胸に応えた一句のこと

自分は子供時代から本好きで、今でもその傾向は変わっていない。中学3年ころから高校時代は世界文学名作集、などをわからないままにただ読み漁った。そのころにはなぜなのか考えてもみなかったし、昔から名作というんだから読んだ方がいいんだろうくらいの感覚だった。ましてその著者がノーベル賞を受賞した人だ、などとなれば無条件で名作なのだと単純に信じ、だから教養として読んでおかなければならない、と単純に判断していた。

しかし年を重ねるにしたがって、そのノーベル文学賞というやつに疑問を持つようになった。自然科学とか社会活動等であればだれにでも納得できるクライテリアがあるが、文学、となるとそのあたりは何を基準にするのだろうか、という疑問である。

日本の文学界には多くの才能のある人がいるだろうし、その作品に共鳴できるかできないかは自分の感覚で納得できる、これはあくまで、自国語で書かれていて、それを読んだときに受ける感動なり共鳴なりが書いた人と同じ文化的背景をもつからこそのものだろう。どこかで書いた記憶があるが、たとえば 英語で言えば blue  という意味を持つフレーズがあるとしよう。これをある人は 青い と書き、ほかの人は 蒼い という文字を選び、ほかの人は碧い と、あるいはただ あおい と表記するかもしれない。アルファベットだけでなく表意文字になれている日本人にはこの4つの訳が表そうとしている背景なりシチュエーションを区別することは難しくないが、この違いを多国語に書き換えるときにはその翻訳者がどういう意味としてとらえるかが、翻訳者の能力であり原作品をどれだけ原著者の感覚でとらえられるのか、によって、外国語しか解しない人がその結果をどう解釈するか、が変わるだろう。これは何も日本語―英語だけの問題ではなく、およそ外国文学を読む人間すべてにあてはまるはずだ。そういう中、”世界に認められる作品” をどうやって判断するのだろうか、という素朴な疑問である。

小説とかエッセイという分野であれば、単なる翻訳上のいわばテクニックから生じる結果のほかに、その構成だとか時代背景との関連だとか著者の持つ主義主張だとかいうものが複雑に絡み合うから、その結果としての価値が判断される、ということは理解できる。では詩はどうか。詩はあくまで感覚に訴える部分がメインであるから、外国語の詩がもたらす感動がその言語で書いた人間のそれをどれだけ、どのように伝えるのか、途方もなく難しいのではないか、と思うのだ。例えば誰でも知っている有名な詞の和訳で、”ヴィオロンの ため息の” が  ”バイオリンを 弾く音の” とでもなっていたら(フランス語を知らないのでこの例が正しいのかどうかは知らないが)結果としてこの詩は日本人にはどう響くだろうか。この例の様な長い詩であれば、ほかにもいろいろなファクターがあるが、日本文化のいわば骨頂にあたる感覚を競う俳句はどうだろうか。

小生の義母は早くから俳句に親しみ、句集を出したくらいのひとで、小生にも俳句を始めさせようといろいろ勧めてくれたものだが、残念ながら興味はわかなかったし、最近のテレビ番組の影響もあって俳句論議も盛んであるがもうひとつ乗り切れないところがある。おもい出してみると俳句、というものを初めて知ったのは小学校4年くらいの時だった。学校で出していた文集にある女の子の句が紹介されて、これはとてもすばらしい、と先生たちが喜んだ句をどういうものか鮮明に覚えている。

ポケットに 手を入れてふむ 初氷

というのだ。戦後まもなく、防寒着もお粗末なうえに東京でも冬は寒かったし、母親の頑固なしつけで真冬も半ズボンだったから、この句の持つ感覚が何かに共鳴したのだろう。その後、申し訳ないが俳句の世界とは無縁のまま来たのだが、今朝、新聞に高名な人の作品だと紹介されていた一句が最初の感動から半世紀を超えた時点で僕の心につきさった。

さびしさは 散る花よりも 残る花

たてつづけに親友が帰天してしまって、いつか来るとは理解していてもなお耐えるしかない寂寥感の中にある自分の心に応えた一句だった。これが芸術というものの力なのだろうか。

(小川)「さびしさは散る花よりも残る花」    痛感している毎日です。東海支部の忘年会、3日土曜夜に三年ぶりに開催されました。参加18名、34年キューピーが京都から、43年酒井夫妻が茅ケ崎から来てくれ、若手も4人、38年ラゲがコロナ恐れて欠席、代わりに地元有松絞の38年竹田が出席、最長老出席も今年を最後にしたいと思っております。  オジイや大崎が亡くなり俳句が身に染みております。

(保屋野)掲題、興味深く拝見いたしました。俳句「さびしさは散る花よりも残る花」・・・心に染みる一句ですね。この句は「散る桜残る桜も散る桜」(良寛)を想起させますが、人の寿命は誰が決めるのでしょうか。

(船津)
死支度致せ致せと桜哉/一茶
死下手と又も見られん桜花/一茶
業平も死前ちかししぶ団扇/一茶

昨日こそ君はありしか 思わぬに浜松が上の雲にたなびく
今よりは秋風へさむく吹きなむを 如何にか独り長き夜を寝む

言われるとその時に向かって日々進んでいるる気になってしまいますね。元気だそう!人生100時代。これからだ我が青春!

