エーガ愛好会(227)   限りなき追跡    (34 小泉幾多郎)

 西部劇の巨匠ラオール・ウオルシュが監督、ロック・ハドソンとドナ・リードを主演に、逃げる強盗団のボスとそれを追いかける男の追跡劇を描いた西部劇。開幕の駅馬車の疾走から、中盤でも何となくモノを投げつけるシーンが多く、壺や椅子やナイフを投げるオンパレード、最後の山岳での決闘シーンでも、追っかけやら、落馬シーン、投げる木材等が正面から撮って画面に向って飛んでくる、等々。立体映画方式かと思いきや、現実に立体映画だったのだが、日本公開は、通常上映されたとのこと。

言われてみれば、1953年は立体映画花盛りの年だった。日本公開最初の立体映画は?はっきりした記憶にないが、西部劇「タイコンデロガの砦ウイリアム・キャッスル監督、ジョージ・モンゴメリー主演」ではないか。次に「フェザー河の襲撃ゴードン・ダグラス監督、ガイ・マディソン主演」「ホンドー ジョン・ファロー監督、ジョン・ウエイン主演」その間に「肉の蝋人形アンドレ・ド・トス監督ヴィンセント・プライス主演」「ダイヤルMを廻せアルフレッド・ヒッチコック監督、レイ・ミランド主演」「雨に濡れた欲情カティス・バーンハート監督、リタ・ヘイワース主演」と上演された。しかし偏光眼鏡の煩わしさ等からシネマスコープ等に押され急激に廃れてしまった。この立体映画を監督したラオール・ウオルシュとアンドレ・ド・トス両監督とも片目で現実に立体では見えない筈。片目で立体映画を監督するとは、信じられない。2009年「アバター ジェームス・キャメロン監督」が立体映画で公開され、続編も作られるとのこと。どうなることやら。

南北戦争後婚約者ジェニファー・バラード(ドナ・リード)の元に帰還したベン・ウオーレン(ロック・ハドソン)。ところが駅馬車での道中、フランク・スレイトン(フィル・ケリー)とその部下ジェス・パージェス(レオ・ゴードン)に襲われ、ベンは重傷、婚約者ジェニファーは拉致されてしまう。その後一命をとりとめたベンは、フランクと仲間割れしたジェスとフランクに妻を殺されたインディアンのヨアン(パット・ホーガン)を仲間に引き入れ、ベンは最後にフランクを倒す。ベンとジェニファーは新生活を目指しカリフォルニアへ出発する。

 

(編集子)”ホンド―” も ”ダイヤルMを廻せ” も ”立体映画” だったとは驚いた。 ”シネマスコープ” を始めてみたのは “聖衣” だったと覚えているが、この2本が新方式(当時の)とは知らなかった。最近のメディア技術による立体映画類には全く興味がないから知らなくても驚かないが。ドナ・リードも人気があった知性的な感じのする女優の一人だが、小生の記憶ではやはり ”地上より永遠に” だし、ロック・ハドソンはやはりセーブゲキ向きではなかった気がする。ことのついでに、今はもう死語かもしれないがシネマスコープについてのグーグルの解説は以下の通り。

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1950年代前半の映画業界はテレビ業界の躍進に強い危機感を抱いていた。アナモルフィックレンズの技術自体は1920年代にフランスのアンリ・クレティアン英語版によって発明されていたが、1953年(昭和28年)にはカナダのボシュロム社と20世紀フォックス社によって改良された[2]。それまでの一般的な画面アスペクト比である横縦比1.37:1(スタンダードサイズ)の2倍近い横幅があった。ワイドスクリーン技術にはパラマウント社のビスタビジョンシネラマなどもあるが、シネマスコープとは20世紀フォックス社の商標名である[1]

ハリウッドによる初のシネマスコープ作品は1953年(昭和28年)9月公開の『聖衣』であり[1]、1954年(昭和29年)にはボシュロム社がアカデミー賞でオスカー像を授与されている。1957年(昭和32年)には東映による日本初のシネマスコープ映画『鳳城の花嫁』が公開され[3]、同様のシネマスコープ作品群には「東映スコープ」という呼称が付けられた。一方、映画をテレビ放映する際、テロップが表示される場面では可読性の観点から画面を圧縮するため、オープニングやエンディングなどが本編よりも縦長に表示されることがあった[4]

後の技術革新によってシネマスコープ撮影技術は廃れたが、2.35:1という画面アスペクト比は残った。ただし、今日のもっとも一般的な画面アスペクト比は横縦比1.66:1のビスタサイズである。

 

 

日本の英語教育について (5) (赤阪清隆氏ご寄稿)

先般、栃木県の宇都宮大学共同教育部付属小学校の英語授業を見学してきました。小学4年生と5年生のそれぞれの英語の授業でした。同小学校の英語教育は、その先駆、実践的な取り組み方法が注目され、一般財団法人英語教育協議会(エレック)の昨年度のエレック英語教育賞を受賞しています。 

小学3年生からの外国語(主に英語)の授業は、必修科目として2020年度から始まっています。小学生の英語授業では、聞く、話す、を中心に英語に親しむことが目標になっているようです。文部科学省の学習指導要領を読んでみましたが、恐ろしく難しくて官僚的な文書で、これをもとに授業を担当される小学校の先生方に深く同情を禁じえません。

上記の小学4年生の授業では、アイパッドを効果的に使い、「I have a pen」など、身の周りの持ち物を英語で指し示し、それを隣の生徒のアイパッドで映してもらって、先生に転送すること、5年生の授業では、これもアイパッドを使って、餃子がおいしいことなどの宇都宮市の特徴を外国人に英語で伝える練習をやっていました。先生のアイパッドと、各生徒のアイパッドが効果的につながっており、授業はスムーズに、賑やかに、楽しく行われていました。

わたしの時代の牧歌的な英語の授業風景とは雲泥の違いがありました。わたしがこの生徒たちの頃といえば、今から60年以上も前のこと。英語のアルファベットは、中学1年生になってから初めて学びました。英語の担当は、大変愉快な小林先生でした。先生は、夏のキャンプファイヤーで、「金色夜叉」の貫一、お宮の熱海の海岸での立ち回りを一人で演じ、全生徒の抱腹絶倒と歓迎を受けました。その小林先生が、黒板にチョークで、「字引く書なり」と書いて、「ジクショナリは辞書のことだ、覚えろ」と。

