
エーガ愛好会 (102) ダヴィンチは誰に微笑む (HPOG 小田篤子)

旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
はたまた石油危機か?という不安が続きますが、関係情報を得たのでご参考までにご覧ください (出所:「宮崎正弘の国際情勢解題」)。
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世界的なエネルギー価格上昇の懸念を受け、石油備蓄の放出に関する報道が相次いでいます。各国の個別の対応のみならず協調行動の可能性も浮上しています。
エネルギー価格の上昇はバイデン政権にとって最も厳しい試練になる恐れがあります。しかし実際のところ、バイデン政権ができることは限られています。何か手を打つとすれば、戦略的石油備蓄(SPR)の放出しかありませんが、効果は限られます。しかし、少なくとも具体的な対応をとっているという政治的アピールは可能です。このため、おそらく米国としては、最大3,000万バレルの緊急放出ではなく、最大500万バレルの「テスト・セール」のような措置にとどめ(この場合、緊急事態宣言は必要なく、エネルギー長官の決定で足りる)、さらに中国や同盟国との協調放出を進めようとしていると考えられます。
米中首脳会談では共通の利益に向けた連携が強調され、エネルギー危機への対応にも言及がありました(明日の記事で説明します)。中国はもともと単独でもSPRの放出を行う姿勢を見せており、米国との協調を受け入れる余地は十分にあると考えられます。上記記事で述べたとおり、原油価格は落ち着きを見せているので、SPRの放出の可能性は高くないと考えられていましたが、このような首脳会談からの流れを見ると、可能性はやや高くなったといえます。
しかも、次項で述べるとおり、ビルド・バック・ベター法案を成立させる上でも、インフレ懸念に対応しているというポーズを見せることは重要です。実際、原油価格の高騰は収まりつつあるので、政権としては短期的な圧力を弱めれば足りるところ、こうしたメッセージを出すことはそれなりに有効とも考えられます。
(ビルド・バック・ベター法案の下院可決)
米下院がビルド・バック・ベター(BBB)法案をついに可決しました。220対213で、民主党の反対は1人(ジャレッド・ゴールデン議員)でした。以前に指摘したとおり、下院は11月19日までの可決を目指していましたが、民主党穏健派はその前に議会予算局(CBO)による歳出と歳入の試算結果を確認する必要があると主張していました。今回の可決は、CBOが前日に試算結果を発表したことを受けて行われたものです。
CBOの試算はバイデン政権(民主党)の試算と大きく異なりましたが、それでも穏健派の多数は納得し、法案は可決されました。なお可決前に共和党のケビン・マッカーシー下院院内総務が下院での演説としては最長記録となる8時間半の演説を行ったことも話題になりました。
バイデン政権の試算結果は州税・地方税(SALT)控除の上限引上げによる減税効果などを含めていなかったのですが、CBOはこれらを含めて計算しており、新規支出と減税の合計額は2.2兆ドル、1,600億ドルの赤字を生じさせるという結果になりました。このような大きな違いが出ることを見越して、バイデン政権はCBOの試算をあらかじめ批判するという異例の行動に及んでいました。
それでも下院では可決に至りましたが、問題は上院です。マンチンとシネマの両上院議員は法案を大幅に書き換えるでしょう。しかも12月には国防授権法(歳出削減の回避が必要)、債務上限、つなぎ予算の失効という立法アジェンダが立て込みます。これらの問題はドタバタを演じながら最終的に解決されるでしょうが、BBB法案の審議にかける時間は大きく制約されます。したがって、年内の可決は難しく、来年に持ち越す可能性が高いと考えられます。
バイデン政権は、かねてよりOPECプラスが増産しないことを批判していましたが、先週には、FTCに石油市場の操作を監視するよう指示しました。これらの措置は、産油国やエネルギー企業の投機的行動に矛先を向けさせることが目的で、やはり打つ手が限られている中で国民への政治的アピールのために行っているものです。今後もこうしたメッセージは繰り返されるでしょう。
また、先週、バイデン政権はメキシコ湾での石油採掘のためのリース権の入札を実施しました。もともと公約に従い、発足直後に国有地での石油・天然ガスの新規リース契約を停止したのですが、産油州から訴えられて敗訴していました。そして最高裁でも勝てないと見てこれを許可したものです。民主党左派を失望させる措置ですが、エネルギー問題について批判をかわしつつ、民主党左派にはBBB法案を可決させることで、最終的には納得させるという計算があるのでしょう。こうしたバランスをとった現実的な路線を続けることで苦境をしのぎ、BBB法の成立で挽回を狙う、というのが政権の戦略と考えられます。
