エーガ愛好会 (226) Railways愛を伝えられぬ大人たちへ 2011  34 小泉幾多郎

7月3日偶々富山を題材にした番組がNHKBSPにて放映された。小生1971年3月から1974年9月の3年半ばかり富山で勤務したことがあり、懐かしく回顧した。

 映画「Railways愛を伝えられぬ大人たちへ 2011」は、富山から宇奈月温泉までを走る富山地方鉄道を舞台とした定年を1か月後に控えた定年間際の運転手とその妻の物語。運転手を三浦友和、その妻を余貴美子が演ずる。ひと昔前にいそうな頑固な夫、夫婦互いに伝え下手が何とも言えず、こういう夫婦の形は昔よくあったんだろうなと思われた。何時の間にか夫婦の間に心の溝が出来てしまっていたから、お互いに身軽になった方が余生を楽しく本当の自分らしい生活が出来ると離婚をする決断を下すものの、妻が面倒を看ている患者の地方鉄道での急変への対応から夫婦お互いのよりが戻るまでを地方鉄道運転に絡み、立山連峰をはじめとする景観を初め、電鉄富山駅から富山各地がロケ地として登場する。

夫婦間だけに留まらず、運転手の部下中尾明慶とのやり取りも面白く、定年送別の席、宇奈月温泉での先輩米倉斎加年の「これからの20年は長いぞー」の実感ある言葉、もうとっくに20年を超えてしまった我が身にとって、何と言ってよいものか。

「絶景てつたび夏の富山」は鉄道写真家中井精也氏が各地を巡る富山編。小生が富山在住時以降北陸新幹線が出来たりして、当時のJRが第三セクター化したりしたが、景観は変わらない。

1.      あいの風とやま鉄道(石動~越中宮崎間) 夏の雲と田圃、稲葉山の展望広場、富山駅前の路面電車、東富山の水田地帯と早朝の立山連峰、西入善黒部川の名水の里、泊 宮崎城跡から海と鉄道の展望
2.      万葉線(高岡~越の潟) 高岡大仏、中伏木駅花壇の花々、六渡寺駅の鉄橋床川橋梁、新町口駅の夕焼けと山々、終点越の潟の渡し船と新港大
3.      立山黒部アルペンルート 電鉄富山~立山~美女平~室堂~大観峰~黒部平~黒部ダム 立山連峰の朝昼晩、みくりが池、ブロッケン現象等
4.      富山地方鉄道本線(富山~宇奈月温泉) 新宮川駅田圃にポツンとある踏
切、西魚津駅舎 遊園地の観覧車、新黒部の公園頂上からの景観、栃屋夕日の踏切、宇奈月温泉。

以上80数年のうちの3年半の富山在住だったが、眺めた場所、知らない場所もあったが、懐かしき風景にも出会い、郷愁を新たにした。当時を述懐すれば 立山等の山々を別にすれば、車であちこちを巡ったことの方が多かったかも知れない。特に富山周辺の岩瀬曳山車祭、八尾曳山祭や砺波付近の砺波夜高祭り、福野春祭り、福光春祭りや高岡氷見付近の高岡御車山祭、伏木曳山祭りを見物に行ったこと等が想い起こされる。

日光へ行ってきました  (HPOB 小田篤子)

27~30日まで、成人してから初めて、日光を旅行して来ました。緑が多く、とて落ち着いた所でした。

《日光》
①先ずは中禅寺湖畔を周りました。湖畔には先日の『G7 NIKKO』のモニュメントが。
《ボートハウス》
1947年にアメリカの建物をモデルに建てられました。
長崎であちこちで見かけたグラバー氏が、再登場! この辺りに別荘を建て、カワマスを放流し、フライングフィッシングを広めたそうです。
長崎のグラバー園には水産学者でもあった息子、倉場富三郎の「グラバー図譜」が飾られていました。富三郎は日本にトロール船を導入、近代的捕鯨産業を確立したと言われますので親子とも魚好きだったのですね。
《立木観音》
加山雄三さんが「エレキの若大将」の撮影をした所で記念碑がたっていました。
《英国大使館別荘記念公園》
英国外交官、アーネスト·サトウが1896年に建て、旅行家イザベラ·バードも滞在しています。
サトウの次男、武田久吉博士は植物学者、登山家でもあり、日本山岳会の発起人でもあります。
さすが、あちこち旅をしたサトウさん! 穏やかな眺めは、心落ち着く絵葉書のような景色でした。お隣のイタリア大使館も、杉の木の皮をパッチワークのように使った外装が特徴的です。この時期この辺りへのバスがなく、帰りは歩き始めて間もなく、大雨、雷、ヒョウにあい、40分程一生懸命歩いてきました!
②《東照宮》方面へ
東照宮は外国人も多く、とても混んでおり、隣の、人がまばらな《家光廟日光大猷院》の方が阿と吽の口の金剛力士、カラフルな4体の夜叉、300以上の石灯籠、黒と金の荘厳な建物…と見応えがありゆっくり楽しめました。
《金谷ホテル歴史館》
山口由実さん(’62年生まれ、慶應卒)の著書「クラシックホテルが語る昭和史」を読み日光金谷ホテルの事を知りました。
金谷ホテルの金谷眞一(兄)と箱根富士屋のホテルの山口正造(弟、婿養子)は兄弟で父が金谷善一郎。山口由実さんは正造の曾孫です。
1873年に東照宮の雅楽士《金谷善一郎》が、泊まりにきていた米宣教医師ヘボン博士の勧めで、外国人専用の『金谷カテッジイン」=「侍屋敷」を開業。
イギリス人旅行家イザベラ·バードも1878年に12日間滞在したり、20年間使われた後、保存されています。元は武士の家でしたので、隠し部屋等、昔の知恵が使われており、庭も綺麗です。
《田母沢御用邸記念公園》
日光出身の実業家小林年保の別荘に、病弱だった大正天皇のご静養の為に、紀州徳川家江戸中屋敷(赤坂離宮として皇室に献上後)の一部を1898年移築した事から始まります。その後の増改築の結果、江戸、明治、大正の木造建築を合わせ持っています。木材の宝石箱だそうです!1947年まで利用された皇室3代。部屋数106室(皇室用23,臣下用83室)!
*日光金谷ホテル
夕方5時から泊まり客用に45分間の館内ツアーがあります。アインシュタイン、ヘレン・ケラー他多数の有名人が宿泊。
ここのバーは真空管の音響でジャズを流しています。違いが私には…(久しぶりにバーに入りました!)G7 NIKKOではリッツ·カールトンを利用したようです!
(この写真は 44 安田君提供)

