近場で春を感じてきました (小学校クラスメート 市橋由美子)
元気にちかばの散歩 先日は板橋さんと目黒自然教育園に行ってきました。さくらはるの
(編集子)小生は満州から引き揚げの翌年昭和22年に大田区立赤松小学校に入学した。当時は戦後の教育制度も混乱していて、先生方も今では想像できないご苦労があったはずだが、小生の入ったクラス担任五十嵐智先生の情熱的指導によって今日の僕らがあると思っていて、人数も会う機会も減りはしたが依然、長い付き合いをさせてもらっている。市橋君は旧姓小林、通称コバユミ、長身で我が2組の、今風に言えばマドンナ的存在だった。五十嵐先生は九十歳後半だがまだ矍鑠としておられる(先生と小生がアメリカからお送りしたグレープフルーツの奇蹟については2年ほど前、本稿でご報告した。今先生はいつ花が咲くか、と心待ちにしておられるということである。
スイスー銃所有率が極めて高いのになぜ乱射事件が起きないのか (HPOB 菅井康二)
現時点で欧州旅行を考える人に (普通部OB 田村耕一郎)
友人の赤阪清隆氏から届いた情報の一部を欧州旅行を考えておられる方々へのご参考までにご紹介する。
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3月22日から昨日4月5日までの二週間、デンマークとフランスを訪問してまいりました。デンマークは、会議に出るための出張、フランスは私的なパリ旅行でした。今この時期に欧州を訪問したらどういうことだったかを事実に即して詳しくお伝えするのは、そろそろ海外旅行を再開したいと思われる方にはご参考になると思います。 まず、ウクライナ危機の影響です。予約済みのヘルシンキ経由デンマーク行きフィンランド航空は、ロシアの上空を通過できなくなったので、キャンセルになりました。フィンランド航空の手配でJAL便に変更になって、ロンドンまでは出発日前に確保できたのですが、それから先のフライトは、私が羽田空港に着いてから、JALのカウンターの人たちが懸命に探してくれて、英国航空が確保できました。フィンランド航空の帰国便もヘルシンキ以降はキャンセルになり、予定より一日遅れのJAL便に変更になりました。 羽田出発の際のJALカウンターでは、パスポートとワクチン接種証明(3回)を見せただけで、追加的にPCR検査陰性証明は必要ありませんでした。 JAL便は、羽田から北東方向に進み、アンカレッジ、北極圏、グリーンランド、アイスランド上空を飛ぶこと15時間40分で、ロンドンヒースロー空港に着きました。機内では、マスク着用が義務付けられましたが、ヒースロー空港では、マスクをしている人は少数で、英国人とおぼしき人はマスクをしていませんでした。コペンハーゲン行きの英国航空は、びっしり満員でしたが、マスク着用は必要ありませんでした。 コペンハーゲン空港では、ウクライナの婦人と小さな子供が泣きながら抱き合っている映像が、繰り返し繰り返し大きなビデオに写されて、寄付の呼びかけが行われていました。デンマークでも、その後のフランスでも、テレビのニュースはウクライナの惨状を伝えるものが大半でした。デンマークの公の建物には、ウクライナの国旗を掲げているところがたくさんありました。両国とも、市民がロシアのウクライナ侵略に憤ると同時に、ウクライナとの連帯を示そうとしている様子がうかがえました。 コペンハーゲンの海岸沿いのホテルに泊まったのですが、ホテル内でも市内でも、マスクをしている人は、まったくいませんでした。春の日差しを浴びて、川沿いの小綺麗なレストランのテラスで、オープンサンドイッチなどの食事を楽しむ人々がいっぱいでした。マスクをしていて奇異な目で見られることはありませんでしたが、こちらはあまりに多数に無勢なものですから、日本とは逆に、マスクを外す同調圧力を無意識に感じるほどでした。マスクを外すと、「私も皆さんと一緒」という友愛感のような感じがするのです。危ない、危ないとは知りつつも、ついマスクを外したくなり、現に気がついたら外していたことがしばしばありました。 デンマークの人口は、583万人で、そのうちコロナ感染者数は、なんと5割以上の300万人強。