監督「大砂塵1954」のニコラス・レイ、主演ジェームス・キャ
冒頭主題歌 Run For Cover が唄われ、ニューメキシコのア
出会いから、樹々の向こうに煙が立ち上り列車との遭遇で、二人が
そのヴィヴェカとキャグニーが恋愛関係になり
クとボーグナインの対決となる。デレクは一味と通じていたことが
以上二人の出会いから、父性の懐の大きさを感じながら、強盗団と
(編集子)ジェイムズ・キャグニイといえばまず思い浮かぶのがシカゴのギャング、というイメージだし、出てくればまず憎まれ役が多い名優だった。小生の好きなフォンダの ミスターロバーツ でもその憎々しさが面白かった記憶があるし、かたやボーグナインといえば
これまた掛値なしの敵役だ。特に 地上より永遠に でフランク・シナトラを殺してしまう軍曹役なんかが思い出される。このふたりの西部劇、ということになるとセーブゲキ党としてはぜひ見ておかなければならなかったのだが所用で見逃してしまったのが残念至極。
(飯田)小泉さんが纏めた「追われる男」をビデオ撮りしておいて昨日観ました。今月のBSシネマで、劇場では観ていなかったので、この一本を観たいと思っていた作品でした。
ジェームス・キャグニーが善人役として、珍しい作品で西部劇としてそこそこ面白いと思いました。ジャイさんもコメントしてましたが、キャグニーの映画ではジョン・フォード監督の「ミスター・ロバーツ」のヘンリー・フォンダに対する上官役が秀逸であり「ヤンキー・ドウードウル・ダンディ」が自分は好きな映画です。それに当時劇場で観た「白熱」は、もう一度是非観たいと思ってますが、テレビでは見たことが無いです。
遠藤誉女史の自伝、「卡子(チャーズ)」(1984年、読売新聞社)を読んだ。極めて激しい衝撃を受けた。
その内容は、戦争の終わった1948年、日本に引き揚げずに満州の新京(現:長春)に残り、チャーズに収容された人たちの話しだ(戦いもせず、我先に逃げ出し、敵前逃亡とも言える軍規違反をした関東軍には言葉もない)。チャーズとは、国民党、または、共産党が管理し、鉄条網が張り巡らされた、小生の理解では、強制難民収容所だ。しかし、そこには住まいもなく、食料もなく水もなく、体力のない人は、それこそ次から次にバタバタと死んで行く生き地獄だった。現に、当時7歳だった女史がチャーズに足を踏み入れた際には、死体があちこちに散乱し、目を覆う状況だった。雑草も木の芽も、そして、食べられるもの全てを食い尽くした後に残っているのは、カニバリズム(人肉食)だけだった。チャーズで何人の、それこそ無辜な日本人が亡くなったのか、未だに分かっていない。
何故、こんな悲惨なことが、戦争も終わり、しかも民間人の身の上に降りかかったのだろう。シナ人がスパイの存在を恐れたためだとの説があったようだが、それだけではこの蛮行、いや大虐殺は説明しきれないだろう。
日本はシナで蛮行を繰り返して来たと教えられてきた。例えば、重慶の爆撃、南京事件、その他。逆に、中国共産党は、清く正しく美しく、まるで宝塚でもあるかのように一方的に日本を非難し続け、片方の日本は、腰抜けの河野洋平がただただ叩頭するだけの河野談話を発表するお粗末さ。この虚偽に、日本が未だに拘束されているのは言うまでもない。
中国共産党は、チャーズの存在自体を公にしているわけではなく、ましてそこで亡くなった日本人がどれぐらいいたのかなど全く興味を持っていないだろう。となると、チャーズでの大虐殺は歴史の闇に葬られることになるのだろうか。結局は、勝てば官軍、負ければ賊軍か。
最後に、亡くなった方々の御霊に合掌。
日本のコロナ感染が下火になったかと思ったら、今や、コロナの話題はオミクロン株ばかりですね。私も外来で沢山の患者さんからオミクロン株についての質問を受けます。 確かにこの変種株は変異の部位が多岐にわたり、今までのデルタ株などとは大分様子が変わってきていることが知られています。
この新種コロナウイルスは感染力が今までの株より3倍ほど強いことは確実ですが、病原性も従来株より強いかどうかはまだよくわからないのです。大量にこのオミクロン株感染者を出した南アフリカの医師会長(女性です)は、感染力は強いが病原性は強くないと強調しています。他の風邪症候群とおなじように、今回のオミクロン株は感染は起こしやすいが、重症な肺炎や亡くなる方は少ないと、だから怖がることはないと言っているわけですが、当初私には信じられませんでした。しかし世界保健機構(WHO)にもまだ死亡例の報告はないようです。
