山の好きな人には本の好きな人、また、みずから名文をつづる人も多い。小生の勝手な解釈だが、日本にアルピニズムというものが紹介されたとき、それを実践できたのは当時の上流階級のひとたちであり、インテリ層で、登山という行為のなかになにかスピリチュアルなものを求める人も多かったからではないか。なかでも名著、と呼ばれる本も数々あって、読者を魅了する文章も枚挙にいとまがない。小生にもいくつか、繰り返し読んできた本―というか文章ーがある。尾崎喜八 ”たてしなの歌”、加藤泰三 ”霧の山稜”、山口耀久(あきひさ) ”北八ツ彷徨” である。
加藤の本は戦前の山好きの人たちをユーモラスに描き、尾崎の本は我々を取り巻く自然の豊かさと人とのかかわりを流麗な文章でつなぎ、自分もこういう目を持ちたいと思わせる,流れるような名文である。かたや山口の本は彼のクライマーとしての輝かしい山暦からも想像できるが、現実を鋭い目で見通して人をはっとさせる文節が随所に出てくる。
僕は大学卒業後、仲間たちとゆかいな山歩きを数年続けた後、お互い家庭や仕事に追われ、日程の都合がつかなくなってからの数年は、単独行というほど大げさではないが一人で歩くことが多くなり、そのゲビートとして選んだのが北八ツだった。本稿でも21年10月29日に ”とりこにい抄 (13)中山峠 に一度、このあたりのことを書いているが、その間にこの本に行き当たって以来、繰り返し読むことになり、文中にたびたび登場する高見石小屋にも幾たびか投宿してそのゆったりとした雰囲気にひたった。KWVで1年下にいた故村井純一郎はこの小屋の常連で、彼の紹介で常連客やオーナーのSさんからいろんな話も聞いたしものだった。その後、残念ながらSさんは事業から手を引かれて経営者が変わってしまい、、あの ”高見石” の、何とも言えない居心地はなくなって、ごくありふれた、 ”小屋が岳” の、風格のない、単なるビジネス施設の一つになってしまったのは何とも悔しい。
高見石を南の高みとする静謐な、時として人のセンチメントに訴える北八ツの森の旅を書いた ”北八ツ彷徨” のなかの文章で、小生に強烈な印象をあたえ、何かと言えば繰り返し読んでいる一節を、今回また再読してまた、 ”今” の自分の胸に響くものがあった。 落葉松峠 という一文で、著者の晩秋のある日の経験を書いたものだ。
・・・・・その峠はコースからも離れていて、わざわざ寄ってみようという気など起きないところだし、そこでおもいがけずひとつの出来事に出会わなかったら、それは無名の峠にすぎなかったのに・・・熊笹の多い落葉松林をのぼっていくと、反対側を吹き抜ける風のために、静止した落葉松林がいっせいに動いた、・・・・と山口さんは書く。そして、
小広い平地になってひらけたその峠は、風と雪と、乱れ飛ぶ落葉松の落ち葉の、すざまじい狂乱の舞台だった。風に吹き払われる金色の落葉松の葉が、舞い狂う雪と一緒にいちめんに空を飛び散っていた。滅びるものは滅びなければならぬ。一切の執着を絶て!
最早そこに、悔いも迷いも、ためらいもなかった。すべてがただ急いでいた。ひとつの絢爛を完成して滅びの身支度を終えた自然が、ひとつの季節の移りをまっしぐらに急いでいた。
小学生の時から、いわば本の虫で、山に関する本もただやたらに読んできたが、この文節ほど、自分の心にしみわたったものは数少ない。畏友山川陽一は山口さんと親しく、彼の紹介で夕食をともにしたことがあった。そのとき、この落葉松峠がどこなのか、聞いてみたが、本人も忘れました、と笑っておられた。今考えてみると、他人には語りつくせない、なにかを感じられた場所だったのだろう。そして何回目かに読み直してみて、自分もまた、山口さんがこの無名の峠でいだかれた感動を理解できる時をむかえているのだ、と感じる。
久しぶりにその八ヶ岳の麓に来た。近所をあるいてみると、まさに百花繚乱、という初夏だ。落葉松峠はどんな夏を迎えようとしているのだろうか。

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