守門岳の一日 (40 河合 藍原 武鑓 大平)

 6月1日(金)~2日(土)のワンデルング記録

参加者:L 武鑓、藍原、大平、河合  4名

和泉屋旅館5:30⇒7:00 保久礼登山口7:10⇒7:50  キビタキ避難小屋⇒9:40 大岳10:00⇒10:50 大岳分岐⇒11:20 青雲岳⇒11:40  袴岳(昼食)12:20⇒12:40 青雲岳⇒14:00 大岳⇒16:20  保久礼登山口16:40⇒17:10

おいらこの湯⇒赤城高原⇒20:30荻窪

 行動時間:9:10   休憩:上:5回 下:4回 90+昼食40=2:10

   実働時間:7:00   U3:50 D3:10 

        コースタイム:U3:30 D2:50 

  標高差: 1537-765=772m               歩行距離:9.4km

荻窪13:30に全員集合、車で大湯温泉へ向かい、16時には到着した。お湯はまずまずだったが、食事が今ひとつ、1万円ではあんなものかな。

山行当日は予定より少し早く出て、おいらこの湯をカーナビに入れたら、高齢者施設が出てきて、そこが「おいらこ」と一緒なのかわからず不安の中、出発。国道290号を行き、おいらこの湯が道の左側にでてきて、一安心。そこから県道347号へ入り、一本道を行く。小さな刈谷田川ダムを過ぎると舗装はされているが、狭くなり、相当行ったところでいきなり10台以上が停まっている駐車場に到着した。今日は土曜日だから多いのだろう。

当初計画より、10分遅れで出発したが、いきなり、下調べ通り階段が20分ほど続き、うんざりしたが、そこからは整備されてはいるが、掘れた道で粘土質、雨ではなく、良く晴れていたので、それほど苦痛ではなかったが、歩きにくい。2ケ所ほど展望の良い所があり、おそらく日本海方面だと思われたが、霞んでいて良くわからない。2つ目の清水である天狗清水で道標が大岳まで0.4㌔と記していた。大岳にはかなりの人がおり、社と鐘となにより三角点もあった。少し行くと袴岳が見え、守門の北東斜面が多くの残雪を残し、穏やかな山容をみせる場所で休んだ。

 

そこから左に残雪を残した道を20分ほど下る。前方の青雲岳や袴岳が大きく高くなる。登り返しは笹が多く、きつい登りを行くと大岳の分岐に出る。そこから少しで青雲岳に着く。ベンチがあり、皆、休憩していた。大平さんがここで待っていると言い出し、3人で袴岳へ行くことにし た。すぐそこに見えており、20分ほどだ。最後の急登は少々堪えたが、なんとか登り、ピークに着いた。周り の山が 紹介されており、魚沼三山、燧、平ガ岳、浅草、など霞んではいたが、沢筋に残雪を残した山々が見ることができ た。旅館が用意してくれた弁当を食べたが、大きな「にぎり」2つは無理だった。ゆっくりしてから大平さんが待つ青雲岳へ戻り、下り始めたが、例の「攣り」が3人を 襲った。最初は武鑓さん、手慣れた方法で処置して恐る恐る下りだした。彼はもうプロ級の処理法があり、足を強く縛ったのには驚いたが、これが効果があるというからわからない。すぐに藍原さん、こちらはいつも通り、10分ほど休んであとからついてきた。私も左足に兆候はあったが、それ以上に はならなかった。この間、残雪を5ケ所ほど通過するが傾斜がなく、なんなく通過できる。

青雲と大岳の一番下ったところで私が休憩を提案したが、皆は無視、一気に大岳まで登り返した。結構、足を使ったが20分もかからずに大岳に着いた。そこからはただ下り一方で、想定通りの下山を考えたが、急に遅くなり、想定の1時間以上も時間を要して下りてきた。もう駐車場には2台しか残っていなかった。

いつものことだが、今日もたくさんの人に抜かれた。コースタイムの3割増が我々のペースだが、下りを除くとほぼ想定通りの歩きだった。タフな山だったが、梅雨の合間で天気は良く、カラッとしていてそこそこ汗もかいて、登るには良い気候だった。この山ではブナ林の緑、コブシ、カタクリ、あじさい、シラネアオイなど多くの花があり、なかなか良い山だった。帰路に「おいらこの湯」に入り、赤城高原で軽い夕食を食べて帰った。

