福島屋のおばさん  (37 加藤清治)

福島屋のおばちゃんが腰を痛めて、十日町の長女さん宅で療養をしていますので、お見舞いに行きました。足腰が弱っているようですがお元気でした。浅貝に戻り節句にはちまきを作って下さいとお願いして来ました。同行桑原、山中。

(編集子)三国山荘、が完成したのは筆者加藤君が1年,編集子が2年の生意気盛りのときである。完成当時にはまだ三国トンネルが開通しておらず、バスも法師温泉どまりで、上越線で後閑から法師を経て三国峠を越えるか、金に余裕があれば湯沢まで出て、運行されていたバスで浅貝まで入るか、だった。

苗場のスキー場が開業したのは我々が卒業してからだから、当時の浅貝はむかしながらの素朴な村で、そこで青年団長をしていた福島屋旅館の若主人佐藤さんはわれわれの通称は ”団長”、ぶっきらぼうだが頼りになる存在だった。当然のように福島屋は僕らの定宿になっていった。加藤は山荘建設時点からの山荘委員で長い付き合いをしてきたひとりた。文中の”おばさん”は故団長さん夫人である。

三国峠を貫通するトンネルが完成し実用化されたのは我々が卒業後3年くらいたってからだろう。同じころから高度成長時期に差し掛かり、車がコモディティ化してしまって、上越線経由で入山することはほぼなくなってしまった。加藤君や我々がお世話になったもう一人のおばさん後閑駅まえ甲子(KWVでは”こーし”と呼んでいるが正しくは ”きのえね”)食堂の渋谷さんなんかも懐かしい顔だ。その後の消息を知る人がいればぜひご一報願いたい。トンネル工事は難行だったようで、例によって工事の犠牲者が壁に塗りこめられてる、なんて話もあり、完成直後、歩行は許可されても同期の大塚なぞは一人で通り抜ける勇気が出ず、峠を歩いて越えた、なんて話があったころの話だが。

その後、苗場スキー場周辺は西武グループによって大規模なレジャー施設化し、浅貝も経済的には様変わりした(ブームにのって乱設されたマンションのいわば残骸がその象徴だ)。同期の児玉博は浅貝の歴史、風俗を調査し、それをテーマとして卒業論文を書いた。彼が愛した古き、よき浅貝があった時期、児玉はフィアンセに心のふるさとを見せようと試みた国境縦走行で天候の激変に遭遇、仙の倉直下で遭難死してしまった。あいつ―俺達はある種の畏敬を込めて ”馬賊” と呼んでいたーが健在だったら今の浅貝をどう見るだろうか。

彼の追悼のために、とご両親からいただいた資金で、36年同期が中心になって、あの稜線に資材一式を肩で担ぎ上げ、避難小屋を建てた。児玉の遭難直後の遺体の搬送から一連の作業やこの避難小屋建設などにあたって、この ”福島屋” 団長から受けた数々のご支援を我々は忘れていない(なおこの避難小屋はその後地元や県などによってより強固なものに建て替えられ、初めての時に中に掲げておいたメッセージだけが三国山荘に保管されているはずである)。

おばさん、お元気でおすごしください。

三鷹の街の香りがする(とメーカーが言う)ビールであります

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全国ブランドではないんでしょうが、たまたま、近くの 7ー11 で見つけて買ってきました。うまいよ、これ。正式名称 三鷹ペールエール、”三鷹の街をイメージして醸造された”、てえのがなんだかわからないが。お近くにお住いのミツヨシ兄ならわかるのかな? ちょっと離れてるけどコージならわかるか?

(菅井)アルコール飲料市場参入という意味では恐らく最も参入障壁(資金、場所、出荷までの時間、etc.)が低いのがビール醸造のようです。2024年12月時点で日本にはクラフトビール(いわゆる地ビール)醸造所は907カ所(除く大手メーカー)あるそうです(都内には70カ所以上あるとか)。

(菅井)地元の7/11で調達されたのはここの商品だと思いますーはい、そのとおりです。以下を参照してください。
上面発酵という技術(ラガーは下面発酵)で醸造された「ペールエール」であるなら、香り高いビールなのでしょうね?商品は全て本部のコントロールで日本中どこでも「金太郎飴」状態と勝手に思っていた7/11でも地域によっては若干の「裁量」が認められているようですね。
「ビール 上面発酵 下面発酵 違い」を Googleで単純に検索したところ、頼みもしないのにAI(恐らくGemini)が以下の文章を吐き出してきました。


