春の終わりに

  

    桜餅 ”ほな” ”ほな” 言うた あれっきり

読売新聞朝刊で紹介された一句である。全国的番組になった、かのプレバトブームに関わらず、俳句の奥義などとはおよそ縁遠い小生であるが、なんとなくほのぼのとした中に込められた哀切さがずんと心に届いた。

春は冬の終わり、新しい芽が吹きだすとき、という自然の流れの中、人の世も何かと表は華やいでいる翳で、別れの季節でもある。

我が家の近く, 地元で古顔、なじみの和菓子屋はすでに柏餅の季節だった。すでに春が終わっていることを改めて感じたことだった。

 

ハリー・べラフォンテ 逝く    (大学クラスメート 飯田武昭)

 

友人からの情報では、ハリー・べラフォンテが先程亡くなりました。死因は鬱血性心不全だそうです。享年96歳でした。火曜日の朝ということです。日本では火曜日の夜になります。ニューヨークとの時差が12時間。

カリプソという言葉を日本に伝えたのは、彼の歌ったバナナボート・ソングでした。また、1985年でした。アフリカの飢餓を救うための 「USA for AFRICA ”We are The World”」はハリー・ベラフォンテの発案で企画されたものです。一番後ろの列で歌っていましたね。テレビの中継を見ていましたが、夜明けの4時半まで見て聴いていました。凄い番組でした。

(友人の解説を転載しておきます)                   1956年に「バナナボート・ソング」がリリースされた。ハリー・べラフォンテのデビューである。日本では翌1957年に発売になった。それまで誰も聞いたことがないジャマイカの労働歌が元になっている。当時、ジャマイカの「カリプソ」として売り出されたが、カリプソはトリニダードで生まれたスタイルで、本来はジャマイカ民謡の「メント」の歌なのだそうだ。アメリカでは「メント」と言っても通じないので「カリプソ」ということにして売り出したのである。べラフォンテの母親がジャマイカ出身だったことで、この歌を歌うことになったのだろう。

日本でもカリプソブーム。色んな歌手がカバーしたが、カリプソ娘、浜村美智子が一番売れた。「今月ぁ 足りない 借りねばなら~ぬ」なんて替え歌まで出来た。「ダニーボーイ」はアイルランド民謡の「ロンドンデリーの歌」に歌詞を付けた、第一次世界大戦前夜にFrederic Whetherlyが書いた歌である。べラフォンテが歌って世界中の人に知れ渡った。ビング・クロスビーもジュディ・ガーランドもレコードを出しているが、多くの人はべラフォンテの歌がラジオから流れてくるのを聴いたものだろう。あなたが一番感動的なダニーボーイだと思うのは誰の歌でしょう?

(編集子)べラフォンテ本人よりも浜村美智子のハーフヌードのほうが日吉の丘では話題になったもんだ。ダニー―ボーイ、あの哀切を帯びた歌唱は確かに心に染みた思い出がある。ただ、小生の趣味からすると フランク・シナトラ版かなあ。

“チャットGPT” についての実験

中司恭さんは、日本の経営者であり、IT企業の創業者の一人として知られています。以下に中司恭さんの経歴と業績をまとめました。

1957年に東京都で生まれる。
早稲田大学を卒業後、1981年に日本IBMに入社。
IBM時代には、プロジェクトマネージャーやマーケティングマネージャーとして、多くのプロジェクトを手掛けた。
1987年にIBMを退社し、ベンチャー企業のシステムエキスパート株式会社を設立。同社は、コンピュータネットワークの構築やシステムの開発・保守などを手掛けた。
1991年には、インターネットサービスプロバイダーのIvyNetを設立。日本で初めての商用インターネット接続事業者として、インターネットの普及に貢献した。
1996年には、ITコンサルティング会社の日本システム技研を設立。同社は、政府機関や大手企業などのITシステム構築に関わっている。
2000年には、デジタルメディアの分野に進出し、アイビーシーという子会社を設立。同社は、音楽配信や映像配信サービスなどを展開している。
2005年には、IvyNetを楽天に売却。
現在は、日本システム技研の代表取締役社長として、企業向けのITソリューションの提供に取り組んでいる。

中司恭さんは、日本のIT業界に多大な貢献をしてきました。特に、インターネットの普及に大きな役割を果たしたことは注目されます。また、中司恭さんは、ITと音楽の融合にも取り組んでおり、その分野でも新しいビジネスモデルの開発に貢献しています。