(文:河合  編集:藍原)

元気でやってます  (39 石谷正樹)

 

石谷兄

長い間ご無沙汰してます。翠川が貴兄のところを尋ねて大歓迎を受けて感激していたのももう何年になりますかね。

こちらこそすっかりご無沙汰しており、申し訳ありません。
そういえばミドリさんご夫妻がはるばる山陰の山村をお訪ね下さり、懐かしいひとときを過ごしました。

私の町は人口7,000人ほど。四方を山に囲まれているため、どんどん過疎化が進んでいる小さな町です。産業と云えるものは何ひとつなく、まとまった会社といえば私が経営しているメカトロ工場があるのみで、350人の社員の雇用を40年間支えて来たのが私の唯一ささやかな誇りです。
こちらから皆様にお話出来るような話題がないので、自ら何かを書いたりご報告することは出来ませんが、このたびお知らせいただいたブログを時々覗きに行かせていただきます。一昨年、家内が早々と西宮市の老人ホームに入居してしまったので、私もなるべく早く会社の方を後継者に譲って合流したいと考えています。

いつか世津ちゃんかテレの葬儀でお目にかかりましたが、遠隔地なのでそのような機会でもなければお会い出来る機会がありませんね。世津ちゃんの葬儀の時はご挨拶をしたものの、立ち話しか出来せんでした。
そのとき朝子ちゃんのことをお聞きしたら、もうお子さんもおられるとのお話で、その時は本当にびっくりして信じられませんでしたが、あとで時の経過を考えたら当り前の事であることに気付き、自分が歳をとったことに愕然としました。

1967年、石谷君訪米のとき、パロアルトのバス停。ひっくり返っているのが朝子、いまはOLと大学生の母親。

お恥ずかしいですがお求めに従って近影をお送りします。つい先月、久しぶりに家内を西宮の老人ホームから連れて帰り、我が町の山奥にある山菜料理屋で昼食を摂った時の写真です。両脇に居るのは東京から駆け付けた娘たちです。

石谷兄

地方を支え、地元の誇りともいえるご家業、ご苦労も多いでしょうが、僕らのようにべんべんとサラリーマン人生を過ごしてきてしまった人間にはただうらやましい限りです。今後ともご活躍を祈ります。

メールアドレス:ishitani@ruby.ocn.ne.jp

三国山荘で野草を探そう  (44 吉田俊六)

標高950mの三国山荘の敷地には上越の道路沿いに里山から入り込んできた植物と、山野草とが混在している。山荘を中心に敷地をⅠからⅦのゾーンに分け、植物の観察をしましょう。山荘に集まりやすいのはWC・新人歓迎会、山菜採り、山荘祭、雪下ろし等ですが、今回は山菜採りと山荘祭の2回分の植物観察を想定します。

  • 山菜採りの頃

カタクリ、ニリンソウ、桜、新緑のカエデなどが楽しめ、連休明けなど、早めに開催であれば火を燃やす広場と疎水に挟まれた斜面ゾーンIIIに「カタクリ」の群落が咲き誇るはずです(KWV三田会ホームページ http://kwvmitakai.jp/参照。)

山荘の入り口手前のゾーンIの杉林根方に白い「ニリンソウ」達が恥らいつつほほ笑み、ゾーンIV すなわち旧文六旅館の敷地には道路側に数本の桜が花盛り、敷地奥の山側玉石の壁の上にカエデの新緑が眩い。小さいながらシャクナゲも枝を這わせる。(ついでながら、この平面は陽当りが良いので多面的に活用する楽しみ有。山菜標本園やあけび・野葡萄の繁茂支援等々、名案歓迎。拙者、境界近くにコシアブラなど植えたいところです。)

6月中と遅めの山菜採りとなれば、山荘の庭で目立つ花といえば、山荘と前の道路との法面緑地 ゾーンIIに植えたナツツバキの白い花。探索の歩を進めると、旧文六旅館の中段(ゾーンV)、さらに疎水へむかって上段のゾーンVIにかけて、針葉樹たちの下草にエンレイソウ(3枚の大きな葉の真ん中に小さな花)を発見。さらに、メイン広場へと車で斜めに上る道へと向かう左側のツガの大木の根方にベニバナイチヤクソウが凛とした色気で佇んでいるでしょう。

