あいつどうしてる? 新道開発団後日談 3 (53 鈴木邦夫)

この10年間多い時で年間13回、すくなくとも毎年6回は三國山荘に行っていましたが、今年は卒業40周年の同期会での入荘と山荘祭への参加は予定しているものの今のところ冬篭りだけの入荘でご無沙汰しています。

早苗夫人と孫の智己君3歳

雪国まいたけでの楽しい経験が忘れられず縁あって名古屋にある青果物仲卸会社丸進青果で働いています。流通の自由化の波の中、SWロボットを活用した労働集約型業務の軽減、農業含めた第6次産業化を企画担当して楽しく過ごしております。今もたまに自社農場での土手を刈払い機で草刈りしています。土曜日やゴールデンウイークなどは仕事で休めないため、小屋に行く機会がめっきり減りました。湯沢に持っていたリゾートマンションも今年の1月に売却しました。

2007年同期の林岳志君に誘われ三国トンネルから稲包山へつながる山道の草刈りに参加し、それ以来新道隊による新道整備を年に2、3回、2013年?に止めるまで休む事なく参加していました。湯之沢林道から三宿を経由して稲包山までと三国トンネルからキワノ平の頭を経由して稲包山まで、時には鉄塔から長倉山を経て三國権現様までのルートで草刈りをしました。

その時期の参加者は、チビさんをリーダーに、翠さん、深谷さん、とんべさん、どんたさん、ハルチカさん、ペタさんとペタ子、関谷さん、スズキが主力メンバーでした。チビさん、時には新弥さんの御指導の下、保護メガネと呼子、軍手は必需品、背中に混合油のポリタンクを背負い、刈払い機を携て、とんべさんが仕切り、50m幅くらいで担当を決める、どんたさんとスズキは先頭で刈払い機を振り回す役割、根曲がり竹と格闘しました。その後を翠さんがきれいに刈り、匠の技で深谷さんが仕上げる、ペタさんとペタ子はホウキ履き、そしてハルチカさんは全工程途切れる事なく美声で唄い続ける、前日遅くまで飲んでいた関谷さんはで出しは転がりながらもバリバリに働く、昨日のように思い出します。キワノ平の手前で刈払い機が壊れ翠さんが小舎まで代替え品を取りに行った時は70歳過ぎてなんて体力があるのだろうとビックリしました。長倉山ではハルチカさんの歌声が途切れたと思ったら尾根から落ちていたり、空雷が発生した時は新弥さんの適切な判断でコベックラ沢から下りたこともありました。6月の新道隊ではアジサイ隊との共同合宿で吉牟田シェフの山椒の実をふんだんに使ったディナー、シメはチビさんの食べたことがないような高級牛肉のスキヤキ、浅貝という土地で、諸先輩達が長年かけて熟成してきた地元とのつながりと新道の整備、それらに諸先輩達と共にかかわり過ごした時間は私の人生では大学生活に負けないでくらいの素晴らしいもので、私が地元の雪国まいたけに就職を決めた一因にもなりました。当時揃っていた環境が変わり、時代の流れには逆らえないため、新道整備を復活することは困難ですが、情熱を持って必死になって新道整備を成し遂げてきたチビさんを筆頭とした諸先輩に尊敬の念を抱くとともに感謝します。有難うございました。新道隊に加わることができた事を誇りに思っています。

メールアドレス kunio.suzuki6355@gmail.com

Fire and Fury

昨年、時々話を聞きに行っていた早稲田オープンカレッジでアメリカの大統領選の話があった。講師は何回か話を聞いたことのある若手の人で、当時クリントン圧勝という予想がひょっとすると外れるだろう、という議論であった。ただその時の対象は若者層に絶対的人気があった民主党のバー二―・サンダースの事で、トランプは泡沫候補として名前が出ただけだったし、僕もそう思っていた。

数日後、近くの本屋で関連した本の立ち読みをしていたら、1冊だけ、”誰も信じないだろうが今回はトランプが勝つ” と予想した本があった。その根拠として、トランプの婿クシュナーがキッシンジャーの家を訪問したことを報じたアメリカでのスクープ写真が載っていた。彼の論拠は”これでアメリカの全ユダヤ系ビジネスがトランプについた。これで、決まりだ”というのだった。信じがたいことだったが、事実になった。ラストベルト(Rust Belt)と呼ばれる地域で生活苦に悩んでいる白人労働者がトランプ支持者だということまでは知っていたが、ユダヤ系の億万長者層がどれだけの力を発揮したのかは僕らの理解を越えている。しかしこの本を読むと、そのことが実感される。