(下村)そういえば昔「俳句第二芸術論争」というのがありましたね。

私も俳句ほど選者によって評価の異なる芸術はないと思っています。小説でも絵画でも音楽でも同じような気候風土、歴史的・文化的背景を共有している人(民族)の間では、鑑賞する人によって評価にそう大きな差は出ないでしょうが、俳句のような17音の作品の巧拙を評価することは非常に難しいと思います。事実、夏井先生も生徒の作品を評価するに当たって、「先生によってはこの言葉を嫌う先生もいらっしゃいますが、云々・・・」と、評価者によって尺度が異なることを認めていらっしゃいますね。

「古池や蛙飛びこむ水の音」、「静かさや岩にしみいる蝉の声」など、熱帯地方や寒帯地方、砂漠のような乾燥地帯に住む人々にはいくら想像を逞しくしてもらっても到底理解できるものではないでしょうね。

(保屋野)確かに俳句はは不思議な芸術ですね。「古池や・・」も私が投稿したら、間違いなくボツでしょう。我々が知る俳句は、芭蕉、一茶、蕪村・・・せいぜい子規までで、例えば近代俳句の巨人といわれる高浜虚子ですらその俳句はほとんど知られていません。下記代表作、皆さん聞いたことがありますか。

「桐一葉日当たりながら落ちにけり」「遠山に日の当たりたる枯野かな」

山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」も有名な句ですが、・・これって俳句?

 

写真はやはりカメラが基本です   (普通部OB 船津於菟彦)

(船津発 平林寺の紅葉 の投稿によせられたメッセージ)

(安田)船津さんの写真はいつも構図と色彩のバランスが素晴らしい。保屋野さんに同感です。最初の写真の構図は、日本の床の間のような構図に見えます。床の間では棚も畳もスペースの区切り方に特徴があり、そのスペース分割はそれだけで美そのものとなり得ます。最初の写真には、茅葺屋根、格子扉の門、粋な黒塀、紅葉それぞれが他を引き立てるように相互にバランスが取れています。Less is more とでも言える単純かつ静寂でありながら無限の神秘させ感じさせてくれます。

(保屋野)さすがプロ、平林寺の紅葉中々のものですね。特に写真1(11)の構図は素晴らしい。

(金藤)

素晴らしいです❣️ 平林寺紅葉狩りのお写真🍁拝見させていただきました❣️ お見事です❗️
私が参りました頃より、カエデの紅葉が深い紅色に、池だか沼の水の青が美しくなっているようにお見受けします。ふー 本当に綺麗に映っていますね。
 私のスマホ📱写真とは、全く違います😩 別の場所のようです。  私も良いカメラが欲しくなりました。  はい、そういう問題だけではないのは、承知しております。本当に素晴らしい画像をありがとうございました
船津そこで曰く:
師走は舞い上がるような過分のお褒め言葉でスタートスッキリ。有難う御座いました。自分では写真は上手いとは思っては居りませんが、多少人様に観ていだける写真を撮るべく努力はしているつもりですが、まぁ「道楽」ですね。

器材はカメラ ニコンZfc レンズ NIKKOR ZDX18-140m1:3.5-6.3VR カメラ ニコンZ6 レンズ NIKKOR-S Z 14-30mm 1:4二台とレンズはモウ一本持参しましたが使わずでした。重いです。水とか空が綺麗に写って居るのはPLアィルターを使用していることだと思います。PLフィルタ(偏光フィルター)ーは、反射光を調整する効果のあるフィルターで、ガラス面や水面などに写った光を取り除く事が出来ます。又、表面の反射を除去する事で、本来の色を再現したり、コントラストを上げたりする事が出来るので、色の再現が重要な風景写真では、付けっぱなしで使用する方もいるくらいです。光の向きが効果の基準には成りますが、矢張り綺麗に撮れますね。そんなインチキの効果です。又、目の前の落ち葉はカメラを地面に付けて絞りも絞って撮影しています!今のデジタルカメラは背面の液晶画面がシフトできますので、地面置いても画面は見えるわけです。その昔ですと寝転がらないとファインダーが見えなかったものです。


