23年夏 KWVOB会夏合宿
今年の夏合宿は北八ツ唐沢鉱泉集中で行われた。編集子は直前に膝の痛みが激しくなり残念ながら参加できなかった。久しぶりのファイアを楽しみにしていたのだが。本稿の写真は第二班参加の49年卒土肥君の提供による。以下、同君の感想。
夏合宿プランに参加しお蔭様で心地よく過ごせ有難う御座いました
爽やかな高原の風同様に皆さまとの爽やかな想い出を残せました。
またS54年卒は少数精鋭で夏CL始め春秋CLを務め熱い思いを
感じる事ができました。久しぶりのファイアーも瞼に焼き付きまし
岩見Lとは私が30歳頃に接点がありお互い人生の山谷を乗り越え
元気に再会し歓びを分かちあえたのはお金とか物では買えない
幸が有る事を改めて実感させて貰いました。
合宿チーフリーダの織戸君から:
おかげさまで参加者のみなさんに夏合宿を楽しんでいただけたかと
当初申込 123名 キャンセル16名 実参加者107名(うちBCに寄らず帰宅したかた3名)という盛況でした。
上記山行組の一人44安田耕太郎君から北八つらしい写真をもらった。編集子はパートナが子育てで動きにくかった数年、単独行を幾度か重ねたが、その中で一番気に入ったのがこの北八の樹林帯だった。
合宿解散の朝、恒例の全体集合写真も安田君提供のものを紹介する。
ガウディ展のこと (普通部OB 船津於菟彦)
「ガウディとサグラダ・ファミリア展」が9月10日まで東京国立
1988年8月にガウディの建築を是非とも観たくて訪れま
今回の展示以前にも日本人は何故かガウディ建築が好きで2003
そのことなどはこの「熟年少年探偵団2003年11月1日47号
この文章を書いてから20年。そして初めてバルセロナを訪れガウ
日本の外尾悦郎さんが作った石膏のモデル。1978年スペイン
こんな言葉を語っています。それが僕を39年もここに居させてい
アントニ・ガウディ(カタルーニャ語 :Antoni Gaudí i Cornet [ənˈtoni gəu̯ˈði i kuɾˈnɛt]、洗礼名:Antoni Plàcid Guillem Gaudí i Cornet、1852年6月25日 – 1926年6月10日)は、スペイン、カタルーニャ出身の建築家
「諸君、明日はもっといい物を作ろう」
自分がサグラダ・ファミリアの完成を見ることはできないことを知
(編集子)
急に現実的な疑問だけど、このプログラムの資金は誰が提供してるんだろうか?とわがパートナーが不審に思っています(小生もかな)。
雨飾登頂-100名山レースHS戦、両者ラストスパートの夏 (この暑いのによくやるよ!)