南アは観光大国です。ヨハネスブルグの街からみる台形のよう大きな山や、ケープタウンから1-2時間のところにあるサファリ公園などは一見の価値があります。私も広大なサファリパークの中で、すぐ近くに放し飼いのキリンや象をみながら食べたサンドイッチと、テーブルにあふれるばかりに盛られた日本では見たこともないような沢山の果物を想いだします(一寸、嫌みな書き方かな?)。ケープタウンの街からハイヤーを1日貸し切り、パークのなかでも専任の案内人をつけて、それでも入園料や食事代も全て含めて確か一人一万五千円ぐらいだったからかなり安い印象でした。この観光が大きな収入源である南アにとって、このオミクロン騒動は大変な痛手だから、それを忖度した医師会長の発言ではないかと当初は思ったのです。でもそれは「ゲスの勘繰り」だったかも。
確かにワクチン2回接種済みの方もこのオミクロン株は感染していることは事実ですが、まだ死亡例を聞かない。死んだり重症にならなければ、このコロナは風邪と同じようなもので、恐れるには足りません。これはこのオミクロン株の毒性がおもったより弱いのか、それともワクチン接種が感染は防げなくても、重症化を予防しているかのどちらかだと思います。今後、データが出てくるでしょうが。 いずれ、オミクロン株を主因とする第6波が日本にも来るかもしれませんが、入院必要例や死亡例はかなり少ない可能性は十分あると思います(希望的意見ですが)。
しかし皆さんは、①マスクは常に携帯し、人混みへの外出は極力減らして、感染予防には従来通り十分気を使う、②インフルエンザにも罹らないように、そして③冬に流行の可能性のある食中毒(ノロウイルスなど)に気をつけましょう。そのためには、帰宅後手指のアルコール消毒+石鹸による手洗い(両方やるという意味です)を励行してください。
(浅海)篠原君のオミクロン株に関する話なんとなく信じたくなった。
”月いち高尾” に参加してくれた川名君との立ち話のことがきっかけで始めてみた ”エーガ愛好会“ なるメールグループのやり取りをブログにアップしてみた第一号が2020年5月15日の ”赤い河をめぐって“ である。その後参加者の応援を得て今回の記事が第百回目にあたる(この会の名称は金藤君が小泉さんにあてたメールで使ったのだ、と小泉さんは書いておられる)。本格的(?)な解説記事を投稿してくれた第一号は安田耕太郎君の ”めまいを見ました”、12月10日には保屋野君が ”エーガ愛好会が半年たちました“ と喜んでくれた。
”映画“ ではなく ”エーガ“ だとこだわった甲斐があったのか、そもそも参加者がすべて世にいう ”オールドファン“ なのか、”新作“ についての投稿はあまりない。このあたりはこれから変わっていくかもしれないが、その ”オールドムービー“ の極めつけともいえるかの ”哀愁“ と ”白い恐怖“ という2代名作を見るタイミングが99回目、金藤さんのご尽力で、いわばグループ公認メディアになったNHK BS劇場に登場したというのも面白い偶然だろうか。
企画した ”編集子“ にとってなお嬉しいのは、このグループの(言ってみれば世にいう ”バーチャル“ だが)交友というかチャットというか、その領域が映画を離れて、美術とか音楽とか旅行とか、より広い話題に拡大してきたことだ。コロナ鬱の社会情勢のもとで絶えがちな友人との連帯感を強めてくれた、いわばSNS社会にあって初めて経験する、一種の至福感、といえば言い過ぎだろうか。ただ、感覚的に言うと、小生がもらっているメンバー間のメールはこのいわば “非映画” 話題のほうが今や70%くらいなような気がする。”仲間うちの情報誌” たらんとしておっかなびっくり始めて見たものとして、本当にうれしく、また感謝に耐えない。紙上を借りて御礼申し上げるし、今後ともこの交流が発展していくことを期待してやまない。
ただ、まことに申し訳ないというか情けないが、小生, 造形芸術について全く興味がなく、かけらほどの知識も持ち合わせていないので、折角の交流ぶりをまとめる能力がゼロである。このような(つまりエーガ、にとどまらない)交流であれば、もっと広い範囲で語り合える友人がまわりにいるのではないか。 現在、”エーガ愛好会”のMLは12人にとどまっているが、だれかデスクを買って出て(ブログにアップするのは小生が担当)折角の知見をまとめ、また何らかの方法でより広い友人関係を育ててくれる人が現れるのを待っている。
さて、100回目を記念して、安田・保屋野両兄のご提案で、いわば年末記念事業?として、メンバーにいくつかの設問を試みた。その結果は下記の通りである。”オールドファン“ の好みがより鮮明になるような気がする。
オクガタまたはダンナと初めて一緒に観た映画は覚えていますか?
