秋のたより、かなあ (HPOB 金藤泰子)

酷暑の日々からようやく朝夕は涼しさを感じるようになりました。
今年の都心の真夏日は9月20日(水)現在で、88回目の最高気温30℃以上の真夏日続出、その後も年間真夏日の日数が過去最多記録を更新中だそうです。
小泉さんの撮られた百日紅(サルスベリ)の花、綺麗な色でしたね。
隣家の百日紅は花がだいぶ減ってきてはいますが今も咲き続けています。 百日紅は家の近くでは真夏に花をつける数少ない花木です。 100日間は花をつけませんが毎年楽しませてもらっています。
そういえば、毎年夏の夕方、外の植木鉢の草花に水遣りをする間に蚊に何か所も刺されていたのですが、この夏の暑さには蚊も まいっているようで、3回位しか刺されていません。 夏の始めに1・2匹 その後は先日1匹やっつけました💪🏻
草の陰に顔を見せていたカナヘビも今年は見かけませんが、新顔が現れました。 尻尾が長いメタリックのような青のヒガシニホントカゲでした。 このトカゲは動きが素早く一度見たきりです。
撮った写真を載せようと思いましたが、爬虫類は嫌いな方もいらっしゃるかもしれませんから、やめておきます。
天気予報では木曜に、また33℃になりそうな事を言っています (・・;)
その後は秋めいてくるようですから、もうひと頑張りですね。
9月29日(金)は中秋の名月だそうです。

コロナとインフルエンザ同時流行について    (34 船曳孝彦)

新型コロナウィルスCOVID19患者が増加しています。

1日1万6千を超えており、第8波のピークに近い数値です。しかも定点観測からの推計であり、世の中の意識はコロナをすっかり卒業してしまっており、制約もかなり弱いことから自分で有料の検査を受ける気の全くない人ばかりです。従って本当はもっと多いものと考えざるを得ません。しかし政府は体面からでしょうか第9波と認めません。

実際私の周囲でも、感染者は頻発しており、皆さんの周囲でも同様でしょう。私の参加した会合でも2回陽性者が出て、私は濃厚接触者でしたが2回とも陰性で事なきを得ました。今回のコロナは、EG5通称エリス株というオミクロンXBB.1.5からの新変異種が4割を占めるようです。感染力は一層強いようですが、どうやら重症化度は低いようです。

しかし大変なことにインフルエンザとの同時流行が起こっていることです。前期の会合でもコロナとインフルが同時に発病しました。インフルエンザがこの時期としては未曽有の高陽性率で、この3年間流行が下火だったことで国民の免疫が低下しているのではないか、海外から新たなVirusが入ったからではないか、など議論されていますが、感染防止法はコロナと同じですので、罹らないようご注意ください。

コロナにもインフルにも、それぞれワクチンが大切です。新変異株に対する防止力は未知ですが、今回ワクチンはBB.1.5.に対応する新しいワクチンですから有効性期待大ですし、重症化防止に有効です。私も既に7回目を受けました。

10月からはコロナ医療支援が縮小されます。高額治療薬が全額公費だったものが一部負担に、入院費補助の限度が2万円から1万円に、医療側には病床確保料が8割に減額、診療報酬も来年減額します。

やがてコロナはインフルと全く同様の扱いになるものと思われます。 コロナ以前に在った社会生活は復活させねばなりません。家に閉じ籠らず、十分な対策をしつつ自由に他人と逢い、活発な健全な生活に向かいましょう。

エーガ愛好会 (232) ロスト・キング  (HPOB 小田篤子)