釜蓋朔日 ― 水無月から文月へ     (普通部OB  舩津於菟彦)

水無月から文月へと時は移ろいますね。今年も明日で丁度半分。まだ半分しか時は過ぎていないと思うか、今年は後六ヶ月しか無いと思うか。紫陽花とクチナシそして紫君子蘭、ヤブカンゾウが満開の錦糸公園を歩いて来ました。

『 文月や 空にまたるる ひかりあり 』 加賀千代女   文月の空だなぁ。まだ夕方で日が沈んでいないのに、日が沈むのを待ちかねた月が光っている。
『 文月や 神祇釈教 恋無常 』     正岡子規    文月だなぁ。  世の中の有様はさまざまであることだ。

7月1日は釜蓋朔日(かまぶたついたち)と言う日だそうです
死者の霊魂が地獄の石戸を突き破って出てくるという日。お盆を迎える準備は朔日から始まる。この日を釜蓋朔日と呼び、あの世の釜の蓋が開いて、ご先祖さまの精霊が冥土からそれぞれの家へ旅立つ日とされている。あの世からの道は非常に遠く、それで朔日に出発しなければ盆までに間に合わないということ。走って現世に来てくれるのかしら、写真とかお位牌に向かって、「いろいろ教えてくれたり、今日あるのはも皆様のお陰です」と言うしか無いですね。
御元気なときに言いたかった言葉です。 これから祭祀などの執りおこない方とか戒名とか色々変わっていく時代に成ってきていますね。

日本の英語教育について (4)

日本人の英語教育はどうあるのがいいのか、ということについて、いろいろな立場からのご意見をいただき、 なぜ、英語が必要なのか、それはどの程度の能力なのか、という基本的な命題を議論してきた。今回はそもそもの議論のきっかけであった、”英語教育の手法“ といういわば技術論について私見を書く。

我が国における英語の必要性、という問題について、投稿者各位のあいだで一致した認識は、一般の日本人が大学まで進学した場合、単純合計で10年間まなぶことになる英語教育が、結果としてグローバルな場で外国人とコミュニケートできるだけの成果を出していない、ということである。ただ、ここでいうコミュニケート、とは、会話能力、と言い換えなければならない。なぜかといえば、外国語で書かれた書物を自国語で読解できる、すなわち主要な外国文献が自国語に翻訳されて誰でも入手できる社会環境を維持しているという意味では、日本ほど制度・機構が出来上がっている国はほかにないのではないかと思うからだ。

欧州各国は長い歴史を経てなお、自国の領土に固有の言語を保持しながら、地理的、文化(歴史)的経過からお互いを知り、認め合うという仕組みがあり、言語そのものを知悉しなくてもコミュニケ―ションが保たれているし、ごく普通にマルチリンガルな人間がいてもいわば当然と言える。しかしそのほかの国、米国をはじめとした非欧州の国々が他国の言語に敏感であるとは思えない。日本の若者のように、自国語で、今日はゲーテを読み、明日はサルトルに手を伸ばし、それがすんだらヘミングウエイにしようか、ということが出来る。これは明治開国とともに、わが福沢諭吉をはじめ多くの先達者が切り開いてきた外国語翻訳という確たる文化である。くりかえすが、かの 日本では英語の水準がほかの国に比べて低い、だから日本は遅れているのだ、というお役所議論は全く意味がない。外国の優れた文物を取り入れ、消化し、自国の状況に合わせてローカライズする、という事が大事なのであって、外国語がわかるかどうかという事は単なる事実のあとづけにすぎないからだ。

しかし、そもそもの議論のきっかけである、”グローバルな環境での異文化と対人関係のなかにあって自己を主張し議論を重ね成果を得るための言語、事実として世界語である英語の会話能力” という点についてわれわれが大きく立ち遅れている、という認識には小生も100%同意である。ただ、多くの人が指摘されるように、そういう現実の場においても重要なのは英語というツールだけの問題ではない。小生の経験からいうと、本節の意味でいうコミュニケート能力の不足、の原因は第一に日本人が生まれついてきたいわば日本人としてのしつけ、すなわち自己主張をする前に組織との整合性や他人の立場を考慮する、という文化であり、雄弁よりも断固たる沈黙を貴ぶという武士道的発想ではないかと思う。またそういう時に、これもまた日本人には苦手なのだが、ユーモア、とかエスプリ、といったものが持つ重要性も考える必要があるようだ。

(以前にも本稿で書いたと思うが、あまり評判はよくなかったが歴史の勉強として小生には役立ったアメリカ映画 遠すぎた橋 のなかで、ロバート・レッドフォード扮する分隊長が白昼、敵前での決死的な渡河を命じられるエピソードがある。無謀な命令に部下たちの間に動揺が起きる。ここでレッドフォードがこういうのだ。Hey, what the matter、guys ?   Don’t you have sense of humor ?     大体西部劇とかこういうスペクタクル物の会話はまずついていけないのだが、このカットのセリフは明瞭に聞き取れた。そしてその時、(へえ、ユーモア?)と違和感があった。しかし考えてみるとこのような生死を賭けたような場合ですら、ユーモア、ということが平然とでてくるのが英語の世界なのだろう。こんな生死をかけた場面でユーモアを要求する文化は日本には絶対に存在しない)

前回定義した英語レベルでいえば、今回寄せられた経験論にもあるように、ほとんどの場合、現在日本での標準と言って差し支えないと思うが、中学から大学まで、10年間の英語教育をこなしてさえいれば、実用的なレベルのコミュニケートはできる、というのが小生の経験値である。ただ、ビジネスレベル2、といった程度では上記したようなハイレベルのコミュニケーションを成立させるには不十分であることもわかる。相手が示す言外の意味がわかるかどうか、とか、対人関係の中で生じることとか、ちょっとした蹉跌が重大な誤解につながることもあり得るので、下村君が呈したようなシーンでは、やはりソーシャルレベル、の英語力が必要であると感じている。それではそのソーシャルレベル以上の英語力はどうやったら身につけられるのか。考えているうちに、一つのケーススタディがなんということか、ごく身近にあることに気がついた。自分の孫である。