発行されたときにはトランプが著者(マイケル・ウオルフというジャーナリスト)を名誉棄損で訴えるらしいなどと言われたものだが、内容をそのまま信じるとすると、背筋が寒くなるような話ばかりである。われわれにその真偽のほどはわからないが、ひとつだけ事実だろうと思われるのは、トランプ自身、自分が当選するとは思っていなかったのだろうということだ。だから閣僚の人選にしても確たる考えもなく周囲のスタッフの言うことを聞いて決めたのだが、彼自身の信じる路線にあわない人間ばかりだったので、就任直後からの人事の混乱になり、政権に対する不信の拡大になったようだ。このあたりの真相や、今動きつつあるトランプ政権のありようなどについて、議論したり批判したりする知見も論拠も持ち合わせていない僕だが、この本を読み終わって感じたのは、トランプに先立つヨーロッパの混乱ぶりを考え併せて、ついに”大衆社会”が実現してしまったのだなあ、ということだった。そのことについて書く。

僕らが三田に進んで専攻課程を決めなければならなくなった時期、すなわち60年代初頭はまさに東西冷戦のさなかであり、経済学の分野においても資本主義対共産主義、というイデオロギー論争そのままに近代経済学(近経)とマルクス経済学(マル経)論争があり、技術論として数理経済学、などという分野も出てきていたころである。一方、僕らの日常生活に流れ込んできていた”アメリカ社会”については、せいぜいテレビドラマで垣間見る程度しかわからなかったが、高度に成長した社会の中で組織や権力の持つ暗黒面がそれとなく伝わっていた。

生まれつきあまのじゃく的性格が多分にあったためだろうか、経済学部の主流とされる流れよりもその底辺にありそうな問題に興味を覚えて僕はあえて社会思想というゼミを選択した。高校の時、”文化問題”という選択科目があって、ここでテキストとして使われたエリッヒ・フロムという社会学者の”人間における自由”という本、難しくて半分も理解できなかったのだが、この本を通じて人間が持つ不合理性、ということに漠然とした共感があった。アメリカだってソ連(当時)だって、ベルトコンベヤーの前で非人間的な作業をするのは同じ人間だろう。彼らにとっては資本主義か共産主義かなどというよりも、自分が失いつつある”人間における自由”の方が問題なのではないか。そういう問題意識だった。

幸か不幸か、ワンゲルというあまりにも人間的な部活動が自分の大半以上を占めるようになって、この問題意識も薄れがちだったのは当然だったが、それでも斜め読みを続けていたいくつかの本、例えばリースマンの”孤独なる群衆”だとか、オルテガの”大衆の反逆”などから、それとなく、機械文明の非情さと人間、という見方に傾斜していき、そこで”大衆社会”という概念を知り、僕の原点、と言えばおこがましいが考え方の基本になったフロムが専門の心理学の立場からこの大衆社会、という概念を論じていることを知った。

大衆社会、とは、文字どおり、大衆、すなわち、エリートでないごくごく一般の人間が、確たるイデオロギーや哲学などを持たず、ただ数の論理で政治・社会・経済・文化を支配してしまうような社会、といえばいいだろうか。形の上ではギリシャ以来の民主主義、という形をとりながら、実情は論理や真実などよりも風評やプロパガンダによって物事が決まってしまう。フロムはドイツがヒットラーによって統一され、世界を支配するに至った過程が巧妙なプロパガンダ操作によって作られたのだと結論し、同じことが現代アメリカ社会において存在する。ヒトラーの宣伝に変わる要素がいろいろな手段を通じて行われている宣伝、ニュースのたぐいであるとした。

60年代、すなわちフロムが警鐘を鳴らした”マスコミュニケーション”の主体は書籍、ラジオ、テレビにとどまっていた。しかし現在、インターネットという技術によって、情報操作の程度は時間的、物量的、感覚的に60年代の比ではない。このことは日常、我々が漠然と知っていることである。そういう目で、今回のトランプ政権の成り立ちを見ると、その支持層がまさにかの国の一般大衆であり、マスメディアの利用(フェイクニュースという論理で自分に合わない論理を操作してしまうことを含めて)であり、そしてそれを支えて来た汎ユダヤ主義層の金であることはあきらかである。僕はこの本に書かれている多くのエピソードが真実であるのかどうかについてあまり興味はない。それよりも、トランプの行動論理や報告を読むよりも億万長者層をいかに取り込むかに腐心しているとする周囲の発言や証言に唖然としてしまう。

トランプが現在かかわっていること、たとえばイランの問題、朝鮮半島の問題、などなど、オバマの真逆を行く行動はひょっとするとアメリカ大衆から拍手喝采で迎えられてしまうかもしれない。そのとき彼は偉大な大統領のひとりになるのか。民主主義の真実のあり方を否定した結果として?