ある友人が今を時めくチャットGPTに ”中司恭さんについて教えてください” と問い合わせてみたところ、CGPTの回答がこれである。

検索能力についてこのシステムの能力の程度には(あまり期待できないと予想はしていたものの)唖然とjするとともにふきだしてしまった。もちろん、世間にもよく知られ、経歴や業績などが容易にわかる、いわば知名人の場合はともかく、独裁主義国家制度の下で国民全員の背景がわかっているというのなら話は別だが、我々一般市民についてその背景を調べてくれというほうが無理な注文なのは理解できる。ただ、たまたま、小生の場合は著書の紹介を発行元が登録したため、一応グーグルに記載はあり、検索すると本の題名の次に、1937年生まれ、慶應義塾大学卒業、というところまではデータがすぐわかる。それにもかかわらず生まれも卒業校も違うのか、がまず第一の疑問であるが、当然、同姓同名の人はいるかもしれないと思い、早稲田大学に問い合わせたがプライバシー保護のため回答を得られず、IBMのほうも知人を通じて調べたが該当者はなかった。これ以上、個人の能力では調査できないが、苗字もどちらかと言えば珍しいほうなので同姓同名同生年月日同窓、の方がおられる可能性はまずないだろうと思われる。

さらに内容だが、まず就職先は当時の株式会社横河電機製作所、であり、なぜIBM入社になったのかも不思議だし、グーグルでしらべたかぎりでは IvyNet という会社は(少なくとも現時点では)存在しない。アイビーシー社の創立は2002年、日本システム技研は小生現役のころから業界では知られた存在、現在同社の社長というに至っては呆然とするばかり(ちなみにグーグルの記載では、同社の創立は1976年、現在の社長は三井昇氏という方である)。はたまた、たかだか裕次郎に小林旭のフアンどまりの小生がITと音楽の融合に携わっている、などという神話がどこからでてきたのかはただ想像を絶する創作としか言いようがない。

つまり現時点でこのソフトの持つ検索結果には正解は1個もない。此処までは検索対象の選択のアルゴリズムにもよるだろうから、必要とあれば再調査することもできないわけではない。ただ、より恐ろしいのは、後段にある ”IT業界に多大の貢献、うんぬん” というくだりである。此処には資料の列挙とは違った、明らかな判断という要素が働いている。”人工知能” というものを盲信する人はそのことが真実だと信じるはずだ。この ”人工知能様” の判断解釈がそのまま流通してしまえばどんな結果が持たされるのか、想像するだけでぞっとするではないか?このソフトの目指す能力のうち、作文については、実用上の問題はない(自分の主張を他人に書かせるという行為自体、小生には納得できないけれども)としても、その検索能力については、ごく限られた分野を除いてとてもではないが信頼するレベルではないように見える。せめて、”検索には条件が不足です” とか 検索をするにあたっての前提とかが明瞭に示されればまだいいのだが、その結果が明示されてしまうと一般の人は書かれたものを(当然だが)真実ととらえ、それをもとにした行動が起きてしまうことが恐ろしい。この最後の点は最近の読売新聞も重大な関心事であるべきと主張しているが、まさに同感である。

この実験をした友人はさらにチャットとの(これがほんとの意味か)チャットの結果を知らせてくれた。

私:情報を勝手に捏造しているのでは?

CGPT:いいえ、私は情報を勝手に捏造したり改竄したりすることはありません。私は与えられた情報に基づいて回答を提供し、可能な限り正確性を保つように努めています。ただし、私も人間が開発したプログラムであり、時には間違いを犯すことがあります。その場合には訂正し、正確な情報を提供するように努めています。

 

PS:この ”実験” は小生とは違ってIT技術に関するエキスパートである友人が行ったもので、本人の意思により名前は明かさないが、十分な技術的ノウハウをもとに行われた(つまり小生の創作ではない)ものだということを付記しておく。