デンマーク人の友人によると、「もう家族も、友人も、誰もが感染 したし、たいがい重症化しないから、インフルエンザ並みの感じになっている」とのことでした。マスクをしていないタクシーの運転手に、「コロナに感染したか?」と聞いたら、「もう二度もかかったよ、アハハ」という屈託のない返事でした。 しかし、そうはいっても、我ら日本からやってきた短期出張者にとっては、感染したら大変です。帰国できなくなります。マスクをすべきか、外すべきか、ハムレットよろしく悩む毎日でした。 この会議の後、パリに、ルフトハンザ航空に乗って、ミュンヘン経由で行きました。搭乗の際にワクチン接種証明を見せただけでしたが、機内では、マスク着用が義務づけられました。すべてEU加盟国なので、パリ入国手続きは、まったく何もありませんでした。 バリに着いたのは3月26日でしたが、街に入ると、マスクをかけている人はごく少数に見えました。3月14日に市内でのマスク着用義務や、レストランなどでのワクチンパスの提示が解除されたばかり(ただし、地下鉄など公共交通機関ではなおマスク着用が義務付け)の時期にあたりました。気温が20度近くにも上がるうららかな春日和で、パリの人々は開放感に浸っているような印象を受けました。 しかし、インターネットで調べると、フランスのコロナ禍は、まだまだ収束するには程遠い状況でした。フランスの人口は、約6700万人で、そのうちコロナ感染者数は、2440万人といいますから、4割近くに上っていました。パリ到着当初では、フランス全土で一日あたり平均12万人もが感染している状況でした。再び感染者が増えつつあり、私の最後の滞在日となった3月31日は、新たな感染者数が17万人にまで増えていました。 それでも、レストランやカフェなどを見る限り、マスクをして入る客は私ぐらいしかなく、雰囲気としては昔のパリに戻った様子を見せていましたが明らかに、パリを訪れる外国人観光客の数は、以前より減少したままの模様でした。セーヌ川を巡回する観光船バトームシュにも、空いた席が目立っていました。再びルフトハンザ航空でデンマークに戻りました。搭乗には、パスポートとワクチン接種証明の提示が求められただけでしたが、機内ではマスク着用が義務づけられました。コペンハーゲン空港では、入国手続きは一切ありませんでした。フィンランド航空のフライトがキャンセルされたこともあって、コペンハーゲンの街に再び数日滞在したのですが、やはり、見事に誰もマスクをしていませんでした。今回は、この大きな街で、たぶん私ひとりだけがマスク!それでも、PCR検査を控えておりましたから、意地でもマスクを外しませんでした。 日本帰国にあたっては、出発前72時間以内のPCR検査の陰性証明書、誓約書の提出、スマートフォンの携行と必要なアプリの登録、そして質問書への回答という煩わしい手続きが必要でした。ただし、今年の3月3日から、3回のワクチン接種証明を持っている日本人には、日本入国の際の検査で陰性であれば、自主待機はもとめられなくなり、これは嬉しいニュースでした。なにせ、昨年9月の欧州からの帰国時には、2週間もの自主隔離が必要だったのですから。 しかし、まだ残っているPCR検査というのは、不安とストレスがたまる、なんとも嫌な手続きでした。コペンハーゲン空港にあるメディカルセンターで、検査を受けたのですが、検査結果が知らされるまでの2時間は長かったですね。なにせ、感染者がやたらと多い国々で、しかもマスクをしていない人たちとの密な空間をくぐり抜けてきたわけですから、3回のワクチン接種済みとはいえ、感染してもまったく不思議ではありませんでした。 同メディカルセンターでは、厚労省の様式に従って検査結果を出してくれて、2時間待ちだと約3万3,000円もしました。時間はありましたので、もっと待ち時間が長くて安い検査結果の入手の手もあったのですが、一刻も早く結果を知りたいと焦る気持ちがありました(昨年夏フランクフルトで、24時間待ちの、安価な検査結果にした時の長く不安だった経験を思い出しました)。陽性の結果が出たら帰国便には乗せてもらえません。