彼が就学年齢に近づいたとき、息子夫婦は彼をインターナショナルスクールにいれる、という決断をした。正直言って我々夫婦はこれには抵抗があったのだが、いくつかのスクールで小学校から高校まで学んだ彼がつい先日、高校過程を卒業した。そして在日外国人の子弟が対象のPEARL(Programme in Economics for Alliances, Research and Leadership)の参加資格を得て、慶應義塾経済学部への入学が決まった。この PEARL の部分は当初から計画したわけではない、いわば完全なフロックで、当人も受験対策を始めようかという時期だったので、結果善ければすべてよし、に近い結末になった。彼の卒業式(アメリカ式にコメンスメントーcommencement )に出席してみて、改めて彼の英語力に感嘆した。測定方法があるわけではないが、これは見事に我々の定義するソーシャルレベルに達している(当然17歳という人生経験の範囲であるが)をこえていると確信した。結論から言えば、小学校レベルから本格的に教育すれば、外国生活を経ずにこのレベルに到達できる、という(彼には申し訳ない表現だが)実験が成功したわけだ。

ただ、もちろん、このことが、天下の愚策である政府主導の小学校英語教育なる暴論を肯定するものでは決してない。彼の場合、少なくとも學校校舎にいる時間は完全に英語オンリーの環境に置かれていたわけで、たとえ小学校の6年から大学での時間まで含めても、も日本の環境では絶対にカバーできない量、質、環境の英語を体得したからこその話だし、仮に小学校過程でいくばくかの基礎ができたところで上部構造の高学年での教育システムが変わらない限り、かつてこの議論について藤原正彦氏が喝破されたように、(多少は発音がいいくらい)の効果がせいぜいだろう(小生は同氏のご指摘の程度までの習得さえ絶対に不可能だと思っている)し、また、息子には聞いてもいないが、通常の家庭で子供にかけられる教育費とは相当の違いがあったはずだ。さらに幸運だったのは、家庭環境である。息子はアルバイトでためた自己資金で渡米し大げさに言えば徒手空拳、で英語を学び、米国の、いわば下層に近い環境での生活経験があり、現在は米国企業の日本組織にはたらき、嫁もまた米国生活の経験が豊富、というものだったからだ。

彼がこれから大学生活に入り社会人になっていく過程で、獲得したソシアルレベル級の英語力という有利性の一方、ほぼすべての時間を英語を学ぶことに費やした少年時代、という事実がどのように作用していくのか、想像することは難しい。もちろん、多感な少年期を外国人とのあいだで過ごしたことが多くのシーンでプラスに働くことは間違いない。しかしその同じ時期に一般家庭の少年たちが経験した、変な表現だがリアルの日本社会・日本人との交流・日本の子供たちが読んだであろう本や仲間内の交流、といったものを体験していないということがどうなのか、ある場合にはマイナスになることも十分あり得る、と思うのだ。

英語のレベル、ということで今までの議論を延長すれば、彼の場合にはいわゆるバイリンガルになり得る(もうなっているかもしれないが)立場にある。改めて確認しておくと、バイリンガル、の定義は、二国語が完全にでき、併せて、外国語の背後にある思考様式とか心理的反応などを自分のものとして身に着けた状況(いわゆる 英語で考える という反応)である。このことは多くの場合有利ととらえられると思う反面、小生にはバイリンガル人、という事にある種の不安というかむしろ反感を感じることがある。自分の経験からなぜかを述べる。

前にも書いたがhpという外資系会社に勤務している30年プラスの期間、米国本社が日本駐在という形で3年、5年という単位で担当者を派遣してくることがよくあったが、これには3つのケースがあった。すなわち、その人たちが

(1)日本語を全く解せないいわゆるガイジンである。              (2)日本語を英語同様解するいわゆる二世(本人の父母が日本人。したがって  戦後何年か経つわけで年齢的にあまり若い人はいなかった)。                     (3)日本で教育を受け、その後米国で教育を受けた人。

である。この人たちが日本人や日本的慣行やビジネス環境に対応したとき、周囲(つまり日本人従業員、あるときは顧客)はどう反応したか。

(1)見かけもガイジン、日本語はできない。これは明白、何とか通訳してもらうしかない。もちろん、俺っち日本人の心のひだまで分かってくれることはあり得ないな。あとは結果がどう出るか、待つしかあるめえ。

(2)日本語は多少ヘンだけど、時間が多少かかっても、お互いをまず理解できる。ただときどき感じるギャップは、二世、というひとは心は日本人ではありえないんだから、どっか違うんだが、ま、ガイジンよりはもちろんいいさ。

(3)話はもちろん通じるし、問題ない……..はずなんだが、なんか、深いところで信用できない。日本人なんだけどアメリカ人なんだ、この人は。ま、コトバで苦労しないだけガイジンさんよりやいいけど、なんか、信用できない気がする。

この3タイプを我々の基準で考えると (1)のひとの日本語はサバイバルレベル(おはよー、ありがと、げんきですか? レベル)、(2)は個人差はあったがビジネスレベル2プラスくらい,(3)が問題と考えるバイリンガルレベルである。この(3)レベルの人たちはビジネスの遂行、という意味では多くの場合、問題はなかった。しかし日本人が期待し不可欠と考える人間同士の付き合い、チームビルディング、後輩の育成、などとなるとかれらが物理的に日本人でありながら感覚的には米国人であるという事実が障害となって、うまくいかない、あるいは妙な組織分裂を引き起こしてしまう、という経験をした。本人は言葉が通じるから自分のいうことができるはずなのに部下や顧客がついてこない。思ったことができない。なぜだ?という疑心暗鬼に陥り、さらにアメリカの有名大学卒、というプライド、この機会を(hpクラスの会社であっても、やはり日本駐在というのは特別)出世のきっかけとしたい気持ち、などが重なり、悪い場合には (俺はよくやってるのに日本人の部下が協力しない)という最悪の結果をまねく。当初、小生はこれが該当する本人の技量そのものが原因だと思っていたが、今、振り返って考えると、かれらがなまじバイリンガルすなわちバイカルチュラルであったことが原因なのだと考えるようになった。接触する日本人のほうは、日本人のもつ繊細さや人間関係がわかって当然だと思うのに、それが通じない、ということだ。

