
秋のたより、かなあ (HPOB 金藤泰子)

旧き友集い語ろうは 過ぎし日の旅山の想い (投稿は著者あてメールでお願いします)
新型コロナウィルスCOVID19患者が増加しています。
1日1万6千を超えており、第8波のピークに近い数値です。しかも定点観測からの推計であり、世の中の意識はコロナをすっかり卒業してしまっており、制約もかなり弱いことから自分で有料の検査を受ける気の全くない人ばかりです。従って本当はもっと多いものと考えざるを得ません。しかし政府は体面からでしょうか第9波と認めません。
実際私の周囲でも、感染者は頻発しており、皆さんの周囲でも同様でしょう。私の参加した会合でも2回陽性者が出て、私は濃厚接触者でしたが2回とも陰性で事なきを得ました。今回のコロナは、EG5通称エリス株というオミクロンXBB.1.5からの新変異種が4割を占めるようです。感染力は一層強いようですが、どうやら重症化度は低いようです。
しかし大変なことにインフルエンザとの同時流行が起こっていることです。前期の会合でもコロナとインフルが同時に発病しました。インフルエンザがこの時期としては未曽有の高陽性率で、この3年間流行が下火だったことで国民の免疫が低下しているのではないか、海外から新たなVirusが入ったからではないか、など議論されていますが、感染防止法はコロナと同じですので、罹らないようご注意ください。
コロナにもインフルにも、それぞれワクチンが大切です。新変異株に対する防止力は未知ですが、今回ワクチンはBB.1.5.に対応する新しいワクチンですから有効性期待大ですし、重症化防止に有効です。私も既に7回目を受けました。
10月からはコロナ医療支援が縮小されます。高額治療薬が全額公費だったものが一部負担に、入院費補助の限度が2万円から1万円に、医療側には病床確保料が8割に減額、診療報酬も来年減額します。
やがてコロナはインフルと全く同様の扱いになるものと思われます。 コロナ以前に在った社会生活は復活させねばなりません。家に閉じ籠らず、十分な対策をしつつ自由に他人と逢い、活発な健全な生活に向かいましょう。
(ウイキペディア解説)
『時の娘』(ときのむすめ、The Daughter of Time)は、ジョセフィン・テイ作の長編推理小説。グラント警部シリーズの一作で、1951年に発表された。悪名高い15世紀のイングランド王リチャード3世の「犯罪」を、現代の警察官が探究する。テイは本書出版後間もなく没しており、本作が作者存命中に出版された遺作となった。テイの代表作と呼ばれる本作は、探偵役が歴史上の謎を解き明かす歴史ミステリの名作として、またベッド・ディテクティヴの嚆矢的作品として知られる。
日本語版の翻訳権は早川書房が独占所有する。1954年に村崎敏郎訳でハヤカワ・ミステリから刊行、1975年に小泉喜美子訳でハヤカワ・ミステリから刊行、1977年に小泉訳でハヤカワ・ミステリ文庫から刊行された。
(小田)ありがとうございます。「時の娘」是非読んでみたいと思います。
2023年9月24日(日)100名山100座目の高妻山に登頂し、15歳で丹沢(塔ケ岳)登頂以来、途中26歳から46歳までの20年間のブランクがありますが、82歳の今日まで足掛け67年かけて100名山を制覇することが出来ました。67年も掛って制覇したのは、最長期間記録では無いかな(笑)・・・?? そもそも深田久弥の「日本100名山」は1964年(私の大学卒業の年。東京オリンピックの年)の発刊です。従って、学生時代には縁がありませんでした。
46歳で登山やスキーを再開したころは、深田久弥の100名山をバイブルにして、中高年の登山ブームが始まっていました。私も一時期、100名山を意識して数座を登りましたが、直ぐにこれは違うのではないか? 好むと好まざるともやみくもに山に行くのは良しとはせず、同じ山でも自分の好きな山に四季折々行く方が私は好きなんだ。という意味で100名山を意識しなくなりました。