陰性になるまでに何日ぐらいかかるのか、どこかに「隔離」されるのかどうか、その場合はどこで隔離されるのかなど、まったく見当がつかないものですから、メディカルセンターの係の人に聞きましたら、「陽性の場合はドクターから指示があります」とだけのつれない返事。不安は、否が応でもつのりますよね。 デンマークも、フランスも、ワクチン接種証明さえあれば入国可能なのに、日本の水際対策はなお厳しいですね。以上のような精神的圧力を日本人にもかけているのを、厚労省の皆さんは良く理解されているのでしょうかね? デンマークでもフランスでも外国人観光客が徐々に増えつつありましたが、日本ではまだ一切認められていません。そろそろ、わが外務省も、せめてG7先進国並みにするよう、水際対策の一層の緩和に向けて頑張ってもらいたいと願うばかりです。 今回の欧州旅行を振り返りますと、「まだ怖いな」というのが本音です。欧州各地では、コロナ感染が収束する気配を見せていないのに、重症化する人が少なくて、「インフルエンザみたいなものになった」として、行動制限の緩和が急速に進んでいます。これは、現地に住む人にとっては十分理にかなった措置と思われますが、短期間訪問する外国人にとっては、コロナ感染の危険性がなお残っている状況と言えます。私のように、定年退職者で、日本に帰国しても直ぐやらなければならない急務がない、「気ままな」酔狂人は別ですが、日本に仕事があったり、家族や家のことなど心配事を抱えて予定通り帰国しなくてはならないような人は、今少しの間、リスクの残る欧州観光旅行は慎重に考えられた方が良いのではないかと、老婆心ながら申しあげます。 特に、日本政府が、前述のPCR検査陰性証明を帰国の際の条件にしている間は、気をつけられた方が良いですね。インフルエンザとは違って、陰性証明が無いと帰国便に乗せてもらえないのですから。 (河瀬)赤坂氏の欧州旅行の話は大変参考になりました。欧州へはウクライナ戦争で昔のようにアンカレッジ経由になった( これで日本は再び世界の僻地となったので、
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追悼:ジャック・ヒギンズ
今朝の読売はジャック・ヒギンズが亡くなったと報じた。享年92歳、冥福を祈りたい。
仕事を辞めた後、きっかけは何だったか思い出せないのだが、鷲は舞い降りた を見つけて読み始め、ほぼ1年の間、新刊と言わずブックオフと言わず探しまくってほぼ20冊、ヒギンズ節に熱中した。その後、どうせ読むなら原本を読んでみるか、と Eagle has landed を苦労して読んだのが今も続けているポケットブックハンティングだ。その手始めになった鷲の原本はまさに手あかにまみれ、第一ページから辞書と首っ引きだった苦闘のあとをのこして赤線だらけである。
“鷲は舞い降りた” と、ァリステア・マクリーンの 女王陛下のユリシーズ号 は第二次大戦を背景とした小説の白眉だと思っていて、いつか来ることではあったが彼の逝去はやはり心に染みる。
小生にとっては、この欄でも書いたが、違うジャンルとはいえアルファベットシリーズ26冊の快挙を目前になくなったスー・グラフトンの急逝とともに悲報である。ただヒギンズは有名な多作家であるが、正直、ここ数年の新著にはみるべきものもなく、あきらかに衰えを感じていた。だからおすすめのリストには超売れっ子作家になるまえの、いわば中期の作品しかあげない。
”鷲” とならんでヒギンズの真骨頂だと思っている作品には、第二次大戦秘話、という分野では 狐たちの夜(Night of the fox), どちらかといえば海洋冒険ものに近い 脱出航路 (Storm Warning)、それと僕の最も好きな作品として 廃墟の東 (East of desolation) なんかがある。ブックオフにはよく見かけるヒギンズもの、を試してみることをお勧めする次第。いずにせよ、また時代は一つ、冷酷に進んだ感じがする。
エーガ愛好会 (135) 折れた矢 (34 小泉幾多郎)
この映画こそインディアンを野蛮人としてではなく、心の痛みを感
この作品でアカデミー賞に酋長コチーズに扮したジェフ・チャンドラーが助