いったい、人間が異なる二つの文化・慣習・思考過程を同時に自分のものとして持ちえるのだろうか? (英語で考える)という反応は通訳翻訳といった分野では絶対的に有利なことにちがいないが、今英語、次の瞬間に今度は日本語で考えて対応する、などという事は可能なのだろうか。小生の反応が非論理的というか感情過多であることはわかっているのだが、どうも自分には、バイリンガルすなわちバイカルチュラル、 という図式がしっくりこない。技術論としては全く正しいと思うのだが。あえていえば、”人間は二つの時代には生きられない(菊池寛だったか?)” という感覚である。

(小生の愛読書のひとつが大佛次郎の 帰郷 である。やむを得ない国家的な事情で日本を追放された主人公が、戦争(第二次大戦)が終結して日本へ戻ってくる。生き別れになってしまった家族との再会はできない彼の事情を理解し、おさないころしか知らない娘とのあいだを取り持ってくれた女性に好意を持ちながらなお、自分がエトランゼであることを改めて知り、再びひとりで欧州へもどっていく。この主人公守屋恭吾のイメージは、だいぶ違うジャンルだが松本清張の傑作のひとつ 球形の荒野 の野上顕一郎にかさなって、二つの文化の間に翻弄された人生の描写である。もちろんこれが小生の持つ感覚の説明になるというわけでは決してないのだが、これからいやおうなしに訪れるグローバリゼーションの世界での陰翳の様な気もするのだ)。

長くなってしまった。本論についてはもう一度、書き直す必要がありそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

2023年6月 月いち高尾報告  (47 関谷  51 齋藤)

2023年第3回目の「月いち高尾」を、6月28日、実施。 4月26日予定は、ピンポイントで当日だけが大雨の天気となってしまい、止む無く、中止。 雨男・女は誰だったのか?

5月は、KWV三田会の「春の日帰りワンデルング」があり、見送り。 久々の「月いち高尾」を企画したものの、梅雨の真っただ中での日程となり、果たして実施できるのかとの不安を抱きながら、毎日、高尾山方面の長期天気予報と睨めっこしながら、「何とかなりそうだ」と判断、意を決し上京、参加者に雨具必携を前提に、「決行」を連絡。

当日、曇り空で、下界は蒸していたが、雨具のお世話になることもなく、この時期としては、登山者が比較的少なかった初夏、緑豊かな高尾と景信山を満喫した。

(シニア―・コース) 36/遠藤、中司、高橋、吉牟田、鮫島、39/西澤、蔦谷、41/相川、47/伊川、平井、48/福良、47/関谷  <12名>

(景信山コース) 37/矢部、39/岡沢、堀川、40/武鑓、44/安田、吉田、46/村上、47/水町、48/佐藤、50/実方、丸満、家徳、51/斎藤、中里、羽田野、BWV/大場  <16名>

  • シニア―・コース

10:00 京王線「高尾山口」集合 10:15清滝発ケーブルカー 11;20 高尾山山頂 昼食

下り:

・関谷班: 4号路- ケーブルカーで清滝  久々の4号路はそれなりに整備されていたが、階段が増え、改悪との評価

・伊川班: 稲荷山コースから6号琵琶滝を経て清滝  稲荷山コースは木道の階段が整備され、多少興ざめなるも、自然保護致し方なしか

平均年齢80.7歳とは思えない元気なシニア―、足腰が多少覚束ない方も見受けられたが、口の方はお元気そのもの、体調不良、事故等のない楽しいワンデルングでした。

<文責: 関谷>

 

  • 景信山コース

10:00JR高尾駅前バス停集合10:12⇒(バス)⇒10:30小仏バス停10:35⇒(15分)⇒景信山登山口10:50⇒(50分)⇒11:40小下沢分岐11:50⇒(25分)⇒12:15景信山頂上12:45⇒(35分)⇒小仏峠13:20⇒(40分)⇒14:00小仏バス停14:10⇒(バス)⇒14:30高尾駅

・JRのダイヤ乱れでバスへの乗り遅れが危ぶまれましたが、定刻に16人全員が集合しました。(小仏行きのバス停が①番乗り場から②番乗り場に変更になっていました。)

・梅雨の最中でもあり午後からの発雷の予報もありましたが全く雨は降らず都心の暑さをよそに全行程を快調に踏破することができました。

・湿度が高く霞が立って展望が今一つでしたがズンロク植物学博士のご指導の下「ヤマアジサイ(山紫陽花)」「ウツボグサ(靭草)」「ヤマギボウシ(山擬宝珠)」等々花の季節を楽しむ山行になりました。

・梅雨時期のためか登山道、山頂周辺とも我々以外にはほとんど登山者は居なくて、山を独占したような至福の時間でした。

<文責: 斎藤>

 

  • テング飯店 懇親会

ケーブルカーで下山の6名が先行着、冷えた生で乾杯、清滝コース グループ下山の連絡を受け、ビールの準備。 景信山グループからの参加者14名も間もなく到着・合流。 会員増強活動の成果でそれなりの若手!の初参加もあって、従来にも増して、フレッシュな総勢25名の盛大な懇親会となり、今回もテング飯店は貸し切り状態となった。 当店の新商品として、清酒「高尾山」の4合ボトルが登場、今後の酒量激増が懸念される! 年次を越えた元気な高齢OBの楽しい集まりです!

