドと、各生徒のアイパッドが効果的につながっており、授業はスムーズに、賑やかに、楽しく行われていました。

わたしの時代の牧歌的な英語の授業風景とは雲泥の違いがありました。わたしがこの生徒たちの頃といえば、今から60年以上も前のこと。英語のアルファベットは、中学1年生になってから初めて学びました。英語の担当は、大変愉快な小林先生でした。先生は、夏のキャンプファイヤーで、「金色夜叉」の貫一、お宮の熱海の海岸での立ち回りを一人で演じ、全生徒の抱腹絶倒と歓迎を受けました。その小林先生が、黒板にチョークで、「字引く書なり」と書いて、「ジクショナリは辞書のことだ、覚えろ」と。

豆腐は、「ビーン・カーズ」と覚えろとも。同先生によれば、太平洋戦争直後に裁判にかけられた日本の兵隊さんが、「アメリカ人捕虜に何を食べさせたか?」と聞かれて、「豆腐を食べさせたと」と答えたらしいのです。通訳が豆腐をどう訳してよいかわからず、漢字の直訳で、腐った豆を食べさせたと訳したものだから、裁判官が怒ってその兵隊さんを死刑にしたというのです。真偽のほどはわかりませんが。いずれにしろ、将来トラブルに巻き込まれないために、舌をくるりと巻いて、カーズという発音を何度も練習させられました。小林先生は、「困窮売淫」というのも教えてくれました。コンキュバインは、英語でお妾さんのことです。

大阪の田舎育ちですから、外国人に接する機会はめったになく、中学校の遠足で伊勢神宮に参った時に白人の外人観光客と交わした会話が初めてのものでした。「ウエア、アーユー・フロム?」と聞かれ、「どこから来たのか?」と聞いていると分かりましたので、心臓が破れるくらいドキドキしながら「オーサカ!」と答えました。その外国人は、「オー、フロム オーサカ!」と応えてくれましたが、わたしには、「ああ、そうか、フロムが抜けていた」と恥じ入ることしきりでした。

小学3、4年生といえば、10歳前後です。そのような感受性の極めて高い時期に、外国語、外国人に接することは、その後の人生に大きな影響があると思えてなりません。わたしの息子は、その年ぐらいの時分に、ジュネーブのインター・ナショナル・スクールに通っておりました。彼と同級の生徒の一人に、ガーナ出身の女生徒がいましたが、彼女は成績がよくて、我が息子をしり目にさっさと飛び級でクラスを離れていきました。インド人の生徒も同様、飛び級でした。「アフリカやインドにもあのように頭のいい子がいるのだ」と、親子して感嘆しましたが、世界の多様性を学ぶ良い経験になりました。

小学生から、外国語(英語)を教えることに反対の意見もあります。通訳者で英語教育者の鳥飼久美子さんは、外国語を学ぶのは「早ければ早いほど良い」というのは、間違った幻想であり、根拠がないと論じています。彼女の主張は、外国語を学ぶのは、分析的に学ぶことができる抽象的な思考力が備わった、中学生のときのほうが最適だというものです。

数学者でエッセイストの藤原正彦氏は、小学生のうちは英語よりも国語や数学をしっかり学ばせるほうが大事だと強調しています。教養を深め、論理的な思考の訓練になるからという理由です。「日本語が亡びるとき」の著者の水村美苗氏は、同書で、小学生の英語教育は直接扱ってはいませんが、学校教育を通じて多くの人が英語ができるようになればなるほどいいという前提は、否定すべきとの強い意見です。国民の全員がバイリンガルになるのを目指すのではなく、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すべきとの主張です。そうでなくては、世界の「普遍語」たる英語の世紀の中で、「いつか、日本語は亡びる」と言い切っています。

このように、英語教育をめぐっては、明治維新以来、様々な論争が繰り広げられてきましたし、今も続いています。江利川春雄和歌山大学名誉教授の「英語教育論争史」(講談社選書メチエ、2022年)によれば、これまで主に3点ほどのテーマが論争の的になっています。一つは、英語教育を小学校から始めるのが良いか、中学校からにすべきか? すでに明治時代に小学校で英語教育が行われており、論争になっていたという驚きの事実が紹介されています。二つ目は、英語教育は、教養を高めるのが主たる目的か、それとも実用的なコミュニケーション能力を高めるためのものか? 第三点は、国民全員が義務的に学ぶべきか、あるいは一部エリートないしは外国語を必要とする少数の人に限定することでよいのか?

