外国語を学ぶということ (4)

以前、”そこをなんとか” という言葉は絶対に英語にならない、と言われた話を書いた。今朝、自習をしている清野智昭氏のドイツ語参考書の中で面白い記事に出会った。タイトルは ドイツ人は悔しがらない? という一文である。

清野教授は授業の一環として学生に演劇作品のドイツ語訳を書かせておられるのだが、そこで出会ったことだ。たまたま、課題として太宰治の ”走れメロス” を選んだ時、王様との間で行き違いが生じ、そこで ”メロスは悔しがった” という一節がどうしても翻訳できない。アシスタントのドイツ人も ”悔しいって何?” と聞くので、苦労した結果、行きついた文章が(ドイツ語をご存知ない人には申し訳ないが原文を引用しないと話がすすまないので書く) Meros argerte sich uber das Misstrauen des Konigis という一文だった。Misstrauen des Konigs というのはメロスに無理を言った王様の不信感、uber は英語で言えば over に当たる。ここで使われた動詞が argerte sich ということで、辞書を引くと 怒る という訳語になる。日本有数のドイツ語の大家がアシスタントに何回説明しても、そういう時にはこの動詞しか使わない、というのだそうだ。そのことを学生に説明すると、次にでてきた質問は、じゃあ、ドイツ人は悔しがらないんですか? ということだったというのだ。

清野氏はこう書いておられる。

本当にドイツ人は悔しがらないのでしょうか。もしかすると、私たち日本人は、たまたま ”悔しい”という言葉があるから悔しがるのかもしれません。(中略)日本人の私は 悔しい というのは人間が持つ感情のうち最も基本的なものの一つであるように感じます。その言葉を持たないドイツ人には心の機微が感じられないのだろうかとも思ってしまいます。いやいや、それは早すぎる結論です。単に私たちがドイツ語をきちんと理解していなかったからかもしれません。sich argern = 自分が肯定したい価値観や物事の成り行きが否定されることによって引き起こされる不満足感や感情の高まりを感じること。怒る、悔しがる、むかつく と辞書に記載したらどうでしょうか。結局、私たちはドイツ語を理解しているようでも、最初に覚えた日本語の訳語でドイツ語の解釈を規定していることが多いものです(後略)。

(中略)いつも思うのですが、学生は日本語で言えることがすべてそのままドイツ語で言えるという前提を持っているようです。そんなことは決してありません。どう考えても,その概念にぴったり合う一語をドイツ語の中に見つけることが不可能なこともあるのです…….

僕らが半分(以上かな)遊び半分で困るくらいならいいのだが、このようなことがビジネスや国際関係の間で起きる、起きている、ということはもちろんあるのだし、その結果が、だれもが想像もしないし望みもしない結果を引き起こしてしまう、ということも十分あり得る。トランプ君とミスターキンのやりとりを読んでるとどうもそんな気がしてくるのだが。