  • 山荘祭の頃。

「山で来い来い、里でいやいや」秋風になびくススキが手招きし、里芋の大きな葉は横に揺れる。「皆な来い来い山荘祭」の彩は、玄関前ゾーンⅡの法面:ワレモコウ(吾亦紅)、ヨメナやノコンギクなど様々な野菊たち、ミゾソバ、ゲンノショウコ等々。道路から山荘玄関への石段に送迎のアーチをかけるマユミの古木と赤い実など、皆なが目にし、楽しめる。今回の花形はゾーンVII,つまり山荘の裏庭と疎水の間のベルト地帯に潜む、白く細長い房が見事なサラシナショウマ、紫の個性派;トリカブト、黄色の細紐;キンミズヒキ、赤の縁起物;ミズヒキ、ムラサキシキブ等々。(この時期、浅貝からの道筋にツリフネソウ、キツリフネソウ、秋の七草たちが咲いており、そのうち移植を試みたいと思います。) 厨房の裏、山荘を守る主木は美しく逞しい。(広葉樹;楡の仲間と想定するが、正しい樹木名について未だ特定できていません。乞うご教示)

「花より団子」、食べられるなら関心を持つ御仁に耳よりのご報告。「山菜=QP*」と連想できない貴兄は次回からの山菜採りに参加をおすすめする。実は、通年賞味できる山菜が、ゾーン8、山荘の裏手の杉林の疎水の周辺に生息。ミズナ・ミズ・ウワバミ草と各地で愛称を持つ、あく抜きを必要とせず、生食も楽しめる優れものです。(とはいえ、希少資源ゆえ、大切に)

引き続き、山荘と周辺の植物たちのマップをつくり、これに対応した標識を作成・展示する課題が残されており、共に取り組んで下さる仲間を募ります。さらに夢なのですが、四季折々の三国山荘と周辺の山野草の記録写真やデッサンなど、80年間の各代の中で植物好きの方々の作品を募り、記録をアーカイブに収め、財産化(さらには、商品化して、山荘維持資金の糧に資する)する構想なども、花咲かせたいと思います。種まきと育成にご協力賜りたく存じます。

*QP, とは、KWVで山野草採りやバードウオッチングなど、広い趣味を誇り常に指導者格だった34年卒松本恭俊さんのあだ名。42年卒松本好弘さんの実兄)

“ひこばえ”の独白:

不肖「ずんろく(KWV渾名)」は先ず食用植物を探り、登山の道すがら花々に癒してもらいました。牧野富太郎・宮沢賢次に憧れ博物誌に興味は尽きません。山荘を彩る草木たちの集いに、皆様と一緒に寄り添い続けたく思います。

ウイチのこと   (47 熊倉晴男)

ウイチが私の現役時代の初リーダープラン(妙高―火打―焼山―雨飾山縦走)に参加してくれた縁からか 卒業後も、私たちがフランスから帰国してからも、一緒に山にいく機会が一番多かったと思います。

彼と一緒した山行が気になってわかる範囲で記録を見ましたが、残雪の涸沢や
春の会津駒ケ岳(山スキーの我々は桧枝岐から。スキーがからっきし駄目だったウイチが三岩岳からの縦走で山頂でばったり)、沢山の沢登り(焚火が好きだった。)など随分一緒に行ったんだなあと改めて思い出しました。

最後の彼との山行は 2004年10月尾瀬至仏山に奥利根側の狩小屋沢から遡行したものでした。その1か月前の9月には山荘祭接続で 苗場山の棒沢に行ったのですが、今思えば既に病の影響だったでしょう(拡大性心筋症)神楽峰からの下山時にほとんどふらふらになってしまい、同行した竹内君と肩を貸すようにして和田小屋に夜中の21時ごろ降りてきたことがありました。狩小屋沢は無理だから止めておけと言ったのですが、どうしてもリベンジだと言って聞かなかったのを覚えています。この山行は何事もなく無事下山したのですが、これが彼と一緒の最後の山行になってしまいました。