春の日平会開催

日平(ひびら)会とは、昭和29年(1954年)慶応義塾普通部出身の仲間の間でいわば自然発生的にできた、同期生の集まりである。我々が入学したときはまだ戦災で焼失した校舎再建ができておらず、普通部の授業は天現寺の幼稚舎(小学校)校舎に間借りして再開されていた。2年次に日吉に現在の校舎が完成、同時にそれまでの4クラスが5クラスに編成され、現在の形になった。いわば我々は新時代第一期生というわけだ。月去り星は移るとも、というのは塾の応援歌の一節だが、そのころの雰囲気そのまま、この会も幹事のご苦労によって変わらず続いている。

会のきっかけとなった日平亭が休業した後は伝手を頼りに現在の帝国ホテルB1にある三田倶楽部での会同を続けてきたが近々改装の予定もあるとか、場所は変わるかもしれないがまだまだ継続したいものだ。

今回の出席は船津 於菟彦,河野裕策、 佐藤光男、田中新弥 、田村耕一郎 
中司恭 、日高 健郎 、岡田武郎 岡野嘉久、高山津図武、田中宏幸 ,水木敏弘   飯泉隆三、片貝康磨、宮坂大陸 であった。同期で関心のある方は A組 岡野までご連絡ありたし。

城南五山めぐり     (44 安田耕太郎)

城南五山は、東京の城南地区にある高台5ヶ所の総称で、品川駅から目黒駅にかけての地域で、八つ山 ・御殿山・島津山・池田山・花房山、の総称で、江戸時代からそれぞれ由緒ある大名屋敷や大名出身の邸宅があったことが命名の由来です。古くから高級住宅街として知られ、城南五山はブランドエリアとなっております。同期8人(渋谷 北村 河手 坪内 赤荻 岡田 浅野三郎、安田)でのんびり散歩してきました。
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上皇后美智子さんが成婚まで過ごされた旧正田邸の跡地に作られた200坪の「ねむの木の庭」。2004年開園。
慶應義塾創始者・福沢諭吉翁の墓があった常光寺。1977年、港区の善福寺へ移す。

新緑の北信州、同期三夫妻、競う  その2    (42  河瀬斌)

 千曲川河原の菜の花、綺麗ですね。小布施はいいところです。右の写真は高山村にある「黒部のエドヒガンザクラ」でしょうか。私も1昨年高山村の桜を楽しみました。
 私も保屋野さんと偶然同じ頃、17−19日に家内と信州に行きました。初日は茅野からレンタカーで伊那谷へ行き、駒ヶ根からケーブルで標高2690m(ケーブル日本最高所)に登ると、ここはまだ雪の世界で宝剣岳の岩峰が雄大でした。反対側には南アルプスの全山岳が俯瞰できます。下界には新緑に加えて桜がまだ残っていて、田んぼの土手には水仙が咲き乱れていました。光前寺の庭園の枝垂桜はまだ散り始めで、早朝に誰もいない寺の桜吹雪の中で一人写真を撮っているとなんとも言えぬ幸せを感じます。泊まった東向きの温泉からは南アルプスの日の出が見えました。
 二日目は安曇野に泊まりました。夜雨で翌日は曇りの予報でしたが、運よく朝から快晴になったので、大好きな大町までドライブして「鷹狩山展望台」に行きました。ここはアルプスと反対側の丘陵なので真正面に真っ白な北アルプスが見えます。大天井岳から蓮華岳、鹿島槍、五竜に連なる雪の連山を思う存分楽しんできました。
 二日間で「春の3大アルプス連山」を全て見てこれたのです。やはり日本の山岳と山里は世界一美しい!

新緑の北信州 同期三夫妻、競う その1  (42 保屋野伸・下村祥介)

(保屋野)

18,19日と北信州の花見ツアー(須坂市の5大桜と高山村の5大桜)に同期の大場夫妻と行ってきました。

もちろん、桜はほぼ全滅でしたが、その代わり新緑が進み、標高の高い所では山桜、低い所では桃、リンゴ、菜の花等が見頃で残雪の、北アルプスや北信5岳(妙高山、黒姫山、飯綱山、戸隠山(高妻山)斑尾山)の眺望も楽しめました。また千曲川に架かる「小布施橋」下の河川敷の広大な菜の花畑と満開の八重桜も一見に値します。

「北信州の春の里山」はまさに桃源郷ですね。なお、桜の代わりに飯綱高原の水芭蕉を見学しましたが、リュウキンカとのコラボが最高でした。

(下村)