(44 吉田)今回、粗忽モノゆえ、恥ずかしながら三月末に痛めた右足アキレス腱もようよう普通歩きが出来るようになっての、こわごわの試し山行でした。歩きながらの写真はガマンして足元に注意を注ぐようにしておりました。結果、なんとか、足手まといにならずに済みました。これも、思いやりに溢れたペース配分のおかげであります。感謝感謝であります。

「植物」に関してはこの時期ならではの花々との出会いを楽しめました。
植物同好の仲間となった“冬ちゃん”((シブイ)シダ類や(コワイ)キノコ類等々…“冬”場に会えないからこその関心対象ですか?
「サルノコシカケ」見事でしたネ。そして、ご下問ありし、丸い大きなキノコは
「オニフスベ」の仲間ではないかなと“妄想”。
“妄想”ついでに、手塚治虫の「ひょうたん次」を連想してしまいました。
今の世の中をご覧になったらこのキャラクターの登場機会も激増するのではないかなああ…と、さらに“妄想”。
ひょうたん次 https://ja.wikipedia.org/wiki/ ヒョウタンツギ

(大場)今日は大変お世話になりました。

蒸し暑い1日でしたが、お陰様でとても楽しい時間を過ごせました。
ありがとうございました。
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(50 丸満)

初参加でしたが楽しいひとときでした。これからも積極的に参加させていただきます。よろしくお願いいたします。
(編集子)今回、台風の到来にもかかわらずリーダーを勤めてくれた関谷君は早めに帰宅されたが、自宅付近も水が出て大変だったとのこと、お見舞い申し上げる。ご被害のすくなからんことを。

 

 

エーガ愛好会 (225) ブラック・ライダー 

人が主体の出演者の映画。黒人俳優のシドニー・ポワチエが監督兼主演の異色映画で歌手のハリー・ベラフォンテが名演。ストリーは南北戦争後の黒人解放後のセイブの原住民も疾走もお決まりしあるモノの異色映画で人種差別と原住民のこの時代の扱いなどが描かれている。
南北戦争直後、自由を求めて米南部ルイジアナ州から西部にやって来た黒人移住者たちは、彼らを元の農園に引きずり戻そうとする無法者の白人グループによる略奪・暴行・殺害の被害を受けていた。移住者たちのガイドを務めているバック(シドニー・ポワチエ)は白人グループのリーダーであるディシェイに執拗に狙われながらも、移住者たちを守るために必死に戦っていた。そんなある日、巡回牧師を名乗るラザフォード(ハリー・ベラフォンテ)はバックと知り合い、成り行きからバックを手伝うことになる。
バックとラザフォードは協力してディシェイを倒し、さらにバックの妻ルースやインディアンたちの協力を得ながら、何とか追っ手を追い払うことに成功し、黒人移住者たちは無事に目的地に到達する。
シドニー・ポアチエとハリー・ベラフォンテという往年の二大黒人スターによる異色の西部劇。どう見てもベラフォンテの味のある存在感がポアチエを喰っている。演技の眼力が凄い。
内容は本当に興味深くて、南北戦争が終結して黒人が自由になった訳だが、差別というものがすぐに消える訳じゃなくて、南部から西部に移動しようとする黒人を取り締まる連中がいたのだった。それを邪魔したり黒人を支援する人を黒人役のシドニーポワチエが演じる。南北戦争物はいくつも描かれているが、この背景は全く知らなかった。
差別モノは「アラバマ物語」も然りだが、シドニー・ポアチエの出世作の「招かざる客」に比較すれば俳優も少ないし、監督が新味を出そうとしてムリしているところがあったり、総て荒削りで今一の映画だが、観て居てけ付こうハラハラするし、巡回牧師を名乗るラザフォード(ハリー・ベラフォンテ)が中々の名演だと思う。バックの妻ルース(ルビー・ディー)が三人が馬で疾走シーンも中々いけるものだった。

(小泉)Buck and the Preacherが原名。西部劇には、時折主人公の名前が其の侭題名になるが、Jesse Jamesや Buffalo Bill のように知られた名前なら良いが、知られていない名前となると有名人でも「地獄への道」とか「西部の王者」とか考えて邦名を付けるのだから、当然のように名前以外の邦名を考える必要になる。今回も「バックと伝道師」を「ブラック・ライダー」とは、英語乍ら適切な題名を付けたものと感心したものだ。

 南北戦争直後、南部ルイジアナから西部へと自由を求める黒人移住者が白人の偏見や暴力と戦いながらも目的を達成するまでを描く西部劇。主人公バックをシドニー・ポアチエが扮し、監督迄兼ねている。伝道師ラザフォードは、バナナ・ボートで有名な歌手ハリー・ベラフォンテが扮し、無精ひげや歯を汚したりして、とてもベラフォンテとは思えなかった。バックの妻ルースにルビー・デー、白人無法者のリーダーにキャメロン・ミッチェル等が共演する。

 当時南北戦争後のアメリカは奴隷制度が廃止されたものの働き手を失った農場主は秘密結社や賞金稼ぎ等ならず者を雇い、黒人たちを連れ戻そうとする。その黒人たちを助けるのが、元北軍騎兵隊軍曹現道案内人のバックと伝道師と称するラザフォード。本来人種差別を訴える深刻な題材なのだろうが、黒人が善、白人が悪、それにインディアンも絡んで、黒人の味方をすることになるのだが、単純に黒白対決というだけでも面白い。黒人たちが貯め込んできたお金が盗まれると銀行強盗に転じたり、岩山での銃撃戦等アクション場面も豊富で楽しめる。バックと伝道師の漫才的掛け合いも愉快。最後は目的地に辿り着くのだが、一時カナダまで行くことまで考えたバックはその妻ルースに、こんなことまで言われていた。「こんな国は嫌。戦争をしても何も変わらなかった。大地に悪が浸み込んでいて、毒されている。カナダがダメなら海の果てへ歩いてでも行くわ。」当時の黒人差別が際立ったセリフだ。

エーガ愛好会 (224) インビクタス/負けざる者たち  (普通部OB 舩津於菟彦)

舞台は1994年の南アフリカ共和国。ネルソン・マンデラは反体制活動家として27年ものあいだ投獄されていたが、1990年に釈放されこの年に同国初の黒人大統領となった。それまで政府の主要ポストを占めていた白人官僚たちは、マンデラが報復的な人事をするのではないかと恐れ、一部の者達はそれを見越して荷物をまとめ始めていた。それに対しマンデラは、初登庁の日に職員たちを集めて「辞めるのは自由だが、新しい南アフリカを作るために協力してほしい。あなたたちの協力が必要だ」と呼びかけた。安堵した職員たちはマンデラのもとで働くこととなり、ボディーガードチームも予想に反して黒人と白人の混成チームとなった。

