景信山と尾崎喜八

山歩き、という事についての文章には心惹かれるものが沢山ある。各々の好みによって、激しい登山登攀記録、登山と人生観、エッセイやら詩まで、多くの傑作と呼ばれる文章がある。小生は現役の登山家の文章のなかでは ”北八ツ彷徨” を第一に挙げる者の一人だが、もう一人、我々に先立つジェネレーションの一人、尾崎喜八の文章に強く惹かれるものを感じる。中でも有名な たてしなの歌が好きだ。

君の土地。それは無数の輻射谷に刻まれて八方に足を延ばした、やはり火山そのもの肢体の上の耕地であろうか.。或いはもっと古く、埋積し、隆起した太古の湖底の開析平野と、その水田に、今、晩夏の風が青々と吹きわたる河岸段丘のきざはしであろうか。

とはじまるこのエッセイには、信州の山々とそこに住む人たちの生きざまに限りない愛情を抱いた詩人の感性が満ち溢れている。”北八ツ彷徨”がまさに現代人のある種の疎外感を感じさせるのに対し、良き古き時代を満喫できたエリートの満足感とでもいうべきものだろうか。

連休、他に何もプランを持たないまま、八ヶ岳南麓の晩春を久しぶりに味わいながら、何となくページを開いた尾崎の ”山の絵本” に、景信山のことが書かれているのにひかれた。月いち高尾、で何度となく歩いている旅が、”古き良き時代” はどうだったのか、などと感じるよすがになるかと思い、尾崎喜八 ”山の絵本” (日本山岳名著全集)から、”山日記から” の該当部分を拾ったものを紹介しておく。次回、このルートをたどる際に思い出してもらえると嬉しい。

左から串田孫一、尾崎喜八、川田禎

 

 

(尾崎喜八 山の絵本 より抜粋)

高尾山は余り雑踏し過ぎるという人に、私はその奥の景信山をすすめたい。古い小仏峠を中心にして、春は花も多いし蝶も多く、またその眺めの雄大なことは道の楽なのに反比例している。

浅川駅前から高尾山行きの電車へ乗ると次の停留所が小名路、小仏峠への追分である。右に中央線の線路を、左に黒木立の高尾山を見ながら、糸繰器械の音のする農村から農村へ、一理ばかりをぶらぶら歩くのである。これは昔の甲州街道で、往手にはもう景信山と小仏峠をつなぐ緩やかな山稜線が空をかぎっている。

高尾山蛇滝口への道を左に見て、やがて小下沢の現れるところで線路を歩いて斜め向こうへ渡ると、もう小仏の部落。地質学でいわゆる小仏層の石が、まるで石炭を敷いたように線路に沿って散らばっている。ミツマタの薄黄の花が咲き、つま先上がりの路の右側に段々になって農家がならび、その左側を小仏川のささやかな水の流れるこの村で、どうしてもシャッターを切らずにはいられないだろう。

村外れから線路は小仏トンネルへもぐり込む。人はその上を歩いて行く。やがて景信山への登り口を示す道標が小径の右に立っている。そこで一休みして、右手五六段で無くなってしなう石段から登りになるのである。まっすぐに行けばもちろん峠道。しかしこれは帰路に選んだ方がいい。

息を切らせる登りが約十分間位つづくが、それからは雑木のまばらに生えた尾根をのんびりと登るのである、左手は谷を越して小仏峠のたるみが、その掛茶屋と一緒にてをとるように見える。右手遥かに多摩丘陵や武蔵野の一角が春霞をまとってせり上がる。如何にも春の山路の感じである。

これを登りきると一寸した平へ出る。そのすぐ左に立っているのが景信山である。以前に息を弾ませながら真直ぐに登ったものが、今では電光形の路がうまくつけてあるから、急がずに登れば楽なものである。忽ち頂上。その頂上の平地には近頃景信小屋という相当な小屋が出来て、食物や飲料なども売っている。眺望はこの付近で最もすばらしい。

先ず西にはこの山から始まって相州、武州、甲州に跨る国境山脈が、縦に蜿蜒とうねっている。その奥には三頭山、権現山などの大塊を前にして、山膚の青磁に白雪の象嵌をほどこした大菩薩連嶺の長壁が、むしろ優美に夢のように横たわる。その左手笹子峠から三峠山へつづく一線の上には南アルプスの白金の山々がぴかぴか光る。富士は元より偉大だ。富士はまるで抱きかかえることができるほどに大きくかつ近い。富士の左には道志の山々の紛糾を前にして、丹沢山塊がその大鵬の翼を張っている。一転して北は馬頭刈から大岳山・御前山へと延びる一連。中でも大岳山の姿は豪壮だ。その左手奥には秩父の雲取山が、これも雪の縞をつけて頭をもたげる。もっともっと遠く北東の地平には日光や那須の連山。また東には平野の青い霞の上に紫の筑波。春は悠々として天に浮雲。草上に身を倒してこの無限の空を見つめるのはいい。

小仏峠へはこの頂上から南へ向かう尾根をだらだら降るのである。植物や昆虫採集はここからはじまる。一日には極めて楽な行程である。