小学生の頃から「科学少年」で子供の科学とか「科学朝日」
異星人が、30分だけ電気などをストップし、
そんなバカげた話と相手にもしなかった校長が役場に出かけ、
新聞にも記事が出る。(だが村人に新聞購読者はいない)
空気がなくなるのは5分間らしい。そのあと、
校庭に生徒を集め、さっそく始めた訓練は、
空気がなくなることを子たちが親に話し、
そして、その日が来た。集まって南無妙法蓮華経を唱える人々。
さて、このあと、どうなりますやら。
旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
小学生の頃から「科学少年」で子供の科学とか「科学朝日」
友人から入手した情報です。ご参考まで。
世界保健機関(WHO)は21日、欧州などで感染者が増えている「サル痘」について、感染例が多く確認されてきた国や地域以外でも監視体制を強化するに伴い、今後感染者数が増加するとの見方を示した。サル痘に感染したサルの皮膚組織を50倍に拡大したもの(CDC/Handout via REUTERS)
[ロンドン 21日 ロイター] – 世界保健機関(WHO)は21日、欧州などで感染者が増えている「サル痘」について、感染例が多く確認されてきた国や地域以外でも監視体制を強化するに伴い、今後感染者数が増加するとの見方を示した。
サル痘は西アフリカや中央アフリカの一部で発生してきたが、WHOによると、12日時点でこうした地域以外の12カ国で92人の感染が確認された。
WHOは「これまでの情報から、症状のある人との濃厚接触でヒトからヒトへの感染が起きていることが示されている」と指摘。感染拡大の抑制に向けた指針を数日中に示すとした。サル痘は通常、症状は重くなく、濃厚接触で広がるため隔離や衛生管理によって比較的拡大を抑制しやすいとされる。
色々な意味で典型的な西部劇から見て異色と言える2作品についての感想。
アパルーサの決闘
西部劇が殆んど作られなくなった2008年作だが、どうも日本でた2作目で制作、脚本も主演もしている。原作はハードボイルド作家ロバ
ンバー
概略内容を追うと、ニューメキシコの町アパルーサは、悪役ジェレ
れ、冒頭から保安官とその助手3人が殺され、町の有力者は凄腕のリスとその相棒モーテンセンを新保安官に任命し、ならず者たちと対抗
テンセンが
夕日に向かって西へ行くモーテンセンのセ
制作2008年,西部劇の伝統を無心に謳い上げた時代は終わった
牛泥棒
正義対悪という典型的な図式の西部劇ではなく、正義とは何かを問における私刑的な誹謗中傷に通ずる。リンチは集団の持つ恐ろしさ、考えをを過
ヘンリー・フォンダ(ドナルド・マーティン)と連れのハリー・モ
最後に感じたこと。冒頭と最後、フォンダと連れのモーガンが町へ7人の中には入るが、強烈な対応策がない。過去付き合いのあった女性メアリ
(保屋野)私刑(リンチ)をテーマにした、ユニーク
感想は、小泉さんと全く同じで、ヘンリー・フォンダの出番が全く
ただ、当時、このような冤罪による「リンチ」は多かったのでしょ
(小川)1943年作品、小泉兄の名解説でロシアの侵攻、SNSの現代等
(小泉)言われる通り、冒頭と最後に犬が横断す
いう集団ヒステリーに対し警鐘を鳴らしているが、冒頭二人が町に
昭和29年(1954年)に慶應義塾普通部を卒業した仲間は卒業後も各クラスごとの集まりをそれぞれにやってきたが、卒業50周年に日吉の普通部校舎で同期会を開催、その後節目ごとに会合を重ねてきた。この同期のうち、B組にいた日高健郎の行きつけの店だった日平亭の常連が不定期だが同店で会合を持ち続けてきた
が、その後は東京三田俱楽部で集まるようになっていた。コロナ騒動でしばらく会う機会もなかったが、久しぶりに集結した。発足以来、残念だがメンバーの中にも鬼籍に入ったものもあり、終息近いとはいえコロナの恐れもあり、今回は11名の参加にとどまった。発足のきっかけになった日平亭とは関係なく、昔懐かしい連中
が残り少ない時間を共有するためにこの会を拡大しようという機運もある。参加希望の方のご連絡をお待ちする。
今回の参加者は岡野、船津、高山、飯泉、田中(ゴンべ)、岩瀬、田村(耕一郎)、河野、日高、佐藤(光男)、中司。
昨日、読売新聞の ”地球を読む“ にフランシス・フクヤマが書いている一文に興味を覚えた。フクヤマはかつて ”歴史の終わり“ という本を書いた。ウイキペディアはこの本について次のように解説している。
