小生、1990/91年の2年間、パリに飛ばされた。30年以上も前の昔の話しだ。当時、大統領はF.ミッテラン、首相はE.クレソン女史。つまり、社会主義政権(これは、非効率極まりなかった)。パリの生活、不平不満は山ほどあったが、最後は住めば都で胡麻化された。
ここでは、以下の一つの話題に絞り込む。花の都ならぬ、糞の都の話しだ。グチャリ、グチャリの洗礼が始まれば、「何がサルトルの実存主義だ、何がボーヴォワールの第二の性だ、クソクラエ」と毒づき、室内での靴の生活も乙なもんだと思っていたが、急遽、スリッパに変更した。そこで、素朴な疑問。靴を室内まで持ち込む生活と玄関で脱ぎ捨てる生活とでは、「武漢ウィルス」に感染する確率は違うのか。もう一つは、平井さんが指摘されているように、歩道に犬の図が書かれたお手洗いだ。そこで犬が用を足す、しかし、後始末はしない。そこで、確か緑色だったと思うが、オワイ屋ならぬオワイ車が出動して回収に回る。これは、30年ほど前の話し。
そこで、ボンクラは考えた。犬を飼っている奴は、自分の家は頗る清潔で、罷り間違っても、まさか、自分の家が犬の糞まみれになっている筈はない。ところが、一歩、公道に出るとこの様だ。月とスッポンほどの違いがある。そして、その違いは、公衆道徳なんて難しいことを言う前に、自分さえ良ければそれで良いと言う甚だしい身勝手さと言う精神構造にあるのではないかと。
平井さんの情報によると、最近、大分、改善されているらしく、それ自体はご同慶の至りだ。しかし、これは2年後に迫った2024年の五輪を意識してのことだろう。そうであれば、身勝手さと言う精神構造が変わらない限り、五輪と言う錦の御旗が亡くなれば、元の木阿弥に戻るのは間違いない。それにしても、犬の糞の放置を実存主義はどう説明するのだろう。そして、一時流行ったT.ピケティは、どう弁明するのだろうか。