秋葉原、という地名はよく知られているように、”電気街” という異名があって、電気販売店の密集地というイメージが強く、外国人観光客の ”爆買い” には人気スポットにもなっている。僕らの中学生時代は当時の先進技術であったラジオやアンプの自作に興味をもった、いわゆるラジオ少年には部品や材料、工具に測定器などの供給地として大げさに言えば一種の聖地みたいな場所であった。
小学校の時、”鉱石ラジオ” なんてものに興味を持ち、中学に入って真空管を3本使った(当時自称 ”通” の間では ”3ペン” とよばれたもの)構成のラジオつくりをクラスメート数人で始めた。家でもなんとか使えるものが出来たことで気をよくして、つぎには ”短波受信機”ってやつを造ろう、ということででっちあげた6球のラジオで英国BBCの放送を受信し、つたない英語で書いたリポートにBBCからカードをもらったことでさらにラジオ熱が上がり、次のステップとしてアマチュア無線へ進んだ。この過程で、小遣いを抱きしめて、秋葉原へは足しげく通ったものだ。
戦後、なぜこの場所がいわばラジオや通信機マニアの聖地化したのかはよくわからないのだが、最盛期には神田駅のガードあたりから万世橋、秋葉原といろんな部品屋が軒を連ねるようになり、それらの店がやがて一つの建物に同居する形になって、いわば現在の用語で言えば電機部品スーパーみたいなものになった。神田から始まって、覚えているだけでも5つか6つはあったと思うのだが、その生き残りとして秋葉原駅にほぼ隣接したところにラジオデパート、というのがまだ営業している。しかし市販されるエレクトロニクス機器がデジタル化と相まってあまりにも高度化してしまったために、アマチュアが一から部品を組み立てる、という時代ではなくなり、“自作” といってもそのクライテリア自体が様変わりしてしまったので、この種の店の存在意義も変わりつつある。
小生は退職後、KWV仲間の浅野三郎君や彼の友人各位の指導でこの道に復帰し、それなりに地球規模の交信を楽しんできた。これは中学時代には想像もつかなかった性能を持つ通信機が専門メーカーによって提供される時代になったからだ。しかし小生はいわば前時代的な、ありていに言えば天邪鬼的思考で、”自分で作った通信機で交信する” という夢が捨てきれない。しかし ”自作” が前提であった時代とは違って、他人に迷惑をかけないためには、メーカー並みとは言わずとも最低の機能を持つ機器を作るというのは並大抵ではないという現実に向き合っているのが現状だ。必要な部品の調達もネット商法によって手軽に入手ができるようになったが、やはり秋葉原で部品屋をほっつきあるくのは誠に楽しい。たまたま、今取っ組んでいるプロジェクトに足りないものがでてきたので、ほぼ半年ぶりに秋葉原へ行ってきた。”自作” が少なくなったうえに、世の中に背を向けて、時代遅れもはなはだしく(というか勉強不足もあって) ”真空管でやる” というドンキホーテ主義を貫いているので、そのためには時代錯誤的な、オールドファン向けの部品を扱ってくれていたある店に行こうと思ったのだ。
しかし、実はやがては来るものと覚悟していたのが現実となり、今日行ってみたら店にシャッターが下りているではないか。隣の、これも良く行く店で聞いたら、やはり昨年末で廃業しました、ということであった。秋葉原で、という事はたぶん全国でおそらくただ一軒、かつてのラジオ少年向けに頑張ってくれていた店主のSさん(確か小生と同年齢だったと思うのだが)にも会えずじまい、また一つ、キザに言えば心の灯みたいなものがなくなってしまった。
これからはあまり好きではないのだが、通販をさがして似通った部品を探すしかあるまい。たとえば話はコマくなるが、すずメッキ電線にかぶせる絶縁チューブは今では当然プラスティックになっているが、昔使っていた、エンパイヤチューブ、という現代のアマチュア諸君はご存じないものが秋葉原廣しと言えども置いてあったのはこの店だけだった。製品としての機能では現在のものの方が格段にいいのだが、”昔” を偲ぶために使い続けてきたのだがこれも終わりにしなければなるまい。現代の発光ダイオードなどというロマンの感じられない不細工なものを避けて、わざわざ模型用の豆電球で、あのほんのりとしたパイロットランプの雰囲気を楽しんできたのだがこれも難しくなっていくだろう。
明治人のいわく “降る雪や 明治は遠くなりにけり” を改めて実感し、今何度目かのスクラップアンドビルド、を繰り返している送信機が ”わが恋の終わらざるごとく この曲も終わらざるなり” なんてオーストリア人の嘆きにならないようにしたいと思いながら帰ってきた。電車を降りたら甲州街道に木枯らしが吹き荒ぶ、寒い半日だった。