豆腐は、「ビーン・カーズ」と覚えろとも。同先生によれば、太平洋戦争直後に裁判にかけられた日本の兵隊さんが、「アメリカ人捕虜に何を食べさせたか?」と聞かれて、「豆腐を食べさせたと」と答えたらしいのです。通訳が豆腐をどう訳してよいかわからず、漢字の直訳で、腐った豆を食べさせたと訳したものだから、裁判官が怒ってその兵隊さんを死刑にしたというのです。真偽のほどはわかりませんが。いずれにしろ、将来トラブルに巻き込まれないために、舌をくるりと巻いて、カーズという発音を何度も練習させられました。小林先生は、「困窮売淫」というのも教えてくれました。コンキュバインは、英語でお妾さんのことです。

大阪の田舎育ちですから、外国人に接する機会はめったになく、中学校の遠足で伊勢神宮に参った時に白人の外人観光客と交わした会話が初めてのものでした。「ウエア、アーユー・フロム?」と聞かれ、「どこから来たのか?」と聞いていると分かりましたので、心臓が破れるくらいドキドキしながら「オーサカ!」と答えました。その外国人は、「オー、フロム オーサカ!」と応えてくれましたが、わたしには、「ああ、そうか、フロムが抜けていた」と恥じ入ることしきりでした。

小学3、4年生といえば、10歳前後です。そのような感受性の極めて高い時期に、外国語、外国人に接することは、その後の人生に大きな影響があると思えてなりません。わたしの息子は、その年ぐらいの時分に、ジュネーブのインター・ナショナル・スクールに通っておりました。彼と同級の生徒の一人に、ガーナ出身の女生徒がいましたが、彼女は成績がよくて、我が息子をしり目にさっさと飛び級でクラスを離れていきました。インド人の生徒も同様、飛び級でした。「アフリカやインドにもあのように頭のいい子がいるのだ」と、親子して感嘆しましたが、世界の多様性を学ぶ良い経験になりました。

小学生から、外国語(英語)を教えることに反対の意見もあります。通訳者で英語教育者の鳥飼久美子さんは、外国語を学ぶのは「早ければ早いほど良い」というのは、間違った幻想であり、根拠がないと論じています。彼女の主張は、外国語を学ぶのは、分析的に学ぶことができる抽象的な思考力が備わった、中学生のときのほうが最適だというものです。

数学者でエッセイストの藤原正彦氏は、小学生のうちは英語よりも国語や数学をしっかり学ばせるほうが大事だと強調しています。教養を深め、論理的な思考の訓練になるからという理由です。「日本語が亡びるとき」の著者の水村美苗氏は、同書で、小学生の英語教育は直接扱ってはいませんが、学校教育を通じて多くの人が英語ができるようになればなるほどいいという前提は、否定すべきとの強い意見です。国民の全員がバイリンガルになるのを目指すのではなく、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すべきとの主張です。そうでなくては、世界の「普遍語」たる英語の世紀の中で、「いつか、日本語は亡びる」と言い切っています。

このように、英語教育をめぐっては、明治維新以来、様々な論争が繰り広げられてきましたし、今も続いています。江利川春雄和歌山大学名誉教授の「英語教育論争史」(講談社選書メチエ、2022年)によれば、これまで主に3点ほどのテーマが論争の的になっています。一つは、英語教育を小学校から始めるのが良いか、中学校からにすべきか? すでに明治時代に小学校で英語教育が行われており、論争になっていたという驚きの事実が紹介されています。二つ目は、英語教育は、教養を高めるのが主たる目的か、それとも実用的なコミュニケーション能力を高めるためのものか? 第三点は、国民全員が義務的に学ぶべきか、あるいは一部エリートないしは外国語を必要とする少数の人に限定することでよいのか?

1970年代には、これらの論点をめぐって、有名な平泉渉対渡部昇一の英語教育大論争というものがありましたが、ここでは割愛させていただきます。要は、明治時代以来、これまで長い間英語教育について種々論争はあったけれども、現在では、小学生から始め、教養よりもコミュニケーション能力の向上を目指し、エリートに限定せず国民全員が学ぶ、というのが大きな流れになっていると見てよいのでしょう。

そのような流れにもかかわらず、現在のところ、日本の中学生や高校生の英語を話す能力は、国際的に見て非常に低い状況が続いています。2020年の高校卒業時のTOEFL iBTの国別スコアでは、台湾が85、韓国が86、中国が87と世界標準レベルまで上がってきているのに対し、日本は73で、世界のスピードに追いつけていません。特に話す能力の低いのが目立ちます。

以下の調査結果をご覧ください。これは、少し古いですが、文部科学省による2014年度の調査結果です。当時はまだ必修の教科ではなく、「外国語活動」の一環として英語が小学5、6年生を対象に教えられていたのですが、その7割以上が、英語は好きだと答えています。その前向きな姿勢に、中学校や高校での英語教育が十分に応えられてこなかったことが問題なのです。

(添付ファイルを参照ください)

 それでも、最近新しい動きがあります。東京都と株式会社TOKYO GLOBAL GATEWAYが運営する「トーキョー・グローバル・ゲートウェー(TGG)」という体験型英語学習施設のことをご存じでしょうか?立派な新しい建物が、東京の青海と立川にあります。前者は2017年に設立され、後者は本年1月にオープンしたばかりです。そこでは、小学生や中学生などのビジターが、空港や、売店、薬局などの模擬サイトで、米、豪などの外国人英語講師と英語で話す体験をすることができます。はじめはオドオドしていた生徒たちが、一日体験の終わりには、ハイタッチで、教師たちと仲良しになります(https://tokyo-global-gateway.com/)。

わたし自身は、このように小学生が英語を学び始めることに、大いに賛成です。日本は、安全で、空気も水もきれいで、住み心地の良い国であることは間違いありませんが、それでも、いまだに相当程度閉鎖的で、いろんな分野にガラパゴス現象的なものが残っていると思います。もっと外に対してオープンで、自由で、多様性を重んじる国民になってほしいと願います。さらに、自分の考えを自信をもって世界に向かってプレゼンできる人が増えてほしいと思います。その観点からは、英語の読み書きも大事ですが、やはり英語をうまく話せない人が大半という現状は何とかしなくてはいけないと思います。

