ここの所、外国人との共生、についての議論が多い。趨勢として今までの一国主義だけでは国が成り立たなくなりつつあるのは、グローバリゼーションという、いわば我が国から見れば外向きの姿勢が問われるようになった時点から多方面、特に企業戦線において活発な議論が起き、しかるべく対応が試行錯誤を重ねながらそれなりの方向や姿勢が定まりつつある。他方、我が国への外国人の到来、ということが、観光客の範囲から移民(長期滞在をふくめて)、という形をとるようになって新しい挑戦があり、問題課題があらわれつつある。幸か不幸か、形式はともかく実質的には米国企業であった会社に偶然とはいえ籍をおき、サラリーマン人生を全うした関係で、むずかしい議論はさておいて、いわゆるガイジン、との日常の接触を(外国駐在のケースとは根本的にことなる環境で)経験させられた経験にてらしてみて、それなりに感ずることは多々、ある。
その中でも苦労が多かったのは、とにかく、あんた、文化も何も違う国にいることを忘れてもらっちゃ困るぜ、ということだった。この ”違い” は言葉がわかれば解決する、だから日本語の分かる米国仕込みの日本人を派遣すればよかろう、という安直な判断で、米国で教育を受けた日本人(日本で大学卒業後かの地で教育を受けた人)、が何人も送られてきたことがあった。編集子も直属の部下に米国流MBA修行を積んだ、そういう”日本人”を持った(持たされた、という方が率直な感想だが)ことが数回ある。結論から言えば、誰も成功しなかった。確かに言葉はわかる(もちろんだが)のだが、だから日本がわかる、という方程式は全く機能しなかった(小生のマネージメント能力にももちろん問題はあったかもしれないが)。その中の一人が、ある時、(俺たちバナナだからな)と自嘲した。どういう意味だ、と聞いたら、皮は黄色いけど、中身は白い、ということだ、と言ったものだ。
先週、1冊の小説、一つのテレビドラマ、に接する機会があった。といっても新しいものではない。2008年にかかれた大沢在昌の ”冬の狩人”、かたや絶頂期の渡恒彦主演,十津川警部シリーズ、だからやはり2000年代の産物の中から偶然再放送に出会って録画したままになっていた、”九州特急あずさ号事件” である。この二つはいずれも(というか大沢の狩人シリーズはそれが主軸なのだが)東京新宿に跋扈する中国系マフィアとの話だ。内容はともに事件の背景に政財界の黒幕がいてそれが暴かれる、というこの種のドラマの代表みたいのもので、それ自体になにかがあるわけではないのだが、伏線として、自分でも図らずもマフィアにくわわってしまった男に、警察が何とか接触しようとする、という共通するプロットがある。そのとき、この男が口にするのが、”日本の警察は中国人でも守ってくれるのか” という疑問、だった、といいうのが引っかかった。日本語には不自由はしないが、も一つ、日本の社会構造が理解できないし、信用できない、ということなのだろう。
いま、外国人特に中国や東南アジア系の滞在者が絡む犯罪が多発している。これにどう対応するか、関係者の熟慮断行が期待されるのだが、彼ら外国人の間に起きている、日本国のシステム慣行やへの不安、というものも大きな課題なのではないか、と思ったことだった。
本論とは全く関係ない別の話だが、先に ”枯葉色グッドバイ” という佳作について書いた。このシリーズの主人公がもつ雰囲気が小生のイメージするハードボイルド、なのだが、上記した大沢の狩人シリーズの主人公についても同じような親近感を持った。肩の凝らない一冊、としてお勧めする次第。脇道、ご容赦。





