(本稿回答が少ないのは、ほかでは記憶力抜群のメンバーの中に ”忘れた” とか ”教えてなんかやらない!” という回答があったからである。理由は想像するしかないが)
無人島へ流されるが1本だけ映画を持っていいと言われたらなににしますか?
映画に出演できるとしたら、今まで見た中でどんな役をやりたいですか?
・黒い稲妻トップシーンのザイラー ・”情婦”のマレーネ・ディートリッヒ ・(コネリー演じる)007 ・大いなる西部のジーン・シモンズ ・80日世界一周のデヴィッド・ニーヴン ・ジャイアンツで石油を掘り当てたときのジェイムズ・ディーン ・陽の当たる場所 のモンゴメリ・クリフト ・ロシアより愛をこめての急行列車で舌平目を食べてる007 ・カサブランカのハンフリー・ボガート ・第三の男のトレヴァ・ハワード
この100回を終わってみると、われわれ世代にとっては、エルヴィス・プレスリーと並んで世代文化を築いたはずの、ジェイムズ・ディーンへの言及が少ないこと、映画名で言えば 理由なき反抗 エデンの東 などもあまり話題に上らなかった。また カサブランカ ばかりが取り上げられる一方、違うボガートの演技が冴えた ケイン号の反乱、あるいは同じクリフトでも 地上より永遠に ジョン・ウエインものでも作品そのものにやがて去り行くウエインへの生前の決別という雰囲気だった ラストシューテスト などにほとんど言及がなかったことに気がつく。
上記回答群もそうだが、100回の記録を違った視野から眺めてみると、全般的にこのグループにはロマンチックな傾向がめだつような気もする。メンバーの半数が基本的にはセンチメンタリストというかロマン追求派でなければやっていけない、ワンダラー、という人種だからかもしれないのだが。さて、次なる百回がどうなっていくのか、また楽しみが増えた。さてこの ブログ なるものに挑戦してみたのは小生80歳の時。月は去り星は巡って、昨日、誕生日を迎えた。関係ないか。
(保屋野)「哀愁」初めて観ました。ヴィヴィアン・リーとロバート・テーラーの共演、久しぶりに、目の保養になりました。ただ、ストーリーは、当時としては斬新だったのでしょうが、現代では良くあるパターン(陳腐は言い過ぎ)で、特にヒロインの救いようもない悲劇的ラストは後味が悪い。これに比べて、似た作品「旅情」や「慕情」も悲劇的作品ではあるが、ラストは、ヒロインの明るい未来を予測させる余韻の残る内容だったと思います。
さて、昔観た「旅情」と昨年観た「慕情」、そして「哀愁」・・演技派のキャサリンヘプバーンは別として、ヴィヴィアン・リーも魅力的ですが、私は、ジェニファー・ジョーンズの気品ある(控えめな)美しさの方が好きです。
(安田)「哀愁」1940年の映画以来、「愁」
(飯田)「哀愁」のビビアン・リーや「慕情」のジェニファー・ジョーンズの評価は片手落ちになると思います。キャサリン・ヘップ
私の好みからするとビビアンは演技派過ぎて、見ていると少し疲れ
(安田)確かにヴィヴィアン・リーの白眉は「風と共に去りぬ」と「欲望という名の電車」。映画の大成功と人気沸騰によって、“オリヴィエの妻”の枕詞で呼ばれていたヴィヴィアン・リーは、いつしか、オリヴィエは“リーの夫”と攻守逆転するに至り、誇り高きオリヴィエにとっては甘受し難き展開であった。二人は夫婦でありながら競合するライバルともなり、オリヴィエは妻の映画出演を快く思わなくなり、映画を舞台演劇の下と見て、妻もその影響を受ける。リーの演技が芝居がかった様相を呈するようになったのである。「欲望という名の電車」は先ず舞台で演じそれからエリア・カザン監督の映画に出演する。そのような事情が、映画の観客をして観るに疲れさせた原因の一つであったとも思われる。勿論、リーの感受性の鋭さも影響したと思われるが。
