サンフランシスコ条約について   (普通部OB 菅原勲)

在日本中国大使館は12月2日、高市早苗首相が先月の党首討論で言及したサンフランシスコ平和条約について「不満かつ無効である」との主張をXに投稿した(朝日新聞、12月3日(水)、19時、配信)。

サンフランシスコ平和条約とは、太平洋戦争後に連合国諸国(米国など)と日本の間に締結された平和条約で、1951年9月8日に署名され、1952年4月28日に発効した。ただし、ソ連(米国が日本に駐留することになることを理由に調印しなかった)、中華民国、中華人民共和国(この両国は招待すらされなかった)は、この平和条約には参加していない。

先ず、この平和条約に参加、調印すらしていない中華人民共和国が、「不満かつ無効である」と述べても、当事者でもない国が第三者同士の締結した条約は無効であると文句を述べたところで、この条約は聊かも揺るぐ筈がない。正に、犬の遠吠えだ。

そこで、中華人民共和国のこの投稿が正しかったと仮定してみよう。すると、その最大の問題は、この条約では「台湾、澎湖島の権利、権限及び請求権の放棄」を謳っていることだ。ただし、帰属先には言及していない。従って、「不満かつ無効である」と主張するならば、日本が台湾を放棄することに反対していることになる。つまり台湾は依然として日本の領土と言うことになるわけだ。こんな自分に不利になることを、わざわざ中華人民共和国は望んでいるのか。

と言うわけで、ボンクラの小生には、何故、中華人民共和国がこんなバカバカシイことを大使館を通じて公にしたのか全く理解できない。この行為を自爆行為と嘲る人もいる。日本

から慣例の遺憾砲が飛んで来ないことから、焦りまくって、支離滅裂になってしまったのか。

ここでもう一つ問題にしたいのは、所謂、オールド・メディア(小生は、オブソリート・メディアと呼んでいるが)、例えば、日経ではこの問題には殆ど触れていないことだ。これで世の中の動きが的確に分かるのだろうか。確かに、ネットの情報が玉石混交であるのは間違いない。しかし、少なくとも小生にとっては、今や、ネットはなくてはならぬ媒体であり、貴重な情報源となっている。

(44 安田)まさに溜飲が下がる思いがします。いつもながらの小気味の良い、切れ味鋭い菅原さん流慧眼の「管見妄語」です。

最近、韓国で反中・抗中デモ。一体なぜ韓国で反中国デモが行われているのか?
マスコミによれば、事の発端は2025年の9月末に導入された、中国の団体観光客に向けた一時的な“ビザ免除政策”。これにより、中国人観光客の増加に反対する人たちが毎日のように各地でデモを行っているのです。日本は中国観光客の爆増では反中国は起こらなかったのに。
韓国も不思議な国です。普段は抗日・反日には熱心なのに、無意識のうちに日本を間接的に助けている。それも中国人観光客増大が理由で???
直近のトランプ大統領の台湾関連の発言・行動に中国が怒っているとの報道が。以下クリックしてご参照下さい。
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日本国との平和条約(にっぽんこくとのへいわじょうやく、英語Treaty of Peace with Japan、昭和27年条約第5号)は、1951年9月8日第二次世界大戦太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約。通称はサンフランシスコ平和条約。サンフランシスコの英語の頭文字(San Francisco)を取ってSF条約とも呼ばれる)。

概要

この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認[注釈 2]国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。なお、ソビエト連邦は会議に出席したが、連合国軍による占領終了後におけるアメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。旧イギリス領のインドビルマは欠席した。旧オランダ領のインドネシアは条約に署名したが、議会の批准は実施しなかった。その後、日本はインドネシア、中華民国台湾)、インド、ビルマとの間で個々に平和条約を締結したが、ソビエト連邦(およびその国際的地位を継承したロシア連邦)との平和条約は締結されていない。

本条約はアメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ平和条約サンフランシスコ講和条約ともいう。1951年昭和26年)9月8日に署名され、同日に日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。11月18日、第12回国会で承認された後[2]、翌年の1952年(昭和27年)4月28日公布・発効された。

大倉山公園の紅葉   (34 小泉幾多郎)