1970年代には、これらの論点をめぐって、有名な平泉渉対渡部昇一の英語教育大論争というものがありましたが、ここでは割愛させていただきます。要は、明治時代以来、これまで長い間英語教育について種々論争はあったけれども、現在では、小学生から始め、教養よりもコミュニケーション能力の向上を目指し、エリートに限定せず国民全員が学ぶ、というのが大きな流れになっていると見てよいのでしょう。

そのような流れにもかかわらず、現在のところ、日本の中学生や高校生の英語を話す能力は、国際的に見て非常に低い状況が続いています。2020年の高校卒業時のTOEFL iBTの国別スコアでは、台湾が85、韓国が86、中国が87と世界標準レベルまで上がってきているのに対し、日本は73で、世界のスピードに追いつけていません。特に話す能力の低いのが目立ちます。

以下の調査結果をご覧ください。これは、少し古いですが、文部科学省による2014年度の調査結果です。当時はまだ必修の教科ではなく、「外国語活動」の一環として英語が小学5、6年生を対象に教えられていたのですが、その7割以上が、英語は好きだと答えています。その前向きな姿勢に、中学校や高校での英語教育が十分に応えられてこなかったことが問題なのです。

(添付ファイルを参照ください)

 それでも、最近新しい動きがあります。東京都と株式会社TOKYO GLOBAL GATEWAYが運営する「トーキョー・グローバル・ゲートウェー(TGG)」という体験型英語学習施設のことをご存じでしょうか?立派な新しい建物が、東京の青海と立川にあります。前者は2017年に設立され、後者は本年1月にオープンしたばかりです。そこでは、小学生や中学生などのビジターが、空港や、売店、薬局などの模擬サイトで、米、豪などの外国人英語講師と英語で話す体験をすることができます。はじめはオドオドしていた生徒たちが、一日体験の終わりには、ハイタッチで、教師たちと仲良しになります(https://tokyo-global-gateway.com/)。

わたし自身は、このように小学生が英語を学び始めることに、大いに賛成です。日本は、安全で、空気も水もきれいで、住み心地の良い国であることは間違いありませんが、それでも、いまだに相当程度閉鎖的で、いろんな分野にガラパゴス現象的なものが残っていると思います。もっと外に対してオープンで、自由で、多様性を重んじる国民になってほしいと願います。さらに、自分の考えを自信をもって世界に向かってプレゼンできる人が増えてほしいと思います。その観点からは、英語の読み書きも大事ですが、やはり英語をうまく話せない人が大半という現状は何とかしなくてはいけないと思います。

確かに、水村美苗氏が強調するように、「教育の場において、国語としての日本語を護ること」の重要性は、大いに理解できます。しかし、現在の日本の英語教育が、彼女が危惧する日本語の滅亡を招くほど、ダイナミックに進められているとは到底思えません。小学3,4年生の英語授業は、たかだか週1時間(年間35時間)、5,6年生では週2時間(年間70時間)にすぎません。英語教育の悪影響を危惧するよりも、むしろ、日本語教育自体の充実化を図るべきかと思われます。

幼年期から外国人に接し、英語を話す楽しさを味わった若者たちは、必ずや将来世界で活躍できる大事な力を身に着けると思います。前向きで、好奇心があり、外交的で、話し上手で、ガッツがあり、少々の困難にはくじけない持久力を持った若者 ー そう、最近世界のあちこちでよく見かけるインド出身のリーダーのように ー がたくさん出てきて、将来の日本を支えてくれることを望まないではいられません。

(44 安田)赤阪氏について:

高校時代からの友人(一橋大学卒)、「国際関係・外交」専門の大学教授(今は引退)が懇意にして来た友人として赤阪氏を3年ほど前に紹介されました。彼は大阪は楠木正成で知られた千早赤阪村出身、1948年生まれ、京都大学卒、キャリア外交官、2007〜12年 国連広報担当事務次長を最後に外務省から退職、以後、公益財団法人フォーリン・プレスセンター理事長を務め、現在は公益財団法人日本ドットコム理事長。