2020年の夏のことでした。ある山友に100名山完登まであと幾つですかと聞かれ、改めて登った山の数をカウントするとなんと85座もありました。79歳の時でした。それからは100名山制覇を意識し、積極的に行くようにしました。86座目以降に行った山は次の通りです。15座登頂に3年を費やしました。
2020年7月 火打山(86座目)妙高山(87座目)
2021年5月 久住山(88座目)祖母山(89座目)7月 幌尻岳(90座目)11月 剣山(91座目)
2022年4月 伊吹山(92座目)5月 恵那山(93座目)荒島岳(94座目) 6月斜里岳(95座目)
7月 雌阿寒岳(96座目)
2023年6月 岩手山)(97座目) 7月 早池峰(98座目)雨飾山(99座目)高妻山(100座目)
100座目登頂記
2023年9月24日(日)前日から長野入りし善光寺に登頂祈願し、当日は最高の天候に恵まれ、婿(二女の夫)と孫(長女の長男)そしてKWVの10年後輩の丸満さんを従え、いいえ、付き添われて出発しました。登頂までは何とかコースタイムに近いペース(5時間少々)。で登ることが出来ました。頂上で記念撮影をしていると周辺の方々から温かい拍手や「おめでとう」の言葉にもう少しで涙がこぼれそうになりました。 下山は最悪でした。最近は下山に想像を超える時間を要するようになってしまいました。情けないほうほうのていでバテバテになり、途中意識朦朧になりそうになりながら、12時間を超える山旅をやっとの思いで何とか無事に終えることが出来ました。
婿の譲さん、孫の裕也、後輩の丸満さん。本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。100名山完登で一区切りがつきました。これからも、自分の体力に見合った山旅を楽しんでいきたいと思っています。お世話になった多くの方方に感謝、感謝です。ありがとうございました♪
安田さんから尾白川渓谷遡行の記事に、船津さんの清涼感満点と保
あれは今から12年前の2011
歩くのは今のうちです。大いに歩き回って下さい。 素晴らしい滝の写真思い出されます。西沢渓谷の集合写真がありましたので巻頭に紹介させてもらいます。。合計参加
(編集子)小生などから見れば、一番怖かった 鬼の三年生 先輩各位、いろんなことが次々と思い出されます。まさに ブリック なんかで歌った歌の文句どおりですね。
KWV同期の仲間で、月に一度、高尾山くらい歩こうぜ、と気楽にはじめた “月いち高尾” という行事が、1年も続けば上出来、と思っていたのに後輩の年代からうわさを聞いて参加してくれる人が増え、いまでは言い出しっぺの我々(昭和36年度卒)とは現役時代会うこともなかった ”若い“ 諸君が主力となり、毎回参加が増え、リーダーも僕らの用語でいう ”50年代“ に移ってOB仲間の交流の場として定着した。僕らKWV卒業生にはOB会の存在が何よりのものだと改めて感じる。
この種プランでもちろん欠かせない二次会、その定番となったJR高尾駅南口にある 天狗飯店、通称テング、は中華料理店、といいながら日本蕎麦からデザートまで豊富なのだが、そこで壁に貼られたメニューを冷かしているうちに “汁粉と と ”ぜんざい” はどう違うか、という議論になったことがあった。居合わせた40年卒、通称 “あいちゃん” こと藍原瑞明君が律儀にこの事情を調べてこのブログに投稿してくれたことがあった(2018年1月21日付本稿)。大体がのん兵衛仲間で出来ているプランでこの種の話題自体、珍しいのだが、日ごろからのほほんとしている(ように見える)”アイちゃん” の意外な几帳面さを発見して一同感心したものだった。