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上面発酵と下面発酵の違いは、酵母が発酵中にどこに集まるか、発酵温度、期間、味わいにあります。上面発酵(エール)は酵母が浮き上がり、高温で短期間発酵してフルーティーで芳醇な味わいになる一方、下面発酵(ラガー)は酵母が沈み、低温で長期間じっくり発酵するためすっきりとしてキレのある味わいになります。 

上面発酵(エール)
酵母: 発酵中に麦汁の表面に浮き上がる。
発酵温度: 15~25℃前後の比較的高温。
発酵期間: 短期間(3〜4日程度)。
味わい: 酵母の働きが活発なため、フルーティーで香りが豊か、個性が際立った味わい

コージ兄、毎回のことながら博識には脱帽(KWVOBのヤスダコータローと双璧だな)。

オーロラを見てきました   (41 斉藤孝)

 

老夫婦はヨタヨタと北極圏まで来ました。ロシアとフィンランド、ノルウェーの国境が交差する北緯70度。極寒の世界でオーロラ観賞するためです。

北極圏にはオーロラベルトと呼ばれるオーロラ観賞地域があります。今回はフィンランドのサーリセルカとノルウェーのトロムソとキールナで観賞できました。

老夫婦は「女神アウロラの華麗な踊り」に大興奮しました。闇夜が突然裂けて緑色のネオンのカーテンが降りてきました。ネオン光は波の帯のようにも見えます。女神アウロラ(Aurora)は、巨大なネオン色した羽衣を付け北極の暗闇で踊っていました。

オーロラの発生は太陽の磁力とプラズマが密接に関係するそうです。その研究のために「電磁気学」と呼ぶ研究分野が生まれ謎は解明されました。この驚異に科学の話は忘れておきましょう。謎でかまわないと思いました。 

まさに「地球劇場の神秘な自然美の演出」 です。

 

八幡平夏合宿騒動始末記   (34 船曳孝彦)

私はワンダー卒業後も医師(国家試験前)としての参加も含め、最も多くの合宿に参加してきました。1年生の時は健康を崩して行けませんでしたが、2年生の戸隠合宿で分散・集中の大合宿の楽しさを実感しました。

そして臨んだ八幡平合宿‼ 集団赤痢という大事件に見舞われました。当時の日本では時々集団発生が報じられた法定伝染病で感染力が強く恐れられていました。私は医学部の学生という立場なので、麓の病院へ毎日往復し、テントサイトの現況を先生に報告し、先生の指示やら私の拙い医学知識を皆に伝え、医師・看護婦をテントサイトに迎えて、検便をしてもらうなどで忙しく、自分のパーティ(SL)と歩いた記憶はすっ飛んでしまいました。

この合宿では、温泉宿のトイレから沢の水が汚染された疑いも明らかになり、数多くの問題点が浮かび上がりました。しかしこの出来事を、逆に良い機会ととらえ、部活動の組織、運営を見直して確立したこと、合宿中の事故の報告、陳謝を兼ねて現役部員が大先輩を始めOB方を訪問し小屋建設募金をお願いし、自分たちも小屋建設のためのバイトをしたりして、『自分たちの小屋を持とう』という遥かな夢をこの1年で実現したこと、この二つはマイナスからプラスを生んだ大成果といってよいでしょう。

そして4年の夏合宿は、新築された三国山荘の庭にテントを張って行うことが出来ました。土砂降りの雨で『飲んでも飲んでも減らない味噌汁』も良い思い出です。解散した夜は疲れているのに眠くならず、いつまでも焚火を見つめながら夜を明かしました。

(編集子)当時のKWVの運営は毎週末、多い時には3-4本、 ”プラン” という呼び方でワンデルングが企画され、月ごとにリーダー名とともに日吉、三田の部室に掲載された。希望者はその貼りだされた紙に学年と名前を書き、指定された日に準備会に出る、という方式をとっていて、月2回程度、ワンデルングに参加する、というのが平均的なあり方だった。毎回、仲間はだれになるかは不定で、1年を通じても気の合った中でも同じプランで一緒になるは数回だった。だから全員がとにかく顔を合わせる夏合宿というのは非常に重要でもあり、楽しみであった。形式はベースキャンプから班ごとに、毎日違ったピークを往復するスタイルで、数多くのエピソードが語られ、伝説が生まれたものだ。小生1年、張り切って参加したのは東北八幡平、天候に恵まれた1週間だったが、その間に思ってもみなかった、赤痢の発生、という事件が起きた。これはそのこと自体、もちろん大変なことだったが、これがきっかけでOBとの交流が本格化し、また、大人数の行動を安心に実施する、という観点からも山小屋建設が加速された、というKWV史上、記憶されるべきハプニングであった。