赤阪氏を紹介されて以来、彼の随筆「話のタネ」を、ほぼ月一回程度の頻度で送ってもらっています。僕の友人・仲間へ自由な転送及び転載については快諾済です。彼とは未だ面識はなく、メール及び友人経由の交信です。拙著「アポロが月に到達した頃、僕は世界を歩いていた」を進呈して面白く読んだとの返答を貰いました。

「エーガ愛好会」の“日本語の英語教育について”議論は彼は知る由もなく、たまたまタイミングが合った次第です。彼も本件の重要性について問題意識を持っていることが確認できて良かったです。

 

 

 

エーガ愛好会 (226) Railways愛を伝えられぬ大人たちへ 2011  34 小泉幾多郎

7月3日偶々富山を題材にした番組がNHKBSPにて放映された。小生1971年3月から1974年9月の3年半ばかり富山で勤務したことがあり、懐かしく回顧した。

 映画「Railways愛を伝えられぬ大人たちへ 2011」は、富山から宇奈月温泉までを走る富山地方鉄道を舞台とした定年を1か月後に控えた定年間際の運転手とその妻の物語。運転手を三浦友和、その妻を余貴美子が演ずる。ひと昔前にいそうな頑固な夫、夫婦互いに伝え下手が何とも言えず、こういう夫婦の形は昔よくあったんだろうなと思われた。何時の間にか夫婦の間に心の溝が出来てしまっていたから、お互いに身軽になった方が余生を楽しく本当の自分らしい生活が出来ると離婚をする決断を下すものの、妻が面倒を看ている患者の地方鉄道での急変への対応から夫婦お互いのよりが戻るまでを地方鉄道運転に絡み、立山連峰をはじめとする景観を初め、電鉄富山駅から富山各地がロケ地として登場する。

夫婦間だけに留まらず、運転手の部下中尾明慶とのやり取りも面白く、定年送別の席、宇奈月温泉での先輩米倉斎加年の「これからの20年は長いぞー」の実感ある言葉、もうとっくに20年を超えてしまった我が身にとって、何と言ってよいものか。

「絶景てつたび夏の富山」は鉄道写真家中井精也氏が各地を巡る富山編。小生が富山在住時以降北陸新幹線が出来たりして、当時のJRが第三セクター化したりしたが、景観は変わらない。

1.      あいの風とやま鉄道(石動~越中宮崎間) 夏の雲と田圃、稲葉山の展望広場、富山駅前の路面電車、東富山の水田地帯と早朝の立山連峰、西入善黒部川の名水の里、泊 宮崎城跡から海と鉄道の展望
2.      万葉線(高岡~越の潟) 高岡大仏、中伏木駅花壇の花々、六渡寺駅の鉄橋床川橋梁、新町口駅の夕焼けと山々、終点越の潟の渡し船と新港大
3.      立山黒部アルペンルート 電鉄富山~立山~美女平~室堂~大観峰~黒部平~黒部ダム 立山連峰の朝昼晩、みくりが池、ブロッケン現象等
4.      富山地方鉄道本線(富山~宇奈月温泉) 新宮川駅田圃にポツンとある踏
切、西魚津駅舎 遊園地の観覧車、新黒部の公園頂上からの景観、栃屋夕日の踏切、宇奈月温泉。

以上80数年のうちの3年半の富山在住だったが、眺めた場所、知らない場所もあったが、懐かしき風景にも出会い、郷愁を新たにした。当時を述懐すれば 立山等の山々を別にすれば、車であちこちを巡ったことの方が多かったかも知れない。特に富山周辺の岩瀬曳山車祭、八尾曳山祭や砺波付近の砺波夜高祭り、福野春祭り、福光春祭りや高岡氷見付近の高岡御車山祭、伏木曳山祭りを見物に行ったこと等が想い起こされる。

日光へ行ってきました  (HPOB 小田篤子)