物語りは1870年、アリゾナは白人とアパッチ族との間に流血のす
アカデミー賞にノミネートされただけにカラー撮影は山
粋無垢
(編集子)“折れた矢” Broken Arrow にはほかの意味がある。ウイキペディアから転載する。
ブロークンアローは核兵器の紛失、盗難、または不慮の爆発や投下、発射、それらに関連する事故や事件を表す言葉だ。核兵器にそんな事が絶対にあってはいけないし、そんな事件聞いたことが無いと思うかもしれない、しかし、戦後の米ソの冷戦と核開発競争、イギリスやフランス、中国、インド、パキスタンと各国が核兵器の開発、配備を進めた1950~1990年代には「ブロークンアロー」という言葉がしばしば飛び交っていたのだ。冷戦期には米ソ連共に自国の艦船、潜水艦、爆撃機に24時間核兵器を搭載し、いつでも攻撃できる臨戦態勢を敷いていた。多くの核兵器が配備され世界中に散らばる中で事故や過失は決して少なく無く、1950年代以降に少なくとも32件の「ブロークンアロー」が起きている。
この意味での“折れた矢”がテーマになったのが1966年の Broken Arrow, 日本題名 ”ブロークンアロー” として公開された映画である。ジョン・トラボルタが悪役、なかなかスリルのある作品だった。トラボルタは憎らしい笑いを常に浮かべていて、本稿でも紹介した、ウインチェスタ銃73 のダン・デュリエを彷彿させる好演だった。
閑のあるまま―”三大”なんとか、の話(1)
ここのところ、メル友グループの間で、”三奇人” とかなんとか、よくある ”三大XXX” で冗談交じりの会話が弾みだした。この話題に加わる前に、”そういえばなんで 三大 という事が意味を持つのか?”という疑問を持った。そして仲間内でいろいろな場での 三大 を集めてみたら面白いか、と思い立って提案してみたら結構の数の投稿があったので纏めてみようと思う。
博報堂行動デザイン研究所が、人間が無意識にとる行動のきっかけとなる刺激の中で、数字の大きさが果たす役割はなんだろうか、というテーマでの研究で、特に 3 という数字が持つ意味について触れている。人間の行動、のなかで特にコミュニケーションに着目すると、情報の送り手、受け手双方で3項目に絞ることが負荷が少ないと感じ、4,5、となると双方ともに多すぎると感じるものだそうだ。事実、ことわざや故事が3という数に限るのは日本だけでなく世界共通の現象で、ほぼすべての文化において、3という数字は意味を持つ。ヨーロッパにおいて中世から 3 は ”調和・安定・総合・均整“ をあらわすものとされていたという。たとえば人類三大発明として活版印刷・火薬・羅針盤を上げたり、三大珍味はトリュフにキャビアにフォアグラを上げる、といった具合である。ただその源はやはり欧州にあり、やはり”世界“が欧州を意味している(だからアメリカは新世界なのだ)のは事実であろう。因みにそのアメリカ人が言う ”世界”三大なんとか、はすべてアメリカのものだというおちがつく。
その欧州をはじめとしてここ30年くらいの間、有名なノーキョー旅行を皮切りに日本人の足跡は地球上いたるところに残るようになってきた。そのあたりから話を始めてみよう。
本ブログでもたびたび紹介しているが、”エーガ愛好会“というメル友グループがある。この中で健筆をふるっているひとり小田さんは編集子と同じ職場にいた人だが、退職後は旅行好きの夫君とともに文字通り世界を駆け巡っている一人である。彼女があまたの場所から特に選んだ3つ、は
1.カナディアンロッキーのマウント・アシ二ボイン 2.アメリカ、コロラド州の先住民族遺跡メサ・ヴェルデ 3.イギリスで言えば緑多くシックなコッツウォルズ
だという。小生もロッキーのあたりには何度も足を運んだが、ありきたりのポイントしか回っていない。小田さんの夫君は早稲田の山屋のひとりだから、そのせいか山よりの場所が多いようだ。
KWV同期の吉牟田夫人は歩くよりビール、の亭主を尻目に世界遺産巡りのベテランであるが、彼女のご推薦は
1,想像を絶したスケールの大きさ、南米イグアスの滝 2.ボリビアのウユニ塩湖 3.アイスランドの ”地球の割れ目“
