1年の初冬11月。田中新弥とふたりで鹿島槍―針ノ木を歩いた。
この年、浦松佐美太郎が ”たったひとりの山” という深みのある本を書いた。タイトルはもちろん、この本から借用したものだ。
”たったふたりの山”
俺と貴様はそれをもとめていた
それを求めて俺たちは嵐の長ザクをかけあがったのだ
黒部には白いガスが詰まり 夜 星は蒼く凍てついていた
”ふたりっきりの山!”
”ふたりっきりの山”で
俺はなお ”なにか” をもとめた
素手でステンドグラスをぶち割ったときのような
なにかを俺は吸い込みたかった
そのために俺は貴様と急坂をよじ登って来た
だがハイマツを吹き上げる黒部のガスの晴れるたびに
俺は眼を凝らした - あれは人じゃないか……
しかし あるのは岩尾根
ただつづく岩の尾根
ただつづく岩の堆積
人間という奴はただ俺と貴様が立っていただけ
選ばれたふたりがいるだけだった
その空気を吸うたびに 貴様はそっと微笑した
しかし それなのに
霧に包まれた樹林の間からはるかに渡ってきたあの呼び声を
アラインゲンガーのうつろなコールを
俺は なぜ 懐かしく聞いたのだ
なぜ 貴様を制して耳を傾けたのだ
ビヴラムをきしらせて小屋に駆け込み
(おい いないぞ)
すでに去った人をいとおしんだ俺
”たったふたりの山” そいつをもとめた俺が
もとめたのは ひったくりたかったのは
”山” ではなく
”人間” ではなかったのか
フオッサマグナをふきぬける初冬の風
立ち尽くす俺
貴様のコールに応えたのは
篭川のガスと遠い剣の照り返しだった
今日、小生は82歳の誕生日を迎えた。もう剣を見ることはできないが、60 年前の日の、あの嵐の向こうに聳えていた雄姿は今なお忘れられない。