調子に乗って当マンションのクリスマスツリーをクロスフィルターで光らせた作例です。

22年11月度 月いち高尾  (47 関谷誠)

10月の「月いち高尾」は、KWV三田会の秋ワンもあり、見合わせましたが、11月30日(水)、2か月振りに実施しました。なお、前回の9月「月いち」で城山・小仏コースをご一緒した菅谷国雄さんが、急病を得てそれが原因で逝去されました。仲間の旅立ちを悼み、改めて、ご冥福をお祈りいたします。

前夜の大雨も上がり、曇りながらも、季節外れの穏やかな気候の中、22名が、高尾山口駅に集結。今回、文教短大ワンダーフォーゲル部OGの大場陽子さんが初参加。当WVに対しては、KWV昭和60年代卒が、現役時代に、コーチをしていた関係でのお付き合いが続いています。大場さんの健脚、ワンダー精神等々が参加者全員に大いに評価され、「月いち高尾」の正式メンバー入りしました。

大垂水峠~一丁平~もみじ台~稲荷山コースに13名(37/矢部、39/堀川、岡沢、三嶋、多田、40/武鑓、藍原、41/相川、46/村上、51/斎藤、中里、BWV/大場、47/関谷)、今回より正式に命名したケーブル利用の「シニア―・コース」に9名(36/中司、吉牟田、遠藤、高橋、鮫島、46/木川、47/田端、平井、伊川)。両コースとも晩秋の静かな高尾の紅葉を満喫してきました。

下山後、「テング飯店」に20名が、恒例の ”後の祭り” に参加、ワイワイガヤガヤとコロナを吹き飛ばした。

(51 齋藤)本日は楽しい「月いち高尾」の山行を有難うございました。
とりわけ、大場さんが幹事団に入って頂けることになり運営体制の強化が図られたことが本日の大きな成果です。私が撮影した本日の写真をおお送りします。

 

 

 

 

エーガ愛好会 (177) ヤングガン  (34 小泉幾多郎)

1978年ニューメキシコ州リンカン郡で二つの勢力が対立している事態に、一方の勢力である英国人紳士ジョン・タンストール(テレンス・スタンプ)に雇われた6人の若きガンマン達が、その敬愛する牧場主を殺したもう一方の勢力マーフィー(ジャック・パランス)一味に対し復讐を果たすべく奮闘する姿を描く。

冒頭セピア色の画面で、その若者たちが一人ずつ紹介される。ウイリアム・ポニー別名ビリー・ザ・キッド(エミリオ・エステヴェス)、ドク(キーファー・サザーランド)、チャヴェス(ルー・ダイアモンド・フィリップス)、ブリュアー(チャーリー・シーン)、スティーヴ(ダーモット・マルロー)、チャーリー(ケーシー・シマスコ)の6人である。

ターンストールの友人弁護士マクスウイン(テリー・オクイン)の尽力で保安官代行になった彼らは犯人逮捕に向うが、ビリーの独断で、その一人を撃ち殺してしまい逆にヤングガンたちに賞金がかかり、追われる立場へ。無鉄砲で好戦的ないかれ具合のビリーの性格がこの辺から大いに目立つ。うち頭領格のブリュアーが殺し屋に銃殺され、ヤングガンは5人になってしまうが、保安官ギャレット(パトリック・ウエイン)から、弁護士マクスウイン夫妻の命が危ないという情報を手に入れ、彼らを救出に向かうが、それはヤングガンたちを陥れするための罠だった。マックスウイン家に到着するやヤングガンたちは、軍隊迄も引き連れたマーフィー一味に包囲され絶体絶命。マクスウインの妻を外へ出したり、ドクの恋人中国女性(アリス・カーター)が入ったりしてから、撃ちあいのクライマックスへ、ビリー、中国女性と共にドク、チャベスの4人だけが包囲網から脱出の成功。そしてビリーはマーフィーに向け復讐の銃を放つ。

ビリー・ザ・キッドの伝記ではあるが、その仲間たちとの青春群像という形で描かれる。街を牛耳る大人たちが若者を爪弾きし、その若者たちの居場所を作ろうとする良き大人が抹殺されるという物語でもあった。21歳での生涯に21人を殺しながらも義理堅く古い西部の気質に合った男だったのではないかということから一人の若者の殺気に満ちた短い生涯は多くの同情も誘うところにもなり、ビリーを描いた映画は多く、小生が見たものでも次の作品がある。作品名、制作年と主演者を挙げる。「最後の無法者1941ロバート・テイラー」「ならず者1943ジャック・ビューティル」「テキサスから来た男1949オーディ・マーフィ」「左利きの拳銃1958ポール・ニューマン」「ビリー・ザ・キッド21才の生涯1973クリス・クリストファーソン」。