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「歴史の終わり」とは、国際社会において民主主義と自由経済が最終的に勝利し、それからは社会制度の発展が終結し、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという仮説である。民主政治が政治体制の最終形態であり、安定した政治体制が構築されるため、政治体制を破壊するほどの戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。そのため、この状況を「歴史の終わり」と呼ぶ。
フクヤマは、ソビエト連邦の崩壊を以って「歴史は終わった」と主張した。しかし、これは、ソビエト連邦が崩壊し直ちに世界中が民主化され、世界中から戦争やテロが廃絶されるという意味の、楽天的な世界平和論や政治安定論ではない。ソビエト連邦の崩壊によって、「最良の政治体制は何か」「全人類に普遍的な政治体制は何か」「恒久的な政治体制は存在するのか」という社会科学的論争やイデオロギー論争に最終的な決着がついたことを意味している。 ************************************
今回の投稿は、現在かまびすしくなった、”世界の民主主義のレベルは低下していて、特に米国とインドでそれが顕著だ“ という指摘にこたえた形になっている。フクヤマは民主主義国はコロナウイルス対策に失敗したことで国家統治の最も基本的責務を果たせなかったが、ロシアや中国などの権威主義国家は民主主義国のような逡巡や議論の対立とは無縁に迅速な意思決定を実行して成果を上げているのがその論拠だ、と認めるが、その風向きは最近起きた ”権威主義大国による二つの破滅的意思決定によって明らかに変わった、と主張する。
その二つとはロシアのウクライナ侵攻と、中国におけるゼロコロナという無意味な政策である、というのだ。フクヤマはこの二つの破滅的な選択は、現時点で我々の多くが考えるような、単に情報の乏しさや指導者の無能によるものではない、と指摘する。その根底にあるのが、両国で起きた、頂点に立つ人物に際限のない権威を与えたことにある。米国で言えばトランプ、フランスではルペン、など多くのポピュリスト政治家はこのプーチンの行動に同調する部分が多くあって、それがおのおのの国における国民の分断を生じさせてきた。したがって、ロシアがウクライナで成功するかどうかは、地球全体の民主主義の在り方に影響を及ぼすだろう、と結んでいる。
現在米国では中間選挙の行方にいろいろな論議が盛んなようだ。もしこの選挙で民主党が衰退し、次回の選挙でトランプが復活する、という事態が起きたら、米国国民の分断には拍車がかかるだろう。民主党共和党間の争点は、いままでのような政策論議の範囲を超えて、国民の分断、ひいては民主主義を体現した大国アメリカの変貌につながるのではないだろうか。暴徒化した大衆による議事堂占拠などという、およそアメリカで起きるなどとは思ってもみなかった現実を思い出してみよう。もともと自己主張の強い国柄に人種問題がからんだ、週刊誌的表現を使えば “病めるアメリカ” の未来まで、今続くウクライナ戦争とかゼロコロナ強制はかかわってくるのだろうか。人道的、といえば大げさだが、戦火の苦しみを知る日本人の間ではともすればロシア軍による蛮行といった情緒的な面に同情しがちだが、地理的文化的距離から、我々に直接影響をもたらすという危機感は多少薄れがちだ。しかしフクヤマのこの指摘は、現在アメリカをむしばんでいる国民の分断、という事実を介してみると決して他人事ではない、という警鐘のように思えてならない。
映画スタジオとの長期契約を結ばず、
1950年頃からアレルギーと大腸炎に悩まされるようになり、
ルースはマイケルの無実を証明するために良人、検事、警視、
マイケルは起訴されたが、確証がないため無罪の判決を受けた。
(保屋野)
ヒチコックの「私は告白する」初めて観ました。彼の多くの作品の中で、上位に入る作品だと思います。
「モンゴメリー・クリフト」演ずる神父が、殺人犯から告白を受けるが、次第に神父自身が容疑者となっていく展開も斬新で、サスペンス感も中々でした。ただ、被告になった神父が裁判で無罪となり、更に真犯人(告白者)が分り、あっけなく死んでしまう、という結末は少々単純すぎるのではないか?