(51 齋藤)
暑い日が続きますがお元気ですか?私は先週26日にKWV51年卒同期で「雨飾山」に登ってきました。写真、左から左から保田実、斎藤邦彦、五十嵐隆、佐藤孝です。堀川さんが3日後の29日に登られていたんですね。
(38 堀川)
夏合宿と家内の施設の予約が上手くいかずやむなく夏合宿は不参加
“翻訳” の限界について
”英語教育“ についての紙上討論会の過程で翻訳、ということを話題にした。そのこともあって、決心をしてだいぶ以前に購入したまま積ん読になっていた、大佛次郎 帰郷 の英訳版を読むことにした。原作は高校時代に読み、その後、少なくとも2度は読んでいるので、部分的には原作の文章を覚えていたところもあり、はじめてのポケットブックを読むよりははるかに少ない時間で読了できた。
翻訳者の ブリュースター・ホロヴィッツ という人はニューヨーク大学で古典と東洋言語を専攻したあと、米国陸軍の言語研究プログラムで日本語を学んだらしい。 紹介文によるとextraordinary talents for capturing the overtones and implications of the Japanese language (日本語の持つ含意や言外の意味に特に詳しい)と書かれている。この翻訳は1954年(昭和29年、いみじくも小生が高校生になった年)に出されているので、米国人の日本についての感覚は今とはだいぶ違っただろうし、もし日本人が翻訳していたらどういうものになったか、興味が尽きない。現在では日本人でも留学とか業務の都合とかで外国生活経験の豊富な人たちが数多くいるので、こういう人が翻訳に当たったら、もっと違う感覚だったかもしれない。戦後まもなくのこともあるし、翻訳者が日本の現地での生活経験が多くないと思われるのは地名を英訳していることでもわかる(桜木町は Cherry Tree ,清水寺は Clean Water Temple という具合)。戦後間もなく、日本の実情がどの程度分かっていたのかも分からないし、プロの翻訳そのものをとにかくいうのは素人には不可能だ。いずれにせよ、当時の日本人に深い感銘を与えた作品が海外に紹介されたのは喜ばしいことだ。翻訳書の解説を読むと、日本の文学、というもの、そのものがまだ、希少なものだったことがよくわかり、現在の文学界の状況と比べて感慨ぶかい。ただ、何とか読み終えてみて、上記の解説にある (日本語の持つ含意や言外の意味に特に詳しい) という解説には疑問を持った。同時に翻訳、ということの難しさを改めて感じた。そのことを書く。
作品の内容はこうだ。帝国海軍の資金を横領したという疑いで国外追放された主人公が終戦を迎えて帰国する。幼くして別れたきりの娘に一目会うことができないか、というのが 帰郷 した目的であるが、海軍ではすでに海外で客死したと公表して自分の墓まであり、妻は再婚してしまっていて、尋ねることもできない。この事情を知って、一度は主人公を裏切るのだが、陰で彼の思いを遂げさせようと努力する女性がいる。かたや戦争の意味を理解せず見かけの自由にあこがれ、戦後の動乱期の混乱を縫って、裕福な彼女を利用することだけを考える大学生が彼女の歓心を買おうとつきまとう。戦後まもなくよくいたタイプの、米国崇拝、思い上がりの典型として描かれる人物だが、彼は彼女を 小母様 とよび、馬鹿丁寧な(男性的ではない)言葉遣いを連発する。サブキャラクタとして描かれる硬骨の画家も、この大学生に付きまとわれて迷惑し、ある時ついに爆発して大学生に詰め寄る部分がある。僕が違和感を持った個所を引用する。
・・・・“小父さまも古風な方なんですね”
”古風?“
と言いながら、画家はまるで別のことを、猛り立った様子で言い出した。
“そう、なれなれしく俺を小父さまと言うのは、よしてくれ。それだけは絶対によしてくれ”
この部分をホロヴィッツ氏はこう訳している。
・・・・”You’re a bit old-fashioned too, are’nt you, old man?”
“Old-fashoned ?” But it was’nt that broke Onozaki’s self-control. He was enraged.
“Stop calling me ‘old man’ You don’t know me that well. Don’t do it again, ever.”