(編集子)ドクター小泉の補足をさせていただくならば、ジョン・ウエイン老年期の娯楽作のひとつ チザム ではビリーをジェフリー・ドウエル、パット・ギャレットをグレン・コーベットが演じた。御贔屓のベン・ジョンスンがウエインと若いころからの親友を演じて懐かしい、よき西部劇のひとつだった。時代的な背景としては西部開拓史上有名なリンカーン・ウオーと呼ばれた事件である。これに類似した紛争はどこでも起きていたようで、シェーン でも エルドラド でも主人公が巻き込まれたのはその一つだ。ヤングガンの背景にある紛争は、1870年代後半のアメリカ西部の辺境で起きた事件のひとつでニューメキシコ準州(当時)のリンカーン郡で発生した、二つの派閥の間の一連の紛争事件を指す。ウイキペディアの解説を転載しておく。戦争(WAR)と呼ばれるほど大規模なものだったようだ。

リンカーン郡戦争は、1870年代後半のアメリカ西部の辺境で起きた事件のこと。当時のニューメキシコ準州のリンカーン郡で発生した、二つの派閥の間の一連の紛争事件を指す。この「戦争」は、裕福な牧場主が率いる派閥と、独占的な雑貨店の経営者が率いる派閥との間で起こった。

秋の定番 平林寺散策   (普通部OB 船津於菟彦)

金曜日の小春日和に誘われて武蔵野の香り残る「平林寺紅葉狩り」に行って参りました!平日にもかかわらず熟年少年少女集団が沢山紅葉狩りに来ていました。燃えるような陽に照らされた紅葉はそれはそれは美しい物でした。
平林寺については別途また書いて見たい思っておりますが、松永安左エ門さん縁の茶室・墓地などあり、慶應義塾志木高校の前身・慶應義塾農業高校は松永さんの寄付で作られた物で、普通部のころ未だ農高で、記憶にありませんが芋掘りか何かに行ったことを思いしました。武蔵野の香りが残る素晴らしい良い処でした。野火止用水が境内を通っています。

(平井)船津さん、素晴らしいお写真、いつも唸っています。美しいですね、日本の秋は。

(小泉)  プロの平林寺の紅葉の写真には、色彩、構図の素晴らしさに唸らされましたので、素人の紅葉の写真もお見せします。場所は近所の梅の名所大倉山公園、11月24日(木)です。

(安田)船津さんの写真はいつも構図と色彩のバランスが素晴らしい。保屋野さんに同感です。最初の写真の構図は、日本の床の間のような構図に見えます。床の間では棚も畳もスペースの区切り方に特徴があり、そのスペース分割はそれだけで美そのものとなり得ます。最初の写真には、茅葺屋根、格子扉の門、粋な黒塀、紅葉それぞれが他を引き立てるように相互にバランスが取れています。Less is more とでも言える単純かつ静寂でありながら無限の神秘させ感じさせてくれます。

(船津)小生は大先輩から、フィルム時代でしたので、プロじゃ無いからやたらシャッター押すな!四隅を必ず観て、余計な物が入っていないか。とか逆光と順光を考えよとか、うるさく言われ、写真とは何かと言う事は難しいですね。
構図は第一でしょうね。自分が予想したシーンが無ければシャッター押さない。したがって今回の平林寺もあの程度しか沢山は撮っていません。
どうしてもあれやこれやを入れてしまうと写真としてまとまりが無くなるので、余計な物は入れないこと、何を撮りたいのかを考えてシャッターを押す!又、カメラの特性を最大限活かすようにする。とかを心がけていますがブラバチですね。まぁアマでこれでめし喰うわけでもないのでまぁ良いかぁという感じです。

(編集子)ふーん。

 

三鷹事件 と ”My Way”

三鷹事件、という事実、戦後の特筆されるべき史実のひとつを覚えている人は僕らの年代の方々までではないだろうか。当時三鷹はまだまだいわば辺境で、編集子が就職した昭和36年(1961年)でさえ、横河電機の本社が三鷹(住所は武蔵野市)だというと、へえ、三鷹ねエ! と丸の内族には馬鹿にされたくらいだった。

グーグルで検索すると、

”1949年7月15日に東京・三鷹市で起きた電車の暴走・転覆事件です。 この事件は米軍占領下で発生した「下山事件」、「松川事件」と並ぶ国鉄三大謀略事件の一つとされ、多くの謎に包まれていました。 しかし、裁判では竹内景助さんが単独犯として死刑判決を受け、再審請求中の1967年に獄死しました” と簡潔に記載している。