27~30日まで、成人してから初めて、日光を旅行して来ました。緑が多く、とて落ち着いた所でした。

《日光》
①先ずは中禅寺湖畔を周りました。湖畔には先日の『G7 NIKKO』のモニュメントが。
《ボートハウス》
1947年にアメリカの建物をモデルに建てられました。
長崎であちこちで見かけたグラバー氏が、再登場! この辺りに別荘を建て、カワマスを放流し、フライングフィッシングを広めたそうです。
長崎のグラバー園には水産学者でもあった息子、倉場富三郎の「グラバー図譜」が飾られていました。富三郎は日本にトロール船を導入、近代的捕鯨産業を確立したと言われますので親子とも魚好きだったのですね。
《立木観音》
加山雄三さんが「エレキの若大将」の撮影をした所で記念碑がたっていました。
《英国大使館別荘記念公園》
英国外交官、アーネスト·サトウが1896年に建て、旅行家イザベラ·バードも滞在しています。
サトウの次男、武田久吉博士は植物学者、登山家でもあり、日本山岳会の発起人でもあります。
さすが、あちこち旅をしたサトウさん! 穏やかな眺めは、心落ち着く絵葉書のような景色でした。お隣のイタリア大使館も、杉の木の皮をパッチワークのように使った外装が特徴的です。この時期この辺りへのバスがなく、帰りは歩き始めて間もなく、大雨、雷、ヒョウにあい、40分程一生懸命歩いてきました!
②《東照宮》方面へ
東照宮は外国人も多く、とても混んでおり、隣の、人がまばらな《家光廟日光大猷院》の方が阿と吽の口の金剛力士、カラフルな4体の夜叉、300以上の石灯籠、黒と金の荘厳な建物…と見応えがありゆっくり楽しめました。
《金谷ホテル歴史館》
山口由実さん(’62年生まれ、慶應卒)の著書「クラシックホテルが語る昭和史」を読み日光金谷ホテルの事を知りました。
金谷ホテルの金谷眞一(兄)と箱根富士屋のホテルの山口正造(弟、婿養子)は兄弟で父が金谷善一郎。山口由実さんは正造の曾孫です。
1873年に東照宮の雅楽士《金谷善一郎》が、泊まりにきていた米宣教医師ヘボン博士の勧めで、外国人専用の『金谷カテッジイン」=「侍屋敷」を開業。
イギリス人旅行家イザベラ·バードも1878年に12日間滞在したり、20年間使われた後、保存されています。元は武士の家でしたので、隠し部屋等、昔の知恵が使われており、庭も綺麗です。
《田母沢御用邸記念公園》
日光出身の実業家小林年保の別荘に、病弱だった大正天皇のご静養の為に、紀州徳川家江戸中屋敷(赤坂離宮として皇室に献上後)の一部を1898年移築した事から始まります。その後の増改築の結果、江戸、明治、大正の木造建築を合わせ持っています。木材の宝石箱だそうです!1947年まで利用された皇室3代。部屋数106室(皇室用23,臣下用83室)!
*日光金谷ホテル
夕方5時から泊まり客用に45分間の館内ツアーがあります。アインシュタイン、ヘレン・ケラー他多数の有名人が宿泊。
ここのバーは真空管の音響でジャズを流しています。違いが私には…(久しぶりにバーに入りました!)G7 NIKKOではリッツ·カールトンを利用したようです!
(この写真は 44 安田君提供)

釜蓋朔日 ― 水無月から文月へ     (普通部OB  舩津於菟彦)

水無月から文月へと時は移ろいますね。今年も明日で丁度半分。まだ半分しか時は過ぎていないと思うか、今年は後六ヶ月しか無いと思うか。紫陽花とクチナシそして紫君子蘭、ヤブカンゾウが満開の錦糸公園を歩いて来ました。

『 文月や 空にまたるる ひかりあり 』 加賀千代女   文月の空だなぁ。まだ夕方で日が沈んでいないのに、日が沈むのを待ちかねた月が光っている。
『 文月や 神祇釈教 恋無常 』     正岡子規    文月だなぁ。  世の中の有様はさまざまであることだ。

7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)と言う日だそうです
死者の霊魂が地獄の石戸を突き破って出てくるという日。お盆を迎える準備は朔日から始まる。この日を釜蓋朔日と呼び、あの世の釜の蓋が開いて、ご先祖さまの精霊が冥土からそれぞれの家へ旅立つ日とされている。あの世からの道は非常に遠く、それで朔日に出発しなければ盆までに間に合わないということ。走って現世に来てくれるのかしら、写真とかお位牌に向かって、「いろいろ教えてくれたり、今日あるのはも皆様のお陰です」と言うしか無いですね。
御元気なときに言いたかった言葉です。 これから祭祀などの執りおこない方とか戒名とか色々変わっていく時代に成ってきていますね。