私の記憶が曖昧なので、実は先ほどフルマキに電話して確認しましたが、ウイチが亡くなったのは2008年8月11日(フルマキも言っていたのですが、どういう奇遇かこの日は後に“山の日”になったのですね。)

もうすでに10年の月日が経ってしまったのですね。“ウイチとのこと”というと、 この2004年までの楽しかった山行とともに、その後の4年間(病の発症、家族との別れ、山仲間との繋がりを自ら断っていた4年間)のことがどうしても忘れられないのです。

山荘や上越の山の帰り、車で環八の大原の交差点辺りを通るたびに、ここらへんにウイチが一人でいるはずだと何度も逡巡したのを思い出します。
4,5年前に フルマキから聞いた高知の彼の墓参りも行ってきたのですが、昔の記録や写真を見て、またまた彼のことを懐かしく思い出しています。

メールアドレス:izc01144@nifty.com

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 6 (41 相川正汎)

ウイチに会いに小屋へ行ってきました  (49 山田照敏)

地方の小商いで且つ、後継者もなく家業をどの様に始末していくか、が課題の今日で忙しい毎日で、KWVの行事にもなかなか参加できない状態です。

とは、いえ先日の土日には年一回の49Kwv同期会を小舎に11名で集い、開催しました。その小舎の「ウイチ桜」の下で同期が集まるようになって9回目でした。小舎から毛無山までを歩きました。他のメンバーは三角まであるいは平標山まで足をのばしました。毎回、同じ話の繰り返しをまたまた、楽しんできました。楽しい一刻でした。

「ウイチ桜」植樹の小舎参集を加えると今年が10年連続10回目となります。 小舎が好きだったウイチに会うという思いで集まるのです。

トヨシマにも寄ってきましたが、茂夫妻もおじいちゃん、おばあちゃんになりました。梢ちゃんに2か月になる女児=椿ちゃん=が埼玉にいらっしゃるとのことです。おばあちゃんは2週間に一度ほど「孫通い」らしいです。きっと、毎週でも行きたいでしょうね。

(メールアドレス  yamada1@abekawamochi.co.jp)

 

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 5(44 浅野治史)

今、「ふるさと八千代」で妻と二人、きたる千秋楽までを「楽しく、おだやかに!!」をモットーに過ごしております。

オスカーパークゴルフ公園でのツーショットです

楽しいKWVの先輩、後輩の想い出に浸るプランへの参加も体力的に不可能となる日もいずれ来ます。地元の所属サークル①コーラス 2組(年4回の演奏会) ②歌声 3組(年2回の演奏会) ③カラオケ 2組 ③フオークダンス 1組 ④習字 1組(年2回の展示会)の運営をお手伝いしています。又、昨年に八千代三田会に入会させて頂きました。

さて、KWVの思い出は今となっては楽しい思い出ばかりなので一つ一つ書いたら一冊の本になってしまいそうです。ご存知の方もおられますが、山を歩きながら「歌い続ける男、ハルチカ」の山の歌は全てKWVで教わり、みんなで歌った歌です。慶應義塾の歌は幼稚舎から大学までで覚えた歌です。歌って歩いていると、学生のその時代にタイムスリップ致します。

東京生まれ東京育ちの私は、昭和44年に塾・KWVを卒業して平成3年まで、会社の地方回りでKWVに失礼致しておりました。そんな私を稲包山新道・開発隊に同期のドンタが誘ってくれて平成10年頃貫通まで、海の日を含む数日間、雨の中、風の中、真夏の太陽の真下でもくもくと草刈を頑張りました。ただ黙々と!!。テント生活を学生以来経験しました。とにかく勢いのある仲間と同じ目的で汗を流すのは楽しいことでした。(「楽しい!!」と言ってお叱りを受けたこともありました) 夕立の豪雨で増水した河を命がけで渡渉して帰山荘したこと。私が崖から落下した時、先輩に受け止めて頂いたこと。いずれにしろ厳しくも優しい先輩・同輩・後輩にKWVのОBとして認知して頂けたのはこのプランでした。