終戦後の大混乱がようやく収まりつつあった日本では、戦争責任を問う動きが活発化し、それに呼応して、共産主義をとなえる人たちが(どこまで本気だったのかはよくわからないが)政権転覆をとなえていろいろな(破壊行動を含む)活動を展開していた。その中心的存在が大企業の労働組合で、特に国鉄(現在のJRの前身)のそれは 国鉄労組 という名前が独り歩きするくらい、左翼主義の人々の砦だった。占領軍(という単語自体、現在の若い層には通じないかもしれないのだが)は日本の旧体制を破壊する目的もあって、日本では国禁とされていた労働組合運動をいわば再生させた手前もあり、このような動きには困惑していたであろう。この事情をウイキペディアは次のように解説する(一部省略)。

当時、中国では国共内戦により中国共産党の勝利が濃厚とされ、日本の国政でも日本共産党が議席を伸ばしていた。共産党員やその支持者が多かった国鉄は、共産主義化を警戒するGHQによってレッドパージの対象となり、複数の共産党員の国鉄職員が逮捕された。この事件も 政治的な共同謀議による犯行だとして、国鉄労働組合(国労)の組合員の日本共産党員10人と非共産党員であった元運転士の竹内景助]を逮捕した。1950年(昭和25年)東京地方裁判所(鈴木忠五裁判長)は、非共産党員の竹内の単独犯行として無期懲役判決を下す一方、共同謀議の存在を「空中楼閣」と否定し他を無罪とした。検察は、全員の有罪を求めて控訴上告したが、竹内以外については無罪が確定した。竹内の控訴審で東京高等裁判所(谷中董裁判長)は、1951年(昭和26年)、竹内についてのみ検察側控訴を受け入れ、書面審理だけで一審の無期懲役判決を破棄し、より重い死刑判決を言い渡した。

なぜ、今、三鷹事件などを引っ張り出したのか。政治的な意味はもちろんないのだが、きっかけは一昨日、妻や義妹たちと一緒に義母の墓参りに八王子にある富士見霊園に行ったことだ。此処はもちろん何回も訪れているが、義父母の墓碑以外、周りを歩いたことはなかった。今回は時間があったので、少し足を延ばしてまわりを散策してみたところ(この霊園は遠く丹沢山塊を見晴らす、いいロケーションにある)全く偶然に、上記した竹内景助氏の墓に行き当たったのだ。それだけならば、(あ、あの人か)という程度の偶然で終わったのだろうが、その墓碑の異常さに衝撃を受けた。

墓碑の中心に 無実 の文字があるのは(刑執行以前に病死されたとのことだが)故人の遺言なのか、ご家族の遺志なのかはわからない。しかし無念、の二字だけは強烈に僕の心に染みこんで離れなくなった。やがて自分にも訪れる最後のときに何を思うか、わからないし、彼の罪の有無を判断するすべもないが、彼が最後に見たのはなんだったのだろうか。いつか本稿にも書いた気がするが、石原慎太郎がテレビ番組で、”ああ、俺は今死ぬんだ、と意識して死にたい” と言っていたのを思い出したりして、妙な精神状態のまま帰宅した。

夕食の時間になって、テレビをつけたら、番組の名前は忘れてしまったが、女性歌手が マイウエイ を日本語訳の歌詞で歌っていた。フランク・シナトラの独特の哀調を帯びた歌はもちろん知っていたが、待てよとグーグルをひいてみて、この原作が実はフランスのものだったと知ってびっくりしたし、その英語版を作ったのがポール・アンカだと知ってまた驚いた。小生たちのジェネレーションで言えばアンカとはかの ダイアナ であり、作曲家としては史上最大の作戦の軽快なマ一チを書いたところくらいまでしか知らなかったからだ。その英語訳の出だしはこうなっている。

And now, the end is near
And so I face the final curtain
My friend, I’ll say it clear
I’ll state my case, of which I’m certain

和訳の歌詞としては布施明が歌ったものが有名らしいが、グーグルには布施明と美空ひばりのマイウエイの歌詞が違うのはなぜか? なんてのがあったりする。シナトラの歌を聞いただけでは気にもとめなかったが、この英語訳を見ると、布施が ”いま船出がちかづく” と始めるのは、ある意味では誤訳というか、原曲の雰囲気を取り間違えてしまうのではないか、と思えてきた。the end is near  というのはあきらかに自分の最後(ヘミングウエイの ”真実の瞬間” と言っておこうか)を表しているのだが、”船出” という単語はこれから新しい場面が始まる、という感じになるし、そのあとに my way とくれば、その出発の心意気を描くようにも取れる。事実、過去何回かの結婚披露宴の席でこの歌がうたわれるのに出くわした経験もある。それとは別に、小生には、中心になる my way の訳し方が布施は すべては心のきめたままに と歌うのだが、なかなか原曲(フランス語を解しない小生には英語版でしかわからないが)の持つ雰囲気を伝えている気がしなかった。