日本の英語教育について (4)

日本人の英語教育はどうあるのがいいのか、ということについて、いろいろな立場からのご意見をいただき、 なぜ、英語が必要なのか、それはどの程度の能力なのか、という基本的な命題を議論してきた。今回はそもそもの議論のきっかけであった、”英語教育の手法“ といういわば技術論について私見を書く。

我が国における英語の必要性、という問題について、投稿者各位のあいだで一致した認識は、一般の日本人が大学まで進学した場合、単純合計で10年間まなぶことになる英語教育が、結果としてグローバルな場で外国人とコミュニケートできるだけの成果を出していない、ということである。ただ、ここでいうコミュニケート、とは、会話能力、と言い換えなければならない。なぜかといえば、外国語で書かれた書物を自国語で読解できる、すなわち主要な外国文献が自国語に翻訳されて誰でも入手できる社会環境を維持しているという意味では、日本ほど制度・機構が出来上がっている国はほかにないのではないかと思うからだ。

欧州各国は長い歴史を経てなお、自国の領土に固有の言語を保持しながら、地理的、文化(歴史)的経過からお互いを知り、認め合うという仕組みがあり、言語そのものを知悉しなくてもコミュニケ―ションが保たれているし、ごく普通にマルチリンガルな人間がいてもいわば当然と言える。しかしそのほかの国、米国をはじめとした非欧州の国々が他国の言語に敏感であるとは思えない。日本の若者のように、自国語で、今日はゲーテを読み、明日はサルトルに手を伸ばし、それがすんだらヘミングウエイにしようか、ということが出来る。これは明治開国とともに、わが福沢諭吉をはじめ多くの先達者が切り開いてきた外国語翻訳という確たる文化である。くりかえすが、かの 日本では英語の水準がほかの国に比べて低い、だから日本は遅れているのだ、というお役所議論は全く意味がない。外国の優れた文物を取り入れ、消化し、自国の状況に合わせてローカライズする、という事が大事なのであって、外国語がわかるかどうかという事は単なる事実のあとづけにすぎないからだ。

しかし、そもそもの議論のきっかけである、”グローバルな環境での異文化と対人関係のなかにあって自己を主張し議論を重ね成果を得るための言語、事実として世界語である英語の会話能力” という点についてわれわれが大きく立ち遅れている、という認識には小生も100%同意である。ただ、多くの人が指摘されるように、そういう現実の場においても重要なのは英語というツールだけの問題ではない。小生の経験からいうと、本節の意味でいうコミュニケート能力の不足、の原因は第一に日本人が生まれついてきたいわば日本人としてのしつけ、すなわち自己主張をする前に組織との整合性や他人の立場を考慮する、という文化であり、雄弁よりも断固たる沈黙を貴ぶという武士道的発想ではないかと思う。またそういう時に、これもまた日本人には苦手なのだが、ユーモア、とかエスプリ、といったものが持つ重要性も考える必要があるようだ。

(以前にも本稿で書いたと思うが、あまり評判はよくなかったが歴史の勉強として小生には役立ったアメリカ映画 遠すぎた橋 のなかで、ロバート・レッドフォード扮する分隊長が白昼、敵前での決死的な渡河を命じられるエピソードがある。無謀な命令に部下たちの間に動揺が起きる。ここでレッドフォードがこういうのだ。Hey, what the matter、guys ?   Don’t you have sense of humor ?     大体西部劇とかこういうスペクタクル物の会話はまずついていけないのだが、このカットのセリフは明瞭に聞き取れた。そしてその時、(へえ、ユーモア?)と違和感があった。しかし考えてみるとこのような生死を賭けたような場合ですら、ユーモア、ということが平然とでてくるのが英語の世界なのだろう。こんな生死をかけた場面でユーモアを要求する文化は日本には絶対に存在しない)

