ブラディドール、血塗れの人形、といえば穏やかではないが、だいぶ以前、話題にしたことのある北方謙三のシリーズ小説の題名である。初見はもう20年以上前のことだが、ときどき読み返すことが増えてきた。北方は西村京太郎同様、多作作家だが、西村が推理小説に限っているのに対し、歴史ものからサスペンスまで、幅広い領域の作品を世に問うている。もともとは純文学をこころざしていたというのだが、”逃れの街” ”弔鐘はるかなり” などで認められ、同じころデビューした大沢在昌とか逢坂剛、船戸与一などともにハードボイルド作家、という評価を受けている北方はほかにも三国志をはじめとする大型の歴史小説など、その多作ぶりには驚嘆させられる当代の人気作家になってしまった。
”ブラディドール” は北方をHB作家として認めさせるようになった初期の作品で、架空のN市(沼津がモデルだろうと推測されている)にある同名のバーを偶然に訪れることになる、過去を背負った男たちの、一話完結型のストーリー10冊からなるシリーズである(北方はほかにもシリーズものをいくつも書いていて、それぞれにファンはいるようだが、小生はまだ未読である)。
シリーズ第一作 さらば荒野 ではじまり ふたたびの荒野 で終わる10冊の第二作では刑務所あがりのバーテンが、三作めでは米国で成功しながら愛妻を殺され日本に戻ってきたホテルマンが、次には高名であるが過去のある画家が、というようにいろいろな男たちか各々違った理由でN市に流れ着き、それぞれ、北方の表現によれば (男の死に様、すなわち如何に生きるか)というテーマを意識させるストーリーを展開してゆく。一編ごとに難しい筋やなぞときがあるわけでもなく、文章にもたとえばHB論で語られる ”ヘミングウエイ流の” 工夫がみられるわけでもない作品だ。このシリーズを、なんで今頃、読み直す気を起こしたのか、自分でもわからない。ただ明らかに人生の黄昏を日々意識するようになって、 北方がこのシリーズのテーマだとしているという ”男の死に様すなわち生き方”、 聞きようによってはいやったらしく気障なテーマにぶつかってみようかと思いだした今、ヘミングウエイでもサルトルでもプル―ストでもない、世の中のインテリには鼻であしらわれるだろう街の文学が、もともと意地っ張りでなんか権威っぽいものには理由もなく反抗してきた僕には、より身近なものに感じられるようになってきた、ということなのだろうか。
この作品は北方にとっても大きなステップであったのだろうが、出版元の編集担当者との対談が一冊にまとめて刊行されていて、このシリーズのみならず、北方文学のファンにはまたとないガイドブックになっている。
このシリーズの愛読者として、一つやろうと思っているのが、”ブラディドールのある街の地図の作成” である。だいぶ前、スー・グラフトンに凝っていた時、主人公キンジー・ミルホーンが住んでいるサンタ・テレサの街の見取り図をこころみたことがある。大分進んだところで調べてみたら、すでにやり終えた女性がアメリカにいて、地図まで発表されていることがわかって落胆した。今回も同じようなことになるのかどうか、10冊を再読して、街の地理に関係ありそうな字句を抜き出して推理する。どこまで根気がつづくか、しばらく、お待ち願おう。













荻外荘は昭和前期に3度にわたり首相を務めた近衛文麿