ところが今度聞いた時、歌手(あとでケイコという人だと知った)がこのフレーズを 私のやり方で と歌った。例によって全く理論的にも何的にも理由はないのだが、竹内が自分の意思に反した終結をまえにして何を思ったか、自分は my way で生きてきたか、と考えたとき、それは 心のきめたまま ではなかったのではないか、と思ってしまった。そしてその訳は、こころのきめたまま、よりもより直截的なこの訳のほうがいいのではないか、と感じたのである。

グーグルの記述がどこまで真実なのか、という事も言い出せばきりがないが、それによれば、竹内は一緒に事に当たった仲間に、いわば裏切られた(彼らは無罪)無念の最後だったともいわれる。その是非はともかくとして、共産主義社会の到来こそが国のゆく道だ、と信じたうえでの(my way) 自分の行動が、結果として無実の人々を死に至らしめる結果になるとは竹内本人は考えもしなかったのではないか、と想像するし、同じ道を進んだはずの仲間から見捨てられた、その自分の 真実の瞬間 が近づいた時、彼が悟ったであろう my way は何だったのだろうか。

だから何だといわれても答えようはないが、秋の陽光のなかで黙って光っていた 無実 の二文字が引き起こした感情はしばらくは自分のなかで消えそうもない。

(船津)松本清張がこの三件の事件について書いていますが内容は忘却です
しかし、この国鉄関係の事件はどうやらGHQの黒い霧の中のような気が致します。この辺りは安田耕太郎さんとか超読書家の菅原さんが詳しいと思いますが、米国は対日本占領政策で神の国。天皇=神。と「菊と刀」読み過ぎで、こんなに簡単にそんなこと忘れて普通の生活をしてくれると思っていなかったと思います。又米国内部の左傾化の事などもあり、共産党を使い日本の旧習をぶち壊し、米国流「民主主義」を植え付けようと試みたキライがありますね。わが疎開先の信州の片田舎の塩尻村は小さな寒村でしたが日本共産党史にも載る共産党活動村として一時凄かったでした。日本共産党の有名人は殆ど来村して、学校の校庭で労働歌など熱唱していました。その後直ぐ冷めてしまい元の静かな村に成りましたが、、そんな時があったんですね。そして三大謀略事件。誰が主犯かなぁ。
朝鮮戦争勃発で対日政策もガラリと変わり、統一教会の始まりの勝共が岸信介など動き出したのだと思います。まぁ何が真実か分かりませんね。無実なのか死刑囚なのか。

 

八ヶ岳ベーカーズへ行ってきました (グリンビラ総合管理 武藤ゆき恵)

先日萌木の村で行われた『八ヶ岳ベーカーズ』に行ってきました。当日は曇り空で午後から雨の予報でしたので10時半過ぎにはいったのですが、行列の出来ているお店や、品薄のお店もありました。私がGETしたのは菓子屋ギンガさんのグラノラ2種とアツタマさんのカヌレです。

娘たちはマシュマロを焼いたりメリーゴーランドで遊んだり楽しく過ごせたようです。

(編集子)HP拝見してます。八ヶ岳ベーカーズっていうのは何ですか? 教えてください。しばらく行っていませんが、もうだいぶ寒いでしょうね?

(武藤)八ヶ岳ベーカーズというのは萌木の村内の広場で毎年開催されているイベントで、八ヶ岳エリアのパン屋さんや焼き菓子屋さんが集まって野外で販売します。今年は清里ROCKのカレーパンも限定で販売されましたが私は時間が合わず買うことが出来ませんでした。八ヶ岳エリアは天然酵母、米粉等々こだわりのパン屋さんが多いのですが、店頭販売していなかったり、山の中でアクセスが悪いお店が多いのも特徴だと思っています。このようなイベントがあると中々買えなかったパンが買えたりするのでまとめ買いして冷凍保存したりしています!