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 2 (44 山中泰彦)

私は、学生の時稲包山に道の整備のために2回登っています。1回は2年の時にテントを担いでヤブの状況の調査に行き、2回目は4年の時に夏合宿で分散してから山荘に集中し、全員で稲包山頂までカマで刈りました。私は山頂直下を担当しました。

新道開発が始まる時にブラジルに赴任が決まった関谷くんのかわりにメンバーに加わりました。刈払機の使い方を先ず教わり最初はこわごわ使っていました。
新道開発の年間スケジュールは6月に機材の荷上げに登り、7月には合宿で海の日を中心に登りました。それが1年の予定となり10年くらい続いたと思います。おかげで体調は非常に良かったです。コースの良いところは1番に三坂峠から西稲包山の尾根道で中高年に優しいふかふかの道です。次は小稲包山から稲包山の素晴らしい景色です。それに丸木橋のすぐ手前の光苔はなかなかのものです。

また私の息子が途中から参加しましてチェンソーを担当しました。私のあだ名のどんたからとってどんこと呼ばれていました。これがきっかけでその後私の会社に入り現在は社長になっています(本名は重人ーしげとーです)。

最近の状況は昨年6月に、神経の病気になりまだ完全に治っていません。この1年間登山は全てキャンセルしました。現在なんとか完治するように治療しています。現在は週に2日くらい仕事をしています。最近、息子と二人で撮った写真をご覧ください。あまり変わっていないはずですが!

メールアドレス 泰彦   moountain.xd6@gmail.com    重人 acz@mac.com

 

 

 

あいつどうしてる? 新道開発団後日談 1 (H14 西谷利明)

”あいつ、なにしてる?” - その後の ”新道開発団”

先月OB理事会で田中(透)君から、”新道”が正式に群馬県境稜線トレイル計画に組み込まれた” と報告があった。これすでに正式な報告がOB会ホームページにも記載されているが、とんべ君は小生あてメールで次の通り要約している。

とんべ君はもちろん、”新道”プランに関係してきた各位の喜びの声が聞こえる気がする。まことに嬉しい限りであるが、この話を聞いていて、突然、そういえば、あの時のメンバーはその後どうしてるんだろうか、という気になった。

自分は当初のプラン企画には参加し、その後も何回か活動に加わったものの、途中から体力に自信がもてなくなり、脱落した一人なので大きなことは言えないのだが、三角尾根の道つくりから通称”新道”開発まで、発案者であり終始リーダーであったちびこと妹尾昌次が言ったように、道つくりとあわせて、OB,現役諸君との交流、ということにも大きな成果をあげたこのプログラムは、今年60年を迎える三国山荘の歴史の中でも特筆されるべきものだったのはまちがいない。一連のプログラムそのものについては前記の報告のほか、いろいろな記録が残され、経過については36年度同期会の文集 ”ナンカナイ会・その”ふみあと” に妹尾が述べているが、要点だけをさらってみると下記のとおりである。

1998年、仕事を離れ自由時間をもつようになった36年の仲間が妹尾・田中(新弥)を中心に三国山荘での時間を過ごすことが増え、妹尾の発案に地元福島屋の故佐藤崇さん、34年松本恭俊さん、丸橋さんなどのご協力を得て、OB同志を糾合、小屋裏の通称三角尾根3.4キロの道の整備に着手したのがことのはじまりである。この時は当時まだあった浅貝ゲレンデの入口から国境尾根まで、KWVのプレート(プレート代は賛同したOBの寄付とし、その卒業年次と名前をいれたもの)を取り付けるというのがメインであった。当時湯沢町役場勤務で終始われわれのよき理解者であった高橋貞良さんのご尽力でこの道は三角山登山道と名付けられ、昭文社の地図にも掲載された。完成後、メインテナンスは地元青年会の手にゆだねられたが、プレートはその後の風雨に傷みが激しく、2009年に撤収し、回収できた87枚は持ち主に返還された。その後いろいろと小規模の変更はあったものの、登山道として確固たるものになって今日に至っている。

