パートナーは目の具合があってアルコールは厳禁されているし、当然一人であけられるわけはないのを承知で近くの酒屋でシャンペンを買ってきた。ジャック・ヒギンズのシリーズキャラクタ、ショーン・ディロンはこういう時には ”ノンビンテージのクルーク“ しか飲まないんだそうだし、浅海とか新弥とかはたまたミツョシに水町、なんて言うのが出てくると講釈が長くなるんだが、俺にはそういう難しい議論は不要だ。ただ、今晩はなんでもいいからシャンペンを飲まずにいられるけえ、という状態なのだ。なぜか。
もう10年も前のことだが、退職したあとの落ち着かない気分もどうやら収まったころ、ある雑誌で “1年に100冊ポケットブックを読めば英語の達人になれる” という記事を読んだ。何か一つ、チャレンジできるものはないか、という気分だったので、試しに数冊、ペンギンブックを読んでみたが、1年に100冊、とは1週に2冊、というペースだという事がわかり、これは無理だ、と観念した。そこでもう少しゆっくりしたチャレンジは、と考えたのが、”ポケットブックを10万頁読む“ という事だった。思い立ったのが2013年3月で、記念すべき第一冊に選んだのは当時売り出し中の リー・チャイルドの Killing Floor だった(少し前に公開されたトム・クルーズの アウトロー という映画の原作はチャイルドの One shot である)。それから、目的達成まで、翻訳本は一切読まない、というルールを自分に課してただひたすら、原書を読み続けた。当初は目的をいわゆる冒険小説・スリラーあるいはミステリだけに絞っていたのだが、自分が興味を持っていた社会思想に関する本とか、ヒギンズの第二次大戦秘話シリーズの背景についての参考書なんかを加えたので、その対象がひろがった。また同じころ始めたドイツ語も確かめたくなって数冊読んだのと、かかりつけ医と雑談していた時、認知症の予防に外国語を読むというのは素晴らしく効果があるという事を知ったので、目標を ”原語で10万頁読む“ に切り替えた。
その10万頁目を、今日、すなわち2024年4月15日17時30分に読み終えた。シャンペンを飲もうという背景はそういうことなのだ。自慢話になって申し訳ないが、少しばかりその過程を書かせていただく(10万頁完了までの記録はもちろんあるのだが、エクセルにして301行、文字が並ぶだけなので興味のある方があれば別途お送りする)。
リー・チャイルドにいっとき入れ込んだ後、いわば後戻りして米国のHBものに集中することにした。もちろん、”長いお別れ” はその第一号だが、この本はドイツ語訳にも挑戦してみた。さすがに筋を追うのがやっとで、清水俊二訳を読んだ時のような満足感とは程遠かった。ドイツ語訳では、ロス・マクドナルドの ”さむけ” もなんとか消化できたし、昨年にはヘッセもうんうんうなりながら数冊、読むことになった。
しかし冒険小説、といえばその原点は英国にある。アリステア・マクリーン、デズモンド・バグリー、バーナード・コーンウェル、ギャヴィン・ライアルにハモンド・イネス、ご存じジャック・ヒギンズ。その中でも大御所といえばマクリーンだが、文体は結構凝っていて苦労することも多かった。またジャック・ヒギン ズには第二次大戦秘話、ともいうべき得意分野があって(代表作がかの 鷲は舞い降りた)、それを読むうちにノルマンディ上陸作戦(D-Day) に関する興味が湧いてきた。アマゾンに発注したはいいが届いた本の厚さに驚いて読めるかどうかぐらついてしまったものもあったがなんとかフィニッシュ。別稿で、まだ1か所、どうしても行きたい処、にオマハビーチを挙げたのはこの数冊の結果でもあるのだ。
HBに戻ってからはしばらくはロス・マクドナルドに集中して、結果として、一般に刊行された小説は(多分、だが絶対的な自信はない)全巻、読んだ。アルファベットシリーズで知られたスー・グラフトンは A for Alibi から Y for Yesterday まで読み終えて Z が出るのを待っていたら、なんと著者が急逝したというニューズが入ってきたのは驚いた。何しろ残念だったのは本人だろうなあと哀惜の念で一杯である。
一時テレビでも人気のあったエド・マクベインの87分署シリーズもだいぶ読みこんだもののひとつだが、こういうシリーズで登場人物に親しみをおぼえてくるのも楽しみだ。
10年を超える時間をかけて、いわばコケの一年でやってきた(結果論として)認知症予防の挑戦は、同じ時期、自分の経験を後輩に伝えたい、という熱意をもって著作にはげんできたKWV同期の大塚文雄とお互いを意識しながらのものになった。フミに、俺の方も、9万頁を越えた、と伝えたら、(それじゃこれで上がりにしろ)と言ってフレデリック・フォーサイスのDevils’ Alternative を送ってくれた。フォーサイスは ジャッカルの日 とか オデッサ・ファイル などで知られるスパイものの大家であるが、この作品について言えば最後の1頁に出てくる、その道でいう ”犯人の意外性” は小生にとっては名作 幻の女 に匹敵する見事さであった(スガチューの意見をききたいものだが)。
フミのアドバイス通り、この本に最終ランナーをまかせ、その415頁めがチャイルドの1ページ目から数えて累計10万頁を記録した。ありがたいことだ。翻訳家とか学問にいそしむ人にとって10万頁なんてのは当たり前の数字だろうが、定年後の老人にとってはそれなりの意味というか重みはあるだろうとにんまりしているんだが。
一つの区切りがついたところで、自分の英語力が改善したのか、とおおもとの議論に立ち返ってみるのだが、ここ数年、第一英語を使う機会などはほとんどなかったから、どう考えても結論は出ない。それじゃ、なんでそんなことしたの?というといかけはあるだろう。それに対する答えはエヴェレストに命をささげたジョージ・マロリーの有名なフレーズが一番いいのかもしれない(文中 it が何を指すのか、という議論はあるようだが)。
Because it is there.
大事なことを書き忘れた。本チャレンジの開始は 2013年3月13日(読了日)、407頁。5万頁めは エド・マクベインの HARK!(累計50141頁)、終了日は2024年4月15日で累計10万83頁である。
もう一つ。おめえ、それだけ読んだんならなにがおすすめか?という質問には、マクリーンの 女王陛下のユリシーズ号(HMS ULYSSES)と ヒギンズの 廃墟の東(EAST OF DESOLATION) 、それにスティーヴ・ハミルトンの 氷の闇を越えて(A COLD DAY IN PARADISE) とお答えしておこう。もちろん、長いお別れ (LONG GOODBYE)は別にしての話だけれど。いずれも名手による翻訳があるので、初夏の緑陰、お読みになることをお勧めしたい(認知症予防効果についてはわからないが)。