このような厳しい開拓プランで汗だくになった山荘で、皆さんのお許しを得て俳句会を4~5回開かせて頂きました。僭越ですが、私が宗匠を務めさせて頂きました。575、季語必入、季重ね禁止の三つを原則ルールで作品を1人2句以上書いて頂き、皆さんの公表の多い順に、20句程度選出し、僭越ながら私の感想を述べさせて頂きました。川柳、字余り、字足らず、季重ね等々、原則破りの句がポンポン飛び出す楽しい会でした。「季重ね」を指摘させて頂き、「俺の美感センスの歌だ。文句あるか!!。」とお叱りを受けたこともありました。目に青葉、山ホトトギス、初ガツオ⇒山口素堂の3つの気重ね名句もありますしね。

又、言うまでもなく、隙を見つけると山の歌を歌い続けました。いずれにせよ、下記の私のKWV・OB時代への参加は稲包山新道からスタート致しました。

1. 三田会   ①春秋の日帰りプラン②山荘祭④三国山荘の雪下ろし⑤慶應義塾150周年・大分~三田リレーワンデリング⑥ KWV80周年・京都ワンデリング&パーティー 等々

2. 44閑人会 ①三田会の連絡要員②夏合宿③「三国山荘44の木」の植樹(故人橋口氏) ④忘年会他イベント⑤お花見⑥山菜採り(三国山荘ベース) 等々

以上を素晴らしい先輩、後輩の皆さんと楽しんでおり、楽しみました。これからも皆さん!!。ピンピンコロリまでご一緒に楽しく明るく遊んで下さい。よろしくお願い致します。

ハンチントンのこと ご参考まで  (44 吉田俊六)

われらがs44山中呑多・ドン子父子の写真などと共に、サミュエル・ハンチントンの話題を拝読しました。
 私が関わっている世界価値観調査の主宰であった、ミシガン大学のR.イングルハート(ポリティカル・サイエンス)の文化地図というまとめ図で世界各国の類似度{いくつかの鍵になるアンケート回答への回答パターンの類似性より、回答率の近い国を地図上で近く配置する)をまとめる枠組みとしてハンチントンの文明の衝突のグループ枠組みを援用している地図を添付致します。USAはポーランドと並ぶくらいに宗教を重視している位置づけ、北欧、日本・中国などは世俗・合理的な回答率の高い位置づけと示されています。記事の最後に言及されている民族性の解釈のご参考まで。
World Cultural Map

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本人の直近の状況報告を申し上げますと、ズンろくは4月半ばから来年の1月いっぱい、週3日(午後2時から5時半位)日本語教師の資格取得のための430時間集中講座に挑んでおります。

その理由は、「カリフォルニア州立大学の教材共同開発コンソーシアム:MERLOT Ⅱ」www.merlot.org  と(私が所属する)「CIEC:日本コンピュータ応用教育学会とが提携し、先方より、(1)外国人のための日本語学習のための教材、(2)(1)で学んだ者用の日本語コンテンツを紹介して欲しいとの要請があり、私は英語は苦手ですが、日本語のコンテンツ紹介者(レビューアー)に是非なりたいとの思いで、「逆出島オペレーション」と看板を掛け、日本の理解を求める輸出に挑戦致します。

また、海外からの留学生やビジネスマンに日本語を教える役割(定年はないので、投資回収?のためには85歳位までは頑張って楽しみたいと目標設定)を通じて、価値観の国際比較の地道な現場検証にも励みたく、期待しております。

当面、今まで週に2回アドバイザー役を務めてきた神保町の会社に週3日出勤し、午後は日本語学校へと通わせてもらう方式としております。この会社のおかげで、ワンゲルの新人歓迎山菜採りプランの資料のカラーコピー24ページ50数部などの協賛を頂けているので、こちらへの貢献も尽くして参らねばなりません。

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 4 (47 関谷誠)

東京で出会った家内が山口出身なので、小生の退職を機に、8年前、彼女の防府の実家に本拠を構え、千葉県柏市にある拙宅を別荘としてキープ。先月から養護施設に預かってもらえる様になった義母の介護の手伝いをしながら、何代か前からか不明だが未だ休耕田として残っている農地の一部(3.5反程)があるので、その管理(電動車いす!のトラクターを使ったり)をしながら、一部を畑に土壌改良し、春夏秋冬の野菜の栽培に励んでいる山口で田舎生活を満喫している。