確かに、水村美苗氏が強調するように、「教育の場において、国語としての日本語を護ること」の重要性は、大いに理解できます。しかし、現在の日本の英語教育が、彼女が危惧する日本語の滅亡を招くほど、ダイナミックに進められているとは到底思えません。小学3,4年生の英語授業は、たかだか週1時間(年間35時間)、5,6年生では週2時間(年間70時間)にすぎません。英語教育の悪影響を危惧するよりも、むしろ、日本語教育自体の充実化を図るべきかと思われます。

幼年期から外国人に接し、英語を話す楽しさを味わった若者たちは、必ずや将来世界で活躍できる大事な力を身に着けると思います。前向きで、好奇心があり、外交的で、話し上手で、ガッツがあり、少々の困難にはくじけない持久力を持った若者 ー そう、最近世界のあちこちでよく見かけるインド出身のリーダーのように ー がたくさん出てきて、将来の日本を支えてくれることを望まないではいられません。

(44 安田)赤阪氏について:

高校時代からの友人(一橋大学卒)、「国際関係・外交」専門の大学教授(今は引退)が懇意にして来た友人として赤阪氏を3年ほど前に紹介されました。彼は大阪は楠木正成で知られた千早赤阪村出身、1948年生まれ、京都大学卒、キャリア外交官、2007〜12年 国連広報担当事務次長を最後に外務省から退職、以後、公益財団法人フォーリン・プレスセンター理事長を務め、現在は公益財団法人日本ドットコム理事長。

赤阪氏を紹介されて以来、彼の随筆「話のタネ」を、ほぼ月一回程度の頻度で送ってもらっています。僕の友人・仲間へ自由な転送及び転載については快諾済です。彼とは未だ面識はなく、メール及び友人経由の交信です。拙著「アポロが月に到達した頃、僕は世界を歩いていた」を進呈して面白く読んだとの返答を貰いました。

「エーガ愛好会」の“日本語の英語教育について”議論は彼は知る由もなく、たまたまタイミングが合った次第です。彼も本件の重要性について問題意識を持っていることが確認できて良かったです。

 

 

 

エーガ愛好会 (226) Railways愛を伝えられぬ大人たちへ 2011  34 小泉幾多郎

7月3日偶々富山を題材にした番組がNHKBSPにて放映された。小生1971年3月から1974年9月の3年半ばかり富山で勤務したことがあり、懐かしく回顧した。

 映画「Railways愛を伝えられぬ大人たちへ 2011」は、富山から宇奈月温泉までを走る富山地方鉄道を舞台とした定年を1か月後に控えた定年間際の運転手とその妻の物語。運転手を三浦友和、その妻を余貴美子が演ずる。ひと昔前にいそうな頑固な夫、夫婦互いに伝え下手が何とも言えず、こういう夫婦の形は昔よくあったんだろうなと思われた。何時の間にか夫婦の間に心の溝が出来てしまっていたから、お互いに身軽になった方が余生を楽しく本当の自分らしい生活が出来ると離婚をする決断を下すものの、妻が面倒を看ている患者の地方鉄道での急変への対応から夫婦お互いのよりが戻るまでを地方鉄道運転に絡み、立山連峰をはじめとする景観を初め、電鉄富山駅から富山各地がロケ地として登場する。

夫婦間だけに留まらず、運転手の部下中尾明慶とのやり取りも面白く、定年送別の席、宇奈月温泉での先輩米倉斎加年の「これからの20年は長いぞー」の実感ある言葉、もうとっくに20年を超えてしまった我が身にとって、何と言ってよいものか。

「絶景てつたび夏の富山」は鉄道写真家中井精也氏が各地を巡る富山編。小生が富山在住時以降北陸新幹線が出来たりして、当時のJRが第三セクター化したりしたが、景観は変わらない。

1.      あいの風とやま鉄道(石動~越中宮崎間) 夏の雲と田圃、稲葉山の展望広場、富山駅前の路面電車、東富山の水田地帯と早朝の立山連峰、西入善黒部川の名水の里、泊 宮崎城跡から海と鉄道の展望
2.      万葉線(高岡~越の潟) 高岡大仏、中伏木駅花壇の花々、六渡寺駅の鉄橋床川橋梁、新町口駅の夕焼けと山々、終点越の潟の渡し船と新港大
3.      立山黒部アルペンルート 電鉄富山~立山~美女平~室堂~大観峰~黒部平~黒部ダム 立山連峰の朝昼晩、みくりが池、ブロッケン現象等
4.      富山地方鉄道本線(富山~宇奈月温泉) 新宮川駅田圃にポツンとある踏
切、西魚津駅舎 遊園地の観覧車、新黒部の公園頂上からの景観、栃屋夕日の踏切、宇奈月温泉。

以上80数年のうちの3年半の富山在住だったが、眺めた場所、知らない場所もあったが、懐かしき風景にも出会い、郷愁を新たにした。当時を述懐すれば 立山等の山々を別にすれば、車であちこちを巡ったことの方が多かったかも知れない。特に富山周辺の岩瀬曳山車祭、八尾曳山祭や砺波付近の砺波夜高祭り、福野春祭り、福光春祭りや高岡氷見付近の高岡御車山祭、伏木曳山祭りを見物に行ったこと等が想い起こされる。

日光へ行ってきました  (HPOB 小田篤子)