みんなから送られてくる素晴らしい景観とその写真。つい最近のメールを眺めただけでも、遠くはオーロラをはじめとして、上高地、秋川渓谷、香嵐渓、荻窪三庭園、錦糸町公園、載せていない景観ごめんなさい。メールを眺めているだけでも楽しませていただきました。
こちとらは、外に出るのも億劫になる歳と共に、外出の機会が、ぐんと減りました。今日快晴の日曜日、一念発起し出掛けようとしましたが、行く場所は、我が家から一番近くて紅葉しているところ、梅で有名な大倉山公園あたりしか思いつかず、久しぶりに、1時間ばかり歩いてきました。

(HPOB  金藤)大倉山公園の紅葉みごとですね。遠くに行かなくても楽しめるなんて、羨ましく思います!

荻窪三庭園をめぐって

(HPOB 金藤)
杉並区の荻窪界隈のローカルな話となりますが・・・

先日、吉祥寺へ出かけたついでに、実家から一駅隣の駅が最寄駅になる 荻窪三庭園のうち、荻外荘公園は現在は邸宅内を一般公開していて、今年7月から隈研吾氏が設計したカフェ・ショップ併設の「荻外荘 展示棟」もオープンしているらしいので、一度訪れてみたいと思っていましたが残念ながらその日は行けませんでした。  三庭園のひとつ角川公園にも行ってみたいと思っています。

荻窪三庭園とは荻外荘公園 太田黒公園 角川庭園の三庭園です。今は大田黒公園の紅葉が美しい時期です。 今年はまだ行っていませんが、ライトアップ時も雰囲気があって素敵です。

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荻外荘は昭和前期に3度にわたり首相を務めた近衛文麿の旧居。太平洋戦争のきっかけとなった近衛と軍最高幹部との会談もここで行われた。

(普通部OB 田村耕一郎)荻窪三庭園の写真とお話を懐かしく拝読、有難うございました私は荻窪の隣の西荻窪育ちで1946-1964年まで住んでいました。
その時代は荻窪三庭園との命名はなく、荻窪の近衛邸の前をぶらついたことを
覚えてますが、太田黒/角川邸は知りません。当時の散策コースは西荻窪の北側
にある東京女子大―善福寺公園-井草八幡宮でした。

京都永観堂の紅葉は素晴らしいですね、実は先週京都に出かけ、三十三間堂/
永観堂/広隆寺/仁和寺/清凉寺大覚寺を巡り、特別展での仏像、寺院/庭園、
見事な紅葉に魅せられました。特に見事な紅葉に囲まれた初めて訪れた
永観堂に驚き閉門まで過ごしました。

(普通部OB 船津於菟彦)何でも三題噺的に三にこだわることが多い。 ”六義園”「小石川後楽園」「浜離宮恩賜庭園」とか、「小石川植物園」「東京都庭園美術館」「椿山荘」何れの庭園は季節とか何を見るかです。それぞれ季節季節に素晴らしいと思います。たとえば 六義園、小石川後楽園、浜旧恩賜庭園、とか、小石川植物園、東京都庭園美術園、椿山荘、といったように。荻窪は昭和の初め頃政界・文化人が広大な土地を得られる荻窪村に住み着いたところです。大田黒邸だってば倍ぐらいのスペースがあったようですね。今でも文化人とかお金持ちの住む荻窪駅ですが、大田黒邸以外はたいしたことないですね。荻外荘は建物で、角川さんのお宅は記念館。

何を見たいか何を撮りたいかに寄りどの庭園でもそれなりの価値は在ります。江戸巡りなら「六地蔵」「江戸の鐘」とか色々巡るところは沢山ありますね。
お正月は七福神巡りとか、我が錦糸公園もかカサコソの季節です。