一方、これにかかわったグループのあいだで稲包山に至る道を開こうという機運が生まれ、2000年から三国スキー場(現在は廃止)を経て三坂峠、稲包山に至る道を開発、湯ノ沢林道コース5.8キロが完成。さらに余勢を駆って三国峠に至る稜線への道づくりを始めた。正式な命名がいつだったのかよくわからないが、これら一連の作業を”新道開発”と呼び、携わったOBたちが”新道開発団”を名乗ることになる。2001年には前記高橋さんのご努力もあり、環境庁仕様の指導標(1本20キロ)17本を当時の現役諸君の応援を得て設置した。田中(透)の手元の記録には、9月8日、13.3キロの全通を祝ってOB19名、現役1人、高橋さんとが記念の稲包登山をしたと記されている。

その後も前記 ”新道開発団” が主催し、各代OBや現役諸君とがたゆまぬメンテ作業を続けてきたが、”17年が経過するロングラン”(妹尾のあいさつ文による)はこの”新道”のほとんど(三国峠―稲包―三坂峠)が、群馬県庁スポーツ部主管の”ぐんま県稜線トレイル”に含まれることとなったのを機会に2017年7月1日ピリオドを打ち、新道開発団は解散。これが本稿文頭のことである。

上記解散にあたって、妹尾があいさつ文に書いたように、”50・60歳からの青春を感じた充実した日々” を送った仲間たちがいた。当時現役であった人たちも当然OBとなり、”若手OB” グループもすでに古希を迎える時代である。この人たち、仲間たちはその後どうしているだろうか。幸い、堅固なKWV三田会の存在があって、その後も変わらぬ付き合いをしているものもあるが、家庭や仕事の理由で歳月、人をわけてしまった仲間も多い。このあたりであの日々を振り返ってみたとき、”そういえば、あいつ、どうしてるかなあ” ということに何らかの形で力になれればいい。そういう気持ちで、1年弱前に老人の手すさびにおそるおそる始めたブログという奴を使ってもらえれば、と思い立った。

今回、そのきっかけとして数人の方を選定し、勝手ながら投稿をいただいた(ありていにいえば強制だが)。この後、何回かに分けて連載するので、記憶を改めていただければ嬉しい。これに引き続き、これから山荘祭までのあいだ、このプログラムに関係した各位の近況や思い出などをこのブログにご投稿いただけないだろうか。現山荘委員会を中心に記念行事が展開されていく中で、山荘史に残る話に花を添えられればこれに勝る喜びはない。投稿は小生あてメールの形で、出来れば近影の写真などがあれば添付いただければありがたい。

(本稿に添えた写真は田中(透)君にご提供いただいたものの一部である)

新歓W楽しそうでしたね  (36 後藤三郎)

翠川様、

今年も小屋での新人歓迎行事にお出かけくださり有難うございました。三角山からの写真も綺麗に撮れており雪が少ないのは少し異常ですが懐かしい展望を楽しみました。KWVも部員の数が増えて賑やかな感じで嬉しい限りですね。湯ノ沢からの登山道が山岳マラソンコースの一部になることで我々の活動が引き継がれることは有難いことですね。(私は山を走るスポーツは個人的にはあまり感心しませんが最近はTVでもマラソン登山が良く紹介されており一種の世界的な流行のようですね)いずれにせよご苦労様でした。

新歓プランに参加してきました (36 翠川幹夫)

5月4日(金)~6日(日)に浅貝三国山荘で開催されたKWV新歓プランに参加して来ました。OBは平松さん、森田さん、北尾さん、チビ、私、オジイ、オヤカタ、以下はトンベ、ズンロク、ペタ、石倉など十数名、新人は名前は一人も憶えていませんが十数名居たと思います。

今年は雪が少なく、山荘近辺、苗場のスキー場もゼロ、私が宿泊した「三国荘」に数組スキー客が居ましたが神楽方面へ行けば少しは滑れるという状態だったようです。ズンロクが率いて新人学生は浅貝スキー場跡地(リフト残骸などの影も形もありません)で山菜取りを試みましたが殆ど収穫なしのようでした。