27~30日まで、成人してから初めて、日光を旅行して来ました。緑が多く、とて落ち着いた所でした。

《日光》
①先ずは中禅寺湖畔を周りました。湖畔には先日の『G7 NIKKO』のモニュメントが。
《ボートハウス》
1947年にアメリカの建物をモデルに建てられました。
長崎であちこちで見かけたグラバー氏が、再登場! この辺りに別荘を建て、カワマスを放流し、フライングフィッシングを広めたそうです。
長崎のグラバー園には水産学者でもあった息子、倉場富三郎の「グラバー図譜」が飾られていました。富三郎は日本にトロール船を導入、近代的捕鯨産業を確立したと言われますので親子とも魚好きだったのですね。
《立木観音》
加山雄三さんが「エレキの若大将」の撮影をした所で記念碑がたっていました。
《英国大使館別荘記念公園》
英国外交官、アーネスト·サトウが1896年に建て、旅行家イザベラ·バードも滞在しています。
サトウの次男、武田久吉博士は植物学者、登山家でもあり、日本山岳会の発起人でもあります。
さすが、あちこち旅をしたサトウさん! 穏やかな眺めは、心落ち着く絵葉書のような景色でした。お隣のイタリア大使館も、杉の木の皮をパッチワークのように使った外装が特徴的です。この時期この辺りへのバスがなく、帰りは歩き始めて間もなく、大雨、雷、ヒョウにあい、40分程一生懸命歩いてきました!
②《東照宮》方面へ
東照宮は外国人も多く、とても混んでおり、隣の、人がまばらな《家光廟日光大猷院》の方が阿と吽の口の金剛力士、カラフルな4体の夜叉、300以上の石灯籠、黒と金の荘厳な建物…と見応えがありゆっくり楽しめました。
《金谷ホテル歴史館》
山口由実さん(’62年生まれ、慶應卒)の著書「クラシックホテルが語る昭和史」を読み日光金谷ホテルの事を知りました。
金谷ホテルの金谷眞一(兄)と箱根富士屋のホテルの山口正造(弟、婿養子)は兄弟で父が金谷善一郎。山口由実さんは正造の曾孫です。
1873年に東照宮の雅楽士《金谷善一郎》が、泊まりにきていた米宣教医師ヘボン博士の勧めで、外国人専用の『金谷カテッジイン」=「侍屋敷」を開業。
イギリス人旅行家イザベラ·バードも1878年に12日間滞在したり、20年間使われた後、保存されています。元は武士の家でしたので、隠し部屋等、昔の知恵が使われており、庭も綺麗です。
《田母沢御用邸記念公園》
日光出身の実業家小林年保の別荘に、病弱だった大正天皇のご静養の為に、紀州徳川家江戸中屋敷(赤坂離宮として皇室に献上後)の一部を1898年移築した事から始まります。その後の増改築の結果、江戸、明治、大正の木造建築を合わせ持っています。木材の宝石箱だそうです!1947年まで利用された皇室3代。部屋数106室(皇室用23,臣下用83室)!
*日光金谷ホテル
夕方5時から泊まり客用に45分間の館内ツアーがあります。アインシュタイン、ヘレン・ケラー他多数の有名人が宿泊。
ここのバーは真空管の音響でジャズを流しています。違いが私には…(久しぶりにバーに入りました!)G7 NIKKOではリッツ·カールトンを利用したようです!
(この写真は 44 安田君提供)

釜蓋朔日 ― 水無月から文月へ     (普通部OB  舩津於菟彦)

水無月から文月へと時は移ろいますね。今年も明日で丁度半分。まだ半分しか時は過ぎていないと思うか、今年は後六ヶ月しか無いと思うか。紫陽花とクチナシそして紫君子蘭、ヤブカンゾウが満開の錦糸公園を歩いて来ました。

『 文月や 空にまたるる ひかりあり 』 加賀千代女   文月の空だなぁ。まだ夕方で日が沈んでいないのに、日が沈むのを待ちかねた月が光っている。
『 文月や 神祇釈教 恋無常 』     正岡子規    文月だなぁ。  世の中の有様はさまざまであることだ。

7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)と言う日だそうです
死者の霊魂が地獄の石戸を突き破って出てくるという日。お盆を迎える準備は朔日から始まる。この日を釜蓋朔日と呼び、あの世の釜の蓋が開いて、ご先祖さまの精霊が冥土からそれぞれの家へ旅立つ日とされている。あの世からの道は非常に遠く、それで朔日に出発しなければ盆までに間に合わないということ。走って現世に来てくれるのかしら、写真とかお位牌に向かって、「いろいろ教えてくれたり、今日あるのはも皆様のお陰です」と言うしか無いですね。
御元気なときに言いたかった言葉です。 これから祭祀などの執りおこない方とか戒名とか色々変わっていく時代に成ってきていますね。

日本の英語教育について (4)

日本人の英語教育はどうあるのがいいのか、ということについて、いろいろな立場からのご意見をいただき、 なぜ、英語が必要なのか、それはどの程度の能力なのか、という基本的な命題を議論してきた。今回はそもそもの議論のきっかけであった、”英語教育の手法“ といういわば技術論について私見を書く。

我が国における英語の必要性、という問題について、投稿者各位のあいだで一致した認識は、一般の日本人が大学まで進学した場合、単純合計で10年間まなぶことになる英語教育が、結果としてグローバルな場で外国人とコミュニケートできるだけの成果を出していない、ということである。ただ、ここでいうコミュニケート、とは、会話能力、と言い換えなければならない。なぜかといえば、外国語で書かれた書物を自国語で読解できる、すなわち主要な外国文献が自国語に翻訳されて誰でも入手できる社会環境を維持しているという意味では、日本ほど制度・機構が出来上がっている国はほかにないのではないかと思うからだ。

欧州各国は長い歴史を経てなお、自国の領土に固有の言語を保持しながら、地理的、文化(歴史)的経過からお互いを知り、認め合うという仕組みがあり、言語そのものを知悉しなくてもコミュニケ―ションが保たれているし、ごく普通にマルチリンガルな人間がいてもいわば当然と言える。しかしそのほかの国、米国をはじめとした非欧州の国々が他国の言語に敏感であるとは思えない。日本の若者のように、自国語で、今日はゲーテを読み、明日はサルトルに手を伸ばし、それがすんだらヘミングウエイにしようか、ということが出来る。これは明治開国とともに、わが福沢諭吉をはじめ多くの先達者が切り開いてきた外国語翻訳という確たる文化である。くりかえすが、かの 日本では英語の水準がほかの国に比べて低い、だから日本は遅れているのだ、というお役所議論は全く意味がない。外国の優れた文物を取り入れ、消化し、自国の状況に合わせてローカライズする、という事が大事なのであって、外国語がわかるかどうかという事は単なる事実のあとづけにすぎないからだ。

