福島屋のおばさん  (37 加藤清治)

福島屋のおばちゃんが腰を痛めて、十日町の長女さん宅で療養をしていますので、お見舞いに行きました。足腰が弱っているようですがお元気でした。浅貝に戻り節句にはちまきを作って下さいとお願いして来ました。同行桑原、山中。

(編集子)三国山荘、が完成したのは筆者加藤君が1年,編集子が2年の生意気盛りのときである。完成当時にはまだ三国トンネルが開通しておらず、バスも法師温泉どまりで、上越線で後閑から法師を経て三国峠を越えるか、金に余裕があれば湯沢まで出て、運行されていたバスで浅貝まで入るか、だった。

苗場のスキー場が開業したのは我々が卒業してからだから、当時の浅貝はむかしながらの素朴な村で、そこで青年団長をしていた福島屋旅館の若主人佐藤さんはわれわれの通称は ”団長”、ぶっきらぼうだが頼りになる存在だった。当然のように福島屋は僕らの定宿になっていった。加藤は山荘建設時点からの山荘委員で長い付き合いをしてきたひとりた。文中の”おばさん”は故団長さん夫人である。

三国峠を貫通するトンネルが完成し実用化されたのは我々が卒業後3年くらいたってからだろう。同じころから高度成長時期に差し掛かり、車がコモディティ化してしまって、上越線経由で入山することはほぼなくなってしまった。加藤君や我々がお世話になったもう一人のおばさん後閑駅まえ甲子(KWVでは”こーし”と呼んでいるが正しくは ”きのえね”)食堂の渋谷さんなんかも懐かしい顔だ。その後の消息を知る人がいればぜひご一報願いたい。トンネル工事は難行だったようで、例によって工事の犠牲者が壁に塗りこめられてる、なんて話もあり、完成直後、歩行は許可されても同期の大塚なぞは一人で通り抜ける勇気が出ず、峠を歩いて越えた、なんて話があったころの話だが。

その後、苗場スキー場周辺は西武グループによって大規模なレジャー施設化し、浅貝も経済的には様変わりした(ブームにのって乱設されたマンションのいわば残骸がその象徴だ)。同期の児玉博は浅貝の歴史、風俗を調査し、それをテーマとして卒業論文を書いた。彼が愛した古き、よき浅貝があった時期、児玉はフィアンセに心のふるさとを見せようと試みた国境縦走行で天候の激変に遭遇、仙の倉直下で遭難死してしまった。あいつ―俺達はある種の畏敬を込めて ”馬賊” と呼んでいたーが健在だったら今の浅貝をどう見るだろうか。

彼の追悼のために、とご両親からいただいた資金で、36年同期が中心になって、あの稜線に資材一式を肩で担ぎ上げ、避難小屋を建てた。児玉の遭難直後の遺体の搬送から一連の作業やこの避難小屋建設などにあたって、この ”福島屋” 団長から受けた数々のご支援を我々は忘れていない(なおこの避難小屋はその後地元や県などによってより強固なものに建て替えられ、初めての時に中に掲げておいたメッセージだけが三国山荘に保管されているはずである)。

おばさん、お元気でおすごしください。