47年かけての玉山遠征  (55 宮城裕之)

昭和53 年(1978 年)3 月にKWV 現役21 名で台湾玉山に遠征、残念ながら山頂直下は、30 年ぶりの大雪で、山頂には行かず撤退。当時は、我々の他に高知大学WV・成蹊大学WV と排雲山荘で一緒になり、我々が山荘に到着した時点では、高知大学2 名が滑落のため行方不明となっていて、山荘の中は大混乱でした。

しかも、捜索隊(警察?)から、救助支援を依頼されましたが、ピッケル・アイゼンを持たないKWV メンバーでは不可能で断りました。台湾遠征に際しては。KWV OB 各位の寄付を約90 万円援助いただきましたが、個人負担15 万円は、全員でバイトをして稼ぎました。デパートのお中元の梱包、証券会社での宛名書き、大手コメ卸売会社でのコメのコンテナへの積込み等、KWV OB からの照会で高いレートのバイトを紹介いただき、何人かに分かれて、短期間で稼げるバイトに精を出し何とか資金を集めました。

そうした準備を10 ヶ月かけて実施しましたが、山頂には行けずとなりました。そして、昨年の10 月にリベンジを計画しましたが、今度は大型台風が台湾直撃となり、日本出発前日に玉山入山禁止となり中止。そして今回47 年ぶりのリベンジで、3 度目のチャレンジとなり、ようやく登頂できました。

日程:2025 年10 月29 日(火)~11 月2 日(日)

1. 山域:台湾
2. 目的:47 年前のリベンジで東アジア最高峰台湾玉山(3952m)に登る
3. 登山ルート;上東埔駐車場~排雲管理センター~塔塔加(タタカ)
鞍部~排雲山荘~玉山主峰~排雲山荘~塔塔加(タタカ)鞍部~上東埔駐車場
4. 天候:曇り・晴れ・ガス・霧雨
5. 参加メンバー:L 新井・SL 横川・石倉・岩見・宮城・織戸・若松・畑川・篠原
6. 行動記録;
登山; 距離; 21km/ コースタイム:17 時間10 分(休憩時間;4 時間24 分) 累計標高差;1907m

10 月28日(火):日本国内移動日
自宅‐(車)-JR 宇都宮~浜松町~(東京モノレール)~羽田空港第3ターミナル駅-ヴィラフォンテーヌグランド羽田空港ホテル(泊)

10 月29日(水);台湾国内移動
AM7:55 羽田空港第3ターミナル/CI223 ⇒10:55 台湾松山空港着~(チャーターバス)~16:30
東埔温泉:帝綸温泉渡假飯店泊(ややぬるい温泉)~17:30 夕食~20:00 就寝

10月30日(木):
登山DAY1: 距離; 9.6km/ コースタイム:7時間12分(休憩時間;1時間32分) 累計標高差;1164m
AM7:30東埔温泉→[チャーターバス]~9:00上東埔駐車場(トイレに立ち寄る)‐[徒歩5分]
9:25排雲登山サービスセンタ-(パスポート提示;登山申請/入山許可証入手)~[楠溪林道・専用シャトルバス-100元/人]~9:50塔塔加鞍部登山口~10:05登山開始⇒11:08モンロー停・休憩(トイレあり)⇒11:48玉山前峰分岐(通過)⇒13:10白木林休憩所/休憩(トイレあり)⇒14:56大峭壁⇒16:25排雲山荘着/寝袋を受け取り、2段ベッドの部屋へ。116名収容、外国人枠は24名・我々以外に日本人女性2人(美大WV現役学生)~17:30夕食~19:00消灯