そんな中、度々東京に出没するのは「ワンダーの仲間が一番!」を大事にしたいからで、国土が日本の21倍の広大なブラジル国内の各地をを空路、陸路で、長年飛び回っていた者にとり、たった1,000キロの東京~防府は高くつくものの隣町に出掛けるようなものである。

さて私が三国山荘周辺山道整備に関わったのは、1998年(H10)から着手した「三角山登山道」の整備から、2000年(H12)から始まった「稲包山新道」の初期段階の約2年間と、海外勤務から戻った2010年(H22)以降である。そんな中で、やはり強烈な思い出があるのは最初の「三角山登山道」の開発だ。

1997年(H9)の秋頃だったと思うが、36年卒田中シンヤさんのメールが飛び込んだ。平標小屋から、1959年(S34)に浅貝青年会が浅貝と三国山脈を結ぶルートとして開いた所謂「青年会新道」を、三角山から浅貝まで下りようとしたら、笹薮に覆われた完全な廃道と化しており、ほうほうの体で三国山荘にたどり着いたと。具体的文面は覚えていないが、「何とか道を復活させ、再び平標山へのアプローチにしたい」との悲痛な叫びだったと記憶する。

自分もその数年前、現役時代に何度かふみあとを残したこの山道に、平標からの下山時に突っ込み、大変苦戦したこともあり、これを何とか出来ないものかとの思いが頭の隅にあった。

五十路に突入したこの頃、優遇制度での早期退職の機運が高まり、自分もどうしようかとモヤモヤと考え始めていた一方で、「長谷川恒夫カップ山岳耐久レース」に出て、20時間近く奥多摩の山中をさ迷ったり、筑波や佐倉のフルマラソンを4時間弱で完走したりと、体力だけはみなぎっており、何かやらねばと、即刻、シンヤさんのメールにポジティブ反応した。

1998年(H10)に入ってから、数回、浅貝通いしたと記憶するが、本格的には、5月の連休を利用して、シンヤさんと妹尾チビさん、それにS25年卒の故村上オバケさんが、今の自分と同じ古希を過ぎた頃だったと思うが、ニッサン・シルビアを颯爽と転がして、加勢に駆けつけていただき、この新道開発のチャレンジがスタートした。

当時住んでいた自宅近くのホームセンターで購入した草刈り機、燃料等々を河内沢林道経由ムラキの送電線保安道を使って車で担ぎ上げ、ムラキから三国山~平標山の稜線までを、シンヤさん、チビさんと自分の3人の工区を割り振り、笹藪・ダケカンバ等々との闘いが始まった。若手(!)だった自分は、稜線まで這い上がり、最上部の区間を担当した。未だに思い出すのは、稜線直下に斜面をトラバース気味に巻くルートがあるが、残雪も多少残っており、足を度々滑らせながら、草刈り機と鉈を振るってのルートの確保だった。

ムラキまで下りて、先輩方に、「開通しました」と報告させていただいた時の喜びは、何とも言えない思いだったと、鮮明に覚えている。やり遂げたとの満足感だっただろう。

「セキヤ新道」と命名するとの話もあったが、最終的に「三角山登山道」に収まり、残念やらホッとするやら(!)。

その後、36年卒の先輩方を中心に、国立のチビさんの事務所での100枚の三色旗の道標プレート作成、現地での取り付け作業、そして、地元「浅貝新生会」による定期的な刈払い・山道整備に発展し、昭文社の山と高原地図にも掲載されるに至った。1996年(H8)、越路避難小屋の造り替えで知り合った湯沢町役場の高橋貞良さんより、役場の「苗場・谷川連峰を見守る会」として、1999年(H11)4月の残雪期、三国峠から稲包山ルートを踏査したところ、素晴らしい展望の尾根伝いだったが、所々深い藪漕ぎ状態、そんな中、数ヶ所にKWVのプレートがあったとの報告があった。この話を聞いたチビさん(シンヤさんは既にマレーシアに転勤されていた)始め我々は、「三角山登山道」の様に、整備してくれないかとの投げ掛けだろうと受け止めた。