私も偶然ホヤノさんと同じころ、原村経由で車山に行ってきました。麓の村では華やかにソメイヨシノ・楚々としてやま桜・風に揺れるレンギョウ・パッと鮮やかなミツバツツジなどが満開、今年は2度も花見ができました。

車山は標高1900mほどの山で、1700mの肩のところまで車で行くことができ、残りの200mを40分ほど歩いて頂上へ。山頂からは北アの穂高・槍・後立山、南の方向には乗鞍・御岳から中央アルプス、さらに北岳・甲斐駒・鳳凰三山から富士山、そして八ヶ岳までの一望のもとに。

遠く霞の中に浮かぶ北アの連山や中央アルプスの山々。沢筋にはまだ雪がしっかり残っているも尾根筋はすでに黒い肌を見せており、3000m級の山々もすっかり春の気配でした。60年前のまさにこの時期、KWV新歓で連れてこられた初めての山がこの霧ヶ峰、車山高原でした。

エーガ愛好会(213) 世界を変えた男    (普通部OB 舩津於菟彦)

NHKBSTVジャッキーロビンソンの実在ドキュメンターリー風映画『42 〜世界を変えた男〜』(42 せかいをかえたおとこ、原題: 42)は、2013年制作のアメリカ合衆国の映画。
彼がいなかったら、現代の日本人の選手の活躍も無かった?1940年代、白人のみのアメリカプロ野球で初めての黒人として活躍、尊敬を集める名選手「ジャッキー・ロビンソン」。根強い人種差別を打ち破る挑戦「偉大なる実験」と呼ばれる一方、厳しい試練でもあった。観客の罵声とチームメイトの冷たい視線。孤独と屈辱の中ジャッキー・ロビンソンは、後に続く人々のために「やり返さない勇気」で立ち向かう生涯差別と戦い続けた生き方のプロファイルである。このタイトルの「42」とはロビンソンが付けていた背番号で、現在アメリカ・カナダの全ての野球チーム(メジャーはもとより、マイナーリーグ、独立リーグ、アマチュア野球に至るまで)で永久欠番となっている。この作品はアメリカとカナダでは公開から3日で、2730万ドル(約27億円)を売り上げて初登場1位となり、野球映画史上最高のオープニング記録を打ち立てた。

アメリカのメジャーリーグベースボール(Major League Baseball:MLB)は1947年(昭和22年)のこの日、ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson、1919~1972年)がメジャーリーグ初の黒人選手として当時のブルックリン・ドジャースにデビューしたこの日を4月15日をジャッキー・ロビンソンデーと定め、大リーグは15日(日本時間16日)、初の黒人選手として活躍したジャッキー・ロビンソン(元ドジャース)のデビュー日を記念する「ジャッキー・ロビンソン・デー」を開催、全選手が全球団共通の永久欠番、ロビンソンの現役時代の背番号「42」でプレーする。

ロビンソンはデビュー1年目から実力を発揮し、一塁手として打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁という成績を残してチームの優勝にも貢献し、同年より制定された新人王を受賞し、後に続く黒人選手の道すじをつくった。
あらすじ
1947年、ブルックリン・ドジャースのGMであるブランチ・リッキー(ハリソン・フォード)-なかなの好演-は、戦力補強をニグロリーグに求めた。若く、差別に対して強い反抗心をもつタフガイであるジャッキー・ロビンソン(チャドウィック・ボーズマン)を気に入ったリッキーは、さっそくスカウト。だが時代は黒人差別が強く残っていた1947年。MLB初の黒人選手となるジャッキーのまえに立ちはだかる苦難は、予想を超える激しいものであった。だが、当時はまだ黒人差別が激しく、メジャーリーグも白人だけのものだった事から、彼の入団は球団内外に大きな波紋を巻き起こす。ロビンソンは他球団はもとより、味方であるはずのチームメイトやファンからも差別を受けてしまい、孤独な闘いを強いられる。しかし相手球団の監督の罵倒や危険球に耐え、必死にプレーする彼の姿が、やがてチームメイトや観客の意識をも変えていく。

有色人種と関わることで、友人や家族から冷ややかな視線を向けられることもあっただろう。しかし、ドジャースの選手、監督はロビンソンとともに苦節を乗り越えたのだ。肩を組んだり、握手したり、抱き合う姿は感激を与えられ、ホームランを打った時には見ているこちらにすら、爽快感を覚えさせられた。演出も非常に良かったと思う。