昨日お墓参りを済ませ、午後の回の1時間前に行ったのですが、月曜だというのに”満席” でした!仕方なく本日午前中の席を予約して行ってきました。
8割位はうまっていたように思います。
私も飯田さんほどではありませんが、「あっ!」と思った記事?を時々切り抜いています。この映画は添付の記事を題材にした実話でした。(新聞の死亡記事を題材にしたと言うElvisのHeartbreak Hotelを思い出します?)
2人の男の子の母親のフィリッパ(Sally Hawkins)は持病や年齢で昇進できず落ち込んでいました。ある日シェークスピアの「リチャード3世」を観、本当にそれほどの悪人だったのか?と疑問を持ち、歴史書を読みあさります。そして、買った本にはさまれていた、”リチャード3世協会”に入会。遺骨が未だ発見されていない事を知ります。
色々調べ協力を得て、ついに、今は駐車場になっている場所で《R》=reservedの文字を偶然見つけ、この下では…とひきつけられていきます。
歴史家でもなかった主婦が 信念を持ち、突き進む姿に感心しました。
私が英国の歴史を少し知ったのは、前にも述べましたが、(河瀬さんが奥様と写っていらした)コッツウォルズの《シュードリー城》にたまたま寄り、ちょっと怖い”ヘンリー8世と6人の王妃”のマトリョーシカ人形を買ってからのことです。
(編集子)このリチャード三世が世に伝わる悪人ではなく、実は優れた王であった、ということをたまたま病気で入院した名探偵が友人の力を得て立証する、という英国ミステリの傑作が ジョセフィン・ティの 時の娘 である。この作品をきっかけとして、ベッドサイド・デテクイブというコトバが生まれた。日本では高木彬光が探偵神津恭介を入院させて、この時の娘、に挑戦する、という小生お気に入りの一作が 成吉思汗の秘密 である。神津の結論は、成吉思汗は実は生きながらえた源義経だった、という事になった。小生はこれを信じているのだ。

(ウイキペディア解説)

時の娘』(ときのむすめ、The Daughter of Time)は、ジョセフィン・テイ作の長編推理小説。グラント警部シリーズの一作で、1951年に発表された。悪名高い15世紀のイングランドリチャード3世の「犯罪」を、現代の警察官が探究する。テイは本書出版後間もなく没しており、本作が作者存命中に出版された遺作となった。テイの代表作と呼ばれる本作は、探偵役が歴史上の謎を解き明かす歴史ミステリの名作として、またベッド・ディテクティヴの嚆矢的作品として知られる。

日本語版の翻訳権は早川書房が独占所有する。1954年に村崎敏郎訳でハヤカワ・ミステリから刊行、1975年に小泉喜美子訳でハヤカワ・ミステリから刊行、1977年に小泉訳でハヤカワ・ミステリ文庫から刊行された。

(小田)ありがとうございます。「時の娘」是非読んでみたいと思います。

追加情報ですが、協会仲間達のクラウドファンディングによる協力、その他で遺骨を発掘したフィリッパ·ラングレー(1962生まれ)は、2015年にエリザベス女王から勲章を授与されています。リチャード3世も名誉を回復され、英国王として認められました。

百名山登頂完遂!   (39 堀川義夫)

2023年9月24日(日)100名山100座目の高妻山に登頂し、15歳で丹沢(塔ケ岳)登頂以来、途中26歳から46歳までの20年間のブランクがありますが、82歳の今日まで足掛け67年かけて100名山を制覇することが出来ました。67年も掛って制覇したのは、最長期間記録では無いかな(笑)・・・?? そもそも深田久弥の「日本100名山」は1964年(私の大学卒業の年。東京オリンピックの年)の発刊です。従って、学生時代には縁がありませんでした。

46歳で登山やスキーを再開したころは、深田久弥の100名山をバイブルにして、中高年の登山ブームが始まっていました。私も一時期、100名山を意識して数座を登りましたが、直ぐにこれは違うのではないか? 好むと好まざるともやみくもに山に行くのは良しとはせず、同じ山でも自分の好きな山に四季折々行く方が私は好きなんだ。という意味で100名山を意識しなくなりました。

2020年の夏のことでした。ある山友に100名山完登まであと幾つですかと聞かれ、改めて登った山の数をカウントするとなんと85座もありました。79歳の時でした。それからは100名山制覇を意識し、積極的に行くようにしました。86座目以降に行った山は次の通りです。15座登頂に3年を費やしました。

2020年7月 火打山(86座目)妙高山(87座目)

2021年5月 久住山(88座目)祖母山(89座目)7月 幌尻岳(90座目)11月 剣山(91座目)

2022年4月 伊吹山(92座目)5月 恵那山(93座目)荒島岳(94座目) 6月斜里岳(95座目)

7月 雌阿寒岳(96座目)

2023年6月 岩手山)(97座目) 7月 早池峰(98座目)雨飾山(99座目)高妻山(100座目)

 

100座目登頂記

2023年9月24日(日)前日から長野入りし善光寺に登頂祈願し、当日は最高の天候に恵まれ、婿(二女の夫)と孫(長女の長男)そしてKWVの10年後輩の丸満さんを従え、いいえ、付き添われて出発しました。登頂までは何とかコースタイムに近いペース(5時間少々)。で登ることが出来ました。頂上で記念撮影をしていると周辺の方々から温かい拍手や「おめでとう」の言葉にもう少しで涙がこぼれそうになりました。   下山は最悪でした。最近は下山に想像を超える時間を要するようになってしまいました。情けないほうほうのていでバテバテになり、途中意識朦朧になりそうになりながら、12時間を超える山旅をやっとの思いで何とか無事に終えることが出来ました。