従兄弟会と勤務先同窓会が入り混じった夜の出来事

とりあえず阿波の国にご清遊の坂東正康兄に一報。一昨晩、親戚で、中司家ただいま一族筆頭若者頭の中司啓がプロモートして従兄弟会なるものがあった。市ヶ谷の地下鉄をおりたところで ジャイさあんと肩をたたかれたら、これなん、ウニ(染谷幸恵くん)でありました。友人とコンサートへ行く途中とか、元気でしたよl バンさんにくれぐれもよろしく、との伝言あり。 (注 :染谷旧姓木村くんは通称うに、坂東のセクレタリで名コンビをうたわれ、気難しい天才肌の良き理解者であった)。
翌日は今度はHP倶楽部のパーティ。最高齢はRDの西田さん。レギュラーだった北盾さん、吉原さん、堀江さんの姿は見えす。女性軍ではちとせが嫣然、変わらないのは岸良さんだったな。ミッキーの旦那はあいかわらずひょうひょうと。小生にしてみれば僚友横浜支社長手塚なく、敵役東部支社長片岡なく、工場時代の右腕田辺憲治またなく、だいぶ前に逝ってしまった無二の僚友曽山はたまたなく工場現場での兄貴分吉原さん森田さんなども出席敵わずとのこと、ただ時の移ろいが身に染みた一夕であった。
本来ならば会場や会員の写真を紹介すべきだがまだ未入手のため違った視点からのできごとを書かしていただく。
帰宅後、やるせない胸の内、追憶はhp時代とKWV時代が重なって鼠色、せめて今夜は明るい昼間に似合うシャルドネでなくバーボンで(”喉を焼く、と北方謙三ブラディドールは書くんだが俺はもう少し紳士的に、いわばメランコリック?に)行こうかとめったに買わないジャックダニエルを買い込み、グラスに惜春の憂いを晴らそうとしたと思いねえ、友よやすらかに、でも、あの頃あよかったよなあ、でもいい、まあいっか、と飲んでみたらこれがみょうな味なのだ。おのれ OZEKI だましおったかとラベルをみたら、なんと TENNESSE HONEY とあるではないか。はちみついりのリキュールだったのだ。当然ラベルも見ずに買った俺が悪い。ますます機嫌が悪化、こんちくしょうめ、それならばと久しく呑んでないカナディアンクラブでお茶をにごそうかとまさに一口すすったところで玄関がピンポーン。出てみたらなんと47年関谷君からなにやらずっしりと重い箱。予感もあって、はさみももどかしくやぶりあけたら、なんと Kentucky Straight Burbon Michters  と。さっすが関谷、俺が見込んだだけあるわい、と満足。となりにならべたC&Cは創業1858年つまり メージイシンのわずか10年前、方やミクターさまは1753年、米国最古の蒸留樽だそうだ。
この後、まだ眠れそうもないほど気分がマイナス興奮(俺の造語)してるので、オクガタの薬箱からマイスリーを失敬して飲んだら、今朝は9時30分を超えてもまだぼんやりしてる。
窓を開けても海は見えないが武蔵の国調布の里の空は無風快晴。なれどわが心なお波高し。

(47 関谷誠)Small batchとは「小規模生産(small batch)とは、

特定の商品や製品を少量ずつ製造することを指します。

これは、手作りや特別な製法で作られる食品や飲料に見られる形式で、品質を重視し、個別の管理や職人技を反映させることができます。小規模生産のメリットには、顧客満足度の向上や持続可能性の促進、地域経済の活性化が含まれます。

台湾についての一考察    (普通部OB 菅原勲)

本当に中華人民共和国(以下、中国)と台湾は一つの中国なのか?

11月24日、習近平がトランプに電話した際、「台湾が自国の一部と言う一つの中国」原則などを改めて説明し、「台湾の中国への復帰は戦後国際秩序の構成部分だ」と強調し、台湾統一への強い意志を表明した、と日経は報じている。

ここで習近平が言っている、「戦後国際秩序の構成部分」とは具体的に何を指しているのだろうか。

その前提には、1895年、日清戦争で日本が清に勝利した結果、台湾が日本の植民地となったことから始まる。以下が、具体的な戦後国際秩序の構成部分だ。

1943年12月1日、“カイロ宣言”と呼ばれる宣言が、米国は大統領ルーズヴェルト、英国は首相チャーチル、中華民国は主席蒋介石から出され、戦後、台湾の日本から中華民国への返還が明記された。

 

1945年7月26日、“ポツダム宣言”と呼ばれる宣言が、米国は大統領のトルーマン、英国は首相のチャーチル、中華民国は主席の蒋介石(ソ連の書記長スターリンは日本の敗戦後に参加)から出され、カイロ宣言の履行を明記した。