しかし、そもそもの議論のきっかけである、”グローバルな環境での異文化と対人関係のなかにあって自己を主張し議論を重ね成果を得るための言語、事実として世界語である英語の会話能力” という点についてわれわれが大きく立ち遅れている、という認識には小生も100%同意である。ただ、多くの人が指摘されるように、そういう現実の場においても重要なのは英語というツールだけの問題ではない。小生の経験からいうと、本節の意味でいうコミュニケート能力の不足、の原因は第一に日本人が生まれついてきたいわば日本人としてのしつけ、すなわち自己主張をする前に組織との整合性や他人の立場を考慮する、という文化であり、雄弁よりも断固たる沈黙を貴ぶという武士道的発想ではないかと思う。またそういう時に、これもまた日本人には苦手なのだが、ユーモア、とかエスプリ、といったものが持つ重要性も考える必要があるようだ。

(以前にも本稿で書いたと思うが、あまり評判はよくなかったが歴史の勉強として小生には役立ったアメリカ映画 遠すぎた橋 のなかで、ロバート・レッドフォード扮する分隊長が白昼、敵前での決死的な渡河を命じられるエピソードがある。無謀な命令に部下たちの間に動揺が起きる。ここでレッドフォードがこういうのだ。Hey, what the matter、guys ?   Don’t you have sense of humor ?     大体西部劇とかこういうスペクタクル物の会話はまずついていけないのだが、このカットのセリフは明瞭に聞き取れた。そしてその時、(へえ、ユーモア?)と違和感があった。しかし考えてみるとこのような生死を賭けたような場合ですら、ユーモア、ということが平然とでてくるのが英語の世界なのだろう。こんな生死をかけた場面でユーモアを要求する文化は日本には絶対に存在しない)

前回定義した英語レベルでいえば、今回寄せられた経験論にもあるように、ほとんどの場合、現在日本での標準と言って差し支えないと思うが、中学から大学まで、10年間の英語教育をこなしてさえいれば、実用的なレベルのコミュニケートはできる、というのが小生の経験値である。ただ、ビジネスレベル2、といった程度では上記したようなハイレベルのコミュニケーションを成立させるには不十分であることもわかる。相手が示す言外の意味がわかるかどうか、とか、対人関係の中で生じることとか、ちょっとした蹉跌が重大な誤解につながることもあり得るので、下村君が呈したようなシーンでは、やはりソーシャルレベル、の英語力が必要であると感じている。それではそのソーシャルレベル以上の英語力はどうやったら身につけられるのか。考えているうちに、一つのケーススタディがなんということか、ごく身近にあることに気がついた。自分の孫である。

彼が就学年齢に近づいたとき、息子夫婦は彼をインターナショナルスクールにいれる、という決断をした。正直言って我々夫婦はこれには抵抗があったのだが、いくつかのスクールで小学校から高校まで学んだ彼がつい先日、高校過程を卒業した。そして在日外国人の子弟が対象のPEARL(Programme in Economics for Alliances, Research and Leadership)の参加資格を得て、慶應義塾経済学部への入学が決まった。この PEARL の部分は当初から計画したわけではない、いわば完全なフロックで、当人も受験対策を始めようかという時期だったので、結果善ければすべてよし、に近い結末になった。彼の卒業式(アメリカ式にコメンスメントーcommencement )に出席してみて、改めて彼の英語力に感嘆した。測定方法があるわけではないが、これは見事に我々の定義するソーシャルレベルに達している(当然17歳という人生経験の範囲であるが)をこえていると確信した。結論から言えば、小学校レベルから本格的に教育すれば、外国生活を経ずにこのレベルに到達できる、という(彼には申し訳ない表現だが)実験が成功したわけだ。

ただ、もちろん、このことが、天下の愚策である政府主導の小学校英語教育なる暴論を肯定するものでは決してない。彼の場合、少なくとも學校校舎にいる時間は完全に英語オンリーの環境に置かれていたわけで、たとえ小学校の6年から大学での時間まで含めても、も日本の環境では絶対にカバーできない量、質、環境の英語を体得したからこその話だし、仮に小学校過程でいくばくかの基礎ができたところで上部構造の高学年での教育システムが変わらない限り、かつてこの議論について藤原正彦氏が喝破されたように、(多少は発音がいいくらい)の効果がせいぜいだろう(小生は同氏のご指摘の程度までの習得さえ絶対に不可能だと思っている)し、また、息子には聞いてもいないが、通常の家庭で子供にかけられる教育費とは相当の違いがあったはずだ。さらに幸運だったのは、家庭環境である。息子はアルバイトでためた自己資金で渡米し大げさに言えば徒手空拳、で英語を学び、米国の、いわば下層に近い環境での生活経験があり、現在は米国企業の日本組織にはたらき、嫁もまた米国生活の経験が豊富、というものだったからだ。

彼がこれから大学生活に入り社会人になっていく過程で、獲得したソシアルレベル級の英語力という有利性の一方、ほぼすべての時間を英語を学ぶことに費やした少年時代、という事実がどのように作用していくのか、想像することは難しい。もちろん、多感な少年期を外国人とのあいだで過ごしたことが多くのシーンでプラスに働くことは間違いない。しかしその同じ時期に一般家庭の少年たちが経験した、変な表現だがリアルの日本社会・日本人との交流・日本の子供たちが読んだであろう本や仲間内の交流、といったものを体験していないということがどうなのか、ある場合にはマイナスになることも十分あり得る、と思うのだ。

英語のレベル、ということで今までの議論を延長すれば、彼の場合にはいわゆるバイリンガルになり得る(もうなっているかもしれないが)立場にある。改めて確認しておくと、バイリンガル、の定義は、二国語が完全にでき、併せて、外国語の背後にある思考様式とか心理的反応などを自分のものとして身に着けた状況(いわゆる 英語で考える という反応)である。このことは多くの場合有利ととらえられると思う反面、小生にはバイリンガル人、という事にある種の不安というかむしろ反感を感じることがある。自分の経験からなぜかを述べる。

前にも書いたがhpという外資系会社に勤務している30年プラスの期間、米国本社が日本駐在という形で3年、5年という単位で担当者を派遣してくることがよくあったが、これには3つのケースがあった。すなわち、その人たちが

(1)日本語を全く解せないいわゆるガイジンである。              (2)日本語を英語同様解するいわゆる二世(本人の父母が日本人。したがって  戦後何年か経つわけで年齢的にあまり若い人はいなかった)。                     (3)日本で教育を受け、その後米国で教育を受けた人。