一方、南アフリカ代表のラグビーユニオンチーム「スプリングボクス」は当時低迷期にあり、黒人選手もわずか1人という状況だった。ラグビーはアパルトヘイトの象徴として、多数を占める黒人の国民のあいだでは非常に不人気なスポーツだった。政府内では「スプリングボクス」のチーム名やユニフォームの変更を求める意見が多数を占めており、一時はその方向で決まりかけていた。しかしマンデラはこのチームが南アフリカの白人と黒人の和解と団結の象徴になると考え、チーム名とユニフォームの存続を求め周囲を説得し、一方でチームの主将フランソワ・ピナールを茶会に招いて言葉を交わし、励ました。
その後スプリングボクスのメンバーたちは、マンデラの意向で貧困地区の黒人の子どもたちにラグビーの指導に赴く。当初それを不満に感じていたメンバー達も、一連の地道な活動により、国民のあいだでチームの人気が少しずつ高まり、自分たちの存在が国内のみならず世界的に注目されていることを知るに至った。
そしてスプリングボクスは、自国開催の1995年ラグビーワールドカップにおいて予想外の快進撃を見せ、ついに決勝進出を果たす。今や新生南アフリカの象徴として見られるようになったスプリングボクスは、全南アフリカ国民が見守る中、強豪ニュージーランド代表オールブラックスとの決勝戦に臨む。

ラグビーを背景に白人支配の南アフリカが民主主義の平等主義のネルソン・マンデラ大統領のもとにアパルトヘイト撤廃へと。白人と有色人種との融合を「invictus」の言葉の実行していく。
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela [xolíɬaɬa mandɛ̂ːla]、1918年7月18日 – 2013年12月5日)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士。第8代南アフリカ共和国大統領。非同盟諸国首脳会議事務総長(第20代)、南アフリカ共和国国民議会議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)、南アフリカ共産党中央委員を歴任した。
南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び1941年に学士号を取得した。また、その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、学士号を取得した。1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組むそしてマンデラは1964年に国家反逆罪で終身刑となり、ロベン島に収監された。26年の独房で収監中にも勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。また、アパルトヘイトの主要勢力であるアフリカーナーとの対話を予測しアフリカーンス語やラグビーの知識を身につけたのも獄中でのことだった。
1990年2月2日にデクラークは、ANCほか禁止されていた政治団体の活動許可とともにマンデラ釈放を約束し、2月11日にマンデラは釈放される。釈放後の第一声はケープタウンの市役所のバルコニーで行われ、10万人の聴衆が彼の釈放を祝った。1994年4月27日に南アフリカ史上初の全人種参加選挙が実施された。この選挙でANCは得票率62.65%、252議席を獲得して勝利し、マンデラは大統領に就任した。就任式ではヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の指導者が祈るなど全宗教の融和も図られた。
アパルトヘイト後初の自国開催の国際大会となるこの大会をマンデラは全力を挙げて支援した。ラグビー南アフリカ共和国代表(スプリングボクス)は当時ほとんどの選手が白人、特にアフリカーナーで占められており、またラグビー自体が白人のスポーツとして黒人など他人種には不人気であったが、マンデラは開幕戦を直接観戦し、またスプリングボクスを国民融和の象徴として支援し続けた。そのこともあってスプリングボクスは快進撃を続け、決勝戦で再びマンデラが観戦する中で初優勝を遂げた。
そんな歴史的な事をさらりとマンデラ大統領に扮するモーガン・フリーマン(Morgan Freeman、本名: Morgan Porterfield Freeman, Jr.、1937年6月1日 – )は、アメリカ合衆国テネシー州メンフィス出身の俳優、映画監督、ナレーター。2004年『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー助演男優賞を受賞。その他にも『ドライビング Miss デイジー』、『ショーシャンクの空に』、『セブン』などのヒット作に出演歴があり、その安定感と味のある演技によってアメリカのみならず世界各国で賞賛を浴びる実力派国際俳優が好演。
(編集子)関係ないけど、おれ、フリーマンと同い年。

 

南八つ山麓から   (グリンビラ総合管理HPより転載)

5月のブログでお知らせしましたが清里丘の公園の室内プールがリニューアルしこどもパラダイス広場となりました。先々週の日曜日に私が出かけていたので主人が子供たちを連れて行ってきました。

室内には様々な遊具やブロックなどがあり、子供たちは一日飽きずに(お昼ご飯も食べずに)遊んでいた様です。入場料は子供800円、大人850円でした。

日本の英語教育について (3)

慶応義塾大学医学部卒業の外科医で同時にワンダーフォーゲル仲間でもあり、専門分野にあっては脳外科医として世界的に著名な存在で外国文化との接触も多い河瀬斌君からのメールをまずご紹介する。

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私の大学時代の英語の先生は読書は専門的に優れるけれど、public speakingは全く通じない先生でした。学校で教科書を読む学び方は最も非能率的です。その頃の日本人の「英語教育は教養」という観念は誤った概念でした。そのため英語が堪能な人の前では「教養のない自分を隠して」決して自分の英語を話そうとしない人が大半でした。

 私が初めて国外に出た時悟ったことは、英語は世界の人と通ずるための「道具」であって、「教養」ではない、ということでした。自国語を流暢に話す人が英語に不得手なのは当然であり、最も困るのはそれを恥じて話さないことだったのです。下手な英語で身振りおかしく自分の考えを「シナポコペン英語」で懸命に説明しようとする日本人を外国人たちは返って親近感を感じたのです。欧州でさえも英語は自国語ではない人が大多数ですから。
 最も大切なのはうまい英語でなく、話や技術の内容なのです。日本人の持つ独特な文化や専門技術に彼らは尊敬の念を感じるのです。仕事上専門英語を必要とする人はこれら専門分野の特殊な言語や話す場(会社出張、大学研究室や学会)の場に慣れる必要があります。専門分野の言語数は限られていますので、その道に進むと数年で習得できるようになります(私のいる医学分野のように)。しかし日本人はお人好しが多いので、若い頃にその発表をうっかりすると、その独創的な技術を狙っている外国人に盗まれることに注意する必要があります(経験者は語る)。
 それ以外の英語は日常のcommunication toolとしての必要性ですから、それに上達する最も良い方法は小さい頃からEnglish speakerを友達に持ち、彼らと遊びながら自然の会話をすることなのです。特にhearingは彼らから耳を通じて覚えるとが重要です。私は最初の欧州旅行前にその当時独創的であった大学の「英語聴覚ラボ」に通いました。子供にGlobalな、国際的な仕事をさせたい人は、子供の頃から外国人の友達と交わる環境作りをすることが最も大切ですので、そのような学校に入学させることでしょう。ですから私は医学部の教授時代に外国講演で知り合った数多くの外国人留学希望者を受け入れ、大学のカンファレンス、研究室、医局旅行などで医局員たちが留学生と英語交流できるシステムを作りました。それによって医局員が無料で英語を話し、聞こうとするチャンスが大幅に増え(標準英語とは限りませんが実用的)、医局員の外国留学しようとする気力が大幅に増えました。
 しかし若者に最も大切なことは、『人にできない能力を持たせる』ことであって、秀逸な英語を話す能力ではありません秀でた英語を話す能力は通訳に任せればいいのです(大谷翔平のように)。最近ではAIの進歩で同時通訳ロボットやスマホなどがありますので、今後はすべての人に英語を学ばせる必要性はますます低下してくることでしょう。
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(菅原)小生の経験(IBM)からも、貴意に100%同意。これに尽きます。