レイチェル・ロビンソン(Rachel Robinson、本名:Rachel Annetta Isum )は、ジャッキーの妻(映画ではニコール・ベハーリーが演じている)である。ジャッキーの死後、1973年にジャッキー・ロビンソン財団を設立し、才能を持ったマイノリティの若者たちに奨学金の交付を行っている
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故ジャッキー・ロビンソンの代わりにジョージ・W・ブッシュ大統領から議会名誉黄金勲章を受け取るレイチェル・ロビンソン(2005年3月2日)。
でもそんなアメリカでも未だ未だ人種差別は消えていない。
1990年米国に携帯電話事情を調査に行ったときにドジャーススタジアムを訪ねた。期待の野茂選手は出なかったが、彼とて多分人種差別の中戦っていたと思う。そしてオオタニさーん。彼もあれだけ人気があっても裏では未だ未だ差別と戦っていることと思う。矢張り「やり返さない勇気」が必要なのだろう。そんなことを思わせる『42 〜世界を変えた男〜』だった。

文芸春秋「私の人生を決めた本」 (42 保屋野伸)

、掲題今月号の話です。特集は「私の人生を決めた本」で、何時ものようにパラパラと見出し読みしていたら、何とうれしい記事がありました。

一橋ビジネススクール特任教授の「楠木 健」の投稿「高峰秀子というディープインパクト」で彼の一冊がデコちゃんの「私の渡世日記」だったのです。彼女の潔い生き方「求めない。期待しない。迷わない。変わらない。」に共感し、人生の師とまで言っています。

もう一つ、物理学者「村山 斉」の1冊が、ジョージ・ガモフの「不思議な国のトムキンス」という懐かしい本でした。この本は相対論、量子論を易しく書いた本で、私も大昔買って、未だに本棚に置いてあり、たまに読んだりしています。

(編集子)小生は自分が無邪気な乱読家であることはわかっている。小学生時代は吉川英治の太閤記だの三国志全巻を6年時に読み終えた、こまちゃくれたいやみな少年だったと思うし、中学になって一層背伸びをしてわけもわからないのに世界文学、なんてのに挑戦していたもんだ。思春期、保屋野君が指摘されたように、まともな人ならばそろそろ人生、なんてものを考える時期も乱読はやまなかったが、それを考えるきっかけの、なんて劇的なものを意識したことはない。ただ、人生黄昏にあたってふりかえってみると、そのコースを(自分が望んだわけではないのに)決めてしまったのではないか、と思える本が2冊、だけある。

慶応高校では3年になると大学進学にいわゆる理系(当時大学には医学部と工学部しかなかったが)を選ぶなら、数学、と 物理 は必須とされた。まだ決心がついていなかったから、何となく選択届を出したのが、学校側もよく考えていて、このような科目を選択すると意識的に空き時間ができるような仕掛けがあって、なんならこーゆーのもあるぜ、というブランクが1時間、あった。どうせなら、という程度の認識で選択したのが、たしか 社会問題 という科目だった。此処で使われていたテキストが、本稿で何回か引用したが、エリッヒ・フロムの 人間における自由 という本だった。この本をよんだことで社会思想、という学問分野があることを初めて知った。結果として経済学部へ進んだのだが、経済学本流のゼミには興味がわかず、高校時代のこのフロムの本を思い出して、平井新教授のゼミに入れてもらう結果になった。この時、ワンゲル仲間で知りあった翠川幹夫が一緒で、ほかに、のちにビジネスの上で大恩を得ることになるのだが、大手化学会社の御曹司永島陸郎とも親友づきあいになったりと、間接的というか結果論的に、いい加減な動機で読んだ一冊の本がもたらしたことどもが結果的には人生コースに影響したという事は言えるようだ。

もう一冊、人生航路云々という事ではないかもしれないが、高校3年時に、大げさに言えばそれまでのいい加減を送ってきたプチブルの息子にとって予想もしなかったカタストロフィともいえることが起き、その後をひいた厭世感の中で読んだリルケの マルテの手記 の一節が僕の中にすみついてしまい、今考えてみるとこの一節が自分の生き方を決めてきたのかもしれない、という気もしている。

保屋野君の問いかけに対する答えかどうかはわからないが、その一節は、”この世界に自分の死というものはあり得ない。あるのはレディメードの死だけだ” というものだった。