である。この人たちが日本人や日本的慣行やビジネス環境に対応したとき、周囲(つまり日本人従業員、あるときは顧客)はどう反応したか。

(1)見かけもガイジン、日本語はできない。これは明白、何とか通訳してもらうしかない。もちろん、俺っち日本人の心のひだまで分かってくれることはあり得ないな。あとは結果がどう出るか、待つしかあるめえ。

(2)日本語は多少ヘンだけど、時間が多少かかっても、お互いをまず理解できる。ただときどき感じるギャップは、二世、というひとは心は日本人ではありえないんだから、どっか違うんだが、ま、ガイジンよりはもちろんいいさ。

(3)話はもちろん通じるし、問題ない……..はずなんだが、なんか、深いところで信用できない。日本人なんだけどアメリカ人なんだ、この人は。ま、コトバで苦労しないだけガイジンさんよりやいいけど、なんか、信用できない気がする。

この3タイプを我々の基準で考えると (1)のひとの日本語はサバイバルレベル(おはよー、ありがと、げんきですか? レベル)、(2)は個人差はあったがビジネスレベル2プラスくらい,(3)が問題と考えるバイリンガルレベルである。この(3)レベルの人たちはビジネスの遂行、という意味では多くの場合、問題はなかった。しかし日本人が期待し不可欠と考える人間同士の付き合い、チームビルディング、後輩の育成、などとなるとかれらが物理的に日本人でありながら感覚的には米国人であるという事実が障害となって、うまくいかない、あるいは妙な組織分裂を引き起こしてしまう、という経験をした。本人は言葉が通じるから自分のいうことができるはずなのに部下や顧客がついてこない。思ったことができない。なぜだ?という疑心暗鬼に陥り、さらにアメリカの有名大学卒、というプライド、この機会を(hpクラスの会社であっても、やはり日本駐在というのは特別)出世のきっかけとしたい気持ち、などが重なり、悪い場合には (俺はよくやってるのに日本人の部下が協力しない)という最悪の結果をまねく。当初、小生はこれが該当する本人の技量そのものが原因だと思っていたが、今、振り返って考えると、かれらがなまじバイリンガルすなわちバイカルチュラルであったことが原因なのだと考えるようになった。接触する日本人のほうは、日本人のもつ繊細さや人間関係がわかって当然だと思うのに、それが通じない、ということだ。

いったい、人間が異なる二つの文化・慣習・思考過程を同時に自分のものとして持ちえるのだろうか? (英語で考える)という反応は通訳翻訳といった分野では絶対的に有利なことにちがいないが、今英語、次の瞬間に今度は日本語で考えて対応する、などという事は可能なのだろうか。小生の反応が非論理的というか感情過多であることはわかっているのだが、どうも自分には、バイリンガルすなわちバイカルチュラル、 という図式がしっくりこない。技術論としては全く正しいと思うのだが。あえていえば、”人間は二つの時代には生きられない(菊池寛だったか?)” という感覚である。

(小生の愛読書のひとつが大佛次郎の 帰郷 である。やむを得ない国家的な事情で日本を追放された主人公が、戦争(第二次大戦)が終結して日本へ戻ってくる。生き別れになってしまった家族との再会はできない彼の事情を理解し、おさないころしか知らない娘とのあいだを取り持ってくれた女性に好意を持ちながらなお、自分がエトランゼであることを改めて知り、再びひとりで欧州へもどっていく。この主人公守屋恭吾のイメージは、だいぶ違うジャンルだが松本清張の傑作のひとつ 球形の荒野 の野上顕一郎にかさなって、二つの文化の間に翻弄された人生の描写である。もちろんこれが小生の持つ感覚の説明になるというわけでは決してないのだが、これからいやおうなしに訪れるグローバリゼーションの世界での陰翳の様な気もするのだ)。

長くなってしまった。本論についてはもう一度、書き直す必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

2023年6月 月いち高尾報告  (47 関谷  51 齋藤)

2023年第3回目の「月いち高尾」を、6月28日、実施。 4月26日予定は、ピンポイントで当日だけが大雨の天気となってしまい、止む無く、中止。 雨男・女は誰だったのか?

5月は、KWV三田会の「春の日帰りワンデルング」があり、見送り。 久々の「月いち高尾」を企画したものの、梅雨の真っただ中での日程となり、果たして実施できるのかとの不安を抱きながら、毎日、高尾山方面の長期天気予報と睨めっこしながら、「何とかなりそうだ」と判断、意を決し上京、参加者に雨具必携を前提に、「決行」を連絡。

当日、曇り空で、下界は蒸していたが、雨具のお世話になることもなく、この時期としては、登山者が比較的少なかった初夏、緑豊かな高尾と景信山を満喫した。

(シニア―・コース) 36/遠藤、中司、高橋、吉牟田、鮫島、39/西澤、蔦谷、41/相川、47/伊川、平井、48/福良、47/関谷  <12名>

(景信山コース) 37/矢部、39/岡沢、堀川、40/武鑓、44/安田、吉田、46/村上、47/水町、48/佐藤、50/実方、丸満、家徳、51/斎藤、中里、羽田野、BWV/大場  <16名>

  • シニア―・コース

10:00 京王線「高尾山口」集合 10:15清滝発ケーブルカー 11;20 高尾山山頂 昼食

下り:

・関谷班: 4号路- ケーブルカーで清滝  久々の4号路はそれなりに整備されていたが、階段が増え、改悪との評価

・伊川班: 稲荷山コースから6号琵琶滝を経て清滝  稲荷山コースは木道の階段が整備され、多少興ざめなるも、自然保護致し方なしか

平均年齢80.7歳とは思えない元気なシニア―、足腰が多少覚束ない方も見受けられたが、口の方はお元気そのもの、体調不良、事故等のない楽しいワンデルングでした。

<文責: 関谷>

 

  • 景信山コース

10:00JR高尾駅前バス停集合10:12⇒(バス)⇒10:30小仏バス停10:35⇒(15分)⇒景信山登山口10:50⇒(50分)⇒11:40小下沢分岐11:50⇒(25分)⇒12:15景信山頂上12:45⇒(35分)⇒小仏峠13:20⇒(40分)⇒14:00小仏バス停14:10⇒(バス)⇒14:30高尾駅