、『人にできない能力を持たせる』ことであって、秀逸な英語を話す能力ではありません。と言う教育に、日本はなっているでしょうか。

(船津)皆様 社会生活でトップに立たれて生活された方ですから「当たり前」のことが当たり前に見えるのだと思いますし「普通」の知識、教養をお持ちですから「人に出来ない能力を持たせる」と言う事は当然大事だとお考えで当たり前のお考えになっておられると思います。
河瀬斌さんも「子供にGlobalな、国際的な仕事をさせたい人は、子供の頃から外国人の友達と交わる環境作りをすることが最も大切ですので、そのような学校に入学させることでしょう。」と言われているように今や日本も日本だけでは仕事は難しくなり-簡単な仕事でも-国際的に働かざるを得ない状態に成って来ていると思います。
小中学校英語教育についてやり方が大問題なようです。英語教育のMethodを修得した方が日本に来て英語教育をしているなら良いのですが、本来日本の先生の補助で、只英語が話せると言うだけで来日しているようです。従って小中学校英語教育特にフォニックスなどを強化して教え方の問題だと思います。

(安田)英語を通常の義務教育以上に専門的に学んではいませんが、「必要は発明(上達)の母」を実感した学生時代の世界一周の旅の2年間でした。英語は世界の人と通ずるための「道具」或いは「手段」だとのご指摘はまさにその通りで、より深く通ずるためには「道具」の質の向上は必要でしょう。仕事で英語を主たるコミュニケーションの手段として使用せざるを得なかった米国籍会社勤務時代もその感を強くしました。

しかし、ある程度道具が使えるようになれば、もっと重要なのは、その道具を使う本人の「魅力度」「能力」「人柄」とでも呼ぶべき、「道具」の質とは全く異なる、個性の育成と深化或いは熟成です。少年時代からの教育は、まさに「道具」の習得と、併せ人としての魅力度・能力向上を目指す個性の育成の両方がバランスよく達成されることが理想でしょう。少年時代に受ける英語教育の質と内容は、その子供の家庭環境、家計の経済状況、両親の意識などに大きな影響を受けます。経済格差が教育格差に直結する現実が存在します。幼少時代に個性の育成と道具(英語)の習得のどちらに重きを置くべきかと問われれば、「金太郎飴的な教育」から脱皮して『人にできない能力を持たせる』個性の育成教育だと答えます。大谷翔平の例を挙げられましたが、まさに至言です。

AIの進歩、同時通訳ロボットやスマホの普及に伴い、国民全員に等しく小学生時代から義務教育の必須科目として英語を学ばせるかどうかについては、絶対必要だと積極的に賛成する理由が見つけにくい。更に、英語教育に割く相当な時間がバランスのとれた子供の教育には弊害とはならないかなど慎重に検討する必要はあると思う。ただし、英語を喋る質と書く内容でその人の鼎の軽重が問われる仕事に従事する(する積もりの)人は、質の向上が必要不可欠なのは言うまでもない。

(編集子)
河瀬君の意見に全面的に賛同するが、自分が英語をどうやって学んだかを外資系企業で働いた立場から参考までに書いてみて、今後の議論の材料としたい。
自分が大学を卒業した1960年初頭はいわゆる高度成長期のはじまりにあたったが、いわゆる ”外資系” の評価は決して高くなかった。同期の(お世辞抜きに抜群の秀才だった)故後藤三郎が日本IBMに就職したことは異例中の異例と受け止められた。小生は就職2年目に勤務先の横河電機がヒューレット・パッカードとの合弁を開始し、新会社(YHP)に移籍することになり、予想もしなかった ”外資系” でのサラリーマン生活に直面した。
高校時代から英語はまあ得意な学科だったが、”外資系” に就職したからと言ってすぐさま英語での会話が必要になるとは想像していなかったし、この時点での会話能力は前回までの話で言えば ツーリストレベルとビジネスレベル1 の間くらいだったろう。しかし、いろいろな事情があって新会社にHPからの役員が常駐するようになったとき、たまたま ”労働組合の現状を説明せよ” という社長命令があった。死に物狂いで書き上げた説明(当時はワープロなんてものは存在せず悪筆で書き上げた原稿を社長秘書を拝み倒してタイプしてもらったもの)を手にして、着任間もなかった副社長が社長室からタイプ原稿を持って出てきて、(いけねえ、わかっちゃもらえなかったんだろうな)と思っていた自分の耳に ”Hay, this is outstanding !”  と言う感想が聞こえたときの安堵は忘れられない。読む、書く、しかできなかったがそれでも自分の英語が通じたんだ、という感激だったのかもしれない。ほぼ1年後、工場現場でたまたま期末の棚卸作業の真っ最中、汗だらけで部品を数えていた倉庫に課長が顔を出して、社長室へ行け、と言う。なんだかわからずに顔を出して、(おめえ、HPに行ってこい)と有名なべらんめえ調で横河社長から言われた時、すぐ気がついたのはあのレポートを読んだジョージが進言してくれたんだな、ということだった。
それからそれこそ嵐のような2月ほどが経過し、生まれて初めて異国の土を踏み、その後数時間たってモテルに落ち着き、疲れて寝込んでしまった娘を置いて表に出て、とにかく初めて買ったのがアイスクリームだった。この時の感動もまた記憶に新しい。しかしこの (俺の英語もなんとか通じる)という妙な自信を持たせてくれたのはまた違う経験からだった。当時、HPには国際事業を統括する部門があり、そこに小生と机を並べてHPドイツからの駐在員がいた。1960年代と言えば、第二次大戦を戦った経験者がまだたくさんいて、(俺はゼロファイターを知ってる)なんて言う男がいたころで、日本やナチドイツについての反感もまだあった時期だが、そういう中で、ある日、この、いわば敵性外国人2人が、内容は覚えていないが大勢の前で話をしなければならないことになった。小生の前はドイツから来た男で当然だが完全な英語をしゃべる。ここでどうしようか、考えた末、自分の話を、
I don’t want to give you an impression that Germany and Japan are together hand in hand again to fight with you America”
と始めたところ、どっという歓声と笑い声が起こり、中には立ち上がって拍手するものも出る始末。自分でも何だかわからなかったが、(会話技術と同じくらい、ユーモアが大切なんだ)ということを知った。このことが結構有名になったと見え、その後は名前も知らない連中が Hi, Kio (さすがに Gi とは名乗らなかった)と声をかけてくれるようになった。この事件はその後、どれだけ自分を助けてくれたかわからない。コミュニケーションは河瀬君がいうように技術、ツールだけの問題ではない、ということを身をもって知ったと言える。
このカリフォルニアでの10ケ月の生活の間、あらゆる機会をとらえていろんな人(仕事以外での場面、たとえばガソリンスタンド、マーケット、隣の小母さんなどなど)と、半分もわからないことも多かったが、話をする機会を持ち、”会話” より ”コミュニケート” をと心掛けた。自分の英語能力を勝手ながら Business Level 2 と評価させてもらった自信みたいなものはやはり現場の経験だったのだと思う。小生の滞米期間は10ケ月にすぎなかったが、その間、日本語を話す機会は妻と現地で知り合ったご夫婦しかなく、1日の大半はエーゴ社会にあった。このことは重要だったと思う。
この時期、大手企業では海外への進出が目覚ましく、外地での勤務を経験している人も急増した。しかし失礼ながらニューヨークに5年いた、とか、ロンドン勤務何年、というような人たちでも、英語のレベルとなるとそれほどの違いはない、というケースに度々遭遇した。彼らの場合は、あくまで日本企業の出先であり、毎日の会話や就業スタイルも日本と変わらず、日本からくる上司や客先の接待に追われる毎日だった、というのが多くの実態で、折角外地にいながら現地の人や文化に触れる機会はおそらく小生の10ケ月に満たなかったのではないか、と思うことがあった。このあたりには本人というより企業側の問題なのだが。
そこで出てくるのが下村君の疑問から発した、(日本の小学校で英語教育が必要か?)ということになるが、この話はいい実例もみつかったので、次回以降の議論としたい。