さて浮世はお彼岸とあって、9月20日付け読売新聞のコラムに彼岸のお供え物に関する記事が掲載された。その書き始めに、・・・・ぼた餅かおはぎか、和菓子として同じものだが・・・・とあったので、この汁粉ぜんざい論争?を思い出したというわけだ。新聞記事の中でもこの種のコラムを書く人は論説(社説)を担当する人が其の新聞の表の顔とすれば、裏の顔と言われるくらいのベテランであるのが通例である。読売でここを担当しておられる方を存じ上げているわけはないのだが、たびたび心に響く記事を多く拝見したり、なるほど、そういうことかと納得することもたびたびある。
今回の記事は彼岸にちなんだ話で、それによると、この時期に登場することが多いぼた餅は春に咲く牡丹、おはぎは秋に咲く萩の花にちなんだもので、江戸時代には同じものを夏には 夜舟、冬に 北窓 と言ったそうだ。餅米を突かず、つぶして作ることから “着き知らず” の夜舟、寒いときにはこれを ”月知らず“ の北の窓、としたという。コトバ遊びかも知れないが、なんとも優雅ではないか。正岡子規は “梨腹も牡丹餅腹も彼岸かな” と詠んだそうだ。
小生この肝心の彼岸、という行事にいままであまり関心をもったこともないし、父母の墓参りもろくにしていないのだが、(そういえば彼岸だなあ)と気がつけば、ここ数年の間に申し合せたように彼の岸にわたってしまった幾人かの友人のことがなんとなく心に浮かぶ。季節もうつり替わるこのころ、日本という国のもつ優しさみたいなものを感じている。
あすあたり、夜舟、でも買いに行こうか。
”おじらがわ”(尾白川)と読む、甲斐駒ヶ岳を源とする富士川の
都内から車で2時間、中央高速道・須玉ICで降りて、20分で尾
渓谷の最終地点・不動滝(標高1100m)まで往復6.5キロの
宝塚はマンションだらけで秋を感じる場所は少ないですが、自宅横の武庫川の浅瀬に40~50羽の群れで鵜(う)が、羽根干しに両羽根を広げて休んでいる姿がこの季節は毎日見られます。
六甲山の東端が直ぐそばまで迫っているので、もう暫くして涼しさが増したら六甲山か五月山(東方面の川西市、池田市方面)に行けば秋が感じられます。でも私は兵庫県の不便さだらけの北部(太平洋側の神戸、姫路から日本海沿いの城崎温泉までが兵庫県です)の丹波篠山市、豊岡市などに近年は興味を持っています。
兵庫県の中部・北部は列車の本数が少ない、宿泊する宿が少ないなど不便さでは結構楽しめます。以前、レポートした≪丹波の森公苑-オオムラサキの会≫が、その一つです。
(編集子)学生時代、父親が阪神芦屋駅前にあった、戦前の富豪の家だったというところを改造した社宅に入っていたので、毎夏、1週間ほど滞在するのを常にしていた。家から芦屋の浜まで、海パンにサンダルで泳ぎに行けたものだ。宝塚には2度ほど行ったことがあるが、飯田兄のご指摘の様な風流を楽しむには幼過ぎたのだろうか。いずれにせよ、暑い武蔵野くんだりでは味わえない秋かな。
以下の“戦争もの”を立て続けに読んだ。
1.「暁の宇品」(ノンフィクション)。添付の感想をご覧ください。
2.「銃弾の庭」(フィクション)。著者:S.ハンター。連合軍、ノルマンディー上陸後、米軍を悩ませて来たドイツのスナイパー(狙撃手)を、同じくスナイパーのアール・スワッガーがやっつけるお話し。
3.「暗い波濤」(フィクション)。著者:阿川弘之。ミッドウェイで米国にボロクソに負けて以降、終戦(敗戦)までを、海軍第二期予備学生たちの群像を中心に描いた負け戦のお話し。
ノンフィクション、「暁の宇品」、副題が「陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」を読む(著者:堀川恵子、出版:講談社、発行:2021年)。宇品港(現広島港)を作った広島県令(知事)、千田貞暁の一字を取って、その司令部は「暁部隊」と呼ばれた。