前回定義した英語レベルでいえば、今回寄せられた経験論にもあるように、ほとんどの場合、現在日本での標準と言って差し支えないと思うが、中学から大学まで、10年間の英語教育をこなしてさえいれば、実用的なレベルのコミュニケートはできる、というのが小生の経験値である。ただ、ビジネスレベル2、といった程度では上記したようなハイレベルのコミュニケーションを成立させるには不十分であることもわかる。相手が示す言外の意味がわかるかどうか、とか、対人関係の中で生じることとか、ちょっとした蹉跌が重大な誤解につながることもあり得るので、下村君が呈したようなシーンでは、やはりソーシャルレベル、の英語力が必要であると感じている。それではそのソーシャルレベル以上の英語力はどうやったら身につけられるのか。考えているうちに、一つのケーススタディがなんということか、ごく身近にあることに気がついた。自分の孫である。

彼が就学年齢に近づいたとき、息子夫婦は彼をインターナショナルスクールにいれる、という決断をした。正直言って我々夫婦はこれには抵抗があったのだが、いくつかのスクールで小学校から高校まで学んだ彼がつい先日、高校過程を卒業した。そして在日外国人の子弟が対象のPEARL(Programme in Economics for Alliances, Research and Leadership)の参加資格を得て、慶應義塾経済学部への入学が決まった。この PEARL の部分は当初から計画したわけではない、いわば完全なフロックで、当人も受験対策を始めようかという時期だったので、結果善ければすべてよし、に近い結末になった。彼の卒業式(アメリカ式にコメンスメントーcommencement )に出席してみて、改めて彼の英語力に感嘆した。測定方法があるわけではないが、これは見事に我々の定義するソーシャルレベルに達している(当然17歳という人生経験の範囲であるが)をこえていると確信した。結論から言えば、小学校レベルから本格的に教育すれば、外国生活を経ずにこのレベルに到達できる、という(彼には申し訳ない表現だが)実験が成功したわけだ。

ただ、もちろん、このことが、天下の愚策である政府主導の小学校英語教育なる暴論を肯定するものでは決してない。彼の場合、少なくとも學校校舎にいる時間は完全に英語オンリーの環境に置かれていたわけで、たとえ小学校の6年から大学での時間まで含めても、も日本の環境では絶対にカバーできない量、質、環境の英語を体得したからこその話だし、仮に小学校過程でいくばくかの基礎ができたところで上部構造の高学年での教育システムが変わらない限り、かつてこの議論について藤原正彦氏が喝破されたように、(多少は発音がいいくらい)の効果がせいぜいだろう(小生は同氏のご指摘の程度までの習得さえ絶対に不可能だと思っている)し、また、息子には聞いてもいないが、通常の家庭で子供にかけられる教育費とは相当の違いがあったはずだ。さらに幸運だったのは、家庭環境である。息子はアルバイトでためた自己資金で渡米し大げさに言えば徒手空拳、で英語を学び、米国の、いわば下層に近い環境での生活経験があり、現在は米国企業の日本組織にはたらき、嫁もまた米国生活の経験が豊富、というものだったからだ。

彼がこれから大学生活に入り社会人になっていく過程で、獲得したソシアルレベル級の英語力という有利性の一方、ほぼすべての時間を英語を学ぶことに費やした少年時代、という事実がどのように作用していくのか、想像することは難しい。もちろん、多感な少年期を外国人とのあいだで過ごしたことが多くのシーンでプラスに働くことは間違いない。しかしその同じ時期に一般家庭の少年たちが経験した、変な表現だがリアルの日本社会・日本人との交流・日本の子供たちが読んだであろう本や仲間内の交流、といったものを体験していないということがどうなのか、ある場合にはマイナスになることも十分あり得る、と思うのだ。

英語のレベル、ということで今までの議論を延長すれば、彼の場合にはいわゆるバイリンガルになり得る(もうなっているかもしれないが)立場にある。改めて確認しておくと、バイリンガル、の定義は、二国語が完全にでき、併せて、外国語の背後にある思考様式とか心理的反応などを自分のものとして身に着けた状況(いわゆる 英語で考える という反応)である。このことは多くの場合有利ととらえられると思う反面、小生にはバイリンガル人、という事にある種の不安というかむしろ反感を感じることがある。自分の経験からなぜかを述べる。

前にも書いたがhpという外資系会社に勤務している30年プラスの期間、米国本社が日本駐在という形で3年、5年という単位で担当者を派遣してくることがよくあったが、これには3つのケースがあった。すなわち、その人たちが

