リニア新幹線に試乗してきました  (グリンビラ総合管理HP より転載)

(武藤)

雨の中家族でリニア新幹線の試乗に行ってきました。実は私、リニアに乗ったのは二度目なのです。初めて乗ったのは小学生の頃。甲府博かな?甲府にパンダが来た時にリニアも展示されていて乗ったのを覚えています。

その時はドラえもんに出てくる未来の乗り物のように感じていましたが、実際は『めちゃくちゃ速い電車』といった割と現実的な乗り物に感じました。ただやっぱり時速500kmに到達したときやタイヤ走行から浮上したときは子供達と一緒にはしゃいでしまいましたが、子供達も大人になっても覚えていてくれたらうれしいなと思います。(その頃には既に開業しているかもしれませんが・・・)

(編集子)セカンドハウスのある小淵沢も最近は電車で行くようにしている。そのたびにリニア試験線のそばを通るわけだが、未だ乗ったことはない。武藤さんが言うように、乗る時は(まだ乗れれば、だが)もう試験線ではないだろうな。

だから言ったじゃないの!  (普通部OB 篠原幸人)

巷ではコレステロールを下げるとか、身体にいいと売られている紅麹(べにこうじ)を含むサプリメントが沢山の人に入院が必要なほど重症な、或いは機能不全でなくなるほどの腎機能障害を起こしたと大問題になっていますね。

K製薬のサプリメントばかりでなく、その紅麹を用いた他社の食品や日本酒なども自主回収を始めたとか。どうやら犯人は紅麹そのものではなく、その中に含まれていた別の不純物らしいのですが、いずれにしても身体にいいと思って高価なものを購入したのに逆に病気になってしまうなんて。

皆さんの中にも、訳も分からず、身体に良いといううたい文句につられて、あるいは勝手に想像して、サプリメントを常用されている方もおられるでしょう。しかしこの「徒然」では以前から繰り返し、毎日の食事が普通に食べられていれば、余計なサプリメントなんて必要ないよと言い続けてきましたよね。

前回のNo51でもそのことを申し上げましたが、過度のビタミンやミネラルその他の栄養素は、通常の食事で十分間に合うはずで、余計に摂取しても、その分は肝臓で代謝され(壊され)、腎臓から尿となって排泄されるだけなのです。言い方を変えれば、余分に摂取された物質は、肝臓や腎臓に余計な負担をかけるだけなのです。テレビで良く宣伝している有名なビタミン剤を飲まれたことのある方も、服用すると尿の色が変わったり、特別な匂いがすることに気づいたことがあるでしょう。身体をビタミンがただ通過しただけだからです。

余った部分がすべてきれいに出てしまえば問題は少ないのですが、肝臓や腎臓、あるいはその他の臓器にたまってしまって、機能障害や労働荷重を引き起こすこともあるのです。皆さん、どうしてもサプリメントを摂りたいにならば、その物質の構成成分を調べて、かかりつけの先生とよく相談するようにしてください。

 

 

米寿のスキーに感動しました  (39 堀川義夫)

船曳先輩が去る3月1日に、米寿、満88歳の誕生日を迎えられ記念に旭川のカムイ・スキーリンクスでのスキーに同行させて頂きました・
88歳とは思えない素晴らしいフォームで滑降されるお姿は、私にとって感動モノでした。私も先輩を範として精進して6年後に、先輩に負けないフォームでスキーを楽しめるように精進したいと思います。
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(保屋野)エーーーー、インストラクターの写真かと思いました。素晴らしいフォームですね。三浦敬三も真っ青・・・

私は米寿まで後8年ですが、スキー云々より果たして生きてるか・・・シモさん(同期の下村)ガンバリましょう。

(三嶋)米寿おめでとうございます。その誕生日を思い出のスキー場で祝われるとは・・・・フォームも88歳とは思えない素晴らしいの一言です!!(撮影者も褒めないといけないね)

私にはあと6年・・・・とても真似ができそうにありません。しかし目標にします。次回天狗でのお祝いが楽しみです!