読んだヴィヴィアン・リー伝記本にも詳述されていたが、オリヴィエは男色趣味もあり(マーロン・ブランド、ダニー・ケイ、ジョン・ギールグッドなど沢山の男性が彼の恋人だったという)、夫婦は俳優としての緊張したライバル関係、リーの病気も手伝って、夫婦関係にはやがてひびが入っていき、離婚に至る。大向こうをうならせる俳優という人気稼業は大変複雑で難しい職業だと知らされる。ヘミングウエイの「武器はさらば」は、本を読み、1932年に映画化されたゲイリー・クーパー主演、ヘレン・ヘイズ相手役の「戦場よさらば」(なぜが邦題が異なる)を数年前に観た。映画「モロッコ」とほぼ同じ時代の古い映像だったが、クーパーの颯爽たる格好良さが印象に強く残っている。ロック・ハドソン ジェニファー・ジョーンズ版1957年は観ていない。またゲイで有名だったハドソンは逞しい体格とハンサム顔の割にはそれほど惹かれなかった。
(編集子)名手小泉さんの散歩途中の秋色の写真である。今回の投稿で写真はあくまで添え物であって、本題はヤクルトスワローズ日本一絶賛であり、これに呼応してヤクルトファン数人の同調投稿があった。
そもそもこういうものはわが永遠不滅のジャイアンツがあってはじめて成り立つものであり、ジャイアンツ愛は本稿の基本的思想であるので、本精神に反する本文並びにそれにへつらうがごとき投稿は掲載しない。ただひたすらに小泉センパイの審美眼とカメラワークの冴えのみをお伝えする(ただし内密にヤクルト絶賛記事をお読みになりたい向きは小生あてご連絡あれば本文3通を転送する、という妥協まではする度量は持ち合わせている)。
(小泉)久しぶりに近所の大倉山公園を散策、名残りの紅葉に会ってきまし
実存主義、だとかサルトル、とか、そしてアルベール・カミュ、というフランス人の名前を聞いたのは高校2年のころだったと思う。多くの同年代の人たちがそうだったように、世界文学全集、なんてものをかじり、わかったふりをして議論をする仲間にも恵まれて精いっぱいの背伸びをする年齢だったけれども、実存主義とはどういうものか知ろうとか、文学作品を読もうという気にはなれなかった。そのころ一般に知られていた”実存主義“ のイメージが、酒場にたむろする黒っぽい装束の若者たちとむすびついていて、当時支配的だった西欧賛美の風潮に乗るのがいやだったからかもしれない。
慶応高校は3年次になると理系を目指すクラスと法文系を目指すクラスに再編成される仕組みで、同時に自由選択できる科目も増えていわば大学へのウオーミングアップを自分なりに組立てることができるようになっていた。この自由選択のコースのひとつで、エリッヒ・フロムの 人間における自由 を読むという講座があった。もちろんそれまで聞いたこともない名前であり、半分は興味本位の選択だったが、今振り返ってみるとこの本が僕の大学での(ワンゲル以外の、というほうが正しいが)ありかたを決めてしまった。経済学部ではありながら経済理論には身が入らず、3年次のゼミで社会思想史、という講座を選択し、結局、卒業論文に選んだのがこのフロムだったからだ。
社会思想、とは時代時代の社会のありかたの基本となるものの考え方であり、その歴史を紐解こうというのが社会思想史、と呼ばれる分野だから、広い意味では哲学の領域にも及ぶ以上、実存主義、という分野に興味を持つ仲間も結構いたけれども、結局、僕がサルトルの主著である 嘔吐 を読んだのは社会人になってからである。それがきっかけになってサルトルの友人でもあり仇敵でもあったというカミュにも手を伸ばしてみて、誰でもがそうだろうがかの 異邦人 を読み、有名な きのうママンが死んだ というイントロに衝撃を受けた。カミュのもうひとつの代表作は ペスト だろうが、異邦人 の持つ一種の迫力には及ばない、というのが感想だった。
今度この本を読んでみようかと思い立ったのはほぼ1年前なのだが、その後いろんなことに目移りがしてしまい、結局、コロナ閉塞期間まで持ち越してしまった。本を買った時には、カミュのものの考え方についての解説文献だろうと思っていたが、著者の石光勝氏は冒頭に今、日本の置かれている環境からわれわれが国の持つべき正義、というものを論じようとしていることがわかって、また興味をひかれたこともある。しかし結論から言うと、僕には石光氏の説く カミュの正義 というものはもう一つ理解できなかった。もちろん読者としての理解力の問題だとは思うが、同氏が話を分かりやすくしようということで同時代の映画作品(カミュなんて知らない から 西部戦線異状なし やら 天井桟敷の人々 やら 誰が為に鐘は鳴る をへて 愛について、東京 という作品まで合計32本)への反映を試みた結果が残念だが小生にはかえって煩雑であり、焦点が定まりにくかった。しかしカミュの思想の原点にある個人の自由、という概念について 異邦人 でムルソーが亡くなった母親の顔を見ることを拒否し、全くの理由もなくアラビア人を射殺するという行為がムルソーが持ち続けた自由の定義である、ということが不思議と腑に落ちたのだ。