この翻訳そのものに問題があるというのではもちろんないが、僕はホロヴィッツ氏が ”小父様“ を old man と字面通りに訳していることにひっかかった。
Old man が年配の男性一般をさすのだから、”小父様“ がそれにあたると同氏が判断されたのだろうということは理解できる。ただ映画などで聞く old man は日本語で言えば、親父、とか、よびかけで おっさん、というような感触がして、嫌味な大学生がなれなれしく使う敬語の乱用で 小父様 という語調とはかけはなれている。僕が好きな西部劇映画のひとつ ”誇り高き男“ で、主人公の保安官ロバート・ライアンに父親を殺された恨みを持つジェフリー・ハンターはそれを隠してライアンの助手になり、機会をとらえてライアンに銃を向ける。そして正確なセリフはおぼえていないのだが “俺のおやじが世話になったそうだな” といい、ここで事実を理解したライアンが、そうか、お前がアンダースンの息子か“ という場面がある。この時、ハンターは自分の親父、を my old man といい、ライアンは ….so yo’re Anderson’s boy” と答える。
この場面でハンターが歯ぎしりしながら言った my old man 、というセリフで、この単語はまさに男が自分の親父、という意味で使う場面なんだな、と思ったものだ(そう言えば、”荒野の決闘“ のラストシーンでフォンダが ”国の父“ という意味で、old man と言っていたような気がするがこれはDVD で確かめておこう)。
何が言いたいか、と言うと、この 帰郷 の一場面での翻訳で、”小父様“ を old man と訳した、ここだけは ”日本語の含意や言外の意味を知っている“ 人のミスだと思うのだ。つまり画家は古い、年寄りだ、と言われたことに腹を立てる以前に、この生意気な大学生の女性的な言い方を嫌悪していたからなのだ、ということは、普通の日本人には明白だから、ここでは大学生が意識的に使っている 小父様 という単語を 親父さん だの おっさん などの単語に置き換えることはしないだろう(そうはいっても、適切な表現を知っているわけではないのだが)。たぶん、ホロヴィッツ氏は公式?な日本語には堪能だったとしても、敬語の使い方、男性風の挙措発言が女性風とどうちがうか、まではご存じなかったのだろう(無理はないと思うが)と思う。米国人が英文を読んでも、至極当然な会話、と受け取るだろうが、その裏にある大学生の軽薄さとそういうものを嫌悪する、日本人の典型のような画家の心情を読み取ることは出来まい。
僕は以前から思っているのだが、かのノーベル賞にある”文学賞“、というカテゴリーの選考者はどうやって他国の文学作品を評価できるのだろうか。技術の分野ならば、絶対に誤解誤用のないような世界標準が決まっているのだから、貢献の度合いをただしく評価することができるだろう。しかし翻訳ひとつでその効果が左右される文学という分野で、たとえばノルウエイのひとが川端の 雪国 がもつ微妙な、日本人が(多分、だけが)持つ感覚や 反応を理解できるのだろうか。そう考えてみて、論理の大変な飛躍かも知れないが、この英訳本との遭遇は翻訳というものの持つ重みを改めて感じさせてくれた。英語教育論戦で書いたのだが、このギャップを埋められるのはやはり bilingual なひとなのだろうか。それとも bicultural の人なのだろうか。幸い、今回の論戦の火付け役の下村君が提示したような、ビジネスの場ならば、技術関連には及ばないが用語や統計についての客観的な叙述とか議論は可能だとは思うのだが。
貴船の涼風を満喫しました (大学クラスメート 飯田武昭)
連日39度に迫る猛暑ですが一泊二日で以前から予約していた京都・貴船の川床へ行って昨日帰りました。貴船の川床は以前勤務の会社行事として行ったことはありますが、家族での計画を狙っていたものの、台風襲来、コロナ禍で4年間行けずで、今回は漸く実現した小旅行でした。
1日目は下鴨神社の御手洗祭(みたらしまつり)なる、神水に脚まで浸かってローソクを灯して、短冊に願を掛ける夏至の頃の神事の参加し、その後は猛暑を避けて錦市場を散策し、寺町通りで昼食を摂り、夜は京都駅ビルレストラン街で夕食を摂りました。