である。さらにシチュエーションを設定すればアフリカはザンベジ河の夕陽、だという。夕陽といえば釧路かワイキキくらいしか浮かばない小生とはだいぶ違うようだ。
この項の最後にパリ在住の平井愛子さんからのメモを転載する。 旅行会社のプログラムにはまずないだろう、現地生活の長い彼女のおすすめ三つ、は下記の通りだ。
1.モン・サン・ミッシェルへ、ヘリコプタ-で行く:パリ15区にあるへリポ-トから車だと片道4,5時間かかる所を1時間半で着き、途中の景色が最高。 2.シャンパ-ニュのぶどう畑ドライブ:シャンパ-ニュの有名シャンパン会社Mumの見学の後、美味しいシャンパン昼食を味わってから。 3.ドルド-ニュ川の川下り:フランスの南西部ドルド-ニュには素晴らしい自然の山岳地帯で山あり谷あり河あり世界遺産があちこちに散らばる。ラ・ロック・ガジャックという美しい断崖絶壁に沿った、フランスの最も美しい村のひとつで、滔々と流れるドルド-ニュ川をギャバ-ルと呼ばれるノスタルジックな船に乗って川下りをすると鷺が目の前を飛んでくれたりする素晴らしい自然です。
フランスという場所自体、今まで無縁の小生は、もしできるならばノルマンディ上陸の焦点だったオマハビーチへ行ってみたいというくらいのことしかないが、フランスが好きな方には有益なアドバイスになるだろう。
このほか、それぞれにおススメは千差万別だろうが、期待していったのにがっかりした、という経験をお持ちの方も少なくあるまい。世界を股にかけた経験者安田耕太郎君の三大がっかりポイント、は
1.シンガポールのマーライオン 2.ブリュッセルの小便小僧 3.コペンハーゲンの人魚像
だそうだ。小生がライン河下りを企画したとき、久米行子さんから、”ローレライ、なんて三大がっかりの一つですから期待しないで“ と言われた。ま、そういうもんでもなかろう、とまさに夕陽に映えるデッキでビールの満を引いて待っていたがやはりそうだった、という苦い経験もある。彼女のあと二つは何だったかはまだ聞いていない。ついでに日本での三大がっかり、は安田君の曰く
1.はりまや橋 2.札幌時計台 3.長崎オランダ坂
だという。小生も長崎オランダ坂のがっかりには同感。長崎の印象がとてもいいだけにもう少しなんかあったんじゃねえか感がぬぐえない。よおるのまあるやまあ、と前川清の絶唱を思い出しながらさまよった夜の記憶だけが失望だった。坂本龍馬の旧跡、海援隊の本拠だとか、まだ残っている血痕など、長崎ならではの史跡に感動しただけに残念だった。
少し観点はちがうが飯田武昭君は都会の中の三大田舎、という面白い観察をしている。ご存じの方も多いかもしれないが(36年卒山室修君はここを訪れてアイデアを得、鎌倉にアーミッシュレストランを開業)、ペンシルヴァニアにある、電気もガスもなかった時代そのままの生活が残っている地域からの連想だそうだ。
1.大阪市北区にある中崎町。1974年に地下鉄サービスができるまでいわば陸の孤島だった地域で、現在昭和レトロ風情が残っていると評判。 2.東京の池上線沿線地域 3.奈良と大阪県境に作られた京阪奈学研都市
さて、このあたりにお住いの方々、いかがお考えだろうか。次回はこの”旅”から連想してグルメの話題を探ってみたい。まだ2つの投稿しかないので、各位のヒミツ情報の投稿をお待ちする。
花まつりと甘茶-祐天寺へ行ってきました (普通部OB 舩津於菟彦)
お釈迦様は、母親である摩耶夫人(マーヤー)がルンビニーの花園
お釈迦様の誕生日は紀元前463年の4月8日という説が一般的に
甘茶には「政治を行って平和な世が訪れると、甘い露が降る」といす。小甘茶は、小さい花のた
小甘茶の葉は苦いのですが、発酵させると砂糖の100〜1,00
祐天寺(ゆうてんじ)は、東京都目黒区中目黒五丁目にある浄土宗
祐天寺境内(けいだい)の鐘楼堂(しょうろうどう)にあり、高さ
梵鐘に刻まれた銘文と祐天寺に伝わる史料によると、この梵鐘は6
三国峠と居眠り磐根