婿の譲さん、孫の裕也、後輩の丸満さん。本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。100名山完登で一区切りがつきました。これからも、自分の体力に見合った山旅を楽しんでいきたいと思っています。お世話になった多くの方方に感謝、感謝です。ありがとうございました♪

高妻への登り

懐かしい顔です  (34 小泉幾多郎)

安田さんから尾白川渓谷遡行の記事に、船津さんの清涼感満点と保屋野さんお西沢渓谷とのメールを拝見。大分昔のことですが、歩いたことを思い出し、メールを書かないではいられなくなりました。

あれは今から12年前の2011年7月28日、安田君同様、二人で、ご存知?KWV同期の矢郷君と自家用車経由で行ったことを昨日のように想い出しました。当時は、KWV34年卒は、年間行事として、新年会、お花見、納涼会、忘年登山を持ち回りでやる決まりがあり、その年も忘年登山として、2011年11月23-24日西沢渓谷を歩いたのでした。三人の文章を読むと当時のことが思い起こされます。まあ当時と似たような年齢?小生今歩こうにもチョットムリのようです。

歩くのは今のうちです。大いに歩き回って下さい。 素晴らしい滝の写真思い出されます。西沢渓谷の集合写真がありましたので巻頭に紹介させてもらいます。。合計参加人員16名、うち奥方2名、先に逝ってしまった仲間5人もいるのには、今更ながら残念。

(編集子)小生などから見れば、一番怖かった 鬼の三年生 先輩各位、いろんなことが次々と思い出されます。まさに ブリック なんかで歌った歌の文句どおりですね。

 

彼岸に思い出すことなど

KWV同期の仲間で、月に一度、高尾山くらい歩こうぜ、と気楽にはじめた “月いち高尾” という行事が、1年も続けば上出来、と思っていたのに後輩の年代からうわさを聞いて参加してくれる人が増え、いまでは言い出しっぺの我々(昭和36年度卒)とは現役時代会うこともなかった ”若い“ 諸君が主力となり、毎回参加が増え、リーダーも僕らの用語でいう ”50年代“ に移ってOB仲間の交流の場として定着した。僕らKWV卒業生にはOB会の存在が何よりのものだと改めて感じる。

この種プランでもちろん欠かせない二次会、その定番となったJR高尾駅南口にある 天狗飯店、通称テング、は中華料理店、といいながら日本蕎麦からデザートまで豊富なのだが、そこで壁に貼られたメニューを冷かしているうちに “汁粉と と ”ぜんざい” はどう違うか、という議論になったことがあった。居合わせた40年卒、通称 “あいちゃん” こと藍原瑞明君が律儀にこの事情を調べてこのブログに投稿してくれたことがあった(2018年1月21日付本稿)。大体がのん兵衛仲間で出来ているプランでこの種の話題自体、珍しいのだが、日ごろからのほほんとしている(ように見える)”アイちゃん” の意外な几帳面さを発見して一同感心したものだった。

さて浮世はお彼岸とあって、9月20日付け読売新聞のコラムに彼岸のお供え物に関する記事が掲載された。その書き始めに、・・・・ぼた餅かおはぎか、和菓子として同じものだが・・・・とあったので、この汁粉ぜんざい論争?を思い出したというわけだ。新聞記事の中でもこの種のコラムを書く人は論説(社説)を担当する人が其の新聞の表の顔とすれば、裏の顔と言われるくらいのベテランであるのが通例である。読売でここを担当しておられる方を存じ上げているわけはないのだが、たびたび心に響く記事を多く拝見したり、なるほど、そういうことかと納得することもたびたびある。

今回の記事は彼岸にちなんだ話で、それによると、この時期に登場することが多いぼた餅は春に咲く牡丹、おはぎは秋に咲く萩の花にちなんだもので、江戸時代には同じものを夏には 夜舟、冬に 北窓 と言ったそうだ。餅米を突かず、つぶして作ることから “着き知らず” の夜舟、寒いときにはこれを ”月知らず“ の北の窓、としたという。コトバ遊びかも知れないが、なんとも優雅ではないか。正岡子規は “梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな” と詠んだそうだ。