私は終に三角山山頂を登り切りました。雪は一片もなく、平標山山頂などに少し残っているだけした。前2回はムラキで引き返しましたが今年は残雪ゼロで言い訳なし、まゝよと言う気持ちで歩き続け、証拠写真を撮って来ました。何となくスッキリです。5月連休時期に三国山~三角山~平標山に雪が無いのは異常だと思います。

夜は例によって山荘庭でバーべキュウー、10数名の新人の自己紹介(一人も憶えていない)、女子部員も数名おりました。女子高出身が2~3人いました。

別の話ですが、例の稲包山の県境の尾根に「トレイルラン」とか言うランナー用の路が計画されていますが(国レベルの話)、湯ノ沢林道から三坂峠への我々が再開発した道(自称アジサイ街道)を「KWVナントカ」という名前で湯沢町が管理することになったようで、チビが喜んでいました。

Who are we ?  読後感について (36 大塚文雄)

Who are we ? 読後感を拝見。

”おい、トランプさんよ、あんたのやり方は気に入らねえが、あんたの気持ちもわからんでもねえなあ“ には同じ思いですし、好き嫌いは別として、政治家としてやっていることは評価しています。 ディマジオとケネディーにあこがれた時代をこえて1967年ソニーアメリカ勤務(「そのふみあと」238239頁)に始まったアメリカ人/アメリカと触れ合いは50年を超えました。アメリカについては何かと雑感があります。

多国籍移民の寄せ集めのアメリカはもともと多極分散社会です。国勢調査で国籍を二つ書けることになったのはその象徴と思えます。それなのに政治の世界では長らく二大政党に集約されていました。分散・分断社会のアメリカが政治の世界ではたった二つの政党に集約されてきたのが不自然に思えます。近年そこに経済格差の拡大(経済的分断)が加わり分断性が戻っているように思います。2016年の大統領候補選びで数多くの候補者が林立した共和党、バーニー・ サンダースが善戦した民主党はそれを現しているように思えます。

”Make America great again”のトランプ大統領によってこの流れを押し戻すかどうか一つの注目点ですが、経済がこれだけGlobal化したなかで、難しいと思っています。おそらくアメリカの経済格差は広がり、社会の劣化は進むと思っています。一方、戦前は知らず、戦後の日本では東京大学と朝日新聞(プラス文芸春秋?)が教養の代表です(でした?)。左よりの思想を持っている人々が連携して(戦後一貫して右寄りの)権力批判を繰り広げ、現代の日本人の精神形成にはかり知れない影響を与えたと思っています。良きにせよ、悪しきにせよです。

アメリカにも似たような構図があり、数少ない全国紙の代表であるNew York Timesは一貫して民主党支持で、Harvard Universityも99%民主党支持者の集まりだそうです。両方とも、民主党のオバマは良い大統領、共和党のトランプは悪い大統領と主張していますし、テレビニュースや学者の学説にも反トランプのスタンストークが多いと聞きます。トランプ氏がアメリカにいる同じ日にロシヤで乱痴酒席を開いていたなどというニュースもその一つでしょう。日本のマスコミ全体が例によって New York TimesHarvard University発の情報を“アメリカの世論”として受け入れ、拡散し、日本人の間に偏ったステレオタイプのトランプ像を作りだされているように思います。

日本では、アメリカに限らず海外の政治情報の殆どが間接情報で、それに依存して作成される日本の情報番組は間・間接情報です。それによってアメリカ政治やトランプ大統領に対する社会常識が形成される日本は能天気社会です。 

私の第一作に共著者として参加してくれたDr. Morseから選挙中の7月に「トランプが勝つ」と聞いていたので、トランプ氏政策発言に注意していました。彼が今やっている政策は選挙公約の実行です。内容の良し悪しはは別として、これが選挙で選ばれた公人がとるべきものです。公民権法はアメリカがだからこそ不可欠な法律だと思うし、オバマケアも一般大衆向けにもっと改善する余地があると思います(ソニーアメリカでヘルスケアの不足事例をいやというほど見ました。)

公民権法を無視し、オバマ成果を消すと言わんばかりのトランプは好きになれません。品位がないアメリカ大統領も困ります。しかし、民主的プロセスを経て選ばれた大統領が選挙公約を実行している事実は評価すべきだと思います。

 

ジャイさんのブログにコメントします (51 斎藤邦彦) 