(見谷)KWV東海41年卒の見谷です。

命に係わる幾多の病に負けることなく、米寿を迎えられましたこと、心からお祝いとお喜びを申し上げます。病の床で迎えるどころか、旭川でお祝いのスキーを楽しまれたとのこと、まさに奇跡としか言いようがありません。ドテ先生のスキーに対する愛の深さを驚きとともに改めて知ることになりました。私たち同期も昨年傘寿を迎えたのですが、ドテ先生の近況報告をお聞きして、挑戦の気概と勇気の大切さを痛感しました。

(編集子)堀川に怒られながら(米寿はおろか傘寿で)早々とリタイアした身分では発言する資格なし。無言。

”懐かしき日々” のこと   (44 安田耕太郎)

同郷北九州出身高倉健のことではなく、ジャイさんが短期間赴任されていたシリコンバレー、レッドウッドとパロアルトのことを懐かしく思い出した。

時は1968年、ジャイさんは勤務先HP社の本社が位置するパルアルトの隣町レッドウッドシティに居を構え、アメリカ勤めを始めておられた。その年はベトナム戦争反対の大規模デモや世界各地で暴動が相次ぎ、黒人公民権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスで(4月)、故ケネディ大統領の実弟、民主党の大統領候補ロバート・ケネディがロサンゼルスで(6月)暗殺されるなど騒然とした年であった。ちょうど時を同じくして、21歳の僕は貨物船で太平洋を渡り渡米、世界一周放浪の旅の緒に就いていた。ロサンゼルスに上陸後、旅費稼ぎを目的としてアラスカ沖の蟹工船アルバイト仕事の雇用面接を受けるため、本社のあるシアトルへ向かう途中、サンフランシスコ南郊のジャイさん宅を訪ねた。奥さん共々KWVの8年上の大先輩お二人に面識はなかった。が、中司ご夫妻の声望は先輩方から伺い知っていて、KWV名簿からサンフランシスコ近郊に住んでおられた先輩の住所を知り、渡米前に手紙を送り、僕のおおまかな旅程をお知らせし、シアトルへの道中3〜4日お邪魔させて頂くことは出来ないか、と厚かましいお願いをしていた。僕はお二人のことを若干伝え聞いていたが、お二人は僕のことは ”何者か?” と訝しがったのは想像に難くない。KWV現役時代から使用していた、左右に大きなポケットがついた薄汚れた横広のキスリングを背負った姿であったので尚更であったろう(注:のちにスマートな縦長のリュックサックを購入して旅を続けた)。

お住いのあった市の名前redwoodとはアメリカ杉、セコイア杉のことで、加州の北部の海岸に沿って300キロにの亘って(幅20~30キロ)拡がる巨木の森で知られていて、世界一高い木は最高は120mに及ぶものもある。樹齢は500~700年ほどだが、1000年以上の木もあるという。
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但し、Redwood Cityは閑静な郊外の住宅地で、魂消るほどのredwoodの巨木にはお目にかからなかった。お隣のパロアルト(Palo Alto) はスペイン語で El Palo Alto (背の高い木)を意味する言葉。Reddwood Cityと同様、人々が入植した頃(1700年代から1800年代)には辺りは、両市の名前の由来となった大きな背の高い木々が覆い茂っていたのではと推測する。Palo Altoが世界に知られているのは、HP社の本拠地である以外には何といっても名門スタンフォード大学が在る町としてであろう。美しいキャンパス、素晴らしいステンドグラスの在る大聖堂(カテドラル)、7~8万人収容のスタジアム(主にフットボール試合の会場)などジャイさんに案内して頂いた。両市とも絵にかいたような閑静な美しい住宅地であった。今ではIT産業のメッカとしてその一帯は発展し活況を呈しているに違いない。

ブログでも言及しておられた当時2歳半の娘さんのお相手をして遊んだ。あれから56年、ジャイさんご夫妻は曾祖父母だ、まさに “光陰矢の如し” 。

滞在中は、毎日バスでサンフランシスコ通い。町を隈なく歩き回り腹一杯サンフランシスコを満喫した。目と鼻の先に見える金門橋に歩けども歩けども着かず、アメリカの大きさを変な所で感じた。アル・カポネが収監されていた合衆国連邦刑務所として知られたアルカトラス島はサンフランシスコ市の北岸から2.4km離れた湾内にあって29年間使用されたが1963年に閉鎖され、当時は訪れることが出来なかった。1973年に歴史記念物として一般公開された後、訪れる機会があった。名物の世界最古(1873年 – 明治5年開業)の現役手動運転の循環式ケーブルカーの動力室がある博物館を訪れ駆動方式について学んだ。サンフランシスコを舞台にしたスティーヴ、マックイーン主演の刑事アクション映画「ブリット」を映画館に観に行った。坂道を縦横に駆けるカーチェイスを存分に楽しんだ記憶がある。当地を訪れて、臨場感が半端なかった。