実存、という用語は、サルトルがペイパーナイフの例を引いて書いた有名な一節のように、本質、あるいは砕いて言えば物事のありようとして人々が受け入れているものとの対比によって定義される。そして有名な 実存は本質に先行する、という定義になる。このことが、ナチの暴政から解放されはしたが新しい時代を展開する思想というものを探していた大戦後のフランスの若者にとって魅力だったのだろう。この本を通じて再認識したのだが、大戦後のフランスは共産主義に共鳴する人が存在感を増していたこと、そしてサルトルや実存主義のグループの多くが共産党員だったという事実(カミュも一時党員であった)である。実存、という思想は直ちに人間の、個々人の生き方、個人の自由の実現はどうあるべきか、という命題に行きつく。この解決が共産主義にいきついた、という論理はまだ僕の中では整理されていない。いないのだが、ここで、前述したフロムがその主著の中で、人間は生まれたとたんに死とどう向き合うかという課題を持つとし、このことを人間の持つ実存的二分性、という用語で語っていたことを思い出した。彼によれば、この二分性の持つ矛盾は個人が能動的に社会に参画することによってのみ解決される、とし、このかかわり方を彼の本領である心理学的用語によって、”生産的構え“ と定義した。一方、何が何だかよくわからないなりに読んだサルトルには、アンガジュマン、というフランス語が出てくる。例によってググってみたところを下に書いておくが、太字にしたあたりがフロムが定義した人間の生産的な在り方、と共通するように思えるし、実存主義と社会とのかかわり、そしてその根本にある、カミュが言おうとした社会正義、ということなのかなあ、というのが只今の読後感である。
(アンガジュマン)もともとは、契約、拘束などの意味だが、政治や社会の問題に進んで積極的に参加していくことをさすことばでもある。とりわけ第二次世界大戦直後に、サルトルがこの語を多用して以来、これは彼を中心とする無神論的実存主義のグループの思想と切り離せないものになった。 サルトルの哲学によれば、意識存在である人間は、めいめいが自由な選択によって過去を乗り越え、現に存在している自己を否定しつつ、まだ存在していないものをつくりだしていく。したがって人間のあり方は、現在の状態からの自己解放であるとともに、まだ存在しない目的へ向かっての自己拘束(アンガージュマン)であると規定できる。
(船津)
サルトルの哲学によれば、”意識存在である人間は、
あの頃コチトラは分けも分からずシモーヌ・ド・ボーヴォワール (Simone de Beauvoir)の「老い」を小脇に抱えて歩いただけ。
ペストと新型コロナウィルス蔓延旋風は世を如何に変えたか?又、
(菅井)
世界で死亡者数は5,000万-
名匠ラオール・ウオルシュ監督、ロック・ハドソン主演の西部劇で
冒頭ティロップで説明があり、西部を荒らしたジェームス兄弟、ダ
思いきや、一対三というス
結婚することになる酒場の女ロージーは「アマゾンの半魚
Wikipediaによれば、ジョン・ウエズリー・ハーディン(
ボブ・デュランがこの実在のアウトローから採ったとされるオリジ
(編集子)Breed という単語は英和大辞典によれば ”普通、人為的に作られた動植物の種類品種系統、人のタイプ、カナダ米国では侮蔑語として混血児、と解説されている。”人為的に” という句の終わりにコロンがあるので、この形容詞句が人のタイプ、にはかかっていないだと思うが、主人公の人間としての結末は環境というか、”人為的” に捻じ曲げられた、というような意味があるのではないかと思わされる。法の及ばない辺境ではそういうことも日常的だったのだろうか。ほかの西部劇でも同じようなテーマがあるが。