2000年(H12)4~5月頃の残雪期、チビさんと数名で三坂峠まで調査し、6月に、本格的な「稲包山新道」開発に着手した。そんな時、自分が、湯の沢の渡渉点に掛かっていた丸木からバランスを崩し、冷たい沢に転落してしまった。これをじっと見ていた今は亡き妹尾先輩他に笑われてしまったこともあった。なんとか定着しないでホッとしているが、この渡渉地点を「セキヤ落っこち」だと云われてしまった。そんな矢先、1998年(H10)末に移籍した新勤務先からブラジルへ赴任を命じられ、当初メンバーのシンヤさんと同様にチビさんを残し、止む無く、2010年(H22)7月を以て、新道開発から離れざるを得なかった。

旧勤務先でのブラジルでの人脈を使っての業容拡大を負託に、長くて3年程度やれば良かろうと赴き、田中トンベさんから定期的に報告を受けていた新道開発に早く戻ろうと思っていたが、何やかんやで深みにはまってしまい、結果的に、10年間も居座ってしまい、「稲包山新道」の開発にはほとんど加勢できなかった。それでも、2000年(H12)の帰国後、数年前に元橋の「見晴屋」に稲包周辺の山道整備を委託するまでの最終ステージに加わり、貢献することが出来た。

20年前、36年卒の先輩方の嘆きに応え、飛び込んだ三国山荘周辺山道整備が、今般、「ぐんま県境稜線トレール」として地元行政から公認されたとの知らせに思わず、ほくそ笑んだ。嬉しい限りである。この秋、三国山荘60周年に際しては、自分一人だけでもこのルート(湯の沢~三坂峠~稲包山~三国峠)をのんびりと歩き、思い出に耽りたいと思っている。

2018春の日帰り (51 斎藤邦彦)

◆雁ヶ腹摺山(1,874m)◆5月19日(土)◆歩行時間2時間25分◆

大月駅9:20⇒(タクシー45分)⇒10:05大峠10:20⇒(40分)⇒11:00中段広場11:15⇒(35分)⇒11:50雁ヶ腹摺山頂上12:30⇒(70分)⇒13:40大峠⇒(タクシー50分)⇒14:30猿橋⇒(15分)⇒14:45BC地

(本稿写真は34矢郷、51斎藤撮影のものより抜粋)

昨年春、秋と2回続けて悪天候のため「日帰りワンデルング」は中止となり、我々は「雨男の51年」と言われてきたが、今回、前回、前々回の未実施の計画をそのまま提案したところ全体で130名、私の担当する2班には24名の方に応募いただいた。とりわけ傘寿越えの大先輩に申し込んでいただき嬉しさ半分、心配が半分といったところだった。今回はジャンボタクシーを含む5台を予約。大月駅にはタクシーが少なくタクシー会社からこの日は大口の予約が早くから入っていて、と断られた班もあったようで、思いもかけない迷惑をかけた。

心配された天候も明け方から快方に向かい清々しい朝を迎える。参加者を待っていると「連絡メールが来なかったよ」と34年の椎名先輩が来られ、事務局の手配ミスのようでドキッとしたがだが伊川さんがさらっと追加手続き、何事もなかった。優しく許して下さる先輩がありがたい。9時15分着の「はまかいじ」で時間通り全員が揃ってタクシー5台に分乗し大月駅を颯爽と出発…..のつもりだったが、なんとリーダーの小生がザックを駅前に置き忘れたことに気づき駅前信号から引き返すという大失態。タクシー同乗の先輩方から「そういうことが増えるのよ」「安心したわ」と慰めていただいた。

大峠でタクシーを下車し、準備体操を終え登山開始。天候は晴れだが富士山はまだ顔を出さない。サブリーダーを先頭に大先輩から順に隊列を組んで歩く。「時間はたっぷりとっているので、ゆっくり!」と声をかけたが、人数が多いため最後尾の私には先頭がどのような状態かは全く分からなくなってしまう。中段広場で一本をとる。先輩お姉さま方がすこぶるお元気で余裕の楽しいおしゃべり、たくさんのおやつを頂く。前回調査行に来たときは「トラロープ」だったところ2か所がちゃんとした鎖に付け替えられていてこの山域でも登山道の整備が進んでいることが伺える。中段あたりからヤシオツツジが鮮やかに満開、西を振り向くと「塩見岳」「荒川岳」「聖岳」などが春霞の先に残雪のピークを見せている。