エーガ愛好会 (223) 小さな巨人     (34 小泉幾多郎)

BS12では民放としては珍しく「西部劇特盛祭り」と称し、6月9・10・11日に「小さな巨人」「100万ドルの決斗」「ウエスタン」「馬と呼ばれた男」「勇気ある追跡」が放映された。そのうち「小さな巨人」と「馬と呼ばれた男」の2作品は、1970年製作。何れも先住民の中での生活を強いられた白人が、その先住民との精神的交流を描くヒューマンドラマ。特に「小さな巨人」は、時期的には、1964年にアメリカが参戦したベトナムでのアジア人虐殺に異を唱える反省期にも当たり、西部開拓が騎兵隊のインディアンに対する大量虐殺という巨大な罪の上に成り立ったものであることを明らかにし、逆にむしろ白人と交流するインディアンの高潔さを賛美するする先例となった西部劇の転換点とも言える作品だけに感想を述べておきたい

開巻すると、「名前はジャック・クラブ、リトル・ビッグホーンの戦い(カスター将軍の第7騎兵隊がインディアンとの戦いで全滅)で、生き残った唯一の白人だ」とインタビューに応え、回想形式で歴史が語られる。そのジャック・クラブにダスティ・ホフマンが扮するが、その老人たる特殊メイクが凄い。

物語は、その111年前のジャック10歳の時に始まり、インディアンに襲われシャイアン族に育てられることになる。老酋長(チーフ・ダン・ジョージ)から小柄だが勇敢な点を認められ、小さな巨人という名誉ある名をあたえられ息子とまで呼ばれる。酋長は「私の心は馬のように空を飛ぶこと」が口癖で、二人の絆は最初から最後まで一貫している。
絆は一貫していても、その後の経緯はインディアンと白人の間を往き来し、その相違を記す余裕がない程めまぐるしい。白人としてのエピソードは、牧師の家へ引き取られ、ペテン師(マーティン・バルサム)と旅したり、ガンマンになって、ワイルド・ビル・ヒコック(ジェフ・コーリー)と知り合うも、スウエーデンの人妻を娶り雑貨商へ。それも失敗し、カスター将軍(リチャード・マリガン)の偵察員になるが、再びシャイアンの村へ戻る。神秘的、原始的生き方の中に、シャイアンの妻を得て、小康を得るが、白人によるワンタ川の虐殺により、妻と産まれたばかりの子供すべてを失う。投身自殺を考え、崖の上に立ったジャックの眼に、カスター将軍率いる第7騎兵隊が映る。

再び偵察員に雇われたジャックはカスター将軍以下がリトル・ビッグホーンで全滅するのを目のあたりにする中、傷ついたジャックはシャイアンに助けられる。その後死期が近ずいた老酋長とジャックは山の頂に登るが、雨にうたれて二人共々山を下りる。

以上が概要だが、本当にジャックは、122歳以上迄生きていたのか。戦闘の中心、ワンタ川の虐殺とリトル・ビッグホーンの戦いは、まぎれもなき史実だが、白人社会、先住民社会の往き来に於けるホラ話的武勇伝が、本当の話か如何かは疑問な点もある。しかし必死に生きて行くサマが、真面目一点張りでなく、行き当りばったりで、コメディ仕立てでの話になっている点、逆に本当らしく見えるから不思議だ。

(ウイキペディア解説)

小さな巨人(ちいさなきょじん、原題: Little Big Man)は、1970年製作のアメリカ映画。同時代の『ソルジャー・ブルー』とともに、西部劇の転換点に位置する作品として映画史に残る作品である[要出典]。 トーマス・バーガー英語版原作。121歳の老人のホラ話のような人生の中に、ネイティブアメリカン当時のベトナム戦争の問題[要出典]をエンターテイメントに包んで表現している。