10 月31日(金);
登山DAY2; 距離; 11.4km/ コースタイム:9時間58分(休憩時間;2時間52分) 累計標高差;1538m
AM2:00 起床~2:30朝食(おかゆ)~3:20排雲山荘発;星空の中、ヘッドランプを点けて出発。⇒4:14 3680m 付近で休憩。ガス霧雨となる。4:19発⇒4:32 3750m付近で17分休憩。前を歩く登山者が多い。4:49⇒5:04 3840m付近、21分休憩。5:25発⇒5:47 玉山主峰山頂(3952m)着。14分休憩。6:01発⇒6:16 3850m付近、風の弱い場所で7分休憩。6:23発⇒7:40排雲山荘着。山荘にて2度目の朝
食。スープ入りビーフン。8:40発⇒9:16 3250m付近にて8分休憩⇒10:20白木林の展望所,20分休憩。玉山主峰が見える。⇒11:07モンロー停30分休憩。⇒13:10塔塔加鞍部登山口着。~(シャトルバス)~13:50 上東埔駐車場→(チャーターバス)→19:55 台北ホテル到着(フハウスホテル台北(HùHouse, Taipei 台北互舎酒店)~台北中華料理店にて打上げ

11月1日(土);
台北~九分観光; 3名帰国、6名で観光                                                            AM7:30ホテル発~近くの中華料理屋で朝食8:30~(徒歩)→9:30龍山寺~(地下鉄・徒歩)→11:00ホテル~買物~14:00ホテル→(タクシーバンをチャーター:4時間(3000元)→九份~(観光)17:00→18:00ホテル→夕食

11月2日(日)
帰国
AM6:20ホテル発~(タクシー)→6:40台北松山空谷~9:00 CI220→12:30羽田空港

7. その他・感想
台湾には標高3,000メートルを超える山が200座以上存在し(日本は13座のみ)、雨が多く谷が深い地形のせいかと思われますが、気象条件が厳しいようです。今回で3度目のチャレンジとなりましたが、天候にも恵まれ、全員怪我無く目標を達成することができて良かったです。47年前の台湾はまだバイク・自転車ばかりで、自動車はあまり走っていませんでしたが、今や日本と変わらず、台北には高層ビルが立ち並んでいました。当時は1972年に中国本土との日中国交正常化が行われたばかりでした。47年前(1978年)、登山前に台湾登山協会に挨拶に行きましたが、会長さんからは、日中国交回復を行った藤山愛一郎と田中角栄が台湾に入国したら、生きては返さないとショッキングな話を聞かされ、20歳前後の学生であった我々には、大変な驚きでした。また、当時帰国前に台北三田会にてレセプションを開いていただき、300名近い多くの三田会関係者が集まり、当時の台湾政財界に多くの慶應出身者(当時の厚生大臣も)で、台湾からの留学生が多かったことも驚きでした。今回当時のメンバー7名を含めた9名で台湾遠征し、長い付き合の仲間とは昔話で盛り上がり、長い年月を超えたKWVメンバーの絆に感謝します。

(編集子)玉山はKWVにはOB現役を問わず親しまれている山だが、今回の記録は、OBになって時間はもとより多くの障害がありながら、実にほぼ半世紀の間、仲間内での情熱を絶やさず、若い日の夢を実現した、という意味ではまさに大きな感動をよぶものだ。登山計画などは別途、KWVホームページに記載される予定であり、また素晴らしい写真があるが全てを紹介するにはあまりにも多量なので、別途紹介の機会を設けることとし、今回はとりあえず、宮城君の紀行文のみを紹介する。

くりかえすが、快挙ではないか。

東京支社ミニ忘年会

YHP(横河ヒューレットパッカード)が日本HPに変わろうかというころ、営業部門は4つの支社体制を敷いていた。編集子が支社長だった東京支社の担当は官庁とか大企業の本社とか、手間はかかるがなかなか注文の来ない地域であり、当時のドル箱だった測定器のユーザもすくない、というところだった。4支社の中では貧乏くじを引き当てたような具合で苦戦したが、その為か団結心がつよく、チームワークでことに当たる、今考えても気持ちのいい集団だった。支社体制を辞めた時点から数えれば50年を超えようかという昔の仲間たちのうち、いまでも交流が続いているグループの恒例の集まりである。このブログがきっかけで他の仲間たちからの声がかかるのを楽しみに待つ。

出席者、左から木内和夫、楠路夫、浅原弥生、菅野節子、天堀平衛、麻生洋、田中一夫、中司。

スイスでの氷河崩落のこと  (44 安田耕太郎)