・JRのダイヤ乱れでバスへの乗り遅れが危ぶまれましたが、定刻に16人全員が集合しました。(小仏行きのバス停が①番乗り場から②番乗り場に変更になっていました。)

・梅雨の最中でもあり午後からの発雷の予報もありましたが全く雨は降らず都心の暑さをよそに全行程を快調に踏破することができました。

・湿度が高く霞が立って展望が今一つでしたがズンロク植物学博士のご指導の下「ヤマアジサイ(山紫陽花)」「ウツボグサ(靭草)」「ヤマギボウシ(山擬宝珠)」等々花の季節を楽しむ山行になりました。

・梅雨時期のためか登山道、山頂周辺とも我々以外にはほとんど登山者は居なくて、山を独占したような至福の時間でした。

<文責: 斎藤>

 

  • テング飯店 懇親会

ケーブルカーで下山の6名が先行着、冷えた生で乾杯、清滝コース グループ下山の連絡を受け、ビールの準備。 景信山グループからの参加者14名も間もなく到着・合流。 会員増強活動の成果でそれなりの若手!の初参加もあって、従来にも増して、フレッシュな総勢25名の盛大な懇親会となり、今回もテング飯店は貸し切り状態となった。 当店の新商品として、清酒「高尾山」の4合ボトルが登場、今後の酒量激増が懸念される! 年次を越えた元気な高齢OBの楽しい集まりです!

(44 吉田)今回、粗忽モノゆえ、恥ずかしながら三月末に痛めた右足アキレス腱もようよう普通歩きが出来るようになっての、こわごわの試し山行でした。歩きながらの写真はガマンして足元に注意を注ぐようにしておりました。結果、なんとか、足手まといにならずに済みました。これも、思いやりに溢れたペース配分のおかげであります。感謝感謝であります。

「植物」に関してはこの時期ならではの花々との出会いを楽しめました。
植物同好の仲間となった“冬ちゃん”((シブイ)シダ類や(コワイ)キノコ類等々…“冬”場に会えないからこその関心対象ですか?
「サルノコシカケ」見事でしたネ。そして、ご下問ありし、丸い大きなキノコは
「オニフスベ」の仲間ではないかなと“妄想”。
“妄想”ついでに、手塚治虫の「ひょうたん次」を連想してしまいました。
今の世の中をご覧になったらこのキャラクターの登場機会も激増するのではないかなああ…と、さらに“妄想”。
ひょうたん次 https://ja.wikipedia.org/wiki/ ヒョウタンツギ

(大場)今日は大変お世話になりました。

蒸し暑い1日でしたが、お陰様でとても楽しい時間を過ごせました。
ありがとうございました。
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(50 丸満)

初参加でしたが楽しいひとときでした。これからも積極的に参加させていただきます。よろしくお願いいたします。
(編集子)今回、台風の到来にもかかわらずリーダーを勤めてくれた関谷君は早めに帰宅されたが、自宅付近も水が出て大変だったとのこと、お見舞い申し上げる。ご被害のすくなからんことを。

 

 

エーガ愛好会 (225) ブラック・ライダー 

人が主体の出演者の映画。黒人俳優のシドニー・ポワチエが監督兼主演の異色映画で歌手のハリー・ベラフォンテが名演。ストリーは南北戦争後の黒人解放後のセイブの原住民も疾走もお決まりしあるモノの異色映画で人種差別と原住民のこの時代の扱いなどが描かれている。
南北戦争直後、自由を求めて米南部ルイジアナ州から西部にやって来た黒人移住者たちは、彼らを元の農園に引きずり戻そうとする無法者の白人グループによる略奪・暴行・殺害の被害を受けていた。移住者たちのガイドを務めているバック(シドニー・ポワチエ)は白人グループのリーダーであるディシェイに執拗に狙われながらも、移住者たちを守るために必死に戦っていた。そんなある日、巡回牧師を名乗るラザフォード(ハリー・ベラフォンテ)はバックと知り合い、成り行きからバックを手伝うことになる。
バックとラザフォードは協力してディシェイを倒し、さらにバックの妻ルースやインディアンたちの協力を得ながら、何とか追っ手を追い払うことに成功し、黒人移住者たちは無事に目的地に到達する。
シドニー・ポアチエとハリー・ベラフォンテという往年の二大黒人スターによる異色の西部劇。どう見てもベラフォンテの味のある存在感がポアチエを喰っている。演技の眼力が凄い。
内容は本当に興味深くて、南北戦争が終結して黒人が自由になった訳だが、差別というものがすぐに消える訳じゃなくて、南部から西部に移動しようとする黒人を取り締まる連中がいたのだった。それを邪魔したり黒人を支援する人を黒人役のシドニーポワチエが演じる。南北戦争物はいくつも描かれているが、この背景は全く知らなかった。
差別モノは「アラバマ物語」も然りだが、シドニー・ポアチエの出世作の「招かざる客」に比較すれば俳優も少ないし、監督が新味を出そうとしてムリしているところがあったり、総て荒削りで今一の映画だが、観て居てけ付こうハラハラするし、巡回牧師を名乗るラザフォード(ハリー・ベラフォンテ)が中々の名演だと思う。バックの妻ルース(ルビー・ディー)が三人が馬で疾走シーンも中々いけるものだった。

(小泉)Buck and the Preacherが原名。西部劇には、時折主人公の名前が其の侭題名になるが、Jesse Jamesや Buffalo Bill のように知られた名前なら良いが、知られていない名前となると有名人でも「地獄への道」とか「西部の王者」とか考えて邦名を付けるのだから、当然のように名前以外の邦名を考える必要になる。今回も「バックと伝道師」を「ブラック・ライダー」とは、英語乍ら適切な題名を付けたものと感心したものだ。

 南北戦争直後、南部ルイジアナから西部へと自由を求める黒人移住者が白人の偏見や暴力と戦いながらも目的を達成するまでを描く西部劇。主人公バックをシドニー・ポアチエが扮し、監督迄兼ねている。伝道師ラザフォードは、バナナ・ボートで有名な歌手ハリー・ベラフォンテが扮し、無精ひげや歯を汚したりして、とてもベラフォンテとは思えなかった。バックの妻ルースにルビー・デー、白人無法者のリーダーにキャメロン・ミッチェル等が共演する。