また、1951年9月8日、締結されたサンフランシスコ平和条約では、台湾の帰属は明示されなかった。

以上、いずれも、その対象は中国ではなく中華民国だった。何故なら、中華人民共和国の独立は1949年10月1日であり、中国は、それ以前、地球上に存在しなかったからだ。つまり、日本からの返還先は、中華民国(台湾)だったことになる。逆に言えば、台湾が中国に属すると言うことを明示した書類は一つもない。

それに対して、例えば、外務次官だった栗山尚一は、その2010年に出版した回想録の中で、ここに言う中華民国は中華人民共和国と読み替えるべきだと述べている。しかし、こんな恣意的なことが簡単に罷り通ることになれば、どんなことでも読み替えることが出来るわけで、そこには途轍もない無理がある。

その意味で、習近平が「戦後国際秩序の構成部分」だと述べたことは、却って藪蛇であり、自ら墓穴を掘ったことになるのではないか。

従って、どう考えても、中華人民共和国と台湾(中華民国)は全く別の国家であると断じざるを得ない。今、中国が台湾にやろうとしていることは、例えば、Aと言う幼児がBと言う他の幼児の持っている優れものを、優れものであるが故に、これは俺の物だと奪い去って行くようなものであって、これは、児戯にも等しい全く稚拙な行いであり、絶対に許されることではない。

(44 安田)ニクソンの電撃北京訪問1972年に続く米中国交樹立(1979年)、日中国交樹立(1972年)などを経て国際政治に於ける中国の存在感の拡大、更に国力・経済力・軍事力強化に基づいて、曖昧であった台湾の帰属問題を、統一して中国に帰属させるシナリオに、一直線に走っているのが習近平政権だろう。いつの間にか、第二次世界大戦当時存在せず、創立メンバー国でもない、中華人民共和国が安保理常任理事国になっているのは国際政治の、国連の理不尽さだ。常任理事国5カ国に与えられた拒否権(right of veto)もおかしな特権だ。5ヶ國の1カ国でも紛争当事国或いは深く利害に関わる国であれば、国連は機能しない(現在、既にその問題が顕在化している)。

中国の戰狼外交(Wolf warrior diplomacy)や恫喝外交(Intimidation diplomacy)に対して、日本は同盟国アメリカをはじめ、西側友好国を含め、国際政治の中で堂々と有効且つ強靭な外交を実践してもらいたい。

八ヶ岳南麓も冬支度です (グリンビラ総合管理HPより転載)

 

今日は快晴です。

車のフロントガラスが凍っていたので恐らく0度以下まで下がったと思いますが天気が良く陽射しがあるので昨日より暖かく感じます。

朝八ヶ岳が随分下の方まで白くなっていました。清里はみぞれ混じりの雪が降ったそうです。

現状ではスタッドレスタイヤは必要ありませんが、そろそろタイヤ交換の準備をしておいた方がよさそうです。

福島屋のおばさん  (37 加藤清治)

福島屋のおばちゃんが腰を痛めて、十日町の長女さん宅で療養をしていますので、お見舞いに行きました。足腰が弱っているようですがお元気でした。浅貝に戻り節句にはちまきを作って下さいとお願いして来ました。同行桑原、山中。

(編集子)三国山荘、が完成したのは筆者加藤君が1年,編集子が2年の生意気盛りのときである。完成当時にはまだ三国トンネルが開通しておらず、バスも法師温泉どまりで、上越線で後閑から法師を経て三国峠を越えるか、金に余裕があれば湯沢まで出て、運行されていたバスで浅貝まで入るか、だった。

苗場のスキー場が開業したのは我々が卒業してからだから、当時の浅貝はむかしながらの素朴な村で、そこで青年団長をしていた福島屋旅館の若主人佐藤さんはわれわれの通称は ”団長”、ぶっきらぼうだが頼りになる存在だった。当然のように福島屋は僕らの定宿になっていった。加藤は山荘建設時点からの山荘委員で長い付き合いをしてきたひとりた。文中の”おばさん”は故団長さん夫人である。