今年5月スイスで前例のない規模の氷河崩壊が起きた。グリンデルヴァルドの南西30〜40km、ユングフラウ峰の南西方向、レーチェンタール渓谷で発生した。

氷河崩壊による地滑りで露出した山肌。ブラッテン村が埋まった谷底には土砂や水がたまっている=スイス・バレー州で2025年8月9日、高橋由衣撮影

アルプス山脈の名峰がそびえるスイス南部バレー州。レッチェンタール渓谷とその周辺一帯は、世界自然遺産に登録される風光明媚(めいび)な土地だ。アルプス最大のアレッチ氷河(約78・5平方キロ)に代表される山岳氷河群を抱え、自然の雄大さから「魔法の谷」とも形容される。
その美しい谷に張り付くように歴史ある家々が軒を連ねていたブラッテン村(標高約1540メートル)を5月、悲劇が襲った。谷の上流にある氷河の一つが崩壊し、水と氷混じりの真っ黒な土石流が人口約300人の村をのみ込んだのだ。

州当局などによると、5月28日午後、村から標高にして1200メートル以上の差がある上流のバーチ氷河で大規模な地滑りが発生。周囲の岩石や土砂を巻き込み、平均時速200キロで一気に流れ下った。解けた氷河と土砂の総重量は推定約2000万トンに及んだという。 村があった谷底には、深さ最大数十メートル、長さ2キロにわたって氷や土砂が堆積(たいせき)し、村の9割が消えた。

氷河崩壊の一因として考えられるのが地球温暖化だ。アルプスでは気温上昇に敏感な山岳氷河の後退が多数確認されている。スイスの永久凍土監視ネットワーク「PERMOS」の観測点では、2015~24年のわずか10年間で、深さ10メートルの永久凍土の温度が最大1・1度上昇。氷の融解を招いている。

現在ブラジルで第30回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP30 )が開催されているが、トランプは温暖化を認めておらずアメリカの関与は消極的で政府代表は不参加。民主党の加州知事が個人資格で参加。世界の足並みは揃っていない。現在生活している70億人が皆いなくなる100年後の地球は果たしてどうなっているのか?

(42 下村) 我々同期のがにまたメンバーも、フランスの氷河メールドグラスの大幅な溶解・減少により大変難儀をしたことがあります。

 60年ほど前に現地に行ったことがある河瀬さんをリーダに、2013年にホヤノさんを含む仲間10数名でフランスアルプスにトレッキングに行きました。
 ケーブルカーをモンタンベールで下り、氷河へ向かおうとしたところ何とその氷河は大幅に溶けて体積が減少、遥か下の方まで後退していたのです。岩壁に取りつけられている鉄梯子を氷河面まで50~60mも下りたのですが、がにまたの奥様連中も何名か同行していてとても怖い思いをしたものです。
 河瀬さん曰く、昔はケーブルを降りたら氷河まで水平に歩いて行けたんだがなぁ・・・と。

.(42 河瀬) ユングフラウの地図を久しぶりに広げて見ました。そこにはBietsch Horn(3934m)という高山が聳え、Blatten村に直撃する位置のBurch氷河(添付図黒矢印)を見つけました。送られた写真では左側の谷がその氷河ですが、氷河の下部と村は土砂に埋まっています。上に見える峰がBietsch Hornでしょう。右の谷も地図に載っている氷河は溶けて上部しかありませんね。

 この位置で氷河と土砂に襲われたら、村はひとたまりもないでしょう。
それでただ一人の行方不明者は幸いですね。
  下村さんが言うように私もモンブラン氷河の驚く消退(45年で厚さ50m消失)を見ていますが、今後は急峻なユングフラウの麓でも雪崩が起こるかもしれませんね(16年前の写真)。

 ”霧の山稜”   (33 金井隆儒)

 

(金井)私の背番号はS33Pですが、奇しくもワンゲルの誕生と同じで今年、90歳になります。今回の90周年記念パーティで諸先輩をはじめ、メンバーの元気な姿を拝見して嬉しい限りでした。

実は私の二番目の兄が明治大学のワンゲルに在籍していましたが、彼に加藤泰三さんの本 ”霧の山稜” を勧められ、一読して感動したものです。

私が好きだった場所は奥秩父やすすきの美しい玄岳、南アルプスでいえば忠兵衛小屋当たりでした。ほかには秘密にしていましたが、黒部欅平に戦時中に掘削して作られたエレベータがありました。今はどうなってしまったかわかりませんが。