 当時南北戦争後のアメリカは奴隷制度が廃止されたものの働き手を失った農場主は秘密結社や賞金稼ぎ等ならず者を雇い、黒人たちを連れ戻そうとする。その黒人たちを助けるのが、元北軍騎兵隊軍曹現道案内人のバックと伝道師と称するラザフォード。本来人種差別を訴える深刻な題材なのだろうが、黒人が善、白人が悪、それにインディアンも絡んで、黒人の味方をすることになるのだが、単純に黒白対決というだけでも面白い。黒人たちが貯め込んできたお金が盗まれると銀行強盗に転じたり、岩山での銃撃戦等アクション場面も豊富で楽しめる。バックと伝道師の漫才的掛け合いも愉快。最後は目的地に辿り着くのだが、一時カナダまで行くことまで考えたバックはその妻ルースに、こんなことまで言われていた。「こんな国は嫌。戦争をしても何も変わらなかった。大地に悪が浸み込んでいて、毒されている。カナダがダメなら海の果てへ歩いてでも行くわ。」当時の黒人差別が際立ったセリフだ。

エーガ愛好会 (224) インビクタス/負けざる者たち  (普通部OB 舩津於菟彦)

舞台は1994年の南アフリカ共和国。ネルソン・マンデラは反体制活動家として27年ものあいだ投獄されていたが、1990年に釈放されこの年に同国初の黒人大統領となった。それまで政府の主要ポストを占めていた白人官僚たちは、マンデラが報復的な人事をするのではないかと恐れ、一部の者達はそれを見越して荷物をまとめ始めていた。それに対しマンデラは、初登庁の日に職員たちを集めて「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカを作るために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」と呼びかけた。安堵した職員たちはマンデラのもとで働くこととなり、ボディーガードチームも予想に反して黒人と白人の混成チームとなった。

一方、南アフリカ代表のラグビーユニオンチーム「スプリングボクス」は当時低迷期にあり、黒人選手もわずか1人という状況だった。ラグビーはアパルトヘイトの象徴として、多数を占める黒人の国民のあいだでは非常に不人気なスポーツだった。政府内では「スプリングボクス」のチーム名やユニフォームの変更を求める意見が多数を占めており、一時はその方向で決まりかけていた。しかしマンデラはこのチームが南アフリカの白人と黒人の和解と団結の象徴になると考え、チーム名とユニフォームの存続を求め周囲を説得し、一方でチームの主将フランソワ・ピナールを茶会に招いて言葉を交わし、励ました。
その後スプリングボクスのメンバーたちは、マンデラの意向で貧困地区の黒人の子どもたちにラグビーの指導に赴く。当初それを不満に感じていたメンバー達も、一連の地道な活動により、国民のあいだでチームの人気が少しずつ高まり、自分たちの存在が国内のみならず世界的に注目されていることを知るに至った。
そしてスプリングボクスは、自国開催の1995年ラグビーワールドカップにおいて予想外の快進撃を見せ、ついに決勝進出を果たす。今や新生南アフリカの象徴として見られるようになったスプリングボクスは、全南アフリカ国民が見守る中、強豪ニュージーランド代表オールブラックスとの決勝戦に臨む。

ラグビーを背景に白人支配の南アフリカが民主主義の平等主義のネルソン・マンデラ大統領のもとにアパルトヘイト撤廃へと。白人と有色人種との融合を「invictus」の言葉の実行していく。
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela [xolíɬaɬa mandɛ̂ːla]、1918年7月18日 – 2013年12月5日)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士。第8代南アフリカ共和国大統領。非同盟諸国首脳会議事務総長(第20代)、南アフリカ共和国国民議会議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)、南アフリカ共産党中央委員を歴任した。
南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び1941年に学士号を取得した。また、その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、学士号を取得した。1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組むそしてマンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監された。26年の独房で収監中にも勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。また、アパルトヘイトの主要勢力であるアフリカーナーとの対話を予測しアフリカーンス語やラグビーの知識を身につけたのも獄中でのことだった。
1990年2月2日にデクラークは、ANCほか禁止されていた政治団体の活動許可とともにマンデラ釈放を約束し、2月11日にマンデラは釈放される。釈放後の第一声はケープタウンの市役所のバルコニーで行われ、10万人の聴衆が彼の釈放を祝った。1994年4月27日に南アフリカ史上初の全人種参加選挙が実施された。この選挙でANCは得票率62.65%、252議席を獲得して勝利し、マンデラは大統領に就任した。就任式ではヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の指導者が祈るなど全宗教の融和も図られた。
アパルトヘイト後初の自国開催の国際大会となるこの大会をマンデラは全力を挙げて支援した。ラグビー南アフリカ共和国代表(スプリングボクス)は当時ほとんどの選手が白人、特にアフリカーナーで占められており、またラグビー自体が白人のスポーツとして黒人など他人種には不人気であったが、マンデラは開幕戦を直接観戦し、またスプリングボクスを国民融和の象徴として支援し続けた。そのこともあってスプリングボクスは快進撃を続け、決勝戦で再びマンデラが観戦する中で初優勝を遂げた。
そんな歴史的な事をさらりとマンデラ大統領に扮するモーガン・フリーマン(Morgan Freeman、本名: Morgan Porterfield Freeman, Jr.、1937年6月1日 – )は、アメリカ合衆国テネシー州メンフィス出身の俳優、映画監督、ナレーター。2004年『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞を受賞。その他にも『ドライビング Miss デイジー』、『ショーシャンクの空に』、『セブン』などのヒット作に出演歴があり、その安定感と味のある演技によってアメリカのみならず世界各国で賞賛を浴びる実力派国際俳優が好演。
(編集子)関係ないけど、おれ、フリーマンと同い年。

 

南八つ山麓から   (グリンビラ総合管理HPより転載)

5月のブログでお知らせしましたが清里丘の公園の室内プールがリニューアルしこどもパラダイス広場となりました。先々週の日曜日に私が出かけていたので主人が子供たちを連れて行ってきました。

室内には様々な遊具やブロックなどがあり、子供たちは一日飽きずに(お昼ご飯も食べずに)遊んでいた様です。入場料は子供800円、大人850円でした。