たまたまであった山本耕史のテレビ番組がきっかけで、すでにご存じ、あるいは全巻読了という方もおられるようだが、云わば周回遅れで文春文庫にして51巻、居眠り磐根を読み始めた。読んでみろ、と背中を押した(本人はその気はなかったらしいが)のは中学時代からの友人菅原勲である。小生などの及ばぬ大の読書家があっさりとおめえ、51冊なんて掛かり切れば三日三晩で読めらあ、というセリフにかっとなって第一巻を買ったのが3月始めごろ。つつじが丘駅ビル京王電鉄御用達啓文堂で毎回2冊ずつ買ってきて、本日、17巻 紅椿ノ谷 を読了、ちょうど三分の一になる勘定だ。まだまだ先だろうと構えていたおこんとの成り行きが急展開し始めたのが16巻、これからどうなる、と思っている矢先, この巻でなんと二人が法師温泉に出かけるということになった。先般、浅野三郎君からの情報で新三国トンネルのことを書いたが、なんとタイムリーなことかという気持ちである。
その道行きで、三国街道へ入っていくあたり、永井だとか牧だとか懐かしい地名が次々と出てくる。また、”この界隈は月夜野と称し、戦国時代にはうんぬん” とか、猿ヶ京に関所があったというのはうっかりして知らなかったが、(ははあ、この辺かあ)という興味が湧く。 北牧から中山峠を越えるという一節があるが中山峠というのはどのあたりだろうか。塩原太助の話を引いているので、あああのあたりかあ、とは思うのだが、書かれているような難路があったとは(もちろん自動車道と違うのは当たり前だが)思えない。 ”三国峠への登り口に差しかかり…・・・・此方法師の湯 という木札を見つけた” などとあるが、今の分岐のどのあたりか、などという詮索もしたくなるし、法師につくと当代の主理左衛門、というのが出迎えるがこの人は我々がご厄介になった、あの温厚な宿主、岡村さんのご先祖だったのだろうか。
風呂の具合は今とあまり変わらないようだが、数日して二人で三国峠へ上がる場面があって、”磐根とおこんが三国峠の頂に到着したのは四つ(午前十時)”とあり、そこで会話の中に ”この峠が、信濃と越後と上野の国境なの”とおこんが問いかけると ”白砂山という六千五百尺余りの西方の山じゃそうな。だが、古から三国の境はこの峠を指したという” と磐根クンは答えている。白砂山、なんて出てきたことに感激するかたわら、この会話、少しおかしくないか?など、突っついてみたり、ほかの巻ではなかった興味が湧いた。
このシリーズ、著者の博識というか下調べの凄さというか、当時の江戸の町並みの、とくに地理感覚に感嘆する。磐根が食べる献立もしきりに出てくるが、なるほど、この時代からあるメニューなんだ、と亡母が作ってくれた味を思い出したりしてえらく懐かしい。また当時、江戸下町が河川に恵まれ、橋がいわば住所標識みたいな存在だったことに驚かされる。その日本橋をコンクリートの化け物に変えてしまったのはやはり歴史のうえでは許しがたい暴挙だったのではないか、と思ったりしている。
だけど、テレビのおこん、中越典子、ってきれいだなあ。
エーガ愛好会 (134) ワーロック (34 小泉幾多郎)
題名ワーロックは西部の町で、無法者トム・ドレーク(エイブ・マ
この三人の名優が丁々発止とやり合うのが映画の本筋だが
なるので省略するが、この三人に絡む女優陣は、フォンダの勇気にフォンダとクインには敵対
どうやら監督エドワード・ドミトリクは「荒野の決闘」等のOK牧足にハンディを持つ男、フォンダだけが、それを馬鹿にしな
納得していること、最後決闘でウイドマークよりも早く抜いた銃を投げ捨て
(編集子)なるほど、ドクター小泉の西部劇にはあまり例を見ないストーリーの運びや心理面の分析、納得。エドワード・ドミトリクの作品では ”ケイン号の反乱” しか見ていない。しかしこのフィルムは重厚なつくりで原作を読んだ時よりも印象が深い。メル・ファーラーは後半の裁判部分にしか出てこないが、小泉解説を読んでみて、特殊な環境に置かれた人間の焦りというか常人とは違った、抑制された怒りが現れた演技だった。赤狩りの経験が転向者という形に終わったのは知らなかった。このあたりがやはり作風ににじみ出るのだろうか。 難しい議論はともかく、小生にとってはフォンダよりウイドマークより、あこがれのドロシー・マローンが出ているだけで満足の一作。