小生この肝心の彼岸、という行事にいままであまり関心をもったこともないし、父母の墓参りもろくにしていないのだが、(そういえば彼岸だなあ)と気がつけば、ここ数年の間に申し合せたように彼の岸にわたってしまった幾人かの友人のことがなんとなく心に浮かぶ。季節もうつり替わるこのころ、日本という国のもつ優しさみたいなものを感じている。

あすあたり、夜舟、でも買いに行こうか。

尾白川渓谷散歩     (44 安田耕太郎)

”おじらがわ”(尾白川)と読む、甲斐駒ヶ岳を源とする富士川の支流の雄大で優雅な渓谷に友人二人と一緒に行ってきました。上流部の花崗岩層を通った清らかな水は、「日本名水百選」に選ばれ、「南アルプスの天然水」としても有名。北杜市白州の絶景スポット。20余の色とりどりの滝の織りなす絵巻物の景色を堪能しました

都内から車で2時間、中央高速道・須玉ICで降りて、20分で尾白川渓谷駐車場へ。そこから5分ほど歩くと標高770mの駒ヶ岳神社が渓谷の入り口。そこは甲斐駒ヶ岳へ登山する、頂上まで標高差2200mある日本三大急登のひとつ黒戸尾根の登山口でもあります。吊り橋を渡って、左へ行けば黒戸尾根へ、右(尾根の北側の沢)へ行けば尾白川渓谷です。

渓谷の最終地点・不動滝(標高1100m)まで往復6.5キロの道のり。標高差は350mほどだが登り・下りの累計標高差は道がアップ&ダウンしていて、それぞれ600mもあります。高尾山登山口から頂上までの約2倍。道はサンダル履きで気軽に歩ける渓谷と異なり、登山靴が必須の本格的登山コース。渓谷沿いの道は狭く急勾配、岩場、崖、梯子階段、安全確保用のロープあり、滑りやすい木の根っこは随所にありと、安全第一の慎重な歩行が必要なコースでした。滑落事故も起こっているとのこと。黒部渓谷の欅平・阿曽原間の水平歩道を彷彿とさせる箇所もあり、往復4時間超を要したものの、深い森の中オゾンをたっぷり吸って、滝も近くマイナスイオンを感じられた涼、雄大な渓谷美、登山気分を満喫できた渓谷探訪でした。

西国も秋の気配です  (大学クラスメート 飯田武昭)

宝塚はマンションだらけで秋を感じる場所は少ないですが、自宅横の武庫川の浅瀬に40~50羽の群れで鵜(う)が、羽根干しに両羽根を広げて休んでいる姿がこの季節は毎日見られます。

六甲山の東端が直ぐそばまで迫っているので、もう暫くして涼しさが増したら六甲山か五月山(東方面の川西市、池田市方面)に行けば秋が感じられます。でも私は兵庫県の不便さだらけの北部(太平洋側の神戸、姫路から日本海沿いの城崎温泉までが兵庫県です)の丹波篠山市、豊岡市などに近年は興味を持っています。

兵庫県の中部・北部は列車の本数が少ない、宿泊する宿が少ないなど不便さでは結構楽しめます。以前、レポートした≪丹波の森公苑-オオムラサキの会≫が、その一つです。

(編集子)学生時代、父親が阪神芦屋駅前にあった、戦前の富豪の家だったというところを改造した社宅に入っていたので、毎夏、1週間ほど滞在するのを常にしていた。家から芦屋の浜まで、海パンにサンダルで泳ぎに行けたものだ。宝塚には2度ほど行ったことがあるが、飯田兄のご指摘の様な風流を楽しむには幼過ぎたのだろうか。いずれにせよ、暑い武蔵野くんだりでは味わえない秋かな。

 

八ヶ岳南麓ー収穫の秋がそこまで (グリーンビラ総合管理HPより転載)

現在の外気温24度、雲が多い空模様ですが晴れとなっております。湿度が高めでジメッとした空気に感じます。

「八ケ岳シャイン」として栽培している葡萄を本日、「よってけし長坂」に初出荷してきました。朝5時に収穫して、仕分け、梱包等を済ませ、店舗内に置かせてもらいました。少しづつですが、出荷していきますので目に付きましたら、手に取って頂けたら幸いです。

乱読報告ファイル (43) ”戦争もの” 乱読記 (普通部OB 菅原勲)

以下の“戦争もの”を立て続けに読んだ。

1.「暁の宇品」(ノンフィクション)。添付の感想をご覧ください。

2.「銃弾の庭」(フィクション)。著者:S.ハンター。連合軍、ノルマンディー上陸後、米軍を悩ませて来たドイツのスナイパー(狙撃手)を、同じくスナイパーのアール・スワッガーがやっつけるお話し。