こちらは随分寒くなってきていて今朝は八ヶ岳が真っ白になっていました。来週あたりからは最低気温がマイナスの予報が出ています。季節柄風邪などにお気をつけください。

 

 

いわゆるコロナ第八波について   (34 船曳孝彦)

 第8波がフラフラしています。まだ大流行のカーブには入っていませんが、十分注意しましょう。オミクロン株系の変異が主力ではありましょうが、今回変異株が一つに絞られず混合して流行するのではないかとの予想がありましたが、まだどの変異株が主流になるか、そのシェアはどうかなど、何時ものごとく公式の発表はなく私は掴んでいません。

 重症感染、重症化リスクの高い人たちは別として、軽症、無症状感染が疑わしい場合がむしろ大変です。発熱外来の予約すら出来ないなど、文明国と言えるでしょうか。自分で検査し、感染の届け出しをして、入院出来る保証なく闘わねばなりません。折角新しい内服薬が登場したというのにその恩恵が得にくい状況です。一方で若者は感染を無視しているケースが多いようです。 幸い、重症は少なく、老人死亡例の大半はリスク因子、併存余病などと呼ばれる元々の健康状態によるもののようですから、そちらに十分気を付けましょう。

 昨年パンデミックの始まった時は、飛沫感染、接触感染で、エアロゾル感染ではないとされましたが、正しくはエアロゾル感染で、WHOは昨年中に切り替えましたが、日本は間違いを認めない国情ですので、感染対策として明確にし切れていません。身近に感染者が増えてきたのは事実です。それが訊いてみるとどこで感染したか全く心当たりがないという人が多くいます。空気感染ですので、自覚がなくて当然かもしれません。

 従って汚染空気を吸い込まないことです。人込みを出来るだけ避け、戸外や特別換気の良い場所、誰にも接することの無い朝、などを除き、確りマスクを守りましょう。何といっても罹らないことです。 もう一つ、是非5回目のワクチンの接種を受けてください。感染を防ぎ、重症化を抑えます。アナフィラキシーには十分な対策が採られています。更にインフルエンザワクチンもお忘れなきように。混合流行、混合感染は大変です。

会食にはそれなりのリスクが伴いますが、私はコロナ前の社会のあり方に早く戻るべきと考えています。人と接し、直接会話することの重要性が軽んじられています。余りにも画一的だったり、理論的でない規制が大手を振っています。この勢いは日本の社会、文明を取り返しのつかないものにしてしまうと、一老人は憂慮しています。

(下村)私のところでもせがれ一家やいとこ夫婦が感染し、コロナが身近に迫っていることを実感しています。私は過去のワクチン接種で4回とも副反応なしでしたので、ドテ先生お薦めの通り5回目も受けるつもりです。せがれ一家もいとこ夫婦も重症化することなく軽く済んだようですが、やはり感染すると気味が悪いので注意しながら行動したいと思っています。

(編集子)小生は一昨日接種の予定だったが風邪気味だったので大事をとって延期、再挑戦する。

奥多摩周遊道路で秋日よりを楽しみました   (HPOB 金藤泰子)

奥多摩駅近くの手打ち蕎麦屋さん

4ー5年ぶりで訪れましたら茅葺き屋根の上に草が生え、花(ヒメツルソバ?)まで咲いていて、可愛らしい屋根になっていました。
1時間待ち!でした。 コロナ対策で座席数も減らしているようです。
この蕎麦屋に行く前に 行こうと思っていた蕎麦屋も1時間待ち!
何処も同じ、人出も多い紅葉シーズン🍁です。 やっと店内に入ると
お店の食卓が椅子席に代わっていました。 膝が悪い人には嬉しい変更です♡
(船津)素晴らしいライブ日和の数々の写真、またまた心清らかになりました!有難う御座いました。一時間待ちのそばの建物素晴らしいですね。
また、黄葉・紅葉が綺麗撮れて良いなぁ。東京の今日は雨です。
(保屋野)広徳寺の紅葉と奥多摩の秋景色、素晴らしいですね。高幡不動尊の真っ赤な紅葉(モミジ)も来週あたりが見頃でしょうか。写真も(船津プロも真っ青?)良く撮れています。                         

(安田)奥多摩周遊道路から眼下に見える湖面は奥多摩湖(小河内貯水池)でしょうか?雄大で気持ちが大らかにさせられます。ありがとうございました。

ナンカナイ会 2年ぶりの食事会

KWV 昭和36年卒同期会、”ナンカナイ会” の食事会を2年ぶりに三笠会館銀座三越店で開催した。卒業後、会合は幹事持ち回り制でご多分に洩れずずいろいろとやってきたが、ほぼ全員が社会人現役を引退した2001年1月にクルーズクルーズで開催した新年会以後、翠川幹夫が幹事となってから、彼独特の几帳面さのおかげで年2回、新年会 と 夏の集まり の2本立てが20年間、欠かすことなく続いてきた。20年、である。