そして何といっても、この映画はM・クリフトの存在ですね。私は「赤い河」ですっかりファンになって、彼の映画はまだ2本目ですが、あの「憂いに満ちた風貌」は、他に追随を許さない、不思議な魅力を持った俳優ですね。また、今回の相手役、「アン・バクスター」も、建築家「ライト」の孫だそうですが、少々地味ながら、魅力的な女優だと思います。
ドライブで奥多摩へ行くと大きな看板が目に入ります。「三頭山荘」みとう山荘? さんとう山荘? みがしら山荘?通るたびに “何と読むのでしたか?“ 迷ってしまいます。みとう山荘でしたね。「三頭山荘」に宿泊した事はありませんが、昔々、会社の園芸部の日帰り旅行で盆栽・シクラメン等の生産者 園芸店を訪問した後、 安田さんの写真の山菜の小皿料理を戴きに寄りました。 小皿の並べ方は変わっていないようです。 (安田)三頭山(みとうさん)は文字通り3つのピークを持つ山です。それぞれ東峰、中央峰、西峰と呼ばれます。三頭山荘の自家製山菜料理は小皿の盛り付けも昔から変わっていないのですね。フキノトウ、ぜんまい、ワラビ、タラの芽、ウド、こごみ、フキ、しその実、手作りこんにゃく、しめじ、などなど、堪らなく良かったです。僕の好きな山菜の女王といわれる「こしあぶら」はなかったです。ヤッコさんも泊まった三国山荘に春に行き、周辺で山菜を採取して、天麩羅にして舌鼓を打つのが最高の贅沢でした。女王「こしあぶら」の写真です。錦秋の紅葉を愛でに、三頭山・広徳寺ともども再訪したくなりました。広徳寺の静寂感は味わえないでしょうが。
海外との電話やメールはもちろん、インターネット、SNSのやり
それに対して、アメリカとアジアを結ぶ太平洋ケーブルが
通信用の衛星として最初に実用化されたのは、1962 年 7 月にアメリカが打ち上げたテ ルスターである。さらに、1962 年 12 月 13 日には、リレー1 号衛星も打ち上げられた。こ のリレー1 号は 1963 年 11 月 23 日にジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領の 暗殺事件を日本のテレビ視聴者に伝えた。それは初の日米間テレ
ただこれは現在の静止衛星の衛星放送とは違い、地球を周回する通信衛
通信の自由化と共に日本電電公社(NTT)と国際電信電話株式会
日本ではKDDが1964年(昭和39年)に『TPC-1(第1
1995年(平成8年)、『Microsoft Windows 95』が発売され、インターネットが急激に普及しはじめたこの年
1996年に行われたアトランタオリンピックでは、世界で初めて
海底ケーブルは日本海溝などの底まで敷設するため、一度切れると
(安田)掲題のブログ記事大変興味深く拝読いたしました。
題名「星のない男」の意味は、夜道を歩くのに星を頼りに進むべき
名匠キング・ヴィダーが、カーク・ダグラスを主演に据え、西部劇
冒頭からフランキー・レインが歌う主題歌Who knows who knows man without
star・・・ に乗ってタイトルが流れ終ると蒸気機関車が驀進してくる。駅に停ム・キャンベルを救い、二人とも女牧場主ジーン・クレインの三角牧場に雇わ
の一人が
この時ダグラスにバンジョーを投げると弾き語りの熱唱T
全般的に放浪者としてのダグラスの心理的描写や若者キャンベルと
(飯田)「星のない男」を観終わって、小泉さんの名解説を読み納得しまし
この映画のカーク・ダグラスはガン捌き、ガンベルトの扱い、バン
物語の演技も、あのしゃくれた顎と顎のくぼみで、非常に印象に残
映画のタイトルを聞くと、主役のカーク・ダグラスの個性的な顔が
彼は俳優として珍しく長寿で103歳で2020年に亡くなってい
(編集子)小生も飯田兄と同じで、初めて見たダグラスは探偵物語だったと思う。いわゆる歴史スペクタクルものはダグラス主演に限らず一切見たことがないが、西部劇では本作のほか、ロック・ハドソンとの共演作 ガンファイター と飯田君ご指摘の OK牧場の決闘 が代表作だろうか。いずれも小泉さんの御慧眼通り、なにか過去を持つ、表面にあらわれない衝動を画しているような役、つまりジョン・ウエインものなんかには出てこないシチュエーションが設定されていた。特に ガンファイター は日本版のタイトルが全く作品の陰影を覆い隠してしまっていて、一般的にはカツゲキものとみられているようだが、原題の The Last Sunset という含みを現したタイトルにふさわしい、重厚なものだった(もちろん、助演がドロシー・マローンだった、という事も小生の印象に深い理由なののだが)。 OK牧場のほうは確かに飯田兄ののたまう通り、過小評価があるかもしれないが、作品自体が大掛かりなしかけで、同じ史実の脚色の 荒野の決闘 とか 墓石と決闘 なんかにくらべて、言い過ぎかもしれないがけばけばしすぎてその分、損をしているように思える。
もう一つ、小泉解説にある ”星” の意味だ。西部劇でいう ”星” は保安官の星型の記章を意味することが多い。スズで作られた安物のはずだが、この星に正義と真実を見るのか、あるいは現実に多くの保安官がそうだったようだが単なる拳銃使いのはったりだったのか、によって作品の見方も変わってくる。著名な作品で言えばクーパーの 真昼の決闘 はこの星章に誇りと使命感をいた抱いていた男の話だし、もう一つ、あまり評判にはならなかったが、あのアンソニー・パーキンズの 胸に輝く星 は題名からして Tin Star だった。ただ、作品の意図というか主題がこの正義の象徴の星章をどうとらえるか、によって結末は違ってくる。真昼の決闘 でも 誇り高き男 でも主人公が退場するシーンではこのバッジを放り投げていく。OK牧場の主人公ワイアット・アープにしても、荒野の決闘 のフォンダと ワイアット・アープ のケヴィン・コスナーではイメージが全く違う。正義のしるしのはずの星、にもそれぞれの立場があるということか。