バック・オウエンスとグレン・キャンベルの曲は滞米中によく聴いたものだ。とても懐かしい。https://m.youtube.com/watch?v=zBNzxhc0T3I

吉川さんの絵手紙

吉川光彦夫妻は、先日 ”懐かしき日々” で書いた、編集子第一回の滞米中、現地で紹介されて以来の家族ぐるみの親しい仲である。当時2歳半だった娘は信子夫人を ノブ―、ノブ―と言ってなついてくれたので、夫婦二人で出かけるときには安心して預かってもらえたし、現地での生活が長かったので、何くれとなく頼りにしていた。帰国後もHPを通じてお付き合いが続いている夫妻は退職後古都奈良に自適しているのだが、絵心のあった吉川さんは余暇をもっぱら絵を描くことに充て、今は絵手紙を折に触れて送ってくれる。手紙には近況やら奈良のことなどがソフトなタッチで書かれている。筆不精の小生は申し訳ないがもらいっぱなし、なのだが、あらためて彼の充実した老後、に心温まる気がする。

日本ではサラリーマンが一度職を離れると、急速に社会との接点が減少するのが常である。この社交性の減少が個人の老後の在り方を左右する大きなファクタであろう。”仕事” から離れて一個人となったとき、貴重な時間をどう過ごすか、千差万別ではあろうが、”趣味” を持つ人の時間が持たない人よりも豊かなものであることは間違いなかろう。吉川さんからユーモラスな絵手紙をもらうたびにそう感じるし、”趣味” と言えるかどうかは別として、数多い、中には命を預けあったことさえあった、心の許せる友人を持っている自分の幸せを改めて感じる。

エーガ愛好会 (261)懐かしのフランス映画  (大学クラスメート 飯田武昭)

ジャン・ギャバンでもアラン・ドロンでも、イヴ・モンタンでもないフランス映画を時々、懐かしく思い出し再見する。

特に、名匠ルネ・クレール監督とジュリアン・デュビビエ監督のモノクロの4作品は、憧れのパリ、セーヌ川、シャンソンというイメージで連想する作品で、劇場で観た当時から心に残る名作と思ってきた。

映画の日本語タイトル(邦題)が割合に似ていて、時々、見返さないとタイトルと映像とが混乱するので、改めて見直して整理してみた。

1、「巴里の屋根の下」(Sous les toits de Paris) (1930年製作 フランス映画)

監督:ルネ・クレール 主演:アルベール・プレジャン、ポーラ・イレリ

音楽:ラウール・モレッティ

ラウール・モレッティ作曲、アルベール・プレジャンが歌う主題歌は日本でも大ヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=YQsukCcJ3Mk

(注) サイレントからトーキーに移った当時はアメリカ映画が主体だったが、フランス映画で初めてトーキーが昭和6年に封切されたのがこの映画。 日本人がパリの下町の流し歌(シャンソン)を初めて映画の中で聞いた作品。

2、「巴里祭」(Quatorze Juillet) (1933年製作 フランス映画)

(映画の原題は「7月14日」(Quatorze Juillet)というもの)

監督:ルネ・クレール 主演:アナベラ、ジョルジュ・リゴー、レイモン・コルディ

音楽:モーリス・ジョベール

「巴里祭(A Paris dans chaque faubourg)」 邦題「巴里恋しや」

リス・ゴーディが歌う主題歌が日本でも大ヒットした。

(注)7月14日の革命記念日を明日に控え、巴里の下町はお祭り気分。ジャンはタクシーの運転手。その恋人アンナは花売り娘。ジャンの下宿に昔の女ポーラが現れたことから、二人は喧嘩別れ・・・・。

(注) 監督ルネ・クレールは「詩的レアリズム」の監督と言われている。

3、「巴里の空の下セーヌは流れる」( SOUS LE CIEL DE PARIS COULE LA SEINE) (1951年製作 フランス映画)

監督:ジュリアン・デュビビエ 主演:ブリジット・オーベエル、ジャン・プロシャール

音楽:ジャン・ヴィーネ

主題曲(シャンソン)2曲

・「巴里の空に下」 (作詞)ジャン・ドルジャク (作曲)ユーベル・ジロー

ユーベル・ジロー作曲、リーヌ・ルノーが歌う主題歌は、ジュリエット・グレコによってカバーされて、日本でも大ヒットした。

https://www.youtube.com/watch?v=utOEvlXehHk

・「巴里の心臓」 (作詞)ルネ・ルーゾオ (作曲)ジャン・ヴィーネ

 