1750m地点あたりで濃い「ふみあと」の脇道に入ってしまい引き返すのに約10分のロスタイム、登りのしんどいところだったが無事最後の急登を終え、人工の石垣に見える奇岩「神奈備石(かなびいし)」を過ぎでカヤトの草原に出ると雁ヶ腹摺山の頂上、このタイミングを待っていたかのように富士山にかかっていた雲が切れはじめ雪をかぶった山頂が姿を現し始める。

山頂での記念撮影ののち三つ峠の先に見える富士山を眺めながらの昼食、皆思い思いに陽光の下での眺望を楽しんだ。食事休憩が終わるころに富士山に掛かっていた雲が全て取れはじめ名残惜しく、山頂からの下りの出発が多少遅れたがその分富士山をくっきり見た元気でテンポよく下りは歩き、ほぼ予定通りの時間で登山口の大峠に下山する。

大峠から猿橋にタクシーで向かい、猿橋の袂で記念撮影をした後BC地入り。すでに半数の班は到着しており、懇親会が盛り上がっていた。全体打ち上げ会ではリーダーの私から山行報告をさせてもらったが「参加者全員で1,874mの頂上まで到達したこと。」「富士山、南アルプスの眺望とヤシオツツジが鑑賞できたこと。」を報告できたのは非常にうれしく、2回の流会を補って余りある山行であった。参加者、親睦委員会や幹事団の皆様、ご協力ありがとうございました!

(34 小泉)1年越しにやっと登れた雁が摺山はリーダーはじめとする準備万端と楽しいメンバーに恵まれ、ゆっくりとしたペースにも助けられ期待以上のワンデルングを楽しむことが出来ました。

(36 吉牟田)昼食時に下りで足がつるのを予防し ツムラの68番を飲んだので何とか持ちました。帰宅したら 何時も山の帰りは飲んで来るので何もないわよ!だって….貰って帰ったおつまみでみすぼらしい焼酎でした。夜中に急に 左のももが つり あわてて また 68番のお世話になりました。

(39 小祝)今までのうっぷんを晴らすような好天で快適なワンデルングを楽しめました。リーダーを始めとする幹事の皆さんのご努力に感謝申し上げます。
24名という大部隊にもかかわらず、事故もなく皆で楽しめたのもリーダーの
用意周到な準備とメンバーに恵まれた結果と思います。有難うございました。(44 山中)病み上がりで1年ぶりの山行、なんとか歩きとうせました。

(48 佐藤)お疲れ様でした。素晴らしい山行でした。おかげさまで初夏の山を存分に楽しむことができました。今までのご苦労に敬意を表します。

(48 綱島)おかげ様で とても楽しい山行でした。新緑の気持ちの良い山道から 突如 鎖場が現れたり また急に広々とした草原に出たり。
その都度 声を上げて喜んでいました。変化の楽しいコースでしたね。度々の調査行のおかげですね。ありがとうございました。
沢山の先輩方、楽しくお話しをさせていただきました。またいつか ご一緒出来たら嬉しいです。

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今回の日帰りワンデルングは51年卒の担当であったが、参加人数に対応できるスタッフに限りがあったため、48年から50年卒までが支援、参加人数130人、分散11班という大規模プランを成功させた。CLは51年総務水村哲也君が大阪から駆け付けて指揮に当たった。遠地からのことで苦労も多かったのではないかと推察される。ご苦労様でした。

参加者の年代分布は30年代39人、40年代55人、50年代30人、60年および平成卒が6人であった。部員数したがって卒業者数が少ないなか、60年以降の参加が始まったのはうれしいことだし、43年岩田、44年浅野、51年武藤(石田)君らが家族を帯同して集中地での会合を楽しんでおられたのもほほえましい。集中地は大月市内の猿橋公園という素晴らしいサイトで、設営や帰途のバス便増発まで見事な運営であった。夏合宿、秋日帰りと、これからもKWVスピリットにあふれる社中の集まりが楽しみ、また願わくば60年以降の若手の参加が広がってほしいものである。