三国峠を貫通するトンネルが完成し実用化されたのは我々が卒業後3年くらいたってからだろう。同じころから高度成長時期に差し掛かり、車がコモディティ化してしまって、上越線経由で入山することはほぼなくなってしまった。加藤君や我々がお世話になったもう一人のおばさん後閑駅まえ甲子(KWVでは”こーし”と呼んでいるが正しくは ”きのえね”)食堂の渋谷さんなんかも懐かしい顔だ。その後の消息を知る人がいればぜひご一報願いたい。トンネル工事は難行だったようで、例によって工事の犠牲者が壁に塗りこめられてる、なんて話もあり、完成直後、歩行は許可されても同期の大塚なぞは一人で通り抜ける勇気が出ず、峠を歩いて越えた、なんて話があったころの話だが。

その後、苗場スキー場周辺は西武グループによって大規模なレジャー施設化し、浅貝も経済的には様変わりした(ブームにのって乱設されたマンションのいわば残骸がその象徴だ)。同期の児玉博は浅貝の歴史、風俗を調査し、それをテーマとして卒業論文を書いた。彼が愛した古き、よき浅貝があった時期、児玉はフィアンセに心のふるさとを見せようと試みた国境縦走行で天候の激変に遭遇、仙の倉直下で遭難死してしまった。あいつ―俺達はある種の畏敬を込めて ”馬賊” と呼んでいたーが健在だったら今の浅貝をどう見るだろうか。

彼の追悼のために、とご両親からいただいた資金で、36年同期が中心になって、あの稜線に資材一式を肩で担ぎ上げ、避難小屋を建てた。児玉の遭難直後の遺体の搬送から一連の作業やこの避難小屋建設などにあたって、この ”福島屋” 団長から受けた数々のご支援を我々は忘れていない(なおこの避難小屋はその後地元や県などによってより強固なものに建て替えられ、初めての時に中に掲げておいたメッセージだけが三国山荘に保管されているはずである)。

おばさん、お元気でおすごしください。

(47 関谷)後閑の「こうし」のおばさん渋谷尚子さんは、店じまい後、伊勢崎在住のご長男の所に移られ、十年近く前、他界されております。年賀状のやり取りをしていたので、ご長男より喪中はがきを頂き、知りました。ご冥福を祈るべく、線香を、後日、お送りした記憶があります。

三鷹の街の香りがする(とメーカーが言う)ビールであります

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全国ブランドではないんでしょうが、たまたま、近くの 7ー11 で見つけて買ってきました。うまいよ、これ。正式名称 三鷹ペールエール、”三鷹の街をイメージして醸造された”、てえのがなんだかわからないが。お近くにお住いのミツヨシ兄ならわかるのかな? ちょっと離れてるけどコージならわかるか?

(菅井)アルコール飲料市場参入という意味では恐らく最も参入障壁(資金、場所、出荷までの時間、etc.)が低いのがビール醸造のようです。2024年12月時点で日本にはクラフトビール(いわゆる地ビール)醸造所は907カ所(除く大手メーカー)あるそうです(都内には70カ所以上あるとか)。

(菅井)地元の7/11で調達されたのはここの商品だと思いますーはい、そのとおりです。以下を参照してください。
上面発酵という技術(ラガーは下面発酵)で醸造された「ペールエール」であるなら、香り高いビールなのでしょうね?商品は全て本部のコントロールで日本中どこでも「金太郎飴」状態と勝手に思っていた7/11でも地域によっては若干の「裁量」が認められているようですね。
「ビール 上面発酵 下面発酵 違い」を Googleで単純に検索したところ、頼みもしないのにAI(恐らくGemini)が以下の文章を吐き出してきました。


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上面発酵と下面発酵の違いは、酵母が発酵中にどこに集まるか、発酵温度、期間、味わいにあります。上面発酵(エール)は酵母が浮き上がり、高温で短期間発酵してフルーティーで芳醇な味わいになる一方、下面発酵(ラガー)は酵母が沈み、低温で長期間じっくり発酵するためすっきりとしてキレのある味わいになります。 

上面発酵(エール)
酵母: 発酵中に麦汁の表面に浮き上がる。
発酵温度: 15~25℃前後の比較的高温。
発酵期間: 短期間(3〜4日程度)。
味わい: 酵母の働きが活発なため、フルーティーで香りが豊か、個性が際立った味わい