4、「アンリエットの巴里祭」(La Fete a Henriette) (1952年製作 フランス映画)

(原題は聖アンリエットの日(La Fete a Henriette)というもの)

監督:ジュリアン・デュビビエ 主演:ダニー・ロバン、ミッシェル・オークリル、ミッシェル・ルウ、ヒルデガード・ネフ

音楽:ジョルジ・オーリック

「「自由を我等に」「悲しみよこんにちは」などの作曲も手掛けた巨匠ジョルジュ・オーリックの作曲によるテーマ曲。

ところで、学生時代(1950年代後半~1960年代前半)に「シャンソン」という月刊誌があったので、毎月購読していた。欧米文化に憧れ、特に映画「第三の男」のロンドンの石畳、映画「巴里の屋根の下」のシャンソン、映画「荒野の決闘」のモニュメント・ヴァレーなどには、何とかして行って見たいと思っていた。その後、70年ほど経った今では、この望みを叶えてはいるが、シャンソンは今でも時々思い出したように素人のサックスで吹いて見たくなる曲が多い。その時は手元の「シャンソン名曲集」等から好きな曲を選んで吹く。

・パリの人生 ・聞かせてよ愛の言葉を ・街角 ・愛の讃歌 ・パリの空の下 ・さくらんぼの実る頃 ・枯葉 ・ラストダンスは私と ・雪が降る ・サン・トワ・マミー ・セ・シ・ボン ・オー・シャンゼリゼ ・ろくでなし ・幸福を売る男 ・パリの屋根の下 の譜面が収納されている。

(保屋野)シャンソンは、聴けばすぐ曲名が分る超有名な歌から、日本人にはあまりなじみのない歌まで数多くありますが、まず超有名な

①  巴里の空の下②巴里祭③愛の讃歌④枯葉⑤バラ色の人生⑥ラ・メール⑦オー・シャンゼリーゼ⑧巴里のお嬢さん⑨サント・ア・マミー⑩恋心

次に有名な⑪詩人の魂⑫セ・シボン⑬聞かせてよ愛の言葉を⑭ろくでなし⑮パダム・パダム

最後にあまり知られてない⑯さくらんぼの実る頃⑰ふたりの恋人⑱ドミノ⑲サンジャンの私の恋人⑳私の心はヴァイオリン

そして、あるランキングでトップの(ピアフの代表曲)㉑ミロール~題名も歌も初めて知りましたが・・・

(編集子)2009年、友人のジュネーヴの別荘に誘われたので、万全の計画をたててそのあとパリへ乗り込む予定だったが、滞在最後の日、二人で散歩に出かけたときパートナーが石車に乗って転倒、結局JALに掛け合って傷病者向けシートで即時帰国の羽目になった。それ以来、前にもましてパリは縁遠い。小生のパリ、は戦後まもなくはやった石井好子の ”巴里の空の下オムレツのにおいは流れる” でとまったままである。

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石井 好子(いしい よしこ、1922年8月4日 – 2010年7月17日)は、日本シャンソン歌手エッセイスト、実業家(芸能プロモーター)。日本シャンソン界の草分けであり、半世紀以上に亘り牽引し続けた業界の代表・中心人物として知られている。日本シャンソン協会初代会長。東京都出身。東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)卒業[1]東京音楽学校声楽専科卒業[2]

”懐かしき日々”

数日前、新聞に高倉健のお気に入りを特集したCDのことが書かれていた。大ファンのわがパートナーに頼まれてアマゾンに発注したら、なんと翌日、手元に届いた。迅速なサービスに感心する一方、現実問題としてドライバー不足になやむ運送業界も大変だなあ、と妙な気持ちもした。

さて問題のCDは小生はまだ聞いていない。”昔の” というか ”あの頃の” というか、歌は世につれ世は歌につれ、だれでもオールドメロディには郷愁を覚えるはずだが、この健さんのお気に入りセレクションには ”日々” という付加語がついている。つまり曲そのものよりもそれによって思い出される日々への想い、という意味があるのだろう。曲、ということでいえば、小生にもそれなりの選択がある。だがそれに ”日々” という限定詞をつけるとするとその内容は変わってくる。もちろん、大学生活の大半をしめるKWVでの日々、はもちろんある。しかしその日々のことは半世紀を越えてもなお、”楽しかった日々” と置き換えられる思い出である。健さんの(勝手な想像なのだが)言おうとした、帰らざる日々への郷愁、とすると僕にとっては短い間であったがカリフォルニアで過ごした秋の日々、ということになるだろうか。