3.「暗い波濤」(フィクション)。著者:阿川弘之。ミッドウェイで米国にボロクソに負けて以降、終戦(敗戦)までを、海軍第二期予備学生たちの群像を中心に描いた負け戦のお話し。

ノンフィクション、「暁の宇品」、副題が「陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」を読む(著者:堀川恵子、出版:講談社、発行:2021年)。宇品港(現広島港)を作った広島県令(知事)、千田貞暁の一字を取って、その司令部は「暁部隊」と呼ばれた。

亡くなったノンフィクション作家、立花隆(例えば、「田中角栄研究」、「日本共産党の研究」など)が堀川を極めて高く評価していたが、それを裏切らない出色のノンフィクションだっ

た。ただし、以前、堀川が亡夫、林新の原稿を基に書いた「狼の義 新犬養木堂伝」を読んでいたから、これが初めてのことではない。

勿論、題材が殆ど知られていない陸軍の船舶部隊のことだったことにもよるが、事実を徹底的に調べぬき、それを一つの物語に仕立てた手腕は並大抵のものではない。

その内容は、陸軍と言っても戦闘の話しではなく、戦闘に欠かせない兵員輸送と兵站の話しだ。日本と言う島国からは、戦闘員を目的の大陸、島などに輸送する手段が必要となる。勿論、兵站についても同様だ。だが、日本では、海軍が自分のことで手一杯であったことから、そう言った輸送は陸軍がやることになった(他の主な国では海軍がやっており、日本の場合は長州[陸軍]、薩摩[海軍]の軋轢があったが故の話しとも言われている)。

しかし、陸軍に船舶の建造能力などある筈がなく、船員も含め全て民間の商船などを徴用して輸送船とせざるを得なかった(この戦争で、7200隻以上の商船が、撃沈されたと言われている)。これら裏方の業務を一手に引き受けたのが、軍港である宇品にあった陸軍船舶司令部だ。呉が海軍の軍港であり、宇品は陸軍の軍港だったわけだ。

なかでも注目すべきは、陸軍の船舶輸送制度を整備し「船舶の神」と言われ、昭和12年(西暦1937年)から15年(同1940年)、宇品の陸軍船舶司令官だった中将、田尻昌次の止むに止まれぬ建白書だ。田尻は、日本の兵站の脆弱性、致命傷を充分に知悉、熟知していただけに、米国との戦争は勿論のこと東南アジアに南進することさえも無謀であることを陸軍の中枢のみならず各省にも訴えている。しかし、船舶司令部内で不審火があったことを理由に、事実上、解任されてしまった。

また、原子爆弾が広島に投下された際、陸軍船舶司令官だった佐伯文郎中将の果敢な行動も忘れ難い。当時は、本土決戦も有り得る戦況だったが、佐伯は、独自の判断で(広島の陸軍は壊滅)、全兵力を燃え盛る市内の人名救助と災害復旧に割いた。放射能汚染の危険をも顧みず、戦闘司令部を市内の中心部に置き、自ら陣頭指揮を執った。実は、彼には、関東大震災の時の陸軍の支援活動の経験があったのだ。

その結果、今、呉が、依然として、海上自衛隊の拠点になっているのに対し、宇品には陸軍船舶部隊の影も形も残っていない。

これを読むと、作中、田尻が建言して、実質、解任されたように、当初から、日本は戦闘に必要な兵站を充分に考慮しておらず、大東亜戦争が全く無謀な試みであったことが良く分かる。それにしても、今にして思えば、日本は、途轍もなくバカなことをやったもので、つまるところ、その実体は、「ナントカナル」と言う得体の知れない代物だった。

(編集子)むむ。”暗い波濤” を読んだか。俺は感動して読んだね。いま、ひょととしたきっかけがあって、逢坂剛の イベリアシリーズというのを中古で買ってきて(アマゾンで一冊150円)最後の一冊を読んでる。貴兄ご指摘の全く無謀な戦争に至る背景(英国はアメリカの参戦を待つためどうしても日本に戦争を始めさせたかった、という見方)がメインの筋立てで、スペインという結局は中立で押し通した国の事情がなるほど、と思わせる。

直接関係はないが、貴兄の文章でながいこと疑問に思ってることがある。はなし、という単語に し という送り仮名は必要なのか? 小生かなづかいなんか気にしたことがないので、当用漢字が設定された時になにか決まりが設定されたんだろうか、という事を今さら尋ねるのも気が引けて今まで来た。ご解説賜れば幸甚にて候。