(1)日本語を全く解せないいわゆるガイジンである。              (2)日本語を英語同様解するいわゆる二世(本人の父母が日本人。したがって  戦後何年か経つわけで年齢的にあまり若い人はいなかった)。                     (3)日本で教育を受け、その後米国で教育を受けた人。

である。この人たちが日本人や日本的慣行やビジネス環境に対応したとき、周囲(つまり日本人従業員、あるときは顧客)はどう反応したか。

(1)見かけもガイジン、日本語はできない。これは明白、何とか通訳してもらうしかない。もちろん、俺っち日本人の心のひだまで分かってくれることはあり得ないな。あとは結果がどう出るか、待つしかあるめえ。

(2)日本語は多少ヘンだけど、時間が多少かかっても、お互いをまず理解できる。ただときどき感じるギャップは、二世、というひとは心は日本人ではありえないんだから、どっか違うんだが、ま、ガイジンよりはもちろんいいさ。

(3)話はもちろん通じるし、問題ない……..はずなんだが、なんか、深いところで信用できない。日本人なんだけどアメリカ人なんだ、この人は。ま、コトバで苦労しないだけガイジンさんよりやいいけど、なんか、信用できない気がする。

この3タイプを我々の基準で考えると (1)のひとの日本語はサバイバルレベル(おはよー、ありがと、げんきですか? レベル)、(2)は個人差はあったがビジネスレベル2プラスくらい,(3)が問題と考えるバイリンガルレベルである。この(3)レベルの人たちはビジネスの遂行、という意味では多くの場合、問題はなかった。しかし日本人が期待し不可欠と考える人間同士の付き合い、チームビルディング、後輩の育成、などとなるとかれらが物理的に日本人でありながら感覚的には米国人であるという事実が障害となって、うまくいかない、あるいは妙な組織分裂を引き起こしてしまう、という経験をした。本人は言葉が通じるから自分のいうことができるはずなのに部下や顧客がついてこない。思ったことができない。なぜだ?という疑心暗鬼に陥り、さらにアメリカの有名大学卒、というプライド、この機会を(hpクラスの会社であっても、やはり日本駐在というのは特別)出世のきっかけとしたい気持ち、などが重なり、悪い場合には (俺はよくやってるのに日本人の部下が協力しない)という最悪の結果をまねく。当初、小生はこれが該当する本人の技量そのものが原因だと思っていたが、今、振り返って考えると、かれらがなまじバイリンガルすなわちバイカルチュラルであったことが原因なのだと考えるようになった。接触する日本人のほうは、日本人のもつ繊細さや人間関係がわかって当然だと思うのに、それが通じない、ということだ。

いったい、人間が異なる二つの文化・慣習・思考過程を同時に自分のものとして持ちえるのだろうか? (英語で考える)という反応は通訳翻訳といった分野では絶対的に有利なことにちがいないが、今英語、次の瞬間に今度は日本語で考えて対応する、などという事は可能なのだろうか。小生の反応が非論理的というか感情過多であることはわかっているのだが、どうも自分には、バイリンガルすなわちバイカルチュラル、 という図式がしっくりこない。技術論としては全く正しいと思うのだが。あえていえば、”人間は二つの時代には生きられない(菊池寛だったか?)” という感覚である。

(小生の愛読書のひとつが大佛次郎の 帰郷 である。やむを得ない国家的な事情で日本を追放された主人公が、戦争(第二次大戦)が終結して日本へ戻ってくる。生き別れになってしまった家族との再会はできない彼の事情を理解し、おさないころしか知らない娘とのあいだを取り持ってくれた女性に好意を持ちながらなお、自分がエトランゼであることを改めて知り、再びひとりで欧州へもどっていく。この主人公守屋恭吾のイメージは、だいぶ違うジャンルだが松本清張の傑作のひとつ 球形の荒野 の野上顕一郎にかさなって、二つの文化の間に翻弄された人生の描写である。もちろんこれが小生の持つ感覚の説明になるというわけでは決してないのだが、これからいやおうなしに訪れるグローバリゼーションの世界での陰翳の様な気もするのだ)。

長くなってしまった。本論についてはもう一度、書き直す必要がありそうだ。