当時、まだ、米国で生活する、ということはまだまだ非日常なことであった。だから現地に行く前に自分が想像していたのは日本では体験できない新規な事物への期待であったし、確かにそういうことも数多く思い出される。しかし、(再び勝手な想像なのだが)健さんがこのCDに込めたのであろう ”日々” ということとなると、シリコンバレーの場末、レッドウッドシティというこじんまりした街で、新聞広告を頼りにみつけた2軒長屋(当時は住む家まで会社で用意してくれる、という結構なシステムはまだなかった)で2歳半になった娘を遊ばせながら(まだ彼女と遊んでくれる子供は見つからなかった)過ごした、異国の秋の日々だった。小さな庭は高い塀で隣家とへだてられていて、その塀の上、落ち葉の合間をちいさなリスが走り回り、しんとした空が秋の色だった。そしてそのバックにいつでも思い出すメロディは当時のカントリミュージックに新風を吹き込んだ、若き日のバック・オウエンスの、It takes people like you to make people like me という軽快なメロディと、ちょうどその秋にヒットしたグレン・キャンベルの By the time I get to Phoenix である。C&W はよく聞いてきたが、この2曲だけはメロディとともに、”あの日々” ー 深まる秋の、異国で過ごした濃密な感情 ー がはっきりと蘇る。

仕事を離れて、パートナーとふたり、センチメンタルジャーニーをやろうぜ、と言い続けてきたのだが、つい最近、会社時代の友人が誘ってくれた ”パロアルトへの旅” もなんとなく見送ってしまった。健康上の不安もないわけではないが、あの日々を過ごした、古き良きアメリカの最後のきらめき、懐かしき日々 がもう味わえないだろうという、不安が残念ながら一種の確信になってきたからだった。

明日にでも、この健さんの想い出、を聞いてみようと思う。

(安田)バック・オウエンスとグレン・キャンベルの曲は滞米中によく聴きました。とても懐かしいです。URL貼付します。

 

(小田)我々はアメリカを旅した時、空になったLOVELANDの工場、HP EnterpriseだけのPalo Altoに寂しさを感じましたので、Giさんは行かれたら、もっと悲しくなることと思います。

Glen·Campbellの《恋はフェニックス》はコースが逆になりますが、ルート66を旅した時、オクラホマ、アルバカーキ、アリゾナを通りながら口ずさんでいました。

エーガ愛好会 (260) 騎兵隊  (34 小泉幾多郎)

 ジョン・フォード監督の騎兵隊と言うと「アパッチ砦1948」「黄色いリボン1949」「リオ・グランデの砦1950」の騎兵隊3部作が思い浮かぶ。「騎兵隊 1959」は、そのほぼ10年後の作品で、しかも南北戦争を題材にした戦争映画だから、純粋の西部劇とは呼べないかも知れないが、同じ軍隊で、同じ風俗を描いたものとして、西部劇に分類されている。3部作を思い出してみると、モニュメントバレーを背景にした壮大で美しい景観の中での先住民と騎兵隊とのスピード感溢れる戦いもあったが、仲間内での楽しい喧嘩、ユーモアに溢れた会話、ダンスや合唱隊が唄うシーン等が満喫された。このようなアクションの余韻だった情感とユーモアが、この「騎兵隊」ではしばしばアクション自体が表面に押し出された描写が強くなった印象。