2日目にメインイベントの貴船の川床へ昼食時間までに行くのに出町柳駅から叡山鉄道(エイデン)で貴船口まで乗車しました。貴船口からは料理旅館が車でピックアップしてくれ、早めに貴船に入り、貴船神社を参拝してから川床での料理を味わいました。さすがに涼しく、提灯と御簾(みす)越しに木漏れ日が差し込む床で味わう料理は格別の物でした。
(小田)涼しそうな写真をありがとうございました。我が家も先日のメールでもお伝えした、大阪服部緑地公園時代、
(船津)羨ましい旅ですね.涼気が写真から戴けました
トニー・ベネット 逝く (大学クラスメート 飯田武昭)
私の好きな歌手の一人トニー・ベネットが亡くなりました。
享年96歳ですから大往生ですかねえ。
代表曲は「霧のサンフランシスコ」(「想い出のサンフランシスコ
https://ozsons.jp/
「煙が目にしみる」(Smoke gets in your eyes)が、あのミュージカル「ショウボート」の作曲家のジェローム・
「霧のサンフランシスコ」の曲の想い出などを、早速に数人の方から頂き有難うございました。
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ジャイさん、私はニューヨーク駐在時代の当時は西海岸へはロスアンジェルスにオフィスがあったためもあり、ロスへ行く機会の方が多かったですが、シスコからパロ・アルト方面へ行く時には、やはりゴールデン・ゲイト・ブリッジを車で渡るのと、動いている間でも乗り降りする感じの坂のあるシスコの満員の路面電車に乗るのが楽しみだった気がします。グレン・キャンベルは名前しか知らないですが、ウエスタン・スタイルのギタリストとして大変な人気だったようですね。
(中司)霧のサンフランシスコ、忘れられない名曲ですね。この曲がヒットしていたちょうどその時期、ベイエリアへ初めての海外赴任をし、文字通り霧が流れるゴールデンゲートブリッジを走った時の興奮はまだ記憶にあります。また同じ時期、グレン・キャンベルのがデビューしたのも覚えています。
保屋野さん 、挙げられ歌手たち、私も皆それぞれに好きでした。アンディ・ウイリアムスでは「ムーン・リバー」は勿論ですが、次の3曲も外せない名曲・名演奏だと思っています。
・Raindrops Keep Fallin’ on My Head ・The Shadow of Your Smile ・Music to watch girls by:
(保屋野)トニー・ベネットは「霧の(想い出の)サンフランシスコ」ぐらいしか知りませんが、長生きしたのですね。
当時の同じジャンルでのレジェンドは、アンディー・ウイリアムズ、パット・ブーン、ペリー・コモ、ディーン・マーチン等思い浮かびますが、大物では、フランク・シナトラ、ビング・クロスビー、ナット・キング・コール、ルイ・アームストロングも居ましたね。もちろん、アメリカの男性歌手ツートップは、エルヴィスとマイケル・ジャクソンでしょうが・・・大ヒットとなると、ニール・セダカ(恋の片道切符)ポール・アンカ(ダイアナ)レイ・チャールズ(愛さずにいられない)も外せません。
小田さん
映画「阪急電車 片道15分の奇跡」を観られたとのことですが、この小説が出版された当時に、当地では話題になって読みましたが、あまり感心もしませんでした。その後に映画化され観ましたが、やはり宮本信子の役柄・演技力が良かったと私もおもいました。この映画の冒頭のシーン(特に予告編での冒頭シーン)で大写されるマンションが私の自宅マンションであることは、ちょっとした秘話です。
(小田)想い出のサンフランシスコ》は今でも、毎日どこかで聴かれている曲ですね。私のipodにはアンデイ·
(安田)トニー・ベネットは自身の音楽人生を振り返ってこう語ったそうです。「アーティストは情熱が必要だ、情熱がなければやめていただろう。では私はやめなかった。まだやめるには早いと思っている。私がアルバムに収めたいのは感情なんだ。それがなければ(CDは)ただのプラスティックン物体だ。魂を込めなければならないんだ」。
気持ちだけでも真似をして人生を歩みたいですが、なかなか難しいですね。訃報に接し、色々と思い出しました。