(編集子)金井さんは小生入学時点で4年生、いくつかのプランでご一緒させていただいたが、中でも初夏に奥秩父金峰を中心としたエリアに連れて行っていただき、秩父の雰囲気に浸ったことが忘れられない。黒いベレーをかぶっていつも笑みの絶えない、温厚な先輩だった。奥秩父での感想を正直にうちあけたら、そうか、秩父が気に入ったのなら、この本が好きになると思うよ、と紹介していただいたのが、表題にした ”霧の山稜” という本だった。

1年の夏、立山から槍まで9日間雨、雨、雨、の縦走でのことなどの記憶もあるが、文中で ”好きな場所” として挙げておられる玄岳(くろだけ)には心ひかれて都合3回ほど通った。いまは高速道路を通すためにあたりは一変してしまったのが悔しいが。

”霧の山稜” を読んだことが、KWVでの小生のありようを決めてしまったように思える。だれにも ”この一冊” というような出会いがあるのかもしれないが、僕の ”この一冊” は間違いなくこの本だったし、金井さんとのいくつかのワンデルングであるようだ。

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小生の心のふるさとであり続けるKWVも90年の歴史を刻んだのだが、創部間もなく太平洋戦争に突入、先輩方の多くが戦火に倒れられる悲劇となった。終戦後、復員された先輩方多くのご努力で復活したKWVだが、祖国が立ち直り、キャンパスが復興していった昭和30年代になって、多くのご努力が実り、現在の部の在り方が定まったのだ。そのいわば第二の出発点にいあわせたわれわれには、その頃の部のありようを後輩諸君たちに伝える義務があるだろう、といいうことを記念式典で改めて思ったことだった。

いろいろなやり方があるだろうが、本稿では各時代、時代にいあわせた人達にそれぞれが遭遇した ”KWV”の一面を伝えるエピソードをつづっていただき、 いわば ”俺たちのころのKWV” 点描を掲載して、わがKWVの時代を超えたありようを知ってもらう一助としたいと思い立った。とりあえずは36年組にとって大兄貴、だった金井先輩の一文をお届けする。今後、各代各代でのありようのご投稿を、引き続き期待したい。

 

年いち上高地 (HPOB 小田篤子)

皆さんそれぞれの場所で綺麗な紅葉を楽しまれていますね。

私は先週、例年の閉山直前の上高地に出かけて来ました。
今年はいつもの年より、紅葉が残っていました。
それに反して、雪が早く降ったため、大正池にうつったり、河童橋から見える穂高が青空に映え、とても綺麗でした。
上高地にも9月に熊が出たとかで、梓川沿いの歩道にはあちこちに紐をふり鳴らせる熊ベルが立っていました。しかし、なぜか昨年は田代橋付近に20匹ちかく集まっていたり、ホテル周辺でも見かけた猿に、全く会いませんでした。熊の出没が怖い?
東南アジア系の人が多く、7割くらいいたでしょうか。
毎年乗る始発の次のバス停からは、今年は補助席しか空いていませんでした。
(編集子)マー、よく出かける人だねえ。小田家の年間交通費を知りたいものだ。

秋の日平(ひびら)会    (普通部OB 船津於菟彦)

岡野名幹事の采配で開催。 高山さんは閉会直前に、飯泉さんは電話で参加されました。約25年前に日高さんの提唱で始まりました「日平会」は、我々の普通部卒業後、70年が経過しても懐かしく続いて居ます。このメンバーが中心になり普通部卒業50年、60年、70年と同期全クラスの同窓会も開催して参りました
今後も人生100歳時代を謳歌していくために3月・6月・9月・11月の第三木曜日を原則に開催することとなりました。本日も皆々様近況報告でいろいろ参考になる人生の生き方を教えていただきました。 元気でまた集いましょう。

今回の出席は岡野・中司・水木・日高・田中宏幸・田村・亀田・加藤武男・河野・高山・蓮井・佐藤

(編集子)慶応普通部昭和29年卒同期有志の集まりだったが、今までクラス別にやってきたクラス会も人数の減少で開催が難しくなってきたので、同期全員の集まりにしようということになった。ご関心ある向きは岡野(A組)または船津(C 組)まで連絡されたし。