ジョン・フォード監督晩年の傑作。これまで同監督が作ってきた西部劇映画の様々な要素を寄せ集めたように思え古く懐かしい香りがする。
冒頭から「荒野の決闘」でヘンリー・フォンダ扮する保安官ワイアット・アープと同じ姿勢で、ジェームス・スチュアート扮する保安官がポーチの椅子に足を伸ばしバランスをとって、にらみを利かせ賭博師を拒否したりしている。駅馬車がやって来ると「駅馬車1939」の馭者であったアンディ・ディヴァイン(ポージー軍曹)が馭者台から降りるとずいぶん太ったなあと冷やかされる。このように前に観たような画面が何回かあるように感じるのだ。
その保安官ガスリー・マケーブ(ジェームス・スチュアート)が、旧友のジム・ゲイリー中尉(リチャード・ウイドマーク)からの依頼で、数年前にコマンチ族にさらわれた白人の娘エレナ(リンダ・クリスタル)と少年ウルフ(デビッド・ケント)を救出する役目を負うことになる。いつもは善良な市民役を演じるスチュアートがカネにがめつく、酒場の女経営者ベル(アネル・ヘイズ)と出来て、売り上げの1割をはねるような役で、逆に悪党役の多いウイドマークは、軍人としての規律、正義感もあり、逞しさと堅実さを兼ね備える人物。開拓民の中のブロンド娘で、弟をコマンチ族に拉致されたマーティ・パーセル(シャーリー・ジョーンズ)もゲイリー中尉の方に好意を持つのだった。
マケーブはコマンチ族からの取戻しに1人につき500ドルの報酬を条件に引き受け、コマンチ族長クアナ・パーカー(ヘンリー・ブランドン)と折衝の結果、交換物件により、エレナとウルフの救出に成功する。エレナと5年間夫婦だった戦闘部族のリーダーのストーン・カルフ(ウディ・ストロード)を殺すことになる。しかし数年間白人社会から離れていたハンディはあまりにも大きい。粗暴な
少年ウルフを白人と認識する人はいない。或る日、過去に息子を失い、頭の異常なマッケンドレス夫人(ジャネット・ノーラン)が、「我が息子、我が息子!」と喚き乍ら近づずくことから、ウルフが夫人を殺してしまう。興奮した群衆は、私刑の場所へ。途中オルゴールの音に反応し「俺の音楽!」と叫び、姉であるマーティは驚いた。弟が愛用していたオルゴール!ウルフは弟だったのだ。だが既に遅し、刑は実行されていた。この場面、「牛泥棒1943」の私刑の場面を思い起こす。
一方、エレナは、数年間、コマンチ戦士の妻だったことが開拓民から、何故自殺しなかったのかとか冷たい視線を浴びることになる。マケーブはエレナに自信を付けさせるべく、服装や髪形も変え、陸軍主催のダンスパーティに誘う。「アパッチ砦1948」のパーティを思い起す。席上ゲイリーは親密になったマーティにプロポーズするが、エレナは此処でも冷たくあしらわれる。いられなくなったエレナは哀しみのあまり一人カリフォルニア行の駅馬車に乗り込むと馭者台から、一緒に行くとマケーブが話しかけるのだった。
以上が概略のストーリー。性格の違う男のやりとり、ロマンスのほか、アンディ・ディヴァインのコメディリリーフ、ハリー・ケリーjrとケン・カーティスとのマーティの奪い合いといったフォードタッチもさりげなく見せる。人間は馬鹿が多いけれど、その中には強く真っ直ぐに生きて行こうという者たちもいる。集団に引き裂かれた個人の苦悩と人間の哀しみ傲慢さを鋭く描き、人と人との絆、失われた絆を最後に取り戻すというフォードの世界に浸ることが出来た。
(編集子)新聞で広告を見ただけで未見だが、最近、ジョン・フォードに関する詳細な評論が出たということだ。一連の傑作映画の監督、という以外にもいろいろな時代背景があるようで、ぜひ目を通してみたい。
(菅原)本日の日経夕刊の最終面に、「ジョン・フォード論」(文芸春秋)著した蓮実実彦さんと言う記事があり、「豊かな画面を見つめよ」と結んでいる。つまるところ、その内容はフォード礼賛と言うことのようだ。
ところで、彼は、「世界的なフォードへの否定的評価の流れが・・・」と述べている。勿論、彼は「とんでもない」と言っているが、そんなにフォードは否定すべき監督なのかね。全くトンチンカンだ。フォードに対する嫉みか。
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