23年夏 日平会 (普通部OB 船津於菟彦)
慶応普通部昭和29年卒業有志の気楽な集まり、日平(日平)会はこの夏の定期昼食会を、建て替えのためこれで最後になる、日比谷帝国ホテル内 三田倶楽部で開催。出席は 本日ドタキャなど多くて 岡野・河野・田中新弥・田中宏幸・田村耕一郎・日高・高山・
日本の英語教育について (6)
馴染みのバー、聖蹟桜ヶ丘は アンノウン で、KWV仲間との気軽な会話から始まった議論が結構盛り上がって、いろいろな方の、違った視点からのご意見を伺うことが出来ありがたく感謝いたしたい。全くの偶然から英語が必要となる場に放り込まれ、それなりに英語に親しみ、英語社会に滞在する機会を得た経験から、自分の考えをここらあたりで書いておこうと思う。
僕のこの問題に関する基本的な姿勢は、日本の(というか日本人の) ”英語” (中国語以外のほかの言語でも同じようなことになると思うのだが)に対する態度というか向き合い方が基本的なところで間違っているのではないか、ということにある。江戸三百年の平和が破られ、欧州文化というものがこの国の機能の変革を迫り、間違えば我が国の植民地化の危機があると悟った時、欧米文化の取り込みには外国語の習得が絶対的に必要だった。江戸時代に培われた当時の知性ある指導者の、迅速かつ真摯な対応によって、きわめて短い期間に文化ギャップを埋めることに成功した。このあたりのことは今更言うまでもない。
その過程で、外国語(当時はまだ英語が世界語にはなっていなかったが)を学ぶ、という事は則、新しい文物を取り入れるために、絶対的に必要なことだった。これはほかの発展途上国においても全く同じだったはずだが、日本にはこのツールを使うことだけではなく、その背後にある先進的な思想や機構や技術をいわば翻訳し、今のことばでいえば ローカライズする基盤となる能力があった。維新の元勲と呼ばれる人たちの指導力ももちろんだが、福沢諭吉に代表される市井のひとびとの努力がこの国民運動を支えた。中でも前回書いたが、日本において外国語の翻訳、という分野が開拓されてこれを支えた。
此処までは誰も異論がないであろう史実だ。だが小生は、この後の過程で、そもそもは外国を知るためのツールにすぎない外国語(本論では英語)を習得するということが、その本筋からはなれて、教養(の一部)だと解釈されてしまうという過ちが起きたのだと思うのだ。もっとも歴史的な愚行として鹿鳴館の騒動をあげればよかろうが、外国語を解することがそのまま教養だ、という刷り込みが行われた。もちろん時代的背景として絶対的階級社会から抜け出せていないこの時期、外国語を学ぶことが出来るということは同時に権力や富も象徴した。このことが、何度も言うがツールにすぎない外国語(この場合英語)を知ることが教養なのだ=外国語ができるから偉いんだ、という短絡にいきついたのではないか。その結果、基本的な文脈とか日常会話などを飛び越えて、高校生あたりから英語の教科書にはだれが決めたか知らないが欧米の教養だ、としてシェークスピアだのハドソンだのポオなんかの文章の切れ端が教科書に登場するようになった。しかし例えば米国であっても、このような古典を読むのはハイスクールの上級からであり、当然その時点で母国語として英語を毎日駆使している。片や日本では熾烈な受験対策のために、英語教育を試験のツールとして枝葉末節にこだわり、たとえば受験生に愛用された赤尾の豆単(死語になったかな)をみれば carry coals to Newcastle なんてのが(アメリカ人仲間に使ってみて大笑いされた) 必須熟語、と登場するような羽目になった。米国で ”大学でシェイクスピアを読んだ” なんて言ったらそれだけで感心されるが、どっこい、現実の英語のコミュニケーションでは、出発点から間違った教育の結果としてハムレットは読めるがハンバーガーの注文もできない、というような滑稽な現象が起きる。これがまだ、多くの場で繰り返されていることは頂戴した多くの方々の体験談からも明らかだ。