冒頭のタイトルシーンから、騎兵隊のマーチI Left My Loveを背景に騎兵隊が進み、撮影ウイリアム・クローシアのカメラが美しく追う。マーチの作詞作曲が、スタン・ジョーンズで、南北戦争たけなわの頃、ミシシッピー流域のビックスバーグが戦局の焦点で、そのスタン・ジョーンズ扮する北軍グラント将軍が、ジョン・ウエイン扮するジョン・マーロウ大佐にビッグスバーグへの補給路を断つため、敵中深く潜入し、鉄道の要所ニュートン駅の機能を破壊する密命を下すことから始まる。軍医として、ハンク・ケンドール少佐(ウイリアム・ホールデン)が配属されるが、後で判ることだが、過去に医師の誤診で妻を亡くしたことのあるマーロウ大佐と軍医ケンドール少佐とは、事ごとに対立する。途中、農園の大邸宅に宿泊することになるが、女主人のハンナ・ハンター(コンスタンス・タワーズ)に、士官一同もてなしを受ける。この主演三人が、頑固で意固地なウエイン、ナイスガイのホールデン、南部女性の誇りを忘れないコンスタンスが夫々の個性を発揮して行く。ハンナが、作戦を盗み聞きし、南軍に密告を計画していることをケンドールに悟られ、ハンナと女中のルーキー(アリシア・ギブスン)は捕えられ、機密保持のため帯同することになる。行進中、ハンナは何度となく脱走を繰り返すも成功しないうちに、戦闘になれば負傷者の介護等の努力、マーロウに対する素っ気ない振舞のうちにも好意を持ち始めながらも、北軍はニュートンの町を制圧し駅を破壊する。しかしマーロウとケンドールの仲はさら
に険悪となり、殴り合いが始まった。丁度その頃南軍の幼年学校の生徒を率いる年老いた校長が依頼に基ずき制服制帽姿の生徒たちを神のご加護を念じながらの進軍となる。すると幼年兵の一人の母親が、息子は父も叔父も兄も戦死し、死なせる訳にはいかないと訴えると、校長は振り向きもせず、その子に隊列を離れるよう命令する。家の中に連れ帰られたが、その少年再び戻るも、北軍に捕まる。マーロウ大佐にこの捕虜どうしますかと聞かれ、マーロウ曰く「尻をぶて!」。退却ラッパが鳴り響き、幼年学校兵の進撃に、北軍は逃げ出す。

現実ならこんな光景はあり得ない情景だが、ジョン・フォードのヒューマニズムが溢れた画面に違いない。マーロウ大佐、脚を撃たれながらも、何とか南軍に対抗しながら、危険な地域を突破し、橋を渡れば北軍の領土となる地点で、迫る南軍に対し、動けない怪我人に付き添って、敢えて南軍側に残る決死をし、お互いを理解するようになったケンドール医師とハンナに別れを告げ、ハンナの首にかかったスカーフを自分の首に巻き、南軍を引き止めるべく導火線に着火し、部隊と共に爆破寸前の橋を渡り、任務を全うするのだった。

(編集子)この ”騎兵隊” が同じフォードの ”騎兵隊” でも三部作にかなわないのは、助演陣の厚さだと思う。ワード・ボンド、ヴィクタ・マクラグレン、ベン・ジョンスン、ハリー・ケリー・ジュニア、ペドロ・アーメンダリス、ティム・ホルトにミルドレッド・ナトウイック。陽気なアンディ・デヴァインに不気味なジョン・キャラダイン。こういう重厚なバックアップがないとフォード映画ではないような気がするから不思議だ。

例によってウイキペディア解説をいれておく。

アメリカ合衆国陸軍の一部。独立戦争に際し大陸軍内に組織されたが,さしたる活躍を見せなかった。1830年代,西部開拓地における対インディアン作戦のため正規の騎兵連隊が編制され,南北戦争では,広大なアメリカ大陸を背景に騎兵隊はその機動性のゆえに南北両軍において重視された。戦後,騎兵10個連隊が残され,もっぱら西部においてインディアン〈討伐〉または治安維持に使用され,1876年G.A.カスター中佐指揮下の第7騎兵隊がモンタナ州で全滅したことは有名。なお,76年現在で陸軍総定員2万7000余名のうち,騎兵8882名となっている。その後,騎兵隊は自動車,戦車の発達で実質的には無用となり,機甲部隊として再編制された。ベトナム戦争ではヘリコプターを主体とする騎兵師団が組織された。騎兵隊は西部劇において英雄的存在とされてきたが,19世紀アメリカの大陸征覇とインディアン抹殺の象徴であり,またその実施機関であった。

乱読報告ファイル(53) 久しぶりの五木寛之

一種の活字中毒である小生の悪癖のひとつは衝動的に本を買ってしまうことである。衝動である以上、何のために、とか、なんだとかいう理屈はなく買ってしまうので、すぐ読むことももちろんあるが、気がついてみると(いけねえ、こんなのもあった)といういわゆる積読本が溜まってしまう。そのうちの一冊が、だいぶ前に本稿で演歌のことを書いた時に(あ、こんなのもあったか)という衝動で買った五木寛之の艶歌・海峡物語という本である。現在最終コーナーまで来たポケットブック10万頁読了計画がペースが落ち、スガチューからもらった一冊のところでスタックしてしまっていてイライラしている。その間隔に気分晴らしに読む気になった。