コージ兄、毎回のことながら博識には脱帽(KWVOBのヤスダコータローと双璧だな)。

オーロラを見てきました   (41 斉藤孝)

 

老夫婦はヨタヨタと北極圏まで来ました。ロシアとフィンランド、ノルウェーの国境が交差する北緯70度。極寒の世界でオーロラ観賞するためです。

北極圏にはオーロラベルトと呼ばれるオーロラ観賞地域があります。今回はフィンランドのサーリセルカとノルウェーのトロムソとキールナで観賞できました。

老夫婦は「女神アウロラの華麗な踊り」に大興奮しました。闇夜が突然裂けて緑色のネオンのカーテンが降りてきました。ネオン光は波の帯のようにも見えます。女神アウロラ(Aurora)は、巨大なネオン色した羽衣を付け北極の暗闇で踊っていました。

オーロラの発生は太陽の磁力とプラズマが密接に関係するそうです。その研究のために「電磁気学」と呼ぶ研究分野が生まれ謎は解明されました。この驚異に科学の話は忘れておきましょう。謎でかまわないと思いました。 

まさに「地球劇場の神秘な自然美の演出」 です。

 

八幡平夏合宿騒動始末記   (34 船曳孝彦)

私はワンダー卒業後も医師(国家試験前)としての参加も含め、最も多くの合宿に参加してきました。1年生の時は健康を崩して行けませんでしたが、2年生の戸隠合宿で分散・集中の大合宿の楽しさを実感しました。

そして臨んだ八幡平合宿‼ 集団赤痢という大事件に見舞われました。当時の日本では時々集団発生が報じられた法定伝染病で感染力が強く恐れられていました。私は医学部の学生という立場なので、麓の病院へ毎日往復し、テントサイトの現況を先生に報告し、先生の指示やら私の拙い医学知識を皆に伝え、医師・看護婦をテントサイトに迎えて、検便をしてもらうなどで忙しく、自分のパーティ(SL)と歩いた記憶はすっ飛んでしまいました。

この合宿では、温泉宿のトイレから沢の水が汚染された疑いも明らかになり、数多くの問題点が浮かび上がりました。しかしこの出来事を、逆に良い機会ととらえ、部活動の組織、運営を見直して確立したこと、合宿中の事故の報告、陳謝を兼ねて現役部員が大先輩を始めOB方を訪問し小屋建設募金をお願いし、自分たちも小屋建設のためのバイトをしたりして、『自分たちの小屋を持とう』という遥かな夢をこの1年で実現したこと、この二つはマイナスからプラスを生んだ大成果といってよいでしょう。

そして4年の夏合宿は、新築された三国山荘の庭にテントを張って行うことが出来ました。土砂降りの雨で『飲んでも飲んでも減らない味噌汁』も良い思い出です。解散した夜は疲れているのに眠くならず、いつまでも焚火を見つめながら夜を明かしました。

(編集子)当時のKWVの運営は毎週末、多い時には3-4本、 ”プラン” という呼び方でワンデルングが企画され、月ごとにリーダー名とともに日吉、三田の部室に掲載された。希望者はその貼りだされた紙に学年と名前を書き、指定された日に準備会に出る、という方式をとっていて、月2回程度、ワンデルングに参加する、というのが平均的なあり方だった。毎回、仲間はだれになるかは不定で、1年を通じても気の合った中でも同じプランで一緒になるは数回だった。だから全員がとにかく顔を合わせる夏合宿というのは非常に重要でもあり、楽しみであった。形式はベースキャンプから班ごとに、毎日違ったピークを往復するスタイルで、数多くのエピソードが語られ、伝説が生まれたものだ。小生1年、張り切って参加したのは東北八幡平、天候に恵まれた1週間だったが、その間に思ってもみなかった、赤痢の発生、という事件が起きた。これはそのこと自体、もちろん大変なことだったが、これがきっかけでOBとの交流が本格化し、また、大人数の行動を安心に実施する、という観点からも山小屋建設が加速された、というKWV史上、記憶されるべきハプニングであった。