もうひとつの重要な史実は連合国(実際には米国)軍による戦後統治の影響だ。新憲法が制定され、政治思想的には欧米諸国と同等の立場になったのは喜ばしいのだが、そこで基本的思考として要求される、平等 という一語が、ときとして前後を忘れて独り歩きをすることが多いと感じる。僕は欧州での生活体験はないが、アメリカ、それも中でも進歩的なカリフォルニアで過ごしてみて、この 平等、という単語の解釈が日本と米国とでは違うのだ、ということを悟った。つまり、我々は 平等 の意味を equal と解釈する。彼らは fair と解釈する、という事である。
日本国憲法に規定される基本的人権、その重要な要素である平等、という概念、これはまさに正しい大義である。しかし現実の場で、たとえば教育機会の平等、という時に僕らは正しい選択をしているだろうか。
ありていに言ってしまおう。この機会平等、という発想が、実は現在起きている英語教育問題の根底にあるのだ、と僕は考える。日本人はすべてが、同じ機会をあたえられなければならない、という、現実離れした発想がそれである。
この論議に参加していただいた各位をはじめとして、僕らは決して日本人を代表する立場というか位置にいる人間ではない。自分で定義するのもおかしいかもしれないが、僕らは経済的にはアパーミドルクラスの都市部居住者の一般的にはインテリ層と呼ばれる(くすぐったいが)グループに属する。この分類に入る人の数がどれだけか調べたことはないが、このグループに属する人間が日本人なのだ、というのはおこがましい話であろう。前稿に転載させていただいた赤阪氏の議論をはじめ、またそもそもこの論議の発端になった、”これからのグローバル時代にうんぬん” という発想はこのグループに属する人間だから共鳴するのであって、ほかの大多数の日本人の方々が等しく共有出来る感覚ではないのではないだろうか(もちろん観光地のお土産屋のおばさんがガイジン客相手をする機会が増えた、だから私たちもグローバルとやらなんやろか、というような感覚は多くなっただろうが)。こう考えていくと、”だから、英語は日本人にとって必要なのだ” という結論には僕は到底賛同できない。
英語というツールを取得することそれ自身が本当に日本人としての教養に不可欠なのだ、という事であれば話は違ってくるが、僕は日本人がひろく世界のことを知ることこそ教養であって、シェイクスピアの原文が読めればそれが教養なのではなく、ハムレットの嘆きを聞いて、人間の在り方や考え方を学ぶことが教養なのだと思うのだ。そのためにはその道のプロである翻訳者の力を借りてそれを学べばいいのである。いやそうではない、この社会は平等(つまり誰でも彼でも同じ機会を持たなければならない)を重んじるのだから、教養を得る権利は日本人すべてに等しく与えられなければならない、だから英語の普及水準が低いのは問題なのだ、という論議には僕はついていけない。逆説的に言えば、ほかの、流行のコトバでいえばグローバルサウスのいくつかの国が我が国より英語の水準(これ自身の定義がわからないが)が低くても、文化産業政治うんぬんにおいて、我が国のレベルのほうがはるかに高い、という現実を無視はできまい。
もちろん、日本人の中でも各界の指導層には英語(僕の勝手な定義によればソシアルレベル以上の実力)が必要とされる立場の人たちがおられ、ほかにも自分の職業あるいは天職としてこのレベルの英語が必要とされる多くの人がおられることは当然理解する。したがって、そういう立場の方に対する教育制度(繰り返すが equal ではなく fair な)がより fair な形、制度として速やかに再構築されるべきだと思う。非現実的な平等=equal 論議は捨てて、必要な人に必要な、つまり平等=fair という観点に立って、英語の教育制度が、さらには(住んでみてアメリカという社会に失望することも数多くあったが、絶対的に日本より進んでいる=万民にとって fair である、と感心したのは社会人になってからも広く大学や専門学校に立ち返ることが出来る社会の仕組みだと理解した)より広い視点での教育システムの在り方が再構築されるべきであろうと考える。つまり、英語教育制度は原理的に機会不平等であっていいはずのものなのだ。