これにはミドリと安東静雄との “教育大付属高OBコンビ”、それと会計役を勤めてくれたミサこと横山美佐子(のち吉牟田正稔)の献身的な努力・ヘルプがあって可能だったことだ。しかし憎きコロナ騒動発生前の2020年1月14日、四谷の東京ガスOB施設での会合以後、全員対象の会合は今回が初めてである。本来ならばミドリからの丁寧な案内メールが届くはずだが、この2年のブランクのあいだ、悪魔に魅入られたかのように8人の仲間が鬼籍に入ってしまい、ミドリとミサもまたそのなかにあった。数多いKWV仲間のうち、特にこのふたりとはワンダー以外でも肝胆相照らす付き合いをしてきた人間として、彼らの遺志をつぐためにもいい形で同期会を復活させたいと思い、吉牟田の協力を得てコロナ騒動のなか、老人大人数会合というタブーに挑む引け目も感じつつ、何とか開催にこぎつけることができた。

病床にあったり加療中など健康問題を抱える仲間を除いて、ほぼ全員の参加を予定できる日を確定し(残念だが直前になって急用がおきて4人が不参加になり合計20人になった)、また長い事お世話になった東京ガスの施設が建て替えで利用できなくなったという事情と、年齢のためビュフェがきついという声もあったので思い切って着席ディナーにしてみた。この方法だと食事中の会話相手が限定されてしまうので心配したが大過なく終了した。

この会では必ず最後に後藤三郎がでてきて集合写真を撮ったものだが、サブもいなくなってしまった。従って写真は各テーブルで撮ってもらったスナップだけである。

昭和32年4月、日吉のキャンパスで荒木さんとか酒井さんとか懐かしい先輩に誘われてKWVに入部した新人の人数はKWV史上空前(多分絶後)の153人、この数は当時のKWV全部員数合計を越えていた。4年生総務だった中尾先輩をはじめとして、これだけの人数をどう扱うか、先輩各位には大変なご苦労があったと思うが、この大人数化がきっかけで、たとえば新人キャンプとかリーダー養成プログラムとか山荘の建設とかその維持のためのワークキャンプなど、現在につづくKWVライフの基盤がつくられた。このいわば狂瀾怒濤の波を引き起こし、好むと好まざるそれにほうりこまれ、もまれたのが我々の世代だった。

150人もいれば、お互いの顔がわかりあえるようになるまでゆうに1年はかかったから、ほかの学年やシステムが出来上がってからの入部した後輩たちからみれば不思議かもしれないがこの大人数(卒業時点でも63人)のまとまりが出来上がるまでは大変だった。当時は年2回の合宿以外は毎週発表されるワンデルング計画表を見てから行動が決まり、したがって誰と一緒に歩くのかも大げさに言えば当日まではっきりしないのが当たり前だった。今回を機会に現在の名簿を調べてみたが、小生が合宿以外のプランでとにかく一緒に歩いた、登ったという記憶のある同期の仲間は出席者20人中5人に過ぎないことがわかって今更ながら呆然とした。例えば上記した吉牟田はいまでこそ月いち高尾、などもあって頻繁に 顔を合わせる仲間だが、現役時代、合宿以外のワンデルングで同行したことは一度もなかった。これは小生だけでなく、同期の仲間も同じだったわけだから、ほかの学年から見ればいかにもまとまりの悪い連中だ、と思われていたような気がするし、事実、ある後輩からは ”私たちの代はなにかあっても総務の一言で決まるのに、ジャイさんたちの代って、ばらばらで大変よねえ” ときつい発言を投げられたこともある。

この状態をもたらしたのは、もちろん総務の末席を汚した小生の責任も大きいが、同期会の性格は入部時点の混沌ともいうべき環境がもたらした、”言いたいことは何でも言うがまとまれば万事早い” ということだろうか。

そのいい例がこの会の名称だ。最後の五色合宿、送別を兼ねての飲み会の明けた翌朝、同期会の名前を決めねば、という事になっても二日酔いの頭でとても話がまとまらない。ワイワイやっていて、誰かが なんかいい名前ってねえかなあ、とつぶやいたのを美濃島孝俊がひきとって、”それでいいじゃねえか、なんかない会 で!” と言い出し、議論にうんざりしていた全員、おお、それでいこう! となってしまったという、あまり信じてもらえないだろう事実がある。前後を比べて他の学年の名前はいかにも考え抜かれた、いい名前が多い。それに比べるとこの名前がふざけたようで困ることも多いのだが、それが素直に、俺達を包み込んでいる仲間意識そのものであり、歴史をあらわしているのだ(その美濃島も若くして病を得て不帰の客になってしまった)。

次回、ミドリの名付けた 夏の集まり をかならず招集する。老人の体力を考えて真夏は外すかもしれないが、かならず、俺達らしく、がやがやと集まってほしい、ということを、今まで味わったこともない興奮と感傷のなかで思っている。

翠川のファイルから抜粋