五木には一時大分凝った時期があった。最近の彼の著作がどうも宗教だとか人生論などと言うものに固まってきているので、新作は全く読んでいない。 ”青年は荒野をめざす” とか、”蒼ざめた馬を見よ” ”デラシネの旗” なんかは、ハードボイルド、というのはまた違った、テーマと言い書き方と言い、突き放したような感覚が心に響くようで好きだった。その後興味は歴史ものに移ってしまい、考えてみると40年以上のご無沙汰になる。最近のものはどうか知らないが、この本では五木独特の書き方に再会、なつかしさを感じたことだった。

入手したのはアマゾンで寝ていたのか、初版本である。”演歌” ではなく ”艶歌” というタイトルの意味が読み終わってからなるほど、と思わせる作品だ。ストーリーはレコード(今では死語に近いか)業界での話で、近代的な経営手法に逆らって昔ながらの歌造りに生きる一匹狼的な老人と、それに引かれていくディレクタ津上との話である。どうしてこの2冊が一緒になっているのかわからないが、”艶歌” は会社を辞めることにした著名な作曲家高円寺が録音調整室を去る場面で終わる。

(皮ジャンパーの背中を見せて、高円寺竜三は、録音調整室を出て行った。津上は一人で椅子に座っていた。階段を降りて行く高円寺の足音が聞こえた。ガラス窓の向こうに、スタジオはひっそりと静まり返っていた)

”長いお別れ(清水俊二訳版)のラストを彷彿とさせるこの幕切れが懐かしくひびく。

”海峡物語” ではそれまでの伝統的な経営を破壊し、劇的な再生を実現したアメリカ流の経営者黒沢とたもとを分かち、北海道でささやかな生活をしようとしていた津上が偶然に孤独に生きている高円寺に再会する。もう後戻りはしないとかたくなな高円寺を見て、津上はもう一度、日本人の心に響く歌を再生しようと計画する。ストーリーとしては、いろいろな問題を越えて、津上と高円寺は自分たちの歌を再生するのだが、その陰で、実は先に高円寺を職場から放逐した黒沢がこの計画を応援するのだ。事情を知って黒沢を訪れた津上との会話。

(黒沢は窓の向こうの世界をもう一度眺めた。落日の後の残光が西の空を赤く染めていた。
”私も、あの男も、すでに西の空を落ちていく夕陽にすぎん。きみだって、やがてはそれが判る時がくるだろう”
黒沢は津上を振り返らず言った。
”もう行きたまえ”)

黒沢はそれからまもなく顕職を去るが、その陰の根回しのおかげで高円寺の復帰は成る。高円寺はまた、北国の孤独な生活にもどるところでストーリー自体は終わる。

話はこれまで、なのだが、この小説にはあきらかに ヴェトナム戦争時代の日本を覆っていた閉塞感の匂いがする。今の日本もまた、若い人たちの間には閉塞感がある、というのだが、僕らがヴェトナム戦時代に味わったものとは全くちがったものなのではないだろうか。今の時代の問題は明らかに経済政策の失敗とか、それにどう立ち向かうのか、という方向だけは見えているが、それが実現しないことからくる、現実的な諸問題が原因だろう。しかしあの時代に日本を覆っていた閉塞感というのは全く異質のことであったように思える。

ヴェトナムの戦争がいかに無駄であり無意味だったかは、傍観者であった我々よりも、戦場に送られたアメリカの若者たちに残った心の傷ははるかに大きかったはずだ。僕が読んでいるアメリカ発の本には、それまで敵味方だった二人があるとき、”Were you in ‘Nam?”  という会話が交わされることでその間に起きる微妙な感覚が発生する場面によく出くわす。これは “戦友同士” というより ”被害者同士” という和解に近いのだろう。(俺達は結局 Nam  で何をしたんだろう?)という意味での虚無感におおわれた閉塞の時代、だったのだ。日本ではその現場にはいあわせないものの、またはいあわせないからこそ、起きる疎外感とか無力感、俺達はどうすればいいのか、という解決への方向も見いだせない時代だった。五木のこのころの作品には、そのような虚無感が漂っている気がする。