議論の途中に、小学校からの英語教育が必要か、という論点があった。もちろん現代の小学生が毎日の生活において、特に好むと好まざるとにかかわらずIT社会がもたらした情報の氾濫で英語に遭遇する機会は我々の時代とは比較にならないほど深く、その意味での対応は早急に考えなければならないだろう。前々回の本稿で、小生の孫の経験を挙げた。早期から英語オンリーの環境に置かれた子供がソシアルレベルの英語を習得できた、という事実は存在する。しかし彼と同じ環境を日本的平等主義の下で作り出すのは、絶対的に不可能だし、いままでの議論から不要だと断言する。さらに一般化して、小学校から英語教育をすべし、という今の施策には反対である。その理由はすでに述べたように、藤原正彦氏のご意見に述べられている通りなのだが、さらにより現実的な問題として、小学生に正しい英語、しかも正しい発音、などを教えられる教師が、失礼だが今の教育担当者層の中に何人おられるというのか。小学校レベルの教育者には、複雑化する家庭問題だとか、IT普遍化への対応だとか(とくに現在かまびすしいAIの普及)、我々の時代よりもはるかに困難な課題に注力していただくことの方がはるかに重要でなのではないか。
私見としては、小学校レベルでは、アルファベットが大文字小文字とも完全に読み書きでき、自分や家族の名前とか住所とか正しくローマ字で書け、100くらいまでの数字が完全に理解でき、そして当然発生するであろういわば日本語化されてしまった英語単語の意味が分かり、さらに言えば、サバイバルレレベルのあいさつができる、その程度でいいのではないかと思うし、ここまでならば一般の教育従事者でも十分対応可能だろう。ただしいずれにせよ、この程度のことで正しい発音ができるようになる、などということは夢想であるとは思うが。僕は現在政府が進めている、というかいわゆる進歩的知識層の方々が唱える小学校からの英語教育、というのは、明治の鹿鳴館騒動に匹敵する歴史的愚挙だと信じている。そんな時間とカネがあるのなら、年齢にふさわしい情操教育とか日本史や文化のことをより深く教えるべきなのだ。
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明治の一時代を象徴する社交場「鹿鳴館」 明治16(1883)年、政府や貴族の社交場として建設された「鹿鳴館(ろくめいかん)」。 現在は、建物があった帝国ホテルと日比谷U-1ビルの境目に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれています。
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ここまで書いてくる過程で、本騒動(?)の起動者である下村君や関谷君、海外経験の長い飯田君、児井君などから各自のご意見を頂戴した。また、別稿で転載させていただいた赤阪氏からは現在進行中の教育プロセスやツールについての情報を頂戴することが出来た。
続きはこの猛暑(むしろ狂暑か?)が去った後、振出しへもどって、”アンノウン” ご自慢のマティーニをシェイク(ジェイムズ・ボンドはどっちだったか忘れたが)してもらいながらになるだろうか。涼風にはまだ間があるようだが。
日光白根へ行ってきました (42 保屋野伸)
KWVの同期3人と鳥海山に登る予定でしたが、秋田の大雨のため急遽「日光白根山」に代え、昨日登りました。
ロープウエイ終点から、標高差600m弱ということで、軽く考えていましたが、登りは、上部の(歩きづらい)砂礫地で、下りは(急な)岩尾根で、結構苦戦しました。なお、昨日は3連休で家族連れも多く、山頂の写真撮影(添付)は15分待ちという混雑ぶりでした。
昨日は老神温泉「伊東園・山楽荘」(8500円)に泊まり、今日、「沼田城跡公園」に寄って帰りました。幸い熱中症にもかからず、ラッキーな山旅でした。
(編集子)この連休、娘夫婦と4人、小淵沢のセカンドハウスでのんびりしてきた。ついた日は21度、とびっくりするくらい涼しかったが翌日はほぼ東京なみだった。21年にこの地を選んだ時、地元の人はなんたってエアコンがいりませんからねえ、と言っていたが、彼の経営するレストランももうエアコンなしで営業どころではなくなったようだ。
(河瀬)元気なKWV同期3人、いい写真ですね。菅谷君も元気で何より。