ジャイさんのブログで気になったものがいくつかあったのでコメントします。

2018 年 2 月掲載の「管見妄語」について
私も大変感動した論文で藤原正彦さんと全く同感です。英語が堪能であって海外で活躍している人で幼いころから英語の勉強をした方が良いと言っている人はいません。また、海外在住以外の人で英語が満足話せる人を見たことがありません。もっと大事な「善悪の判断」「両親、地域や国に対する愛情」などの常識を身に着けるべきです。

2018 年 3 月の長崎紀行について
私は平成 11 年~ 13 年に NTT の長崎支店長を勤めました。
亀山社中の近くに単身赴任していましたのでよく石段を散歩しました。ブログに登場する風頭山の坂本龍馬像は平成元年に建てられたものですが首から下のモデルは NTT の社員だったそうです。高島秋帆の旧宅も行ったことがあります。現在の板橋区にかつて幕府の砲術練習場があったところが高島平という地名で名残をとどめています。

佃・月島漫歩ー同期タウンウオーク第二回報告

もしかするとまだ昭和の古きイメージがあるかもしれないと、第二回のワンデルングは佃から月島,勝鬨橋を渡って築地、というコースにした。一回目の企画は天候が定まらず延期、4月27日小晴れの一日、参加は翠川、岡、深谷、安東、前田、吉牟田、高橋、高島に中司夫婦の10名。

11時、月島駅集合、佃の古い街並を歩く。船だまり、まだ営業している銭湯、元祖を名乗る佃煮店や、建築に詳しい人には興味があるということだが風を避けるためにくの字の形をしているという路地などが江戸時代に埋め立てられた小さな島に残っている。スーパーでは買えない本場の佃煮を買い込む。

月島は佃島の東側にあった石川島の工場やその下請け企業などの工員さんの家族が密集していた場所で、表通りは現代風になってしまっているがメインの4本の通りを貫く路地のほとんどが原型に近い形で残っていて、テレビ勃興期のドラマ、”バス通り裏”を彷彿させる雰囲気である。住んでいる人たちには迷惑だろうが、失礼してそのうちの一本を通らせてもらい、見つけたコーヒー店で休憩、雑談。この店はたまたま見つけたのだが、オーナーが自分で内装からテーブルにいたるまで手作り中、ということで、木や工作についての蘊蓄を拝聴、ひとり500円は安かったし、オヤエの観察によると、コーヒーが普通の喫茶店にくらべて量?が多かったそうだ。

最初の計画では築地場外市場で寿司を食べるつもりだったが、みさの情報では午後になってしまうと中国人の観光客などで雰囲気もない、ということだったので昼飯は月島の代名詞でもある”もんじゃ焼き”とした。博学の深谷によると、住んでいた工員さんたちの子供たちのおやつでもあり、鉄板の上に広げる食材で文字を書いた教材でもあった。したがって”もんじゃ”でなく”文字”焼きであるとのこと。ほんまかいな。しかしメイン通りの両側に何十と胸を連ねている”もんじゃ焼き店”の数には驚かされた。

勝鬨橋で隅田川の涼風を感じ、晴海通りを北上、順次便利な地下鉄駅で流れ解散。小生の記録ではほぼ9千歩くらいの漫歩であった。

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ジャイ様  翠川幹夫です。
数年(十年?)前にもキンちゃんプランで歩いたこともあって、住吉神社近辺では一寸懐かしい風景もありましたが、旧い古い今にもぶっ倒れそうな民家と超近代的高層ビルのコントラストが何とも言えない面白い風景でした。「もんじゃ風月・月島店」と言う店の味もグーで、別にまた行っても良いかなと思いました。
それともう一つ、あの晴海通りは学生時代や会社に居た時代にも少しご縁があり、良く歩いた道ですが、何と巨大な道になったものだ!と田舎者になった今、感じました。

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ジャイ様、皆様
昨日はこちらこそ佃島プラン楽しませて頂き、有難うございました。
東京に永いこと住んでいながら、佃島行きもはじめて、もんじゃ焼を体験し食べたのもはじめて勝どき橋を渡ったのもはじめて、なんと練馬からやってきた観光客気分でしたよ!でも、佃島の人たちの生活の一端もチラッと覗けました。
オヤエさま
昨日は久し振りにご一緒でき楽しい一日でした。
あのコーヒー店の店名は”虔・・・”でしたかしら?
店主の方が宮沢賢治の作品からつけたとか、おっしゃっていたので
今ネットで検索してみました。短編童話「虔十公園林」が当てはまるように思いますが。検索先はY!(ヤーフーで検索)、ご覧になってみてください。
髙橋良子