亡くなったノンフィクション作家、立花隆(例えば、「田中角栄研究」、「日本共産党の研究」など)が堀川を極めて高く評価していたが、それを裏切らない出色のノンフィクションだっ
た。ただし、以前、堀川が亡夫、林新の原稿を基に書いた「狼の義 新犬養木堂伝」を読んでいたから、これが初めてのことではない。
勿論、題材が殆ど知られていない陸軍の船舶部隊のことだったことにもよるが、事実を徹底的に調べぬき、それを一つの物語に仕立てた手腕は並大抵のものではない。
その内容は、陸軍と言っても戦闘の話しではなく、戦闘に欠かせない兵員輸送と兵站の話しだ。日本と言う島国からは、戦闘員を目的の大陸、島などに輸送する手段が必要となる。勿論、兵站についても同様だ。だが、日本では、海軍が自分のことで手一杯であったことから、そう言った輸送は陸軍がやることになった(他の主な国では海軍がやっており、日本の場合は長州[陸軍]、薩摩[海軍]の軋轢があったが故の話しとも言われている)。
しかし、陸軍に船舶の建造能力などある筈がなく、船員も含め全て民間の商船などを徴用して輸送船とせざるを得なかった(この戦争で、7200隻以上の商船が、撃沈されたと言われている)。これら裏方の業務を一手に引き受けたのが、軍港である宇品にあった陸軍船舶司令部だ。呉が海軍の軍港であり、宇品は陸軍の軍港だったわけだ。
なかでも注目すべきは、陸軍の船舶輸送制度を整備し「船舶の神」と言われ、昭和12年(西暦1937年)から15年(同1940年)、宇品の陸軍船舶司令官だった中将、田尻昌次の止むに止まれぬ建白書だ。田尻は、日本の兵站の脆弱性、致命傷を充分に知悉、熟知していただけに、米国との戦争は勿論のこと東南アジアに南進することさえも無謀であることを陸軍の中枢のみならず各省にも訴えている。しかし、船舶司令部内で不審火があったことを理由に、事実上、解任されてしまった。
また、原子爆弾が広島に投下された際、陸軍船舶司令官だった佐伯文郎中将の果敢な行動も忘れ難い。当時は、本土決戦も有り得る戦況だったが、佐伯は、独自の判断で(広島の陸軍は壊滅)、全兵力を燃え盛る市内の人名救助と災害復旧に割いた。放射能汚染の危険をも顧みず、戦闘司令部を市内の中心部に置き、自ら陣頭指揮を執った。実は、彼には、関東大震災の時の陸軍の支援活動の経験があったのだ。
その結果、今、呉が、依然として、海上自衛隊の拠点になっているのに対し、宇品には陸軍船舶部隊の影も形も残っていない。
これを読むと、作中、田尻が建言して、実質、解任されたように、当初から、日本は戦闘に必要な兵站を充分に考慮しておらず、大東亜戦争が全く無謀な試みであったことが良く分かる。それにしても、今にして思えば、日本は、途轍もなくバカなことをやったもので、つまるところ、その実体は、「ナントカナル」と言う得体の知れない代物だった。
(編集子)むむ。”暗い波濤” を読んだか。俺は感動して読んだね。いま、ひょととしたきっかけがあって、逢坂剛の イベリアシリーズというのを中古で買ってきて(アマゾンで一冊150円)最後の一冊を読んでる。貴兄ご指摘の全く無謀な戦争に至る背景(英国はアメリカの参戦を待つためどうしても日本に戦争を始めさせたかった、という見方)がメインの筋立てで、スペインという結局は中立で押し通した国の事情がなるほど、と思わせる。
直接関係はないが、貴兄の文章でながいこと疑問に思ってることがある。はなし、という単語に し という送り仮名は必要なのか? 小生かなづかいなんか気にしたことがないので、当用漢字が設定された時になにか決まりが設定されたんだろうか、という事を今さら尋ねるのも気が引けて今まで来た。ご解説賜れば幸甚にて候。